壊れかけた陣地、そこかしこで上がる噴煙、死臭と焼けるオイルの匂い、折れ、引き千切られた青地に白十字のギリシャ国旗、その代わりに翩翻と日章旗が掲げられている。そこまで歩くと数人の捕虜とすれ違った。誰も彼も放心と驚愕、そして俺達を娯楽小説の得体のしれない異星人(エイリアン)の様な目で見る。その後、直ぐに視線を落とし逃げるように監視兵に追い立てられて行く。


 「『こんな筈ではなかった。』『どうしてこんな事に?』彼等はそう考えているのでしょう。結局、ギリシャ陸軍は我々の本質を見誤っていた。」


 本間大尉の独白に俺は反論する。違うんだ、この結末は我々が優れた兵器を持っていた事だけでは説明できない。


 「違う、恐らく俺達も見誤っていたんだ。ジョージ・スミス・パットンという男の本質を。あいつは猪突猛進が好きでも英雄願望が強いわけでもない。…………それもあるかもしれないが奴の恐ろしいところは敵の弱点を的確に読み、其処に全力を集中する才能を持っている。それが戦車や機動歩兵と結びついた結果がこの戦場跡だ。」


 沈黙が流れる。本間大尉も鍵島特務も俺ですら唖然とするしかない。確かにこの防衛戦で俺は保典伯父さんを苦しめたマンネルハイム将軍に一矢報いた。向こうとしては負けた分にも入らないだろうがトラキア、そして御国ではそう喧伝されているだろう。だがこれは次元が違いすぎる。戦車を中心にした機動戦力を戦略目標に迂回突進させ指揮系統を寸断、前線を崩壊させる。

 あの暴走男は戦術、いや戦略を創り出したのだ! 

 其の結末が此処一帯――師団級戦闘部隊――の軍組織崩壊と言うギリシャ軍にとっての悪夢、俺達からすれば大戦果と言う事になる。転がっている空薬莢を蹴飛ばす。


 「あぁクソ! 滅茶苦茶にしやがって。」

 「なし崩しに認めた以上、責任を取るのは大隊長ですぜ。石鎚少佐殿!?」


 俺の毒吐きを鍵島特務が皮肉り、本間大尉が合槌を打ってくる。


 「と、いってもあの状況では退くより攻め続けた方が得策でした。下手に止まれば周囲は全部敵軍、袋叩きにされていたでしょう。そのまま敵【師団】司令部まで蹂躙したお陰で彼等は還ってこれたのですから。」


 解ってる! 戦場は生き物だ。部隊の戦術目標だった地図指標で東十条の敵砲兵観測所、その隣が敵の司令部なんて誰も知らなかった。あの長距離砲の御蔭で航空機が飛ばせない以上、航空偵察に頼れない。地上からの浸透偵察等論外だ。日露の戦の時と違い御国の兵は命知らずの精兵なんかじゃない。兵士は数合わせの徴兵、下士官も士官も実戦を学業にすべきか本物の戦争にすべきか解らない程、即成教育漬けにされた素人だ。こんな状態で浸透偵察なぞやらかせばあっという間に露見して返り討ちに会うだけだろう。
 今や無敵皇軍と日露で言われた大日本帝国陸軍は素人の集団なのだ。それが敗北に繋がらないのは相手(てき)もまた素人の集団、そしてアイツと姉貴が皇軍中に配って回る兵器の御蔭に過ぎない。


 「死者22名、負傷40名……事実上大隊の戦力は消耗しつくしました。市内の部隊と交代ですね。」


 唇を強く噛む。たったそれだけではない! オレの部下は集成大隊といっても500名いない。軍事用語の全滅までは言っていないが大損害の範疇だ。死ぬなと言ってこれだけ死ぬ。それはオレの準備不足と判断の甘さに他ならない。本間大尉の溜息交じりな結論が周囲にこの話題の締めくくりを促す。ただ最後の言葉が俺が尉官でなく佐官という自覚を思い出させる。


 「今度は大隊で師団を潰走させた英雄にされかねませんな。少佐殿、今回はあの暴走男を前面に出してやりましょう。丁度彼も負傷して野戦病院送りです。新聞屋の相手は彼にさせ我等は後始末に集中すべきです。」

