「黒百合さんの子供さんってどんな娘なのかな〜? どう思います? ミナトさん」

「ん〜、多分ラピラピやセレセレと同じ身の上の娘なんでしょうけど……」

「きっと可愛らしい娘なんでしょうね。会いたいな〜」

 などと、頭上の艦長席からユリカが身を乗り出して階下のミナトやメグミと雑談しているのを、ルリはオペレーター席で聞くともなしに聞いていた。

 コスモスとナデシコとのドッキングは既に済んでいる。

 補給、といってもコスモスは基本的に補給艦ではない。だから受け渡しする資材もそれ程量がある訳でもないのだが、エステバリスの試作型フレームや新兵器などの納入が予定されていた。

 資材はコンテナで運搬されるが、ナデシコは重力カタパルトに差し込んでしまえば自動的に内部に受け入れる事が出来る為、運搬に掛かる時間もそれ程掛からない。

 ナデシコとコスモスのランデブーは3時間ほどで終了する予定になっていた為、ユリカもコスモスの艦長とのやりとりはモニター越しに留まっていた。

 だからドッキング前に、黒百合がコスモスに渡ると言い出した時、クルー全員が驚きの声を上げていた。いや、エリナやプロス等ネルガル関連のクルーとラピスだけは平静を保ってたのは、予めその事を知っていたからだろう。

 (艦長なのに)寝耳に水だったユリカが戸惑いを浮かべて尋ねた。

『え、でも……そんなに時間はありませんよ?』

『ああ、分かってる。ちょっと顔を会わせておきたいのがいてな』

『何方かコスモスに、お知り合いでもいるんですか? それなら、コミュニケで通信すれば……』

『コミュニケも良いんだが、実際に会っておきたいんだ。そうする事に意味があるんでな』

 こうまで言われては、ユリカも否とは言えない。

『分かりました、許可します。発進時間には遅れないようにして下さいね』

『すまん。それと、向こうにはラピスも連れて行くつもりだ』

『え? ラピスちゃんも?』

 皆の視線が薄桃色の髪の少女へと向けられる。当のラピスはいつもの無表情のまま頷いた。が、どことなく『当然ダヨ』と得意がっているように見えるのは気のせいだっただろうか。

『パパ、ワタシは?』

 下から見上げて尋ねてくるセレス。その空色の髪をそっと撫でて、黒百合は諭すように語りかけた。

『セレスティンは、すまないが留守番だ。すぐ帰ってくるから、良い子にして待っているんだぞ』

『ウン……』

 セレスはくすぐったそうに眼を細めたが、漏らした声からは幾ばくかの寂しさが感じられた。

 その光景を見て微笑みを浮かべるクルーたち。幾人かは複雑な表情でそれを眺めていたが、その事に気付く者は本人を含めて誰もいなかった。

『あの……黒百合さんは、何方に会いに行かれるんです?』

 イツキのその質問は、皆が気になっていた事柄だったろう。

 黒百合はセレスから視線を上げると、周囲を見渡してからおもむろに口を開いた。

『コスモスには俺の娘が乗っているんでな』

 じゃあ行ってくる。そう言い残して、ラピスを連れてブリッジを後にする黒百合。少しでも時間が惜しいとでも言うかのようだった。

 扉が閉じてきっかり2秒後にブリッジを満たした驚愕の声は、遮音壁に遮られて黒百合の耳には届かなかった。

 

 

 その後、ブリッジに巻き起こった喧噪の嵐を思い出し、ルリはそっと溜め息をついた。それを耳聡く聞きつけたミナトが、こちらに視線を向ける。

「どしたのルリルリ? タメ息なんかついちゃって」

「あ、いえ。何でもありません」

「そぅお?」

「はい」

 いつもの表情で頷くルリ。その態度からして何でもない訳が無いのだが、此処で問いつめてもやや頑固なところがあるこの少女の機嫌を損ねるだけと、ミナトは追求しなかった。

 ルリ自身もそれは承知していたから、ミナトの気遣いに心の中で感謝した。

 それに――問われたとしても、返答する事は出来なかっただろう。自分自身でも、胸の裡にあるこの不可解な感情がなんなのか、把握しかねていたのだから。

 ルリはそっと隣のサブ・オペレーター席を見る。

 本来其処に座るべき人物は、今ナデシコの中には居ない。代わりにマキビ・ハリ少年が座っていて、オペレーターの真似事をしている。真似事、といってもあくまでルリやラピスのレベルから見ての話であって、傍目には過不足無くオペレーター見習いとしての責務を果たしているように見えただろう。

