賢者の森――人間の手は一切加えられておらず、天然自然の木々が溢れている森林。
モンスターが住み付いているものの、新参冒険者でも十分に立ち入れる場所である。
その森の奥には古よりの賢者が住んでいると言う“猫屋敷”と言う物があるらしい。
しかしそこには運命に導かれた者のみしか入る事が出来ず、幻に近いとの事。
道中、オールはイーシャからそんな説明を聞きながら、賢者の森へと向かっていた。
彼女もギルドの依頼で何度か立ち入った事があるらしく、こんなにも詳しいらしい。
「採取するナジラネの実とやらは、森の奥にあるのか?」
「ううん、入口付近にあるわ。だから依頼をこなすのは簡単よ」
そう言うと、イーシャはオールが腰に提げている剣を一瞥した。
「オールは剣を使うのね。どれくらい使えるの?」
「……人並み以上には扱えると思うが?」
それを聞いたイーシャは、少し安心したように息を吐く。オールは首を傾げる。
真紅の髪を片手で弄りつつ、彼女は腰に提げてある鞘をもう片方の手で指した。
「私は短剣を扱うの。昔から愛用している物なのよ」
「……そうか」
「それと魔法も基本的な物は出来るけど、あまり期待はしないでね?」
イーシャの言った“魔法”と言う単語に、オールは内心首を傾げた。
確かエンシャント街の人々から、そこはかとなく聞いた覚えはある。
しかしよく分からず、適当に聞き流してしまっていた。
「……魔法とやらは、よく分からないな」
「えっ……? オール、魔法を知らないの?」
「ああ、学び方もやり方も分からない」
イーシャはかなり驚いた様子で、オールをマジマジと見つめた。
反対にオールはそこまで驚く事なのかと、疑問に思っている。
「本当に分からないの? 一般的な書物にも、魔法の事は書かれているんだけど……」
「ああ……以前の俺なら、知っていたかもしれないが……」
「以前の貴方……? ねえ、それってどう言う意味なの?」
彼女の問いにオールは空を一瞥した後、ゆっくりと口を開いた。
「……俺には今日までの記憶が無い」
「――――えっ……!」
彼からの思いも寄らぬ告白に、イーシャは歩くのを止め、その場に立ち尽くしてしまった。
対してオールはそんな彼女に気付くのが遅れ、数歩先へ行った後に止まった。
後ろへゆっくりと振り返り、オールは立ち尽くしている彼女に視線を向ける。
「どうした? 先に進まないのか?」
「いや、そうじゃなくて……オール、貴方、記憶が無いって……」
そう言えば、彼女に自分の事はあまり詳しく話していなかった気がする。
オールはそう思った後、ベルゼーヴァに話したのと同じように説明した。
「……眼が覚めたら、エンシャント近くにある魔道の塔の中で倒れていた。その時にはもう俺が一体何者なのか分からなくなっていた。自分の名前などは後から思い出したが……」
「そうだったの……じゃあ貴方が冒険者になった理由って、まさか……」
「ああ、お前の考えている通りだ。自分が何者なのか、知る為だ……」
オールはそこで話を打ち切るかのように、再び先へ歩き始めた。
イーシャは慌てて彼の後を追い掛けつつ、先程の事を詫びる。
「ゴメンなさい。そんな事とは知らず、失礼な事を言ってしまって……」
「……気にしなくて良い。最初に説明していなかった、俺にも非がある」
そう淡々とした様子で答えたオールだが、イーシャからすれば心苦しい物であった。
どうにかしてこの重い空気を脱する事は出来ないものか――彼女は内心そう思った。
そんな難しい表情を浮かべる彼女を横眼で見たオールは、呟くように言う。
「……パーティを組むのに不安を覚えたなら、解散してくれて構わない。記憶が無い人間を連れて、この先旅をするのに足手纏いにならないとは限らないからな」
その言葉にイーシャは首を横に振り、強く否定する。
「そんな事は言わないで。私はそんな薄情な人間じゃないから……」
「…………すまない」
その言葉を最後に、賢者の森に着くまで2人が言葉を交わす事は無かった。
2人の間には、何とも言えない微妙な空気が漂っていた――
◆
静かだ――オールが賢者の森に到着した時、抱いた感想はそれだけだった。
風が一度吹くと、自分の黒髪とイーシャの紅髪、そして木々の葉が揺れる。
生息していると言うモンスター達の姿は――入口付近だからか――まだ見えない。
しかしこんなにも幻想的な森林には、凶暴なモンスター達は不釣り合いと言えた。
