第一次バルカン戦争

 それはトルコの周辺域への支配力減退に伴いバルカン諸国が民族自決に名を借りた領土拡張を行った戦争。結果オスマン朝トルコはこの戦いに大敗北し、首都イスタンブールこそ守られたもののバルカン半島での影響力をほぼ喪失した。……そう、史実では。でも、わたしが歪めた世界は外見だけを史実に似せた全くの別物へと変わっていた。

 ――ある少女の独白




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蒼き鋼のアルペジオSS 榛の瞳のリコンストラクト
 

第四章 断崖ノ上ニ雲ハ在リヤ?







 「オィ! マンハッタン伊藤、タワー小沢、しくじるんじゃネェぞ!!」


 車長である大尉のダミ声が隣から響いてくる。こんな無茶苦茶な海軍士官があっていいものか? それでも我等3人の上官、この42式重装甲車と人機一体たれと日ごろから厳しく指導する教官でもある。負けじと頬から顎そして喉にまで達する樹脂と金属の部品――咽頭マイクとかいう装置だ――に怒鳴る。


 「了解、砲尾・砲耳ヨシ、即応弾薬2発徹甲、1発榴炸、1発煙幕! 徹甲装填します!!」

「てーりめぇだコラ! オィ? タワー小沢! 手前ェ返事はどうしたぁ!!」


 やべぇ、後輩の小沢……小沢少尉はこういった修羅場が苦手だってのに……何より研究と読書が大好きな奴がこんな場所に放り込まれてまともでいられるわけがない。先ほどまでカチカチと嫌な音が耳のイヤホンから聞こえていて故障だろうか? と考えていたのだが原因はあいつの歯鳴りだったのだ。

 竦み上がっている! 初めての実戦で!!

 私の足下、操縦席の彼の肩を思い切り蹴とばす。そして怒鳴り声、自分でもこれほど野太い声が出るとは思わなかった。


 「小沢治三郎少尉! 腰が抜けたかぁ!!」


 蹴飛ばされつんのめって我に返った彼は慌てていつもの報告――エンジン始動マニュアル――を始める。


 「え、エンジンコンターック。電源ヨシ、伝導ヨシ、回転数……上がりました!」


 もはや声が上ずり己が何を言っているのか認識してないような慌てぶりだ。だが間違いはない。戦車乗りというのは頭脳の前に体が動く、そこまで徹底した反復教育を仕込まれる。いきなり横から胸倉を掴まれた。隣、車長席にいる我等の上官にだ。


 「マンハッタン伊藤よぅ? 俺の仕事を奪って楽しいか。」


 恐ろしくドスの入った声と顔。チンピラ如きなら裸足で逃げ出しかねない威圧。そのままの状態で敬礼し必至で抗弁する。


 「ハッ、失礼いたしました。一時を争うに車長殿のお手を煩わせるべきでないと考えました!」

 「フン!!!」


 もし彼が蹴とばしていれば小沢少尉は肩だけでなく操縦把(ハンドル)にしたたかに額をぶつけていただろう。私が胸倉を掴まれ、この戦闘車両の砲塔内壁に押し付けられた位で文句は言えない。そのまま彼は私の胸から手を離し下の操縦席に向かって語りかける。


 「なァ小沢少尉、怖いか? あったりめぇだ! 入隊して二月、訓練初めてひと月無ぇ……それがいきなり実戦だ。だがな日露の戦の時、皆同じ思いをしてきたんだぞ。あのクソッたれの乃木公の動員で海軍も陸軍もとんでもねぇ武器を使う羽目になった。おめぇはひと月訓練できたんだ。上等じゃねぇか? 今からその乃木公を俺等は守る。奴に言ってやろうぜ? 『帝国海軍は閣下の武器をひと月で使いこなせる精鋭』だと。」


 上官殿は元陸軍なのを思い出した。それも開戦後招集された臨時編成の戦時旅団、本来なら戦場後方の警備を任務とする部隊だから大戦争の真っただ中に放り込まれることはなかった筈だ。しかし彼と同僚、部下たちはいきなり列強国の最精鋭部隊でも持っていないと誰でもわかるような武器を持たされて最前線に投入されたらしい。
 地獄……だったそうだ。