 「どうみても奴は一席ぶつぞ。アメリカ義勇兵がトラキアにいてそれが戦場で大手柄とくれば。」

 「逆にアメリカさんを引きずり出すことはできませんか? あの国は正義に飢えている。そして利益にも。アメリカの大衆紙に己の国の義勇兵が大戦果をあげたと上れば後に続くものが出てくるんじゃないですか??」


 鍵島の言葉の後、硬い声が響く。司令部で聞き慣れた声だ。


 「…………そしてそれを苦々しく思う大英帝国はバルカン同盟と我が国に『とっとと事態を収拾せよ。』つまり講話の下準備をしろと言ってくるわけだ。」


 一斉に俺達は敬礼する。数人の参謀を従えた一戸閣下だ。


 「石鎚少佐、君の判断は間違っていないがどうも拙速を尊ぶ性分のようだな。浦上が当分前線に出すなと怪気炎を上げていた。」

「はい、申し訳ありません。全ては私の独断によるものです。」


 素直に謝罪する。あの暴走男を御する筈がそれ以上の暴走を招いたのだから叱責は当然だ。閣下が突然俺の頭を抑え覗きこんできた。

 「あ……あの?」

 「良い眼だ。乃木閣下とは違うが此処に来た時に見た娑婆の甘ったれた光が消えている。士官としてあるべきモノに成長したようだな。」


 閣下は俺から手を話して戦場を、いやさらに遠くを見るよう視線を向ける。


 「私は遼陽で乃木閣下と初めて言葉を交わした。あの時までは日清戦争の英雄、旅順一番乗りの勇将と憧れていた位だ。だが閣下を目の当たりにした時、ただただ恐ろしかったよ。温厚そうな表情の中、閣下の瞳孔だけが落ち窪み、眼球が無い様に見えてしまうのだ。そして其処から狂おしい程の激情が溢れだしているようでな……鬼とはこういった類ではとも思った。」


 閣下は日露の戦では故奥閣下率いる第二軍に属していた。そう其の頃――日露戦争序盤――はアイツ率いる第三軍でしか今使っている武器や兵器は無かったという。そんな不利の中で一戸閣下は遼陽の敵堡塁に自ら部下を率いて突撃し、それを奪ったそうだ。閣下が何を恐れているのか測りかねていると閣下は崩れかけて地面近くまで倒れてしまった家壁に腰掛けた。


 「あの時、あの場所。かつて私が奪いし一戸堡塁と喧伝されていた時の事だ。アレは私が奪ったモノではない。あの時、私は部下共々全滅することを前提に突貫しようとした。それでロシア兵が日本兵を少しでも恐れ、戦局に寄与できるかもしれないと考えてな。しかし閣下は私を部下の面前で張り倒し、『人死に前提なら将は要らぬ!』と叱責なされた。三日で陥とせとの師団司令部の意向すら無視して1週間で武器弾薬を揃え、堡塁ごとロシア兵を蹂躙した。解らぬのだ。それほどの功績を一顧だにせず、兵共々堡塁を占領した私に『滞りなく占領した者が功を上げたとす。』と言い旅順に帰って行った閣下の胸の内が。」


 俺は何か違和感を覚えた。アイツが歴史を変えようとしているのはあの女の行動から見てとれる。だが其処まで意固地になって一戸閣下を庇うのは何故なのか? そして其の程度の詭弁で新聞記者(ブンや)が一戸堡塁を喧伝したのかが気になった。あいつは歴史を変えているのではなく俺達の歴史を徐々に歪める? ……いや、修正しているのか??


