イネス・フレサンジュは医務室でコーヒーを飲んでいた。
ケイ・フォーランドの手によって淹れられた黒瑪瑙色の液体は、味・色・香り共に申し分ない。それが、三角フラスコとアルコール・ランプによって淹れられたものでなければ。
何故彼女は三角フラスコに限らず、実験機器で紅茶や緑茶やコーヒーを淹れるのか。直接訊いた事はあるが、「此処は医務室ですから」と謎の答えを返されてしまった。普通、医務室に実験機器はないと思うのだが。
ケイはこのナデシコにおいて数少ない良識的な感性の持ち主なのだが、この点だけは譲れないらしく、頑なにそのスタイルを変えようとしない。
8歳の頃から父の跡を追うように科学者を志し、飛び級で入学した火星大学のラボで天才の名を欲しいままにし、精神カウンセリングにも精通しているイネスにもこれだけは理解不能だった。科学者は今は関係ないが。
「……まさに謎ね」
「どうしました? イネスさん」
「あ。いえ。何でも」
こちらの呟きを聞きとめたケイに、イネスは慌ててかぶりを振った。
「それにしても、今日は平和ですね」
一体何がそんなに楽しいのか、ほわほわとした笑顔を浮かべながらケイが言った。
「そうね。それだけ退屈だけど」
「あら、医務室なんて、暇な方が良いんですよ。皆さん健康な証拠ですもの」
「まあ、それはそうだけど」
一応頷きを返しはしたが、イネスとしては仕事とはいえ、退屈でしょうがない。こうまで暇だと、いっそのこと何か事件でも起きてくれた方がよっぽどマシだ。
一度それを口に出して言った事があったのだが、その時ケイは普段の笑顔を浮かべたまま、しかし真剣な口調でイネスを諭した。
『冗談でも、そんな事を言っては駄目ですよ、イネスさん。自分のために他人の不幸を望むなんて。もし本当にそうなったら大変でしょう?』
別にイネスは言霊など信じていない。ケイの言っている事は全くのナンセンスだとは思うが、彼女の碧色の瞳の奥に潜む哀しみの感情を見て取り、それ以来二度と口にはしていない。
「それにしても、本当に暇ねぇ。今日はテンカワ君の検診日でもないし」
「ふふ、イネスさんはずっとそんな事ばかり言ってますね」
「だって本当に退屈なんだもの。オリンポス研じゃラピスの世話で息をつく暇もなかったけど、ナデシコに来てからあの娘は黒百合さんにべったりだから」
「……寂しいんですか?」
その言葉に、イネスは口を付けていた耐熱ビーカーから顔を上げてケイを見返した。彼女は人好きのする笑みを浮かべたまま、コーヒーを啜っている。
「……そうね。そうかも」
しばしの沈黙の後、イネスは素直に認めた。普段の彼女なら、「まさか」と軽く流していただろう。だが、何故かこの女性の前では、普段は目を背けている自分の弱さをすんなりと受け入れてしまう。
幼い頃から自分よりも年上の者たちの輪の中で過ごしてきたイネスにとって、本当の意味での友人というものは存在しない。年上の同級生たちは、いつも自分を目障りなものを見るような眼を向けていた。同じ年齢の少女たちは、自分の肩書きを知ると敬遠するようになった。
そんな思春期を過ごしてきたイネスにとって、対人関係は基本的に『付かず離れず』だった。他人を自分の懐にまで招き入れない代わりに、自分も他人の懐深くまでは飛び込まない。
そのイネスにとって、ケイは父親以外で心を許した初めての『大人』だった。幼い頃亡くなった母親というのも、こんな感じだったのかも知れない。
「ラピスさんは、本当に黒百合さんが大好きなんですね」
「そうね。オリンポス研でもよく話してたわ。一緒に寝床を共にしたとか、お嫁さんになったとか」
「そうなんですか?」
「ええ。ま、あの娘の事だから意味は理解してないみたいだったけど。その時は『黒百合』ではなく『アキト』だったわね」
「そう言えば、黒百合さんも最初は『アキト』さんと名乗っていましたね。きっと事情があるんでしょう」
「私はそこまで好意的には考えられないけど……」
「大丈夫ですよ」
ケイは優しい口調で断言する。
