翌朝の目覚めは爽快だった。今までの不快な気分が嘘のようだった。

 それというのも、自分の気持ちをしっかりと認識できた事が大きい。イツキは改めてイネスに感謝した。彼女に対しては申し訳ない気持ちもあるが、それを表に出すのは却って失礼と言うものだろう。

 今はただ、自分の想いに正直に生きよう。新たな決意を胸に、イツキは一日の始まりを迎えた。

 身だしなみを整えて、朝食を摂るために食堂へと向かう。ナデシコ食堂は、夜勤明けのクルーと起床したクルーとで、相変わらずごった返していた。

 朝食の載ったトレイを受け取ったイツキが席を探して視線を巡らせていると、見知った顔を見つけた。彼女の方もこちらに気付いて、ちょこんと手を挙げる。

「イツキ〜、やっほー」

 フォークを持っている手を振るう度に、ポニー・テールに纏めたブロンドの髪がふらふらと揺れている。

 ジェシカ・ストロベリーフィールド。彼女は本来、ナデシコと哨戒任務を共にしている巡洋艦シクラメンのクルーなのだが、こうして時々ナデシコにやって来ては食事を摂っていた。

「ジェシカ、また来てたの?」

「ええ。シクラメンのコックの腕も悪くないんだけど、ココと較べるとね〜」

「まあ、私がとやかく言う事じゃ無いけど……」

 苦笑しながらも、イツキはジェシカの前に座る。

「カズマサ達は一緒じゃないの?」

 そう尋ねると、ジェシカの表情が急変した。不機嫌そうに頬を膨らませて、オムライスにフォークを突き立てる。

「……今朝はあたしだけ」

「……また、何かあったの?」

「何かじゃないわよ! カズマサったら、ま〜た女性クルーにちょっかい出したのよ!?」

 憤るジェシカとは反対に、イツキは冷めた口調で、

「今度は誰なの?」

「ブリッジのリタ伍長よ!」

 ちなみに、リタ・アニリータ伍長はシクラメンの通信士である。

「そ、そう」

 カズマサとしては軽いスキンシップなのだろうが、ジェシカにしてみれば面白くないらしい。今回は、激発したジェシカのビンタを食らったカズマサは医務室行き、クロウとシンヤはその付き添いといった所だろうか。カズマサも、毎度同じ目に遭いながら、反省を活かすという事がない。

 かといって二人が付き合っているかと言えばそうでもない。カズマサとジェシカは幼なじみなのだが、それ以上の関係ではないと二人揃って断言する。ジェシカの本心は、何かと相談を持ちかけられるイツキしか知らない。

「……ジェシカ。何度も言いうけど、もう少し素直にならないと駄目よ?」

「う……わかってるケドさ」

 落ち込んだように項垂れて、ジェシカはフォークで無惨に崩れたオムライスをつついた。

「……そーゆーイツキはどうなのよ」

「な、何が?」

「惚けたってムダムダ。あたしにはちゃ〜んと分かってるんだから。黒百合さんのコトよ」

 その言葉を聞いた瞬間、イツキの顔の血圧が上昇した。周囲の視線を憚るように、意味もなく左右を窺う。

 幸い、誰かが聞いていた様子は無い。ほっと胸をなで下ろすイツキを、フォークで差して追求するジェシカ。やや声のトーンを落として、

「で、実際のトコどうなの? イツキってば、今までモテてたのにそういった浮いた話が無かったじゃない? だから気になって。

 それにしてもまさか、カレみないな特殊なのがタイプだとは思わなかったわ。道理で誰にもなびかないワケよね」

「もう、やめてよね。私と……あの人とは、そんなのじゃないんだから」

 何とか精神的再建を果たしたイツキは、ようやくそれだけを言った。いまだ頬が紅いのは隠しようが無かったが。

「イツキも、あたしには素直になれとか言っといて、自分の方はどうなのよ?」

「本当に……そんなのじゃないのよ。黒百合さんは……」

 イツキの表情に暗い翳がよぎる。昨日の、イネスとの話を思い出してしまったのだ。後悔しないようにと決意したものの、不安は消えた訳ではなかった。

 そんなイツキの態度に、ジェシカも流石に追求は出来なかった。

 その後はさしたる会話もなく、黙々と食事を摂る。と、背後から声を掛けられた。

「隣、空いてるか?」

「あ、はい。空いてま」

 すよ、と続けようとして、振り向いたイツキはそのまま石みたいに固まった。

 立っていたのは黒百合だった。いつものレーションをトレイに乗せ、いつもの格好で。後ろにはセレスの姿もあったが、石になっているイツキには見えなかった。

「あ、黒百合さん。やほ」

 ジェシカの声も聞こえない。

「……イツキ。どうした?」

 反応しない彼女を怪訝に思って、顔を覗き込む黒百合。黒いバイザーが視界いっぱいに広がって、ようやくイツキは再起動を果たした。

「……あっ。く、黒百合さん」

 声が若干上擦っている。心構えが出来る前に、不意打ちを食らったようなものだ。前の晩に、いろいろと話すべき事を考えていたのに、頭の中が真っ白になって、それらの全ては霧散してしまった。

「隣、いいか?」

「あっ、は、はい。どうぞ。空いてます」

 慌てて席を引くイツキ。そんな彼女を黒百合は不思議そうに眺めていたが、とりあえず気にしない事に決めたらしい。

 食事を摂る黒百合達の隣で、イツキは顔に血を昇らせたまま、恥じ入るように小さく縮こまっていた。そんな様子を見ていたジェシカが、「イツキの春も遠そうね〜……」と呟いていたのも聞こえなかった。

 結局。

 朝食の時間は禄に黒百合の顔を見る事も出来ず、昨日までとはまた違った意味での気まずさを味わったイツキだった。

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第39話

「貴方に逢えて」



 