 憧れの少女の視線を受けて、ハーリーはぽっと頬を赤らめたのだが、当のルリは全く気付かずに手元のコンソールに視線を戻してしまった。

「ちわーっす。ナデシコ食堂でーす」

 威勢の良い掛け声と共にブリッジに入ってきたのは、お馴染みの岡持を持ったコックのテンカワ・アキト。すぐさまユリカが嬉しそうに駆け寄るのもいつもの光景だ。

「あ、アキト♪」

「あら、もうそんな時間?」

 いつの間にか時刻はお昼を廻っていた。

 資材の運搬は艦内標準時で11時から14時の予定だ。とはいえ、ブリッジの中で何かやるべき事が特別ある訳ではない。資材データの受け取りはもう済んでいるので、資材の搬入とリストのチェックをするのは格納庫の整備班の仕事である。

 その事を思い出したのか、メグミがぽつりと呟いた。

「ウリバタケさん達は食事も摂らずに働いてるのに、私たちだけお昼って言うのも、ちょっと気が引けますね」

「まあ、そうだけどね。それがお仕事だし……」

「ウリバタケさん達は時間をずらして昼食を摂る事になってるから、気にする事ないよ、メグミちゃん」

「それもそうですね。それじゃ、いただきま〜っす」

 アキトのフォローの言葉に、メグミはころっと態度を変えて手を合わせた。その様子に苦笑しながら、アキトは岡持から二皿のチキンライスを取り出す。

「はい、ルリちゃん。ハーリー君も」

「あ、はい。テンカワさん」

「ど、どうも、ありがとうございます」

「それにしても、ハーリー君もチキンライスが好きだったんだね」

「あ、え。その。ルリさんがよく食べてるから、美味しいのかなって……

 指を胸の前あたりでもじもじさせながら、ハーリー。語尾が小さくていまいち聞き取れなかった。

「? でもまあ、チキンライスの注文が出るのは嬉しいな。今俺が任されてる唯一のメニューだし」

「アキトってば、いつもルリちゃんのチキンライスは作ってくれるのに、ユリカの食事はちっとも作ってくれないよね〜」

「いや、だから、ナデ定はいつもホウメイさんが仕込みと仕上げやってるんだから、俺が作れる訳ないだろ」

 不満げに頬を膨らませるユリカを、アキトは呆れ顔で見返した。

「そんなに俺の料理が食べたきゃ、チキンライス頼めよ」

「え〜、だって、チキンライスだけだと食べ足りないんだもん……」

「でも艦長、ダイエットには丁度良いんじゃないですか?」

「私、太ってません!」

 そんなブリッジの喧噪には関わらずに、一人黙々とチキンライスを制覇しているルリ。彼女は食事中はいつも無口だからして、周囲ももう慣れたものだ。

 さして時間も掛からずに綺麗になった皿にスプーンを置く。

「ご馳走様でした、テンカワさん」

「はい、お粗末様」

 手を合わせてお辞儀をしたあと、アキトを見返したルリはそこで初めてアキトの首筋に湿布らしきものが貼られている事に気付いた。よく見れば、左頬のあたりにも貼ってある。今まで気付かなかったのは、湿布が肌と同じ色と質感を表現していて馴染んでいた為だ。

 軽い驚きの表情を浮かべるルリ。といっても、その表情の変化に気付くのは、このナデシコの中でも数名に過ぎなかったが。

 今彼女の目の前にいる数名の内の一人は当然その表情に気付いた。

「どしたのルリちゃん?」

「あ……その。テンカワさん、怪我でもしたんですか?」

「え?」

 問われてアキトは不思議な顔をしたが、やがて思い当たる事があったのか、露骨に「しまった」という表情を浮かべて首筋に手を当てた。

「あ〜、いや、これは……」

「なになに、アキト、何か怪我したの!?」

 普段は聞くべき事は聴いていないユリカの耳も、アキトの事に関しては性能が向上する。再び艦長席から身を乗り出してアキトに問いつめた。

 問いつめられた方は、困惑したように顔を顰める。

「あ〜、えっと。大した事じゃないんだ、ホント。唯の打ち身だし」

「打ち身って……転びでもしたんですか?」

「いやまあ、転んだって言うか、転がされたって言うか……」

「え?」

「あ、何でもない、何でも。ともかく、大した事無いから」

 何かを誤魔化すようにまくし立てるアキトに、ユリカは眉を顰めて念を押す。

「アキト、ホントに大丈夫……?」

「本当だって。ケイさんに看てもらったしな。だから、ユリカもそんな声出すなって。お前何歳だよ」

「だって〜」

 不服そうな声を上げるユリカ。口では邪険にしながらも、柔らかい表情を浮かべているアキト。

 その二人を見較べて、ルリは皿の上に置かれたスプーンをそっと指で弾いた。

 