 「世間話で構わん。石鎚君、君から見た閣下は一体何なのだ?」


 少将がたかが臨時の少佐に対し上官への不信を口にする。統帥の問題にされかねない危険なものだ。だから最初以外は名を出さず世間話の体裁か。……といってもあの女や歴史の修正をひけらかしても馬鹿にされるだけだろう? 考え、穏当な答えを探し出す。


 「はい閣下、乃木総督閣下は無駄死にを非常に厭うのではないのでしょうか? そして戦死とは無駄死にでしかないと。かつて日清の戦の折にも乃木総督閣下は旅順を攻めたと聞き及びます。そこで何かを視たのではないでしょうか? あの時清国軍が今の欧州軍が持つ武器の数々を持っていれば、返り討ちにされていたのは自らの軍と気づいていたからこそあれほど無駄死にを厭うのではなかろうかと。そして欧州軍に有り余るほどの最新鋭兵器を融通するのもそれが理由と考えます。」


 俺の答えに閣下は一歩踏み込んできた。世間話だからこそ一戸閣下でも言える疑惑。御国で当たり前の様に語られ、当たり前のように口を紡ぐ日露戦争の謎、


 「君は欧州軍の武器弾薬は?」

 「知っています、暴力姉貴が関わっていますから。こんな事を言うとまた蹴られそうですね。弟とは立場が弱いものです。」


 最後苦笑いをして世間話の体裁にする。閣下は微笑み『有難う』といって立ちあがった。敬礼し見送ろうとする俺を押しとどめて一言。


 「後1週間、1週間持ちこたえれば広島第五師団、弘前第八師団が来援する。それまでの辛抱だ。」


 援軍の話、待ちに待った曙光が差した。周りに明るい顔が広がる中、俺は今度こそ其の違和感に気づいた。帝国海軍とギリシャ海軍の差、街があり、その中に港があるのに敵前上陸専任部隊たる広島第五師団の投入、本来予備兵力として残す筈の弘前第八師団の同時投入、名将たるマンネルハイム将軍が気づかぬ筈が無い。そして先日のギリシャ陸軍の全力攻撃と其の惨めな潰走にセルビア軍は直接関与していいない。不気味なまでに疑念が膨らむ。


 「閣下、不遜を覚悟で上申いたします。」

 「控えろ! 石鎚生徒!!」


 参謀の一人が時代掛った怒声を上げるが一戸閣下は顎を杓って続きを促す。当然だ、司令部要員でもなく求められてもいないのに部下が上官に対し勝手に持論を主張する。軍における統帥権干犯モノ。言葉だけは聞いてやるで済んだのだ。御の字の上、嬉しくもなる。一戸閣下がアイツの影や姉貴の威光等、斟酌していない事が解ったのだ。


 「有難うございます。私が言いたいのは敵将、マンネルハイム将軍は欧州派遣軍増援部隊の敵前上陸を待ち構えているのです。パリ砲、ドイツの航空機傭兵、ギリシャ軍の総攻撃、その全てが皇軍の敵前上陸を誘う餌でしかありません。」

 「理由を聞こうか。」  閣下の言葉の後、本題を展開する。

 「ハッ、バルカン連合軍は一枚岩ではありません。それぞれ戦争の終わらせ方が異なるのです。ならば我々は彼等の用意した終わらせ方――勝利にせよ敗北にせよ――でこの戦争が終わった、と錯覚させるべきなのです。少なくともマンネルハイム将軍率いるセルビア王国軍に対しては。我々は全力を尽くしてもバルカン同盟軍全てに城下の盟い(むじょうけんこうふく)をさせる力はありません。ならば最も警戒すべき兵と将に勝ったと錯覚させ切り離すべきです。其の余力を他の二カ国に振り分け確実を期すべきなのです。」


 そうだ、それならセルビア軍――いや情報では傭兵である筈のマンネルハイム将軍がテッサロニキ方面のセルビア軍を統括していると言う話だからマンネルハイム軍か――それがテッサロニキへ一撃を与えただけで前線に参加せず兵力を温存している理由が説明できる。実際敵前上陸する皇軍――特にそれに特化した広島第五師団――をどうやって撃退する気なのかさっぱりだが、できると彼が確信しているのならば上陸そのものが皇軍にとっての虎口でしかない。
 むざむざ乗るのは愚の骨頂、そして撃退できるのであれば世界にセルビア軍強しを宣伝できる。強兵に多大な損害を受けながら勝つなど孫子で言う下策、政治上から皇軍は北マケドニアを奪還する圧倒的な理由が必要になる。そして国際法上それはない。北マケドニアはスコピエ総督の物(・・・・・・・・・・・・・・・)、トラキア総督は指導権のみで支配者でも施政者でもない。ああ……そうだ。セルビアはそれが落とし所と考えているんだ。そしてアイツ(じいさま)も其処が落とし所と考えてる。面白い話を聞きたとばかりに一戸閣下が口を開く。