 「わ……私は生き残りたい! 艦の上で死ぬこともできず。軍師のように作戦を立てることもできず死ぬのは嫌だ!!」

 「その意気だ……始まるぞ! 三号車出た。行くぞ!」


 小沢少尉が噴射板(アクセル)をふかし制動板(クラッチ)に連動させる。エンジン回転がトランスミッションに伝わりギアボックスを通じて8つの装甲タイヤを回転させる。『私たちの敵』が戦車であっても十分対抗可能な装甲戦闘車量、40年式234型重装甲車の名で呼ばれる海軍陸戦隊精鋭車輌で編制された陸戦装甲中隊が次々と学習院大学の敷地……その地下に構成された車輌掩滞壕より飛び出していく。
 外は雪だった。しめた、雪明りはこちらに有利! 陸式の連中は夜戦が得意だ。この明りならこちらも同等。電動機を稼働させ42口径5センチ砲搭載砲塔を旋回させる。己を鼓舞するように私――伊藤整一海軍中尉――は怒鳴る。


「砲塔旋回30度! 全周警戒維持!!」

「出るぞ。」


 車長の声と共に地鳴りのようなエンジン音が響き、タイヤと雪交じりの砂利の擦過音を纏った鋼の騎兵は大学構内の家屋を目指す。





◆◇◆◇◆






 左目は解っていた。黎明の前、闇夜500メートルの距離から近づきつつある人影を。便利なものだ。この冬の最中、雪の明りだけで儂の視界は昼間と変わらない。数は貨物自動車二輌から出た30名……一個小隊と言ったところか? さらに随伴してきていた38年式222型軽装甲車――sdkfz222――が2輌、『旅順逆撃戦』で露西亜軍の奇策、馬爆弾に翻弄され『味方殺し』の悪名を付けられてしまった装甲車だ。全く愚かな……
 儂は兎も角、橙子がいる時点、その程度で『要人を保護』、又は『逆賊を成敗』など不可能、これは彼等が儂等を普通の人間と考え無ければならないあたり致し方がないことだろう。
 が、それ以前が問題だ。奴等は遥かなる未来でも同輩、そして教え導くべき後輩にすら何を持って乱を(おこ)すかすら語れなかったのだ。だからこそ今がある。奴等はただ純粋に国を想うという妄想のまま、国を滅亡の淵に転がり落とそうとしているのだ。時の彼方、二十三年後の今日から始まりすべてが終わった後、奴等は軍事法廷でこう宣まわったという。


 
まさか叛乱になるとは思わなかった。


――責任放棄も甚だしい!――


 
奸賊討滅の後、陛下に全てをお任せする。


――己の起こした責、忠臣面して罪を擦り付ける心積もりか!――



 荒木、真崎、小畑――実行部隊の中心が跨奴等で有ることなど解っている。そして跨奴等の後ろで糸を引くは、薩長藩閥の残り香を一刻も早く消したい後の学閥と呼ばれる中堅士官たちだ。
 思う……我等【大日本帝国】は【亜米利加合衆国】に滅ぼされたのではない。あの【太平洋戦争】が起こる前に『跨奴等』によって御国は滅びていたのだ。

 
故、



 「叩き潰す……徹底的に、完膚無き迄に。」

 「御爺様?」


 橙子が不安そうに瞳を向けてくる。儂の顔は酷い有様だろう。怯えるのも無理はない。だがこれが儂だ。日露戦争で死に損ない、欧州の果てに飛ばされ、其処でも地獄を撒き散らす。そして今度は味方殺しだ。だが……
 彼方と此方――有り得た未来ともうひとつの未来の挟間で儂は足掻く。


 「橙子、来たぞ。人数30、装甲車2台、儂等を殺すには役者不足だな。」


 途端、橙子の眼が鋭くなり榛の瞳が濃くなる。話す言葉の韻も変わる。


 「人格インタラプション完了――クラインフィールド展開準備――体内ナノマテリアル重力子蓄積に入ります。」

 「久しいな……橙子、いささか“孫”では刺激が強いからな。そなたにとって腹ごなしの運動にも為らぬだろうが付き合ってくれ。」


 あの月夜を最後に“橙子”の中へ消えたあの霧の艦隊【統括記憶艦】(シナノ)の索敵ユニット、もはや孫と一体化し、原型へ戻ることを拒否したもう一人の橙子の意識が浮上する。