「黒百合さんは、ラピスさんを裏切るような真似はしません」
そのにこやかな表情を見ていると否定するのも馬鹿らしくなって、イネスは黙って温くなったコーヒーを啜った。
プシュッ。
エアーの抜ける音に入り口の方を振り向いて、
「……ラピス?」
イネスは目を丸くして驚いた。今し方話に出ていた少女――ラピス・ラズリが、その琥珀色の瞳いっぱいに涙を湛えて立ち尽くしていたからだ。
「……うっく。イネス……ひっく……」
「ラ、ラピス、どうしたの?」
「ひっく……ワタシ、アキトに……ううぅ〜〜」
ラピスはイネスに縋り付いた。白衣に顔を埋め、そこから嗚咽が漏れてくる。
「ほら、ラピス、落ち着いて。もう、こんなに泣いちゃったら、可愛い顔が台無しじゃないの。何があったか、話してご覧なさい」
優しく話しかけると、ラピスは泣きじゃくるのをやめてイネスを見上げた。
「アキト……アキトが……」
「黒百合さんがどうしたの?」
「アキトが……あのコばっかり……ワタシ……オヨメサンなのに……」
たどたどしく語られる断片的な言葉。それらを要約すると、どうもラピスが黒百合とケンカをしたらしい。
「つまり、ラピスは黒百合さんがセレス・タインばかりに構ってるのが嫌だった訳ね」
こくりと少女は頷いた。幾分落ち着いたのか、ラピスは涙を止めて姉を見返している。だが、泣きはらしたおかげでその目は真っ赤に充血していた。
「アキトは、ワタシのコトがキライになったんだ……だから、アキトはあのコばっかり……」
思い出したのか、再び涙を溜めるラピスに、イネスは溜め息をついて、
「……ケイさん、どう思う?」
「つまり、ラピスさんはセレスさんに嫉妬しているんですね」
「じゃあこれは、とどのつまりは……」
「ラピスさんと黒百合さんの痴話喧嘩、ですね」
「ち、痴話喧嘩……」
イネスはくらっと目眩を起こした。よりにもよって、ラピスが痴話喧嘩! そんなものは、絶対にあり得ないと思っていたのだが……
「あら、でもラピスさんも立派な女の子なんですし、別に不思議な事はありませんよ?」
「それはそうなんでしょうけど……」
「ふふ、若いっていいですねぇ」
「その台詞はちょっと年寄り臭いわ……」
「ともかく、ラピスさんが泣かれた原因は黒百合さんにあるわけですね」
「そうね。確かに、黒百合さんはセレス・タインには甘いところがあるみたいだし」
「ふふ、こんな可愛い娘を泣かせたんですから、黒百合さんにはきちんと責任をとって貰いましょう」
「せ、責任?」
「うふふ……」
ケイが浮かべる笑顔に得も言えぬ迫力を感じて、イネスは頬に汗を伝わせた。
ナデシコ艦内では『説明お姉さん』として恐れられているイネスだったが、『ナデシコの母』ことケイには敵わないようだった。
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE
第34話
「君の傍にいるよ」
『着信拒否』
黒百合はラピスのコミュニケを呼び出すと、開いたのはそのウィンドウだった。それを見た黒百合は、まだブリッジに残っているルリに目を向けた。
「……ルリちゃん、ラピスが何処にいるか分かるか?」
「あ、はい。ちょっと待って下さい」
ルリは頷いてコンソールに手を置く。しかし、すぐにその眉が顰められた。
「……どうだ?」
「駄目です。オモイカネに拒否されました。教えたくない、と」
「オモイカネが?」
「はい。ラピスさんにお願いされたみたいです。こればかりは、私ではどうにも……」
「そうか。ま、ラピスの『お願い』なら、オモイカネが譲る訳はないか」
「はい。すいません」
すまなそうに項垂れるルリに、黒百合は笑いかけた。
「なに、謝る事はないさ。あまりオモイカネをいじめるのも可哀想だしな」
「え?」
驚いたようにルリは顔を上げた。
「気付いてなかったのか? オモイカネにとっては、ラピスもルリちゃんも大事だからな。それぞれに相反する『お願い』をされたら、板挟みになるだろう」
「……そうなの? オモイカネ?」
『すいません、ルリ』
