「武将を一人、討ち取った、か……」
信長軍本陣。
地図の上に駒を並べ、戦況を窺っている仁詭。
その手は震え、気を緩めれば倒れてしまいそうな、そんな状態だった。
「人が、死んだ……」
今まさに、報告の上ではあるものの、人の死に直面した。
しかも、ただ死んだのではない。
自分に近しい人間が“殺した”のだ。
「……こんな姿、優唯や兵には見せられないな……」
「残念、オレがもう見てしまった」
振り返ると、そこには奏絵が立っていた。
その後ろには柚葵の姿もあった。
「あれ?そっちの方には来なかった、敵武将?」
「来るには来たが、相手武将の戦死の報告受けて、勢い良く帰っていった」
「そう……なら、まずは第一段階クリア、かな」
無理に微笑み、一息つく。
そんな仁詭を見て、二人は敢えて何も言わなかった。
「さて、と……次の策を立てないと」
「次の策?萩原、先程の策で充分だと、我々に言ってなかったか?」
「嘘に決まってるでしょ?」
真顔で応えられた。
思わず奏絵は唖然とする。
そしてすぐさま、食って掛かるように声を荒げた。
「なっ……!き、貴様!味方に嘘の策を……!」
「策自体は嘘じゃない。事実、敵は撤退しただろ?」
「そ、それは、そうだが……」
「嘘って言うのは、一つの策だけで充分て言うこと。そもそも、連環を使うっていう時点で、策は複数あると思わないと、ね?」
「し、しかしだな……」
「まぁまぁ、落ち着きなさいな、奏絵」
宥めたのは柚葵。
自分よりもほんの僅か背の低い奏絵の頭を撫でた。
「子ども扱いするな、柚葵!」
「でも、知らなかったのは奏絵くらいですよ?」
「……………え?」
呆然とする奏絵。
それを見て、思わず噴き出す柚葵。
「柚葵、それは逆。知ってるのが柚葵くらいなだけだ」
「あ、そうだったんですか?てっきり、優唯様や玲那は知っているかと……」
「知らないだろうな、あの二人は……代わりに、玲那には別のことを言ってある」
「……それは?」
柚葵が問いかけたのとほぼ同時に、斥候が一人やってきた。
仁詭は柚葵の言葉を手で静止し、斥候に身体を向けた。
「何かあった?」
「はっ!信長様と一益様の部隊が、敵本陣に向けて進軍なされました」
「な、何だと!」
その報告を聞いて、我に返った奏絵。
驚きのあまり、また大きな声を上げた。
そして今回は、柚葵もまた驚いている。
「萩原、これはどういう……?」
「御遣い様……」
二人の驚き方はまるで対照的。
その二人に対し、仁詭は無理に落ち着いた声で喋り出した。
「柚葵に、“敵が撤退したら、一端本陣に戻ってくる様に”って言ってたよね?」
「はい、伺っていましたので、こうして──」
「逆に玲那には、“敵を討ち取ったら、迷わずに進軍してくれ”って言ってたんだ」
「だから、それは何故かと聞いている!」
「……落ち着いて、奏絵」
静かな口調で、奏絵を宥める。
ここ最近、優唯や桜音以外の人も呼び捨てにするようにしてきた仁詭。
“少ない人数で立ち向かうには、結束が大切”という、優唯の言葉のためである。
しかしながら、今初めて呼び捨てにされ、奏絵は思わず押し黙った。
「二人にはこれから、ちょっと面倒な仕事をしてもらう。別々の仕事を、ね」
「……進軍させるのは、玲那の部隊だけでもよかったのではないか?」
「確かに、総大将の部隊を最前線に出すなんて真似、危険極まりない。でも、2つくらい狙いはある」
「狙い、だと?」
仁詭は小さく頷く。
視線を地図に移し、敵本陣を指さした。
「一つ目は、敵の総大将が本陣近くまでくれば、さすがに相手も動揺する。そして、方針も儘ならないまま、進軍せざるを得なくなる。この時点で、数の不利も無くなって、五分と五分くらいにはなる。相手は武将を一人失ってるわけだしね」
「……それで、もう一つの狙いとは?」
「…………………………」
柚葵の問いに、仁詭は言葉を詰まらせた。
二人から目を逸らし、口を噤んだまま……
「……まぁ、良いだろう。萩原、我々にその策とやらを教えろ」
「奏絵……いいの、伺わなくて?」
「“敵を騙すならまず味方から”……騙されてやろうじゃないか、それで勝てると言うなら」
不敵に、奏絵は微笑んだ。
その笑みが、どこか仁詭をホッとさせた。
「分かった。じゃあ、一度しか言わないから、よく聞いて」
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「勝家様!敵総大将、物凄い勢いで、こちらの本陣に迫っております!」
「分かっています!」
焦燥を隠せない。
もう敵は、眼と鼻の先にいる。
「碧理、少し落ち着いて」
「も、申し訳ございません!」
だが、椿輝とて焦っていないわけではない。
これが仁詭の策なのか、それとも優唯の独断なのか、未だに判断がつかないのだ。
「優唯の暴走だったら、どれだけ楽なことか……」
「ですが、優唯様の隣には玲那も見えます。これは、御遣い様の策と考えるのが妥当かと……」
「よね?あの玲那が、こんな無茶な進軍黙ってるわけ無い」
口元に指をあてる。
静かに目を閉じ、椿輝は少し考えをまとめた。
「碧理」
「はっ!何でしょうか?」