 その日の昼食時には何とか普通に接する事が出来た。

 黒百合は相変わらずセレスを膝の上に乗せており、セレスはそれが当然のように、黙々とお子さまランチを制覇している。

「セレスちゃん、美味しい?」

「ウン」

 イツキが尋ねると、セレスはにぱっと破顔した。それまでは西洋人形のような美しさを保っていた少女が、とたんに年相応の表情を見せる。

 そんなセレスを見て、黒百合もまた顔を綻ばせる。それは傍目には微かな表情の変化でしかなかったが、イツキはそれを見て取って、目を細めさせた。

「……それで、ルリちゃんの誕生日を開くことになったんですか?」

「ああ、そうらしい。艦長を筆頭に、皆乗り気だからな」

「そうですか……。ふふっ、普通で言えば、任務中にバースデー・パーティーなんて、不謹慎なんでしょうけど……ナデシコらしいって言えばナデシコらしいですね」

「……そうだな」

 くすりと笑うイツキに、黒百合は密かに万感の思いを込めて頷いた。

「そうすると、何か誕生日プレゼントを用意するべきですよね?」

「いや、プレゼントは全体で用意するそうだ。それに、本人には内緒にするらしい。コミュニケを使わずに知らせているのもそのためだ」

「そうだったんですか。それにしても、黒百合さんもよくルリちゃんの誕生日を知っていましたね?」

「まあ……彼女のプロフィールには目を通していたからな」

 つまり、それだけ気に掛けていたという事だ。

「そうですか……あのー、わ、私の誕生日って知ってます?」

 僅かな期待を滲ませて尋ねるイツキに、黒百合はあっさりと答えた。

「いや、知らんが」

「あう。………………そうですか」

 がっくりと項垂れるイツキを、不思議そうに眺める黒百合だった。

「何だ?」

「いえ、何でもないです……」

 かぶりを振ったが、結構ヘビーな一撃だった。しばらくは回復出来そうにない。

 が、次に続いた黒百合の言葉に、彼女は下を向いていたおもてを上げた。

「それで?」

「え?」

 きょとんと問い返すイツキに、黒百合はとんとんと指でテーブルを叩いて、

「それで、イツキの誕生日はいつなんだ?」

「え。あ……えっと、4月1日です」

「4月馬鹿だな」

「あうう。そう言われるのはちょっと……」

 子供の頃はさんざんからかわれたので、あまり良い思い出はなかったりする。

「そうだな、すまん」

「あ、いえ、謝られる程の事じゃ……」

「しかし、もうとっくに過ぎてしまっているな。今更祝うのも……」

 真剣に思案している様子の黒百合に、かえってイツキの方が居たたまれなくなった。

「そんな、気にしないでください。そ、そうだ、セレスちゃんの誕生日って何時なんですか?」

 それは苦し紛れの話題転換だったのだが、触れてはいけない話題だったと言った後に気付いた。案の定、黒百合は僅かに眉を顰めて、

「いや、この娘の誕生日は――」

「10月12日」

 しかし、セレスがあっさりと告げた言葉に、声を途切れさせた。イツキも、キョトンとして空色の髪の少女を見返してしまった。

「え?」

「ワタシの誕生日。10月12日だって、エリナが言ってた」

「エリナ……が?」

「ウン。パパと会った日ダカラって」

 それは、黒百合が諏訪人類遺伝子研究所を襲撃した日だった。彼自身は忘れていたが、エリナは覚えていたのだろう。その日をセレス達の誕生日に定めたのは、黒百合に対する皮肉だったのか、それとも……

 黒百合は目を細めて、セレスの頭を撫ぜた。滅多に見せない優しい笑みを浮かべて。

「……そうか。なら、セレスティンの誕生日も、祝ってやらないとな」

「ウン。その時は、オプとカーネも、イッショ」

「そうだな、一緒だ。俺からもエリナに頼んでおこう」

「ウン」

 嬉しそうに頷いたセレスは、その身を黒百合の胸に預ける。

 その光景は本当の親子を見ているようで、イツキの微笑みを誘った。

 

          ◆

 

 瞬く間にカレンダーはめくられていく。

 ミナト、メグミなどのブリッジ・クルーは、概ねパーティーには乗り気だった。ムネタケだけは強硬に反対していたが、彼の意見をクルー達が聞くはずもない。

 ユリカなどは、ナデシコ艦内で最もパーティーを楽しみにしていた。その傍らで、ジュンが通常業務に支障が出ないよう、黙々と事務処理をこなしている。

 プロスは経費が増える事をぼやきながらも、必要な資材を手配してくれた。内心ではノリノリだったのかも知れない。ゴートはむっつりと押し黙ったままだったが、心なしか浮き足立っているようだった。

 ウリバタケを筆頭とする整備班は、パーティー会場のセッティング・プランを徹夜で練り上げている。そのほとんどがルリルリ・ファン・クラブの会員である事は言うまでもない。

 整備班に並んで多忙なのが、ナデシコ食堂のコック達である。何しろ200名以上の料理を一時期に用意しなければならないのだから、チーフ・コックのホウメイにかかる負担は相当なものだ。

 その下準備のために、ホウメイ・ガールズ達は厨房を忙しそうに駆けずり回り、ウツホは食料庫の在庫をチェックに出かけていつものように迷子になり、アキトが彼女を迎えに行ってサユリに小言を貰っている光景が各所で見受けられた。