問い掛けに応えて、オモイカネのウィンドウ。それを見たルリは、ふっと目元を和らげて、ゆっくりとかぶりを振った。
「ううん。無理を言って御免ね、オモイカネ」
『……すいません、ルリ。黒百合さん』
「ま、しょうがないな。地道に捜すとするか」
嘆息する黒百合をルリは複雑な表情で見やった。
「……黒百合さんは、私よりよっぽどオモイカネの事を理解しているんですね」
「ん? まさか。そんな事はない」
「ですけど」
「オモイカネを一番理解しているのは、君だよ、ルリちゃん。それだけは間違いない。そうだろう、オモイカネ?」
『はい。ルリは私の一番大切な友達ですから』
「オモイカネ……ありがとう」
胸の裡から沸き上がる感情を持て余して、ルリは俯いた。どんな表情をすればいいのか分からない。どんな言葉を口にすればいいのか分からない。そんな自分をもどかしく感じたのはこれが初めてだった。
そんな彼女をバイザーの向こうから優しい視線で見守っていた黒百合だったが、ふと思い出した事を口にした。
「……そう言えば、オモイカネもストレスを感じるんだな」
「え? ええ、そう……ですね」
「なら、ストレスが溜まりすぎるとどうなるんだ? 人間なら病気になるところだが、オモイカネもそうなるのか?」
「それは……どうでしょうか。まだなった事がないので分かりませんが……もしかしたらプログラムに不具合が生じるかも知れません」
「そうか」
「はい。でも、日頃のケアをしっかりしていれば、そんな事には……」
「ま、そうだな。その辺りも人間と変わりはないか。ともかく、俺はラピスを捜す事にしよう。悪かったなルリちゃん。時間を取らせた」
「いえ」
手を挙げて、黒百合はセレスと共にブリッジを出ていった。一人残されたルリは、じっと物思いに耽るように、オペレーター席に座っていた。
◆
最初に黒百合が向かったのはラピスの部屋だった。ブリッジを飛び出したラピスが戻っていると考えたからだ。
ラピスは火星で同居していたイネスと同室である。最初ラピスは黒百合と同室を希望したのだが、流石にそれは風紀上看過し得ないという事で、これまで同様イネスが引き取ったのだった。
どの部屋もこれだけは同じ形のインターフォンを、黒百合の指が押す。しかし、何のいらえも返っては来なかった。
「誰もいないか……」
部屋の中は静まり返って、人のいる気配は感じられない。どうやら留守のようだ。黒百合の予想は外れたらしい。
「とすると……」
黒百合はドアの前でおとがいに手を当ててしばらく考え込んでいたが、やがてセレスの手を取るとイネスの部屋の前を後にした。
次に向かったのは医務室である。定時は過ぎたが、用事が無ければイネスは普段はここに詰めているはずだった。
「あら、いらっしゃい、黒百合さん」
ケイがにこやかに出迎える。しかし医務室の中を見回しても、お目当ての人物はいなかった。
「……ドクターはいないのか?」
「イネスさんですか? 今日は定時になったら上がられましたけれど」
「そうか。ケイさん、此処にラピスが来なかったか?」
「え? ラピスさんがどうかなされたんですか?」
不思議そうに訊いてくるケイに、黒百合は事の次第を話した。彼女は驚き、頬に手を当て、
「まあ、ラピスさんがそんな事を……」
「ああ。俺も驚いたんだがな。ラピスはドクターには懐いているから、此処に来ているかと思ったんだが」
「そうですか。今、ラピスさんがどちらにいらっしゃるかは分かりませんけれど……そうだ、コミュニケで調べる事は出来ないんですの?」
「いや、それも駄目でな。一応ルリちゃんに頼みはしたんだが」
「まあ、そうなんですか。困りましたね」
「ああ。まったくな」
「それで、黒百合さんはラピスさんを捜して、どうなさるおつもりなんです?」
ケイはいつものように、柔和な表情を浮かべたまま訊いてくる。
「どう……と言ってもな。俺も、ラピスがこの娘の事であれほど思い悩んでいたとは思っていなかったからな」
と、黒百合は傍らにいるセレスの空色の髪をくしゃりと撫でる。髪を解き梳かれたセレスはくすぐったそうに眼を細めた。
