漆黒に包まれた、一条の光もない世界。
その世界の一角に、優唯の部屋はあった。
今は静かな寝息を立て、夢の中へと沈んでいる。
「すー……くー……」
その部屋に、不審な影が揺らめく。
影は二つ、どちらも細身であること以外は分からない。
だが、光のないこの世界の中でも、何かを持っていることは分かる。
「……………(こくっ)」
「……………」
片方の影が頷く。
もう一方はそれを確認すると、優唯の横へと膝をつく。
そして、両手で何かを握り締めると、頭上高々と振りあげる。
ドスッ
鈍い音が響く。
途端、寝息が消えた。
「(やったか?)」
「(手応えはあった)」
聞きとるのに困難するような声で、二人は会話する。
片方の影が懐から何かを取り出すと、火花が飛び、蝋燭に火が灯される。
その光に照らされるのは、眠っていた優唯の髪。
とても美しいその桃色の髪は──
「なっ……!」
「……………」
勢いよくその不審者に振りかえり、恐ろしい形相で睨みつける。
まるで蛇のようなその視線に、二人は動くこともままならない。
「この不届き者が!」
奏絵は跳ね起きると、瞬時に二人の背後へと回り、首筋に手刀を叩きこむ。
不審者の二人は、短い呻き声をあげると、その場に倒れ込んだ。
「……奏絵さん、無事?」
「ああ、問題ない」
少し間をおいて、仁詭が部屋へと入ってきた。
既に不審者は縛られており、身動きの取れない状態になっている。
「優唯様は?」
「俺の部屋で寝てる。念を入れておいてよかった」
「確かに……今回は、萩原に従って正解だった」
「……噂って言うのは、意外と反故にできないものだからな」
ここ最近、不穏な噂が異様に露骨になってきていた。
“暗殺”という明確な言葉さえ、その噂の中には含まれている。
とすれば、機が差し迫っている可能性は高かった。
「……だが、オレが身代わりになって、まだ二日目だぞ?」
「それだけ切羽詰まっているのか、あるいは一部の暴走か……どちらにせよ、大事になるのに、そう時間はかからないだろうな」
「どうするつもりだ、萩原?」
「……どうする、とは?」
今更、この後継ぎ問題を収束できるほど、仁詭の力も大きくはない。
とはいえ、希望の件で、重臣たち全員を黙らせたという事実もある。
多少なりと、奏絵は仁詭に期待していた。
「オレとしては、優唯様に後を継いでもらいたい。だからと言って、椿輝様を反故にするつもりは毛頭ない」
「それは傲岸だよ、奏絵さん」
そっと、仁詭が呟く。
「俺は、どちらが後を継ごうとかまわない。だからと言って、こんな形には発展してほしくはなかった」
「……それこそ、傲岸──いや、猿猴捉月というものか?」
「的は得てるよ」
どこか自嘲気味な表情で、仁詭はそう答えた。
そしてそのまま、部屋を後にしようとした。
「あ、そうだ」
ふと、何かを思い出したかのように、奏絵に振りかえった。
「ん?まだ何か、オレに言うことでも?」
「そうそう、怪我はいいの?」
「怪我?何のことだ?」
そう言って、奏絵は首を傾げる。
「いや、刺されたんでしょ?」
「何を馬鹿な……そんな不覚、オレが取るはずもない」
そう言って、先程まで寝ていた布団を捲る。
そこにあったのは、綿の飛び出した枕が一つ。
「……把握」
「用件はそれだけか?」
「ああ……じゃ、お休み」
──────────────────────────────────────────────────────────────────────────
翌日、仁詭は末森城にいた。
現在、優唯は清州城・椿輝は末森城におり、その二人の家庭教師のような存在であるため、週に一度のペースで城を行き来していた。
そこで、午前中の仕事を終えると、碧理に手を引かれてとある部屋へと引きずり込まれた。
傍から見れば、廊下を歩いていた仁詭が消えたようにも見えた。
「(……無理やり部屋に引きずり込むなって、何度言えば分かる?)」
「(申し訳ありません、御遣い様。しかしながら、急を要するもので……)」
日の差しこむ一室。
そこには、見慣れた面々が一堂に会していた。
この団体に名前をつけるとするならば──
「(……“信長反対派閥”……)」
椿輝こそを後継ぎにと推す面々。
そして、当人の椿輝もそこにいた。
「……早速だけど、用件は?」
「はい、御遣い様」
ここ最近分かったことではあるが、碧理はこういう会合の時は落ち着き払っていた。
普段の様子からは見当もつかないが、椿輝曰く「戦場では更に凄い」とのことらしい。
「実は昨日、機が熟したと勘違いした者がおりまして……優唯様の暗殺を敢行したとのことなのです」
「ああ、報告は受けてる」