          ◆

 

 資材の運搬はつつがなく終了したのだが、最後の段になって問題が起こった。といってもナデシコ内の事ではない。

 黒百合が予定時刻になっても戻って来ない。その事をコミュニケで告げたのは、黒百合と一緒にコスモスへ行ったはずのエリナだった。

 ラピスも共に連れ立っており、彼女の言う通りならば黒百合だけコスモスに置いて来たという事になる。

「なにか、コスモスで問題でもあったんですか?」

『問題ってほどでもないんだけど。子供たちがちょっと放してくれなくてね。今黒百合が説得してるから、あと30分くらい掛かるんじゃないかしら』

「そうですか……出発予定時刻ぎりぎりになっちゃいますね〜」

『……そうね。でも別に問題は無いはずよ』

「それはそうですけど」

『私たちは一応此処で黒百合を待っているから、貴方達は予定通り発進準備を進めて頂戴』

「はい、わかりました」

 ユリカが頷くと、エリナは挨拶もなしにコミュニケと閉ざした。横で話を聞いていたプロスが首を捻る。

「ふぅむ。黒百合さんが予定を破るとは珍しいですなぁ」

「ふん。ちょっとばかり腕が立つからって、調子に乗ってるんじゃないの?」

 ここぞとばかりに黒百合の失点をあげつらうムネタケだったが、クルー達は取り合わずに銘々で雑談に耽っていた。

「やっぱり、お子さんたちに引き留められちゃってるのかしら?」

「あ〜、そうかもしれませんねぇ。黒百合さんってあれで子供に慕われてるし……」

「何のかんの言って、セレセレとかにも甘いしね。泣かれちゃったら、一寸くらいの無茶は聞いちゃうんじゃないかしら」

「あははっ、そんな感じですね〜」

 その様子を思い描いて、笑い合うミナトとメグミ。

 先程から困惑顔で首を傾げていたユリカだったが、気を取り直して正面に向き直った。

「まあともかく、予定通り発進準備は進めちゃいましょう。ルリちゃん、資材リストのチェックは済んだ?」

「はい。納品目録に間違いはありません。ウリバタケさんも確認済みです」

「そっか」

「ルリルリ、次の航路データ貰える〜?」

「はい、データ送ります」

「みなさん、発進予定時刻の30分前です。各自持ち場について点呼お願いしますね。もし居ない人がいたらブリッジまで連絡して下さーい」

 出立を前にして、俄に慌ただしくなるブリッジ。

 ムネタケは未だにぶつくさ言っていたが、プロスに穏やかに諫められて口を噤まざるを得なかった。

 そうこうしているうちに、出発予定時刻が迫ってくる。しかし、なかなか黒百合が戻ってきたという報せは届かない。

「黒百合さん、遅いですね……」

「もし間に合わなかったらどうするのかしら?」

「もしかして、置いてっちゃうとか」

「それって拙いんじゃないの? 黒百合さん、一応副提督なんだし」

「あ、そう言えばそうでしたっけ」

 ひそひそと言葉を交わすミナトたち。

 

 

 結局、彼女たちの心配は杞憂に終わる。

 黒百合が戻ったのは、本来の帰艦時刻よりも28分過ぎての事だった。

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第44話

「未だ闇を知らず」



 

 1週間後、ナデシコは太平洋上にいた。

 コスモスを出立してから、ナデシコは何の問題もなく地球への航路を進め、当初の予定通りに地球上のチューリップ駆逐の任務をこなしている。

 ナデシコが出航してから約10ヶ月。その間に幾度も木星蜥蜴との戦闘を重ねてきたクルー達にとって、もはや単体のチューリップは脅威では無くなっていた。

 この頃には無人兵器に対する戦術も確立してきている。

 エステバリス隊を囮として無人兵器をグラビティ・ブラストの射程範囲内におびき寄せ、チャージ完了と共に最大出力で後方の敵母艦ごと吹き飛ばす。後は撃ち漏らした無人兵器をエステバリスが駆逐する。

