今更述べるまでもないが、宇宙ステーション・サザンカはサツキミドリ2号と同じく、ネルガル所有のコロニーである。その構造も類似しており、小惑星の表面部と内部に施設が設けられていた。違う点といえば、サザンカの方が造船ドックが多いという事が挙げられる程度だろうか。
社用施設とはいえ、この戦時下に於いて宇宙空間に居を構えているからには、それなりの武装が施されている。何より、サザンカ内ではコスモスを始めとする軍用艦艇や機動兵器の製造・開発が行われているのだ。間違ってもここを木星蜥蜴に落とされる訳にはいかず、宇宙軍の方でも警備に戦力を割いていた。
ナデシコとシクラメンは、それぞれ第三、第四ドックに入港し、ネルガルのスタッフによるシステム・チェックが入る事になっている。
ナデシコは、改修後初めての戦闘で問題が起きていないかを確認する為だが、シクラメンの方はまた事情が異なる。
シクラメンは、ナデシコ・シリーズ以外ではネルガル初の相転移機関搭載型の新造艦であるため、問題点を洗い出す必要があったのだ。
ネルガルから宇宙軍に進呈された形になるシクラメンだが、竣工したのはほんの2ヶ月ほど前である。ネルガルが宇宙軍との関係を修繕するために提供した訳だが、あまりのタイミングの良さに、ネルガルが新造艦を売り込む為に計算ずくでナデシコを火星へ向かわせたのではないか、という疑念が軍部内でも囁かれた。
だが実際に使っている本人達にすれば、性能さえ良ければ入手経緯など問題ではなく、シクラメンと一緒に付いてきた量産型エステバリスやアルメリア等の新型機動兵器も併せて、有効に使っているのだった。
実際、ネルガル側としては、ナデシコを火星に向かわせたのはデモンストレーションも兼ねていた訳で、囁かれている噂も的外れではない。シクラメンを宇宙軍に提供したのも、次期主力艦のトライアルを見越しての事で、上手くすれば宇宙軍へのシェアが大幅に拡大する事になる。
現在のところ、相転移技術はネルガルの独占状態にあり、そのアドバンテージを活かさない手はなかった。
「宇宙軍のシェア拡大に関しては、今のところ順調に進んでるわね」
「そうだね。月の防衛ラインが後退したって聞いた時は流石に焦ったけど。コスモスごとサザンカを落とされでもしたら事だったからねぇ」
「幸いにして、宇宙軍が頑張ってくれましたからな。いやいや、助かりました」
「ネルガルがあれだけ支援してるんだもの。社用施設のひとつくらい守って当然よ」
「ま、クリムゾンも明日香も、まだ相転移エンジンの開発には至ってないみたいだし、次のトライアルは貰ったかな」
椅子の背もたれに身体を預けて、余裕の笑みを浮かべてアカツキが宣言する。
管制システムから切り離された、サザンカの会議室である。この部屋内で話された事は何の記録媒体にも残らないし、外に漏れる事もない。ネルガル首脳陣の悪巧みにはもってこいの部屋だった。
「でも、ひとつだけ全く進展してない事があるわよ」
アカツキに対抗するわけではないだろうが、エリナは不満げな表情で反論する。
「ボソンジャンプの事かい?」
「そうよ。忘れてる訳じゃないでしょう?」
「まあねぇ。ドクター・フレサンジュを救出したといっても、肝心の遺跡の方は回収出来ずじまいだからねぇ。
ああっと、プロス君を責めてる訳じゃないよ。報告書は読ませて貰ったさ。チューリップ5機の守りを突き崩すには、確かにナデシコ単機じゃ無理ってもんさ。あの時の判断は的確だよ」
「恐れ入ります」
「じゃあ結局、当初の計画通りに、ナデシコ・シリーズの竣工を待たないといけないわね」
「ま、火星遠征はドクターを連れて帰れただけでもめっけもんさ。最悪、火星の大地に果てていたかもしれないんだしねぇ」