「とにかく、一度きちんと時間を取って話をしようと思っているんだが」
「そうですね。でも、黒百合さんって、ラピスさんに対しては特別な接し方をなさっているように思えたんですけど」
「……そうか? いや、確かにある意味では特別と言えるかも知れんが、それはこのセレスティンも一緒の事なんだがな」
「そうなんですか?」
「ああ。だがまあ、確かにラピスには少し言葉が足りなかったらしい。だからきちんと話し合っておこうと思ったんだが」
「それが宜しいと思いますわ。他に、ラピスさんの行く場所に心当たりはあるんですか?」
「幾つか、心当たりはある。そちらを当たって見る事にしよう。邪魔したな、ケイさん」
「いえ、お構いなく。また今度、ゆっくりお茶でも如何ですか?」
「ああ。また今度、な」
マントを翻して、黒百合は医務室を後にした。セレスが部屋を出る際、ちょこんとお辞儀をしたのが印象的だった。
黒百合たちを見送ったケイは、一人になるとコミュニケを繋げた。ウィンドウに出た人物と何事か話していたが、用件を終えた後、ケイは頬に手を当ててそっと嘆息した。
「嗚呼、それにしても、どうしましょう。イツキさんとラピスさん、どちらを応援すべきなのかしら……」
「え? ラピスちゃんですかぁ? まだ此処には来ていないと思いますけどぉ」
ラピスの行方を尋ねる黒百合に、ウエムラ・エリは人差し指をおとがいに当てて首を傾げた。
「……そうか。ドクターは?」
「ドクター? ああ、イネスさんですね。まだ見てませんけど……あ、そう言えば昨日、ウリバタケさんに用があるような事を話してたような……」
「セイヤさんか……済まない、邪魔したな」
「いーえ、どういたしまして」
エリの営業スマイルに見送られて、ナデシコ食堂のカウンターの前から去る黒百合。夕食を摂りに食堂に来ているか、と思って訪ねてきたのだが、それは流石につもりが良すぎたらしい。
ちなみにその後、エリは他のホウメイ・ガールズたちのところに駆けていって、「きゃー! 黒百合さんとお話ししちゃったー!」などときゃいきゃい騒いでいたのだが、先を急ぐ黒百合の耳には入って来なかった。
「此処にもいないとなると、一体何処に行ったのか……」
これまでも幾つかの心当たりを回ってみたのだが、そのいずれも外れだった。
考えてみると、ナデシコ艦内でのラピスの生活パターンというものを、あまり把握していなかった事実に黒百合は気付いた。大概ラピスは黒百合と一緒にいたためあまり気にしていなかったのだが、こうなるとそうと放置していた自分が恨めしくなる。
「さて、参ったな……」
こうなると後はしらみ潰しに捜すしかないのだが、先程からセレスは歩き通しで疲れたのか、うつらうつらと船をこいでいた。
「セレスティン、疲れたか?」
「エ? ウウン、だいじょうぶ」
ぷるぷるとかぶりを振るセレスだったが、眠たいのかしきりに目を擦っている。黒百合はそっと嘆息した。
「……一度、部屋に戻って休むか」
何にしても、このままずっとセレスを連れ歩くわけにも行かないだろう。黒百合は少女を抱き上げると、部屋に向けて歩き出した。
食堂などのある生活区と居住区はフロアが異なっている。黒百合たちはそのフロアを繋ぐ唯一のエレベーターに向かっていたのだが、
「あ、黒百合さん」
「イツキ?」
その途中、通路ですれ違ったイツキに声を掛けられた。答えた黒百合の台詞が疑問形だったのは、彼女が眼鏡を掛けていたからだ。縁のないスリムな形状の眼鏡で、イツキが掛けるとインテリジェンスな雰囲気がいや増している。
黒百合はしばし凝視していたのだろう。イツキは頬を僅かに染めて、むず痒そうに身じろぎした。
「な、なんですか? 黒百合さん」
「どうしたんだ、その眼鏡は」
「あ、これですか? 私、遠視なんです。本を読む時とかは、眼鏡を掛けてるんですよ」
「そうなのか」
「黒百合さんはどちらへ?」
「ああ、ちょっとラピスを捜しているんだが……イツキは?」