 その戦法は、ナデシコ出航の際の戦術を修練させたものである。その時との違いは囮になるエステバリスの数と習熟度が勝っている事くらいか。バッタが少々フィールドを強化させていようが、戦艦主砲の前には紙切れに等しい。

 チューリップ単艦を相手にする分には最も確実な戦法であるが、それ故にワン・パターンであるとも言える。

 順調すぎると逆に退屈を持て余すのが人間という生物の性である。此処まで一方的に勝敗を決し、毎度のパターンの戦闘をこなしていると、気も緩みがちになって油断から思わぬ失敗をしでかしてしまうのがそれこそ物語のパターンというものだが、このナデシコではその心配は無縁だった。

 何故なら、油断の二文字からほど遠い緊迫した雰囲気を持った副提督が居座っているからだ。

「何事も慣れてしまうのが一番恐い。非日常も繰り返せば日常になる。気を緩めていると思わぬミスをするものだ。命が掛かっていると思えば油断も出来ないだろう? 勝っている時こそ気を引き締めろ」

 そう語る黒百合の横では、プロスペクターが我が意を得たりとばかりにうんうんと頷いていた。

 場所はブリッジ。先程の戦闘での反省会での一幕である。

 黒百合の語る言葉には重みがあった。仮に同じ事をキノコ頭の提督が言った処で、説得力がないと切り捨てられるのがオチだろう。

 パイロット達も真摯に黒百合の言葉に耳を傾けている。艦長であるユリカまでもが感心したような表情を浮かべているあたりが、このナデシコという戦艦の中の組織図を端的に表していると言えた。

 最近、黒百合は直接戦闘に参加せず、ブリッジから戦闘を監修するような事がある。勿論彼我の戦力を比較した上での判断なのだが、黒百合の駆るブラックサレナと、他のパイロット達の乗るエステバリス全てとを比較した場合、前者の方が高いのが何よりの問題だった。

 余りにも突出した戦力は、却ってチームの纏まりを崩す。何より、パイロット達の心の裡に依存心が生まれてしまうのが怖い、と黒百合は言う。

 目下の課題としては、パイロット達の技術上達と、エステバリスの強化――ソフト・ウェアとハード・ウェアの双方の向上が上げられていた。

 ハード・ウェアに関しては、ウリバタケが筆頭になって機体のチェーン・ナップを進めている。

 コスモスから搬入された新型機も存在するが、機体数が少ないのと限定された戦局用に開発された機体である為、運用する局面も限られている。どちらかと言えば試作機としての色合いが強く、今のところは出番待ちと言った処だ。

 そして、ソフト・ウェア――すなわちパイロット達の習熟に関しては、これまた副提督兼機動兵器隊隊長である黒百合の役目だった。

 シミュレーターによる戦闘訓練と筋力トレーニング、さらには徒手空拳による格闘訓練まで。

 一通りの訓練が終了すると、イツキやパイロット三人娘達だけでなく、体力バカのヤマダまでへとへとになって立てない程なのだが、指導役として最も動いているはずの黒百合だけが平然としていた。

 肩で息をしているリョーコが途切れ途切れに呟く。

「な……なんで黒百合はそんなに平気そうにしてんだよ……?」

「私たち全員の相手をしてるのにぃ……」

 息も絶え絶え、といった様子のヒカルである。

 黒百合は素っ気なく答えた。

「お前達の動きには無駄が多すぎる」

「そうは言ってもよ、オレらはパイロットだから、格闘訓練なんて専門外だし……」

 専門外、といっても勿論一通りの訓練は受けているのだが、その程度では黒百合の足下にも及ばない。リョーコは抜刀術を、イツキは古流柔術を習っており、格闘技にもそれなりの自信があったのだが、そんなものは黒百合と1度組み手をしただけで木っ葉微塵に砕かれてしまった。

 リョーコは思わず不平を漏らしてしまったが、彼女も格闘訓練の重要さは理解はしているのだ。

 パイロットといっても、I.F.S.を使っている以上イメージが全てだ。こうした格闘技を実際に修める事は、機体を自分の身体の延長のように扱う上では大きな利点となる。単なる想像と、実態感を伴うイメージとでは、機体に反映される動きも精彩が異なる。

