ヨコスカ・シティの中心街にあるショッピング・モール、そのメイン・ストリートを、季節外れの赤いトレンチ・コートを着た男が歩いている。

 少し離れた所で起こっている騒ぎを目当てに流れている人通りに逆らって、悠然とした足取りで闊歩している男の横に、ハンティング帽を目深にかぶった女性が自然な動作でそっと寄り添った。

「隊長」

「その呼び方はやめろと言ったはずだぞ。コード・ネームで呼べよ」

「失礼しました、スルト」

「ふん、それで?」

 決して背後を振り向かずに先を促す赤トレンチの男。女も心得たもので、声を潜めて――彼だけに届く大きさで、話を続ける。

「ガルムは失敗したようです。シュヴァルツは健在です」

「ほお。で、その後の動きは?」

「取り敢えずシュヴァルツは捨て置くようです。ヴァイスの確保に全力を当てるつもりかと」

「まあ、シュヴァルツ抹殺は優先順位は低いからな」

「我々はどうします? むざむざ《ラグナロック》に手柄を譲る事もないかと思いますが」

「余計な色気を出すなよ。俺達は言われた通りロキの仕事を見届けていればいい」

「ですが……」

 彼女の声音に不満の色が混ざる。

「どうして俺の《ムスッペル》がロキの奴の尻拭いにまで出張らにゃならんのだ? 今まで守り通した隠密性をかなぐり捨ててまで。

 俺達は俺達の仕事をこなしていればいい。仮に連中が失敗しても手を出す必要はない」

「失敗するとお考えで?」

「さあな。シンマラ、お前は持ち場に戻れ」

「了解しました」

 すっと女は人混みの中に姿を消した。その気配が消えたのを確認して、男は今は遠くなった背後の喧噪に目を向けた。

「ふふん。さて、高見の見物といくか」

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第28話

「休暇は終わり」



 

 彼女――ホシノ・ルリは不機嫌だった。

 どのくらい不機嫌なのかといえば、隣にいるテンカワ・アキトが彼女の無言のプレッシャーに押されて気まずいと思いつつも沈黙を保ってしまうほどに不機嫌だった。

 彼女が機嫌を損ねているのは、別にアキトが原因な訳ではない。いや、少しはあるかも知れないが、全てが彼の責任という訳ではないのだ。

 今日ルリがこんな所にいるのは、先日ミナトにショッピングに行こう、と誘われたからである。

『ホラ、ずっと船の中で暮らしてると、お日様が恋しくなるでしょ? せっかくの休暇なんだし、気分転換も兼ねて、ね?』

『私は、そんな事をする必要性を感じませんが』

『やん、そんな事言わないで。ね? おねーさんと一緒に出かけましょ? ほかにもメグちゃんとかに声掛けてるんだから』

 首を傾げて栗色の髪を揺らし、にっこりと笑顔を浮かべてそう言ってくるミナト。自分が出掛ける事とほかの者にも声を掛けている事がどう結びつくのか疑問だったが、最後にはルリが根負けする形で折れた。

 ミナトが思いの外しつこかったという事もあるが……実のところ、口で言うほど嫌がっている訳ではなかった。

 ミナトが自分の事を気に掛けてくれているらしいという事には、これまでの航海の中で気付いていたし、最初はそれが疎ましく感じる事もあったが、今ではそれほど気にならなかった。むしろ、喜ばしく感じる事も――まあ、ない事もない。

 今回の誘いも、『たまにはいいかな?』などと思ってもいたのだ。

 だが、いざ当日になってみると、ミナトは黒百合や、どこからか話を聞きつけて参加してきたイツキとばかり話している。

 それを見て、ルリは急速に『冷めた』。

 つまり、ミナトの目論見は、ルリをダシにして黒百合と一緒にお出かけする事だったらしい。そしてあわよくば、ほかにいるイツキ達にルリの世話を押しつけるつもりだったのだ。少なくとも彼女はそう判断した。

(ま、騙された私が悪いのよね)

 心の中で嘆息するルリ。

 実際には、今回は8対2の割合でルリの気晴らしと相談がミナトの目的なのだが、ルリには表面に映っている事柄しか見る事が出来ない。つまり、黒百合を巡って微笑みながら口論をしているミナトとイツキしか。

