―6月15日 冥界―
冥界に一陣の風が吹く。
死が混じる冷たい風とともに冥界の地に三人の足が同時に着地する。スニーカーと草鞋の地面と接触する乾いた音が響く。
周りに視線を向ける。
そこには先に来ているはずの霊夢、魔理沙、早苗の姿は見当たらない。
一体どうしたのだろうかという疑問を抱きつつも、肌に感じる冷たい感覚に敏感に反応していた。
――これが死、なのか……?
人里にいた時よりも強く感じるそれ。
立っているだけなのにどうしたわけか背筋が凍るような冷たさを感じていた。そう感じるのはここが死者の来る世界、冥界だからだろうかと考える。
立っていても仕方がない――そう思い小町の方に視線を向け、言う。
「彼女がいるのはどこなんだ?」
「この道を進んで行けば見えてくる屋敷――白玉楼にいるよ」
そう言う小町の視線は回りに咲き乱れている桜に向けられていた。
季節はずれの桜の開花。これは一体どういうことなのだろうかと、さらに疑問が増える。
彼女の表情は厳しいものだ。
それが何を意味しているのか、優也には分からない。
しばしその美しさに思わず目を奪われる。だが唐突に身構えざるを得なくなる。それは周りから無数の幽霊が現れたからだった。ただの幽霊ではなく、以前に人里で暴れまわった無数の手足を持った異形とは似つかないが、同じような仮面を被った幽霊が現れたのだ。
妹紅はその手から紅蓮の炎を、小町は肩で担いでいた大きな鎌を、優也は護身用として以前に手渡されていた脇差を抜き取り、構える。
「幽霊か……?」
炎を迸らせながらそう呟く。
だが妹紅が知っているような幽霊とは似ても似つかない。むしろ以前人里を襲ったあの異形の方に似ていると考える。
「本質はそうだろう、ね……。でも――」
小町はそこで言葉をとぎらせ、手を伸ばして接近してきた幽霊の胴体を両手で握り締めていた鎌を横なぎに振り、断ち切る。
抵抗もせず、その幽霊は真っ二つにされ、黒い靄となって消えた。
「普通じゃない。何がっていうのは分からないけどね」
複数の群れをつくって迫る幽霊に対し、掌にある霊力でできたお賽銭を投げる。多少のダメージが通るだけで消滅には至らない。
目を細め、小さく舌打ちを零す。彼女のそれはいつも通りなら消滅していたのが、そうならなかったことに対してのものだろう。
優也も両手で構えた脇差を上段から振り下ろし、幽霊の身体を切る。悲鳴を上げ、数歩たじろいだ。
今だ――!
そう思うと同時に集中力を高め、叫ぶ。
「“ソロネ”! “ハマオン”!」
淡い光とともに出現したのは火車に貼り付けにされた状態でローブをかぶった姿のペルソナだった。ぐるりとその火車が回転する。すると痛みに後ずさっていた幽霊の足元に魔法陣らしき何かが現れ、そこから放流する淡い光にそれが取り囲まれ、そして身体を包む形で数枚の御札のようなものが張り付く。
そしてまるで邪を浄化するかのようにその幽霊が一瞬にして光の粒子へと変わったのだ。“ソロネ”が使用したのは神聖系の中位浄化魔法である“ハマオン”だ。
やや高い確率で相手を浄化し、問答無用で戦闘不能にする魔法だ。強力な敵に対しては通用しないが、このように沸いて出て来る敵に対しては有効だった。
「鬱陶しいな……一気に蹴散らしてやる! 「インペリシャブルシューティング」!」
紅蓮に燃え滾る炎の弾丸が無数に放たれ、迫り来る無数の幽霊たちに襲いかかる。熱を帯びたその弾幕は幽霊たちのその透明な身体を穿つ。
悲鳴のような叫びを上げ、前方にいた幽霊たちが後退を始める。
そんな彼らを盾にするかのように押しながら後ろから前進してくる幽霊たちがいた。それを見て目を細めた妹紅はさらに弾幕の数を増やす。断続的に弾幕を受けた前陣にいた幽霊が黒い靄となり、消滅する。
だがその後ろから進んでいた無傷の幽霊がありえないものを口にする。
『……“ジオンガ”』
「なっ!? くそっ!」
咄嗟に避ける動きを見せる妹紅。だが反応が遅れたためか、頭上からの落雷が彼女の腕を穿つ。強烈な痺れとともに、肌を焼くような痛みが同時に感じられた。不老不死の力のおかげで痛みはあれど、傷はすぐに回復する。痺れは回復するまでに少し時間が掛かりそうだった。
地面に着地し、数歩後退する。
彼女を守るようにして前に出た小町と優也。
後から後から涌いて出て来る幽霊。やはり今回の異変が影響を与えているのだろうかと思う。
『……“マハジオダイン”!』
「少しでも相殺を……“ディオニュソス”! “マハジオンガ”!」
強烈な落雷が無数に放たれる。それに対してそれよりも威力の小さな落雷が盾になるようにして三人の元へと落とされる。目の前で雷同士が衝突し、強烈な閃光を生み出す。威力に押され、衝撃波は優也たちの方に襲いかかる。
地面に踏ん張ることで、転倒するのを防ぐ。
目前に迫っていた一体の幽霊。それが優也に向けて手を伸ばしてきた。
ひんやりとした感覚が頬に触れられる。その瞬間背筋から言葉にならない何かがよじ登ってきて、膝が震え、そのまま座り込んでしまう。
――怖い……。
目の前に立つ敵に対して急に恐怖を抱くようになってしまった。
敵が使用したのは「デビルタッチ」。相手を恐怖状態に陥らせるバステ効果をもつ魔法だった。それによってからだが萎縮してしまい、攻撃は愚か、ペルソナすら呼び出せなくなっていた。
そんな優也に対して亡者の手が伸ばされる。
「何……してんだい!」
横一閃――小町が振るった大鎌が幽霊の伸ばしていた腕を切り飛ばした。数本の腕が宙を舞い、地面に落ちて数度バウンドすると、黒い靄となって消えた。
小町は足元で頭を抱え、震えている優也に対して柄の部分を使い、思いっきり殴る。
ガンッという鈍い音が響く。
思わずそれを見ていた妹紅は呆れたような、同情したような視線で二人を見つめる。
恐怖ではなく、頭を中心に発生している痛みに悶絶している優也。そんな彼の姿をため息をつきながら小町は見下ろしていた。
「情けないね。男だろう? 少しは女を守ってやるっていう気概くらい、見せて欲しいもんだねえ」
「痛っ……よく言う」
痛みに顔をしかめながらも立ち上がり、脇差を握り直す。
小町のおかげで恐怖心から抜け出していた。
逆に痛みが頭を中心に残っていた。
腕を失ってもこちらに迫る幽霊は、もはや目の前にいるのはシャドウと特定しても良いのではないかと思う。
それは彼らがペルソナやそれと同質の存在であるシャドウしか扱えないはずのペルソナ魔法を使ってきたからだ。
奇妙なローマ字が刻まれた仮面もその理由だ。
仮面で隠れている顔を切り裂き、痛みに仰け反ったところに心臓部を突き刺した。切っ先は身体を突き抜け、だらりと脱力したそれは黒い靄となって空間に解けるように消えた。
消えた先からまた新たなシャドウが現れる。
周りを見ても、炎を灯した拳で殴り飛ばしている妹紅とお賽銭の弾幕を投げ、怯んだところで大きな鎌をまるで魂を刈り取るようにして振り回している小町の姿が見える。だが二人の奮戦もあるというのに無蔵量に増え続けるシャドウ。
このままではこちらが先に息切れを起こしてしまうと危惧する。
優也もペルソナを召喚し、全体に対して攻撃することでこちらへの攻撃を阻止する。だが体力とともに精神力が削られる。ここで無駄に消費するわけにはいかなかった。
――どうすれば……。
脇差を袈裟切りに振りながらシャドウに対抗する。
召喚していた“ディオニュソス”が地面に拳を叩きつける。赤い衝撃波がそれを中心に広がりシャドウたちを後退させる。だが耐性を持っているシャドウにはほとんどダメージが通っていないためか、振り上げられた腕が横殴りに振り抜かれる。
ガンッと片頬を殴られる。
強烈なフック――口の中を切ったためか、鉄の味がした。口の中につばがたまったために吐き出すと血が混ざった状態で地面に落ちた。
「このままじゃジリ貧だぞ……何とかならないのか?」
文句を言いつつ、紅蓮の弾幕を放ち続ける。
腕を伸ばしてきたシャドウに対してかが見込み、間合いに入り込むとサマーソルトの要領で後方に回りながら顎を蹴り上げる。顔面が空を見上げる形になる。それに対して掌に妖術によって生み出した炎を刀の形にして握り締め、そのまま切り上げ、首を切り飛ばした。
振り切られた状態で動きが止まる。
その隙を突いてシャドウが取り囲むようにして妹紅の周りに集まり、無数の腕を伸ばしてくる。彼女にはそれが地獄から伸ばされる腕が彼女のことを引きずり込もうとしているように見えた。
――それだけ私の罪が重いかってか……? はっ、そんなこと分かりきってるんだよ。
迫るシャドウに視線を向けながら妹紅はそう思う。
自身が千年以上前に犯した罪はもはや償いきれないとこまで来ているのは理解しているつもりだ。
だが今はまだ死ねない。
死にたくても死ねない身体であるが、まだやるべきこと、自分がやると決めたことが残っていたから。
その覚悟を示すように、彼女の炎の刀を握り締める力が強まる。
そしてその無数の腕が彼女の身体に触れそうになったとき、振り切られていたそれをそのまま地面に叩き付けた。その炎でできた刀を解除する。形は崩れ、ただの妖術によって作られた炎に戻る。だが衝撃波とともにその炎が雪崩のようにシャドウに襲い掛かった。
シャドウの身体にまとわりつくようにして焼き尽くしていく紅蓮の炎。
全身に霊力を纏い、飛ぶ。
そして霊力で練られた爪を、鋭く虚空を切り裂くようにして薙ぐように振るった。
「だから、そこをどけええエェ! 虚人「ウー」!」
無数の斬撃が放たれ、炎と衝撃波では倒れなかったシャドウたちを切り裂いていく。
ゆっくりと地上に降りる。
その背後に突如として現れるシャドウ。まるで妹紅の影から現れたように音もなくであった。それに気付くのが遅れた妹紅。肩越しにハッとして視線を向けてそれを視界に入れる。だがそれと同時に鋭い爪を持ったシャドウがそれを振り下ろしていた。
『……“キルラッシュ”!』
「避けられ――」
鋭い斬撃。咄嗟に回避行動に移ろうとするも、間に合わずにその猛攻にあう。体勢を崩した妹紅に対して追撃に攻撃を放とうとする。
唸り声を上げながら近づきつつ、再びその鋭い爪を持った腕を構えた。
『グルルル……“ブレイブザッパー”!』
鋭い一閃が放たれる。
避けることも、防御を取ることもできない。例え不死身だといっても痛みは普通にある。純粋な耐久性は人間よりも少し丈夫なくらいで、後は普通の少女なのだ。
――しまった……やられる!
そう思って一度の死を覚悟した。
だが――。
「させやしないよ!」
二人の間に割って入った小町。
大きく身構えた鎌を横一閃に振る。
金属同士がぶつかり合った時に発生するような耳障りな音が響く。小町の鎌とシャドウの爪ががっちりと組み合っている。
得物同士が擦れる音が聞こえる。どちらも一歩も退かないというように視線がぶつかり合う。
小町が大鎌の柄の部分を振り上げて敵の鋭い爪を持つ腕をかち上げる。無防備な状態になったシャドウに対して至近距離でお賽銭の形をした弾幕を投げつける。爆発し、衝撃で双方に距離ができる。やや離れた双方。しかし小町にとっては距離というのはあるようでないものだ。
――一気に決めるよっ!