 だが分かっていたとは言え、此処まで露骨な実力差を見せつけられると、なんだか理不尽な気がしてくる。

「何にせよ、もう少し体力を付けろ。いちいち訓練だけでへばっている訳にもいかんだろう。訓練の直後に敵襲でもあったらどうする気だ?」

「そう思うんなら、ちょっとは手加減してくれてもいいんじゃないかい?」

「充分手加減しているぞ」

「…………ちなみに、どこら辺がだい?」

「殴っても、死んでない」

「冗談、じゃないみたいだね。アハハ、ハ、ハ……」

 至極真面目に言ってのけた黒百合に、アカツキは引きつり笑いを浮かべる事しか出来なかった。

 

          ◆

 

「ちっくしょ〜、なーんで勝てねぇんだろうなぁ〜」

 訓練終了後、自室に戻ったリョーコはベットの上に大の字に寝ころんで呻き声を上げた。

「ハハ、黒百合さんに敵わないのはいつもの事じゃん」

「そうだけどよぉ。何か納得いかねぇんだよなぁ」

「それでも彼の強さは確かよ。事実は事実として受け止めるべきだわ」

 冷静に言うイズミに、リョーコは身を起こして抗議した。

「わぁってるよ。でもおかしいだろ? 何であんなにひょいひょいと弾を躱せんだよ」

「全員で囲んでも簡単に陣形を突破されちゃったしね〜」

「それでもまだ余裕があるっぽかったしよ。黒百合の強さの底ってどこら辺にあるんだろうなぁ」

「少なくとも、私たちの実力では計れない処にある事は確かね」

「だぁ〜〜〜っ」

 それを聞いて、力尽きたようにリョーコはベットにもう一度倒れ込んだ。盛大に息を吐き出してから、惚けたように呟きを漏らす。

「黒百合って、一体何モンなんだろうなぁ……」

 それは、ナデシコの誰もが疑問に思っている事ではあったろう。

「リョーコ」

「わぁってるって。黒百合の事は信用してる。でも、ソレとコレとは話が別だろ? ヒカルだって、気にならねぇか? 黒百合の過去とか」

「ん〜、そりゃ気になるケドねぇ」

 人差し指をおとがいに当てて首を捻るヒカルが思い浮かべたのは、黒百合を信じると言い切った、暑苦しい風体の同僚の後ろ姿だった。

「いったいどうやってあれほどの強さを手に入れたのか、興味はあるわね」

「あ、イズミちゃんがそんな事言うなんて珍しいねぇ」

「フフフ……」

 と不敵に不気味に笑うイズミ。リョーコはそれには突っ込まずに話を進める。

「黒百合の過去を知ってそうってぇと……やっぱあのサブ・オペレーターか?」

「ラピスちゃん?」

「そう、ソレソレ。オレはあんまり喋った事ないんだけどよ」

「私もあんまり……いつも黒百合さんべったりみたいだし。あとイネスさんとかケイさんとか。何故かエリナさんとはよく一緒に見かけるみたいだケド」

「ん〜、でも仮に尋ねたとしても、教えてくれそうはねぇなぁ……」

「まぁ、確かに……」

 饒舌に黒百合の事を話すラピス、という光景は二人には想像できなかった。

 苦笑を交わし合う二人をよそに、イズミはマジ・モードのままだった。

「彼の正体はともかく、その強さの理由を推測する事は出来るわ」

「っていうと?」

「彼には並々ならぬ覚悟がある。それが私たちと彼とを隔てる壁よ」

「覚悟?」

「そう、覚悟。例えば、黒百合さんが私たちと敵対した場合――」

「おいっ!?」

「例えばの話よ。その場合、私たちは黒百合さんに銃を向けるのを躊躇するでしょうね。

 でも彼は、そうと決めたのならば躊躇いなく引き金を引く。引く事が出来る。それだけの覚悟を持っているという事よ」

「物騒な例え話だなオイ」

「そうね」

 イズミは否定しなかった。自分でも埒のない事を言っていると自覚しているのだろう。

 それは、ナデシコ・クルーの大多数が潜在的に抱えている恐怖でもあった。黒百合と親しい訳でもないクルー達の中には、彼の事を不審に思っている者もいるだろう。

 特に整備班の中には、黒百合の事を嫌っていないまでも、好いてはいない者も多い。

 原因は主に無口で無愛想な黒百合の側にあるのだろうが、妬み嫉みの感情も確かに其処には存在した。

 チーフであるウリバタケの手前表面化はしていないが、リョーコは整備班のクルー達が黒百合の陰口を叩いているのを聞いた事がある。

 リョーコの中にも、黒百合の強さに対する嫉妬は存在した。イズミの素っ気ない口調の裏で、その感情を指して揶揄されたように感じて、リョーコは自分が今悪感情に流され掛かっている事を自覚した。

