パチリと木の中に僅かに残っていた水分が木の繊維を破壊する音が鳴り、それに相対するかのように、身を寄せ合った一組の男女は、一切の言葉を発していなかった。
それは暗い森の中、予定は未定で、森羅万象の文字に森が含まれているとおり、森とは人知の及ばない神々の遊び場なのだと、密かに悪戯好きな運命の女神を罵る。されど神は神であり、その遊び場たる森も人外魔境なのだと魔力と体力の回復に努め、されど眠らないという矛盾を体現しているときのことだった。傍らの少女が、妬むように恨むように小さく呪詛というにはか弱くされど思いは大きな内心を吐露したのは。

第四話 白きレギオン

繰り返し繰り返し日常という時間の環は、絶えることなく回り続け、されどその中に僅かな差異を生じさせながら永遠に続くのだと、それが世界の真理なのだと、ネギは思っていた。
だが、現実に体験してみればそれは一種のまやかしであり、永遠などあり得ないという想いにもとらわれた。
そう変わってしまったのは自分の周囲の時間。たった一人でこうも変わるのかとまるで箱の中身になったかのようにありとあらゆる世界の不幸を願った。否、その一人、少女、フェレストこそが究極の厄災を解き放ち、残った希望を鷲掴みにして銀河の彼方に放り捨て、世界中に散らばるはずの厄災を操り一点集中させこの身に振りかけているのではないのだろうかと幾度思ったことだろうか。
少女フェレストは今更言うこともないだろうが、学校最高権力者に数えられる理事長代理という、放棄してはならない重要な役割を持っているはずなのだ。にもかかわらずフェレストは、付いてくる付いてくる。行くところ全てにコガモのように付いて来るのだ。
鬱陶しいのかと聞かれれば、否と答えられる。では、嬉しいのかと問いかけられれば、いっその事脳みそを豚と取り替えて来いと悪態をつくだろう。では、一体何が嫌なのかと、あんな美少女に仲良くされてと問われれば、こう答えるだろう。
「美しいことは肯定しよう。美しい物を無理やり貶めることは美しい物を愛でる神々への冒涜に等しい。だがだからといってその性格が世間一般的に見てよろしいのかと問われれば否と答える準備がある」
ある少女は呟いた。それはどういうことかしら、と。その言葉に一人ネギは大きく頷いて世界に宣言するかのように両腕を広げ、言い放った。
「鬱陶しいのではない。鬱陶しいのであれば徹底的にその存在を脳内から削除すればいいのだ。つまり空気だ、否それは空気に失礼かもしれない。空気は見えないが役に立つ。だが鬱陶しいのは邪魔なだけだ。害悪でしかない。だがそれ以上に問題なのはその行動だ」
分かるか、とネギは拳を握り締め激情が駆け巡っているのか腕が小刻みに震える。小さく、あなた意外と酷いのね、と聞こえたような気がしたが完全に無視をした。
「何も出来ない。魔法の習得も、訓練も、誰だって許してくれるちょっぴりデンジャラスなだけの実験も。一切合財満足することが不可能なのだ。これでは保護観察処分を受けた犯罪者だ。年が若いということを考慮しても尚、刑事裁判を行使するべきだと、青少年保護法などくそくらえだと訴え。挙句には、のっぴきならない事情が無い限りこの世に存在する全ての犯罪者は皆等しく死するべきだと主張してやまないが、私は何の罪も無い。冤罪で裁かれることは最も忌むべきことのはずだ。だからこそ私は言わなければならない。開放せよと」
心地いい乾いた小枝を折るかのような音が鳴り、醤油焼きせんべいを食べる少女は、これ以上無いほど簡潔に言い放った。
「問題児の監視は必要事項よ、ネギ」
その少女こそが全ての原因、学校最高権力者にして、アリアドネー所属理事職第十三支部、通称総合理事室の主、エルフェストミレシアムフォントジサーレ、愛称フェレスト本人である。そして最近付いたあだ名が、六年生の悪魔っ天使、あるいは、紅を制止する乙女。その全ては彼女の容姿と、ことごとくネギの暴走を止める事から贈呈された、名誉ある称号。
だが、ネギにしてみれば、邪魔者以外の何者でもないのだ。生まれて初めての強敵と称したのは紛れも無く真理であり、尾行を撒こうがいつの間にかそこに居たという状況が作り出される。
ではいっその事と開き直り、目の前で実験を始めれば、さりげない思考誘導で、気が付けば既存の代物を作っていた、などということは既に数え切れないほど実行に移されていた。訓練も同様で、手を出してはこないのだが、始終観察する視線を感じ、何が面白いのか敵との交差する一瞬に身構えるほど鋭い視線を向けられ、あわや大怪我という事態に発展したことも数知れず。更にはどうやったのか、脅したのか現生をぶち込んだのか、いつの間にかあまりの危険性に、ことごとく去っていった者達の影響で一人だったところを、堂々と相部屋になっていた。そもそも此処は男子校だろうと、叫びたかったが意味を成さないことは明白で、唯一の安らぎは、フェレストが寝静まったあと、魔法球で過ごす時間しかない。