カッと見開かれた瞳。そして再び腰高に構えられた大鎌。地面を穿つようにして、一瞬でシャドウとの距離を零にする。動けないシャドウ。小町は自身のスペルを宣言し、その鎌を振り抜く。
「死符「死者選別の鎌」!」
鋭い一閃が暗い空間に鈍い輝きとなって軌跡を描く。
選別に慈悲はいらない。
振り抜かれた大鎌。シャドウはズルリと斜めに滑るように胴体が二つに分かれ、地面に転がったその身体は空間に黒い靄となって消える。
「わ、悪い……助かった」
助かったと小町に対して礼を言う。
「どういたしまして……って悠長なことを言ってられる状況じゃあないね」
そう短く答える。
すぐさま周りに群がるシャドウたちに視線を向ける。まだ霊力の方には余裕はあるが、この数を倒したところでひときわ美しさを見せている桜の木下にいるだろう異変の首謀者のところに辿り着いたところでまともな戦闘はできないと判断する。
妹紅も体力は回復しても霊力自体は死んでも回復するわけではないので無駄な攻撃をするわけにはいかなかった。
――どうすれば……。
焦りを胸に抱きながら脇差を振る。
銀色の刃が鋭い一閃でシャドウを切り伏せる。だが一体倒したところでなんら状況が変化することはない。
いよいよ三人は追い詰められる。
じりじりと後退しながら迎撃を続ける。救援はない、この危機的状況をどうすれば打開することができるのか。
そう考えていると突然頭に声が響いてきた。
『いよいよ、君のその力を活かす時が来たようだね』
頭に響く声。
それは淡々と感情がこもっているかどうか判断しにくい少年の声だった。聞こえているのは優也だけのようで、隣に立つ二人は双方こちらに視線を向けることなく、それぞれ弾幕を作り出し、迎撃に必死になっている。
少年の姿など、ここには優也以外にはない。
さらに声が聞こえて来る。今度はその少年のものではなく、女性のものだった。だが今まで聞いたことのない女性のものだった。
『私たちの役割はあなた様の手助けをすること』
『君が何かを成し遂げたいという気持ちに応えるよ。それが命の答えに続く道の道標になることを祈るよ』
手助けをすると言う二人。
その声を信用できるかどうか、何故か根拠もないのに信用できた。
さあ、手を伸ばして――少年のその言葉に習い、ゆっくりと手を伸ばした。
その瞬間すべての時間が止まったかのように、全ての視線が優也に集められた。小町も、妹紅も、無数に群がっているシャドウたちも全員優也に対して視線を向けていた。
足元に魔法陣のようなものが現れる。そこから淡い光が迸り、優也のことを包み込む。そして虚空より現れるペルソナが刻まれたカード。
そこにあったのは。
魔術師のアルカナ――“ピクシー”。
恋愛のアルカナ――“ナルキッソス“。
戦車のアルカナ――“ナタタイシ“。
悪魔のアルカナ――“リリム“。
それらが十字にクロスするように並び、光によって結ばれる。
四身合体――新たなるペルソナを生み出すための合体という名の手段だった。
ゆっくりと互いが引き合うかのようにその四枚のカードが中心に動き、そしてひとつとなる。眩い光を迸らせるその一枚のカード。それを薙ぎ払うようにして、手で砕いた。
ガラスが砕けるような乾いた音が響き渡る。
突如としてこの場に風が吹き荒れる。しかし傷つけるものではなく包み込むもの。思わず目を瞑ってしまっていた小町と妹紅はゆっくりとその双眸を開く。
優也の足元には先ほどの魔法陣と思われるものはすでにない。
その代わりに一体のペルソナが彼の前に建っていた。
金色の長い髪、この世界には少ない西洋人と思われる白磁器のような白い肌、サファイアのような碧眼、青紫色の服とスカート姿でそこから伸びる四肢は少女の姿のなりに相応しく細く華奢だ。可愛らしく後ろで手を組んでいる。
しかしその彼女に秘められた力はその可愛らしいなりからは想像もできないものだ。
彼女は死神のアルカナに属するペルソナ――“アリス”だ。
くるりと回り、花が咲いたような笑顔を見せて優也に対して微笑んできた。ペルソナであるのに、思わずその笑みにドキッとしてしまう。
表情は変わらなかったが、頬がぴくっと動いたのを見たのか、“アリス”は小悪魔のような笑みを浮かべた。
突然現れた少女に二人も視線を奪われる。
彼女たちに対する敵意は“アリス”からは向けられていない。それを二人は感じ取っていた。
驚くのは一瞬だった。何せ視界を覆いつくすほどのシャドウが目の前にいるのだから。単純なスキルやスペルカードではこの状況を打開するのは不可能だ。しかしそれをできる唯一の存在が目の前にいた――そう、ペルソナの“アリス”だ。
数歩前に進み、可愛らしくスカートの裾をつまんで一回転し、白く細い人差し指をシャドウの群れに向けた。
「“アリス”、”死んでくれる?”だ!」
キラリと暗闇に染まる空に何かが輝いた。
始めは星か何かだろうと思った。しかしその瞬きは留まることを知らず、徐々に増えていき、そして大きくなってきた。
「「なっ!?」」
そう声を漏らし、二人は驚愕する。
無数の剣を翳したトランプ兵が空から降ってきたのだ。鈍く輝くその剣が次々とシャドウたちの身体を貫き、消滅させていく。
“アリス”だけに継承される固有スキル――最上位広範囲呪殺魔法“死んでくれる?”。
土煙が舞い、視界が遮られる。
いつでも動けるように構えは解かない。
ゆっくりと土煙が晴れてくる。そしてそこには壁のように群れをなしていたはずのシャドウがほとんど消え失せており、そこには呪殺魔法が通用しなかった、もしくは奇跡的に回避できたシャドウだけが残っていた。
そのシャドウたちも恐怖を抱いたのか困惑しているように後ずさりをして後退しているのが見える。
それらを無視して先に進むこともできたが、後々で襲われるなどということがあったら面倒だと考えた。
“アリス”を送還し、新たなペルソナを召喚する。
「“アルトリア”!」
青いドレスのような服を着て、銀色の鎧を纏う少女王――“アルトリア”が召喚される。不可視の得物を篭手を装備した両手で握り締め、構える。
重なるペルソナの召喚と先ほどの“アリス”による最上位広範囲呪殺魔法によって精神力が大幅に削られていた。そのためこの先に待っているだろう異変の首謀者との戦闘を控えているために、これ以上の精神力の消費は抑えなければいけなかった。
そのためには。
剣を腰高に構えた“アルトリア”が地面を蹴って走りだす。一気にシャドウとの距離を詰め、その構えた剣を振り抜いた。
その不可視の刃から放たれる無数の斬撃。その放たれた斬撃が、まるで地を這うかのようにして切り裂き、シャドウの身体を切り刻む。
首が、腕が、足が胴体から離れ、地面を転がり、黒い靄となって消えた。
剣を振り抜いた状態でいる“アルトリア”。
ゆっくりとシャドウの存在が確認されないのを知ったためか、剣を下ろし、空間に溶け込むように消えた。
シャドウが消え去った虚空を見つめている優也たち。
先ほどまであれほど泉水から水が湧き出るかのように出現していたシャドウたちが姿を現さなくなっていた。
どうしたのだろうか。
それが三人の共通の疑問だった。
緊張でお互いに言葉で意思疎通ができない。得物を握り締める二人の手の力が強まる。妹紅の掌には今にも発火しそうな状態を表すように小さく火花が散っている。
この状況が一体どういうものなのか。応えてくれるものは――いた。
それは突然のことだった。
三人の髪の毛を優しく持ち上げるような風が正面から吹いて来たのだ。それも桜の花びらを乗せて。そのフワリフワリとした桜の花びらの軌道を描くのは、まるで見えない川の流れの如し。
一枚の桜の花びらが優也の髪に止まった。それを摘んで見てみる。やはり季節はずれの桜だった。その花びらから視線の先にある大きな門を見つめる。
あれがおそらく目的地である白玉楼の入り口なのだろうと思う。
少しだけ緊張を解いた二人に視線を向ける。
言葉は要らず、ただ二人は頷いた。
行こう――この先に異変の首謀者がいることはもはや明白だった。
そしてこの桜があるというのもまた、今回の異変となんらかの関係があると踏んでいた。それがどれほどの重要性を占めているのかは三人の中ではそれぞれバラバラだった。
三人は門をくぐり、白玉楼へと足を踏み入れた。
―6月15日 冥界 白玉楼―
目が離せない。
それは目の前に想像を超えたものや美しいものがあったときに心をつかまれるような感覚に陥るからだ。
まさに優也は今その状態だった。
目の前にある大木。その枝には周りにある他の桜を圧倒するほどの美しさを見せ付ける桜が咲き誇っていた。
その桜に見とれていると、隣に立つ小町が唇を震わせて言う。
「こりゃ、まずいね……」
顔に真剣味が漂っている。
僅かに感じる焦りというもの。一体あの桜に何を感じたというのだろうか。
すると桜の木下とその近くに人影を見た。ひとり、否四人だった。それぞれ瓜二つの存在がいた。容姿も、着ているものもまったく同じ。それぞれこの白玉楼の主であり、冥界の管理者としている亡霊の女性。もうひとりは彼女の従者である反霊反人の少女だった。
木下に立つ主を守るかのようにして長刀を構えながら立っている少女。
どちらが本物なのかはその人身の色で見分けることができた。桜の木下にいる二人の瞳の色はどちらも金色に輝いていた。
纏う雰囲気もまた、膝をつきながらも睨みつける視線はとぎらせていない二人と異なっていた。
―6月15日 冥界 白玉楼―
『まだやるのですか? 立ち上がることさえ億劫なはずなのに……』
「う、煩い……!」
見下すように緑の服を着た少女――魂魄妖夢のシャドウが地に膝をつけている妖夢のことにたいして視線を投げかけている。そんな自身のシャドウに対して睨みつけるように瞳を吊り上げ、視線をぶつけている。
優也たちがここに到着するまで戦闘があったのだろう。妖夢はボロボロであり、背中には主である幽々子が座り込んだ状態でいた。
抜き取られた長刀を杖代わりにして何とか立ち上がろうと試みる――が、膝が震えてしまい、すぐに膝を折ってしまう。
それでもすぐに頭を上げ、睨み付けるような視線を投げかける。その瞳はまだ死んでおらず、主を守るという覚悟がありありと見て取れた。
『幽々子様の剣であり、盾である私。幽々子様の望みを叶えるのが私の役目』
「くっ……それでも、西行妖を満開にするわけには……」
『それが主の望みであれば叶えるのが従者の務め、そうじゃないの、私?』
「違う!」
妖夢は真っ向から否定する。確かに彼女が言っていることは正しいことだ。だがそれでも西行妖を満開にすることだけはさせてはならないと思っていた。
西行妖が満開になってしまえばたちまち死の波動が冥界から放たれ、それは幻想郷にも届くだろう。そうなってしまえば人間などたちどころに死を迎えてしまう。妖怪などの人外の存在であれ、力が弱ければあっという間に命を吸い取られてしまう。そうすると魂を取り込むことで西行妖はさらに凶悪化してしまう。
桜の木のように見えて、これも一体の妖怪という存在。今は封印が施されているが、人里の人間の魂が徐々に集まりだしているため、このままでは完全に満開となり、封印が解かれてしまう。
そうなると手の施しようがなくなる。だからこそそうならないようにするのが冥界の管理人である主に仕える従者としての勤めだった。
目の前にいる自分と瓜二つの存在が現れてから途端に力を奪われてしまったかのようにいつものように戦えなかった。
動かない自分の身体が恨めしかった。こんな状態では主を守りぬくなどはできない。それは従者として絶対にあってはならないことだ。
不調な状態であるが、足りない分は気合で補う。
店に上らんとする雄叫びを上げ、妖夢は立ち上がる。鉛のように重くなっていた足を無理やりに動かし、地面を蹴って飛び出す。
接近する妖夢に対してシャドウもまた迎撃態勢をとるべく正眼に刀を構える。まったく気を抜いていない真剣な視線が向けられていた。
「ハアアアァ!」
『甘いっ!』
振り下ろされた長刀を同じく長刀で受け止める。お互いにガッチリと組み合い、鍔迫り合いになる。だが額から汗を零し、厳しい表情を浮かべている妖夢とは対照的に、シャドウの方は涼しげな表情で正面にいる彼女のことを見つめている。
――な、何故……!?