 イネスは浮かれた雰囲気には関わらずに、医務室に籠もって研究を続けている。ケイはにこにこと笑いながら、コーヒーを淹れてイネスに休憩を勧めていた。

 セレス、ハーリーの最年少組は、純粋にパーティーを楽しみにしているようだった。特にセレスは初めて見る誕生会に、その小さな胸を期待に膨らませている。

 リョーコ、ヒカル、イズミのパイロット三人娘は一発芸を披露する事が決定しているため、その練習に余念がない。ヤマダは周囲がどうあろうとお構いなしに、相変わらずゲキガンガーの主題歌を歌っていた。

 アカツキはなにやら悪巧みをしているようだった。隣にいるエリナがそれを看過している事から推測するに、彼女も密かな共犯者かも知れない。

 黒百合は、それらの輪には加わらず、遠巻きにその光景を眺めてやっていた。もはや手の届かない所にあるものを思い焦がれるような、憂愁と旧懐の念の籠もった眼差しで。

 そんな黒百合を見つめているイツキ。黒百合の傍らに静かに佇んでいるラピス……

 それぞれの想いは今はまだ交錯せずに、それぞれの裡で時を育んでいた。

 

 

 そして、西暦2197年7月7日が訪れる。

 


 

 その日は平穏に流れていた。クルー達が来るべき祭りの為に息を潜めていたために、平穏すぎるとルリが感じたくらいだ。

 ルリは第二勤であり、夕刻5時半の定時でブリッジを後にする。夜勤はジュンとハーリーのコンビだったが、入り口が開いて入ってきたのはジュン一人だけだった。

「やあ、お疲れさま。ユリカ、ホシノ君」

「お疲れさまです、副長」

「ジュン君、おっそーい!」

 ぷうっと頬を膨らませるユリカ。実際の所は1分と遅れていないのだが、時間が来るのを待ち焦がれていたユリカには相当長く感じられたらしい。

 ジュンは苦笑を漏らしながら謝罪した。

「ごめんごめん、ちょっと準備に手間取っちゃって」

「ぷんぷん!」

「ところで、ハーリー君は一緒じゃないんですか?」

「え? ああ、ハーリー君はちょっと体調を崩したみたいだったんで、休ませたんだ」

「そうですか」

「それじゃあ、これより業務を引き継ぎます。ご苦労様でした」

「はい。よろしくお願いします!」

 敬礼を交わし合うジュンとユリカ。こうしていれば、ユリカもまともな艦長に見えるのだが。

「じゃあルリちゃん、食堂行こっか」

「はい?」

 既に決定しているかのように告げるユリカを、ルリはまじまじと見返してしまった。

「お腹すいてるでしょ? たまには一緒に食べようよ。ね?」

「はあ……別に構いませんが」

「じゃ、決まりっ! それじゃジュン君、あとよろしくね〜」

「ああ、行ってらっしゃい、二人とも」

 手を振るジュンに見送られて、二人はブリッジを後にした。

 

          ◆

 

 るんたった♪、と上機嫌にスキップを踏むユリカを、流石にルリは不審に思った。

「艦長、どうかしたんですか? 先ほどから、妙にソワソワしてるみたいですけど……」

「え? そんなことないよ〜」

 そう言うが、顔の緩みは止まらない。

「ルリちゃんだって、ご飯の時には機嫌が良くなるでしょ?」

「え?」

「アキトの作るご飯、美味しいもんね〜。いいな、ルリちゃんはいつもアキトの料理を食べられて」

 それは、ルリがいつもチキンライスしか頼まない為だったりする。アキトはチキンライス以外の料理は任されていない。いつも定食などを頼んでいるユリカが食べられないのは当然だった。

「アキトってば、私がお願いしても作ってくれないんだよ?」

「はあ。そうですか」

「きっと、アキトってば照れてるんだよね! 愛しいユリカに手料理をご馳走するのが恥ずかしいなんて、アキトってば可愛い!」

「……それは違うと思いますけど」

 ぼそっと呟くが、とろけた笑みを浮かべてイヤンイヤンしているユリカには届かなかった。

 いつもの事なので、もうルリも慣れたものだ。最初に見た時は、精神病棟に連れて行くべきかと迷ったものだが。

「とうちゃ〜っく!」

 と、ユリカが唐突に素に戻った。いつもは食堂のドアにぶち当たるまで現実に還って来ないのだが、珍しい事もあるものだ。

 明日は地球全域で雪でも降るでしょうか、などとルリが結構酷い事を思っていると、ユリカはこちらをくるりと振り向いて、満面の笑みを浮かべた。

「じゃ、ルリちゃん、先に行って」

「は?」

「先に行って。ね?」

 ユリカはニコニコと笑うばかりで、事情を説明するつもりはないようだった。こうなると、何を言っても無駄だと解っているので、ルリは嘆息してナデシコ食堂へ続くハッチを開いた。その途端。

 パン! パンパァーン!

 鳴り響いたクラッカーの弾ける音に、ルリは身を竦ませた。

 その場には、ナデシコのほぼ全てのクルーが集まっていた。クラッカーや紙吹雪、横断幕などを掲げながら、一斉に唱和する。

『ルリルリ(ルリちゃん)、誕生日おめでと〜っ!!』×クルー全員

「…………」

 空を舞っていたクラッカーのテープが、『ひゅるる〜、ぽてっ』と床に落ちた。

 ルリが最初に見せた反応は、目を瞬かせる事だった。予想外の出来事に呆然としているようにも見えるし、ただ呆れているようにも見えた。

「……何事ですか?」

「今日は、ルリちゃんの誕生日でしょ?」

「誕生日?」

「うん。7月7日。違うの?」

「いえ、違いはしませんけど……」

 戸籍上は確かにそうなっている。だが、それはあくまでデータの上での事であり、正確な生年月日はネルガルはおろか、育て元である人類遺伝子研究所でも把握してはいなかった。