 ミナトが敢えてイツキと相対しているのも、半分はルリにこちらが気を遣っている事を悟らせないためのものなのだが、今まで人付き合いのした事のない11歳の少女にそこまで察しろというのはいささか酷だろう。

 今の彼女の心境というのは、普段は自分に優しいお姉さんが、自分以外の子に優しくしているのを見て拗ねる子供と変わらない。普段は大人びている少女が自らの心理状況を理解していないのが、不幸でもあり、幸福でもあった。つまり彼女は、普通の子供と同じものの感じ方をしているという事なのだから。

 だが、目下の所最大の不幸を甘受しているアキトにとってはそんな事情は知った事ではないし、知ったとしてもどうする事も出来なかっただろう。彼の隣で目を据わらせてむっつりとしている見目だけは麗しい少女が、『私、不機嫌です』と言わんばかりに重苦しいオーラを発散しているのだ。居心地が悪い事この上なかった。

 

 

 あの後、取り敢えず自分たちがはぐれたらしいという現状を把握したアキトとルリは、通りを南に下った先にある公園に向かう事にした。ほかの者も自分たちと同様の行動を取るだろうという判断によるものである。

 その間、アキトとルリは一言二言の僅かな会話しか交わしていない。

(お、俺、ルリちゃんに何かしたっけ?)

 最初は、自分の所為で皆とはぐれてしまったのを怒っているのかと思って謝ったのだが、それでこの瑠璃姫は機嫌を直してはくれなかった。

 どうやらほかに原因があるらしい。では何が原因なのだろうか?

 道中、アキトはしきりにそればかりを考えていたのだが、どうにも思い当たる節はない。当然だ。アキトが悪い訳ではないのだから。

 そんな彼の苦行の時間もようやく終わりが見えた。ヴェルニー公園に辿り着いたのである。

「わあ……」

 思わずアキトは今までの苦悶も忘れて、感嘆の声を漏らした。

 視界の先に開ける海、海岸沿いに見える港。火星生まれのアキトにとって、この光景は十分に感動に値するものだった。

 子供のように眼を輝かせている青年を、歳不相応の冷めた眼で見つめるルリ。思わず皮肉が口をついてしまう。

「そんなに驚く事はないと思いますけど」

「そうかな。火星には海はなかったからさ、こういう景色ってそれだけで凄いと思うんだ、俺」

「ですが、テンカワさんはサセボで暮らしていたんでしょう? なら、海は身近にあったじゃないですか」

「まあ、そうだったんだけどね。サセボにいた頃は暮らしていくのに精一杯で、海を眺めているゆとりなんて無かったなぁ。今思うと、勿体ない事したよね」

 ね? と同意を求めるようにアキトが首を傾げる。同意を求められても困ってしまうのはルリだ。

「それはともかく、公園に誰か来ていないか捜しましょう。それが目的でわざわざ歩いてきたんですし」

「あ、そうだね」

 笑いかけてくるアキトの顔から逃げるように、ルリは視線を巡らせ――その先にいたカイトと眼があって、思わず身を固まらせた。

 カイトの横にはイツキの姿もある。背を向けているため、どうやら彼女はこちらに気付いてはいないらしい。

 ぎょっとした、という表現が最も適しているだろう。自分で言った事ながら、まさか本当にヴェルニー公園で見つかるとは思っていなかった。

 それは相手も同じようで、カイトは眼をまん丸にして硬直していたがそれも一瞬の事、立ち直ったのは彼の方が早かった。

 カイトは片手でイツキの手を掴むと、彼女に話しかけながら、開いている方の掌を垂直に立てて軽く低頭したあと、人差し指を立てて口元に付け、最後に右目だけをつむって、ルリが声を掛ける間もなく案内看板の裏へと身を隠してしまった。この間約2秒半。電光石火の早業である。

