「全クルー、配置に付きました」

 そのメグミの言葉に頷きを返して、ユリカはおもむろに口を開いた。

「それでは、相転移エンジンを起動してください」

「相転移エンジン、起動します」

『相転移エンジン、起動!』

「エネルギー充填開始。3%……5%……」

「各バイパス、問題ナシ」

「エネルギー充填率15%……20%……」

「ドックに注水、開始します」

「40……45……50……55」

「艦内重力制御、問題なし」

「70……75……」

「注水率30%突破」

「皆さん、各部署から動かずに、衝撃に備えて身体を固定してくださーい」

「90%……95%……エネルギー充填率100%。相転移エンジン、起動します」

『相転移エンジン、起動確認! 作動に問題ねーぞ!』

「相転移エンジン、稼働率20%で安定。核パルス・エンジン起動」

『核パルス・エンジン、正常に作動中』

「各部チェックをお願いします」

「オモイカネ、各部チェック」

『安全』『良好』『O.K.』『問題ありません』『大変よくできました!』

「各部問題なし。ドック注水8割方完了。ゲート開け」

「ゲート開きます」

「センサー、問題なし。半径50キロの圏内に木星蜥蜴の機影はありません」

「ドック注水完了」

「ゲート開きました。進路クリアー、発進よろし♪」

「それでは、機動戦艦ナデシコ――」

 発進! というユリカの言葉を待つブリッジ・クルーたちだったが、しばし時間をおいても、その台詞は艦長の口から発せられなかった。

 溜めにしては随分と長いと不審に思って艦長席を振り返ってみると、そこではユリカが腕を振り上げたポーズのまま、困った顔で固まっていた。

 傍らにいたプロスが、やおら問い掛ける。

「あのー艦長、如何しましたか? 皆さんが艦長の号令を待っているのですが」

「プロスさん! 私、たった今大変なことに気付いちゃったんですけど!」

「はあ。と仰いますと?」

 勢い込んで言ってくるユリカを、たじろぐ様子もなく受け流すプロス。

「このナデシコって改修したんですよね!」

「はい、それはもちろん」

「じゃあ、名前も変わったんですか!?」

「は?」

 ぽかん、とプロスは不覚ながら口を開けてしまった。なおもユリカは続ける。

「改修しちゃったってことは、やっぱり機動戦艦ナデシコ改? それとも機動戦艦ニュー・ナデシコとか!」

「それなら機動戦艦ナデシコNEOとかもありよねぇ」

「ナデシコNEXTとかは? 昔そんなアニメがあったような……」

「スーパー・ナデシコなどはどうだろう」

「ミスター、それってちょっとセンス古い」

「……むう」

『いやいや、真・ナデシコも捨てがたい』

『なら神・ナデシコとかもありじゃないっスか、班長』

『ナデシコGとか!』

『Gって何の略なんだよ』

『ドラゴン・ナデシコはどうだ!』

『何でドラゴンなんだよ』

『いや、なんとなく……』

『やっぱナデシコUだろ?』

『いや、それならナデシコ・セカンドとか』

『ナデシコ・ツヴァイとかは?』

『みんな同じ意味じゃん。つーか、何でドイツ語?』

『機動戦艦ナデシコ999!』

『機動戦艦ナデシコ・熱闘編!』

『ナデシコから愛を込めて!』

『何で映画のタイトルっぽくなってんだよ』

『え〜い面倒くせぇ! それならいっそ機動戦艦ゲキガンガーに……』

「「「『『『『『『『お前は黙ってろ!』』』』』』』」」」

『……はい』

 ブリッジ・クルーの意見を皮切りに、コミュニケを通じて整備班や果ては待機中のパイロット達までが顔を出して、好き勝手な事を言い出した。

「……で、どうなんですか? プロスさん」

 ブリッジいっぱいに展開したウィンドウに囲まれて、ユリカが代表してプロスに尋ねる。

「はて、本社の方では特にナデシコの名称に訂正は加えてはいませんでしたが……強いて言うならナデシコ改修型という事になるわけですかな?」