「私ですか? 私は、ちょっとそこの図書室に……」
言ってイツキが見上げた視線の先、丁度三人が立ち止まっているドアの上のプレートには、確かに『図書室』という記載がされていた。
それは、クルーたちの気分転換のためにと、福利厚生に力を入れたネルガル側の意向で設けられた生活施設のひとつである。今時珍しい紙の図書も揃っているというふれこみだったが、実際は電子図書の方が気軽に利用できるため、あまり利用頻度は高くないとプロスが漏らしていたのを聞いた事があった。
黒百合自身も、『前回』を含めて一度も利用した事はない。イツキがどうかは聞いた事はなかったが、勤勉家の彼女が利用していても別に不思議はないだろう。ヤマダ辺りが通い詰めてるなどと言われるよりはよっぽど説得力がある。
「よく来るのか?」
「いえ、来るようになったのはここ最近ですけど……」
「そうか。何を読んでるんだ?」
それはごく自然にでた質問だったのだが……問い掛けられたイツキは目に見えて動揺した。ぎくりと身を竦ませて、露骨に視線を逸らしている。その頬を、つつ〜っと一筋の汗が伝った。
「え、その、え〜っと……」
「? 隠すような物か?」
「いえ、そんな……そ、そう。歴史――歴史小説を読んでたんです!」
「? そうか」
やたらと勢い込んでいってくるイツキに、黒百合は内心首を傾げた。焦った様子で話題転換をするイツキ。
「そ、それより! 黒百合さんは、どうしてラピスちゃんを?」
「ああ、ちょっと個人的な用があってな。その前にセレスティンを部屋に帰そうと思ったんだが……」
「そうなんですか……あ、もし良ければ、私がセレスちゃんを連れていきましょうか?」
黒百合の答えを聞いたイツキは、しばし考えた後そう提案した。
「それは助かるが……図書室に用があるんじゃないのか?」
「いえ、どうせ暇潰しの為の読書でしたし。全然構いませんけど」
「そうか……なら、頼めるか?」
「はい!」
「じゃあ、セレスティンを風呂に入れてやってくれるか? その後、夕食も頼む。いつもなら一緒に済ませるんだが……」
「はい。任せて下さい」
嬉しそうに微笑んで、イツキは頷いた――後、とある事実に気が付いてその笑顔を固まらせた。
「あ、あの〜」
「ん? どうしたイツキ」
「あの……黒百合さんて、セレスちゃんとはいつも一緒にお風呂に?」
「ああ。といっても、個室の風呂だがな。それが?」
どうかしたか?、と何でもないように言ってくる黒百合に、かえってイツキの方が恥ずかしくなった。
「……そ、そうですか……」
漸くそれだけの言葉を絞り出す。黒百合は怪訝そうに、
「どうした? 顔が真っ赤だぞ」
「いえ! 何でもないです。何でも……そ、それじゃ、私はもう行きますね。い、行きましょ。セレスちゃん」
セレスの手を引いて、何やらふらふらとした足取りで部屋を出ていくイツキ。その表情は熱に浮かされた病人のようだ、と黒百合は思った。
「……大丈夫なのか?」
独りごち、首を捻りながらも黒百合はその場を後にして、先程エリが言っていた格納庫へと向かった。
◆
「んん? ラピラピか? 見てねぇなぁ」
そう答えたのは、ナデシコ整備班班長のウリバタケ・セイヤである。
「イネっさんも、確かにちょっと意見を聞きてぇ事があって暇があれば来てくれとは言ったけどよ。今日は来てねぇなぁ」
「いや、見てないなら良いんだ。邪魔して済まない」
「そうか? ならいいけどよ。あ、そうだ黒百合。お前さん、ちょっと今時間無いか? 例のヤツがついさっき届いたんだが」
「例のヤツ?」
「おう、アレだよ、アレ」
「アレというと……」
「何ですかぁ?」
「ああ。アレってぇのは、黒百合の……って、どわあっ!?」
飛び上がるウリバタケ。いつの間にか、蹲ったアスカ・ウツホが下から見上げていた。
「う、ウツホちゃん。どうしたんだ、こんな所に」
「え。あはは、また迷っちゃいましたよぅウリバタケさん」
あっけらかんと笑うウツホ。黄色い制服の上に白いエプロンを掛けた姿が、この格納庫の中ではひたすら浮いている。