「ん? どうしたのルリちゃん」

 動かなくなったルリを不審に思ってアキトが声を掛けてくる。

「あ、いえ……」

 少女のルリにも、カイトのジェスチャーの意味は分かる。敢えて翻訳するなら、『ごめん、悪いけどイツキと二人きりにさせといて』となるだろうか。

 言うべきか、言わざるべきか……ルリは少なからず逡巡したが、結局アキトには告げなかった。

 別にイツキとカイトがどうなろうと正直知った事ではないというのもあったが、要は好いたの惚れたのという人間関係の面倒事に巻き込まれたくなかっただけである。

 それに……と心の中で付け加え、ちらりとアキトの顔をのぞき見た。

(まあ、知らない方がいいという事もありますしね)

 ちなみにその情報源は、ルリと同じ部署に勤務する某通信士と某操舵士のおしゃべりだったりするのだが。

「……ほんと、ばかばっか」

「え、なに、ルリちゃん」

「いえ、何でもありません」

 訝しむアキトにそれだけ答えて、ルリは結構あからさまに溜め息をついた。そんな少女に、アキトは『?』マークを浮かべるばかりだ。

「ざっと見渡しましたが、見当たらないみたいですね」

「え、え? あー、うん、そうみたいだね」

「取り敢えず、はぐれた辺りにもう一度戻ってみましょうか。もしかしたら、そちらで待っているかも知れませんし」

「そ、そう? でも、公園もまだしっかり見回った訳じゃないし、せっかくだからバラ園も見て行きたいなーって」

「そんなの、後でいくらでも見れます。今ははぐれた人達と合流するのが先です。私、間違った事言ってますか?」

「そんな事はないけど」

「じゃあ、いったん戻りましょう」

 アキトの返事も待たずにルリはくるりと踵を返した。こうなると押しに弱いアキト。幾らか腑に落ちない事もあったが、ルリを一人にする訳にもいかず、少女の後に付いていく。

 ルリがほんの少しだけ頭を巡らせて後ろを振り返ると、カイトとイツキが灯台に向かっていく所だった。それを見て、ルリはもう一度溜め息をついた。

 

 

 ――これが、1時間ほど前の出来事である。

 そして結論から言えば、この後、アキトがヴェルニー公園のバラ園を見る事はなかった。

 


 

 突発の危機を脱した黒百合が最初に行ったのは、取り敢えず皆を連れてその場を移動する事だった。

 何事かと目聡い野次馬達も集まって来て、つい先程のようにアサミを見つけてまた騒ぎになるとも限らない。それに、これは可能性としては低いが、また何者かが襲撃してくる可能性もある。黒百合としてはその時が逆に好機にもなるのだが、自分ひとりならともかく、ラピスやミナト達も連れている事を考えると得策とは言えない。

 未だに事情が飲み込めないミナト達を言い含めて、メイン・ストリートを外れて脇道へと入った。路地を一本はずれると、途端に人通りが少なくなる。

 暗殺は一般的に、対象が外に出ている時分に、人混みと雑踏に紛れて行うものだ。こうして建物を背にして死角の数を減らせば、相手が潜む場所を限定させる事が出来る。

(さて、どうする……)

 ひと心地ついて、黒百合は状況を分析した。

 今日は朝から自分たちを見つめる視線がある事は感じていた。最初はネルガルのシークレット・サービスが警備に着いているのかと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。決して油断していたつもりはないが、赤いトレンチ・コートの男に気を取られた一瞬の隙を突かれた。今となっては、あの男も共犯だと思っていいだろう。

 今はもう、周囲に怪しい気配は感じない。だが、だからといって安心は出来ない。なにしろこちらにはラピスがいるのだ。ラピスはネルガルのマシンチャイルドとして登録はされていないが、その薄桃色の髪と琥珀色の瞳は、彼女が自然ならぬ手段で生み出された存在である事を声高に主張している。いつ何時、ターゲットとされるか分からない。

 だが、ラピス達をいったん安全な場所に避難させるといっても、護衛も付けずにナデシコに帰す訳にはいかない。コミュニケが使えれば、エリナに連絡を取ってシークレット・サービスを手配して貰うのだが、今は無い物ねだりをしても仕方ない。