「えー、それってつまらないです」

「と、仰られましても……それでしたら、後で名称を公募なさいますか?」

「あ、それもいいですね!」

 プロスの提案に乗り気を見せるユリカ。だが、そこに黒百合が水を差した。

「名前など、どうでもいいだろう」

「えー、でも黒百合さん」

「改造しようが補修しようが、ナデシコはナデシコだ。全クルー221人の家だ。その事に変わりは無い。それが一番大切な事……」

 そこまで言いさして、黒百合は全ブリッジ・クルーが自分を見つめている事に気付き、言葉を途切れさせた。自分に注がれる生暖かい視線に、憮然とした表情を作る。

「…………何だ」

「いーえ、何でも〜♪」

 ミナトが答える。が、その口調は何となしに愉しそうではあった。

 ユリカが、我が意を得たり言わんばかりに、嬉々として頷く。

「そうですね! 黒百合さんの言う通り、ナデシコはナデシコですもんね!」

「……まあ、そうだ」

「それでは!

 機動戦艦ナデシコ――発進します!」

 ユリカの号令と共に、ナデシコがヨコスカ・ベイを飛び立つ。

 西暦2197年6月17日。花は再び大空へと舞い上がった。

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第35話

「手の平から零れ落ちた」



 

 ナデシコがヨコスカ・ベイを出航し、10分と経たない内に、センサーに反応があった。

「前方、80キロに複数の艦影あり」

「木星蜥蜴ですか?」

「いえ。データの照合結果出ました。連合宇宙軍第三艦隊旗艦トビウメ、及び護衛艦クロッカスとパンジーです」

「トビウメ? と言いますと……」

「トビウメからの通信、開きま」『ユゥーリークァーッ!』

 メグミが報せるよりも早く開いたウィンドウから、唐突に発せられたミスマル・コウイチロウの大音量の絶叫に、ブリッジ・クルー達は思わず耳を塞いだ。間に合わなかったラピスとセレスは、意識を飛ばし掛けて振り子のように身体を揺らした。

「……大丈夫か、二人とも」

「……アンマリ大丈夫じゃナイ」

「パパ、耳イタイ」

 ちなみに、最も被害の少なかったのは『前回』の経験が生きている黒百合と、コウイチロウの奇声に慣れてしまったジュンだった。

 そんなナデシコ・ブリッジの被害には目もくれず、ミスマル親娘は会話を続けた。

「お父様」

『おぉ〜ユリカ、元気だったかぁ〜?」

「2週間ほど前に帰省してお会いしたばかりですわ、お父様」

『おお、そうだったかな』

「これはミスマル提督、ナデシコは現在連合軍の傘下に入っておりますが、今回はまたどのようなご用件で?」

 いち早くコウイチロウの音害から回復したプロスが親娘の間に割り込んだ。

 その台詞には、以前にナデシコを拿捕するためにコウイチロウがやってきた事に対する皮肉が込められていたのだが、第三艦隊提督はあっさりと受け流した。

『うむ。今回は連合宇宙軍艦隊総司令部の正式な命令を伝えに来たのだ』

「ほう、命令を?」

「ちょ、ちょっとお待ち下さいミスマル提督!」

『ん? 何かねムネタケ大佐』

「命令でしたらアタシが既に承知していますわ! ナデシコは太平洋を南下して墜落したチューリップを殲滅しつつ、最終的には北欧を目指すと……」

『その予定だったのだが、状況が変わったのだよ』

「と仰いますと?」

 プロスはくいっと眼鏡を押し上げた。

『ナデシコに地球大気圏内のチューリップ駆除の任を与えたのは、宙域で木星蜥蜴との拮抗が取れていたからだ』

「はい、それはもちろん……」

 現在、木星蜥蜴の戦力は、宙域よりも大気圏内に集中している。それは、遥か木星より飛来したチューリップのほとんどが、ビック・バリアを破って地球に落下したためである。地球の各主要都市を襲っている木星蜥蜴はチューリップから出現したものだ。逆に言えば、チューリップさえ何とかすれば、地球内の木星蜥蜴の脅威を取り除くことが可能だ。