何故実力にこうも差が出てくるのか。いつもどおりの戦いができればこうも苦戦をすることもなく、戦えるはずなのにと歯噛みする。
それをまるで読んだかのように淡々とした口調で言ってくる。
『「いつもどおりなら戦える」? その考え自体が半人前の証拠!』
「くっ! 何を……!」
力を込めることで用務のことを無理やりに押してきたシャドウ。それに対していつもよりも踏ん張りの聞かない足に無理やり力を込め、押し留まり、逆に押し返そうとさらに力を込める。
妖夢はそこではっと何かに気づいた。
自分は半霊半人、つまりは判例の部分である霊魂の部分があるはずなのだ。自分の背後に力なく浮いている霊魂の存在がある。だがよく見てみると相手の方にもあるはずのそれがなかった。
それが意味すること、それは。
『そうやって視野が狭くなる……その視野に主が入っていないというのは従者失格ですね』
「っ! まさかっ!?」
シャドウの言葉を聞き、妖夢は慌てて振り返る。そこには霊魂が幽々子に向かっている様子があった。徐々にその白い霊魂に変化が起き、長刀を握り締めた妖夢の姿へと変わったのだ。
彼女の持つスペルカードのひとつ――獄界剣「二百由旬の一閃」だった。
主である幽々子は妖夢同様に彼女と瓜二つの存在、シャドウが現れてからまともに戦闘も動くこともできなくなっていた。そのために彼女に向かって接近している半霊に対して対抗する術が彼女にはなかった。
例えスペルカードによる反撃ができたとしても、彼女のスペルカードは基本的に呪殺系のもの。すでに霊魂である半霊の方にはまったくの効果は見込めなかった。
主の名前を叫ぶ。
悲痛な声が妖夢の口から上がった。
その声にハッとして幽々子は動こうと立ち上がる動作を見せるが、力なく膝を折り、地面に倒れる。その間にも半霊は加速し続け、刀を構えながら距離を縮める。
妖夢は慌ててその敵の半霊に対して背後から攻撃するためにスペルカードの宣言をしようと刀を構えた――その時だった。
突然に背中に悪寒が走った。それと同時に冷たかった背中に痛みと熱を感じた。踏み出していた足がもつれ、地面に倒れてしまう。肩越しに震えながら背後に視線を向ける。
短刀――魂魄家の家宝でもある「白楼剣」が逆袈裟に妖夢の右肩から左脇腹を切り裂いていた。妖夢の服と肌を切り裂いた銀色に鈍く輝くその刀身には赤々とした血が付着しており、その刀身を伝って雫となり、地面に落ちた。
そうだった――自分のスペルカードであるはずのそれが完全に頭から抜け落ちていた。半霊と人間体の両方で攻撃するスペルカードであるから当然人間体の彼女自身が動かないわけはなかったのだ。
全てが裏目に出てしまう。
幽々子の目前にまで接近した敵の半霊がもう一本の長刀である「楼観剣」を構えていた。一太刀で幽霊十体分殺傷能力があるその刀。それによって切られてしまえば亡霊である幽々子は無事ではすまない。
動け、動け――!
必死に地に這い蹲っている自分を叱咤激励するも、指一本動かすことができない。
ゆっくりと構えられた半霊の手にある「楼観剣」が唐竹に振り下ろされる。
妖夢の目にはその動作がスローモーションのように見えた。まるでゆっくりと死に近づいている主の最後を見せ付けられているようで腹立たしかった。それを見せ付けられていながら動くこともできない自分に対しても苛立ちを禁じえなかった。
それなのに何もできない。無力さに打ちひしがれる。
幽々子様――!
妖夢の叫び声が白玉楼に響き渡る。
近くにいるはずなのに遠すぎる。この距離を一瞬にして零にできる者はここには――いた。
「従者が何をしてるのさ!」
『っ!?』
叱りつけるような言葉とともに暗闇を切り裂く銀色の軌跡が描かれた。得物同士が激しくぶつかり合う音が響き渡る。
もともと妖夢は速さに特化している分、純粋な力はやや劣っている部分があった。そのために加速のつけた今の一閃を受け、後退せざるを得なかった。
――まさかっ!?
突然のことではあったが、こんなことをできるのはただひとりだけだと幽々子は考えた。地面と擦れる音がする。少しだけ上がる土煙。幽々子を背中に守るようにして立つ女性がひとり、そこにいた。
「こ、小町さん!」
地に伏していた妖夢が顔を上げ、そこにいた女性の名前を呼んだ。
彼女の目に映ったのは大きな鎌を振り抜いた状態でそこに立つ、彼岸の渡し守である死神――小野塚小町、彼女だった。
『くっ! あなたが来たところで西行妖は――』
「生憎ここに来ているのはあたいだけじゃないんで、ね!」
『っ!? まさか……しまった! 幽々子様!』
妖夢のシャドウがハッとして振り返り、西行妖の木の下に立つ自身の主の名を叫ぶ。
彼女の主――西行寺幽々子のシャドウに向かって行く二つの影。ひとつは脇差を構えた少年の姿。そしてもうひとつは主にとっては天敵と言っても良い能力を持つ女性だった。
外来人――綾崎優也。
蓬莱の人形――藤原妹紅。
優也は構えた脇差を西行妖の木の下に立っていた幽々子のシャドウに対して振り下ろす。優雅にただこちらを見つめていたシャドウが口元を隠すのに用いていた白い扇子を閉じると、それを短刀のように構えて唐竹に振り下ろされたその刃を受け止めた。
乾いた音が響く。
――な、なにっ!?
受け止められたことに思わず目を見開く優也。だがそこで動きを止めてしまう。それを逃さないシャドウはスッと目を細めると亡霊のごとく音も立てずに優也の懐に入ると無数の蝶の形をした弾幕を炸裂させてきた。
至近距離での爆発。防具代わりにもならない普段着の一部が吹き飛ぶ。土煙とともに切れ端が宙を舞う。土煙を貫くようにして飛び出す優也。上着とともに、下に着ていたシャツに傷と汚れが見える。
爆風を利用して後退した優也は空を飛べないためにすぐに地面へと降り立つ。
視線を足元の地面に向けていたところから煙が晴れる、西行妖の方へと向ける。まだ僅かに残っていた土煙を切り裂くようにして再び淡い光を放った蝶の弾幕が放たれた。
後ろから――「頭を下げろ」という声が聞こえた。その声に従うように、優也は慌ててあげていた頭を下げる。再び視線が足元へと向く。股下から見えた背後に立っている妹紅。
彼女はその手に紅蓮の炎を灯し、迎撃するために無数の炎弾を放った。
それらが唸りを上げ優雅に光り輝くりんぷんのような粒子を放ちながら迫っていた幽々子のシャドウが放った弾幕と正面からぶつかり、燃やし尽くす。
『あらあら、今日は千客万来ね』
西行妖の周りを飛び回っていた霊魂に語りかけるかのようにそれに手を伸ばし、言葉を零す。霊魂が彼女に呼び寄せられるように周りに集まり、その周辺を飛び回る。
そして彼女は霊魂たちを引き連れながら、いな、まるで自らの一部としているかのようにして優雅に舞いを行う。
儚くも美しい。
命が見せる、一瞬だけの美しさ――そう、生きている間には決してこの目では見ることもできない、そんな美しさが今目の前にあった。
それは以前話をしたかぐや姫である蓬莱山輝夜が見せた、生きている者が見せる美しさとはまた違った美しさだ。
優也は目が離せない、言葉が出ない。
美しい、素晴らしいという言葉では到底形容し切れない。
『申し訳ありません、幽々子様!』
『……妖夢、うぅん、気にしてないわ』
舞いを終えた彼女の元に、小町との戦闘から抜け出してきた妖夢のシャドウが現れる。幽々子のシャドウは彼女のことを諌めることもなく、気にしていないと優しく言う。
頭を垂れていた妖夢のシャドウは頭を上げると彼女の事を背中に隠し、長刀を構えながら守るようにして立つ。
優也と妹紅の元に、妖夢のシャドウを追って小町が来る。その隣には幽々子を抱えた妖夢の二人の姿もあった。
『見て、こんなにも美しく咲いている西行妖……もうすぐ満開になるわ』
全員の視線が彼女の背後にある西行妖へと向けられる。命の輝きともとれる淡い光を放つ一枚一枚の桜の花びら。人の心を捕らえて離さない、まるで別次元の美しさ、存在感を放っていた。
満開に近づくそれを待ち焦がれるように霊魂の数が増えてくる。それらが全て人里の住民たちのものであるのを耳打ちされ、ハッとして優也は脇差を構え直す。
『美しいものを見たい……それが私の望んでいること』
優也たちの背後に妖夢に支えられている幽々子に対して言う。
図星なのか、彼女は思わずグッと言葉を飲み込む。
それを見て表情を崩さなかったシャドウが一変して不敵な笑みを浮かべた。優雅さのかけらもない、ただ相手を見下すような、そんな笑みだ。
それを見て構える身体に力がこもる。
『この世で一番美しいものは何? 春に咲く桜かしら? 夏の太陽の光で輝くせせらぎかしら? 秋の紅葉かしら? 冬の雪化粧かしら? いいえ、違うわ……』
彼女の周りに西行妖の桜と同じ輝きをもつ無数の蝶の形をした弾幕が形成される。それが群れで集まり、ひとつの形を作り出す。それはまるで彼女の背中に生えた二対の蝶の羽のようだった。
ゆっくりと彼女の足が地面から離れていく。宙に舞いあがり、優也たちを見下ろす用に視線を向けてくる。
この場の緊張感が一気に高まる。
『私が見たいのは人の命の散る時に見せる一瞬の美しさ。触れたら割れてしまいそうなくらい、儚くて脆いものだけど……それが見せてくれる美しさに勝るものはないわ』
「だからお前さんは自分の能力と西行妖の力を使い、人里の住民の命を散らせようとしたわけかい!」
彼女が求めたのは人間の死に際に見せる命の散る美しさだった。
それによって幻想郷にいる人間たちが死に絶えてしまってもなんら構わない。バランスが崩れてしまうことに対する危機感はまったくと言って良いほど彼女からは感じられなかった。
それを聞いて珍しく感情を露にするように少しだけ怒気を含めた声で小町が叫んだ。
なら何故こうもゆっくりとしているのだろうか。
彼女の能力と西行妖の力を合わせればあっという間に命を奪うことができるはずだ。それだけの力の大きさを、今立っている場所でも十分感じられた。
その疑問に答えるかのように、彼女の口が半月を描くように開かれた。
『前座よ。折角メインディッシュがあるのだから少しずつ、少しずつ死に近づいていく時の恐怖を感じて震える命を見るのも楽しいでしょ? ねえ、私』
「そんなこと……私は望んでなんかいない!」
喜悦の表情を浮かべながら、死をひとつの娯楽のように言う。
それに対して沈痛な表情を浮かべ、真っ向から否定の言葉を吐き出す幽々子。彼女の言葉にはどことなく説得のある強みのようなものがあった。
冥界の管理者である彼女は常日頃から魂と言葉を交わしている。亡霊の身でありながら、まるで生きている者のように生活し、振舞っている。そんな彼女にできること、それは自身の身体を他人の魂に貸し、舞いを舞うことでその悔恨を少しでも軽くするということをしていた。
他人の魂に身体を貸す、その時にその魂の思いというのを同時に感じることができた。様々な楽しかったことや嬉しかったこと。逆に悲しかったことや辛かったこと、恨めしかったことなどもだ。
その時に彼女はすでに命の美しさというものを垣間見ていた。
ちっぽけな存在でありながら、精一杯に生きたその人の命の物語にある美しさというものを。
だからこそ彼女は望んでいない。自らの手で多くの人の命を奪い、美しさを見ようなどという愚かなことは、絶対に望んでいなかった。
その幽々子のはっきりとした拒絶の言葉にシャドウは気に入らないと言うように、眉をひそめる。
敵意を剥き出しにし、ギリッと奥歯を噛み締めた。
宙に舞う彼女とともに優也たちの前に立ちはだかる妖夢のシャドウ。
『私は幽々子様の従者……剣であり、刃。時には手足になるべき存在。主の望みを叶えるために、あなたたちを切ります!』
長刀を構えた妖夢のシャドウが力のこもった声で言う。
目を細め、射抜くような視線を優也たちに向けてくる。
戦闘回避は免れない。もとよりそのような生易しいことは期待していない。彼女たちを倒さない限り人里の住民たちが目を覚ますことはない。何としても勝たなければいけない理由があった。
三人はそれぞれ戦闘の構えを取る。
すると隣に立つ小町が小声でそっと耳打ちしてきた。
(妖夢のシャドウの方はあたいに任せな。相手は刀を使うからね。あたいの能力は天敵のようなものだからね)
(なるほど……)
刀を扱うものとして間合いというのは勝利にも敗北にも繋がる重要な要素である。だが相手を買って出る小町を相手にするとなると彼女の能力によって自在に距離を操られることになる。そうなると相手の最も得意とする間合いが分かればそうならないように適度な距離を取り続けることができる。
もちろん小町自身の得物にも適度な間合いと言うものもある。しかしその能力を使うことで一瞬にして特異な間合いに入ることもできる。当然カウンターにも警戒する必要もあるために、やはり相手を静める最後の一撃になりそうだと思っていた。
それまでは牽制程度で、後は弾幕を使うことでカバーするつもりだった。
(なら私と優也で亡霊姫の方を相手にするぞ?)
