ほんの僅かな明かりしかない世界。
愛姫がその明るさに慣れるまでには、多少なりとも時間がかかった。
どうやら牢屋の中らしい。

幸いにして、手枷足枷はされていない。
だが、堅牢な牢屋の外には、二人の見張りが付いている。
しかも、地下牢のようなので、照らしている明かりは弱く、完全には見えない部分もある。

「……政宗様、怒ってらっしゃるでしょうか?」

しかし、頭をよぎるのは、一人の人物のことだけ。
本陣に自分の姿がなければ、どれほど怒られるであろうか?
出来ることなら、一刻も早く戻りたい。

そんな心境の愛姫の耳に、どこからか呻き声が聞こえてきた。
どうも、右隣の牢屋からのようで、先程から衛兵が慌ただしく往来している。

「あの、衛兵様?」
「なんだ?」

見張りに声をかけると、面倒くさそうに返事を返してきた。
立場上、あまり中にいる人物とは話したくない模様。
だが、愛姫にはそんな心境が分かるわけもなく……

「あの、お隣にはどなた様がいらっしゃるのでしょうか?」
「それを聞いてどうする?」
「いえ、先程からお苦しそうなので、どうなさったのかと……」

衛兵はそれ以上何も言おうとしない。
困った愛姫だったが、それ以上を知る術がない。
仕方なく牢屋の奥に座り、思慮に耽るしかなかった。

それから、何度か見張りが中を覗いてきていた。
愛姫が笑顔で応えると、思わず顔を赤らめていたようで、すぐに顔を引っ込めた。
食事を運んでくる際も、何人かで言い争いになっていたらしい。

「美味しゅうございます」
「そ、そう……ですか?」

思わず敬語になる衛兵。
その衛兵に対し、にっこりと微笑みかける愛姫。
現状が分かっているのかそうでないのか……
なぜか衛兵側に、そんな心配が募ってきていた。

そして、その日の夜半。
まさかの事件が起こり、衛兵たちは大騒ぎをすることになる。

「だ、脱獄だ!」

 

 

──────────────────────────────────────────────────

 

 

「何事だ、騒々しい……」
「あ、三成様に光秀様!」

地下牢が騒がしくなり、一度城に戻っていた二人がやってきた。
事情を聴くと、捕えていた人物が一人、脱獄したとのこと。

「……で、逃げた人物の名は?」
「は、はっ!独眼竜の奥方の、愛姫殿にございます」
「おやおや……あの方は、随分と大人しい方だと思っていたのですが……私の思い違いだったのでしょうか?」
「いや?実際、私もそうだと思っていた」

内心、二人はかなり驚いている。
あの戦場の中にいて、とても落ち着いていた様子の愛姫。
そんな彼女が、ここにきて脱獄という大胆な行動に出るとは、予想をはるかに超えていた。

「い、いかがいたしましょう!」
「これでは、信長公にお叱りを受けてしまいますねぇ……」
「私も秀吉や半兵衛に何と言われるか……」

嫌味たっぷりに、二人は兵士に愚痴をこぼす。
報告した兵士の顔が、一気に青ざめていく様子が見て取れた。

「まぁ、いい。光秀、ここの指揮はお前に任せる」
「おや?あなたはどうするのですか?」
「そろそろ戦場に戻らねば、半兵衛がうるさいのでね。その代り、逃げたあの女に、多少なり灸を据えてもかまわんぞ?」
「フフフ……そんなことを言ってもかまわないのですか?」

問題ないといった風に、三成は妖しく微笑む。
後を光秀にすべて任せ、兵糧や武具などを運ぶ部隊と共に、さっさと戦場へと戻っていった。

「では、皆さん。すぐに探し出してください。決して傷つけてはいけませんよ?」
「ぎ、御意!」

四方へと兵が散っていく。
光秀もゆったりとした歩みで、その後に続いていく。
誰もいなくなった地下牢は、先程までとは違って、気味の悪いほどの静けさが漂っていた。

そんな中、一つの牢の扉が開いた。
愛姫が先程までいた牢の左隣。
その中から姿を現したのは、見紛うことなく愛姫その人。

「さすがは、小十郎様です。仰ったとおりですね」

立場上、人質にされることも考えられなくもない。
そうなった際に、敵の城内を多少でも混乱させるためにはどうすればよいか。
かなり危険な方法ではあるが、懇願された小十郎が授けた知恵の一つであった。

