甲斐の国――武田本陣。
そこを走る“疾風”は自分を呼んだ主の背後で止まり、ゆっくりと跪く。
主の男は常人の倍はある体格を持ち、腕を組んで仁王立ちしていた。
「仕事かい? お館様」
「うむ……」
お館様と呼ばれたのは“甲斐の虎”の異名を取る武田信玄その人である。
そして彼の前に跪いている疾風の正体は真田忍軍頭領を務める猿飛佐助だ。
忍らしからぬ迷彩柄の装束を纏う彼だが、忍としての腕は一流と言って良かった。
「最近の北条の勢い……ちと気に掛かる」
「北条……ですか? 確かにあそこ、最近の勢いは眼に余る程ですけど」
「うむ。長年反目し合っていた今川を下し、今は徳川と戦を交えておる」
織田や豊臣と言った強大勢力に隠れがちだが、北条も多くの兵を持つ大名の1つだ。
しかし現当主である氏政の力の弱さがあってか、徐々に衰退が進んでいたのである。
だが――最近は水を得た魚のように力を取り戻し、最近は戦での勝利を上げていた。
「北条の爺さんも若さを取り戻したって事ですかねえ」
「それだけならまだ良いのだが……」
敵にも値しないと北条を捨てていた信玄だったが、こうなってきては話が別だ。
何時こちらに牙を向けられるか分からない以上、敵の情報を探る必要があった。
「何でも奴は腕の立つ傭兵を1人雇ったと言うのだ……」
「傭兵を? 幾ら腕が立つと言っても1人雇ったぐらいで……」
佐助は困惑気味な表情を浮かべ、背を向けている信玄に言った。
傭兵を1人雇ったところで勝利をもたらす程の働きが出来るのか。
佐助にはそれが一番の気掛かりだった。
「うむ……だが北条が勝利を収め続けているのは紛れも無い事実。調べねばなるまい」
信玄は振り向き、跪く佐助に向けて言った。
「佐助よ。北条の雇った傭兵の正体、調べてくるのだ」
「…………了解」
主からの命を受け、佐助は黒い羽根を撒き上げつつ、その場から姿を消した。
その後、信玄のすぐ上を烏が飛び立ち、武田本陣を颯爽と飛び去って行く。
信玄はそれを細めた眼で見つめ、見送った。
「気を付けるのだぞ……佐助」
◆
兵士の雄叫びが響き渡る戦場――三方ヶ原。
佐助は数多くある木々の上に乗り、北条と徳川の戦をジッと眺めていた。
ここに着いてから数十分は経過しているが、未だに噂の傭兵の姿は無い。
(別の場所で戦っているのか、それとも雇い主を守っているのか……)
戦を眺め続ける佐助だが、警戒は1度たりとも解いていない。
一応偵察がバレた時の為に――迎撃が出来るよう――手元には苦無も用意してある。
武田の忍が偵察中、敵方に討ち取られたとなれば、笑い話にもなりはしないからだ。
(まあ、もう少し待ってみるか。時間はまだ沢山――――)
刹那、佐助は突如として自身に向けられた猛烈な殺気に身体を震わした。
すぐさま苦無を構えて辺りの木々を見渡すが、殺気を向けた者の姿は無い。
(何だ……! 今のは……!)
冷や汗が止まらない――佐助は手で右の頬を拭った。
今まで忍としてやってきた自分が初めて感じた、得体の知れない恐怖。
それは楽な任務だと高を括っていた佐助の余裕を全て消し去っていた。
(ここにはもう居られねえ……別の場所へ移ろう)
佐助は木から木へと飛び移り、別の場所へ移動しようとする。
だが彼は背中でヒシヒシと感じていた。
自分の背後から何者かが追ってきている事を――
(ちくしょう……!)