 取り敢えずの方策を心の裡で定めた黒百合が顔を上げると、こちらを注視している3対の瞳があった。彼女たちは視線で疑問を投げかけてきている。その意味は明白だった。

 唯一の例外はラピスだったが、彼女は黒百合が無事だと知った後も彼のシャツの裾を掴む手を離そうとしない。そんな少女の頭を無意識に撫でながら、黒百合は口を開いた。

「簡潔に説明するぞ。ネルガルに対抗している組織が、ナデシコに危害を加えようとしている。だが、ドックに繋がれているナデシコには手を出せないから、せめて外を出歩いているナデシコのクルーに危害を加えようとしているらしい。さっき、俺が狙われたのがそうだ」

「狙われているって、どういう事ですか? 何で私たちが?」

 企業間の競争というものがどんなものか理解できていないメグミが首を傾げる。

「ネルガルの敵は、何も木星蜥蜴だけではないという事だ。競争企業の中には、強引な手段でナデシコの技術を盗み出そうとする輩もいる。さらには、クルーを誘拐までしようとする奴もいるだろうな」

「ネルガルの競争相手って……」

「さて、クリムゾン・グループか、あるいは明日香インダストリー辺りか……心当たりが多すぎて特定するのが難しいな。だが、今問題なのは相手の正体じゃない。いかにして安全な場所まで逃れるか、だ」

「ど、どうするんです?」

「取り敢えず、今はナデシコに戻るしかない。この街で100%安全な場所と言い切れるのはあの中だけだ。この場にいない者は、今はどうしようもない。捜し出している時間はないし、その手段もないしな」

「え、ええ……」

 戸惑い気味に頷くミナト。事態に付いて行けないのはメグミやアサミも同様だ。無理もない。このような血生臭い荒事とは無縁の世界につい先程までいたのだ、彼女たちは。パニックになって取り乱さないだけマシである。少なくとも――こちらの言う事には従ってくれる。事態は一刻を争うのだ。

 すぐさま行動に移そうとした黒百合だったが、背後に気配を感じてばっと身を翻した。瞬時にシャツの下に隠し持っていた自動拳銃を構える。

 狙いを定めた先――路地から現れた姿を認めて、黒百合はトリガーを引きかけていた指の動きを止めた。

 いきなり振り向いた黒百合にびっくりしていたミナト達も、彼の向いた先を視線で追って、その先に誰がいるのかを知ってまた驚いた。

「あら……イツキちゃん」

「黒百合……さん?」

 驚いているのはイツキも同様である。何しろ裏路地に足を踏み入れた先に黒百合がいて、こちらに銃を向けているのだ。呆然とした声を寄越してきた。

「ど、どうしたんですか、銃なんか構えて」

「ああ、いや、少しな。それよりイツキ達は、何もなかったか?」

「何もって……何がですか?」

 キョトンとした表情でこちらを見返してくる。

「私たちは、はぐれた皆さん達を捜していたんですけど……」

「それで、こんな裏路地に入って来たの?」

「ええ。その、カイトがこっちにいるかも知れないと言うので」

「まさか、本当にいるとは思わなかったけどね」

「え? 何か言った? カイト」

「いや全然?」

 素知らぬ振りでかぶりを振るカイトだった。黒百合は多少釈然としないものを感じたものの、

「まあ、こうして合流できたのは幸運だったな。イツキ、テンカワ達を見なかったか?」

「多分、ルリルリも一緒なんじゃないかと思うんだけど」

「いえ、私は見ていないんですが、カイトが……」

「ストリートを戻っていくのがちらっと見えたんですけどね。すぐに見失っちゃったんですが」

「そうか……」

 黒百合は拳銃を持ってない方の手を口元へ持ってきて、考え込む仕草をする。それも長い事ではなく、すぐにイツキへと向き直った。

「イツキ、カイト、銃は持っているか?」

「え? いえ、今日は帯銃してはいませんけど」

「僕も持ってないですが?」

「そうか。なら、これを持ってろ」

 ひょいと拳銃を放る。狼狽えつつも反射的に受け取ったイツキは、

「わっ。ど、どうかしたんですか? 事情が全然飲み込めないんですけど」

「詳しい事は後で話す。ともかく、ラピスが狙われるかもしれん。この辺りで安全な場所を探して隠れていてくれ。コミュニケが使えれば問題ないんだが……」

「あ。あの、私、携帯電話持ってますけど……」

 今まで事態の流されるままに付いてきていたアサミが、おずおずと声を挟んできた。ハンドバックから携帯を取り出す。

 ナデシコ・クルーはコミュニケで連絡を取り合うのに慣れているため、携帯電話は持っていなかった。火星で難民暮らしをしていたカイトは当然除外。考えてみれば、とんだ盲点である。