「ほら、みんな待ってるよ。ルリちゃん、前に行こっ」

 ユリカに背中を押されて、二つに割れた人混みの中を進むルリ。辿り着いた先には、『ルリちゃん、誕生日おめでとう!』という垂れ幕の下に、可愛い飾りのつけられた椅子。スポット・ライトに照らされた、文字通りの誕生日席である。

 真っ白なクロスの掛かったテーブルの上には、結婚式にでも使うような三段重ねの特大のケーキが鎮座ましましていた。その一段目に、12本のキャンドルがか細い灯火を煌めかせている。

「ルリちゃんの為の、ホウメイさん特製ケーキなんだよ」

 勧められるままに、ルリは誕生日席に座らされてしまった。案外、押しに弱かったのかも知れない。ユリカの方はといえば、まるで我が事のように喜びの笑みを浮かべている。

「それじゃ、お願いしま〜す」

 ユリカの合図で、食堂内の照明が落とされた。

 辺りを照らすのは、バースデー・ケーキに灯されたキャンドルの煌めきのみ。その灯火に照らし出されるルリの容貌は、その瑠璃色の髪と相まって、神秘的な雰囲気を放っている。

 だが、その当人はといえば、その怜悧な頭脳を、現状把握の為に稼働している真っ最中だった。

 戸惑いを浮かべているルリをよそに、食堂内に誕生日曲が流れる。その曲に合わせて、その場にいる全てのクルーが合唱した。

 Happy birthday to you♪

 Happy birthday to you♪

 Happy birthday dear Ruriruri〜♪

 Happy birthday to you〜♪

「…………」

『誕生日、おめでと〜!』×クルー全員

 歌い終えた後に、再び拍手と共に祝福の声が上がる。ルリは、声も出せずにその光景を眺めているだけだった。

 ユリカが惚けているルリに声を掛ける。

「ほらほらルリちゃん。ふーってロウソクの火を消して♪」

「え……」

「早く早く♪」

 世情に疎いルリでも、流石に何を期待されているのかは分かる。

 笑みを湛えるユリカの声は、決して急き立てるものではなかったが、何故かルリは素直に従ってしまった。椅子の上に立ってようやく届く高さにある12本のロウソクを、一息で消し去る。

 再び沸き上がる拍手喝采に圧倒されているルリの横に、一つのウィンドウが開いた。

『おめでとう、ルリ』

「オモイカネ……」

 そこで、ルリはクルー達がこんな事を進めているのを、何故自分に隠し通せていたのかを悟った。

「オモイカネ、貴方、私に黙ってたの?」

『そう』『ごめんなさい』

「ラピスさんに頼まれて?」

『そうです』『ですが、それだけでもありません』『それがルリの為になると思ったのです』

「私の為? いったい何が……」

「ル〜リルリ♪」

 ルリの声は、抱きついてきたミナトによって途切れてしまった。

「ミ、ミナトさん」

「んふふ、おめでと♪ みんなからのプレゼントがあるから、受け取って貰える?」

「え……」

「ほら、二人とも♪」

「ン」

「はっ、はいっ」

 ミナトに手招きされて人混みの中から出てきたのは、セレスとハーリーのナデシコ最年少コンビだった。

 セレスは手を後ろに組んではにかむように。ハーリーは緊張にガチガチになって花束を抱えていた。

「セレス、ハーリー君?」

 ルリに声を掛けられると、ハーリーはびくっとしたように身を竦ませた。

「あああ、あの――おっ、おめでとうございますルリさん!」

 耐えかねたように、ハーリーはばっと花束を両手でルリに突き出した。目をぎゅっと瞑って俯いて、耳まで真っ赤に茹で上がっている。

「え? これ……」

「んみっ、皆さんからのプレゼントです! ううう受け取って下さい!」

 俯いたままのハーリーにルリが戸惑っていると、ミナトがそっと囁きかけてきた。

「ほら、ルリルリ、受け取って上げないと」

「え。あ、はい」

 言われるままに花束を受け取るルリ。その途端にハーリーはほっとした表情で顔を上げた。その少年の瞳は、期待に満ちた光をこちらに向けている。流石にルリにも、彼が何を望んでいるかは理解できた。

「えっと。ありがとう、ハーリー君」

「はっ、はいっ!――って、うわぁっ!」

「……ハーリー、ジャマ」

 ぱあぁ……っと、顔を輝かせるハーリーを『げしっ』と押し退けて、セレスが前に出た。彼女がルリに差し出したのは、一通のバースデー・カードだった。

「……プレゼント」

「……ありがとう、セレス」

「……ン」

 くすぐったそうに笑って、セレスは背を向けて黒百合の元へと駆けていった。

「本当は私からも贈りたかったんだけどねぇ。何しろ時間が無かったから……ゴメンね、ルリルリ」

「あ……いえ、気にしないで下さい、ミナトさん」

「は〜い、それじゃケーキを配りま〜す♪ 皆さん、じゃんじゃん楽しんじゃって下さーい!」

 ユリカがケーキ・ナイフを掲げて高らかに宣言した。

 

 