 宙域では、破壊された施設は数多に上るが、火星――そして月面のルナ・シティを除いて、木星蜥蜴が占拠している施設はない。

 そのため、連合軍の戦略としては、どうしても地球圏内の木星蜥蜴排除が優先される。

 しかし――

「じゃあ、宙域での戦力バランスが崩れたと言う事ですね? お父様」

 おとがいに人差し指を当てながら、何でもないようにユリカが言った。クルー達が驚きの視線を彼女へと向ける。

 コウイチロウは頷いて娘の言葉を肯定した。

『うむ。第四次月攻略戦に先立ち、月宙域への進路を確保していた、第二艦隊から報告があった。なんでも、新型の無人兵器が確認されたそうだ』

「木星蜥蜴の新型兵器が?」

『そうだ。これにより、第二艦隊はX−07、Y−10宙域まで一時後退し、防衛ラインを構築しておる状況だ。総合司令本部としては当然、援軍を差し向ける予定だが……現在援軍の編成を進めてはいるが、正直言って今すぐ動ける戦力に乏しい。前線の戦力を引き抜く訳にはいかんし、他の宙域を疎かにする訳にもいかん。そこで――』

「そこで、ナデシコの出番っていう訳ですね!」

 手を挙げて、嬉しそうにはしゃぐ愛娘に視線を向けて、コウイチロウはごほんと咳払いをした。

『うむ、まあ、そういう事だ。ユリカ――いや、ミスマル艦長。ナデシコは今より第十三独立支援部隊として第二艦隊と合流し、援軍が到着するまでの間、戦線を維持して貰いたい。分かったかね?』

「はい! 了解しましたお父さ――いえ、ミスマル提督!」

 ユリカは姿勢を正し、軍人の見本のような見事な敬礼をした。

 わざわざ言い直したのは、父と娘としてではなく、軍人としてのけじめを付けるためだという事は、その場に居合わせたクルー達にも察する事が出来た。普段はちゃらんぽらんとしていても、締めるところは締めるのだと見直したのだが、

「それにしても、そのような用件でしたら、単に暗号通信でも宜しかったのでは? わざわざミスマル提督がお越しになる程の事でもないと思いますが……」

 というプロスの疑念に対して、コウイチロウは視線を逸らして、

『あー、いやまあ、少々ナデシコの様子が気になってな――いや、もちろんユリカの顔を見たくなったなどという事は無いぞっ』

「はあ、左様で……」

 呆れたようにプロスが呟く。

 感心して損した、とブリッジ・クルー達は思った。

 


 

 親馬鹿コウイチロウと別れた後、ナデシコは早速受理した命令に従い、指定された合流ポイント――宇宙ステーション・サザンカへと向かった。

 処女航海においては赤道直下から大気圏脱出を図ったが、本来ナデシコは他の戦艦と違って地球内の何処からでも――それこそ地球の遠心力の最も小さい北南極からでも、地球の重力からの離脱が可能だ。

 それはひとえに、空気が真空に近くなればなるほど出力を上げるという相転移エンジンの特性に依るものである。従来の艦船の機関部では出力不足だった反重力推進も、相転移エンジンから得られる膨大なエネルギーにより、初めて運用が可能となったのだ。

 今回は連合軍の防衛ラインに邪魔される事なく、ナデシコは順調に高度を上げていた。

「なんか変な感じよねぇ。前は軍とケンカして無理矢理突破したビック・バリアを、今回はすんなり通してくれるって言うんだから」

 操舵席に座るミナトは、追憶にふけるような口調で呟いた。

「ネルガルは今、軍部とは協調路線をとっておりますからな」

「だが、向こうはこちらに対して良い印象を持っていないだろうな。当然だが」

「そりゃそうよねぇ」

 何しろ、防衛ラインを『軍とケンカして、無理矢理突破』したのだから。

「それにしても、出航直後に命令変更だなんて……軍の方でも状況把握が遅れていたのかな」

「でも、お父様の話だと、第二艦隊が後退したっていう連絡があったのは、1週間くらい前だって事だけど?」

「……場所が悪かったんだろうな」

 黒百合の呟きを聞きとがめて、ユリカが振り向いた。

「え? どういう事ですか黒百合さん」

「何処かの誰かが、完成間近の家の近くに小火が起きたんで、慌てて自分で消しに行こうとしてるんだろうさ」

「家?」

「小火?」

 黒百合はそれ以上は話すつもりはない様で、視線を逸らしてしまった。

 ユリカとジュンが揃って首を傾げる背後で、エリナが黒百合に鋭い視線を向けていた。

 

          ◆

 