しかも、魔法球は機能こそ完成しているものの、肝心の建物や、今後の課題だととっておいた耐久性の問題で戦闘訓練は出来るものの、ネギが普通と感じる実験が一切行えない。
唯一の救いは、ネクロノミコンが白紙の本だと思われている事だ。フェレストは今まで誰も手に取り調べなかった笑う赤本の名で広く知られるそれを、一切怯えることなく鷲掴みにしてページを開いたのだ。此処で焦るのがネギ。読むものが読めばそれが外道の末記されたものだと分かる。だが結果は、ネギあなた意外とお茶目ね。こんな実験物質を作るなんて。と魂を付与しただけだと判断したのだ。それもそのはずフェレストには細かく書かれている文字が一切目に入らず白紙の状態にしか見えなかったのだ。
それは、ネクロノミコンが意思ある魔道書であることに関係している。普段から不気味だと独特のアメリカンな笑い声を上げていることから分かるとおり、ネクロノミコンは生きていたのだ。そしてそれだけで済むはずが無く、ネクロノミコンには自身で自身のマスター主人を決める能力があった。

ネクロノミコンは魔法使いの闇の部分が形になったかのような魔道書だ。当然発見されれば焼却処分の道は免れない。だが生きているのであれば生まれを理由に処分されるなど認められるはずが無かった。しかし悪の魔法使いにその身を託せば悪用されることは請け合いであるがそうはならないのだ。
発声は笑うことしか出来ないが、意外にもネクロノミコンの生みの親、初代マスターは悪であっても人格的に優れていたらしく、ネクロノミコンの人格形成に重要な役割を果たした。悪と罵られようと、己が最善だと想うことを成す。初代マスターは立派な魔法使いではなかった。寧ろ正義をとなえる魔法使いに悩んでいた。正義とは何か、それほど軽いものなのかと。
当時は力こそ正義という時代であったが故に、その最終段階、力ある民衆の影響力、一人ではなく大勢のそれなりに力を持った者の数と一部の権力者が正義であった。常識や見解というものは時代と共に移り変わる。それを知っていたが故に力ある民衆に便乗し、深く考えることなくただ正義をとなえる魔法使いのあり方を疑問視し、後に革命といわれる大衆とは違った、されど後の時代においては正義となる可能性があるそれを、たとえ悪と言われようとも貫いたのだ。それは多くの者を殺し、そしてそれ以上の正義に見捨てられたものを救った。
ネクロノミコンに記された数々の術式は悪の魔法であろう。だがネクロノミコン自身それを知っていて尚、貫くべき己のみの正義を持つものの手に渡ることだけを認めた。それ以外のものには触りたくも無いという根拠の無い嫌悪感を抱かせながら。
不思議に思ったことはないだろうか。光を嫌う一角にあったというのに、光の下でも何ら変わらず存在できていることを。自我があるからではない。それは光の下にあってなお薄れない、悪という名の誇り高い正義を胸に抱いているからだ。
そうしてネギは知らず知らずのうちにネクロノミコンに選ばれた。正しいマスターとして。この世全ての悪が具現化したかのような大図書館の一角で、暗闇を進む唯一の方法を、怨念が襲う理由を考え、ただ炎ではなく、闇の炎を生み出し、それを持って悪の魔法使いが行った数々の外道を受け止め、外道の果て完成した魔法を嫌悪することなく、使うことを戸惑うことなく蒐集したその心。
聖なる日に、ネギがやってきたのは偶然ではないのだ。ネクロノミコンはずっと見ていた。代々マスターとなったものに共通する意思の波動を感じ、ずっと見ていたのだ。そして信仰される事から、それ自体が神秘をまとうその日。本来ならば交わるはずの無い神聖とは間逆の暗闇にネギが歩みを進め、出会い、受け入れたのは、人知れず世界全ての知恵あるものにその日限定で降り注いでいる聖なる神秘よりも尚、暗闇を受け入れる意思が強かったからだ。全てはネクロノミコンにより仕組まれていた。ネギが真に資格のある者かどうかを探る為。だから全ては偶然ではなく、必然。
とはいえ、ネクロノミコンの本質は変わらない。マスターが居てもいなくとも魔法使いがとなえる正義に浸かっている者には触れることすら叶わない。それはどれだけ興味があろうとも変わらない真実。だがフェレストは戸惑うことなく手に取り中身を開いた。それがどういう可能性を秘めているのかは、ネクロノミコンにしか分からない。

日本ならとっくの昔に桜は散った今日この頃。梅雨前線は列島上から大陸側へ押し上げられ、蒸し暑い季節を運び始めていた。
そんな時期魔法世界にある学校も、最終学年生に卒業課題を提示した。とあるところではこれまで学んだ魔法に関する無差別問題だったり、予め決められた数の魔法を正しく習得できているかどうかの確認だったりと様々だが、此処アリアドネーに存在する全ての魔法学校では、国の方針に従い、皆平等に同じ課題を出すことはない。皆平等に区別し、やれるかやれないか本人には分からないほどの、総合的、客観的に見て全力で事を成せばぎりぎりやり遂げられるだろうと判断できる課題がそれぞれに下される。
それ故に、アリアドネーに存在する魔法学校は例外なく卒業が難しいのだ。何せ実力の限界点でやらなければならないのだから。気を抜いた瞬間が落第である。
