帰省したアイクの歓迎会が終わった翌日。
 自分が思った以上にお酒が身体に回っていたからか、目を覚ましたらすでに太陽は空多角に昇っており、昼頃であるのを知らせていた。
 二日酔いなどの症状はなく、起きたばかりということで少し身体がだるいが、アイクはベッドから降り、自分の部屋を出た。
 洗顔をするために、タオルを持って水を貯蔵している樽のある家の裏へと移動する。
 蓋を開けて水をすくい、それを顔にかけてゴシゴシと洗う。
 夏場であるが、日陰ということもあり、水温は低い。冷たさが若干残っていた眠気や気だるさというものを吹き飛ばした。
 首からかけておいたタオルを手にして、濡れた顔を拭いていく。
 乾いたタオルが水を吸い取る。
 それからは都会である首都にはない、森に囲まれた村だからこそある大自然を感じさせる香りがした。
 自分は久しぶりに戻ってきたのだと、心の奥底に隠れていた寂しさが顔を覗かせた。
 都会とは違い、のんびりとした雰囲気が包み込んでいる。
 研究医で忙しい身ではあるが、休暇中のレポートなどはある程度手をつけているために、戻る頃には完成させられるだろうと思っていた。
 今日一日はゆっくりできるだろうが、明日からは父親と一緒に病院で診察を行なうことになっていた。以前なら見ているか手伝いくらいしかできなかったが、すでに向こうでは実際に担当教授の補佐の他に、教授が不在の時はアイクが診察をするようになっていた。さすがに一人では心もとないということで、看護士の女性が補佐をしてくれていた。
 昼時であるために、一時診察の受付を終了させていた。
 もちろん急患があれば受け入れることはある。
 居間へと向かえば、そこには仕事に一区切りを付かせた父親と母親、そしてアルバイトのナナの姿があった。
 父親はテーブルの席に座っており、コーヒーの入ったカップを片手に一息ついている様子だ。
 母親とナナは二人で台所に立ち、昼食の準備をしている。
 三人はアイクが起床して来たのに気付き、それぞれ声をかけてきた。
「やっと起きたか。まったく、昨日あれほど飲みすぎるなと言ったではないか」
 ――別に、飲みすぎたわけじゃ……。
 諌めるような物言いに、若干不貞腐れながら答える。
 父親はやれやれといったように呆れたように首を横に振る。
 わざとらしくついたため息が聞こえた。
「明日からはお前にも仕事があるから、今日一日は身体を休ませるようにな」
 ――分かってるよ……。
 言われなくてもと若干の反抗心を含めながら呟いた。
 父親はその言葉に僅かに眉を寄せたが何も言ってはこなかった。
 起きたばかりだというのに、今のやり取りのせいか、少しだけ気分が悪い。
 とりあえず、昼食ができるのを待つためにアイクも席につく。
 いつもと同じように父親が正面にくる位置になっている。
「あなた。せっかく帰ってきたのですから、少しくらい羽目を外してもいいじゃないですか」
「今から気が緩んでいたら将来困るだろう。医者が自分の限界を知らなくてどうする」
 母親が擁護するように言うが、父親は頑として譲らない。
 生真面目な性格で、生粋の医者であるから常に万全の状態でなければいけないという考えなのだ。
 それに、この村には医者は彼しかおらず、村外の医者に診てもらおうにも徒歩で数時間、馬を使ってもそれなりの時間を要する。
 そのため、自分がもしもの時に万全な状態で無ければ意味がないということからそのような考えをもつようになり、将来は自分の後を継ぐことになっているアイクに対しても耳にタコができるくらい何度も言い聞かせていた。
「アイク、もうすぐできるから、少し待っていてね」
頑固な夫に対して軽く呆れた面持ちの母親が気遣うように言った。
そのおかげか、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
それからすぐに昼食ができた。
かごに入ったパンに、新鮮な野菜を使ったサラダの入ったボールが中央に置かれる。取り皿が人数分戸棚から出され、ナナがその上に適量よそっていく。あっさりとしたスープにパンを千切って浸しながら食べる。
「はい、アイクの分だよ」
 取り皿の上に並々とよそわれたサラダ、それをナナが差し出した。
 アイクは礼を言って、それを受け取る。
 フォークを使ってそれを口に運ぶ――シャキシャキと歯ごたえのある食感だ。
「どうかな?」
 サラダを食べているところで隣に座ったナナが感想を聞いてきた。
 どうやらこのサラダは彼女が作ったようで、味はどうだったのかと気になっているようだ。
「うん、おいしいよ」