はははは、とアカツキは笑うが、実は笑い事ではない。実際に果てる寸前まで行ったのだ。あの時、黒百合がいなければ、ナデシコは間違いなく火星の土塊と化していた事だろう。
「それについては、黒百合さんの力が大きいですな」
「まったくだねぇ。エリナ君も、彼氏が面目躍如して鼻が高いでしょ」
「誰が彼氏よ!」
「冗談冗談。でも、あまり喜んでもいられないかな」
髪を掻き上げ、ごく自然な口調で言うアカツキ。半秒ほど遅れて、エリナはその言葉に秘められている意味に気付いた。
「……どういう事?」
他に誰も聞いてないと分かってはいても、つい声を潜めてしまう。
「いや、ね。黒百合君の目的は未だに分からずじまいだけど、諏訪人類遺伝子研究所を襲った件から見ても、マシンチャイルドの軍事利用には賛成してくれそうにはないだろ? だとすると、ナデシコ・フリート構想にも異を唱えてくるかも知れない」
ナデシコ・フリート構想は、火星の遺跡を基として開発されたオモイカネ・シリーズのスーパーA.I.と、ネルガルが所有する希少なマシンチャイルドの能力を合算した、新しい艦船建造計画の総称である。
ナデシコ級一番艦・機動戦艦ナデシコ。二番艦・機動航宙母艦コスモス。三番艦・強襲揚陸艦カキツバタ。四番艦・重砲撃艦シャクヤク。
いずれも、相転移エンジンとディストーション・フィールド、そしてオモイカネ・シリーズを搭載し、1艦につき一人以上のマシンチャイルドが搭乗する計画になっている。
「それに、マシンチャイルドたちの方も、彼には比較的懐いてるんだろ? だとすると、思考的に彼に染まる恐れがある。彼女たちが非協力的になるのは、ネルガルとしては非常に拙い」
「それはそうだけど……っ!」
そこまで言いさして、エリナははっと気付いた。
「じゃあ、オプシィやカーネがサザンカに合流するのを中止したのは、その為に……?」
当初、コスモスに搭載しているスーバーA.I.・ニニギの調整のため、オプシィ・ディアンとカーネ・リアンの二人のマシンチャイルドが、ナデシコが到着する以前からこのサザンカに入来する手筈になっていた。だが、アカツキの判断により、二人がコスモスに入るのは、竣工の3週間前へと変更になったのだ。
ナデシコのデータから判断して、その程度の時間で妥当であり、それまでは孤児院から切り離すべきではない、という説明を聞いて、その場ではエリナも納得したのだ。ただ、ニニギとの邂逅や、今や彼女たちの養父となった黒百合との再会を待ち望んでいた二人からは抗議の声が上がり、ぐずる彼女たちを宥めるのにエリナがえらく手間を食ったものだった。
「そうゆう事。保険は幾らでも掛けておくべきだよエリナ君」
非難の籠もった視線を向けられても、アカツキに悪びれた様子はなかった。ずい、と身を乗り出して、
「それにね、ボソンジャンプの件だけど、もしかしたら黒百合君に頼らなくても、その謎を解き明かす事が出来るかも知れない」
「……どういう事?」
「この間ね、食事中に声を掛けたら、ナデシコ食堂の娘と仲良くなったんだ。この娘がまた話好きでねぇ、食事の時間が長くなっちゃってしょうがないんだけどね」
「あ〜ら、そう。相変わらずお盛んな事ね」
「まあ聞きなって。それで、気になる話を聞いたんだ。あの、唯一の男のコックの彼――テンカワ君だっけ? プロス君が出航直前にスカウトしたっていう」
「はい、左様で」
「テンカワって名前、聞き覚えがないかい?」
「はて、私にはとんと……」
「……テンカワ――テンカワ? って、もしかして、火星でボソンジャンプ研究をしていたテンカワ博士?」
エリナの答えに、アカツキはにんまりと笑った。
「僕もそう思ってね。調べてみたら、ビンゴだったよ。彼はあのテンカワ博士の息子さ」
「そんな人物が、どうしてナデシコに? まさか――両親の復讐じゃないでしょうね」