だが、此処は初級魔法学校。おおよその場合留年しても一年時間があれば卒業できるほどの課題だ。それは高等魔法学校に比べればどうということはない。そう、そのはずだった。
それを告げられたときのネギの表情は見ものであったと、ネギの相棒は語る。周囲に居た教師もまず無理だろうとまた一年悩まされるのかと唖然としていたことがそのメモリーに残された。
ネギに出された課題。番犬の捕獲。何を簡単なと思うだろうが、こと魔法世界に関して言葉そのままの誰もが想像するような番犬など存在しない。家々は番犬よりも優秀な妖精を飼っているからだ。それは犬のようだったり猫のようだったり、あるいはオコジョのようだったりと様々だが、彼らは皆一様に言語を理解し、番犬という言葉を嫌う。自らは妖精であり、より知能の低い犬ではないのだと。故に彼らは使い魔と呼ばれ、魔法世界において番犬という言葉が変質したのだ。
番犬という言葉は消えない。それに最も適した、否地獄という文字が付いて漸く旧世界においても認識される幻獣が存在する。そう、地獄の番犬、ケルベロスだ。
「それを捕まえろですか? プレセント教論。頭、湧いてません?」
珍しくネギが直球ど真ん中の暴言を吐いた。それにプレセントと呼ばれた教師は、怒ることも無く、寧ろそれが当然だとでもいうように弱弱しく首を振った。
「スプリングフィールド君。本来私たちが想定していた課題は、鷹竜グリフィン・ドラゴンの首を持ち帰ることだったのです」
その言葉に、ネギは恐慌するどころか、寧ろそれならどうにでもなったものをと、溜息を吐いた。ネギにとって例え下位種とはいえ本来恐れられるべきドラゴン種に分けられる自然災害級の鷹竜は、圧倒的弱者なのだ。魔法障壁も展開され、魔法を使った何がしかの攻撃属性のブレスを吐いたとしても、それを操るものは野獣なのだ。それはすなわち芸の無いただの暴力に過ぎない。これが種として史上最大級の強さを誇る古龍エンシェントドラゴンならば話は別だが、竜は竜でしかなく、神とも言われる龍とは存在の格が違う。故にたかが蜥蜴を巨大化した種の一員であるのならばおそるるに足らない。
プレセントという教師もそんなネギの様子を咎めることなく、寧ろ当然だろうと浮かばない顔で続きを口にした。
「本来初級魔法学校に許された課題のうち、最大難易度のものが鷹竜の捕獲なのですが、それに注釈は付いておらず、あなたならば此処に付くまで生きてさえいればいいと情け容赦なく痛めつけるでしょうことは予想がついていました。私たち教職員は生徒を正しく導く聖職についているのです。当然無闇な殺生は禁止することが正しいのですが、魔獣を狩るハンターのかたがたと協議した結果、本職である彼らでさえ同じ条件が出されれば、確認される間まで生命のともし火が持てばよいという捕らえ方をするだろうと答えられました。それが最も効果的であり、尚且つ危険度の少ない方法なのだと。それは鷹竜を捕らえるには、個人では出せない大掛かりな檻を用意せねばならず研究は終わっており、更に鑑賞するものも居ない。捕獲だというのは名目上であり、その肉を新鮮に届けるための方便に過ぎない故、その処置が最適なのだと」
此処で、痛ましげにプレセントは言葉を切り、まるで心を鎧で覆う作業をしているかのように時を置き、自らの意思を語りだした。
「それでも私はあなたに生き物を殺すという所業はしてもらいたくありませんでした。ですがそういったやり方で鷹竜を捕らえるならば今のあなたにとってそう難しいことではありません。だからこそ、窮鼠猫をかむという言葉通り、鷹竜の死に物狂いでの抵抗を潜り抜け、殺すという課題を上層部に申告したのです」
それ妥当だろうと、ネギはプレセントの言葉をそれなりに納得した。最高が捕獲。それは通常であれば殺すよりも難しい。だが自分ならば生きているうちに判定が間に合えばと、確実に考え死なないぎりぎりの境目に落とすだろう。捕獲とは本来その後の利用価値があるからこそするのである。だが鷹竜にはそれが無い。そして捕獲の際攻撃してはならないなどといわれることはあり得ない。それは完璧に生け捕る場合においてもしなければならないことだからだ。
仕留めることも、どの道一撃ではいかない。それは鷹竜という種族を情報だけではあるが知っているから判断できた。ネギは自分の力を過大評価しては居ないのだ。殺気のこもらない攻撃も出来るだろう。だが野生の生き物とは例外なくそういったものに敏感で、真に隠しとおせる者は暗殺技術に特化したものか、あるいは同じ野生のハンターだけだろう。
だからこそ、殺す意思を感じ取り、徹底抗戦することは請け合いで、そうなってくると楽勝とは言いがたく、それでもアリアドネーにおける魔法学校の課題とは相反することになるが勝つことを想像できるほどには勝率が高い。ぎりぎりにはならないのだ。