内心舌打ちをし、何とか追跡者を振り切ろうとする佐助。
刹那、彼の右頬を黒い何かが物凄い勢いで通り過ぎて行った。
「――――ッ!!」
佐助が次に飛び移ろうとした、木の枝に深く突き刺さる1つの大型手裏剣。
その手裏剣には北条の家紋が彫ってあり、佐助に嫌でも正体を分からせた。
(北条の忍……!? だがこれだけの威圧感を持つ奴は見た事が……!!)
斬られた右頬から流れ出る血を拭いつつ、佐助は直感的に思った。
もしや自分にこれを投げた者が、北条が雇ったと言う噂の傭兵ではないか。
再び舌打ちをし、佐助は逃亡を図ろうとするが――それはすぐに阻まれた。
「――――あ、あんたは!!」
佐助の前に立ちはだかる1つの黒い影。
それは漆黒の装束と鎧に身を包み、背中に2刀の短刀を持つ1人の男だった。
男の両眼は現代で言うバイザーのような物で覆われており、確認は出来ない。
「風魔……小太郎……!!」
佐助が呆然としたような様子で呟く。
風魔小太郎――忍に身を置く者なら知らぬ者は居ないとされる伝説の忍。
忍としての腕前は鬼神の如く、出会った者は確実に消されるとされている。
故に姿を見て生きて帰った者はあまりにも少なく、伝説たる所以なのだ。
無論、佐助が幼少の頃に過ごした里でも彼は伝説として語られていた。
忍の道を極めるなら彼のように成れ――
風魔は忍の本質を理解している――
眠る前、佐助は親からそう何度も言い聞かされた。
それこそ佐助自身、親の言葉でもウンザリする程に。
(まさか本当に会っちまうとは……)
伝説の忍と実際に対面し、佐助は複雑な思いを抱く。
当の小太郎は何も言葉を発さず、背中の短刀を抜いた。
「へえ……北条が雇ったって言う傭兵ってのは、あんただったか。伝説の忍……」
佐助は愛用している2つの鎖付き巨大手裏剣を構えつつ、小太郎に言った。
しかし小太郎は相変わらず黙ったまま短刀を構え、佐助に向けて飛んだ。
「ちょっ……! いきなりかよ……!!」
小太郎の凶刃が佐助の細い首を撥ねようと疾風の如く振るわれる。
しかしそれを許す筈も無く、佐助は手裏剣で何とか受け止めた。
「あんたの話や噂は色々と聞いたよ……! ガキの頃からな……!」
佐助の言葉に風魔は一切答えない。
「確かに実力、仕事、忍としては一流みたいだ……なッ!!!」
最後の言葉と同時に佐助は組み合った小太郎の短刀を弾き飛ばした。
それと同時にその場から一旦離れようと佐助は木から高く跳躍する。
しかし――小太郎はすぐさま体勢を立て直し、追跡の為に跳躍した。
「馬鹿な――――ッ!」
佐助の眼が驚愕に見開く。
信じられない程の復帰の早さ、そして自身の遥か上を行く跳躍力。
伝説の忍として恥ずかしくない実力を遺憾無く彼は発揮していた。
「……………………」
小太郎は相変わらず無言のまま、再び佐助に向けて凶刃を振るう。
佐助も殺されてたまるかと、手裏剣を刀代わりに対抗して振るった。
(何だ……!)
そうして何度か組み合う内、徐々に佐助の心に恐怖が芽生え始めた。
それは彼を初めて眼にした時から感じていた――違和感だった。
(鬼神の如きとは聞いていたが……この違和感は何だ……!)