「いやいや、ちょっと観察すれば分かるけど、彼はそんな事ができる奴じゃないよ。彼がナデシコに乗ったのは、ほんの偶然だったんだ。だよね? プロス君」
アカツキが水を向けると、プロスは普段通りの笑みで答えた。
「……はい。テンカワさんは、道中ですれ違ったミスマル艦長を追って、ナデシコに乗り込んで来まして……事情を聞いたのですが、ちょうど勤めていた食堂を辞職された所だという事でして。ナデシコ食堂も人手不足でしたので、その場でスカウトしたのです」
「ま、そういう事らしい。でもまあ、今は別に彼の出生はどうでもいいんだ」
「どうでも良くはないでしょう」
「ともかく、今は置いといてよ。で、さっきのナデシコ食堂の娘に聞いた話なんだけどね。どうやら彼、第一次火星会戦の折りに、火星にいたらしいんだ」
「ええ? でも、火星にいた民間人は……」
「そう。あの当時火星にいた民間人は、スノー・ドロップ号で帰還した人たち以外はいない。でも、彼は今ここにいる。パラドクスだろう? 彼は、気が付いたら地球のサセボにいたと言っているらしい」
「それって……」
「そう。似てるよねぇ、状況が。こっちの線を追っていけば、ボソンジャンプの謎に辿り着けるかも知れない。恐らく、黒百合君の協力を引き出すよりは容易なはずだよ。こちらの思惑にも乗せやすいだろうしね」
「それは確かに……」
現状で黒百合を持て余しているエリナである。その意見には頷けるものがあった。
口元に手を当てて考え込むエリナに、アカツキはさらに語を継いだ。
「もしそうなら……ネルガルとしては、黒百合君に協力するメリットは、もうほとんど無いんだよねぇ……」
その言葉に、最初エリナは反応しなかった。その意味が脳裏に浸透すると、驚愕に目を見開いて、このネルガル会長を振り返った。
「黒百合を切り捨てるって言うの!?」
「だってねぇ。ナデシコは事実上、実験艦としての当初の役割は終えているし、いずれは軍に引き渡す予定だ。聞くところによると彼はナデシコに何故か執着しているようだけど、その際に悶着があるかも知れない。彼の性格からして、その可能性は高いと思うよ。
何より、部外者がマシンチャイルドに対する影響力が高いのは戴けないな。それに彼がいなくなれば、ラピス・ラズリという強力なカードをこちらに引き入れる事が出来る」
「ラピスさんが黒百合さんから離れる事は、およそ考えられないと思いますが……」
「そうなんだよねぇ。だからネルガルとしては、黒百合君が木星蜥蜴の戦闘で死亡、もしくは不慮の事故で死んでしまう、というシナリオが一番都合が良いんだよね。彼の死を糧としてナデシコの志気は高まり、彼の意志を継ぐためにラピス君はナデシコに留まる……そんなところかな。エリナ君はどう思う?」
「ど……どう思うって……」
問い掛けられて、エリナは絶句した。アカツキはこの場で、シークレット・サービスによる黒百合の暗殺を視野に入れている、と放言しているのだ。
いつもの飄々とした態度を崩さず、朝食のメニューを注文するかのような気軽さで冷酷な事を言い放つアカツキに、エリナは言い知れぬ恐怖を抱いた。まるで人外の怪物と対峙しているかのような。
エリナは、自分がほんの半年ほど前までは、むしろアカツキと同じ思考をとっていたであろうという事に気付いていない。彼女の心境の変化については、本人よりも周囲の方が敏感だった。
結局エリナは、アカツキの言を是とした。情を捨て去れば、企業として当然の姿勢だと思えたからだ。だが心中に、苦々しいものが蟠るのを抑えられず、話も半ばでエリナは席を辞した。
彼女は知らない。自分が会議室から退室したのち、アカツキとプロスの間でこのような会話が交わされた事を。
「何だかエリナ君も、随分と可愛らしくなっちゃったねぇ。マシンチャイルドの娘と接していた影響かな」
「会長はご不満ですかな?」