 「ずいぶんと御変りになられましたね。以前の乃木希典、いえ史実の“乃木希典”とはまるで違います。」

 「フン! 未来を知り、国を任され、あれだけ修羅場を掻い潜ったのだ。これで変われぬのであれば只の阿呆よ!!」


 くすくすと彼女が袖の下で微笑っている内、近くまで来た皇軍兵士、彼らを十メートル程で留まらせ、近づいてきた指揮官らしい若者を一瞥する。その情報は瞬時に儂の左眼に転送され未来の実写真から年齢照合を行い人物を特定する。


 「彼……か。」


 向こうの世界では踏ん切りをつけて叛乱に与せず、猛将の名を欲しい侭にした彼すらこの若さでは道を誤らずには得られなかったか。静かに語りかける。


 「会うのは初めてだったかな? 山下奉文陸軍少尉。」





◆◇◆◇◆






 索敵ユニットと通して我は驚愕という感情を実装すべきか悩んでいる。別に乃木希典が『彼』のことを正確に言い当てたのは驚くに値しない。情報を精査し結論を導く、人間でいうところの人生経験における審美眼をいう思考パターンを実装できればこのような芸当ができるのは調査済みだ。現にかつて索敵ユニットがマッカーサー大尉にそれを行うことで得られた経験は我等で共有され有効利用されている。あの少年、今後のバルカン情勢でキーマンとなるヨシップ・ブロズ・チトーも同様。
 しかし、これは驚くべきことだ。ホーフブルグの外交戦でもあるように相手の行動を想定し、相手を暴発させぬよう宥めながらこちらの優位な決着点に交渉を進めていく。外交という戦争だからこのような手法が通用すると考えていたが人間同士のコミュニケーションにおいてすら戦争という論理が通用しているとは思わなかった。

 人生とは闘い続ける事

 乃木が言ったこの言葉は、人間が闘いという戦争行動を肯定していることを指している。かつて1960年以降、反戦運動という戦争否定論がまかり通ったが、この行動すら戦争を否定するという戦争行動なのではないか?
 状況はどうやら乃木も思う通りに進んでいる。彼は交渉によってこの場を収めるつもりはないようだ。脳波のモニタリングではあの山下少尉という士官に多少の同情心という感情を抱いているようだが『叩き潰すことに変わりはない』。
 突然、彼の脳波が大きく乱れた。即座にメディカルソフトウェアが走査を開始、彼に打ち込まれたナノマテリアルから直接情報を転送する。時期的には妥当だが想定より早かったな。いくつかの緊急機能を展開、後は索敵ユニットがうまくやるだろう。状況も変わることがない。単純戦力比45対1、戦略規模戦力比285対1。どう足掻いても反乱者に勝利はない。彼には最後までこの事象から我が実装する戦争について情報を引き出させて貰うことにしよう。

なにより我の目的のために。

 彼のナノマテリアルを直接コントロールしこの戦争が終わるまでの生命維持を可能とする専任ユニットを選定しながら我は経過を観察する。





―――――――――――――――――――――――――――――






 「閣下は何故解ってくださらぬ。もはや地方の窮状は限界を超えておりまする! 豊かなのは僅かな都市だけ、若衆皆底辺労働者として欧米帝国主義者に搾り続けられ、村の田畑は欧米植民地の米麦で耕す者も居りませぬ!! 閣下はこんな世を作るが為にあの戦を戦ったのですか!?」


 山下少尉の血を吐くような叫び、以前の儂ならば同情の余り変節すら考えただろう。だが、笑い草でしかない。結局彼も軍人の枠から抜け出せないというわけか。陸軍幼年学校、時の彼方で起こった戦後日本でも軍専制の元凶をされ敗戦の後真っ先に潰された組織、その弊害がここにある。そう、視野が狭すぎるのだ。
 軍人の純粋培養機でしかない陸軍幼年学校(このそしきは)は戦争が将軍と兵士だけ、いや百歩譲って軍隊で戦争が行えるのであれば有用だった。しかし、此方の日露戦争において戦争という定義は根本から変化したのだ。