(それでいいと思うよ。あたいは足止め程度、問題はあいつを倒すこと。頼んだよ、二人とも!)
(ああ)
(分かった)
グッと足に力を込める小町。その動作を見て長刀を構え、身構える妖夢のシャドウ。次の瞬間一陣の風が吹く。そして小町はシャドウと鼻が触れ合うギリギリの距離に一気に間合いを詰めていた。知識はあっても対応仕切れなかったために刀を動かすのが完全に遅れる。小町は大鎌の柄の部分をシャドウに押し付け、一気に白玉楼から飛び出していった。
『私の相手はあなたたちということかしら。それにしても面倒な子が残ったわね』
「悪かったね、面倒な奴で」
幽々子のシャドウが優也と妹紅に対して目線を配る。優也の隣に立つ妹紅に対して眉を寄せる。
死を操る程度の能力を持つ彼女であっても唯一絶対に殺すことのできない相手がいた。それが妹紅のように不老不死という存在だ。
彼女たちの場合不老不死というものが魂自体に干渉しているために、死を与えるだけの幽々子の能力では殺したとしても、魂自体は残っているためにすぐさま復活することができる。そのため彼女は不老不死である妹紅のことを天敵と呼び、できれば相手にはしたくないと考えていた。
だが従者である妖夢もまた彼女にとっては天敵である能力を持つ小町によって引き離されてしまったために目の前にいる二人を相手にしなければいけない状態になっていた。
『……全くよ、だってあなたは私にとっては天敵なんですもの』
「そりゃ、嬉しい評価で!」
ため息をつく幽々子のシャドウ。
その様子を見て、むしろ光栄だというように笑みを浮かべ、妹紅は地面を蹴り、接近を開始した。
死に対してはほとんど恐怖を抱いていないために、彼女の即死攻撃に対してもなんら警戒はしていなかった。死んだところですぐに復活できるという自信があったからだ。
もともとスペルカードよりも殺し合いの方を得意としていた妹紅。
それは彼女が千と数百年前から妖怪退治をしてきたことと、常日頃竹林にて憎き相手である女性と殺し合いをしていたことからだった。
その両手に妖術による紅蓮の炎を発生させ、纏う。淡く光を放っている蝶の羽のような巨大な羽を背中から展開しているシャドウに対して拳を構え、殴りかかった。
空気を切り裂く紅い軌跡が描かれる。
ブンッという空気を殴りつけるかのような音とともにシャドウの顔があったところを紅蓮の拳が通過した。しかしそこにはすでに顔はなく、後方に体勢を倒すことでその攻撃を回避していた。すぐさま起き上がる。その勢いを使い、手にあった扇子をまるで刃物のように振り抜いた。
咄嗟に紅蓮の炎を纏っている腕を盾にして受け止める。炎が切り裂かれ、腕からは鮮血が舞う。
――防御が破られた……!?
こちらに対して目を細め、感情を顰めさせた視線を向けてくる。逆に妹紅の表情には破られたことに対する驚愕が浮かんでいた。追撃をするために、その背中の羽が羽ばたいた。一振りするたびに弾幕として淡い光を放つ蝶が妹紅へと向かう。
――なめるな!
掻き消されていない方の左腕を振るい、炎の壁を発生させる。それに向かって無数の蝶の形をした弾幕が着弾し、消滅する。
『……』
かすかに口を動かす。
そしてその手にある扇子を一振りした――炎の壁が一閃され、消滅した。
「くっ……!」
そのまま突っ込んできたシャドウに対して、扇子を持つ手を蹴り、連撃を許さない。
そのまま彼女の襟首を掴み、引き寄せて胸辺りに肩を密着させる。
「う、おおおぉぉぉ!」
空中で一回転する。その回転の勢いのまま、シャドウのことを投げ捨てた――一本背負いだ。
地上に向かって投擲され、ボールのように迫る。
勢いを殺すこともせず、その勢いに身を任せ、地上にある白玉楼の庭に激突した。土煙が上がり、どうなったのか空からも確認できない。
優也も目を凝らしてみるも、やはり土煙と時間帯が夜だということもあり、明かりが足りないので分からない。
「妹紅!」
「分かってる、気を抜くなだろ?」
優也が空に滞空する妹紅に向かって叫ぶ。
地上からもシャドウの様子が見えないので警戒するように伝えるつもりだった。彼女はその一言で全てを理解し、そう答えた。
伝わったのかと若干の安堵を感じる。だが表情は相変わらずの無表情にわずかに見える緊張感のみのもの。
冷静を装っているように見えても脇差を握る手には力が込められていた。ゆっくりと腫れてくる煙。その向こうにいるだろうシャドウがどのような動きを見せるのか。
すぐに対応できるようにペルソナを選択する。
淡い光が発生し、そこに現れるは紅蓮の炎のように見える翼を持つ鳥の姿をしたペルソナだった。四聖獣の一体とされる「スザク」だ。その燃えるような翼を羽ばたかせると火の粉のような輝く光が優也と妹紅を包み込む。
途端に身体が軽くなる感覚があった。機動力を高める全体強化魔法である“マハスクカジャ”を唱えたのだ。
完全に土煙が晴れる。そこには大きな穴が開いており、シャドウの姿は見られなかった。斜めからは底のほうが見えないということで、ゆっくりと近づくようにして妹紅が覗き込もうとした――その時だった。
突然に穴を覆いつくすほどの光の放流があった。
それが光り輝く蝶だというのが接近してくるのを分かる。群れとなり、途切れぬ弾幕となって滞空する妹紅と、地上からその様子を見ていた優也に向かってそれが濁流が押し寄せてくるかのように迫ってきた。
お互いに強化された機動力を使い、回避に移る。
だが一旦外れたそれが地面や虚空を穿つと再び向きを変え、襲い掛かってきた。
――逃げ続けてもすぐに方向転換してくる……。
――くっ……何とかしないといたちごっこだ。
地面を無様に転がるようにして回避行動をとり続ける優也。
背中から穴の奥に一瞬だけ見えたシャドウ同様に紅蓮の炎の翼を羽ばたかせ、高機動で縦横無尽に動き回り回避し続ける妹紅
二人は互いに舌打ちを零しながらそう考えを巡らせる。
優也は再び襲いかかる弾幕の群れを掻い潜り、滑る身体を地面に脇差を突き立てることで無理やりに動きを止めさせる。方向転換してきた弾幕を正面にして、集中力を高める。目の前に雪崩か、もしくは津波が押し寄せてくるかのように見える。
恐怖から足が震える。
だが何もできなかったことを突きつけられることが今は一番怖かった。
逃げるつもりはない、背中から見えないがペルソナたちが自分のことを支えているという力強さを感じていたから。
淡い光の放流とともに、優也を守る形で前に現れるペルソナ。それがゆっくり外その姿をあらわにする。
黒色の肌を持ち、大きさはゆうに大人の男性を超えるほどの背丈を持つ巨人ともとれる存在。ギラギラと光を放つ双眸、背丈同様に大きな手に握られている一振りの西洋風に両刃を持つ直剣。その直剣は細い刀身をまるで巨大に見せるように紅蓮の炎を纏っていた。それだけを見れば巨体に見合う、大剣のようにも見える。
その紅蓮の炎を纏った剣の名は――レーヴァテイン。
紅魔館の吸血鬼の姉妹の妹であるフランドールの持つスペルカードにもなっている伝説の魔剣だ。禁忌とつくほどの危険なスペルカードとなっている彼女のそれであるが、そのペルソナが持つレーヴァテインから感じられるのは彼女のそれから感じられた力をはるかに凌ぐものだった。
天を突く叫びを上げるペルソナ。まるで鎖から開放された猛獣の如く、まさに封じられていた力を今嬉々として振るわんとしているのが感じられた。胸から溢れんばかりに感じられるのは、今召喚しているペルソナが感じているものと同じ――闘争心。
思わず腕を胸に抱き寄せた。表情には大きな変化はないが、口元に微笑が浮かんでいた。
それが持つ炎の魔剣の如く、胸に熱を感じ、圧倒的な力に心が思わず躍ったのだ。
――圧倒的な数で来るなら、こちらも圧倒的な火力で対抗するだけだ。
優也はそのペルソナの名前――“スルト”と叫ぶ。
その言葉に答えるかのように“スルト“は握り締めているそのレーヴァテインを地面に向けて振り下ろした。叩きつけられたところから衝撃波にのって紅蓮の炎が波打つように押し寄せてくる弾幕と正面からぶつかった。
火炎系広域上位魔法である“マハラギダイン”――圧倒的な物量に対して、圧倒的な火力にて対抗する。
上空にいる妹紅もまた回避し続けても無駄だと判断したのか、足を止め、正面から迎え撃つべくスペルカードを取り出し、構える。
不死「火の鳥―鳳翼天翔―」――妹紅の身体が紅蓮の炎に包まれる。巨大な炎の塊と変わった彼女であるが、そこから何かが飛び出した。よく見るとそれは紛れもなく炎に身を包んだ状態で空を飛ぶ妹紅だった。自身の身体を火の鳥へと変え、突進を開始する。
圧倒的な量によって押し寄せる蝶方の弾幕。その中に向かって妹紅は突撃して行く。多勢に無勢、半ば辺りまで突き破ることに成功したが、そこから先に抜けることができない。高い質にあわせて、圧倒的物量であるために、単体の妹紅のスペルカードでは完全にスペルブレイクすることはできなかった。
徐々に押されていくのに対して表情が曇る。歯を噛み締めながらも耐えるが、それも時間の問題だった。
『無駄よ、その穢れた魂……美しき弾幕で洗い流してあげるわ』
「お生憎だな……どうせすぐに汚れるんだ、どうせなら綺麗さっぱり殺してくれる方が嬉しいぜ?」
『醜いわね……あなたは私に美しいものを見せてくれない、なら――死んでくれる?』
圧倒的な弾幕の奥にゆらりと揺らめく人影があった。目を凝らしてみてみると、そこには先ほど同様に二対の羽を持った幽々子のシャドウが佇んでいた。美しい絵に経った一滴落とされた、その全てを台無しにしてしまった黒い絵の具を見つめるかのようだ。彼女は扇子で口元を隠しながら見下すように視線を向けてきた。
僅かに空いている隙間。しかし今の妹紅の失われてしまっている勢いでは抜け出すことができない。徐々にスペルカードの効果時間が途切れそうだ。
――この弾幕が邪魔だな……。
妹紅は自身を押し返そうとしている幽々子のシャドウが発動させていたスペルカード――桜符「完全なる墨染の桜―開花―」を何とかしないといけないと考える。
このままスペルカードの効果が切れてしまえば、彼女のスペルカードによる圧倒的な物量に押しつぶされてしまうだろうというのは目に見えていた。しかし例え殺されても不老不死の力を使えば即時復活することは容易に可能だ。
だが簡単に殺されるのはなんだか気分が悪い。
ならばと思い、自身のことを包み込んでいる紅蓮の炎を収縮の形から、周りへの拡散へとシフトチェンジする。ただ弾幕としてばら撒くのではなくそれはひとつの爆弾に着火するための大きすぎる炎だった。
「見てろ……今お前の望んでいるものを見せてやるよ!」
『何を一体――』
ニヤリと笑みを浮かべる。
うまくいえば彼女に対してダメージを与えられるかもしれない。これによって一時戦闘不能になるのは免れないが、それでも不利な状況を打開するにはこれしかなかった。
それに彼女の姿が晒されれば地上にいるだろう優也も戦闘に参加できる。
一体何をしようとと言うように半目にして見つめてくる。
「行くぜ、芸術は爆発だ――!」
力強く、そう言い放った。
その言葉が爆弾のスイッチとなり、妹紅の身体を包み込んでいた紅蓮の炎が一気に膨れ上がり、爆発した。
激しい爆発を引き起こし、衝撃波とともに炎が暴れまわる。そこにはすでに妹紅の姿はない。内部から自身を限界にまで熱したために、塵と化していたのだ。
その強烈な爆発は離れたところに立っていたシャドウにも向かう。