「ですが、下されたのは私が提示したものよりもなお状況が悪いものです。あなたも知っているでしょうが、この時期のケルベロスは雄雌ともに子供を護っています。ネギ・スプリングフィールド。今回限りは辞退してもよろしいのですよ」
それは暗に不可能だと言っているに等しい。実際この時期のケルベロスは、地球で言う子供を生んだ母熊のごとく凶暴だ。縄張りに近づいた生物がたどる道は死以外にあり得ないと言わしめるほどの危険度。
だがネギは拒否しない。ケルベロスのデータは知っているが、この時期はその凶暴さゆえに、正確な資料が作成されていないのだ。今まで幾チームもの学者が挑んだが皆、屍をさらすことになっている。それでも死守できた数少ないデータが後続の調査団にて発見され分析されたからこそ僅かとはいえデータがあるのだ。
これが殺すのであれば、迷うことなく承諾したかもしれない。先ほどは殺すほうが難しいと語ったが、ケルベロスなどの輩には殺すほうが難しいのではなく安全なのだ。
ケルベロスやヒュドラなどは、その多く存在する首から上が全てそろって一つと勘定されているのだ。つまりケルベロスの場合三つある首を、一つずつ切り落としたとしても、切り落とされた首以外が残っていれば足りない部分を完成させる為に瞬く間に再生するのだ。蜥蜴の尻尾など目ではない。
当然エネルギーは急激に減るが、仮にも地獄の番犬と銘打たれているからには、体力勝負で負けるのは人だ。それほどの差が存在する。だが、長期期間で見れば、相手は野獣であり冷蔵庫を空けて飲み食いするのではない。いくらケルベロスが強いといっても自然形態の一つでしかない故に、例外的な人とは違い、獲物にありつけるか否かはそのときの運による。長期戦を覚悟すれば殺せない相手ではないのだ。
一体上層部は何を考えているのか。それが今ネギの頭にある問題だった。この時期のケルベロスを殺害ではなくより難易度の高い捕獲を命じる意味。ケルベロス級の生物の捕獲ならば幾通りも想像できる。この時期の力ゆえの難易度を考慮に入れても尚。難しい課題を与えたいのならば、凶暴とはいえ基本スペックは変わらないケルベロスよりも、より適している存在は多数ある。寧ろそちらを指定するほうが自然であり、尚且つ前例がある。考えられるのは二通り。
一つは他の野獣のスペックが高すぎるから。これは純粋に不可能だと考えられたのだろうとすれば納得できる。
もう一つは、ケルベロスで無ければ成らない理由。しかも最も凶暴なこの時期の。これに対してはあり得ないと思い却下しようとしたところでネギの頭にケルベロスのデータがよぎった。この時期のケルベロスは、二頭で子供を護っている。
気が付けば職員室はおろか、学校全体に響くのではないかと思うほどの高笑いをあげていた。
表情が引きつったプレセントが目に写ったがかまわない。まるで狂ったかのように笑い続け、ネギは嗤いながら言い切った。
「地獄に落ちろと伝えておけ」

ケルベロスを捕獲するという課題を承諾したにしては少ない荷物を持ち、武器を顕現させ紅いコート騎士甲冑を纏った。幸い問題のケルベロスはアリアドネー国内に存在するらしく、すぐさまその情報が届いた。その事に推測をより確信へと近づけることになったのだが、今はそれどころではなかったともいえる。
「何でフェレストが居るんだ?」
「悪いかしら」
うふふと幼い姿に合わない妖艶な笑いをこぼし、潤んだ瞳でネギを見つめる。
アリアドネーは都市国家と銘打っているものの、それは過去、大戦以前の話である。南の帝国ヘラスに侵攻されたときは確かに都市国家だった。だが、ナギ・スプリングフィールド率いる軍勢が戦争の真実を公開し、それに息を合わせるがごとく領土奪還作戦に出たとき、既に上層部が瓦解していたヘラスは、それまでの勢いは何処へやら、あっという間に戦線が崩壊した。元の領地を取り戻した故に本来の予定ではそこで止まり、ヘラスが再度侵攻せぬよう食い止めることが次の作戦だった。しかし占領中のアリアドネーは男は問答無用で牢に入れられ、抵抗するものは殺し、女を食い物にし、子供はよき帝国の人民になるべく洗脳まがいの教育が施されていた。それを知った上層部は激怒。事実その翌年、父親の居ない子供が多数出産され、人口ピラミッドはいずれ高齢化社会になることを暗示した。
それらの対策と、何より行き場の無い怒りの矛先を未だ帝国に付き従う周辺の中小の国家群に向けられ、アリアドネーの魔法科学が牙を剥いた。その結果、攻め入った国々はアリアドネーに統合され、未来の閉ざされかかっていた赤子の道と、国としての行く末も戦時下で急激に減った財政状況以外では、完全に開かれた。というのも周辺の国々というのがそれほど人口は多くはなく密集地も少なく、それで居て土地だけは広大という状態だった。アリアドネーはもともと技術が他国の数十年先をいっているといわれるくらいであったことから多くの学者や、留学生を戦前から受け入れていた。それの規模拡大で利潤を生み出し、人口ピラミッドの問題も、一番危惧された財政問題も今では解決に向け確かな歩みを見せている。