「はくしょん!」

「なんだロンゲ、風邪か?」

「いや、誰かが僕の噂をしてるんだろう……って、僕にはアカツキ・ナガレっていう名前があるんだけどな」

「体調管理もパイロットの仕事よ」

「こっち感染さないでね〜」

「ねえ、聞いてる? 僕の話」

「あー、はいはい。で、あんだって?」

「思いっきりぞんざいだね君たち……まあともかく、あの黒ずくめの彼の事を聞きたいんだけどさ」

「黒百合の事か?」

「ああ、そうそう」

「何でだ?」

「何でって……あーんな怪しいカッコしてるんだよ? 気にならない方がおかしくないかい?」

「あ〜まあ、そうだよなぁ……」

 ぼりぼりと頭をかじって、気まずそうにリョーコが呟く。

「実際、彼の正体って謎なのよね……」

「あ、イズミちゃんがマジモードだ」

「パイロットとしての腕は超一流。無手による戦闘力も高く、拳銃・ナイフの扱いにも長けている。しかしその経歴はいっさい不明。本名も不詳……」

「改めて聞くと胡散臭ぇ事この上ねぇな」

「でも、このナデシコの中でもっとも頼りになる人物の一人よ」

「ま、確かにな」

「時々、艦長よりも偉そうだもんねー」

 あっけらかんとヒカルが問題発言をする。

「それは判断力に長けている証拠よ。それはすなわち、私たちの想像もできないような修羅場をくぐり抜けてきたという事。でなければ、あの若さであれほどの冷静さを持ち得るはずがない……」

「でも、時々ものすごく怒るぜ?」

「火星に向かう途中とか? 怖かったもんね〜」

「いまいち、判断基準がよく分からねぇんだよな。火星ん時なんかは、何に対して怒ってんのか分かんなかったし」

「何考えてるのか読み難いよねぇ。あの格好も意味不明だし」

「バイザー掛けてる所為で表情が見えねぇんだよな」

「いつもラピスちゃんと一緒にいるから、ロリコンっていう噂もあったけどねぇ」

「そういや、黒百合って何歳なんだ? 29くらいか?」

「さあ……」

 思い思いの事を口にする三人娘に、アカツキは呆れたように、

「何だか、話だけ聞いてると物凄い不審人物に聞こえるんだけど……そんなのと一緒で、君たちは危機感を持ったりしないのかい?」

「危機感……ねぇ」

 アカツキの言葉に、三人娘は思案するように首を捻った。

「でも、頼りになるしねぇ」

「オレたちが束になってかかっても敵わねぇくらい強いしな」

「少なくとも、戦闘指揮官としては優秀だわ」

 三者三様の返答に、アカツキは苦笑いした。

「なんだかんだ言って、信用してるんだねぇ」

「……そーなるのかな?」

「はん、くだらねぇ」

 首を傾げるヒカルの横で、それまで押し黙っていたヤマダがすっくと立ち上がった。

「……ヤマダ君?」

「さっきから聞いてりゃつまんねぇ事をぐだぐだと……黒百合は俺たちの仲間じゃねぇか。信用するしないもねぇだろうが」

 驚きの表情でヤマダを見上げる四人。

「俺は戦場で、あいつの戦う姿を一番近いところで見てきたんだ。黒百合の奴は、このナデシコを護るために体を張って戦ってた。あいつが怒ったのだって、俺たちが間違った事をしでかしたからだ。今まで一度だって、俺たちを裏切るような事はしてこなかった。

 そんなあいつを、信じられないなんて事があるわけねぇだろ!」

「ヤマダ君……」

 ヒカルが眼をぱちくりとさせて呟くと、ヤマダはくるっと背中を返した。

「それと、俺の名前はダイゴウジ・ガイだっ!」

 そう吐き捨てると、ヤマダは肩を怒らせて格納庫を去っていった。その背中を呆然と見送っていた三人娘だったが、やがてイズミがぼそりと呟いた。

「……ひょっとして、照れてるのかしら」

「あいつがぁ!?」

「そういえば、首筋が真っ赤だったような……」

 お互いに顔を見合わせて、

「「「…………ぷっ」」」

 笑い合う三人娘に挟まれて、アカツキだけは思案顔で視線を彷徨わせていた。

 


 