「ま、また迷子になったのか」
「……よく迷子になるのか?」
呆れるウリバタケに、事情を知らない黒百合が尋ねる。答えたのは張本人であるウツホだ。
「あははー、わたしって筋金入りの方向音痴ですから」
「にしたって、ウツホちゃんこれで3回目じゃねぇか」
「でもでも、ナデシコの通路って何処も同じ景色で迷い易いんですよぅ」
「だが、案内掲示板もあるはずだが……」
「掲示板なんかで場所が分かるわけ無いじゃないですか黒百合さん。わたしの方向音痴を舐めて貰っちゃ困りますよぅ」
「いや、そこで胸を張られてもな」
「あー、ともかく、またタケナカのヤツにでも送らせるよ。食堂の方でいいんだろ?」
「はい。いつもすいませんねぇウリバタケさん」
「んなーに、イイって事よ。なっはっは」
「……それで、例のヤツっていうのは、何の事なんだ、セイヤさん」
高笑いをするウリバタケを、黒百合の冷静な声が呼び戻した。
「んあ?……って、そーいやその話だったな。つまりだ。例のヤツっていうのは、お前さんの専用機の事だよ。ついさっき、ネルガルから納品されたんだ」
「専用機?」
「ああ。エステバリス・パーソナル・カスタム・シリーズの二番機だよ。聞いてないのか?」
「いや、エリナからは何も聞いていないが……」
「そうなのか? 何でも、お前さんのシミュレーターやら実戦のデータをフィード・バックして、基本フレームから再設計した機体だって話だぞ。あの、新しいパイロットの機体もその系統だって聞いたが……」
「そうか。そういえば、ナデシコに向かう以前にそんな話もあったな」
「んで、いま組み立ててるところなんだけどよ。もし時間があれば、調整なんかも出来れば思ったんだが」
「そういう事か。だが、今は時間は取れないな。ラピスを捜さないとならん」
「んー、そうか。ならしょうがねぇな。ところで、ラピラピがどうかしたのか?」
「あー。いや、ちょっとな。個人的な事なんだが。そうだ、君はラピスを見なかったか? ドクターでもいいんだが」
ウツホに振ると、彼女はやや舌足らずな口調で、
「えー、イネスさんですかぁ? そう言えば、さっきわたしが迷って道を訊いたとき、生活区の奥の方に向かってましたけど」
「生活区の奥というと……」
「確か、ホログラム展望室があったな。俺は利用した事ぁねぇけどよ」
ウリバタケが補足する。ナデシコの構造を把握しているあたり、さすがは整備班長である。
「そうか。なら、俺も行って見ることにしよう。邪魔したな」
「おう。いーって事よ。また明日にでも来てくれや」
「頑張って下さいねー」
(頑張って?)
ウツホの物言いを疑問に思いはしたが、さして気には掛けず、黒百合は格納庫を後にした。黒いマントに覆われた背中がハッチの向こうに消えた後、ウリバタケが息をついた。
「……さて、言う通りにしたはいいが……あいつ、何かやらかしたんか?」
「さあ。わたしもよくは聞いてませんけど――あ、そう言えばウリバタケさん。ラピスちゃんの話で思い出したんですけど、知ってますぅ?」
「あん? 何をだ? ウツホちゃん」
怪訝そうにこちらを見返すウリバタケに、ウツホはうぷぷと笑みを堪えながら、
「あのですねぇ。これはついさっきシミュレーション・ルームに迷い込んだ時にヒカルさんから聞いた話なんですけど、黒百合さんとラピスちゃんって――」
◆
「此処か……」
展望室の前に立ち、そう呟く黒百合の声には、若干の疲労が窺えた。艦内限定とはいえ、行方の知れない相手を捜すのは案外精神を削るものだ。ラピスを捜し出してから、結構な時間が経過している。もう時刻は夕食の時間をだいぶ回っていた。
展望室に入ると、そこには先客がいた。
「……ドクター?」
「あら、黒百合さん、いらっしゃい」
イネスは入ってきた黒百合を見返して微笑みかけた。その表情は、普段の科学者としてのものと違って幾分か砕けているように見える。
展望室に映し出されているホログラムには、黒百合も見覚えがあった。周囲一面の草原。時刻は夕方の設定なのか、空は茜色に染まって、たなびく雲はゆっくりと流れている。自然環境も再現しているのか、時折吹き付ける風がイネスのブロンドの髪を揺らした。