「ナジラネの実は向こうにあるわ。遅れず、私に付いてきてね」
「ああ……」
イーシャが先行し、オールがその後に続く。
その間の距離は一定間隔を保っていた。
(万が一と言う事もあるからな……)
モンスターが襲ってきた時の事を考えて、オールは剣の柄を握りながら歩いている。
それはイーシャも同じらしく、歩きつつ、鞘の中にある短刀の柄を握り締めていた。
暫くそうしながら歩いていると、奥から何やら話し合うような声が聞こえてきた。
「どうやら先客が居るらしいな……」
「そうみたい。私達の他にも依頼があったのかもね」
そう話しながら、2人は先へ先へと進んで行く。
やっと声のする方に出ると、そこには――
「団長ぉ〜……疲れたゴブ」
「本当にこの森に、偉い賢者様が居るゴブかぁ?」
「むっ……団長である俺の言葉を疑うゴブか!」
人間の言葉を流暢に喋っている、人ではない“何か”が3匹も居た。
小さい物、中くらいの物、大きい物、見事に大中小と揃っている。
1番大きい体格と言っても、オールの身長の半分くらいしかないが。
オールは眉を顰めるが、隣に居るイーシャは眼を丸くしていた。
「あれは何だ……?」
「た、多分ゴブリンだと思うわ。モンスターの一種よ」
「ゴブリン……そいつ等は人間の言葉を喋れるのか?」
「い、いいえ。普通のモンスターは人間の言葉なんか喋らないわ」
オールとイーシャがそんな会話をしていると、3匹のゴブリンが2人へ首を向けた。
小声で話していたつもりだったが、どうやら気付かれてしまったらしい。
「ややっ! 人間ゴブッ! 何時の間にこんなに接近されていたでゴブか!」
「だ、だ、団長ッ! どうするでゴブか! 我等の追手かもしれないゴブ!」
体格の小さいゴブリンが、団長と呼ぶ中くらいのゴブリンへ問い掛ける。
問い掛けられた団長のゴブリンは一歩、また一歩と後ろへ下がっていく。
すると大きい体格のゴブリンが石斧を構え、団長を守るように立ちはだかった。
「やっつけるゴブか! 団長ッ!」
戦う事になるかもれしない――オールとイーシャはそれぞれ武器を抜き、構える。
一瞬即発の空気が流れる中、団長ゴブリンが叫ぶように言い放った。
「武器を収めるゴブ、オルナット! 無益な争いは避けるゴブ!」
「で、でも……団長」
「良いから早く収めるゴブッ! ゴブゴブ団、戦略的撤退ゴブ〜ッ!!」
『ゴブ〜ッ!!』
団長ゴブリンの号令の元、残る2匹のゴブリンが同時に掛け声を叫んだ。
そして何とも言えないくらい素早い逃げ脚で、3匹のゴブリンは姿を消した。
その場に残されたオールとイーシャは、言葉が出ないまま、武器を収める。
「何だったんだ奴等は……」
「分からないわ。でも嫌な予感がするのは確かね」
「? 珍しいゴブリンとだけでは、片づけられないのか?」
イーシャがすぐさま頷く。
「ええ、最近この大陸全土に異変が起こっているのよ。立っていられないくらい強い地震が続いたり、この大陸を守っていると言う竜達の咆哮が聞こえたり……色々とね」
「…………ゴブリン達が言葉を話しているのも、その異変の1つと言う事か?」
「あくまで想像に過ぎないけど、私には嫌な予感がして仕方がないのよ」
イーシャの言葉を聞いた後、オールはゴブリン達が去って行った方向を見つめる。
そして――ゆっくりと口を開いた。
「なら……追ってみるか?」
「えっ……?」
イーシャが眼を見開き、オールに視線を向ける。
「気になるのだろう? 奴等がどうして喋れるのか……」
「え、ええ。気にならないと言えば、嘘になるけど……」
「なら追えば良い。俺も少し、奴等に興味があるからな」
オールはそう言うと、ゴブリン達が去った方向へ足を進めた。
「あっ……! オールッ! もう、勝手に進んだら危ないわ!」
少し怒った様子ながら、イーシャは彼の後を付いて行った。
心なしか、彼女は少しだけ楽しそうな表情を浮かべていた。
◆
人間の言葉を喋る、奇怪な3匹のゴブリンの後を追うオールとイーシャ。
日も徐々に沈み始めてきたせいか、森の中も段々と暗くなってきている。
本来モンスターの殆どは夜行性であり、昼間に比べれば格段に凶暴さが増す。
もしこのまま追跡を続けるのなら、野宿に最適な場所を見つけなければならない。
「ナジラネの実採取の依頼の期限は、今日や明日までだったか?」