 「セルビアに勝つなということか? 先任参謀、どうやら我等の総督閣下の意向を無視して事を進めていた事が少佐に露見した事になるな。もちろん其の総督閣下も御存じと観て良いだろう?」


 一戸閣下の独白に後ろで怒っていた司令部連中の顔が凍りつく。そういう事か、敵たるセルビアだけでなく一戸閣下指揮下の機動歩兵連隊、その核たる戦車、航空機を未だ投入しようとしていない。燃料不足と言う理由で、パリ砲を理由にして企んでいたのはそれか。


 「! では閣下は?」

 「あぁそうだ。我等は北マケドニア中心都市、スコピエ市を奪還する事を計画していた。閣下には無断でだ、マケドニア全土を奪還せねば我が国は侵略者を追い出したことにならぬと。これは困ったな…………。」


 本間大尉と鍵島がすっと俺の前に立つ、兵士達もこっちを向いた。視線だけ向けるだけで各自即座に割り込めるような体制をとっている。それは向こうも同じだ。憲兵中尉と其の部下がさり気無く腰のホルスター近くに手を動かしている。一触即発か、突如一戸閣下がパンと手を叩き笑いだす。


 「…………はは、ハッ! 大したものだ。其処まで読むとはな。たかが少佐に思いつけるのならば総督閣下、いや御嬢さんはもっと知っている。貴官が前線に張り付いていても鬼の居ぬ間に洗濯はできぬか!!」


 ひとしきり笑った後。閣下は俺の胸倉をいきなり掴んだ。介入しようする本間大尉を手で制する。限界まで俺の顔に己の顔を近づけて閣下が怒鳴る。


 「そこまで言い切ったのだ。責任は取れるのであろうな!? 司令部の独断専行をさらに上回る暴挙をやらかすのだからな。覚悟しておけ!!!」


 胸倉をつかんだ手を話し閣下は姿勢を正す。そして一言、


 「臨編大隊長、石鎚橙洋少佐を本日ヒトロクマルマルよりテッサロニキ司令部付きとする。代理は本間正晴大尉、急げ。」

 「「ハッ!!」」


 今度こそ司令部に戻る一戸閣下と其の幕僚を見送り、答礼を返しながら俺は考える。アイツは増援をどう使うのか? 増援軍司令が日露の戦でアイツの女房役だった伊地知閣下なら尚更だ。アイツの軍は征京、囮はテッサロニキ市、ならバルカン同盟軍の真の目標、戦争を終わらせる真の攻撃目標は?……そういうことか! ならば今後伊地知閣下と共に俺が主張すべき事は??
 姉貴がくれたバルカン南部の作戦地図が目に浮かぶ。ここから北東、小さな堡塁の前でバツ印が付けられたブルガリア陸軍師団規模兵力。その街道。掌を拳で打ちつける。心配そうな本間大尉に俺は声を掛けた。


 「一戸閣下はああは言ったが至急手を貸してくれ、作戦計画を立ち上げたい。」

 「鮫島閣下の様に振り回されるのはナシで願いたいですな。もう二度とあんな事は御免です。」


 頷く本間大尉の隣で鍵島の吐く懸念はかつての鉄嶺の惨劇を聞いて解っている。姉貴は情に流され、戦を歪め……大国(ロシア)を滅ぼした。そうあの女から聞いた話、明石教官殿は種を播いたに過ぎない。それに姉貴は信じられない量の肥やしと水を与え、ロシア帝国破滅という狂花を咲かせたのだ! しかし、オレはそうならない、俺は皇軍士官だ! だから誓う。