 宇宙ステーション・サザンカは、ナデシコが火星へ向かう際に寄港したサツキミドリ2号と同じく、ネルガルの所有する宇宙ステーションである。

 現在、そのサザンカではナデシコ級2番艦コスモスが建造中だった。

 ND−002 コスモス。史上初の多連装式グラビティ・ブラストを装備し、またドック艦としての機能も併せ持っている。ナデシコ級第2番艦と銘打たれてはいるが、その実体は全くの別物で、機動航宙母艦とでも言うべき代物だった。地球の重力下では建造が難しく、重力緩衝地帯に存在するサザンカ内の大型ドックにて建造が進められていた。

 もちろん、その存在は連合軍も承認し、その性能から来るべき第四次月攻略戦の要として、その竣工が待たれていた。

 が、その竣工の目処が立ったこの時期になって、この侵攻騒ぎである。先の黒百合の台詞を肯定するようで面白くないが、その報を聞いたときは会長もろとも青くなったものだ。

 その時の情景を思い出して、ネルガル重工会長秘書兼ナデシコ副操舵士エリナ・キンジョウ・ウォンはそっと溜め息をついた。

 いま、ナデシコはその宇宙ステーション・サザンカに向かっている。地球を出てから半日あまり……標準時刻で言えばまだ夜半過ぎではあるのだが、ナデシコ・クルーたちは早々に就寝してしまった。

 宇宙圏で採用されている標準時刻と、今までナデシコの駐在していたヨコスカ・シティとは8時間あまりも時差があるためである。これから宇宙圏での生活を強いられるクルーたちとしては、いち早く体内時間を修正しなければならなかった。

 普段であれば整備班などは夜勤のクルーもいるのだが、今日ばかりは最低限の人数が休憩室に泊まり、非常時に備えているのみである。

 エリナがこの時間まで起きていたのには深い意味はない。強いて言えばいつもの習慣である。会長秘書としての多忙な日々を送ってきた彼女としては、就寝時間などは3時間で充分だった。寝静まった艦内を巡回するように歩いているのも、不心得にも夜更かしをしているクルーがいないかどうか、自発的に確認して回る為だった。

 もちろん、そんな業務は副操舵士の仕事ではない。整備班の一部からは早くも『ナデシコの風紀委員長』などと陰口を叩かれているのだが、その表現は図らずも的を得ていると言えた。

 ブリッジから始まって生活区、居住区を見て回ったエリナは、最後に格納庫へと降りてきた。

 整備班が休んでいる今となっては、格納庫内は無人のはずだったが、エステバリスのハンガーの前に佇む人影があった。

「――?」

 ハンガー・デッキは消灯されており、通路用の電灯だけの僅かな明かりに照らされて、その人物はある機体を見上げてまんじりともせず立ち尽くしていた。

 その人物が誰かを認めて――エリナは思わず息を潜めた。

 

          ◆

 

 黒百合は静かにその機体を見上げていた。

 格納庫のハンガーに吊された、通常のエステバリスよりも一回り大きな漆黒の機体。

 APC−002 エステバリス・パーソナルズ・カスタム。

 この機体を見たとき、稲妻に打たれたような衝撃が黒百合を襲った。

 黒百合の専用機を作る――その話自体は、ネルガルでエステのテスト・パイロットをしていた頃に持ち上がっていた。その際に参考にということで、機体に対する要望も上げた事はあった。だが、外観に対しては何の注文も付けてはいなかった。

 なのに――今、目の前にあるこの機体に、黒百合は見覚えがあった。

 もちろん、詳細な部分では黒百合の記憶と違う部分も多い。例えば、全体的なスケールの大きさであったり、脚部の構造の違いであったり、細かく挙げればきりがない。

 だが、その全体的なフォルムは、黒百合の『以前』の乗機であった、ブラックサレナを彷彿とさせる。

 可動式ノズルを内蔵したショルダー・バインター、堕天使の翼を思わせる背中のウィング・バインダー。

 かつてのブラックサレナはエステバリスを覆う追加装甲であったが、この機体はワン・フレームで構成されており、その分全体のボリュームは少なく、よりスレンダーなフォルムを形成している。脚部は汎用性を意識してか、走行用のキャタピラが装備されていた。

 このように、相違点はあれど、この機体はまさしくブラックサレナだった。ウリバタケに名称が未決定だと聞かされた際も、迷わずその名前を口にしていた。他に付けようがなかったからだ。