それは、黒百合が生まれ育った火星の風景だった。いつか走った草原。もう踏む事は無いだろうと、切り捨てた故郷。
「これは……」
言葉を失う黒百合に、イネスは風に揺れる髪を梳きながら、
「いい景色でしょう? 私が育ったのはネルガルの研究所の近くのコロニーなんだけど、一度だけユートピア・コロニーに行った事があってね。そこからちょっと離れたところにこの草原があったの。今はもう、戦争のせいで見る影もないけど」
「それは……俺も、知っている」
「そうなの? 黒百合さんって、ユートピア・コロニーにいたのね。そう言えば、イツキ・カザマと初めて逢ったのも其処だって聞いたけど」
「ああ。俺の……故郷だった。もう、今は跡形もないがな」
「そう……珍しいわね、黒百合さんが自分の話をするなんて」
「……たまには、そういう事もある」
「ところで、黒百合さんは何か用があって此処に来たんじゃないの?」
言われて、黒百合はこの展望室に来た理由を思い出した。
「そうだ。ドクター、ラピスを知らないか? 捜しているんだが」
「ラピス? 知ってるわよ。ちょっと前まで一緒にいたし」
「そうなのか?」
「ええ。だから、ラピスが今どこにいるかは見当が付くけど、でも、その前に……」
妖艶に笑って、イネスは腰を上げた。
「黒百合さん。貴方、ラピスを泣かせたでしょう」
「う」
言葉を詰まらせる黒百合に、イネスは盛大に溜め息をついた。
「ラピスから話を聞いたわ。確かにセレス・タインが気に掛かるのは分かるけど、かといってラピスを疎かにするのは頂けないわね」
「……原因は、俺にある。それは理解しているつもりだ」
「それは結構。ま、こうして捜してるんだから、充分に反省しているんでしょうし、改善の意図もあるんでしょうけど。
でも、あの娘の姉としては、可愛い妹を泣かせた男をそう簡単に許す気にはならないの。分かる?」
「……俺に、どうしろと言うんだ」
黒百合の口調は普段と変わりはなかったが、そこに途方に暮れているような響きが含まれている事に気付いて、イネスは笑いをかみ殺した。ぴくぴくと痙攣する頬を隠すように、自然な仕草で顔を背ける。
「別に、私からどうしろと言う気はないけどね。ただ、ラピスはまだまだ子供だから。年長者が導いて上げて欲しいの。それが、彼女の信じる人であるなら良いと思っているわ。
……ねえ黒百合さん。以前から訊こうと思っていたんだけど、ラピスは、貴方にとっての何なの?」
最後の問い掛けの時には、イネスは視線を黒百合の正面に戻していた。普段はバイザーに隠れている黒百合の双眸を射抜くかのように、静謐なアイス・ブルーの瞳を向けている。
「ラピスは……」
最初は突然の質問に戸惑っていた黒百合も、イネスの真摯な表情を見て気を引き締めた。静かな、迷いのない声で告げる。
「ラピスは俺にとって、何に換えてでも護るべき存在だ。ラピスの幸せのためなら、俺は何だってしよう。たとえ……その為に何を失おうと」
それは、あの火星での北辰との決戦の後にラピスの傍にいると誓ってから、黒百合が変わらず持ち続けてきた決意だった。
ラピスを、護る。彼女がこの身から離れ、本当の意味で自立できるその時まで。だが、その決意が果たされないだろう事を知っている黒百合は、密かに自嘲した。
そんな彼の心中を余所に、イネスは目元を緩めて黒百合を見返した。
「……そう。ちょっと不満は残るけど……でもま、及第っていう事にしておいて上げる」
「……厳しいな」
「まあ、妹を取られた姉としては、ね。何が悪かったかは、これからじっくりと考えて頂戴」
言って、イネスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それで、及第点ならラピスの居場所を教えて貰えるのか?」
「ふふ、そうねぇ。ラピスは悲しい時に誰のところに行くかしら? ヒントはそれだけで充分なはずよ。貴方がラピスの事を分かっているのなら」