「〜〜〜っ」

 リョーコはふて腐れた表情で頭を掻きむしった後、蟠りを振り切るかのようにベットから跳ね起きた。そのまま扉へ向かう。

「リョーコ、ドコ行くの?」

「シミュレーターで一汗流してくる」

「訓練でやったばっかじゃん」

「そんな気分なんだよ」

 振り返らずにぶっきらぼうに答える。脇に置いてあったタオルを鷲掴み、リョーコは部屋を出た。

 

 

「はぁ〜あ」

 シミュレーター・ルームへ向かう道すがら、リョーコらしからぬ溜め息が漏れる。

 何だかスッキリしない。胸の中がモヤモヤする。

 黒百合に敵わないのはいつもの事ではあるが、己の腕前を拠り所としているリョーコにとって面白い筈がなかった。

 こんな時は、ともかく身体を動かすに限る。汗と一緒に心の中の靄を流し出してしまえばいい。

 今日こそ黒百合のハイ・スコアを更新してやる、と意気込んでシミュレーター・ルームに入ったリョーコ。だが其処には意外な先客がいた。

「……テンカワ?」

 目を丸くしてその名前を呟く。ナデシコ食堂の見習いコックであるところの、テンカワ・アキトがシミュレーターに座っていた。

 正確に描写するならば、へたり込んでいたと言うべきだろう。丁度シミュレーションを終えて、力尽きたようにシートに背をもたれ掛けていた。

 その脇には、先程話題に上がっていた黒百合の姿があった。此方に気付いて、二人とも視線を向けてくる。

「あ、リョーコちゃん」

 へろへろな声を出して手を上げるアキト。それでも何とか笑顔を浮かべようとするあたりがこの少年らしい。

 リョーコは呆れ声を返した。

「……何やってんだテンカワ? 黒百合も一緒に……」

「あ、これはその……」

「そう言うスバルはどうした? 訓練は午前中で終わりだぞ?」

「い? あー、ちょっと汗を流したくなって……」

 別に後ろめたい訳ではないのだが、何となく気まずくなって、しどろもどろになってしまうリョーコだった。

 そんな彼女を見つめていた黒百合は、そっと嘆息して、

「まあ、いい。ちょうど切りの良い所だしな。一息つくぞ、テンカワ」

「うぃっス……」

 ずるずる、という擬音がぴったりと嵌りそうな動作で、アキトはシミュレーターから這い出した。

 

          ◆

 

 場所はシミュレーター・ルームからトレーニング・ルームに移る。アキトは力尽きて自分で歩く事もままならないような状態だったが、黒百合が襟首を掴んで引きずって運んでいった。

 そのぞんざいな扱いにリョーコは抗議すべきか迷ったが、黒百合が「いつもの事だ」と言うので特に突っ込みは入れなかった。ふたつの部屋はそれほど離れていないのが幸いだ。

 アキトが壁にもたれ掛かって力尽きている傍らで、リョーコは黒百合に詰め寄った。

「んで、何だってテンカワにエステのシミュレーターなんかやらせてんだよ?」

「本人がトレーニングを付けてくれと言うんでな。付き合ってやってるだけだが」

「だからって……テンカワはコックだろ? 鍛える必要なんかねぇじゃんか」

「別に……こいつをナデシコの戦力にするつもりで鍛えている訳じゃないんだがな」

 テンカワのプライベートに関わるので詳しい事は話せないが、と前置きして、黒百合は事の経緯を話し出した。

 アキトは火星の生き残りだ。勿論アキト一人の力でどうにかなった事態ではないが、それでも本人は無力感を抱えており、それがトラウマとなっている。

 また最近、己の力が及ばずに後悔するような事があったらしい。それは、アキトがヨコスカで入院した時期と前後するらしいが、詳しい事情は黒百合も知らないとの事だった。

 ただ、怪我が完治した頃、アキトが真剣な表情で黒百合の元を訪れ、自分を鍛えて欲しいと言いだした。

 アキトの熱意は本物だったし、特に断る理由もなく黒百合も承知した。

 ただ、パイロットと違ってアキトにはコックとしての職務があるし、黒百合も副提督兼機動兵器部隊隊長としてパイロットのトレーニングを指導している立場でもある。トレーニングに付き合うのはアキトの非番、週に1日程度だったらしい。