(まさか、この世界に来てまで、この機体に乗る事になるとはな……)

 黒百合は自嘲して心の中で呟いた。

 過去とは完全に決別した――とは言わないまでも、過去は過去として、これからは未来のために邁進する覚悟を決めていたはずだ。だが、この機体を見たとき、未だ自分は過去に縛り付けられているのだと気付いた。

 いや、とっくの昔から気付いていたのかも知れない。ただ、気付かない振りをしていただけだ。ナデシコに乗り、かつての緩やかな空気に触れ、ラピスやセレスと共に過ごす事で、過去を忘れていた気になっていたのだ。

 その証拠に、この機体を見上げていると、己の胸の裡から溢れんばかりに黒い衝動が吹き出してくるのを感じる。

 かつて復讐鬼だった頃の憎悪、怨念。そして執念。それは確実に黒百合の血肉となって生き続けていた。

 ……今でも、鮮明に思い出す。

 新婚旅行のシャトルにて拉致されるユリカ。何も出来なかった無力な自分。嗤う北辰。

 人体実験の日々。コールド・スリープされたユリカ。死んでいく火星出身者たち。嬉々として実験を行う研究員たち。

 そして、味覚を失った事に気付いたときの、絶望……!

 ドクン。

 鼓動が高鳴る。堪えがたい衝動が体中を駆けめぐる。制御不可能な闇が裡より吹き出さんとした、その時。

「……黒百合さん?」

 不意に背後から、掛けられる声があった。

 

 

「――!?」

 黒百合が振り向いた瞬間、イツキは心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。びくん、と身を竦ませ、無意識の内に後ずさる。