「その者たちがどうなったかは定かではありませんが、これでは機を早めるほかありません」
「…………………………」
予感は、当たった。
「……で、具体的にはどうするつもりだ?」
「優唯様には、後継ぎを辞退していただくよう、書状を送ります。受け入れてもらえない場合は──」
その続きは、聞かなくても分かっていた。
目を伏せ、一度思考を整理する。
そして、ゆっくりと目を開き、椿輝へと視線を移した。
「椿輝、お前はどうするんだ?」
「決まってる」
即答だった。
きっぱりとそう答えた後、椿輝はすっと立ち上がった。
「私はこれより、弾正忠を名乗る!」
「─────!」
弾正忠──
代々、織田家の当主が名乗ってきたもの。
まだ優唯でさえも、それは名乗っていない。
つまりは──
「(明確な、敵意表明)」
自分こそが後継ぎであると、大々的に表明したのだ。
もはや後戻りはできない。
「(……少し、遅かったか)」
表情は、何一つ変わらない。
ただ、椿輝を見つめるだけ。
……しかし、その心中は穏やかではなかった。
「御遣い様、どうか致しましたか?」
「いや、何でもない」
碧理に声をかけられるが、無表情で返す。
その返答で満足したのか、碧理はそれ以上追及しない。
「そうです、御遣い様。紹介したい者がいるので、この場をお借りしてもよろしいですか?」
「紹介したい者?もしかして、その隣にいる二人のこと?」
碧理の横に座る、赤い髪をした二人。
姉妹らしく、髪型は鏡にうつしたようなものだった。
「林秀貞と申します」
「妹で、通具と申します」
まるで息のあった演目でも見ているかのよう。
一つ一つの動作に、一切の乱れはない。
「この二人は、文武ともに秀でております。御遣い様のお役に、十分に立てるかと……」
「……分かった。期待はさせてもらう」
淡々と、仁詭は返事だけ返す。
そんな仁詭の心中など露知らず、その場の面々は口々に今後を話し合う。
ただ、椿輝が小さいながらも、口元を吊り上がらせていたことに、仁詭は背筋に冷たいものを感じていた。
──────────────────────────────────────────────────────────────────────────
「始まる……」
深夜、仁詭は月を仰いでいた。
細く、とても細い月。
今は夏なのに、その月だけは嫌に冷たく感じられる。
「あの、失礼します……」
「え、桜音?」
静かに襖を開き、桜音が入ってきた。
先程まで寝ていたのだろうか、寝間着姿に眠そうな顔。
髪も所々乱れている。
「どうした、こんな夜中に?」
「仁詭様のお部屋から、光が漏れていましたので」
「あ、ごめん」
どうやら、自分が起こしてしまったらしい。
小さく欠伸をする桜音の頭を、軽く撫でる。
「……あの、仁詭様?」
「ん、何?」
「何処かお辛そうですけど、何かありましたか?」
「……いや、何も、なかった」
消えそうな声で、仁詭は呟いた。
自分では、無表情を保ったつもりだ。
だが、桜音には極僅かの表情の変化を誤魔化すことはできなかった。
「……仁詭様が、仰りたくなければ宜しいのですが」
「え?」
「差出がましくなければ、私に心の内を明かしていただけないかと……」
驚かされた。
優唯も椿輝も、玲那や碧理や奏絵でさえも、自分の心のうちに気付く者など、誰ひとりいなかった。
だが、目の前にいるこの少女は……
「……いや、希望もそうだったかな?」
「え?希望ちゃんが、どうかしましたか?」
「何でもないよ、ごめん」
もう一度頭を撫でる。
今度は、先程よりもゆっくりと、その髪の感触を惜しむように……
「…………………………ありがと」
「え?仁詭様、今──」
「さて、もう寝よう。明日も俺は仕事なんだ」
「は、い……」
部屋まで送り、一言「お休み」とだけ言った。
その時に、桜音に呼び止められたが、静かに襖を閉じた。
「(もう、逃げ道はない。ここから先は、血で血を洗う戦が待ってる。……ハハ、今更手が震えてきた)」
震える手を、もう片方の手で固定する。
だが、どちらの手も震えているので、何の意味もない。
「人が死ぬ……戦が始まれば、否応なく……」
怖い。
許されるなら、何もかもかなぐり捨てて逃げ出したい。
だが、もう許されない。
自分から関わった問題を、何の責任も果たさず放り投げることは許されない。
少なくとも、自分が関わったせいで、人生の道筋が変わった人間だっている。
「毒を食らわば皿まで、か」
細い月から差す光は、仁詭の目のみを照らした。
澄んだその瞳に、揺らぐ物は既に何一つなかった。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m