そういった歴史があり、広大に成った領土を夜行型空中高速船に乗って移動しようとしているのだが、目の前に居るはずのないフェレストが居るのだ。コガモのようにといっても限界があるだろうと、ネギはこれから行くところの危険性を延々と説く。
「それくらい分かっているわ。これでも理事長代理なの。覚えているかしら?」
堂々と言い放つ姿に、ネギは最早何もいえない。確かに強敵だとは認めた。だがそれは知能面での話で、争いごとについては未知数だ。訓練において無意識下で構えを取らせる程ではあるが、それイコール実戦で使い物になるかと問われれば否定しなければならない。訓練で出来ても、実戦でできないことなど珍しくは無いのだ。更に言うとネギにはフェレストから一滴の血の匂いも感じ取れなかった。巧妙に隠しているという可能性はあった。だが、此処にいたってまで隠すことなのかと問われれば、疑問しか残らない。隠すつもりならば戦になるこの先に行くはずがない。いったが最後、実力をさらさなければ生き残れないからだ。だが付いてきている。これにも二通り考えられる。
一つは凶暴なケルベロス如きどうにでもなるという詐称していない限りこの年齢で達することはまず不可能なレヴェルに達しているからこその行動。つまりケルベロスの攻撃が全く効かず、それで居てネギの奮闘を間近で見れるほどのそれでもまだ完全に実力を見せない尋常ならざる実力者という可能性。
もう一つは、単純に無知だから。戦いを知っていても戦を知らない。血に濡れ傷つき、それでも諦めることなく勝利をもぎ取る華も何もない、泥と血と汗と悪臭の充満するそれを知らないからこその行動。知らないが故に恐れることなく進むことが出来る無謀。
そのどちらかだとネギは判断したが、結論を下すことはなかった。結局やることは一つなのだ。
目の前で妖艶に微笑むフェレストを押し倒し、シーツを被る。
「ちょ、え、ま、まって」
じたばたといつもの冷静さを吹き飛ばし、年相応に慌てふためくフェレストにかまうことなく一言。
「A席は一つしかとっていない。このベッドに居るということは他にとっていないのだろう? だったらおとなしく寝てろ」
瞬間、フェレストの動きが止まり、溜息と共に抱きしめ返された。
「さしずめ私は抱き枕といったところかしら? まったくあなたは」
こっちもそうするわよ、とシーツの乱れを直し、寒くないように体にかけなおした。
だからこそ少しだけ微笑む。ネギはシーツの中に潜る形になっているが、フェレストは丁度いい高さに枕が来ることを、シーツが届くことを分かってしまったのだから。
「おやすみなさい」
その二人を窓から覗く月の光のそっと照らしていた。

さてケルベロスが生み出した植物と言ったら何を知っているだろうか。伝説上ケルベロスのよだれからトリカブトが生み出されたといわれている。だがそれはあくまで伝説で、この世界に存在するケルベロスは姿が酷似しているが故にケルベロスと名づけられただけだ。故にトリカブトは関係ないはずなのだが、
「毒草ばっかり。しかもこれ高山植物だろ」
「でも、綺麗よ」
毒草だといわれたにもかかわらず、花をつつくフェレストはその指を舐めた。
ネギは瞬時に目を離す。フェレストの死に行く表情を見たくないのではない。その仕草があまりに妖艶で、顔が赤くなるのを耐えられないからだ。
これってどうよ、まだ満九歳なんだぜ、と予想外の消耗を強いられた。そしてそれを見て目を光らせているフェレストに、確実に此処がどこだか分かっていないと理解した。
そうしてネギは気付かれないように若干目を細めた。五、六と数え、その総数が二十を越えているということに若干驚き、その距離から目的を察し、そして嗤った。
「フェレスト。最後の忠告だ。去れ」
赤いコートの上からリュックを背負い、絶対零度の視線を向ける。しかしフェレストはそれに怯えた様子は欠片も見せず、あろう事か笑い返した。
それが、境界線を越えるという決意なのだと、ネギは今後一切の妥協を許すことは無い。
それからネギが探したのは悪臭だった。それに対しフェレストは首をかしげる。ただ声を出さないことからこの時期のケルベロスの情報は知っているのだろう。
それは数分もせずに見つかった。ケルベロスは地獄の番犬の異名に恥じることなく巨体だ。伝説のようにハデスに飼われている事も、騙されるほどには頭がいいということも無いが、外見とその炎のブレスは伝説に恥じることは無い。そして現実に身をおき身体を維持している以上、そのエネルギー消費量は多く、補充もまた多くなければ成らない。そして食べれば排出されるのが常識だ。巨体だということはそれの大きさもより巨大であるということである。
勿論それを見たフェレストは顔を歪めたが、ネギは逆に緩めた。匂いが凶悪に近いほど発せられていたからだ。つまりは落とされてそう時間がたっていないということ。
確実に近くに居ると分かったので、空を飛び周囲を軽く捜索。だが足が速いのか見つけることは出来なかった。
フェレストが待つその場に下りて、リュックから一つのクリームを取り出した。それを肌に塗りこみ、茂みで徹底的に塗る。茂みから出てきたときには既にフェレストは諦めにも似た表情を浮かべ、クリームを手に取りその匂いに顔をしかめた。