 それに、アキトの方も気恥ずかしいらしく、トレーニングをしている事は内緒にして欲しいとの事だったので、誰にも他言はしていなかった。

「へぇ〜、テンカワのヤツがねぇ〜」

 話を聞き終えた後、リョーコは感心したように横になっているアキトを見返した。

「まあトレーニングと言っても、最初は基礎体力を向上させる為の基礎トレーニングだけで、本格的にシミュレーターや格闘訓練を始めたのはここ最近だがな」

「ふーん。じゃあ、もう3ヶ月近くこんな事やってたのか」

「そうなるな」

「じゃあここんトコ、テンカワが湿布まみれだったのもその所為なのか?」

「そうだな。受け身を取り損なって、よくケイさんの世話になっている」

「はぁ〜」

 黒百合のトレーニングのキツさは身をもって知っているだけに、リョーコとしては感嘆の声を上げるしかなかった。今、トレーニング・ルームの床の上で目を回しているこの細っこい少年に、それだけの根性があるとは驚きだ。

「でも、それならトレーニングだけで、エステのシミュレーターまでやらせる必要はないんじゃねぇの?」

「なに、もののついでだ」

「あっそ……」

 黒百合は事も無げに言い放った。

 まあ、黒百合には黒百合の考えがあるのだろう、とリョーコは納得する事にした。

 

 

 しばらく起き上がれないかと思われたアキトだったが、大した時間も掛からずに息を吹き返した。

 休憩を挟んで体力も回復したらしく、早速次のトレーニングを黒百合に科せられていた。

 リョーコの目には摺り足でゆっくりトレーニング・ルームを廻っているだけのように見えるのだが、これにも意味はあるらしい。

「これは歩法の一種だ」

「ホホウ?」

「簡単に言えば、身体の動かし方だな。足腰の鍛錬も兼ねてる」

「ふぅん……」

 一見ただ歩いているだけの様だが、身体の各所を酷使しているらしく、既にアキトの額には玉の汗が浮かび上がっている。

 真剣にトレーニングに打ち込むアキトの横顔を、ぼんやりと見つめるリョーコ。その口から、微かな呟きが漏れた。

「アイツ、なんだってこんな事してんのかな……」

 少なくとも、コック見習いには不要な筈なのだ。

 先の休憩時間に尋ねてはみたのだが、アキトは決まり悪げに笑うだけで、はっきりと答えようとはしなかった。

『大した理由じゃないんだけど……ただ、もう後悔したくないから、やれる事はやっておきたいんだ、俺』

 聞き出せたのはそれだけだった。肝心な理由がさっぱり分からない。

 背後に歩み寄ってくる黒百合に、その疑問を投げかけてみた。勿論、アキトに聞こえないような小声で。

「黒百合、ホントは理由知ってんじゃねぇのか?」

「先刻も言ったが、俺は理由は知らん」

「ホントかよ」

「……それほど理由が大切か?」

 黒百合はアキトから視線を逸らさぬまま、

「何にせよ、テンカワ自身が必要だと感じた事だ。

 後悔の無いように、今出来うる全ての事をしておくのは、俺は間違っているとは思わない」

「そうだけどよ……」

「大切なものを護りたいという気持ちは、誰もが持っている。あいつはその為にやれる事をやり始めただけだ。その理由では不服か?」

「…………」

 リョーコは口を噤んだ。

 戦い方は人それぞれ。リョーコなどは、単純に腕力に訴えるような戦い方しか出来ないが、アキトはアキトなりのやり方があるという事なのだろう。

 少なくとも、真剣に打ち込むアキトを批判する事は出来ない。

 うつむいて押し黙っていると、黒百合が視線を此方に向けてきた。

「何か、らしくないな。迷い事でもあるのか?」

「…………」

 言ってしまって良いものかどうか、リョーコはしばし迷った。だが、自分の中で溜め込んでいるよりは素直に吐き出した方がいい。それに何より――

(その方がオレらしいよな)