 「御国を守る、敵を滅ぼさすに。それが俺の闘いだ。」


 俺が踏みしめる大地は軍靴を通してもなお熱い。





―――――――――――――――――――――――――――――





 儂の周りで人が慌ただしく動く。懐かしい、あの時とは兵力も状況もまるで違う。それでもこの空気は戦場のものだ。そう、征京の司令部の中、儂は日露の時を彷彿とされる空気にしばし酔う。
 テッサロニキ市は良い塩梅に囮としての役割を果たしている。ギリシャ軍、セルビア軍を良く釘づけにしている。そして儂が事をなした後、征京に上陸する御国からの増援を合わせ囮は要へと役割を変える。囮を囮と気付かせるは下策、囮を囮と気付かせぬは中策、囮を囮として肯んじさせるは上策である。せいぜいバルカン同盟軍には『アレは囮だ』と徹頭徹尾刷りこんでおかねばならない。そう名将たるマンネルハイム将軍にすらも。
 戦争は軍人だけで終わらせることは不可能……故に戦うは戦争の下策である。それが起こった以上、これ以上戦わずに御国とバルカン同盟が利益を得た事にすれば良い。

 我等大日本帝国欧州領が求めるものは何か?

 御国が負けない事、そして大日本帝国欧州領(トラキア)がこの欧州で生きる担保を得る事。それはロドルフォ君やゼークト君が示してくれたバルカン半島に留まらぬ抑止力を欧州全土に植え付ける事、これはフィリッポス金鉱という欧州全土に利益をも足らず担保となろう。利益になる、害為せばただでは済まぬ。そういうことだ。

 彼等バルカン同盟軍の求めるものは何か?

 領土と言えば簡単だがそれは結果に過ぎない。御国の領土と目する場所を奪い国威を維持ないし向上させるのが目的だ。それは既に叶っている。
 だから儂等は奪われた土地を奪還せず彼等バルカン同盟に疫病の如く恐怖と悲痛を蔓延させる。儂等が本気を出せば信じ難き“量”の兵士と言う国民が死ぬ。もし今のバルカン同盟軍全員が彼等の言うステュクス河(さんずのかわ)を渡らされるのであれば。三国に待ち構えるは空っぽの領土とそこに満ちる自国民の悲嘆と怨嗟、そう認識させるのだ。『我が国と戦うは国家破滅の始まり』。ゼークト君の言う抑止力を植え付けるとはそういうことなのだろう? 迂遠に過ぎるとは思ったが長き眼で見た場合人の死をより少なくできるのはシナノのデータベースより明らかだ。感心する。戦術ならいざ知らず、戦略という大きな目を養う力が帝国陸海軍から欠けているのは『橙子の史実』から明らかだ。なら、儂は『先ず隗から始めよ』であらねばならぬ。


 「まだ確認できぬか。」

 「もう少しお待ちください。ブルガリア軍はプロヴティブから出撃しましたが進撃方向が不明のままです。」

 「夜が明ければ再び飛行船を引き上げなばならぬ。一日遅れれば一手以上遅れかねんのだぞ!」


 苛立たしげな参謀たちの声が響く。ブルガリア中部の都市、プロヴティブには毎日のように欧州軍のさぎや二型大艇を差し向けている。高空からの擾乱爆撃(いやがらせ)以上にブルガリア軍20万が何処に進撃するのか固唾を持って見続けているのだ。それをブルガリア軍首脳部も知っている筈。ならば航空機がやってこない夜に出撃すれば儂等に無駄な時間を稼がせる事が出来る。所詮無駄な足掻きでしかないがな……夜間無音飛行で近づき人には見えぬ光(せきがいせん)を投射して闇を見通す赤外線投光装置(ヴァンパイアシステム)搭載飛行船。ブルガリア軍がこれから逃れることは不可能だ。


 「そんなに殺気立っていても相手は動かぬよ。交代で外の風景でも眺めてきたまえ。ただ、慢心したまま返って来ぬような。」


 何かを期待したように若い通信兵や参謀の何人かが外へ出ていく。アレを見れば興奮を隠せないだろう。アレを縦横無尽に指揮する司令部に不可能は無いと思いあがりかねない代物だ。――だから時の果て“第四次中東戦争”でユダヤ人が己より劣っていると侮蔑したアラブ人に散々にしてやられたのだがな。