総力戦


 時の仏蘭西の将軍が“第一次世界大戦”において『戦争は軍人にまかせるには重すぎる』と言い放ったとされている。軍人が全てを任せた結果起こったのが“エラン・ヴィタール”であり、“シュリーフェンプラン”であり、“満州事変”でもあり向こうの高野(やまもと)君の言い放った“2年や3年は暴れてみせる”。どうでも良き事だが、あの亜米利加の“ベトナム戦争”にすらその気配がするのだ。軍人の行動では戦争は勝てない時代になった……それが儂が導き出した結論。
 恐らく大日本帝国欧州領は【軍人のための戦争】、その最後の煌きとなるのだろう。いや! そうせねばならぬ!!


 「山下君、君は今軍人として儂に問うているのかね? それとも陛下の臣民……失礼、日本国民として問うているのかね??」


 この程度でも誘導されるのだろう? 答えなど幾等でも用意できる。彼等の思想を根本から叩き潰す事こそ重要。全く救い難い、彼をではなく、彼をそう育ててしまった軍組織が、


 「両方です! 私は、私たちは大日本帝国国民として憂い大日本帝国軍人として行動を起こしました。故に正義は我等に……」

 「愚か者!!!」


静かな雪夜を瞋恚(しんい)の大音声が震わせる。流石に鏡で何度も演技を鍛練していたなど橙子に言えぬ。また『御爺様はまだまだ成長云々』とからかわれるのが落ちだ。だが、見事なまでに山下少尉はおろか周囲の兵士も仰け反った。旅順の鬼武者、顔面怪異なれども性質温厚――そう新聞が書き立てたお陰で跨奴等も儂の本性を見誤ったのだろう。畳み掛ける。


 「救い難い、全くもって救い難い! 今の己の肩章を見よ、手前等は何ぞ!! 軍人が公儀(せいじ)に意見する? 己等はその政府に衣食住与えられる身分ぞ。不満があるなら軍なぞ辞めよ! 一国民として政治改革に励み、己の理想を掲げるべきが借り物の肩書きを持って下克上だと!? 手前等を世界は何と言うか知っておるか?」


 腹からあらん限りの呼気を振り絞る。


 
「逆賊というのだ!!!」



 仰け反ったままの山下少尉、いや儂等を取り囲んでいた全員の顔が蒼白に変わり、そのまま憤怒の赴くまま紅潮する。怒りに任せ彼が叫ぶ。


 「コイツも同じだ! 欧米に阿り国を滅ぼす寄生虫だ!! 御国の為、虐げられる亜細亜諸国のため天誅を下してやる!!!」

 「橙子、構わん。叩き潰せ!」


 山下少尉以下全員、激高したまま機関拳銃を抜き放ち儂等に向けて発砲しようとする。手際は良い。このような場合、単射(セミオート)は弾の無駄だ。確実を期すなら、指切りという瞬間的な連射(フルオート)を使うのが常套手段。だが、
 彼らの機関拳銃が次々と暴発する。そう、鉄嶺のあの時のように。厳密にいえば『銃口に向けて跳ね返す』のではなく『銃口に蓋をして発砲させる』のだがな。
 設計上独逸機械工学の粋とも言われ、上役【シナノ】が数百年後の工作精度で量産した機関拳銃。だが、銃口をクラインフィールドで塞がれては武器どころか自殺用の爆薬にしかならない。そしてこの方法は【因果応報】という言葉が好きな橙子にとって得意技だ。そして悪趣味なれど儂の意思とも合っている。
 彼らの起こした叛乱、本来政府(ヒト)に向けて(ぶき)が弓を引くということがどういう事なのか? 自らの命を託す【道具】たる愛銃に裏切られる怒りと絶望、そして恐怖はどれほどのものなのか、彼等は身をもって思い知らされたのだ。
 雪の降り積もる地面でのたうちまわる彼らを憐みの瞳で見ようとする。……見えない? 急に視界が曇る、いや曇ったのは右目だけ、左目の視界全体が赤地に六角形の蜜蜂格子(ヘキサグラム)に変わりその一つ一つに小さな英文が浮かび上がる。