「まさか。女性がより魅力的になるのを、忌諱した事は無いよ、僕はね」
そう言ったアカツキの顔は、良く言っても悪戯好きの悪童の表情だった。
機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE
第38話
「人が、人を想う」
「暇だね〜」
ユリカはブリッジの艦長席のコンソールにべたっと寝そべった姿勢で、誰にともなく呟いた。
「艦長、前にもそんな事言ってましたけど」
「だって〜、ホントにする事ないんだもん〜」
駄々をこねる子供のように、コンソールの上をごろごろと転がるユリカ。どう贔屓目に見ても、士官学校を主席で卒業した才媛――どころか、20歳の成人女性にすら見えない。
ナデシコが宇宙ステーション・サザンカを出航してから、既に2週間が過ぎていた。
サザンカから第二艦隊との合流地点に向かったナデシコとシクラメンだったが、そこで待っていたのは、第二艦隊司令官の仏頂面だった。
司令官のナデシコに対する態度は、宇宙軍の多数派に属していた。つまり、非協力的で、猜疑心に満ちた眼をこちらに向けていた。それは、ユリカと直接会話をしてからさらに強くなったらしく、ナデシコが特務に就くのをあからさまに疑問視している態度が見え見えだった。
とはいえ、命令そのものは総司令部の正式なものだったので、無視する訳にもいかない。かといって艦隊に引き入れたままでは統率を乱すと考えたらしく、ナデシコにある程度の自由行動を許し、シクラメンと共に哨戒任務を与えて放り出してしまった。
体よく厄介払いされた形のナデシコとシクラメンだったが、本人達は全く気にしておらず、むしろ軍隊の軛から脱せられて清々しているようだった。元々民間人で固められているナデシコはともかく、とばっちりを喰ったシクラメンは正式な軍艦のはずなのだが、やはり軍としては異色の存在だと言えるだろう。
哨戒任務といってもこの時期、木星蜥蜴は月宙域以外では形を潜めており、ナデシコとしては月−地球間の宙域を回遊するだけの、暇な時間を過ごしていた。
「何か起こらないかな〜。木星蜥蜴さんが襲撃してくるとか」
「周囲半径100q圏内に、木星蜥蜴の機影は存在しません。不謹慎ですよ、艦長」
「……ごめんなさ〜い」
11歳の少女に叱られて、項垂れる20歳の成人女性。
ユリカはなおもコンソールの上をごろごろしていたが、やがてそれにも飽きたのか、すっくと身を起こして、
「う〜……うん、アキトのところに行こっと♪」
言うが早いか、跳ねるようにブリッジを出て行った。
「……艦長、それ、前もやりました」
ルリがぼそっと呟くが、ブリッジのドアに跳ね返されて、ユリカには届かなかった。
一人ブリッジに残されたルリは溜め息をついた後、オモイカネのウィンドウを開いた。そこに映る銅鐸のマークに、静かな声で問い掛ける。
「……オモイカネ、私は誰?」
◆
昼も近い時間であり、アキトは相変わらずナデシコ食堂の厨房で、下拵えに忙しかった。
今もキャベツを千切りにして、冷水に浸しているところに、もはや聞き慣れた脳天気な声が響いてきた。
「ア〜キ〜トっ!」
「げ」
「やっほ〜」
カウンター越しにぶんぶんと手を振っているユリカの姿を認めて、アキトはがっくりと項垂れた。が、すぐにばっと顔を起こして、
「ユリカ! お前なぁ、仕事中に来るなって言ってるだろ!?」
「え〜、だって暇だったんだもん」
「理由になるかっ! それにお前、またルリちゃんに仕事押しつけて来たんじゃ無いだろうな!?」
「ぎく。そ、そんなこと無いよぉ〜。やだなぁアキトってば」
「ぎくってのは何だよぎくってのは」
「だ、だって、ルリちゃんなら安心して任せられるし……」
「お前なぁ。いくら優秀でも、ルリちゃんはまだ11歳の女の子なんだぞ? もう二十歳も過ぎたお前が仕事押しつけて、恥ずかしくないのか!?」