 アイクは純粋に、思ったことを口にした。
「また上手になったんじゃない?」
 以前から七人姉弟の長女として母親の手伝いをしてきたので、当然のように料理の時も一緒に作っていた。そのため、今では母親と同じレパートリーを持っているため、両親が忙しい時には彼女が料理を作るようになっていた。
 彼女の手料理を食べたのはこれが初めてではなく、小さい頃から何度も口にしている。食べる度に料理の腕は上達しており、アイクも一人暮らしであるため人並みに料理は作れるが、ナナには敵わないと思っていた。
 おいしいと言われ、ナナはホッとしたように顔を綻ばせた。
「ああ、本当においしいよ」
 普段口数の少ない父親も舌鼓を打っている。
「ありがとうございます」
「準備から盛り付けもしっかりしてるし、将来はいいお嫁さんになれそうね」
 笑みを深めながらお礼を言うナナ。
 そんな彼女に対して母親が踏み込むように言った。
「そ、そんな。そんなことないですよ、おばさん」
 謙遜するように言うが、顔を朱色に染めてワタワタと慌てる。
 そんな彼女の心中を察しているのか、クスクスと母親は小さく笑う。
「うっー……おばさん、ひどいです」
「怒った顔もかわいいわね」
 頬を膨らませて怒っているのを伝えるが、彼女には逆効果だった。
 すっかり顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに俯かせた。
 そんな彼女を見て、母親は何かを思いついたのか、手をポンッと叩いた。
「そうだ。久しぶりの再会なんですから、今日の午後はナナちゃんもお休みでいいんじゃないですか?」
 黙々と食事をしている夫に話しかける母親。
 食事の手を止め、考えるように目を瞑る。
 その提案に、顔を俯かせていたナナが反応し、顔を上げた。
「え、でもまだ仕事が残ってますし……」
 遠慮がちにそう言うナナであるが、母親は気にしていないというように手を横に振る。
「いいのよ、ナナちゃん」
 そしてナナからアイクへと視線を変える。
「それにこの子ったら、暇なら部屋にこもって本を読むくらいしかしないんですもの。少しは外に出た方がいいと思うの」
 アイクはそう言われ、思わず「ウッ」と声を詰まらせる。
 首都にある医学学校に進学するまでとまったく変わっていないことを、母親には隠せないようだ。
生真面目な父親ほど頭は硬くはないが、年頃の少年がすることや興味を持つことに対してはあまり気を向けず、勉強一筋という優等生タイプであるアイクにはもう少し色々なことに興味をもってほしいというのが母親としての思いだった。
 そこで話が向けられるのは幼馴染でもあるナナである。
 多少強引なところはあるが、出不精なところがあるアイクにはちょうどいいくらいだった。
 昔からアイクのことを引っ張っていたのは彼女だ。そのことを知っているからこそ、彼女はお願いするように言うのだ。
 どうすればよいのかと、まずはアイクに助けを求めるように視線を向けてきた。
 ぼくに聞かれても……。
 言葉にはしないが、困ったような表情を彼女に向ける。
 アイク自身、昼食後は部屋でゆっくり読書をするか、レポートをまとめあげるつもりだった。だからあえて言葉にするなら、彼女は休んでもいいが、自分は出かけるつもりはないというものだった。
 アイクの助けを得られないナナは途方に暮れる。
 アルバイトとして雇ってもらっている身であるから、そうそうわがままを言うわけにもいかない。
しかし確かに久しぶりに再会したアイクと色々話したいこともある。手紙のやり取りはずっと続けていたが、やはり面と向かって話したいという思いが強かった。
「仕方ない。今日の午後は休みにしておく」
 しばらく無言であった父親が口を開き、了承すると言った。
 その言葉にナナは一瞬であるがパァッと花が咲いたような笑顔になる。
「でもぼくは――」
「――それじゃあ、アイク。あなたはナナちゃんと出かけてきなさい」
 申し訳ないが、やることがあると伝えようとしたところで、母親に口を挟まれる。
 どうして――と抗議するように彼女に視線を向ける。
「どうせまた部屋に閉じこもる気だったのでしょう?」
 図星だったため、言葉が見つからず、黙り込むしかできない。
「せっかくの休暇で、今日はいい天気なのだから、少し散歩でもしてきたら? まだ若いのに身体が鈍っているなんて笑い話にもならないわよ?」
 母親は出不精気味であるアイクのことをからかうように言う。
 一応ではあるが、一人暮らしをしている間鍛錬の方はサボらずにしていたつもりだ。