 パーティーはスタンダードな立食式である。幾らナデシコ食堂といえども、クルーのほとんどを座らせるほどの席はなかった。

 テーブルごとケーキは横に移され、代わりのテーブルが運ばれて来た。厨房から顔を出したホウメイが、誕生日席に座るルリに笑い掛ける。

「今日は特別だよ。ルリ坊のリクエストに応えるからね。何が食べたい?」

「食べたい物……ですか」

「ああ、何でもいいよ。お財布係からのお許しも出てるしね」

 プロスの方を向いて片目を瞑るホウメイに、彼は苦笑を返した。

「さ、言ってごらん」

「その……チキンライスが良いです」

「チキンライスかい?」

「駄目……ですか?」

「ははっ、そんな事はないよ。任せときな、とびっきりのチキンライスを作ってやるから」

 笑って請け負って、ホウメイは厨房に顔を引っ込めた。

 座って料理を待つルリに、ユリカが疑問をぶつける。

「ルリちゃん、いつもチキンライス食べてるじゃない。他の、もっと贅沢な物頼んでいいんだよ?」

「いえ、私はチキンライスが良いんです」

「そっか。ルリちゃん、チキンライスが大好きなんだね! アキトの作る料理も美味しいけど、今日はホウメイさんの特製だもんね!」

 ユリカの無邪気な言葉で、ルリはハタと気付いた。そう言えば、今日はアキトがチキンライスを作る訳ではないのだ。いつもはアキトの作るチキンライスを食べているので、今日に限って作る者が違うというのも妙な違和感を感じるものだ。当の本人であるアキトは、給仕にてんてこ舞いだった。

 待つことしばし。

「はいよ、特製チキンライスお待たせ」

 ホウメイの手みずから、ルリの前に皿が置かれた。半球形のチキンライスの小山に、青菜が彩りを添えている。ほくほくと湯気を上げて、食されるのを今か今かと待ち焦がれているかのようだった。

「うわ〜っ、美味しそ〜」

 傍らのユリカが涎を垂らさんばかりに目を輝かせている。

「いいな〜、ルリちゃん、いいな〜っ」

「艦長、今日は我慢しなって。ほらルリ坊、遠慮なくお食べ」

「はい。戴きます」

 行儀良く手を合わせてから、おもむろにスプーンですくって口に入れる。

「どうだい?」

「……美味しいです。すごく」

「そう言って貰えたら、何よりだねぇ。後で何か食べたくなったら遠慮なく言うんだよ」

「はい」

 手を振って厨房に戻るホウメイ。ルリは、先ほどから指をくわえて、穴が開く程にこちらを見つめているユリカに、

「えっと……艦長も、一口食べます?」

 ユリカがそれに飛びついたのは言うまでもない。

 

 

 厨房のちょうど反対側に設けられたステージでは、メグミの司会進行の元、一発芸大会が催されていた。

『それでは、エントリー・ナンバー7番! パイロットのマキ・イズミさんによる漫談で〜っす!』

「漫談漫談、私の出番はまんだ〜ん♪」

 ビュウゥゥゥゥゥゥゥっ!

 ブリザードが吹きずさび、司会もろとも観客たちを凍り付かせた。

「……何やってんだかなぁ」

 固まって動かなくなったクルー達を、リョーコは冷めた目で見つめた。

 一発芸は、いの一番に居合い切りを披露したので、もう出番はない。イズミの寒いギャグには耐性が出来ているため、気にせず目の前の料理を制覇する事に集中した。

 無事ですまなかったのは、シクラメンから来ているクルー達である。クロウたち四人は、パイロット同士のブリーフィングである程度聞かされていたため凍り付く事はなかったが、それでも霜焼けくらいには掛かるのだ。カズマサは顔を顰めて、

「相変わらず、何言ッてんだか分かんねェなぁ」

「あれはつまり、漫談と、出番がまだ、という事を掛けた駄洒落なんだよ」

「いや、そんな冷静に解説されても」

「シンヤって案外、ああいうの平気なんだねぇ……」

 しみじみと呟くジェシカ。

 ステージの上では、漫談(らしきもの)を終えたイズミが礼をして退場したが、しばらくの間誰も言葉を発しなかった。

 最初に我に返ったのはメグミだった。

『え、えー。非常に素晴らしい漫談でしたね〜。意識を失うくらいに。

 それでは気を取り直して、エントリー・ナンバー8番、パイロットのヤマダ・ジロウさんによる『熱血ロボ ゲキガンガー3』です!』

「ダイゴウジ・ガイだ!」

『はいはい、それはもうみんな分かってますから。さっさと歌っちゃって下さい、ヤマダさん』

「そーだ、引っ込めヤマダ!」

「いい加減その台詞は飽きたぞ〜!」

「たまには違う事言ってみろ!」

「コラ、俺の名前はダイゴウジ・ガイだって――うわっ! 物を投げるんじゃねぇ!」

 

 

「相変わらず、騒がしいねぇ」

 一方こちらは、ネルガル・グループの溜まり場である。

 アカツキとエリナ、プロス、ゴートらが一つのテーブルを囲んでいた。それにしても、アカツキはこうもあからさまにネルガル関係者である事を臭わせていて、本当に正体を隠しているつもりなのか非常に疑問である。本人は自信満々ではあったが。

 ヒカルに引きずられて強制退場させられるヤマダを眺めながら、アカツキはワイン・グラスを傾けていた。

 今日はパーティーという事で、特別に飲酒が許可されている。プロスは渋い顔をしたが、アカツキが密かに会長権限を発揮して押し通してしまった。軍隊といっても息抜きは必要なのだ。もちろん、非常時に泥酔していて役に立たなかった、では済まされないので、人数分のアルコール除去剤は医務室にストックされている。

「煩いったら無いわよ。一応、作戦行動中なのよ? こんな馬鹿騒ぎして良いと思ってるの?」

 眉を顰めるエリナだったが、ちゃっかりとワインを嗜んでいた。

「今更そんな事言いっこ無しだよ。エリナ君だって反対しなかったじゃないか」

「そ、それはそうだけど……」

 実は反対しようとしたのだが、パーティーを楽しみにしているセレスを見て、振り上げた拳を下ろしたという経緯がある。

 もちろん、アカツキはその事を知っていてからかっているのだが、からかわれている方は気付いていない。

「まあまあエリナさん、たまには宜しいじゃありませんか」

「時には休息も必要だ」

 穏やかに抑えに廻るプロスペクターに、むっつりと追従するゴート。やはり両者の手にはワイン・グラスがあった。

「はーい、料理の追加でーす」

 そこに、トレイを掲げたウエムラ・エリが料理を運んできた。調理補助のホウメイ・ガールズ達は、給仕のような事もこなしている。

「やあ、ありがとうエリ君。相変わらず可愛いね」

「えー、調子の良い事言っても駄目ですよーアカツキさん。他の娘にも同じ事言ってるんでしょ?」

「いやいや、僕がこんな事を言うのは君だけさ」

「騙されませんよーだ」

 べ〜っ、と舌を出しながらも、まんざらでもなさそうなエリだった。

 