それも仕方が無い、泥のような質感、近くで臭っているそれとほぼ同種のそれはフェレストにとって体につけたネギが信じられなかった。しかし悲しいかな言いたい事はわかってしまうのだ。つまりは体臭を消せということ。
先ほどネギが飛び立ったのは、上手くいけば砲台のような一撃を与え、弱らすことが出来るということが一つ。もう一つはどの方向に向かったかの確認。けっして此処で片をつけようなど考えては居なかった。
ケルベロスは犬である。それも巨大な。元から鼻がいい犬種である。それが巨大化し能力が強化されているのだ。これより先は確実に縄張りに入る。獲物、それも脆弱な人間となれば襲われることは受けあいだ。
故に泣く泣くフェレストもその凶悪クリームを塗りたくることになった。

暗闇の中、じっと身を潜ませる。既に罠は張り終え、餌はまいた。後は疑似餌に食いつき、本命に食いついたところを突撃する。たったそれだけ。されど宝の前には後一体、親と言う名のガーディアンが陣取っている。だが、
ガサリ、と茂みが動き、次の瞬間甲高い野獣の悲鳴が上がった。フェレストに目で合図をして、Bと名づけたポイントへひた走る。戦いの歌を使い十分慣れたが故の身体能力及び強度が格段に強化された体は、普段は出さない瞬動を超えた瞬動を発動させても、がたが来るどころか回転率を増した。風になったかのようなスピード。しかし今はそれに酔うべきときではない。
「十九、二十三、二十…ビンゴ!」
瞬間手に持った刀を一振り。遠くで爆音が鳴り響き、連鎖的にこの場所まで破裂音と、閃光が迫る。
「悪き夢を」
ばい、と勢いをそのまま何かを放り投げる。咆哮はいよいよ近くなり、同時に爆音がたどり着いた。
瞬間、何かを投げた方向から強い光がほとばしり、多くの人影を暗闇から浮き出させた。
それを見ていたい気がしたものの、残された時間は少ない。
傍らで唖然としているフェレストを強引に持ち上げ、ポイントA。本命の元へ向かう。それもわざわざ迂回する形で。
さて此処からが大変だと、ネギは乾いた唇をなめた。全ては時間との勝負。遅くてはいけない。されど速すぎてもまた失敗に終わる。腕の中で呆然としているフェレストを見て、仕方が無いと、この世界のものではない、サーチャーと呼ばれる監視や盗聴などにつかわれる魔法を実体化させ、先ほどのポイントBに向かわせた。
脳裏に映るのは、森の中を全速力で飛ぶ機械特有の目線。それに惑わされること無く正しく迂回しながら、ポイントAにむけ走る。この日のために一週間かけたのだ。失敗してたまるかという意地がそこにあった。そしてそれ以上に、今回以上に適したときはやって来ないだろうと確信し、幾度も考えた攻略方法をおさらいした。
脳裏に所々が黒い、火の比率を強めた闇の炎が映し出された。それの大本は考えるまでも無く確実だろうが、それでも確認をする。そうして映し出されたのは巨大で薄汚れた三つの頭がある異形の犬。たてがみがあることから雄だと判別できた。それに内心で舌を打つ。雌の方がよかったというのにと。
人以外の生物の多くがそうであるように、ケルベロスもまた雌のほうが強靭で強暴だった。つまり今向かっているポイントAには、雌のケルベロスが存在するということになる。
ネギは慎重に慎重を重ね、計画を練ったが、それでも望むべき長期戦の訪れは期待できず、短期決戦で挑むこととなった。これまで短期決戦を挑んだ者は大勢居る。だがその誰もが一年中で最も凶暴化するこの時期を選んだものは居ない。
勝てば史上初の偉業を達成したことになるのだろうが、公開はされないだろうと内心でおキレイな上層部の者達を嘲笑った。祭り上げることは勿論、次善策である埋もれさせることすら不可能にしてやろうと。
脳裏に悲鳴と、逃げ惑う人々、決死の戦いを決意した人々が映ったが、全て予定通りと脳内チェックに印を入れた。

どれほど走っただろうか。サーチャーから送られてくる映像は、つい先ほど炎が途切れた。その後は雄を監視しているが特に移動していない。運がいいと、漸く付いたその場で、瞬時に遮音結界を張り巡らせた。
その場にフェレストを放し、一人その大山に近づいていく。
「うぅぅぅぅぅぅぅぅ」
三つの頭が上がり、その三体の視線を一身に浴びながらされどネギは笑みを浮かべていた。
「さあ」
ゆっくりとどこか優雅にも見える形で刀を抜き放ち、
「はじめようか」
逆さに切っ先から地面に落とす。地面が水面のように波紋を広げながら何の抵抗も無く刀は吸い込まれ、
「血肉が沸き踊る殺し合いをッ」
「がぁぁぁぁぁ!」
その言葉を聞かず飛び出したケルベロスに、白い何かが、無数に突き刺さった。
天から舞い降りてきた刀を再び手に取ると、共に空から振り、隊列を組み後ろに控える二十を越す、どこかが炭化した部分を残した白骨を、
「全部隊、突撃!」
刀を振り下ろすことによって、一斉に襲い掛からせた。
ありを観察したことがあるだろうか?