 鍛錬といっても、軍隊のするようなものではなく、村を警備するために男たちなら必ず取り組んでいる基本的なものだ。アイクが使用する得物が少々特徴的なものであるだけで、内容自体は変わらないものだ。
「ナナちゃん、それじゃあ、アイクのことよろしくお願いできるかしら?」
 アイクのことはそっちのけに、話は進んでいく。
 母親にそう言われたナナは、
「任せてください!」
 と、遠慮していたさきほどとは打って変わってうれしそうな表情を浮かべて言った。
 どうやら今日一日の自分の行動予定はすべて彼女が握っていると、アイクは苦笑いを浮かべつつそう思った。


 昼食が終わってから片付けは午後が空いたアイクとナナが担当することになった。
 父親は食事が終わってからさっさと仕事場である隣接している病院に行ってしまった。それとは対照的に母親は家を出る際に、すでに食器洗いを始めていた二人を見てわざとらしく言った。
「並んでいる様子が、まるで夫婦ね」
 その言葉には少しばかり羨ましさが混じっていたのは気にしすぎであろうか。
 そう言われたアイクは「お母さん、何を言っているのさ」と呆れたように反応するが、隣にいたナナは露骨に反応していた。
「そ、そ、そんな、おばさん!? ふ、ふ、夫婦だなんて!?」
顔を真っ赤に染めて、混乱したように慌てふためいていた。
 そんな彼女を落ち着かせるのにも一苦労だった。
 肩に手を置いただけでも「ちょ、ちょっとアイク!? な、何するつもりなの!?」と何を想像したのか勝手に叫んだ後は何かを待っているかのように黙るなどと忙しくしていた。
 アイクはというと、特に何をするわけでもなくただ一言「落ち着け」というだけだった。
 それに対してナナは、
「期待させないでよ!?」
 と、食器を拭くのに使っていた純白の布巾を投げつけてきた。
 至近距離からの投擲だったが、半身になって回避した。
 普段からの鍛錬がこんなどうでもいいところで発揮されてしまったことを、アイクは胸中複雑な気持ちだった。
 空を切った付近は背後の壁にベチャッという音を立てて虚しく床に落ちた。
「何をするのさ!?」
 突然布巾とはいえ投擲されたことに声を強めて言う。
「かわさないでよ!」
「無茶言わないでよ!?」
 怒り顔で言うナナの言葉には思わず首を傾げたくなる。
 理不尽な仕打ちに反射的に答える。
 何とか彼女のことを落ち着かせようと声をかけ続け、十分ほどしてようやく怒りを納めてくれた。
 まったく何に対して腹を立てたのか――勉学に励むアイクであるが、こればかりはどうしても理解できなかった。
「まったく、アイクは勉強不足よね」
 ナナはため息混じりに言う。
 なら彼女は知っているというのか。もしそうだとしたら是非ともご教授願いたいものだというような旨を伝えると、
「えっ……?」
 一瞬ポカンという表情を浮かべたまま固まり、
「あ、あたしがお、教えるだなんて……」
 と、頬を赤らめ、モジモジとしながら何かを呟いている。
 耳をそばだててみようかとも考えたが、さきほどと同じことが繰り返されそうな予感がしたため、自粛することにした。
 ――食器洗いが終わった頃。
 ナナはエプロンで濡れた手を拭き、それが終了を知らせる。
「これからどうしようか」
そうテーブルの自分の席に座りながらアイクが尋ねる。
「少し歩いて、昔よく遊んだ丘に行こうかと思ってる」
 二人分のコーヒーを作りながらナナが言う。
「その前に少し休憩、ね」
 そう言いながら白い湯気を上げているコーヒーカップの一つを手渡してきた。
 それを「ありがとう」と礼を言って受け取る。
 黒い液体を口に含むと、苦味が口全体に広がった。
「よくブラックで飲めるよね」
 そう感心しながら言うナナは砂糖とミルクをたっぷりと入れて、それをかき混ぜている。
「入れすぎだよ。もう少し控えた方がいいよ?」
 すっかりアイスミルクティーになってしまったコーヒーを哀れみながら言う。
「ブラックは苦すぎるの」
 そう言いつつ、温くなった甘い液体を口に含む。
 口元を緩め、幸せそうな笑みを浮かべる。
 7姉弟の長女ということで、普段は年上らしい態度でいるが、そのように子どもっぽいところもあるのを見られるのは珍しいことだ。幼馴染のアイクからすればなんら珍しいことではないのであるが。
 のんびりとした雰囲気がしばらく二人のことを包み込んでいたが、突然家のドアを叩く音が聞こえた。相当慌てているようで、ドンドンと激しく叩いてくる。
 一体どうしたのだろうかと思いつつ、アイクはカップをテーブルに置いてからドアの方へと向かう。
 アイクが返事をするまでドアを叩くのは止まらなかった。