「ううん、時間的には少し余裕があるわ。だから大丈夫よ」
「そう――――何かあるぞ……」
イーシャの言葉に安堵しようとした時、オールが先の方で何かを見つけたらしい。
その見つけた“何か”に釘付けになっている彼の後ろから、イーシャも覗いた。
するとそこには――
「屋敷……よね?」
イーシャがポツリと呟く。
オールも次いで呟いた。
「……そうだな」
「どうしてこんな所に屋敷が……」
2人が顔を見合わせ、眼の前に立っている1件の屋敷を見つめた。
所々ボロボロな所はあるものの、立派な一軒家に変わりは無い。
2人がゆっくりと屋敷に近づいていくと、不意に扉がゆっくりと開いた。
「おや? お客さんとは珍しいですね」
中性的な顔付きをした男性が、扉から姿を現し、物珍しそうに2人を見つめる。
長く伸びた金色の髪が印象的で、イーシャは一瞬胸の高鳴りを覚えてしまった。
「あ、あの……すいません。ここに住んでいる方……ですよね?」
イーシャが尋ねると、男は微笑を浮かべながら答えた。
「ええ、ここに住んでいる者ですよ。私はこの猫屋敷の主、オルファウスと申します」
男性の名前を聞いた途端、イーシャは驚きを隠せなかった。
ここが賢者の森の中では幻とされた、猫屋敷だと言うのだ。
「え、ええっ!? じゃ、じゃあ貴方が、古の賢者と謳われている方ですか……?」
「ふふふ、私の事をそんな風に呼ぶ方も居るようですね。しかし私はそんな偉い人物ではありませんよ」
オルファウスはそう言うと、先程から自分を見つめているオールに視線を移した。
自分に視線を向けられ、オールは一瞬だけ警戒心を露わにする。
そんな彼の警戒心を感じ取ったのか、オルファウスは微笑みながら言った。
「どうです? こんな所で立ち話もなんですし、中へ入られては?」
「い、良いんですか?」
「構いませんよ。ここに来る人は稀ですし、お客さんは大歓迎です」
そう言った後、オルファウスは屋敷の中へと戻って行った。
2人が入れるように、御丁寧に扉も開けっ放しである。
イーシャが「どうする?」との視線をオールに向けた。
「…………俺は別に構わない」
「……分かったわ。ここは招待を受けましょう」
オルファウスの誘いを受ける事にした2人は、屋敷の中へと足を踏み入れた。
「では改めて……ようこそ、猫屋敷へ」
テーブルが置いてある奥の部屋へ招かれた2人は、オルファウスの歓迎を受けた。
手始めに彼から名前を聞かれたので、素直にそれに答えるオールとイーシャ。
それからどうしてここを訪れてきたのか、彼に諸々の事情を説明したのだった。
「成る程……言葉を喋るゴブリンですか。それは何とも奇怪ですね」
「はい……オルファウスさん、どうして彼等は人間の言葉を?」
「ふむ……それは、そこに居る馬鹿猫が教えてくれると思いますよ」
オルファウスが右の方にある扉に視線を向けると、突然その扉がゆっくりと開く。
するとそこには顔と身体に奇妙な刺青が施されている、1匹の白い猫が居た。
オールとイーシャがその猫を凝視していると、突然――
「おいッ! ジッと見つめんじゃねえ! それと女男! テメェ、馬鹿猫って言うな!」
喋り出した。それもかなり口が悪い。
イーシャが呆然とした表情を浮かべたまま、オールへと視線を向ける。
オールは彼女の言いたい事が分かると言わんばかりに、2回程頷いた。
「まあ至極当然の反応でしょうね。喋るゴブリンに続いて、喋る猫ですから」
「何を言ってやがる。こう言う反応が返ってくる事を分かっていやがったくせに……」
「おや、人聞きが悪いですねえ。彼等にはもう免疫が付いていると思ってたんですよ」
「相変わらず性格の悪い野郎だぜ……」
1人と1匹のやり取りに上手く入れず、そのまま様子を見守るオールとイーシャ。
そしてようやく会話が終わりを見せ、オールがすかさずオルファウスに訊いた。
「オルファウス……さん、この猫は一体……?」
「はい、彼はですねえ、かつて破壊神ウルグに仕えていた――」
オルファウスの説明を遮るように、白猫が続きを言った。
「俺様はウルグ直属の闇の円卓騎士の1人“名前を知る者”ネモ様だッ!」
白猫――ネモが声高々に言い放った。その表情はとても満足そうである。
オルファウスは微笑を浮かべ、イーシャは再び呆然とし、オールは首を傾げた。
この場に流れる空気が、微妙な物に変わってしまった事は間違いなかった。