「相手の足を止めて。矢が尽きるまで、こちらからの進軍は無しよ」
「は、はい。承知仕りました」
命を受けると、碧理は急ぎ足でその場を去る。
後に残った椿輝は、誰もいないのを確認すると、無言で足下の石を拾い、地面に投げつけた。
「(不利……不利が重なっていく。頭脳面で、仁詭に勝てる人間はこっちにいない。上手く策を凌いで、数で攻め立てるしか……)」
悔しい。
相手の約四倍を誇るこちらの軍勢。
それが、仁詭の手の上で踊らされているように見えて仕方ない。
勝つ手段はないものか……
だが、そう簡単に見当たらない。
時間が経つにつれ、悪い報告しか入って来ないのが目に見える。
その現状に、椿輝は苛立ちを通り越して、泣きたいほどであった。
「(……待って)」
ふと、何かが頭を過った。
「(何で、仁詭は優唯を進軍させたの?玲那だけでも、もしくは別の誰かでもいいはず……もしも、“優唯でなければいけない”理由があったとすれば……?)」
総大将が先陣を切って攻めてくれば、こちらとしては鴨が葱を背負ってきたようなもの。
しかも、こちらは相手の四倍近くの兵力がある。
数で押し切れば、相手の負けは見えている。
「(だからこそ、何か罠があると思って、今は足止めさせている……でも、“総大将が優唯じゃなかったら”、仁詭はこんな策立てた?)」
自分よりも、優唯と接した時間は短い。
だが自分以上に、仁詭は優唯と深く接した。
だからこそ、何か思うところがあったとすれば……
「(……仁詭、軍師としてどれほどのものか、私自身の目で見させてもらうわ)」
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「優唯様、これ以上は……!」
「分かってる!でも……」
もう、目の前なのだ。
相手の本陣はすぐそこに見えている。
無理をすれば、手の届く距離にあるのだ。
だが、相手の陣営から降り注ぐ矢の雨が、その手を拒んでいる。
後ずさりながら矢を避けてはいるが、そろそろ兵たちも限界に近い。
「一度退いて、隊を整えましょう!」
「退けない!今退いたら、相手の追撃を受ける!数で劣ってるこっちは、追撃を受けられる余裕なんてない!」
確かに、優唯の言うことは尤もだ。
追撃をするのとされるのでは、明らかにする方が有利。
しかも、数の不利がある以上、追撃を受けて兵を消耗するのはあまりにも愚策。
「(……何故だ?萩原、何故お前は……?)」
思わず、玲那は仁詭を恨んだ。
軍師としてはあまりにも未熟だったのか……
そう思うと、推した自分をも呪った。
敵武将を一人討ち取った程度の勢いでは、本陣を破るのは厳しい。
そのくらい、自分なら分かった筈ではないのか。
湧き上がるのは、後悔と憤怒。
それも、自分に対しての物が大きかった。
「玲那さん!」
「は、はい!」
突如呼びかけられ、玲那は我に返る。
「仁詭、信じられないの?」
「い、いえ……そう言うわけでは……」
「大丈夫、仁詭は信じられる!」
力強く、優唯はそう言い放った。
そう言い放って間もなく、急に矢の雨がやんだ。
「「……え?」」
思わず目を疑った。
矢の雨がやんだかと思うと、一人の人物が馬に乗って陣から出てきた。
それは、見慣れている黒髪の持ち主……
「椿輝……?」
絶句した。
いや、呆然としたと言った方が、適切だろう。
武装したその姿に、優唯は完全に言葉を失っていた。
「なっ……!これ、は……?」
不意に、後ろから驚いた風な声が聞こえた。
振り向けば、そこにいたのは奏絵。
「奏絵?どうしてここに?」
「萩原から託って来たんだ。“総大将同士、一度だけ言葉を交えさせろ”って……」
「……やっぱり」
奏絵の言葉を聞き、椿輝は小さく溜息を吐いた。
「仁詭らしいわ。そして、軍師としては失格ね」
「……仁詭を侮辱するの?」
「いいえ?“軍師として”なら、侮辱するけどね」
ただそれだけ言葉をかわすと、お互い沈黙した。
じっと相手の目だけを見つめ、一切何も喋らない。
まるで、この場だけ時が止まってしまったかのよう。
「…………………………」
「…………………………」
優唯の後ろでは玲那と奏絵が、椿輝の後ろでは碧理が、それぞれ居た堪れない心境でいた。
二人からは、言い知れないオーラが滲み出ているかのよう。
頬を伝う冷や汗が、嫌に不気味に感じられるようだった。
「…………………………ぷっ!」
突如、優唯が噴き出した。
「アハハハハハハハハハハ!」
そして、辺りに響き渡るほどの声で笑い出した。
椿輝は呆気にとられたが、それを意に介さず優唯は喋り出した。
「椿輝、もう分かったわ。一切手加減しない」
「……あぁ、そう言うこと。前言撤回するわ」
それだけ言うと、二人は背を向けた。
「玲那さん、奏絵さん、戻るわよ」
「え……?」
「あの、優唯様?」
同じように、椿輝も陣に戻っていく。
玲那たちのように、慌てふためく碧理を後に連れて……
眼だけで何を会話したのか、それは二人しか知り得ないこと。
だが、二人はどこか満足げだった。
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