「携帯か……助かる。ドックの管制塔の連絡先は分かるな? ミスターかエリナに連絡を取って、シークレット・サービスを呼べ。20分もあれば来るだろう」

「シークレット・サービス?」

「ネルガルの……まあ、警備部門のような所だ。ともかく、すぐに連絡しろ。到着するまで、決して気を緩めるなよ」

「あの、黒百合さんはどうするんです?」

「俺は、ルリちゃんを捜す。今、最も危険に晒されているのは彼女だ」

「ルリルリが!? どうして……」

「マシンチャイルドだからだ」

 ミナトの呟きに、黒百合が冷徹な声で告げる。

「でも、あの娘はただの11歳の女の子よ!」

「そうだな。だが、今はその事実だけが重要なんだ」

「……!」

 言葉に詰まるミナトに背を向けて駆け出す黒百合。イツキが呼び止める暇もない。

 あっという間に黒い背中は人ごみの中に消えて見えなくなってしまった。取り残された一同はいまだに事態を飲み込めず、それぞれの表情で途方に暮れていた。否、ラピスだけはいつもの無表情で、感情が読めないが。

 その一同の中で、おそらくはもっとも事情を把握できていないであろうイツキが、戸惑いがちにミナトに尋ねる。

「あの、一体何があったんですか……?」

「さあ、実を言うと良く解らないんだけど……休暇は終わりって事かしらね?」

 誰に同意を求めるでもないミナトの言葉に、当然ながら答えられる者はいなかった。

 


 

 ヴェルニー公園を出たルリとアキトの二人は、連れだってメイン・ストリートを南東へと歩いていた。

「公園のバラ園はじっくり見れなくて残念だったね」

「……そうですか」

「ミナトさん達と合流できたら、みんなで行こうか」

「……そうですね」

 往路との違いは、ルリの表情からあからさまな険が除かれた点と、アキトがこうして何とかルリと会話を成立させようと四苦八苦している点だろうか。

 アキトの方は、ヴェルニー公園での出来事で、何となく気まずいような雰囲気をすっかり忘れ去ってしまっていたし、ルリの方も公園でのカイトを見て、何時までも拗ねているような自分が馬鹿らしくなって、無意識のうちに込もっていた眉間の力が緩んだのだった。

 元々無口なルリだからして、受け答えも最小限の言葉でしかないが、それでも充分進歩したと言えるだろう。少なくともその声には、先ほどまでの突き放すような冷たい感じはない。