 「なっ……!!!」


 体が傾くような軋みと共に、女の悲鳴が聞こえた気がした。






◆◇◆◇◆







 
「御爺様ァッッッ!」



 索敵ユニットの感情シュミレーションプログラムに介入、本能でプロトコルを解析して主導権をとり返す。目の前には糸が切れたように倒れこんだ御爺様の姿、私の視界で激しく羅列(スクロール)される情報なんか目に入らない。


 
「御爺様! 御爺様アッ!!」



 必死で体を揺すろうとしたとき気がついた。人間は倒れた……でも装甲車は? 首を回したのと装甲車の機関銃塔が旋回したのは同じだった。


 
「防御! なんでもいいから早くっ!!」



 強制的にキャンセルされたクラインフィールドが緊急稼働、わたしと御爺様を包むように展開しようとする。でもその前に、


 「停止! 目標省略! 砲塔旋回!!!」


 わたしと発砲しようとした装甲車の間に割り込んできた8輪もの車輪とふたまわりは大きい巨躯をもつ鋼鉄の猛獣が視界を遮る。叛乱軍の装甲車が発砲したMG34の高初速弾が跳弾し、8輪装甲車の車体で火花が散る。一台じゃない。全部で五台、海軍陸戦装甲中隊新型車両【40年式234型重装甲車】。

<黒豹>(プーマ)!



 ()ェェッ!!」


わたしを危地に陥れようとした装甲車に向け、日露の一号戦車ですら搭載されてない対陣地・対戦車両用50mmKnk39戦車砲の轟音が響く。反乱者の装甲車はいくらシナノが与えたものでも額面通りの性能しか発揮できない。装甲は最も厚くても15ミリ、50ミリの戦車用装甲板を容易に貫通する<黒豹>の敵ではない。今耳に入った音からユニットが情報をくれる。二台の反乱装甲車それぞれに徹甲弾と榴弾が1発ずつ、徹甲弾が装甲車の骨材を断ち切り、榴弾が搭乗者を殺傷する。一か所で火薬が弾ける音と共に赤い光が見えているから一台は完全破壊され炎上しているのだろう。
 一台の重装甲車の側面ハッチが開き煤まみれの顔がでてくる。彼は私たちを見ると、


 「閣下? 閣下! 車長、乃木閣下負傷の模様!!」

 「ならとっとと助けろボケェ!!」


……座席から蹴り出された。彼は頭から雪が積もった地面に突っ込み、力任せに両腕で力んで立ち上がるとこちらに駆けてくる。背が高い海軍士官さんだ。6尺(180cm)はあるだろう。装甲車の中は狭いから大分苦労されているんじゃないのかしら? と、場違いな考えに至ってしまう。敬礼して話しかけてきた。


 「海軍陸戦装甲中隊の伊藤整一中尉です。乃木閣下の御孫嬢と御見受けいたます。閣下の容体、確認させて頂きたく。」

 「有難うございます。でも、まず先に貴方様の……」


 ハンカチを懐から取り出す。彼、頭から地面に接吻したお陰で鼻穴から顎にかけて血の海だ。渡した後、こくりと頷く。もう私の頭には御爺様がどうなったか、いまどのような容体なのか情報が詰め込まれている。いずれ来ることは解っていた。でも、どこかで否定していた。誤差の範囲内をまだ『まだ3年……ううん、最大なら5年はある』と目を背け続けていた現実、それが誤差最短値で始まったということ。
 彼が御爺様の脈をとり、慌てて後方の251型装甲兵員輸送車の救護班に指示を飛ばしている。私は呆然とそれを眺めているしかなかった。





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 目を醒ます。学習院の救護室、50年後は【保健室】と言ったところだな。埒無き事を考えながら軽く首を振り身を起こす。ベッドの柱に立て掛けてあった軍刀ををゆっくりと手に持つ。違和感はない。倒れたことまでは明瞭に認識出来た。そして儂の躯、どうやら唖奴は儂にのうのうと老後を楽しませるつもりはないらしい。この躯を限界まで維持し続け、儂を己の目的のままに扱き使うつもりなのだろう。
 望むところだ……そう思う。実際あの光景を目の当たりにして解った。若輩の過ちとはいえ山下奉文――マレーの虎――と呼ばれることになる男すらこれなのだ。