弾幕を内側から吹き飛ばし、その余波が逆に弾幕を巻き込みながら彼女へと向かっていた。
まさかこのような捨て身の作戦を取ってくるとは予想外であったために、彼女は動き出すのに僅かな遅れが生じる。そのために完全に衝撃を交わしきることは叶わず、その身に貫くような衝撃を浴びることとなった。
全身をプレスで押されたかのようなものだった。
それでも多少は弾幕が相殺したようで倒されるのには至らない。これくらいで倒れるほど彼女は弱くない。本物の幽々子から拒絶されたために奥底から力が溢れていた。今の彼女であれば本物の幽々子よりも実力は上である。
だが相手は彼女にとっては天敵である不老不死という存在。
いくら即死攻撃を放てるといっても魂そのものを破壊することはできない。
先ほど妹紅の炎の壁を扇子の一振りで破ることができたのも彼女の能力が多少なりとも強化されていたからだ。強化された死を操る程度の能力によって炎に対して死を与えることができた。
衝撃波による二次的な爆発が発生し、彼女は零距離でそれを受けてしまう。
前進を貫く痛みに思わず苦悶の声を漏らしてしまう。
背中にある二対の羽を使い、何とか崩れかけていた体勢を立て直す。爆発によって発生していた煙を突き抜ける形で宙に佇む――すると突然風を切って接近する人影があった。同じく戦闘に参加していた外来人、優也の能力によって召喚されていたペルソナ――“アルトリア”が風の足場を蹴って接近していたのだ。
不可視の刃を構え、彼女に向かって振り下ろしてきた。
咄嗟に扇子を構え、その斬撃を受け止める。
だが完全に体勢が立て直っていない状態で受け止めたために完全に衝撃を殺すことはできず、後方に弾かれてしまう。
一旦距離を取るために後退を始める。
そんな彼女に対して追撃を与えるために“アルトリア”が刃を腰高に構え、再び見えない足場を蹴って接近してきた。
――しつこいわね……。
美しい顔立ちをゆがめるほどに苛立ちを抱く。それが顔の様子に出ていた。追撃を許さないために時間稼ぎとしてスペルカードを宣言し、扇子を一振りする。
華霊「ゴーストバタフライ」――まるで花が咲いたかのように四方に広がりながら向かっていく蝶型の弾幕。接近していた“アルトリア”はそれを見て構えていた刃を振った――が、まるで幻だったかのようにその弾幕が掻き消えたのだ。まったく手応えのないそれに思わず目を見開く。
次の瞬間纏っている騎士甲冑のいたるところで小規模な爆発が起き、身体を襲う衝撃が感じられた。
地上に立っていた優也が突然膝を折り、しゃがみ込んでしまう。
空中に佇みながらも胸辺りを押さえている“アルトリア”と同じ箇所を押さえ、やや苦悶の表情を浮かべている。
「ぐっ……」
やや曇った声を漏らす。
ペルソナと使用者は一体である。
そのためにペルソナが受けたダメージは当然使用者にも襲いかかる。致命傷にこそならないも、痛みはあるし、血も噴出すこともあった。
さらに集中力が途切れるほどの痛みの場合、当然ペルソナは消えてしまう。そうなるといくらペルソナの恩恵で耐性がつくとしても、弱点を狙われてしまえば、それまでだった。
そのために何とか集中力の線を切るまいと耐える。
優也と同じく身体を襲う衝撃に耐え切った“アルトリア”はやや離れたところに立つシャドウに向かって目を細め、睨みつけるようにする。
おお、怖い――というように、扇子で口元を隠す仕草をする。
先ほどの苛立つ様子がなかったかのように優雅に振舞っている。
『汚らしい花火は目に毒よ。ねえ、あなたはどんな美しいものを私に見せてくれるのかしら?』
「生憎そのようなものは――」
目を細め、求めるように手を伸ばしてくる。
優也は彼女に対してフッと息を吐き出し、言葉を続けた。
「簡単には見せられないさ! “アルトリア”、“ガルダイン”!」
はっきりと断りの答えを返す。
バッと手を翳すようにして、“アルトリア”に対し、攻撃を指示する。
“アルトリア”は優也と同じように篭手を身につけた手をシャドウに向けて翳すようにして構える。その瞬間、シャドウの周りに地を揺るがさんとするほどの嵐のような暴風が吹き荒れた。完全にその嵐に飲み込まれ、シャドウは身体を切り刻まれる。
苦悶の声を上げ、身体を抱くようにしてその攻撃に耐える。さらに背中にある淡い光を瞬かせている羽を盾にするようにして、それが彼女のことを包み込み、繭のようになる。
完全に彼女のことを包み込んだ繭に対して“アルトリア”の放った攻撃は嵐の如き破壊力を誇る。
シャドウを包み込むかのようにしている繭に対して逆巻く暴風が襲いかかる。
まるで龍が唸りを上げているかのような音が聞こえる。
密集している蝶型の弾幕が、荒れ狂う暴風によって引き離されては切り刻まれ、光の粒子と化す。
キラキラと光るその粒子は闇夜に漂い、まるで光の河を形成しているかのように見えた。
そんな美しい光景が目の前にある。
ゆっくりと白玉楼の庭を巻き込んでいた嵐が収縮していき、台風が過ぎ去ったかのようにようやく辺りに無音が漂う。
しかし安心はできなかった。
無音がむしろ逆に優也に対して無言のプレッシャーを与えていた。当然握り締める脇差には力が込められる。攻撃を終えた「アルトリア」が地上に降り立つ。
辺りに視線を配り、シャドウの姿、及び気配を探る。
だが一向にシャドウの姿も気配も見つかることはない。
どこにいる――?
緊張からか、タラリと額から汗が流れる。
冥界という死者の世界であるから生者の世界と比べてやや温度は低く感じる。それに慣れてきていたと思っていたが、プレッシャーもあってか、ややそう感じられた。
その時だった。
ゴウッという音とともに虚空に突然炎の塊が出現したのだ。
一体何が――!?
優也は困惑の表情を浮かべながらも、その手にある脇差の切っ先をその炎の塊に向けながら正眼に構える。
“アルトリア”も同様に不可視の刃を構え、攻撃態勢をつくる。
その紅蓮の炎の中に優也は確かに見た――そう、その炎の中に人影があったのを。
普通ならありえないことだ。
当たり前だ、人間が炎の中で生きていられるはずはないから。だがその炎の中には確かに今も二本の足で立っている姿が映っている。
嘘ではなく真。
目を擦ってみてもそれは変わらない。
優也の斜め前に立つ“アルトリア”も困惑を若干漂わせている。
その炎が現れてからどれくらいの時間が経っただろうか。数秒か、はたまた数分か。
巨大な塊のようだったその炎は少しずつであるが収縮し始めているのが見て取れた。一体何者なのだと思いつつ、優也は警戒するのをやめなかった。
その炎の中から腕が飛び出した。白く健康的な女性特有の細い腕だ。その腕、上半身はワイシャツに包まれており、そして下半身は赤いモンペを履いている。暗闇を赤々と染めていた炎とは違い、今にもその暗闇の色に染まってしまうのではないかというような白く、長い髪をした女性が現れた。
藤原妹紅――先ほどの戦闘で姿を消していた彼女が炎の仲から、まるで不死鳥の如く蘇ったのだ。
優也は呆気にとられた表情を浮かべ、僅かに開けられた口から乾いた声で彼女の名前をボソリと呟く。
長いその髪をなびかせ、彼女はその声に答えるようにこちらに身体を向けさせた。
「……やれやれ、やりすぎたか?」
彼女は辺りの惨状を目の当たりにし、そう言葉を零す。
白玉楼の庭は最初に来た時のあの荘厳としていた様子が今はもう見る影もなくなっている。地面は爆発の衝撃波や暴風によって、まるで悪魔が爪で抉ったかのような大きな傷跡がいくつも見られた。木々は根こそぎ倒されていたり、炎によって完全に炭化しているのも見られる。
どこかできっと心の中で涙を流している白玉楼の庭師がいると、心の中でその姿を想像する妹紅。
その言葉にもあるように、若干の申し訳なさを感じていた。
彼女の視線が向けた先にいた優也は相変わらず呆気にとられた表情を浮かべたまま固まっている。
やれやれと思い、肩をすくめる。
「私は不老不死……あぁ、そうか。言ってなかったもんな」
「あ、いや……俺は――」
「やっぱりその……怖いか?」
思い出してしまったというように頭をかきながらそう言う。
優也はそれに対して何か言おうとするも、適当な言葉が出てこない。口から出てくるのは要領をえない、そんなことばかりだった。
彼の反応を見て、妹紅はそう静かに問うた。
「こんな化け物みたいな奴が近くにいるなんて、普通はそう思うよな」
「俺は、別に――」
「いいんだ……もう慣れているし、別に同情は要らない」
「同情なんて、俺は……」
視線を落とし、問いを投げかけてきた彼女に対し、優也は何もいえなかった。もしかしたらという予想はしていたので、予想外ではなかった。
それでも不老不死というものがどういうものなのか、意味は分かっていても実際に見ることはなかったの、その分の衝撃が強かった。
砕かれようが、潰されようが、塵に帰ろうが、そんなどんな姿になろうとも、必ず元に戻ってしまう。
痛みはないのだろうか。否、普通に感じているだろう。
それを考えるととても耐えられなかった。自分なら発狂してもおかしくはないレベルだと考える。
それでも彼女は今日まで生きてきた、その生を望んでいるかは分からないが。
少し寂しそうな表情を浮かべている。哀愁漂う彼女を見て、何かを言わなければいけないと思うも、彼女からすれば同情しているような言葉にしかならなかった。
いつもはポーカーフェイス並みに無表情である優也も、この時ばかりはその表情に戸惑いの色を見せていた。
慣れている――その言葉にはどれだけの絶望と諦め、悲しみが込められているのだろうか。優也には想像もできやしない。
『そう、あなたは化け物なのよ……』
「っ!? どこ――」
どこからかシャドウの声が聞こえてきた。
慌てて辺りに視線を向ける。
妹紅が叫ぼうと口を開き、言葉が出かかったところで視線が一点に釘付けになった。
優也も自分の目の前で何が起きているのか、まったく理解できない状態だった。
『命は尽きるもの。だから一瞬の美しさがある……それなのにあなたのような不老不死、蓬莱人は美しくない、穢れている』
西行妖という桜の木の前にいつの間にか移動していたシャドウが言う。
ただそこにいるのであれば何も驚愕などする必要もなかった。
しかしそこにはシャドウを取り込む形で幹が大きく開き、その中から細長い枝が彼女の身体を絡め取っていたのだ。シャドウの表情には恐怖などあらず、むしろこれからの楽しみに胸をわくわくさせているかのようだった。
その奥に何があるのか、さっぱり分からない。
そこにあるのはただの黒。
何者にも染まらず、あらゆる物を飲み込む黒、闇があった。
満開になる西行妖。
シャドウを取り込み、一体何をしようとしているのか。
『楽しみはこれからよ? 生が行き着く絶対の終着点……それを今からあなたたちに教えてあげる』
完全に飲み込まれ、開いていた幹の部分がゆっくりと閉じていく。
喜悦の表情を浮かべ、彼女の姿は完全に消えた。
さらに周りに漂っていた霊魂が西行妖の周りを回転し始め、吸収されていく。
そして白玉楼を、冥界を揺るがす地響きが起こる。
思わず転びそうになるのを何とか持ちこたえる。
一体何が起きようとしているのか。慌てて原因である西行妖の方に視線を向けた。
まさに突然のことだった。
西行妖自体を包み込んでしまうほどの黒い靄が、それ自身から溢れ出るようにして発生したのだ。それには見覚えがあり、シャドウが消滅する時に発生させるそれと非常に似通っていた。否、それそのものだった。
――な、なんだ、この感覚は……!?