 しばらく何でもない会話を振っていたアキトだったが、ふと思い出した事をそのまま声に出した。

「そういえばルリちゃん、最近夜に食堂に来なくなったね?」

「……そうでしたか?」

 ルリの声に硬い響きが混ざる。それに気付かずアキトは頷いた。

「うん。朝とお昼はちゃんと食べに来てるのに」

「いえ、ちょっとオモイカネのメンテナンスで忙しくて、夜は食堂へ行く暇がないので……」

「そうなんだ? そういえば、ミナトさんもルリちゃんの事心配してたよ? いつも終業時間が過ぎてもずっとブリッジに残ってるって……」

「…………」

「って、じゃあルリちゃん、夜は何食べてるの?」

「自販機のハンバーガーを食べてます。必要な栄養素は摂取できますし」

「そりゃそうだけど……でも、それって、食べてても嬉しくないでしょ?」

「別に、私はそんなに気になりませんが。研究所でもこういう食生活でしたし」

 素っ気ない風にルリは言う。

「うーん、でもさあ、ほら、ねえ?」

 同意を求められても困ります、とルリは思った。

 アキトは言いたい事を上手く言葉に出来ずに頭を抱えていが、

「うーん、ほら、そういう食事って、温かくないでしょ?」

「自販機から出たときは温められていますが?」

「いや、そういう事じゃなくってさ。人の手の温かみというか……うん、『冷たい』んだよ、そういうのって」

「冷たい……?」

「そっ。俺達料理人ってさ、その日の気温とか湿度とか、そういうのも気にしながら料理を作ってるんだ。例えばラーメンなんかだと、その日の気温によって麺を茹でる時間が変わってくるし、味付けなんかも微妙に変わってくる。それに何より、食べてくれる人の笑顔が見たいって思いながら料理してるんだ。

 機械はいつも正確に同じものを作ってくれる。でも、料理を食べてくれる人に対してはあんまり配慮されてないんだ。それって、すっごく冷たいと思うんだ。たとえ温められていても、『冷たい』食事」

「温かくても、冷たい……」

「俺も、火星いた頃は結構ジャンク・フードなんかも食べてたんだ。俺の両親って研究員で、何の研究をしてたか知らないけど、忙しくてあんまり食事とか作ってくれなかったから。一人でハンバーガーを買って食べるなんて当たり前だった。学校で、他のみんなが母親の弁当持って来てるのがすごく羨ましかったっけ」

 遠くを見るような眼をしながら語るアキトを、ルリは不思議そうに見上げた。

「俺って結構そういうのに憧れてて……だから勝手だけど、ルリちゃんにはあんまりそういう食事はして貰いたくないなって」

「……ほんとに勝手ですね」

「ははっ、ほんとにそうだね」

 冷たい風を装ったルリの言葉にも、アキトは苦笑を漏らすだけだった。

 ルリには正直言って、アキトの言っている事に頷きを返すことは出来ない。人の手の温もりなどルリは知らないし、見たこともない。彼女の生まれ育った研究所には、そのようなデータはなかった。

「……私にはよく解りません」

「そっか……はは、俺も自分が何言ってるんだか良くわかんないや。

 ただ、夜もルリちゃんには食堂で食事をして貰いたいなぁって、俺はそう思ってる。それがルリちゃんにとっては、少なくともマイナスにはならないと思うんだ。

 それに、ほら、俺がホウメイさんから任されてる料理ってチキンライスしか無いんだけどさ。チキンライスって、ほとんどルリちゃんしか頼まないから」

 最後はまるで照れ隠しするように、鼻の頭を掻きながら、アキト。案外、それも切実な本音かも知れないが。

 だが、少なくともルリは不快には感じなかった。彼が自分に気を遣って、案じているのだという事も理解できる。ミナトと違って、洗練されたものとは言えないが。不器用な、優しさ。

「そうだ、ルリちゃんがもし忙しくて食堂に来れないんだったら、俺が夜食を出前してあげるよ」

「いえ、そこまでして貰うわけには……」

「いいからいいから、今までだって良くブリッジに出前に行ってるんだからさ。ねっ?」

「はあ……」

 結局、アキトの勢いに押し負ける形で承諾させられてしまうルリだった。

 

          ◆

 

 その後、昼食を挟んでルリとアキトの二人は他の者たちと別れた現場であるブティックに到着した。流石に時間が経っているため、先のような混雑はなく、ブティックは適度に繁盛している。

「うーん、皆、此処にもいないみたいだね」

「そうですね」

 そう答えるルリだが、そもそも公園からアキトを連れ出すために彼女が咄嗟に付いた方便である。此処で会えたら相当な僥倖だ。

「これからどうしよっか」

「下手に動き回るよりは、1箇所に留まっていた方が遭遇率が高いかも知れません。ただ、ミナトさん達も同じ事を考えた場合は別ですが」

「そっか。コミュニケが使えればなぁ」

 ナデシコ内では当たり前に使っているためあまり意識しないが、こんな事になるとコミュニケの利便性がよく解る。まあ、無い物ねだりをしてもしょうがない。

「うーん……、?」

 唸りながらアキトは周囲を見渡した。その動作には何か意味があったわけではないが。ふと眼の端に止まったものがあった。

 それは、ブティックのショウ・ウィンドウに飾られているワンピース・ドレス。先程――と言うには少々時間が経っているが――ミナトがルリにあてがった洋服のひとつである。

 ミナト達がウィンドウ・ショッピングに励んでいる間、ルリに手渡した洋服は数多いが、このワンピースはとりわけアキトの記憶に残っていた。つまり、それだけこの少女に似合っていたのだ、この洋服は。