「う〜、だってだって、アキトに会いたかったんだもん。アキトはユリカに会いたくないのぉ?」
「そ、そういう問題じゃないだろ」
瞳をウルウルとさせるユリカに、アキトは語気を弱らせた。形勢不利と見たか、それまで静観していたサユリが横から割り入ってきた。
「艦長、いつも言いますけど、アキトさんの仕事の邪魔しないでください」
「え〜、邪魔なんかしてないよ」
「そんな事言って、前にアキトさんに怪我させたの、忘れたんですか!?」
「う……」
腰に手を当てて仁王立ちするサユリに押され気味のユリカは、戦況を立て直すために打開策を投じた。アキトに向けて訴えかけるような視線を注ぐ。
怯えた小動物のような瞳を向けられて、アキトはユリカをフォローしようと声を出し掛けるが、サユリにぎろっとひと睨みされてそそくさと厨房に逃げ込んだ。アキト、弱し。
ちなみに他のホウメイ・ガールズやウツホ達はというと、中華鍋など頭に乗せて、安全な場所から野次馬している。
サユリがさらに言葉を継ごうと息を吸い込んだところで、食堂の入り口のドアが開いて、リョーコ達パイロット三人娘が入って来た。先頭のヒカルが食堂に入って状況を確認するなり、眼鏡の向こうにある大きめの瞳をキラキラとさせながら、期待に満ちた声で訊いてきた。
「なになに、痴話喧嘩?」
「違います!」
たまらず叫ぶサユリ。頃合いとばかりに、ホウメイが呆れを含んだ声で、
「ほらサユリ、そこら辺にしときな。手がお留守になってるよ。
艦長も、上のモンがあんまりだらけてると、下への示しがつかないだろ? テンカワに構うのも、ほどほどにしときなよ」
『肝っ玉女将さん』ことホウメイに諭されて、サユリとユリカは揃って項垂れた。
「……はい」
「すいませんでした……」
「まったく。テンカワ、あんたがしっかりしてれば、こんな事にはならないんだろうけどねぇ……」
「は、はあ……」
生返事をするアキトに、ホウメイは溜め息をついた。
「ほらほら、テンカワもサユリも持ち場に戻んな。艦長はさっさと注文しとくれ。どうせもう昼も近いんだ。それを食べたらブリッジに戻る。いいね」
「「「はーい」」」
その返事に頷いて、ホウメイはリョーコ達に向き直った。
「それで、あんた達は何にするんだい?」
◆
「今日はセレ坊は一緒じゃないのかい?」
「セレスティンなら、今はミナトと一緒に遊んでいるはずです」
「そうかい」
それぞれのオーダーをこなし終えて、ホウメイが黒百合と会話を交わしている。黒百合は、ホウメイにだけは敬語で話すのだ。その隣では、ラピスが額に汗を流しながら、黙々とラーメンを啜っている。
そんな様子を、イツキは少し離れた席から窺っていた。
あれ以来、黒百合との間にまともな会話は交わされていない。その原因は主に彼女の方にあった。黒百合は普段通りにしているのだが、イツキの方で彼を避けてしまっている。ここ1週間ずっとだ。先程のパイロット同士のシミュレーター訓練でも、黒百合と組むと動きがぎこちなくなってしまい、真っ先に撃墜されてしまった。
未だに、医務室での黒百合の話が、イツキの心を掻き乱していた。このまま黒百合と向き合ったら、感情の侭何をしてしまうか分からなかった。
ただ現実を認めるのが怖いだけだ、という事も分かる程度には落ち着いている。だが、それ以上はどうしようもなかった。今も、心とは裏腹に、視線はずっと黒百合を追っている。
レーションを摂っていた黒百合がこちらを振り向くと、イツキは慌てて視線を逸らせてしまった。黒百合は何も言わずに、逆隣のラピスに視線を戻す。
「……なにかあったのかなぁ?」
「オレが知るかよ」