その違和感は何時の間にか恐怖へと変わり、佐助を支配し始めたのである。
小太郎は佐助の心情を読み取ったのかは分からないが、凶刃の鋭さが増した。
(この違和感……人として何かが抜け落ちているような――――)
佐助がそう思った時、僅かに隙を見せた彼の胸部に小太郎の凶刃が容赦無く走る。
一瞬何が起こったのか、佐助はその時よく分からなかった。
だが即座に感じた胸の痛みに――やられたと無意識に思った。
「くそぉ…………!!」
佐助が悔しそうにそう呟きつつ、木から真っ逆さまに落ちて行った。
小太郎はすぐにそれを追おうとするが、彼の耳に雇い主の声が響く。
『風魔ぁ! 風魔ぁ! すぐに儂の処へ戻るのじゃ!!』
彼にとって既に聞き慣れた雇い主――北条氏政の必死の叫び声。
小太郎は短刀をクルクルと回した後、背の鞘に収めて腕を組んだ。
『戦国最強と名高い本多忠勝が手強いんじゃ! すぐに戻れい!!』
小太郎は佐助が落ちて行った所をゆっくりと一瞥する。
その後、何事も無かったかのように彼は静かに姿を消した――
◆
「うっ……ぐっ……ここは……?」
不意に走った胸の痛みに佐助は眼を覚ました。
そして辺りを見回す。どうやら森の中らしい。
佐助自身、大木の背もたれに置かれていた。
「気が付いたか?」
「――――ッ!」
突如聞こえた女の声に佐助が思わず身体をビクリと震わす。
前を見ると何時の間にかそこには懐かしき旧友の姿があった。
「かすが……か」
「何だ? 暫く見ない内に私の顔も忘れたのか?」
佐助は苦笑しつつ、昔の幼馴染の“くの一”――かすがを見つめた。
(やべぇ……俺様って今、物凄く格好悪いな)
彼女は上杉に所属する忍だが、佐助とは時々行動を共にしていたりする。
理由は共通の目的の為と言うのが殆どだが、幼馴染だからと言うのが強い。
「お前、戦場の真っ直中に倒れていたんだぞ」
「ははっ……それで助けてくれたのか」
佐助は小太郎の短刀に斬られた筈の胸にソッと手を当てる。
入念な手当てがしてあった。彼女がやってくれたのだと思った。
「な、何を言っている! お前が倒れている等、何か理由があると思っただけだ!」
(相変わらず素直じゃないねえ……)
やれやれと言った様子で佐助はゆっくりと立ち上がる。
かすがは頬を仄かに赤らめつつ、佐助と向き合った。
「聞かせてもらうぞ。何があった? ……噂の北条の傭兵とやらか?」
「…………お前がここに来ているのも、やっぱりその確認の為か」
佐助は助けてくれた礼にと、自身が得た情報を全て話した。
そして自ら身を持って戦った風魔の強さについても――
それを聞き終わった後、かすがは動揺を隠せなかった。
「風魔小太郎……伝説の忍か。まさか北条方に付いているとは」
「奴の強さは半端じゃない。かすが、お前も風魔には気を付けろよ」
佐助からの忠告にかすがはフンと鼻を鳴らす。
「甘く見るな。私は伝説等に消されたりはせん」
「……だな。お前なら乗り切れそう――」
佐助がそう言いつつ、ソッと空を見上げる。
そして――彼の顔が瞬時に青ざめた。
「佐助……?」
かすが首を傾げ、佐助が見つめている場所へ視線を移す。
そこを見たかすがもまた、顔が瞬時に青ざめた。
「……………………」
今まで2人が話していた伝説の忍――風魔小太郎が木の上に立っていたのだ。
まるでそれは佐助とかすがを見下しているように腕を組んでジッとしている。
佐助はかすがを呼び、すぐさま迎撃出来るように態勢を取った。
小太郎はそれを待っていたようにゆっくりと背の短刀を抜いた。
そして木の上から脱兎の如く跳躍し、佐助とかすがの前に降り立つ。
「俺達を消して……伝説を守るみたいだな」
「冗談じゃない……! 私は消されないぞ!」
かすがはその言葉と同時に小太郎へ向けて多数の苦無を投げる。
しかし彼にとって攻撃に値しないのか、全て短刀で弾き飛ばした。
「ちっ……! やっぱり化け物だぜ!!」
佐助がそう呟いたのと同時に小太郎はかすがに向けて跳躍――短刀を構えた。
かすがは再び苦無を投げて迎撃するが、またも全て弾き飛ばれさてしまう。
(な、何だ……この感じ……!!)