「悲しい時……?」
黒百合は考え込むように手で口元を覆っていたが、ふと思い当たって顔を上げた。
イネスは未だに笑みを崩していない。その表情を見て、黒百合は自分の推測が当たっている事を確信した。
「分かったみたいね。なら、早く行って上げて? 黒百合さんが色々なところに道草を食っている間、ラピスも待ち草臥れてるでしょうし」
「……そうするとしよう」
悪戯が成功した童女のような表情を浮かべるイネスに、黒百合は苦笑するしかなかった。
「これは、ラピスの考えじゃないな。ドクターの入れ知恵か?」
「残念ながら外れ。発案はケイさんよ」
「ケイさんが?」
先程医務室を尋ねたときは、そんな気配は微塵もなかったのだが……
「そ。黒百合さんは確かにラピスの行動を把握してるわ。ラピスは最初に私のところに来たの。で、その時医務室にはケイさんもいて、ラピスから事の次第を聞いたわけ。
それで、ケイさんが言い出したのよ。黒百合さんにラピスを泣かした責任をとって貰いましょうってね。あの人を敵に回したら怖いわよ?」
「……肝に銘じておく事にしよう。邪魔したな」
「ええ。ラピスを宜しくね」
イネスはそう言って、ひらひらと手を振って見せた。
黒百合は目的の部屋へと急ぐため、足早に廊下を歩いていた。無言で、しかもこわばった表情で彼が歩いていると、周囲に訳もなく威圧感をまき散らしているのだが、黒百合にはそんな事を気にしている余裕はなかった。
何事かと怯えたクルーたちが道を譲ったせいもあり、程なくして目的地に到着する。
黒百合はロックを解除して部屋の中に入り――開いたドアの向こうに広がる光景に、ラピスを呼び掛けようと上げかけた声を押し込んだ。
その部屋――黒百合の部屋の中では、ひとつしかないベットの上で、薄桃色の髪の少女が安らかな寝息を立てていた。おそらく、黒百合を待っているうちに眠ってしまったのだろう。
黒百合はその光景にしばしの間言葉を失い――そして我に返った後に、盛大に息を吐き出した。
どうラピスと話し合おうかと帰路をゆく間に色々と思案して、さあいよいよと意気込んだところで、思いっきり肩すかしを食らった思いだった。真面目に悲壮な決意を固めた自分が馬鹿みたいだ。
「まったく……敵わんな」
だがそれも、ラピスの天使のような寝顔を見ていると、どうでも良いような事に思えてしまう。
難しく考える必要などなかった。未来はどうあれ――今現在、このナデシコの中で、この少女の傍にいる。それだけが全てだ。
黒百合は横たわるラピスの薄桃色の髪にそっと手を触れ、独りごちるように語りかけた。
「ラピス……たとえどんな結末が待っているとしても――今は、ラピスの傍にいよう。ラピスがいずれ俺の元から巣立つ時が来るまで」
それが何時になるかは分からない。もしかしたら、その前に自分の命が尽きてしまうかも知れない。いやむしろ、そちらの可能性の方が高いだろう。
だが、だからこそ……
今、自分に出来る精一杯の事を成そう。もう後悔はしたくない。
「傍に……いるよ、ラピス……」
……黒百合は、気付いていない。こうしてラピスと二人きりで向き合っている時、あるいは、セレスを寝かしつけるためにベットで添い寝をしている時、昔と変わらぬ、優しい眼差しを少女たちに注いでいる事に……
黒百合だけが、気付いていなかった。
「ウウン……」
髪を梳いているのがくすぐったかったのか、ラピスは身じろぎして肩を竦ませた。起こしてしまったか、と黒百合は手を離したが、ラピスは目覚める事無く寝返りを打った。丁度、枕元に腰掛けている黒百合にすり寄るように。その仕草は、まるっきり仔犬を連想させて、見る者の微笑を誘う。それは黒百合であっても例外ではなかった。
「アキト……」
夢でも見ているのだろう。ラピスは寝言で彼の名を呼んだ。もう黒百合をその名で呼ぶ者は、この世界にはこの少女しかいない。
黒百合は優しい――本当に優しい微笑みを浮かべて、再び少女の髪を撫でつける。
まるで、その感触を名残惜しむように。