リョーコ達も黒百合とイツキの間にある不和には気付いていたが、何ら有効な手を打つ事が出来なかった。リョーコは性格的に、ぎくしゃくした人間関係は苦手だったが、年長者二人の事なので、差し出口を挟む訳にもいかない。それはヒカルも同様であり、イズミに至っては何を考えているか定かではない。
パイロット男性陣ではヤマダは論外として、こういった事に強そうなアカツキは、面白そうに成り行きを見守っているだけだった。
とはいえ、それほど深刻な問題にもならないだろうとも思っていた。イツキも分別ある大人であるし、仕事に私情を挟むような性格ではない。
事態の深刻さを理解していないからこそ、そう考える事が出来たのだと、彼女たちはその時に至るまで気付かなかった。
ともかく、その場ではイツキが少々挙動不審にしている以外、いつも通りの日常が営まれていた。だが、ナデシコにとっての日常とは、基本的に『お祭り騒ぎ』である。
その日、ナデシコ史上1,2を争う騒動の火種を持ち込んだのは、今までそういった話に縁の無かった黒百合だった。ふと思い出したように、ホウメイに尋ねる。
「そう言えば今日は何日です?」
「ん? 27日だけど?」
「そうですか。……もうしばらくだな」
「もうしばらくって、何がですか? 作戦開始にはまだ1ヶ月ほどありますよね?」
黒百合の呟きを聞きとがめたユリカが訪ねる。
「ああ、誕生日がな」
「誕生日? 黒百合さんの?」
「俺自身の誕生日なぞ指折り数えんさ。ルリちゃんのだよ」
「へぇ。ルリちゃんの……」
感心したように頷いて、ユリカは食べかけのスパゲッティをくわえた。皆の食事を摂る音だけがナデシコ食堂に響く。そしてきっかり5秒後、
「「「「「「「「「「「……ええっ!?」」」」」」」」」」」
その場にいるほとんどの者が驚愕の声を上げて黒百合を振り返った。
「……反応が遅いぞ」
「る、ルリちゃんの誕生日って、ホントですか!?」
「ああ」
「何時!?」
「7月7日だな」
「そんな……あと10日しかないじゃないですか! 黒百合さん、何をそんなに落ち着いてるんですか!?」
「俺には、艦長が何をそんなに慌てているのかが分からんが」
「だ、だって……」
「誕生日といっても、特別なにか出来る訳でもないだろう。任務中でもあるしな」
「そんな訳にはいきません! 誕生日っていったら、ルリちゃんくらいの年頃では重要なイベントのはずです!」
「そうだ! 良く言った艦長!」
「あ、ウリピー。何時の間に」
「ちょうど今昼飯を摂りに来た所よ! ルリルリの誕生日と聞いて、ルリルリ・ファン・クラブ会長の俺様が黙っているワケにゃあいかねぇ! よーし、会場作りは俺に任せな!」
「ファン・クラブって……そんなモン作ってたのかよ?」
リョーコの素朴な疑問は、いきり立つウリバタケには届かなかった。
「じゃあ、プレゼントを用意して……」
「なら、ルリちゃんにはその日まで内緒にして、驚かせるってのは?」
「そのアイデア頂き!」
盛り上がる人垣から離れて、黙々と食事を続ける黒百合に、ホウメイが小さな声で、
「……上手く誘導したね?」
「何の事です?」
「……まあ、そういう事にしといたげるよ」
肩をすくめるホウメイに微苦笑を返す黒百合を、ラピスは不思議そうに見つめていた。
このような経緯で、『内緒で誕生日を開いてルリちゃんをビックリさせよう!作戦(ユリカ命名)』は決定された。
作戦決行までに残された時間は少ない。さらには、本人に気取られない隠密性が何よりも重要であり、全クルーは細心の注意を払わなければならなかった。オモイカネに対してはラピスが説得に当たり、彼(?)の協力を取り付ける事が出来た。
問題になったのはプレゼントである。誕生日であるからには、バースデー・プレゼントは欠かせない。ルリにとっては初めてのバースデー・パーティーであろうと聞かされればなおさらだ。