魔法障壁で突撃しようとしたケルベロスはしかし、何も無かったかのように素通りした白骨がその折れた腕を槍に変え、それ自体が魔力を持っているとされる剛毛をまるで眼中に無いといわんばかりに無視して深々と突き刺さし、そのまま分離。体内部を内から食い破った。
ありは一匹では弱い。それは種族にもよるだろうが大抵はそうだ。靴底でタバコを消すように踏みにじられれば原型は無くなる。
その一体はケルベロスの一撃に吹き飛ばされ、最早操ることすら不可能なほどに木っ端微塵に砕け散った。しかしその瞬間、反対側から、上方から、斜め後ろから、体が空間に接するありとあらゆる場所から、白骨が肉を噛み千切り、刺し貫き、抉り出し、穿ち、弾けさせ、ありとあらゆる魔法防御も強靭な肉体も意味を成すことなく、ただただ痛みの電気信号のみがケルベロスに送られた。
ありは軍隊だ。不死身ではないが無限に近い数の小さいが故に排除しにくい訓練された兵士たちだ。それは時にボール状になり川を流れ、自らの何倍もある動物をも打倒し血肉とする。
ケルベロスは苦しみに炎を吐き、のた打ち回り、一兵の白骨をも逃さなかった。故に二十を越える数しか居なかった白骨は僅か十数分で木っ端微塵となり、この世から消えたかのように思われた。
ありは確かにすごい。恐らく蜂と同様にこの世に存在する軍隊では最高峰に位置するだろう。彼らは死を恐れない。いや恐れているのかもしれないが、それがなんだと死ぬことを前提として敵に突撃する。そこに緻密な作戦は無い。だが死ぬ覚悟の出来た、否死ぬ未来を知っているはずだというのにそれでも向かってくる兵士は、狂兵と呼ばれ恐れられ忌諱されるだろうが、最強に限りなく近い兵士である。だが、所詮は死んでしまったら何も出来ないのだ。
だから、
「ヴ・ヴライマ」
その瞬間、恐れを知らないはずのケルベロスが後ずさった。木っ端微塵に砕かれ粉塵に変えられた白骨が、立った一言の呪文命令によって、白き竜巻を作り上げ、そして、
「■■■■■■■■■■■ッッッッッッッ!!」
巨大な、低く見積もっても二十メートルはある人型の白骨が、白き大鎌を持ちその場に光臨した。

戦いはあっけなかった。
初めこそ人骨の兵士が善戦しているように見えたがその実負けは確実で、作戦はどう見ても失敗だった。
事実、ケルベロスの体力と気力、そして再生に回したエネルギーを大きく消費させたものの、二十八の白骨は全滅した。どこかでこれで終わりなのだと、ホッとした安堵にも似た感情が走り、すぐさま後悔した。笑って死ぬのはいいが、せめて誰かに見取ってもらいたかったと。
一番近くに居るのは、わざわざ自分に回される理由が最近まで理解できなかった、ネギ・スプリングフィールドだ。正直監視に回されそれに気が付くまで閑職に回されたと、一人涙したことも覚えている。
漸く最近になりその価値がわかったのだが、既に遅いようだった。だが、
「何で」
目の前には大鎌に三つの首を一度で刈り取られたケルベロスの死骸。それがおたけびを上げ、もう一匹のケルベロスに果敢に襲い掛かっている。死骸のほうが雌なのだろう、体が大きく、雄のケルベロスの命が消えるときが刻一刻と近づいてきていることが、手に取るように分かる。人は醜悪だ。だが知恵が無い故に獣たちは恐怖を撒き散らすこともあれど純粋で清い存在。だからこそ、それを黙って見つめることが理解できない。
「簡単だ。被害が無い」
確かにそうだ。だが、だからといって彼女を貶める必要は無いはずだ。こんなことをするのはただ面白がってるからだ、と大声で抗議した。到底聞き入れないだろうと思いながら。
「…わかったよ」
だからその言葉が、その痛ましげな瞳が、言ってはいけない事を言ったのだと今更なことを自覚してしまった。
そうして、雄のケルベロスも巨大な人骨が持つ大鎌に命を刈り取られた。

パチリと木の中に僅かに残っていた水分が木の繊維を破壊する音が鳴り、それに相対するかのように、身を寄せ合った一組の男女は、一切の言葉を発していなかった。
それは暗い森の中、傍らの少女が、妬むように恨むように小さく呪詛というにはか弱くされど思いは大きな内心を吐露したのは。
「私は一族の汚点。この羽も尻尾も何度切って捨てようかと思ったか知れない」
ネギはそれに相槌を打つこともせず、出来上がったココアをマグカップにいれ、手渡した。フェレストはそれを受け取り、何をするでもなく、ただぼんやりと灯された明かりに反射する鈍い土色を見つめ、言葉を続けた。
「それでも魔力は高かった。それを総長に見出されて教育を受けたの。楽しかったわ。私を見下した者達を嘲笑うのは。だけどそれも途中から変わった。周囲の目線が妬みに変わっていった。迫害から嫉妬に思考のベクトルが変わっていった」
熱いと、ココアに驚き、それでも少しずつ口に含み飲んでいく。
「それはこの職業についてもそうだった。だからあなたの監視を命じられたとき初めは大事かと喜んだけど、閑職に追いやられたんだって思ったわ。でも違った。あなたは、いえ私しかあなたと対等に話せない。他のものなら丸め込まれる。それが分かった。そして何かを隠しているということも。だから観察していたのよ」