 装甲旅団

 遥か時の彼方でそのユダヤ人を迫害したドイツ第三帝国が戦争末期に創り出した徒花がこれだ。防衛戦で敵軍に突破された部分を急襲し、戦線の綻びを修復する『火消し部隊』。これを正規師団で臨時に編成するのではなく、正規兵力として編制してしまったが為に『火消し』以外には使い物にならなくなったと言う本末転倒な代物だ。だがその原因【歩兵の不足による汎用性の欠如】を逆手に取る方法がある。
 相手に戦車と言う速度と恐怖を刷り込むのであれば大日本帝国欧州領にとって最も必要とされ常に不足すると言う歩兵を最小限にとどめる事が出来る。そして歩兵戦力の最小化は機械化部隊全体の機動力を底上げする。それを現実化したのが時の果てのユダヤ人国家【イスラエル】であり其の戦術を【オールタンクドクトリン】と言う。敵が対戦車兵器、対戦車戦術を持つなら自滅行為だろう。しかし、

 今、戦車の黎明期、兵士が戦車をどんなものか認識できていない今ならば!

 揃えた装甲旅団4つと自動車化した補給連隊、これに傭兵部隊を組みこみ側面を固める。そしてブルガリア軍が……


 「きました! ブルガリア軍進撃方向確定、方向は東、敵目標イスタンブール!!」

 「全軍に発令、ヒノデハヤマガタトス、急げ。」


 起ち上がる、最後の仕上げだ。誠、誠、“橙子”と『橙子』には世話になった。良い意味でも悪い意味でも。だからこそここで道を違える。儂は欧州領を世界に認めさせる。あの二人は未来を守る。そう失われた勅命“軍”【シナノ】とまだ見ぬ存在人類評定“軍”……そう此方の霧の艦隊から。奴は人類に味方などいないと宣わった。ならば創り出すのみ。さらに凶報……いやようやく届いた『彼等にとって手遅れの一手』が届く。


 「ピレウス挺身潜入班より連絡来ました。ギリシャ海軍に動きあり!」

 「やれやれ……欧州軍増援部隊がエーゲ海に入ってからようやく抜錨ですか? 随分と暢気な事だ。護衛艦隊とぶつかるのはどう見ても我が全軍がテッサロニキ市に敵前上陸した後ですな。例え勝ったとしても空船でも沈める気ですかね?」


 財部君の呆れ顔に同調する者多数。そう儂等の作戦ではその時点で手遅れに等しい。実際薩摩級や三笠を始め御国の護衛艦隊はギリシャ海軍を適当に引きずりまわして疲れさせるだけで良いのだ。加藤(友三郎)君のことだ。上手くやるだろう。だが釘は刺しておく。


 「敵を呑んでかかるのは良いが戦は水ものだ。ギリシャ海軍が艦艇残さず捨て札にする気なら大変な事になるぞ。其の為の航空隊ぞ。」


 そうギリシャ海軍が態々上陸船団や護衛艦隊に殴りかかるとは限らない。刺し違える覚悟なら『征京艦砲射撃、陸戦隊での上陸』という長州痛恨の大敗北『下関戦争』の再現を狙えるのだ。それを防ぐためにテッサロニキでも此度の海戦でもヒュー君が動かす航空隊以外は動かせぬ。200機少々のHs123 Ju52 二型大艇の全てがこのバルカン戦争での欧州領の要。航空機如きで甲鉄艦は沈められぬ。これが世の常識。だがそれを覆した事実を知るのであれば最強の切り札と言える。しかもギリシャ海軍には未だ対空戦闘という概念は無い。