だが何しろ、曲がりなりにも作戦行動中の事ではある。1週間後には補給を受ける予定にはなっているものの、補給品目はあくまで最低限。普通の戦場で、貴金属やら女性用の服やらの需要がある筈もない。
食事はホウメイたちナデシコ食堂のコックの腕で何とかなるものの、プレゼントとなると打つ手がなかった。
それでも出来る事はあったかも知れないが、残り10日という短い期間では何も出来なかった。せめて、サザンカを発つ前に分かっていれば……と、皆が悔恨の声を上げた。
結局、クルー達の寄せ書きを添えたバースデー・カードと、特製ケーキを贈る事に決定し、それぞれのクルーはXデーに向けて、余興の準備に余念がなかった。
その話は、何故か時々ナデシコに食事を摂りにやってくるクロウ達を経てシクラメンのクルーにも伝わり、多数の参加希望者が出た。
だが、シクラメンを空にする訳にもいかず、また警戒態勢を解く訳にもいかない。普段交流のあるクロウたち四人のほか、十名程度が参加するに留まった。その参加権を巡って、シクラメン内では血で血を洗う抗争が巻き起こったと言うが、真偽の程は定かではない。
一方、ルリ本人はといえば、水面下でそんな動きがあるとは露知らず、普段通りに過ごしていた。この辺りは、オモイカネの協力による情報封鎖が功を奏している。
だが、どことなく浮ついているクルー達を不審には思っていた。ユリカなど、ルリに直接プレゼントの希望を訊こうとして、傍らにいたアキトやミナトらに慌てて口を塞がれたりと、かなり挙動不審が目立っていたのだが、普段の奇行が幸いしてか、最悪の事態には至らなかった。
彼女自身は、自分の誕生日の事など思案の埒外にあったので、それを祝うべくクルー達が画策しているなど、想像だにしていなかったのだ。
そんな、ナデシコ全体がそわそわとしている雰囲気の中、イツキはそれとは正反対の、沈み込んだ気分を引きずっていた。
◆
その日、黒百合の経過について尋ねるために医務室を訪れたイツキは、疲れ果てた表情のイネスに迎えられた。彼女は酷く憔悴しており、長いブロンドの髪も手入れを欠いてぼさぼさで、目の下には大きな隈が出来ている。せっかくの美貌が台無しだ。
「ど、どうしたんですかイネスさん」
「ああ、気にしないで。ちょっと徹夜が続いているだけだから」
そんな事を言われても、今すぐにでも倒れそうなほどフラフラしていて、気にならないはずがない。
どうやら、黒百合を治療する術を探すために、相当根を詰めているらしい。それを手伝っているケイの方には、大して疲労の程が窺えないのが不思議だ。
椅子に腰掛けたイツキに、イネスはカルテをめくりながら説明を始めた。
「……結論から言うと、黒百合さんの言っていた事の裏付けが取れただけね。サザンカの施設を使って得たデータからは、黒百合さんの身体の中には、30種類以上のナノマシンが内在している事が判ったわ。それぞれが全く別の用途に用いられる物で、中には用途すら定められていないものもある。ナノマシンそのものも不明な物が多くて、その特定も出来ていない状態よ」
「そうですか……」
「本当は、もっと大きな研究所とかに行ければ良いんだけどね。オリンポス研くらいの規模があれば……黒百合さんも出来れば静養して貰いたいんだけど、言っても聞かなかったわ。
でも、抑制剤を投与すればある程度は抑えられるみたいだから、その間に治療法が確立できれば……」
イネスの言葉は意気に満ちていたが、逆にイツキは疑問を覚えた。
「あの、失礼な事を訊いて申し訳ないんですけど……イネスさんは何故、そこまで黒百合さんの事を?」
イネスは、医者と言うよりは科学者の立場に沿ったシビアな考え方をする。火星に於いて、絶体絶命の危機に晒されてもクールな態度を崩さず、己の命すらも重要視していないように見えた。ましてや、ラピス以外の他人に関して、心を動かされるようには思えない。