熱くなった身体から大きく息を吐くことで熱を逃がす。その表情は自然な表情で、ネギには何をすることよりも異性を感じさせ顔が真っ赤に染まった。
「あなたが何か分からない。それが正直な感想。でも、もうどうだっていいわ。私は殺される」
「フェレスト?」
どういうことだと始めてネギが言葉を発した。
「あなたも見たでしょ、あの人たちを。あれは私たちを囮にしてケルベロスを研究する為に使わされた本部の研究員。裏切られたのよ私達は。尤もあなたは知っていて利用し返したようだけど」
自嘲の笑みを浮かべ、空を見上げた。
「あなたはその子犬ちゃんを持っていけば晴れて卒業。夏が終われば高等魔法学校に入学。私の代わりが監視に付くだけ。何も変わらないわ。でも私は違う。表だけで生きてきた私は裏を知ったから上層部に抹殺される」
「なら逃げるか」
「えっ」
空から視線を移し、いつに無く真剣な表情のネギを写す。
「私が言えた事ではないが、誰も人を殺す権利も殺される義務も無い。生きるか死ぬかは本人が決めることだ」
呆然と見つめるフェレストに、ネギはココアを飲むことで誤魔化した。それに、小さく吹き出る笑い。
「そうね。もし逃げれるなら逃げたいかもしれない。でも一人じゃいや。付いてきてくれる?」
おかしそうに流れた涙を指ですくうそのとき、ネギが何を言ったのか。それはフェレストだけの秘密となった。
例え殺されることになったとしても、後悔はしない。だって、確実に一人は泣いてくれる人がいるのだから。
「行きましょう。アリアドネーへ」

ゆっくりと職員室の扉を開け、本来ならば校長室にいるべき人物が、付いてくるようにとネギと、フェレストを職員室から連れ出した。
左手にかごを持ち、その腕にそっとフェレストの腕が重なった。若干驚き振り向くと、いつものように済ました顔も、からかうような妖艶な顔も無く、ただぎこちない笑いがそこにあった。
緊張しているのだろうと、その腕を開いた右手でそっと叩き、笑みを向ける。
そうしている間に総合理事室前に着いたのだが、おもむろに紅いコート騎士甲冑を纏い、刀の刃を僅かに覗かせる。
「理事長。二人をお連れいたしました」
入りなさい、と涼やかな声が放たれ、一見それとは分からない巨大魔法障壁に自らとフェレストを包み込む。そうしていつでも抜刀できる構えを取りながら、それと分かる程度にすり足で執務室前まで出向き、相手を牽制する。
「アーサー、ありがとう。それとごめんなさい。三人で話したいことがあるの」
その言葉に校長は頭を下げ、退出して行った。離れたことを感じ取り、まず、総長とも呼ばれるアリアドネー最高幹部の一人である女性が口を開く。
「まずは卒業おめでとうと言うべきかしら」
ちらりとかごに収められた子犬程度しかない幼いケルベロスに視線を向け、貫禄を感じさせえる微笑を浮かべる。
「いえ、それほどのものでは」
表情を変えず言い放つ声に色は無い。それを知り、されど総長は何ら問題ないと会話を続けた。
「謙遜しなくてもいいのよ。あなたはそれだけのことをしたのだから」
「増援を得て、ですが。尤もその増援も今は鬼籍に入っております。それらを考えると素直に喜ぶことは些か問題があるかと」
「増援。そう、彼らを囮にしたのね」
視線と視線がぶつかり合い、総長が微笑んだ。
「マクラレンは今度の総会で袋叩きに会うでしょうね。仮にも英雄の息子を囮にしたのだから」
さも当然とばかりに同僚と思われるものの名前を口にし、いつの間にかフェレストの側に移動していたネギに、真剣な表情を作る。
「ネギ・スプリングフィールド。その、エルフェストミレシアムフォントジサーレといる意味を分かっているの」
その鋭い視線にネギは答えない。ただ視線をぶつかり合わせるのみ。故に総長はフェレスト自身に語りかけた。
「今ならまだ戻れるのよ。あなたにはもっと相応しい者がいます。彼だけはダメよ」
「私は、私はネギと」
そこからは言葉にならなかった。ネギもはじめてみるフェレストの泣き顔。アメジストの瞳からあふれ出るそれに、されど総長は視線を厳しくする。
「ダメよ。彼と結婚をしてはならない。理由はいえないけれど」
「ちょっと待て! 何だそれは、結婚!? 私と、フェレストが?」
ネギは大声を上げ、総長の言葉をさえぎると、目を丸くしてその数瞬後これまた始めてみる赤面した顔に、どうなっているのだと、二人に向けて叫んだ。
「あ、その」
「おかしいわね。私は確かに受け取ったわ。報告書に彼と結婚したいと」
「り、理事長! それは、その、そうなれば面白いなと、そう思っただけで、その…」
恥ずかしげに言葉を詰まらせるフェレストと、目を丸くする総長。その光景に何がなんだか分からなくなったネギは、応接ソファーに座り、酒などを入れる金属製の平たい水筒から完全無糖のブラックコーヒーをのみ黄昏た。
それを一匹、捕獲された幼いケルベロスが鳴き声をあげるのを耳にして思う。
良かった、と。



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