まず、見張りの兵から鍵を奪うことに成功したら、すぐに近くの牢の中に身を潜める。
そのあと、石か何かで衛兵を起こし、自分が逃げたということを知らせる。
大抵の場合、捜索のためにその場にはだれもいなくなる。

「……ですが、助けが来ると分かっている場合はここで待っていればよいのですが、そうでない場合には……」
「私と一緒に遊びますか?」

背後から冷たい声。
そして、首筋に伝わる冷たい感触。

「えっと、明智様でしょうか?」
「名前を覚えてくださって光栄です。ですが、このような事態を引き起こした以上、それなりの覚悟はおありでしょうか?」
「……速やかに牢に戻ると申せば、些かの問題もないかと……」
「それは残念ですね。このような事態を引き起こすからには、いかなる障害をも跳ね除けるつもりかと思っていましたが?」
「血に塗れるのは、あまり好きではないもので……」

振り返り、光秀に微笑みかけながら愛姫は鍵を渡した。
そして、自分で別の牢へと入って行った。

「あなたに一つ、申しあげておきましょうか」
「何でしょう、明智様?」
「現在の戦況、両軍とも芳しくありません。先程入った報告によると、こちらは蘭丸や帰蝶らが重傷を負い、豊臣方の軍師も動けないとのこと」
「政宗様や、真田様は?」
「今は本陣に待機しているようですよ?あなたがいらっしゃらないもので、口論になっているとか……」
「……有難うございます」

「では……」と一言告げ、光秀は見張りに後を任せて立ち去った。
それを見送った愛姫は、次の行動へと移った。
牢の奥にいる人物に近付き、小声で話しかける。

「武田様、でございますよね?」
「……ぅ、む……お、お主は?」
「あ、申し遅れました。政宗様の妻で、愛と申します。以後お見知りおきを……」

畏まって礼を述べる愛姫に、信玄は唖然としていた。
肝が据わっているのか、それとも現状を把握していないのか……
どちらにしても、彼女が何を考えているかは分からなくもない。

「ワシに何か用があるのじゃな?」
「はい。政宗様と真田様が、あなたをお救いするために共闘しております。是非とも、お力をお借りいたしたく──」
「貸してやるのには一向に構わんが、ワシはこの有様じゃ。壁に貼り付けられたこの状態では、碌に力も出せぬ」
「あ、それはこの愛にお任せくださいませ」

そういうと、服の中を弄って何かを取り出した。
信玄の枷の鍵である。
光秀に返すより前に、一応外しておいたものだ。

音をたてないように慎重に外し、信玄を解放する。
解放された信玄は、手首や足首の不快感を感じながらも、不敵に微笑んでいた。

「愛姫殿。そなたには、後でしっかりと礼を申さねばならんな」
「お気になさらず……」

そして、牢に雄叫びが轟いた。

 

 

──────────────────────────────────────────────────

 

 

見張りの兵ごと牢屋が吹き飛び、信玄と愛姫はそこを抜けだす。
途中、それぞれの武器も見つけ出し、城門へとたどり着いた。
既に兵が配備され、一番前には一人の人物が立っている。

「これは信玄公、どちらへお出かけです?愛姫殿もお連れになって……」
「世話になったのぉ。じゃが、いつまでもここに居るわけにはいかんからな」

軍配斧を握る拳に力が入る。
その後ろの愛姫も、鎌をしっかりと握りしめている。
すると、信玄が小声で愛姫に話しかけた。

「ワシの傍から、決して離れるでないぞ?」
「……はい、分かりました」

すっと、愛姫は信玄の後ろに立つ。
その刹那後に、信玄がすさまじい雄叫びをあげる。

炎をまとった岩石が、光秀らに向けて降り注ぐ。
兵たちは逃げまどうが、広範囲に降り注ぐ岩からは、完全には逃げられない。
城門は粉々に破壊され、残っているのはただ一人。

「流石は信玄公……ただ一人で、この包囲を破りますか」
「次はお主が来るか、明智光秀!」
「フフフ……あなたの血を吸いたいと、この桜舞が嘆いています、信玄公」

ゆらりと、風に乗るように光秀が一気に距離を詰める。
振り下ろされた二本の鎌が、信玄へと襲いかかる。
その兇刃を受け止めたのは、光秀の鎌よりもはるかに大きな鎌であった。