「あら。人として、救える命を見過ごす事は出来ない、という理由では不満かしら?」
悪戯っぽい笑みを浮かべるイネスだが、自分自身の言葉を否定しているようでもある。
「そうね、理由はあるわ。ラピスよ。
私は、4年前にラピスと一緒に暮らしてから、ずっとあの娘の姉代わりを勤めてきたわ。血は繋がっていないけれど、あの娘は本当の妹だと思ってる。
ラピスは、黒百合さんの事を想っているわ。私は恋愛不能症だけど、それくらいは分かる。だから、ここで黒百合さんに死なれては困るの。彼には、ラピスを幸せにして貰わないといけないから。それが理由よ」
「……」
「黒百合さんの身体については、ラピスには話してない。彼が治ればなんら問題はないけど、そうでないとしても、それは黒百合さんから伝えるべきだと思っているから。それについては彼自身も同じ考えよ。
人が人を想うのを、止める事は出来ないわ。たとえどんな結末になったとしても、私は最後までラピスの為に全力を尽くす」
普段は人をからかうような態度を見せているイネスが、真摯な表情を見せている。その貌は真剣なだけでなく、家族への慈愛の想いがあふれ出ているかの様だった。
その表情のまま、イネスは優しい眼をイツキへと向ける。
「貴女もいろいろ複雑でしょうけど、これだけはお願いよ。ラピスには、まだ言わないでおいて」
「……はい」
イツキは静かに頷いた。余計な事は言う必要はなかった。
イネスと話す事で、イツキも心の裡での整合が取れたような気がする。
人が、人を想うのは自然な事だ。たとえ黒百合がもうすぐ斃れるとしても、この胸の裡にある感情は変わらない。
(私は……黒百合さんが好き)
イツキは心の裡で確かめるように呟いた。
正直なところ、この気持ちが世間一般で言う恋愛感情なのかどうかは確信がない。だが、カイトに伝えた言葉はまったくの真実だった。あの人の進む道の先にあるものを、この目で見届けたい。そして出来うる事ならば、一緒に道を歩んでいきたい。
今はこの感情の赴くままに、正直に生きよう。
「……ありがとうございます、イネスさん。黒百合さんの事、真剣に考えて頂いているんですね」
「あら、私は別に、貴女に礼を言われるような事はしてないけど」
「いえ、それでも、そう言わせてください」
「別に、構わないけれどね」
すましてそう言う、イネスの頬が若干赤い。彼女は椅子を巡らせてこちらに背を向けてしまった。らしくない事を言った、と照れているのだろうか。
イツキは意外には思わなかった。イネスもまた感情の生物たる人間なのだ。それに、今話をしていて気付いた事もある。
「あの、もし間違っていたらすいません。もしかして、イネスさんは黒百合さんの事を……?」
躊躇いがちな問い掛けに、イネスはしばし答えなかった。ただ、彼女の肩が微かに震えるのを、イツキは確かに見た。
ぎし……とイネスの身体を受け止めて、椅子の背もたれがきしんだ音を上げる。
「ラピスは……あの娘は、真剣に黒百合さんの事を想っているわ。あの娘の心はまだ幼くて、恋愛感情にまでは至っていないかも知れないけれど、少なくともその手前にさしかかってはいるのよ。
……姉の私が、妹の幸せの邪魔をするわけにはいかないでしょう……?」
それが、イネスの返答だった。背を向けたままだったので、彼女がどんな表情を浮かべているか、窺う事は出来なかった。
イツキもまたその背中に掛けるべき言葉を失い、再び沈黙が舞い降りる。それを破ったのは、トレイを持ってきたケイの穏やかな声だった。
「みなさん、ひとまず休憩にしましょう。あんまり根を詰めても身体に毒ですから」
耐熱ビーカーに淹れられたコーヒーの芳香が、医務室の中に立ちこめる。
三人向き合って言葉無く飲んだコーヒーの味は、クリームを多目に入れたにも拘わらずほろ苦かった。