          ◆

 

 そろそろパーティーが本来の趣旨から外れ掛けて来た頃、酔いが回って騒いでいる人混みの中を、ミナトはお目当ての人物を捜し歩いていた。

 その人物は、非常に特徴のある格好をしており、こんなパーティーの中でもすぐに捜し当てる事が出来る。お目当ての黒ずくめの格好を見つけて、ミナトは手を振った。

「は〜い、黒百合さ〜ん♪」

 黒百合は、いつものようにラピスとセレスと一緒だった。そこにさらにイツキ、イネス、ケイが加わっており、そのテーブルの男女比率は非常に偏っている。

 だが、ナデシコ内でも数少ない良識派が集っており、その一角だけは周囲から切り離されているかのような平穏を保っていた。

「ミナトか」

「はぁい♪ 黒百合さん、飲んでる?」

「俺は下戸だ。酒は飲めん」

「あら、そうなの?」

 ミナトは意外そうな表情を浮かべた。それは黒百合がイツキらに酒を勧められて、断った際の彼女達の表情とそっくりだったのだが、それは言わないでおいた。

 実を言うと、黒百合は酒を飲めない訳ではない。だが、『火星の後継者』による人体実験で身体に投与された毒素分解ナノマシンのために、アルコールを摂取してもすぐに分解してしまうため、酔う事ができないのだ。もちろん、味が分からないという事もある。

 それらの事情を四捨五入して、面倒を避けるために簡潔に説明しているだけなのだが、こうも揃って意外そうな顔をされるとあまり面白くない。

 イツキなど、『黒百合さんって、絶対部屋で一人ブランデーをグラスで飲んでいると思ってました』と言う始末。どうも妙なイメージが彼女の中で固定しているらしい。

 まあ、それはともかく。

「あの娘の様子はどうだった?」

「なんか、ちょっと戸惑ってるみたいね。いまいち人ごとみたいに感じているっていうか……」

「まあ、無理もないな。今まであの娘の周囲に、彼女の誕生日を気にするような奴がいなかったんだ」

「そう考えると、不憫ですよね……」

「そうですね。でも、それで彼女に同情するのは、却って失礼だと思います」

 頬に手を当ててそう言うケイに、黒百合は頷きを返した。

「そうだな。彼女は今まで、ただ単に知らなかっただけだ。これから、追々と経験を重ねていけばいい。ラピスやセレスティンと同じようにな」

 寄り添っているセレスの頭を撫でる黒百合。少女は自分の保護者を見上げ、安心しきった笑みを浮かべて頬を擦りつけた。

 それを見ていたラピスが、黒百合のマントの袖を引っ張った。

「ラピス?」

「アキト、ワタシも」

「ん?」

「ワタシも」

「……ああ」

 琥珀色の瞳でじっと見上げるラピスに、黒百合はふっと微笑んで、セレスと同じように少女の頭を撫でつけた。

 あの日以来、彼女もささやかながら自己主張をするようになり、黒百合も出来る限りそれには応えるようにしていた。

 仔犬のように目を細めるラピス。その様子を眺めている他一同。

「「…………」」

「もう、ラピスったら。お姉さんとしての自覚あるのかしら?」

「でも、お二人とも嬉しそうですね。ちょっと羨ましいかも知れません」

「で、ですけどそれは流石に……」

「そ、そうよねぇ。大人の女性としては……」

 何故か動揺しているイツキとミナトの二人に、ケイは緩やかな笑みを向けた。

 


 

「あれ? ハルミは?」

「さっき、ブリッジで留守番している副長さんに、差し入れを届けに行ったみたいですよぅ」

「あ、そうなんですかぁ? ハルミさん、結構本気なのかも」

「え〜、でも、副長には艦長がいるじゃん。相手にされてないけどさ」

「確かにねぇ〜」

 そんな、ホウメイ・ガールズ(−1)+1の姦しい会話を背中に聞きながら、アキトは食器を洗っていた。

 パーティーも終わりに近づき、メニューも最後のデザートを残すのみとなっている。デザートはサユリの担当なので、アキトにはもう出番はなかった。

 ホウメイ・ガールズ達の会話は相変わらず意味不明だったが、女同士の会話を男一人で聞いているのも居心地が悪い。

「俺、空いた皿を回収してくるよ」

 アキトはそう断りを入れて、厨房から逃げ出した。サユリが何事か言っていたが、聞こえない振りをした。後が怖いが、取り敢えず考えない事にする。

 食堂に出たアキトは辺りをぐるりと見渡す。先程までは随分と騒がしかったのだが、今はそれほどでもない。酒が過ぎて屍を晒している連中が多くなってきたからだ。

 ただ、未だにダウンもせずに騒ぎまくっているリョーコやウリバタケのような連中もいるので、安心は出来ないが。

「って、リョーコちゃんって未成年じゃないっけ……」

 お酒は二十歳を過ぎてからである。

 探している人物はすぐに見つかった。彼女だけは、パーティー開始時の席から動いていない。それは、彼女がこのパーティーの主賓だからという事もあるが、彼女の性格故でもあるだろう。

 その少女――ホシノ・ルリは、今もつまらなそうにアップル・ジュースをちびちびと啜っていた。

 