 全ての兵、事象、状況を読み、勝利への方程式を組みあげ、大日本帝国欧州領虎騎亜を遺す。それが残り少ない命を使いきる儂の存在理由。


 「少し外の空気を吸ってくる。装甲旅団は順次進発せよ。」


 外で従卒が曳いている馬に跨り、一鞭を当て駆け出す。行先は…………





―――――――――――――――――――――――――――――




 橙子御嬢さんが御友人達や静子奥様と別れを惜しんでいる。私は御嬢さんの迎えとして総督邸の外で馬を曳く。いささか時代がかった別離であるが、これもまたけじめと言うものだろう。斯く言う私・高野五十六大尉にとってもそうだ。乃木大尉との出会いと其の最後、暴走した御嬢さんと何も知らなかった私、トラキアへの赴任と此の世の裏側、霧との出会い、そして人類評定。
 知るべきではなかったのかもしれない。人類の預かり知らぬ所で世界の未来が着々と決められていると言う事実。故にそれを知った者たちが戦いを始めている。ダグラス・マッカーサー、ヒュー・ダウディング、私、南雲中尉……そして乃木家全てが。
 何という皮肉だろう。此処欧州で御国の海軍がが初めて戦う場所が人類評定が提示した最初の戦場になるとは! しかもこのままだと御国の海軍とギリシャ海軍が会敵する同月同日になると言うのだ!! ヒューが旅順上空で見たあの光景が繰り返され全世界が驚愕することになるだろう。だがそれでいい。

 今のままでは世界が霧に打ち勝つことなどできはしない!

 150年世界中が無目的に争っていては駄目だ。人類の技術を結集し、全人類が霧の脅威を共有する。そこまで来て初めて人類は霧と同じ土俵に立てる。私の生涯全て擲っても無理だろう、だが階に足を掛ける事は出来る筈だ。
 橙子御嬢さんが歩み寄る。一礼して『よろしくお願いいたします』の一言。私は御嬢さんの腰を抱いて白馬に乗せ――なんでもモンテネグロ国王の下賜品だそうだ。――相乗りの形で私も跨る。トラキアに来てから騎兵将校の手荒い訓練を受けた身だ。問題無く馬首を海岸の方に向ける。
 拍車をかけ馬がその歩みを早める。正門前で手を振る同級生達に御嬢様が答えるのを終えた時、私は尋ねる事にした。


 「本当に良かったのですか? ヒューの我儘は今に始まった事ではないですが。」


 不満そうに橙子御嬢さんが答える。


 「仕方ないです。あそこまで航空機の未来を語って座り込むとは思いませんでした。もう! 南雲中尉にあんな勝手許さなければ良かった。」


 子供っぽくプリプリ怒っているが。それが返って笑いを誘う。今我等は大日本帝国でも大英帝国の軍人でもない。あのダグラス君だってそうだろう。今、私達は世界の軍人なのだから。


 「時間になればすぐ戻ってきますよ。索敵ユニットが統御する二型大艇を初瀬は揚収できるのかは私達の腕次第。もしギリシャ海軍相手に戦果無しだったらヒューの髪型を面白可笑しくしてやりましょう。」

 「ナノマテリアル作った取り外し不可能なカツラをつけさせて?」

 「それは名案ですな!」


 二人で静かに微笑む。そう、御嬢さんは笑っていれればいい。この先、霧と人類との仲立ちを進めるとあればどんな理不尽な思いをするのか解らない。私は其の理不尽に対する楯の一枚となろう。


 「そういえば南雲は?」


 御嬢さんがカンカンになって連れ帰った後、初瀬のシミュレーターへ缶詰させている筈だ。なんでもギリシャ海軍主力艦に特攻寸前の攻撃をやらかし、しかも己は海に転がり落ちて大騒動になったらしい。御嬢さんの瞳が一瞬揺らめいた後、溜息を吐いた。


 「真面目にシミュレーター動かすのは良いですけど。あんな無茶な操艦してたら元の初瀬は乗組員全員船酔いで死んでしまいますよ。魚雷艇と戦艦間違えているんじゃないかしら?」

 「ヒューが言っていましたよ。ハツセは戦艦じゃ無い。いわば海を飛び回る航空機だと。」

 「彼らしいですね。」


 とうとう吹きだしてしまう彼女の先、 私達が駆けさせる駿馬の前方、もう一騎が駆けている。私も御嬢さんも笑みを消し緊張する。騎手はこの戦争が始まる前こういったのだ。


 「この時より儂等の道は分かたれる。」        と


 栗毛の馬に跨り徐々に速度を落としながら轡を並べる騎手の名は。


【トラキア総督 乃木希典閣下】




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