身体の震えが止まらない。歯がカチカチと小さな音を立てる。
カタカタと握り締めている脇差が小刻みに震えている。
そう、それは純粋な恐怖というもの。
未知なるものに対して、人間は無力である。それを証明するかのように、目の前にあるその黒い何者かは優也に対して逃れられない恐怖を与え続けた。
恐怖を感じていたのは何も優也だけではない。
隣に立つ妹紅も、離れた場所にてそれを見ていた幽々子と妖夢もまた、それを目の当たりにして身体の震えを抑えることができないでいた。
――私が、蓬莱人である私が“死”に怯えている!?
表の表情こそ、その黒い存在に対して睨みつけるようなものを作っているが、それは所詮裏の表情を隠すための仮面に過ぎない。
彼女も裏では恐怖していた。
そして同時に困惑していた。蓬莱人として何度も死を迎えてきた。その度に炎となり、再び蘇ることができた。そのためにいつの間にか死ぬことに対して恐怖することがなくなっていた。
どうせ傷ついてもすぐに回復する。死んだとしてもすぐに復活する。それが当たり前となり、いつの間にか自身の“死”というものを軽んじていた。
だが今は違う。
例え蓬莱人であっても決して逃れられない“死”の恐怖に捕らえられていた。
そしてその黒い靄を何かが切り裂いた。それは一本の銀色に鈍く輝く刀剣だった。その刀剣を握り締める黒い腕。それが身体から伸びるように生えている。だがそこに現れた何者かは人間でもなければ、幽々子のシャドウでもなかった。
黒いマントのような外套を羽織っている存在。頭部はまるで鳥をイメージさせるようなものであり、瞳は空洞のように見えた。
足はないために、まさに亡霊のように浮いている状態だ。
そこに佇む“死の権化”。
周りに黒い波動を撒き散らす。それは酷く冷たく、隙を見せると全てを奪われてしまうかのような感じがした。
『私の今の存在こそが“死”……全ての生が行きつく終着点。さあ、最後よ。今までにない美しい命の華を咲かせてほしいわね』
そう言うと同時に“死”が握り締めていた刀剣を一閃した。その瞬間に無数の斬撃が檻となって優也と妹紅に襲い掛かった。
反応が遅れ、二人の身体は鋭い斬撃に切り裂かれる。その攻撃が服を切り裂き、肉を抉る。鮮血が舞い、思わず苦悶の声を漏らす。
何か鈴のようなものが鳴る音がする。
“死”が持っていた鎖が鞭のように投げられ、それが優也の手首に巻きついていたのだ。
それを思いっきり引っ張られ、優也はそのままそれの元へと引き寄せられる。刀剣を構え、その首を刎ねんとして構えられる。
このままやられるわけにはいかない。
優也はその刀剣が自身に振り下ろされるよりも先に、口を開き、叫んだ。
「“スルト”、“デスバウンド”!」
目の前まで接近していたその刀剣と優也の顔の間に滑り込ませるようにして現れた“スルト”の握り締めている炎の魔剣、レーヴァテインがその凶刃を受け止めたのだ。
零距離での衝撃に優也は後方に飛ばされる。
だがこれでいいと思った。飛ばされることで“死”との間に距離ができるからだ。
視線の先では“スルト”と“死”との純粋な力と力の比べ合いが繰り広げられ手いるのが見える。
勝負は徐々にこちらが不利になってきているのが見えた。
優也のペルソナである“スルト”が純粋に力で劣っているのだ。
初めて手に入れたペルソナである“アルトリア”は戦うたびに新しいスキルとともに、それぞれのパラメータも上昇しているのが彼女を装備した時に毎回自分の力が変わっているのを感じて気付いていた。
しかし“スルト”を始めとする他のペルソナたちはそうならなかった。初めから全てのスキルを使用できる代わりにペルソナ自体の成長がまったく見られないのだ。
純粋な物理攻撃力の高いペルソナを召喚できればいいのであるが、優也自身の心の強さというものもペルソナ召喚には欠かすことのできないものである。
未熟な状態で、それに相応しくない力を行使してしまった時、制御できずに、それはむしろ優也自身に刃を向けてくるだろうと、何となくであるがそう思っていた。
証拠はある。ベルベットルームでアリアが優也のペルソナの管理をしているからだ。
彼女の力は優也とは雲泥の差、遥か頂にあるものだ。
“死”の刀剣がレーヴァテインを弾き返した。“スルト”が後退するように後ずさる。近接戦闘では分が悪いと判断したようだ。
純粋な力比べでは勝ち目がないようだ。
しかしそれはお互いに万全の状態である場合はである。
優也は一度“スルト”を送還する。そして別のペルソナをイメージする。
動きを止めた優也に向かって接近する“死”。
だがその間に割って入ってきたのは妹紅だ。振り下ろされた刀剣を、彼女は炎を纏った腕を盾にして受け止める。そのまま空いている左腕を引き絞ると、抉るようにして“死”の腹部辺りに向けて拳を放った。
“死”が小さな呻き声を漏らす。
表情が変わった様子は見られない。だが確実にダメージが通ったのは浮いている状態で少し後退したのを見て明らかだった。
『死になさい……死蝶「華胥の永眠」』
「易々と死ねるかよ! 滅罪「正直者の死」!」
姿形はおぞましいものであるが、声色は幽々子のシャドウと同じものというように、変なアンバランスさである。
しかし油断を見せると一瞬にしてやられてしまう。
それだけの実力を兼ね備えた相手である。油断などもっての他だった。
“死”が刀剣を一振りすると、そこから死を纏った蝶が現れ、至近距離に立っている妹紅へと放たれた。
それを見て妹紅は咄嗟にスペルカードを取り出し、宣言する。
自身を巻き込んでの罪を消滅させるほどの紅蓮の炎が死の蝶を飲み込み、灰に帰せさす。
僅かに火傷を負うも、不老不死の能力ですぐに治癒が施される。
「“デカラビア”、“マハタルンダ”!」
妹紅のおかげで無事に召喚が成功する。そこに現れたのはオレンジ色のひとつ目を持つ、星の形のペルソナだった。
オレンジ色の光が“死”の身体の中心で収縮する。
広域攻撃力弱体化魔法である“マハタルンダ”が発動し、“死”の攻撃力を弱体化される。それにより幾分か力比べでもそう簡単に押し切られることはなくなった。
妹紅が四肢の炎を纏わせる。
それを援護するために優也も自身を青白い光に包ませる。そして“デカラビア”に変わるペルソナを召喚する。
そこには銅色の身体をし、灰色をした短髪の髪を持つ女性が現れた。しかし彼女もまた普通の姿をしていなかった。何せ彼女の腕は左右に三本ずつ、計六本あり、さらにはその一本一本の手には湾曲した刀剣が握られていたのだ。
“カーリー”――優也の持つ剛毅のアルカナに属するペルソナである。
“カーリー”が刀剣を握り締めたまま美しい舞いをする。その瞬間二人と一体の身体を淡い光が包み込む。
“レヴォリューション”――。
その瞬間から身体が軽くなり、さらに奥から力が湧いてくるような感覚を覚えた。
そのペルソナが使用したスキルは相手に対して致命的命中の確率を高める強化魔法だった。しかしこれには欠点もあり、相手がこちらに対する致命的命中の確率も高めてしまうというものだった。
だが今のところ“死”の攻撃力は先ほどの魔法によって弱体化しているために、必要以上に不安視する必要はなかった。
――身体が軽い! 力が溢れる! 今なら、イケル!