かすがもまた佐助と同じような違和感を感じ、それが恐怖へと変わっていた。
身体が言う事を聞かず、かすがは小太郎にとって絶好の得物へと変わり果てる。
「させねえぞ!!」
佐助は鎖付き手裏剣を、自身に背を見せている小太郎に向けて投げ付ける。
完全に不意を突いたつもりだったが、小太郎は難なく短刀でそれを弾いた。
「かすが!」
「……ああ!」
一瞬でも自分から気を逸らした隙を突き、かすががその場から瞬時に離脱する。
そして彼女は佐助のすぐ横に立ち、苦無を持って迎撃体勢を整えた。
「どうする……? 佐助」
「さあて……どうしようかねえ(2対1とは言え、相手が風魔じゃキツイか)」
小太郎は短刀を構え、ゆっくりと佐助とかすがに近づく。
もう逃げ場は無いと言わんばかりの威圧感に佐助は息を飲んだ。
この絶望的な状況を切り抜けるには“あれ”を使うしかない。
「仕方ないねえ……かすがッ!! “あれ”やるぞ!」
佐助の言葉の意味が分かったらしく、かすがはゆっくりと頷く。
彼女の返事に佐助は微笑を浮かべ、手裏剣を腰に戻した。
そして残った苦無を両手に持ち、かすがと共に小太郎へ投げる。
「……………………」
小太郎は難なく無数の苦無を短刀で弾き飛ばす。
彼の行動は2人に対しての呆れも見始めていた。
(そうやって余裕をかましてやがれ!)
(伝説の忍……少しでも貴様を出し抜く!)
この技を使うには少しでも時間が必要だった。
印を結び、気を溜めるまでの時間が――
「「禁術!!!」」
佐助とかすがは同時に叫び、両手で印を結ぶ。
刹那――2人の身体に膨大な気が流れ、掌に電撃が発生する。
それと同時に空に暗雲が立ち込め、雷の音が鳴り響いた。
「「雷塵!!!」」
2人が叫ぶ――その後、小太郎に向けて暗雲から巨大な雷が放たれた。
小太郎はその場から何故か動かず、雷に勢いよく飲まれていった――
◆
満月が空に輝く中――2羽の黒と白の烏が空を飛んでいた。
黒い烏には佐助、白い烏にはかすががそれぞれ足に捕まっている。
禁術“雷塵”を発動させた後、2人は一目散にあの場から逃げたのだ。
小太郎の生存は――確認していない。
「北条とはこれから少し厄介になるな」
かすがが横に居る佐助に向けて言った。
佐助は満月を眺めつつ「そうだな」と生返事を返す。
(伝説の忍……奴は任務に徹する天才だ。あれこそ全ての忍が目指す者の姿……か)
忍に身を置く者ならば小太郎は確かに尊敬もするし、目指したりするだろう。
だが佐助は彼に対して険悪感、または薄気味悪さしか感じなかった。
彼に対してこう感じるのは忍にとって有るまじき事なのであろうか。
「おい!」
「……ん?」
不意にかすがに呼ばれ、佐助は彼女の方を向いた。
「じゃあな」
かすがはそう言った後、上杉の領地である越後へと戻っていく。
これからまた敵同士になると言うのに――佐助は苦笑した。
「ああ」
佐助もまた、自身の主が待つ甲斐へと道を取る。
そんな中、佐助はぼんやりと思った。
(例え甘くても関係無い……俺の目指す忍の姿は今のままで、これで良い)
飛び去って行く2人を、森林からジッと見つめる1つの影。
一陣の風が靡いたのを機に影はその場から姿を消した――
後書き
今回の話は武田、上杉、北条に仕える3忍が活躍の御話でした。
本文で出ている風魔は兄貴の次に好きなキャラだったりします。
今回の御話はBASARAアンソロジーコミックを元にした御話です。
所々台詞が変わっていたり、オリジナル場面を追加したり、自分なりの要素を加えました。