「……テンカワさん?」

「あ、うん……」

 ぽかんと口を開けて動かなくなったアキトに怪訝な目を向けるルリ。心ここにあらずと言った生返事を寄越してくるアキトにルリが抗議の声を上げようとした時、彼の脳裏にすばらしい天啓が閃いた。

「ルリちゃん!」

「きゃっ?」

 いきなりこちらを振り向いたアキトに両手で肩をわしっと掴まれ、ルリは小さく声を上げる。だがアキトはそんな事には気付かず、真摯な表情を浮かべて、

「ルリちゃん、悪いけどちょっと此処で待っててくれる?」

「……は?」

「ちょっと、その、買い忘れてた物があって。すぐ済むから」

「はあ」

「待っててねー」

 矢継ぎ早にそれだけ言うと、アキトは一目散に駆けていった。女物の洋服を扱っているブティックへ。

 その後ろ姿を不本意ながらも見送る羽目になったルリ。アキトの突飛な行動を不審には思ったが、

「まあ、別に良いですけど……」

 取り敢えずそれ以上の感想は持たなかった。ぽつんと道の真ん中で待ちぼうけするのも情けないので(何より通行の邪魔になる)、通りを挟んでブティックの対面にある雑貨屋の隅に身を置いた。此処ならアキトが出てきたらすぐわかる。それに、この雑貨屋は流行っていないらしく、人の出入りがほとんどない。店頭にも店員の姿はなかった。

「……はあ。何やってるんですかね、私も」

 自然と溜め息が漏れる。

 本当は、こんな所でこんな事をしている時ではないのだ。確かにナデシコはいまドックに係留されているため、航行時と違ってブリッジに詰めている必要はないが、それでもこなさなければならない仕事はある。

 それに、ナデシコが改修されるにあたって、新たな艤装とオモイカネとの間の調整を行わなければならない。通常の艦なら問題ないが、ナデシコのAIであるオモイカネは自我と言うべき物を持っている。自分の身体を弄くられている事にストレスを感じているのだ。そんなオモイカネを宥めるのがルリの役割であり、ルリにしか出来ない事だった――今までは。

 ルリは、薄桃色の長い髪の少女の姿を思い描く。自分と同じ琥珀色の瞳を持った少女。だが。

 自分よりも大人で――

 常に黒百合の傍らにいて――

 それに何より、火星で見せたあの能力。明らかにルリを上回る速度でオペレートをこなしていた。自分よりも上手く、オモイカネを扱っていた――

 その姿を見て、ルリの心に浮かび上がる感情があった。ルリはそれを何と呼べば良いのか判らず戸惑っている。

 それは、嫉妬だった。

 自分だけのものだと思っていたものを、横から奪い取られたかのような。自分がいかに劣っているのかを見せつけられたかのような。

 もともと、自分がマシンチャイルドである事を誇りに思った事などない。この能力は物心付いた頃から自分と共にあったのだから。

 だが――ルリは生まれて初めて、負けたくないと思った。ラピスには負けたくないと思った。もし自分がラピスに負けたら、自分の存在意義を失うだけでなく、唯一のお友達であるオモイカネもラピスに取られてしまう。

 そう、思ったのだ。

 だから、寝る間も惜しんでオペレート技術の向上に励んでいた。あの時のラピスのログを見比べ、それを上回る演算速度をはじき出そうと文字通り身を削って努力していた。

 今のところ、その努力は実を結んでいない。もしかしたら、永遠に結ぶことはないかも知れない――そう思う事もある。

 彼女――ラピス・ラズリは、ルリと同じくマシンチャイルドでありながら、明らかにルリと違う点がある。彼女が、黒百合を見上げるその瞳。そこに篭もる感情の色。それは、自分が決して持っていないものだ。