ニヤリと不敵な笑みを浮かべる妹紅。
先ほどまでの目の前にいる“死”に対する恐怖心というものはいつの間にか記憶のかなたへと葬り去られていた。
そうだ、自分は抱卵人であり、不老不死の存在。死など恐れる必要はないのだと言い聞かせることで、先ほどまで感じていた恐怖を逆に力へと変えていた。
さらに優也とそのペルソナである“カーリー”の援護もあり、今までにない力強さを彼女自身が驚きを持って感じていた。
紅蓮の炎を纏った拳が相手の腹部に叩き込まれる。
苦悶の声が零れるのが聞こえる。
肉体に触れたような感覚はなかった。
しかし確実に相手には攻撃が通っているということで、彼女は攻撃を止めずに連撃へと移る。
垂れていた頭を上げ、敵が刀剣を振り上げる。盾にするべく左腕の炎をさらに巨大化させる。振り下ろされた刀剣を受け止める。弱体化しているためにそれほど威力はないように見える。鳥のような頭、ほとんどが頭蓋骨とも取れるものであるために表情はまったく読み取れない。だがぎりぎりと押してくることから相手は相当苛立っているのが分かった。伊達に長生きはしていない。
地面を穿つようにして蹴り、サマーソルトの要領で相手のその鳥のような顔を蹴り上げる。普通の相手であれば脳を揺さぶられるためにそれだけでも勝負はつくはずだった。だが相手は普通の存在ではなく、全ての生の終着点である“死”そのものである。
そこに常識は通用しなかった。
もしかすると非常識もそうなのかもしれないと思った。
何せ目の前にいる敵は“零”の存在。
所謂“一”の存在でしかないそれらを、いくらかけたとしても“零”にしかならない。
なら目の前にいる敵に敵わないのだろうか。今この状況で敗北をそう簡単に想像はできなかった。むしろするほど追い込まれてもいない。
勢いのまま妹紅は接近を開始する。自身の身体を火の鳥へと変え、再び一発の大技へと繋げる。その時の彼女は魂の状態であった。
一旦大空へと舞い上がったその紅蓮の翼を持つ火の鳥。それが大空から地上に立つ“死”をまるで見下すような形で視線を投げかけていた。
不老不死の蓬莱人の彼女に“死”など恐怖する必要はなかったのだ。
確かに攻撃自体は弱体化していたので相手が妹紅の攻撃を完全に受け止めきれるとは考え辛かった。
だが完全に失念していた。
例えあらゆるパラメータが弱体化させられていようとも、確実に相手の命を刈り取ることのできるスキルがあるということを。
妹紅のサポートをすることが今の優也がするべき最良の選択だった。
“カーリー”を送還し、再び光に包まれる。
再度ペルソナが召喚される。そこに現れたのは白を基調とした騎士甲冑を身に纏い、背中にはマントを羽織っている美青年だった。そんな彼の手には一本の赤い槍が握られていた。
その一本の赤い槍の名前は“ゲイボルグ”――塔のアルカナに属するペルソナでもある“クー・フーリン”が持つ武器である。
槍を横にして構え、カッと目を見開いた。
その瞬間優也と妹紅の身体を、先ほど相手の身体で収縮した光と同じオレンジ色の光が包み込んだ。攻撃力を強化する魔法である“マハタルカジャ”の効果によって妹紅の放とうとしている攻撃の炎の火力がさらに強まった。火の鳥というよりもひとつの太陽のように見えた。
その攻撃を受ければ例え相手が“死”だとしても無事ではすまないだろう。あわよくばこれで決まってくれればと思った。それでも最後まで気は緩められない。再びペルソナが槍を構えると、今度は優也だけを淡い光が包み込んだ。
物理威力増幅魔法である“チャージ”を発動させたのだ。
次の優也のとる行動はすでに決まっていた。今持つペルソナの中で一番物理攻撃力の高いスキルを持つのは“アルトリア”だ。そのためにいつでもペルソナを召喚できるようにできるだけ高い集中力を保とうとしていた。
そしてひとつの太陽と化していた妹紅の攻撃が今まさに地上に降りかかろうとした――その時だった。
虚空を刀剣で切り裂くという奇行を行う“死”。
だがそれが何も意味を持たないなどとは思えなかった。
その直感は正しかったことを証明付けるかのように、異変はすぐに起こった。
突如として空中にいた妹紅と優也のすぐ真下に不可思議な白く輝く魔法陣が現れたのだ。それだけでなく何やら神官らしきものが刻み込まれた石版のようなものが四本、二人を取り囲む形で出現した。
『全ての命に、安らかな眠りを……“マハンマオン”!』
光の結界に包まれる二人。
逃げることは叶わず、結界が弾け飛ぶと同時に、ありとあらゆる穢れというものが浄化された。
上位広域神聖魔法である“マハンマオン”。
“死”という存在でありながら、神聖な光による浄化を行えるとは予想外だった。空に浮かんでいた紅蓮の火の鳥は消え去り、そらから糸が切れた操り人形のような状態になった妹紅が重力に引かれるようにして地上に落下する。
膝をついていた優也は慌てて立ち上がり、彼女の落下してくる地点に向かって走る。地面に触れるよりも先に飛び込み、彼女の軽くなった身体を抱きとめて、地面をスライディングする。
ゆっくりと起き上がりながら彼女の身体を抱き寄せる。
――軽すぎる……。
全ての女性を敵に回しかねないだろう、それとは逆の言葉を吐いていたら妹紅からも鉄拳を受けていたかもしれない。
だが優也自身そんな冗談を言うような人間ではなく、それにそんな冗談を吐いている暇はなかった。
目の前にはひとつの命が散った、抜け殻となった存在があった。
彼女が例え不老不死だという存在だとしても、何故か安心できなかった。胸からこみ上げる何か良く分からないもの。
それは怒り、悲しみ、憤り、憎しみ――それらのいずれの言葉を持っても、今の優也の胸からこみ上げてくるものに決して当てはめることはできない。それほどの激情というものが声となって吐き出された。
「――っ!」
『っ!?』
まるで冷たい仮面を被ったような表情の変化の少なかった優也の顔には激情を表す仮面が被られていた。
ザンッという鋭く風を切り裂く音とともに何か水のようなものが噴出し、何か固いものが地面に落ちた音が続けて聞こえてきた
そして気づいた時には片腕が不可視の刃を持つ剣によって切り飛ばされていた。
こちらに対して今までどおりペルソナを召喚する時にするような構えである手を相手に対して翳すようなそれ。まばたきをしたかしていないかのあいだにそれが行われており、一瞬にして、まるで瞬間移動をしたのではないかというくらいの速さで召喚されたペルソナである“アルトリア”が“死”の脇を走り去っていた。
だがその腕はすぐに復元する。
その腕を優也へと向ける。
それに対しペルソナである彼女もまた優也戸の間に割って入り、手を翳すようにして伸ばした。
そして同時に宣言する。
『吹きなさい、死の風よ』
「“アルトリア”、“マハガルダイン”!」
再び白玉楼の庭で吹き荒れる漆黒の風と薄緑色をした風。
それらは衝突し、絡み合い、そして互いを引きちぎるかのようにして四散した。四散した衝撃が地面を叩き、隆起させる。衝撃は止まらずそのまま双方に向かっていく。
敵は飛びのくことで空を回避し、優也は“アルトリア”に壊れた人形のようにぐったりとした妹紅とともに腕に抱えられる形で、その場を蹴って回避行動をとった。
地面に着地し、彼女のことをそっと地面に横たえる。そこには動けないでいて戦闘を見ているしかできない、幽々子と妖夢の姿もあった。
妖夢は悔しさを表情に露にしていた。自身のシャドウが現れ、圧倒されただけでなく主も傷つけられそうになった。それだけではなく自慢の丹精込めて手入れをしている庭がもはや原形をとどめていないことに悲しみを抱き、心の中で涙を零す。
そして自身のシャドウの言った言葉――主の邪魔をするものは、切る――数年前に起きた異変を解決するために片っ端から出会ったものを切って行ったためにつけられた“辻きり”という通り名。当時は不愉快さしか感じていなかったが、今冷静に考えればそう呼ばれるだけの当然のことをしていたのだ。
主のためにその手足となる。
それは彼女の祖父がいなくなり、彼女が幽々子の正式な従者、白玉楼の庭師になったことから心に誓っていたことだった。そのため多少の我侭には付き合いもしたし、“春雪異変”と呼ばれる異変を起こすために幻想郷中から春度というものを集めるなどをしたのも遠い過去の話ではない。
多少の周りへの迷惑は幻想郷ではよくあることであり、大きな異変となった“春雪異変”ですら後で春度を返し、宴会を開いたことでほとんどお咎めがなかった。
それくらいのことは幻想郷らしさとして捉えられていた。
だが今回は違う。
確かに以前同様に主である幽々子の我侭であろう。
しかしその内容が内容である。幻想郷中の人間の命の散る様を見たい。それが彼女の異変を起こした理由だ。
流石の妖夢でもそれは許容できない。なにせ幻想郷は人間と妖怪が共存することで、その微妙なバランスを保っている。
そのバランスを揺るがすようなことをこの世界にいる者たちが、彼女同様に許容するはずはないのだ。それでこそ世界の防止力のようにして、各勢力が動くということだって考えられた。
しかし動いたのはいつもの異変解決のための専門家である巫女や魔法使いぐらい。あとは人里に甚大な被害が及んでいるということで竹林の案内人であるはずの女性と何故か彼女に外来人であるはずの少年が随伴していた。
周りはいつもの異変のように考えているのか。決して口にはしないが、随分と危機感がないと、少し呆れてしまう。
そっと妖夢たちの傍に命を散らせた妹紅を横にする優也。
二人に彼女のことを頼む。
妖夢は自分も行きたいという意気込みを感じさせるが、シャドウの出現でほとんど力を奪われてしまっており、動けない。
先ほど圧倒されてしまったこともあり、今は大人しくしているべきだろうと渋々ながら、そうすることを納得していた。
優也はそんな彼女から横たわっている妹紅の方に視線を向ける。確かに死んでいる。それは熱を完全に失ってしまい、氷のように冷たくなった彼女の身体に触れただけでも分かることだった。だが彼女は不老不死、すぐに復活するだろうということは分かっていた。
なら何故この抑えきれないような感情が胸にあるのだろうか。
この感情を言葉に表すとしたら――一体。
片膝をついた状態から立ち上がり、脇差を右手に持って先ほどまで西行妖があった場所に佇んでいる“死”の元へと向かう。
嵐のような風のぶつかり合いによって、白玉楼の周りに植えられていた桜の木々の何本かは半ばから、あるいは根こそぎ倒されていた。
一陣の風が吹き、地面に落ちていた桜の花びらが再び空に舞いあがる。
その舞い上がった位置間の花びらが、ゆっくりと降下し、地面に触れた。
その瞬間優也は地面を蹴り、一気に接近を開始する。亡霊の如く地面を蹴らずとも加速して優也との距離を縮めてくる“死”。
お互いの武器が振り下ろされ、刀身の半ばで組み合う形になる。
ギリギリと刃と刃が擦れあう音がする。
鍔迫り合いの状態が続く。
いくらペルソナを装備していて強化されているとはいえ、弱体化や強化が解けてしまっている以上、元の強さは向こうの方が圧倒的に上であるために、徐々に力負けし始める。
優也は苦悶の表情を見せる。
対して鳥のような顔を持つそれはまるで口元を吊り上げるような笑みを見せるなど、初めて感情というものを浮かべた。だがそれはただの余裕や見下すようなものからではなかった。
“デビルスマイル”――広範囲の敵に対して恐怖のバステ効果を与える状態異常魔法だった。優也の身体に再び“死”の恐怖が襲いかかる。
戦いたくない――!
ここから逃げ出したい――!
楽になりたい――!
そんな恐怖により、優也の動きが一瞬だけ停止する。それが大きな隙となり、“死”がここぞとばかりに剣に力を込め、鍔迫り合いを制してきた。
それだけに止まらず、腰高に構えられた刀剣を振りぬいて縦横無尽にその銀色に輝く刃を振り回した。斬撃が檻のように優也のことを取り囲み、その身体を切り裂いていく。恐怖からか頭を抱え、身体を庇うようにして縮こまってしまう。斬撃属性の攻撃に対する耐性を持っているペルソナである“アルトリア”を装備しているが、恐怖から相手に致命的命中を許してしまう。
その場に倒れ伏してしまう優也。
再び刀剣を頭上に構えた“死”が地面にそれを叩きつけてきた。
それが赤い波動となって優也に襲いかかる。
“終焉の詩”――赤き波動がまるで祝詞の波となって優也に押し寄せてきた。その瞬間に頭に流れ込んでくる呪詛のような呻き声。
誰もが悲しみに嘆いている。
誰もが怒りに吼えている。
誰もが理不尽さを嘆いている。
誰もが、誰もが、誰もが――!