       

 人の近づいてくる気配を感じて、ルリは俯き加減だった顔を上げた。

 そこにいたのは、既にお馴染みになったコック見習いの顔。そういえば、今日彼の顔を見るのは初めてだった。

「テンカワさん」

 名前を呼んだ事には意味はない。もしかしたら、見知った顔を見てほっとしたのかも知れない。

 ルリはこのパーティーで少々うんざりしていたのである。少女はこのナデシコのオペレーターを勤めているが、その職務上ブリッジ以外のクルーとは交友がない。そのため、整備班や生活班のクルー達がここぞとばかりに言い寄ってきたのだ。

 彼ら、あるいは彼女らに悪気はないのかも知れないが、研究所で会社の役員達に『お披露目』された経験を思い出してしまった。まるで、珍獣でも見るかのような好奇の眼。それは、決して自分と同じヒトを見る眼ではなかった……

「誕生日おめでとう、ルリちゃん」

 アキトの声がルリの回想を止めた。彼は相変わらず人畜無害な笑顔をこちらに向けている。

 もうこのパーティーで何度も繰り返した言葉をルリは口にした。

「はあ。どうも」

 考えてみれば、随分と失礼な言葉かも知れない。だが、正直どうでもいいというのがルリの本音だった。

 少女の返事を聞いて、アキトは苦笑を浮かべた。

「なんです?」

「あ、いやさ。みんなに言い寄られて、随分と疲れてるみたいだったから」

「それは……」

 図星である。が、そのまま言うのは流石のルリにも憚られた。

「まあ、みんなルリちゃんの誕生日を楽しみにしてたからさ。ちょっとは大目に見て上げてよ」

「艦長もですか?」

「ああ、ユリカのヤツが一番楽しみにしてたな〜。仕事が手に着かなくて、ジュンが苦労してたっけ」

 思い出し笑いをするアキト。

「あいつ、こういうイベント好きだからさ。火星でも、友達の誕生日に呼ばれたりしてたんだけど、あいつ自身が一番楽しみにしてたなぁ」

「そう……ですか」

「でも、ルリちゃんはあんまり楽しそうじゃなかったね」

「え?」

 思わず顔を上げたルリの琥珀色の瞳を、アキトの黒い瞳が覗き込んだ。

「厨房から見てたらさ。ルリちゃん、戸惑ってるみたいだったから。最初は、内緒にしてたから驚いてるだけかと思ってたんだけど……ルリちゃん、ずっとむっつりしてたし」

「むっつり、ですか」

「あ、ゴメン、悪口言うつもりじゃないんだけど……」

「いえ。別に気にしてませんから。事実ですし」

 すましてそう言うルリに、アキトは弁明に窮して、曖昧な笑みを浮かべて頭を掻いた。

「は、ははは…………あの、もしかして、嫌だった? こんなパーティーなんか開いちゃって」

 アキトの躊躇いがちの問い掛けに、ルリは5秒ほど答えなかった。自分の考えを噛み砕くのにそれだけの時間が必要だった。

「……いえ、嫌だった訳ではありません。私の誕生日パーティーを開いてくれたのは驚きましたけど、多分、嬉しかった……と思います。ただ、分からないんです」

「分からない?」

 アキトはそれこそ訳が分からないというように首を傾げた。ルリは、己の思考に没頭するようにおもてを伏せて続ける。

「どうして、私の誕生日なんかを祝うんですか?」

「……え?」

「私が1つ歳をとって、皆さんに何か良い事でもあるんですか? 無いですよね? なのに、何故皆さん喜んでいるのか分からないんです」

 ……ルリにとって、自分の誕生日会が開かれるというのは実は初めてではない。以前いた研究所でも、毎年7月7日には盛大なパーティーが開かれていた。

 だが、その主賓はルリではない。ルリを担当していた研究員たちである。

 ルリが生まれた日を祝うのではない。ルリがこれまで1年間無事に『生き延びた』事を祝っていたのである。

 シートに座るルリを見る研究員達の眼は、自分の素晴らしい『作品』の無事を祝っていたのだ。彼らにとってルリは、『ヒト』ではなく『モノ』だった。

 つまり、彼らは自分たちの利益を喜んでいたのである。だが、ナデシコ・クルーたちに、自分が生きていて利益が生まれる訳ではないのだ。

「……だから、分からないんです。どうして艦長があんなに嬉しそうにしていたのか。どうして……みんな、私の誕生日を祝っているのか」

 己に問い掛けるかのようなルリの呟きを、アキトは声も無く聞いていた。

 頭の中がかっと熱くなって、今にも燃え上がりそうだった。堪えようのない憤りが体内で沸騰している。怒りで思うように言葉が出ない。

 大声で叫ぼうとして、アキトはルリの顔に浮かぶ表情に気付いた。

 少女には表情が無かった。壊れた人形のようだ。その琥珀色の瞳が、まるでガラス玉のように虚ろだった。

 だが何も映していないその瞳は、少女の感情を代弁するかのように僅かに揺れていた。泣き出したいのに泣き出せない。いや、違う。泣き方すらも知らないのだ。

 それを見て、アキトの怒りの感情は急速に萎んでいった。そしてそれに代わるように湧き出てきた感情は、怒りなどよりももっと大きなものだった。

 憐れみではない。同情でもない。それが何なのかはアキトには分からない。だが、たった一つだけ、はっきりとしている事がある。

 彼女は、こんな表情を浮かべていてはいけない。いけないのだ、絶対に。

「……違うよ、ルリちゃん」

 考える前に、言葉が付いて出ていた。

「それは、違う。違うんだ。皆、クルーのみんなは、ルリちゃんが居て、利益があっただとか、良い事があっただとか、そんな理由で喜んでいるんじゃないんだ。そんなんじゃ、ないんだよ」