 黒百合の言葉を借りればこうなるだろう。彼女は人間であり、自分は人形なのだ――人形が生きている人間に勝てるはずがない。

「なに、やってるんですかね、本当に……」

 自分の唯一の特技であるオペレーティングではラピスに勝てず、こうして気分転換に誘われて来てみれば、厄介者の様な扱いを受ける。

 ルリは、生まれて初めて弱音を吐いた。

「帰りたく、ないな……」

「なら、帰らなければいい」

「――えっ?」

 驚いて、俯いていた顔を上げる。いつの間にか、人が目の前に立っていた。

 男性だった。小さな丸眼鏡を掛けている。線が細く、身長も有り体に言って低い。猫背がちなせいか、ややもすると卑屈そうな印象を受ける。くたびれたこげ茶の背広が違和感なく似合っていた。

 容姿はそれなりに整ってはいるものの、見た目はしがないサラリーマンといった印象だ。だが、浮かべている表情がそれらの外見を裏切っていた。口を歪ませ、禍々しい笑みを浮かべている。獲物を捕らえた肉食獣のような。

「俺と一緒に来いよぉ、ヴァイスちゃん」

(ヴァイス――?)

 疑問を声に出す前に、男の右手が動いた。

 そして、ルリの視界は闇に包まれた。

 

          ◆

 

「お待たせ、ルリちゃん! って、アレ?」

 アキトがブティックから出たとき、ルリの姿はなかった。それどころか、いつの間にか人通りが途絶えている。いや、その表現は正しくないかも知れない。確かに人通りはある。しかし今、アキトの目の前だけは人の空白地帯が作られていた。まるで図ったかのように。

 だが、アキトが不審に思ったのはルリの姿が見えない事だった。きょろきょろと周囲を見渡すと、正面の雑貨屋とアクセサリー・ショップの間の小さな路地、こげ茶の背広の男の向こうに、見知った瑠璃色の髪がちらりと見えた。

「ルリちゃん?」

 何も考えずに路地を覗き込む。男は既に路地を出るところだった。ルリの姿はない。

 後を追うように狭い路地を抜けた。その先では、ルリが今まさに黒いエレ・カーに連れ込まれようとしている所だった。

 少女はぐったりと脱力している。しかし意識はあるのか、薄く開いた瞳でこちらの姿を認めると、か細い声を漏らした。

「テンカワ、さん……」

「ルリちゃん!」

 その声で、半ば呆然としていたアキトは我に返った。だっと駆け出す。何も考えていない、咄嗟の行動だった。

「構わないで。行くわよ」

 車の中から、女の声。しかしこげ茶の背広の男は車に乗り込まずに、アキトに振り向いた。口が裂けたかのように大きく歪んだ嘲笑を張り付けたままで。

 シュッ。

 空気が漏れたような音。小さな音のはずなのに、やけにはっきりとアキトの耳に響いた。

 次の瞬間、腹部に灼熱を感じてアキトは足を止めた。何が起こったのか判らない。呆然と、右脇腹を中心に広がる赤い染みを見つめていた。

「あ……れ?」

 がくんと視界が下がった。膝を着いたのだ、という事実には気付かなかった。右脇腹の灼熱は既に痺れへと代わり、ゆっくりと全身に巡っていくかのようだった。

 痛みはないのに息が苦しい。汗がどっと噴き出す。

 アキトはこげ茶の背広の男を見上げた。それだけの動作をこなすのにも、渾身の力が必要だった。

 男は笑みを浮かべたままだった。その右手には拳銃が握られている。銃器に詳しくないアキトには理解できなかったが、普通の拳銃とは形が違うように見えた。

 アキトは漸く自身に何が起こったのかを悟った。あの銃で撃たれたのだ。それを理解した途端に、全身の力が抜けていく。瞼を開けているのも辛くなってきた。

 男はアキトにその拳銃を見せつけるように振るうと、銃口をこちらに突き付けた。引き金に掛けられた指が、微かに動く。

 その結果を見届ける事無く、アキトの意識は暗転した――

 

 


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