「ヤメロオオオォ!」
優也はそう焼ききれるような痛みを感じていた頭を抱えながら、悲鳴のような叫び声を空に向けて上げる。
頭を垂れ、視線を地面に落とす。
震えが止まらず、胸にあった激情を塗り潰すかの如く、どす黒い何かが溢れ出してくる。先ほどの恐怖以上のものだった。
無数の蝶型の弾幕が放たれた。
死へと誘う弾幕が優也を穿たんとしている。
迫り来る光の粒子を撒き散らしている弾幕。
その光は命の輝きとも取れた。
だがそんな感想を抱けるほどの精神状態ではない。
そしてその弾幕が優也の命を散らそうとした、その時だった。突如として空気を切り裂く音が響いた。ただの一閃によって、迫っていた弾幕はただの粒子へと変わっていた。
少女の声、しかし凛として力強さのあるもの。身体を支配していたあの恐怖が徐々に薄らいでいくのに気付いた。
驚きもあって、バッという音がするのではないかというくらいの勢いで頭を上げ、視線をその先へと向ける。
そこに立っていたのはペルソナであるひとりの女性――“アルトリア”だ。彼女が何故召喚もしておらず、荒れた精神状態の下顕現しているのか。優也には理解できなかった。
もちろん助けてくれたのには感謝している。
蝶型の弾幕を切り裂いたのは“利剣乱舞”、優也を支配していた恐怖を取り除いたのは“アムリタ”によるものだろう。
体力と精神力を同時に奪われたが死ぬよりはマシだった。
感謝を述べつつ、ゆっくりとふらつく身体で立ち上がる。
地面に不可視の剣を突き立て、両手でふらつく優也の身体を支えてくれる。まるでともに戦場を駆ける兵士を労わる王のようだ。
事実彼女は嘗てのブリテンの王の分霊だ。本物ではなくともその記憶はあるし、その時と々信念の元に動いている。
その顔には笑みがあった。
彼女がペルソナ――もうひとりの自分であるとは今でも信じられない。そう考えるたびに複雑な気持ちになる。だがそうなのだろうと割り切るしか今も、そしてこれからもそうすることしかできないだろうと思う。
転がっていた脇差を杖にして、ようやく二本の足で大地に立つことができる。
視線を前方に向ける――いた。
そこには先ほどと変わらず浮いている“死”の姿があった。背中には幽々子のシャドウと戦闘を繰り広げている時に、彼女も背中から見せていた桜色に輝く翅が二対、見えていた。
『どうしてそこまで抗うのかしら? さっき全てを手放せば楽になれたのに。そうすれば私は命の美しさをこの目で見られたのに……どうしてくれるのかしら?』
詩を流れるように詠う美しい女性の声。
であるのに目の前にいるのは、鳥のような顔を持つ異形の存在。
完全にアンバランスな存在であるが、それにツッコムような体力も精神力もほとんど残っていない。
先ほど“アルトリア”に助けられなかったら完全に地面に遺体だけが転がっていただろうと思う。
脇差を杖代わりにしないと簡単に倒れてしまいそうだ。
それでも倒れまいとして、必死に足に力を込める。
彼女の言葉には若干の疑問と明らかな怒りが込められていた。なぜあそこで死を選び、楽にならなかったのか。逆にせっかく美しい命の散る様を見られたというのに、それをなぜ邪魔したのか。
ゆっくりと深呼吸をし、激しくなっていた動機をゆっくりと静め、口を開いて彼女のその言葉に対して答える。
「死にたくないから……ただそれだけだ」
死にたくないから――非常にシンプルかつ当たり前の答えだった。
優也だけじゃない、人里で倒れている人々が全員、同じように考えていることだ。
誰しも突然命を奪われそうになった時、嬉々としてそれを差し出すだろうか。そうではない者たちもいるかもしれないが、それは非常に少ないだろう。
人は“死”というものを目前にして本当の意味で知る。
優也は怖いと思った。
だからこそ死にたくないと思った。
だからこそ誰かに死んでほしくないと思った。
だからこそ戦うために、今こうして倒れそうになっていながらも“死”に対して立ち向かう姿勢を見せている。
『死にたくない……か。そういえば、遠くにいる者たちも同じように思っているわね。死にたくない、助けてくれって……泣いて何かに縋ろうとしてる。無駄だと分からず、無知なまま神に、薬師に、守護者に、巫女に……でもいいの、それでいいのよ。そんな無駄なことをしている滑稽な様子を見るのもまた一興……最後に特大な絶望とともに命を散らせてくれる』
「そんなことを……させると思うか?」
『止めるつもり? 天敵の蓬莱人は未だ眠りについている。起きられは面倒だけど、今はそんな様子は見られないわよ? そんなボロボロな状態で、私に勝てると思っているのかしら?』
彼女の口から出てくるのは優也の答えを履き捨てるような言葉だった。
亡霊である彼女にとって“死”というのは身近なもの以上に、一部となっているものだ。さらに今はそれその元となっているために――死にたくない――その言葉が、それに込められる気持ちが分からなかった。
そういえばというように人里の者たちのことも引き合いに出してくる。
言葉は悪いが、ペルソナの力を得た優也と比べて同じ人里に住む者としては無力な存在である彼ら。そんな彼らができることはただ信仰の対象としている神であったり、こんな絶望的な状況をひっくり返すことができるだろう者たちであったりだ。
しかしそんな縋ろうとしている者たちですら、その諸悪の根源を倒すことができていない。
希望が砕け散ることはその人を絶望に落とすことと同義だ。
絶望に伏すと同時に散るだろう命。
そんな儚く散る希望と命の輝きを彼女は求めていた。
それを阻止するためにここまで来たのだ。何度も足踏み、立ち止まりそうになったが逃げ出すことなくここに立っている。
確かに彼女の言う通り、今の状態ではとても勝ち目は薄い。だが可能性が零というわけじゃない。
妹紅が起きてくれれば、小町が来てくれれば、同じくここに向かっているはずの霊夢たちが来てくれればと思った。
だが――。
『“死”とは知らぬ間に現れるものではなく、常にヒトの傍に存在するもの。私はもう忘れてしまったけれども、ヒトは生まれながらに“死”とともに命の旅路を巡る……。果たしてその旅路の先に残るものは何かしら? 私は私を知らない……きっと私の答えはそこに思い出とともに置いてきたのね』
まるで祝詞を紡ぐようにして言う。
剣を捨てると、それの掌には小さな黒い球体状のエネルギーが現れた。それが徐々に大きくなり、抱えるほどのものとなる。
“死”が抱擁するように持っている黒い球体。
先ほど“死”を目前にして感じたあの感覚と同じだった。否それ以上のものを感じた。
それは言ってみれば“死”の塊。
離れていても感じられる冷たい波動。それを浴びて身体が震え上がる。冷たいからだけでなく、純粋なまでの“死”を目前にしてのものだった。
――ペルソナたちが警戒している……?
頭に響いてくる無数の声――ペルソナたちがそれが抱擁している塊に対して警戒するように叫んでいる。
それを聞いて心臓がどきりとした。
あれを一体何に使おうというのかと訝しげに視線を向ける。
ただ分かっているのは、それがとてつもなく危険だということだ。
――くっ! とにかく何もしないよりはマシか……。
すぐさま召喚していた“アルトリア”に攻撃を指示する。
剣を構え、飛び出した。それに反応した敵が受け流すようにして背中から見せている翅をシールドのようにして翳し、様々な角度から振り下ろされる不可視の剣撃を的確に受け止めていく。
打開策が見つからないまま攻撃が続く。
ペルソナが攻撃するたびに体力が奪われていき、徐々に表情が険しくなる。
そして使用している本人に僅かでも集中力にブレが生じればそれがペルソナの動きの鈍りにも繋がる。
僅かであるが“アルトリア”の剣撃が大振りになり、それを受け止めるのではなく回避することにする。剣が外れ、地面を叩き、衝撃波が発生する。そのために視界を覆いつくす形で土煙が発生した。
――しまった!
焦りが生まれる。
思わず目を見開いてしまう。
このままでは追撃をすることができず、あの抱擁を一定時間放置することになる。
だがこのまま待っている時間などない、そのためになけなしの精神力を削ることになる我優也は叫ぶ。
「姿を隠すその障害を吹き払え、“マハガルダイン”!」
周りの葉枝を巻き込んで土煙を包み込む。緑色の暴風が一気にそれを上空へと巻き上げる。それによって目の前の視界がはっきりと開け――前方から無数の蝶型の弾幕が迫った。
『“死”を目前にどんな踊りを見せてくれるのかしら? 死への舞踏はそろそろ終幕よ?』
上空に滞空するそれの声が降りかかる。
触れるたびに体力とともに生きる意志というものを奪っていく。だがここでその意志を投げ出すわけにはいかない。
「まとめて薙ぎ払う、“スルト”!」
ペルソナをチェンジし、“スルト”を召喚する。
“ラグナロク”――。
その手に握られた炎の魔剣を大地に振り下ろす。そこを中心にして紅蓮の劫火が弾幕だけではなく、ここら一体を飲み込んで行く。まるで地獄絵図を見ているようだ。
『冥界だから地獄絵図だなんてあって不思議じゃないわね』
「自分の屋敷だぞ……少しは何か思うことはないんじゃないのか?」
自身の屋敷が炎に包まれているにもかかわらず、なんら文句も言わずに淡々としている。
炎は彼女までは届かず、逆に周りの庭を焼くようにして炎が広がっていく。屋敷にも燃え移り、火の手が上がる。
後ろから悲痛な叫びが聞こえてくる。
申し訳ないと思いながらも視線は上空に滞空している“死”に向けられている。それが抱擁するようにしている黒い球体が、さらに膨張しているのが見て分かった。
先ほどの妹紅が紅蓮に輝く太陽であるならば、それは暗黒に染まった漆黒の太陽。
明るさや温もりというものはなく、逆に暗さと冷たさだけがそれにはあった。
それ以上膨張が進んでしまえば、もはやここら一体を吹き飛ばせる爆弾と化す。それが放つ波動というものはおそらく全ての生を持つものに対して平等に“死”を与えるものなのだろうと思う。
そんなものが落とされてたまるか――優也は再びペルソナを召喚する。
“ディオニュソス”が両手を空に伸ばす。その瞬間上空から落雷が発生し、回避行動をとらなかった“死”を穿つようにして突き抜けた。
ぐらりと体勢が崩れた。
ペルソナをサイドチェンジし、“クー・フーリン”が槍を構え、精神を集中させる。光が包み込まれ、身体の奥から力が溢れてくる感じがした。
追撃だ――!
重い一撃を放つため、ペルソナを交代しようとした――その時だった。
大きな鼓動が聞こえた。
ドクンっと、まるで心臓が鼓動するかのようなものだ。
ハッとして視線を上に向ける。そこには完成された黒い太陽のようなものがあった。
“死”の塊。
――間に合わなかったのか……。
それを見て愕然とした面持ちになる。
『特大の炎を用意したわ。あなたの命の花火はどんな形を見せてくれるのかしら?』
くすくすと笑うが、そんな姿で笑われても嬉しくも何もない。
むしろ逆にシュールさを感じるだけだった。
しかし自分が完全にチェックメイトをかけられているのは紛れもない事実だった。あれを破壊するためには、ただ攻めて力を拡散させる他にはなかった。
ひとりで攻撃するだけではやはり足りなかったということ。ここに妹紅や小町がいてくれたらまだ分からなかったかもしれないが。
万事休す、なのか――?
ギリッと歯を噛む。
どうすれば良いのか。それともどうしようもないのか。
目前の“死”を前にして、優也は打開策を見出せないでいた。
『メインディッシュね』
そう言ってゆっくりとその球体を手放す。
ゆっくりとそれが地上へと引き寄せられるように降りていく。
『人間の後は妖怪、最後には神様ね。どんな命の散る様を見せてくれるのかしら……』
これからの算段について口にする。
もはや優也のことなど、最後に見せる命の散る様だけしか興味はないようだ。
この世界にいる人間を殺しつくした後に残るのは、外の世界から幻想の存在となったためにやって来た妖怪や神だ。
バランスが崩れた時、この世界の安定はもはや取り戻せないものになるだろう。
それを止めるためにもここまで来たというのに――。
地上に向けて投下された“死”の塊はもはや止まることはない。ゆっくりと地上と触れ合うと、膨張していた風船が破裂するかのように形を歪めた。
四散するのではなく、中にあった水が流れ出すかのようにしてすっかり以前の原形をとどめていない白玉楼を侵食するかのように広がっていく。川が増水し、地上を飲み込んでいくかのように優也に迫る。
動けなかった。
心身ともに疲労困憊であるため、まるで足から根が生えたかのように動けなかった。
動こうとする意志すら、削り取られてしまっていたのかもしれない。
それでも視線を逸らすことなく、迫る黒い波動を睨みつけていた。
そして全てを黒く染め上げるように、優也のことを飲み込んだ。
その瞬間身体から力が抜けていく。思考することすら追いつかない、ほんの一瞬のことだった。まるで糸が切られた操り人形のようになる。命はその輝きを保ったまま、砕け散った。
その砕けた命の美しさというものは一体どんなものだったのか。
閉じられる瞳の先にいる“死”の表情を伺い知る前に優也は完全に意識を闇の底へと落とした。
もはや光が届かない奥底にまで――。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m