 開き直ってしまえば、あとは訊くだけだ。

「……黒百合って、強いよな」

「……」

「何時だって冷静を失わねぇし。エステの操縦は神業級だし。素手でもメチャクチャ強ぇし。

 なあ、どうやってそんなに強くなったんだ? どうすれば、そんなに強く在れるんだ?」

 頭半分だけ上にある黒百合の顔を見上げる。相変わらず、バイザーに隠れてその視線は窺えない。

「悩み事はそれか……」

 嘆息してから、黒百合は両腕を組んで視線をアキトの方へと戻した。そちらを向いたまま訥々と語り出す。

「……スバルは俺を強いと言ったが――そもそも俺は、自分自身を強いとは思わない」

 今の自分自身に満足した事はない、と黒百合は言う。

 それは、一種の強迫観念にも似ている。かつて、黒百合は己の力の無さ故に大切な人を護る事が出来なかった。

 その為に、黒百合は力を欲した。奪い返す為の力。何者にも勝る力。それ以外の全てを犠牲にしてでもそれを求めた。力に飢えていた、と言っても良い。それは、己の無力感故に。

「あの時こうしていれば良かった、と思った事は何度でもある。俺の人生は後悔ばかりだ。だからこそ、俺は力が欲しかった。

 今、アキトがトレーニングに打ち込む理由も、まあ似たようなものだろうな」

「……」

「確かに、今の時点でスバルと俺との間に実力差はある。その原因は、単に積み重ねてきた修練の差、だけじゃない」

「! じゃあ……!」

 色めき立ったリョーコを黒百合は手で制して続けた。

「だが、俺はそれをお前達に教えようとは思わない。テンカワのヤツにもな」

「何でだよ!?」

「俺のようにはなって欲しくないからだ」

 即座に黒百合は言い切った。リョーコの言葉は勢いを失って、虚しく空気を振るわせる。

「お前達は知らない。俺が今の力を得る為に、どれだけのものを喪ったか。どれだけのものを犠牲にしたか。

 それを理解せず、ただ上っ面の力だけを求める者は、いつか闇に墜ちる。俺のようにな」

 黒百合は小さく口を歪めた。初めて見る黒百合の自嘲の笑みに、リョーコは言葉を失った。

「スバルにはまだ時間がある。焦る事はないさ。お前達はお前達らしいまま、強くなっていけばいい」

 そう言い残して、黒百合は口を閉ざした。リョーコはそれ以上言葉を重ねる事が出来なかった。

 

 

 それ以後は、黒百合はアキトのトレーニングの方に集中してしまった為、こちらを構う事は無くなった。

 組み手を始めて豪快にアキトをすっ飛ばしている黒百合の表情は、何時にも増して張り詰めているようにリョーコには思えた。

 これ以上、何かを聞き出す事は出来ないだろうと見切りを付けて、リョーコはトレーニング・ルームを出る。ハッチが閉まった後、リョーコは胸の中に堪った空気を盛大に吐き出した。知らず知らずの内に身体が緊張してしまっていたらしい。

『お前達は知らない』

 そう言っていた時の黒百合の表情を思い出して、リョーコは一人身震いした。

 黒百合との付き合いはもう半年以上になるが、初めて彼の秘密の一端に触れたような気がする。

 結局、黒百合は『自分のようにはなるな』と言いたかったのではないか。そういう風に思えたのだ。

(イズミあたりと一緒だったら良かったな……)

 リョーコはある意味黒百合と同じく正体不明な同僚の顔を思い浮かべて、小さく苦笑した。あのいつも暗い表情をした女なら、黒百合の言葉を聞いてどんな言葉を返しただろうか。

 興味は湧いたが、リョーコは今日の事をイズミ達に話す気はなかった。

「でもまあ、追っかけるのはオレの勝手だよな……」

 黒百合には、未だ自分の知らない闇がある。そんな事は、ずっと前から判っていたじゃないか?

 難しい事は知らない。知った事じゃない。だが、黒百合の強さが自分の目指す先にある事は確かなのだ。

 それが確認できただけでも充分な収穫だった。

 真剣な表情でトレーニングに打ち込んでいたアキトの姿が脳裏によぎる。

「ま、アイツに負けねぇように頑張んねーとな」

 リョーコはその場で伸びをして、部屋を出た時とは打って変わった、晴れ晴れとした表情でその場を後にしたのだった。

 


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