 振り向いた黒百合の双眸が、バイザー越しながらも異様な光を放っていた。研ぎ澄まされた刃物を思わせる鋭い眼光。

 が、次の瞬間にはその異様な圧力も霧散した。

「……イツキか」

 黒百合が平静に言ってくる。放たれていた殺気も、今はもう微塵も感じられない。先程の事がイツキの錯覚だったかと思ってしまう程だ。

 だが、彼女の背を伝う冷たい汗が、それは幻で無い事を証明している。

「く、黒百合さん」

「どうしたイツキ。こんなところで。もう寝たんじゃなかったのか」

「あ――あ、いえ、ちょっとエステの事で整備班の人と話していたんですが。休憩室で休んでいたらうたた寝をしてしまっていたようで、気がついたらこんな時間に……」

「そうか」

「あの……黒百合さんはどうして?」

 おずおずと、イツキが切り出した。

「俺か? 俺は、この機体を見ていた」

 視線で目の前にある機体を差す黒百合。イツキもつられて、ブラックサレナを見上げた。

「黒百合さんの新型機ですか」

「ああ。少々思うところがあってな」

「そうですか。そう言えば、黒百合さんだけ新型が支給されて、リョーコさんが文句言ってましたっけ」

「彼女も一流のパイロットだからな。一人だけ特別扱いは面白くないだろう」

「あ、いえ、そう言う事じゃないみたいでしたけど」

 クスリと笑う。

『黒百合だけ新型に乗ったら、ますますオレらが足を引っ張っちまうじゃねぇか。どうせならオレたちの機体も新調して欲しいぜ』

 そう、リョーコは言ったのだ。イツキとしては詳しく説明するつもりはなかったが。

「そうか?」

「ええ。でも、リョーコさんがナデシコに乗ったのも、新型のエステバリスに乗れるっていうのも理由のひとつだったみたいですから、それもあるかも知れませんが」

「ナデシコに乗った理由……か」

 そう呟く黒百合の声音は、普段と違う響きを帯びていた。その心中で何を思っているか、イツキには窺い知る事は出来ない。そのバイザーで隠されている表情のように。

「そ……そういえば黒百合さん。ちょっと気になる噂を聞いたんですが……あ、いえ、気になるって言うか、私がじゃなくて、その、皆さんが気にしてるんですけど!」

「ん?」

「その……黒百合さんが、ラピスさんと結婚しているっていう……う、噂ですよ、噂! もちろん私はそんな事無いと思うんですけど、皆さんが色々言っていて……」

 しどろもどろに弁明するイツキに、黒百合は冷めた声で、

「まあ、誰が言い出したのか大体見当がつくが……一応言っておくが、俺は誰とも結婚した事はないぞ」

「そ、そうですか。そうですよね!」

「婚約した事はあるがな」

「……ええっ!」

「…………冗談だ」

 驚きに身を固めたイツキは、続く黒百合のその言葉に、へなへなと脱力した。

「……黒百合さんの冗談って、あまり笑えません」

「そうか。以後気を付ける。

 だがまあ真面目な話、今はそんな色恋にかまけている余裕は俺にはないからな。このナデシコで、やらねばならない事がある」

「そ…う、ですか。あの……黒百合さんは、どうしてナデシコに?」

 やや躊躇いながらも、意を決してイツキは以前からの疑念を切り出した。いままでは、何とはなしに訊くのが憚れて、言い出す事が出来なかったのだ。

 問い掛けられた黒百合は、最初は何の反応もせずにブラックサレナを見上げているだけだった。問い掛けたイツキも、続けて何も言えずに押し黙ってしまう。

 格納庫内はしばしの静寂に包まれる。

 その沈黙をうち破ったのは黒百合の呟きだった。

「……俺がナデシコに乗った理由、か……」

 視線は動かさぬまま、黒百合は続ける。バイザーの向こうの瞳は、目の前の機動兵器ではなく、何処か遠くを見つめてるように見えた。

「最初は……そうだな。失ったものを取り戻すためだった。俺がかつて手にしていた……手にしかけていたものを、もう1度、この手に掴むために……」

「それは……」

 イツキの脳裏に、火星でイネスたちを助けた直後、黒百合が話していた言葉がよぎる。

 『俺は味覚をはじめとする五感のほとんどを失った』――

 だが、黒百合の語っている事はそれとは違うように思える。

「だが、最近になってそれはもう無理だという事に気付いた」

「え?」

 淡々とした口調で話す黒百合に、思わずイツキは問い返した。

「かつてと同じものを取り戻す事は叶わない。仮に同じ様な状況を作り出せたとしても、それは似て非なるもの――俺の知るものとは、違う。

 手の平からこぼれ落ちた雫は、もうこの手には戻らない。

 そう、気付いた。だから俺は――」

「……」

「俺は――」

 ヴィー! ヴィー! ヴィー!

 その時、格納庫内にけたたましいアラームが響き渡った。

「警報!?」

「どうやら、何かあったらしいな。イツキ、俺たちは状況が分かるまでエステバリスで待機する」

「あ……はい!」

 格納庫に電灯が灯り、整備班たちが昇降口から飛び出してくる。

 イツキはまだ黒百合に尋ねたい事があったが、今はそんな事態ではないと自制して、自分のエステバリスのかかっているハンガーへと駆けていった。

 黒百合もブラックサレナに乗り込もうとタラップに足を掛けてところで、

 ズキン……

「ぐ……っ!」

 胸を差す激痛に、その動きを止めた。

 タラップの手すりを握りしめ、ひたすらその痛みに堪える。

「こんな……時に……!」

 絞り出したような呻きを漏らす黒百合。その表情は苦悶に歪み、その肌にはナノマシンの輝線が浮かび上がっていた。

 

          ◆

 

 エリナは、格納庫の入り口の陰に隠れて、黒百合とイツキの話を聞いていた。盗み聞きするつもりはなかったのだが、出ていく機会を逸してしまったのだ。

 アラームが鳴り響き、格納庫内が俄に慌ただしくなった後も、しばしの間エリナは動けずにいた。黒百合の喋っていた話の内容を反芻していたのである。

 『失ったものを取り戻すため』、黒百合は確かにそう言った。

 だが――

『俺には……かつて大切な者達がいた。夢があった。平穏な日々があった。だがそれを、奴らが引き裂いた。奴らは俺から夢を、希望を、全てを奪った』

『だから、俺は奴らを憎む。人の身体を掻き回し、理屈で固めて人体実験を正当化する奴らを憎む。殺す。それが、俺の存在意義だ』

『俺は……復讐者だ』

 かつて、黒百合はこう言っていた。深淵の闇を思わせる暗い翳を漂わせて。

「……貴方は、何を望んでいると言うの、黒百合――」

 その問い掛けは、黒百合の耳には届かずに、格納庫の喧噪の中に消えた。

 

 


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