「おや?あなたが血を吸わせてくださるのですか?」
「明智様?申し訳ありませんが、時間がありません。愛はすぐにでも、政宗様の元へと戻らなくてはなりません。ですから──」

急に、愛姫の姿が消えた。
それほどまでに俊敏に動けるとは予想だにしていなかった光秀は、驚きのあまり目を見開いた。

「Ascension」

光秀の首筋で、氷が割れるような甲高い音が響く。
途端、光秀の体は、糸の切れた人形のように地に倒れた。

「おや?体が動きませんねぇ?」

延髄に叩きこまれた衝撃のせいで、首から下へ、脳の伝達が行えなくなった光秀。
動くことができなくなった光秀に、愛姫は一礼する。
すぐさま信玄に向き直り、小さく頷いた。

「武田様、急ぎましょう。あちらの方に、馬が繋いであるのが見えます」
「うむ。案内を任せてもよいか?」
「はい。ですが、関ヶ原まではお願いいたします。何分、このお城の位置は知りかねますので……」

馬に跨る愛姫。
その後に続き、信玄も馬に乗る。
だが、どこか胸騒ぎがした。
それがいったい何であったのかは、その時の信玄には分からなかった。

 

 

──────────────────────────────────────────────────

 

 

夜が明けた。
関ヶ原に朝日が差し、両軍の動きも活発になる。
だが、どちらも鬨の声を上げる様子はない。

「政宗殿!どうなさるおつもりか!」
「Shut up!そんなことは分かってる!」

昨夜からずっとこの調子。
小十郎や佐助が何度か諌めるも、両者は頑なに引こうとしない。
業を煮やしていると、一人の斥候が戻ってきた。

「伝令!敵軍に兵糧が運び込まれた模様!」
「Shit!これで戦況はますます不利になたってわけか……」
「敵が勢いづく前に、政宗殿!ここは攻め入るべきでは!」
「……だが、俺のその判断で……」

その続きは言葉にできない。
幸村も、それ以上は責め立てられない。
そんな状態が、ずっと続いているので、兵士たちにも動揺は隠せない。

小十郎と佐助も、良い言葉が思い当たらない。
今二人は、自分の心臓を握られているに等しい状況。
さすがにフォローするのは難しかった。

「やっぱり、俺が無理にでも止めてりゃ……」
「そんなことありません、政宗様?」
「だが、そのせいでお前が危ない目に──」

その場の空気が固まった。
一同が、ある一方向に目を向ける。
そこにいたのは……

「愛……?」
「お、おおおや、おおやおやおや……………お館様ァ!」

二人は馬から降り、全員に歩み寄る。
幸村は信玄に縋りつき、溢れる涙を抑えられない。
そして政宗は……

「愛、無事か?」
「はい。至って問題ありません」
「……その、俺のせいで──」
「政宗様?」

愛姫が言葉を遮る。
にっこりと微笑み、政宗の頬に手を当てる。

「愛は、政宗様の妻でございます。無論、戦場に出た以上、死ぬ覚悟はできております」
「No kidding……ふざけたこと言うんじゃ、ねぇ……」
「ですが政宗様。政宗様や小十郎様がそうであるように、この愛も、死のうと思ったことは一度とてありません」

政宗の目が、ハッと見開かれる。
小十郎が常に言っているその言葉。
当然自分も、目の前の愛姫も、何度となく耳にしている。

小さく溜息がこぼれる。
自分の愛妻を信じ切れていなかった自分が、愚かに思えた所為だ。
苦笑で愛姫の目を見ると、いつものように優しく微笑んでくれた。

「こういう時は、なんて言ってほしい、愛?」
「政宗様の思った通りに……」

二人のやり取りに、思わず顔を赤くして、眼を背けるものは数知れず。
幸村に至っては、激しく動揺して佐助に怒鳴り散らす有様。

 

 

「愛、無事で──」

優しい眼差しの政宗。
愛姫にかけられるはずの言葉は、突如轟いた一発の銃声にかき消された。
そして……

 

 

 

 

「政宗、様?」

 

 

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