 何を言っているのか、自分でも分かっていない。だが、何を言いたいのかはこれ以上なく理解していた。

「みんな、嬉しいから。ルリちゃんが今まで一緒にいてくれて、嬉しいから。これからも一緒にいてくれて、嬉しいから。だからみんな、喜んでるんだ」

「嬉……しい?」

「そうだよ! ルリちゃんがいてくれるだけで嬉しいんだ。ルリちゃんは、ナデシコのみんなと一緒にいるのは嫌?」

「私……は……」

 いつも騒がしいばかりで、馬鹿な事ばかり行って……付いていけないと思った事も何度もある。

 でも……それでも、その騒がしい日常は、決して嫌では無かった。

「……嫌、ではないです」

 ルリのか細い声を聞いて、アキトはにっこりと笑った。

「みんなもそうだよ。みんな、ルリちゃんが好きなんだ。だから、こうして集まってる。家族の誕生日を祝うのは、当たり前の事だろ?」

「家族?」

「そう、家族。俺、ナデシコって、みんなの家みたいなものだと思うんだ。だから、家で一緒に暮らしているみんなは、家族なんだと思う。

 ……なんて、こんな事思ってるの、俺だけかも知れないけどさ」

「……いえ。そんな事、ないと思います」

「そう?」

「はい」

 こくりと頷くルリに、アキトは微笑み掛けた。

「やっと顔を上げてくれたね、ルリちゃん」

「え?」

「やっぱり、パーティーの主役は楽しそうにしてないと、さ」

「……はい。そうですね」

 普段なら、反発していただろう。だが、ルリは素直に頷いた。アキトの笑顔がまぶしく感じられて、少女は眼を細めた。

 と、アキトが何かを思いついたように声を上げた。

「あっ、そうだ、ちょっと待ってて」

 ルリの返事も待たずに、アキトはどこかへと駆けていってしまう。

 3分程して、息を切らして戻ってきたアキトは、青い小包を抱えていた。

「テンカワさん?」

 不思議そうに問い掛ける少女に、アキトはその小包を差し出した。

「はい、ルリちゃん。プレゼント」

「え……」

「って言っても、誕生日の為にって用意してた訳じゃないんだけどさ。前に、ヨコスカ・シティで買ってあったんだけど、ドタバタしててすっかり忘れてて……」

 照れくさいのか、アキトはしきりに頬を掻いている。

「服、なんだけど。ほら、覚えてない? 前にヨコスカでミナトさん達と買い物した時に、ルリちゃんが試着してた青いワンピース。コレ買った後、あんな事になっちゃって、俺が入院している間にナデシコに届いてたみたいなんだけど、こないだまで気付かなくてさ」

 ルリは服自体の事は覚えていなかったが、その時起こった事は覚えている。

「それじゃ、テンカワさん、あの時ブティックで、これを買って……?」

「うん。ホントはもっと早く渡すつもりだったんだけど」

「どうして……」

「どうしてって……ルリちゃんに似合ってたから、かなぁ。もったいないなぁって思って」

「でも、私のせいで、テンカワさんは怪我を」

「あれはルリちゃんのせいじゃないってば」

「でも……私に、こんなものを貰う資格なんてないです。私は――」

「あのね、ルリちゃん。これって俺の母さんの受け売りなんだけど」

 再び俯いてしまったルリに、アキトは優しく語りかけた。

「誕生日ってね、歳をとった事を祝うだけじゃないんだって。その人がこの世に生まれて、これまで生き続けてくれた事に感謝する日なんだってさ」

「…………」

「だからこれは、ルリちゃんに会えて良かったっていう俺の気持ち。ルリちゃんが今まで生きていてくれたから、俺はルリちゃんと会えたんだよ」

「テンカワさん……」

「受け取って……貰えるかな?」

 おずおずと差し出した小包を、ルリはそっと受け取った。

「ありがとう……ございます。私も、テンカワさんに――ナデシコのみんなに会えて良かったです」

 ぎゅっとプレゼントを抱きしめ、ルリははにかんだような微笑みを浮かべた。それは、僅かな表情の変化に過ぎなかったが、アキトには確かに彼女が微笑んでいるのが分かった。

 初めて見るルリのその表情に、思わず見惚れるてしまうアキト。柔らかな空気が、二人の頬に触れた。

「あ……」

「あ〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

 その暖かな空気を、無神経な大声が吹き飛ばした。目聡くアキトを見つけたユリカが、慌てた様子で駆け寄ってくる。その目は不機嫌そうに吊り上がっていた。

「アキトってば、ルリちゃんばっかにプレゼントなんか渡しちゃって、ズルーイ! ユリカにだってプレゼントくれた事ないのにー!!」

「ゆ、ユリカぁ!?」

「アキト、私にもプレゼント頂戴!」

「プ、プレゼントってお前、別に誕生日じゃないだろ!」

「誕生日じゃなくても頂戴!」

「何で俺がお前にプレゼントをやらなくちゃならないんだよ!?」

「アキトとユリカは恋人さんなんだから、プレゼントをくれるのは当たり前でしょ!?」

「誰が恋人だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 アキトの魂の絶叫が迸る。

「なんだなんだ」

「どうしたどうした」

「あ、また艦長が騒いでる」

「なんだ、いつもの事だな」

 騒ぎを聞きつけて、クルー達が集まってくる。便乗して騒ぐ者、囃し立てる者、煽る者……いつもの日常のひとコマが此処にある。

 青い梱包を抱きしめたままその光景を見届けていたルリが、微苦笑を浮かべながらそっと呟く。自分でも理解できない感情を胸の裡に持て余しながら。

「ホント……みんな、バカばっか」

 

 


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