 
大日本帝国の病巣


 いやこの日本と呼ばれる国が開化してより溜めてきた歪み、鎖国より解き放たれた驚愕、世界より遅れた恐怖、取り戻さねばという狂気、全てが混淆(こんこう)として目の前に(わだかま)っている。

 
之を吹き払わねばならぬ


 これからも御国は世界と競争し続けていくだろう? いや競争し続けていかねばならないのだ! そしてそれが出来ることを儂は知っている。時の彼方で起こったあの破滅的な戦争、全てが灰になり藻屑と化し絶望の中に沈んだあの時から僅か20年で日本は戦争で破談とされたあの世界祭典(オリンピック)を開催できたのだ。彼方の日本にできて此方の日本に出来ぬ訳はない! 其の為にも日本が破滅する前に、儂がその元凶たる『日本人たる純粋故の劣等感』を叩き潰す。その上に日本人は前を向いて歩く己等の為の此方(まほろば)を築くのだ。それを成す為に儂は最後まで生きていく。
 ゆっくりとベッドから腰を下ろし腕時計を眺める。寝ていたのは1時間と少し、海軍の面々は準備で大忙しだろう。さりとて遅刻したわけではない。廊下への扉に手を掛け、カーテン越しに椅子にでも座って船を漕いでいるであろう人影――橙子だろう――に声をかけようとした時、先に声をかけられた。孫の少し疳高い甘えた声でなく、幼く静かな、しかし有無を言わせぬほどの圧倒的な存在感が儂を慄然とさせる。


 「乃木顧問官、何所かへ参られるのか?」


 即座に首肯する。そう、儂はこの言葉を知っている。“乃木希典”が最後に犯したたった一つの裏切り、“彼”にただ一つの嘘を吐き、欺いたこと。己の美学を完結されるために打ち捨てにした守るべき御方。
 小さな体が私の前に立つ。紛れもなく御上の意思を受け継ぎ、儂が己の運命を狂わせなければ恩師と呼ばれる筈であった御方…………。

 
迪宮裕仁親王殿下






◆◇◆◇◆





 わたしがみんなのところに戻ると部屋は狂騒と悲痛、2つの感情が支配していた。先ほど廊下で鉢合わせした同級生に聞いてみたら参謀本部からの直通電話が届いたらしい。その参謀本部も叛乱軍を追い返したものの死屍累々の有様だという。
 御爺様の仕込みだ。通常の電話線の中にもう一系統重要施設のみを結ぶ回線が混じっている。叛乱軍はこれを切るにも切れない。『それは見えないのだから』一つの索敵ユニットを臨時のコアにして帝都中に量子通信網(がいねんでんたつ)が張り巡らされている。今の人類に量子通信という技術は想像すらできない。故に切断も傍受もできない、此方の絶対的な優位の証、でも!

 宮内省御用掛   伊藤博文    自宅にて斬撃     死亡

 内閣総理大臣   原敬      自宅にて叛乱軍と交戦 戦死

 陸軍副大臣    宇垣一成    陸軍省登庁の際銃撃  重体

 まだまだある。電話線から報告を受けられる学舎の内よりもわたしは直接通信元に『聞けば容易い』でも何故こんなことに? 御爺様は危険を触れて回ったはず。皆政治家だから真っ先に安全地帯に逃げるはずだろう。何故?
 思わず足を止める。御爺様の喧嘩友達、最後の最後まで頑固者めの御爺様の悪態……最後!? 皆、みんな死ぬ気だ!! 叛乱軍が何をしたか自らの命を持って証明する気だ! 刺し違えるその目的の為だけに。
 でもあんまりだ。ガラリと引き戸を開ける。そこにいたのは崩れ落ち、空虚な目をこちらに向けた山縣真瑠璃ちゃんと彼女を抱き止めているいおりちゃん。

 元枢密院議長  山県有朋  自宅にて被爆  即死

 榛の瞳に映った現実はどこまでも残酷だった。



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