 開けるとそこには村長の息子であり、友人のアスラの姿があった。
 走ってきたのか、珍しく額には汗が見えた。
 村長の息子ということでお金があるのか、この辺りの田舎村では見られない上等な服を着ていた。
 それはそうとして、どうしたのかとアイクは尋ねる。
 彼の後ろにはナナも立っており、心配そうに二人の様子を見つめている。
「アスラ? どうしたのさ、そんなに慌てて?」
 アイクはアスラのことを家の中に入るように促しながら声をかける。
 アスラは空いていた席に座り、ナナが差し出したカップに入っている水を一気に飲み干した。
 カップをテーブルに置き、しばらく呼吸を整えていた。
 それからようやく俯かせていた顔を上げて言う。
「森に入った奴が怪我をして動けなくなったんだ!」
 必死の形相に、思わずアイクとナナの二人は驚く。
 普段はヘラヘラとした態度を取っているアスラとしては、あまりに珍しい態度だったからだ。
 しかし怪我人と聞けば、医療にかかわる二人は無視することはできない。
「詳しく聞かせて? 怪我の程度は? 場所はどこなの?」
「あ、ああ……」
 落ち着こうとしながら、ゆっくりと話していく。
「たまたま暇つぶしに森に入ったんだけど、途中で熊と遭遇してな……」
 運よく二人は逃げ切ることができたが、一緒に森に来ていた友人が足を怪我してしまったようで動けなくなってしまったようだ。走れば熊に気付かれずに済むが、肩を貸して歩いていれば見つかってしまうということで応援を求めに来たのだという。
「安全な場所まで来たんだけど、あいつこれ以上歩けないって……」
 重度の捻挫、最悪骨が折れているかもしれないと判断する。
 応急処置をしなければ、さらに悪化するかもしれないと思うとのんびりとはしていられないようだ。
 父親たちは仕事でその場に向かうことはできないので、手の空いている自分が行くしかないと考える。
 ナナに向き直ると、彼女も頷いていた。
「分かった。とにかくぼくたちをそこに案内して」
「アイク、あたしは準備してくるから」
 そう言うと、ナナは家を飛び出していった。
 行き先は言わずもがな、隣接する病院の方だろう。
 それまでアイクはどうするかというと、私服のままで向かうというのも医者の卵としてどうかと思い、自室に白衣がかけられているのを思い出し、アスラに断りを入れて階段を上がっていった。
 ――それから五分もしないうちに三人は外に集合していた。
 アイクは私服の上に白衣を着ている以外に、懐には森の中ということで警戒が必要と考え、武器を忍ばせていた。
 ナナは病院の方で必要と思われる医療道具をバッグの中に整理して入れており、それを肩から斜めにかけるようにしていた。服装は夏ということで薄手の私服だ。
 二人に助けを求めてきたアスラは目立った持ち物はなく。何か森に探検でも行っていたのか、小さなリュックを背中に背負っていた。
 それについては特に詮索することはなく、二人はアスラを先頭に森の方へと向かった。
 森は木こりたちの手によって手入れがされているために、薄暗さを感じることなく太陽光を証明に奥へと進むことができる。
 だがいくら進んでもアスラと森に入ったという友人らしき姿は見られなかった。
 まったく気にすることなく初めは歩いていたが、しばらくして立ち入り禁止を示す地面に打ち込まれた杭が視界に入る。
「ねえ、アスラ。これ以上は立ち入り禁止になっているはずだけど」
 友人を疑うのは心苦しさを覚えるが、ここまでまっすぐ歩いているにもかかわらず、友人のもとに辿り着かないことから尋ねた。
 この辺りまで来ると、突然明かりが遮断されたかのように暗くなり、木々が密集するようにしてあるために蒸し暑さを感じるようになる。そのためか、地面に落ちた葉や枝が発酵し、鼻をつくような甘ったるい臭いを漂わせていた。
「少し奥に進んだところなんだ」
 ちょっとした出来心で入り込んでしまったようだ。
 それにしてもよく無事に出られたものだと感心してしまう。
 村の言い伝えではけっして抜け出せないとされているはずなのに、と驚きを覚える。
 仕方ないと思いながら、三人は再び歩き始める。
 蒸し暑さから汗がジンワリと身体にまとわりつくようにあり、不快感を覚える。
 それらが体力、精神力ともに奪っていく。
 疲れを見せまいと気丈に振舞っているナナも、歩いている最中に何度もリュックを背負い直していた。
 いよいよ暗くなり、アスラがリュックから取り出した小さなランタンの明かりだけが頼りだった。そしてとうとう後ろを振り返っても立ち入り禁止の場所が見えなくなってしまう。ここに来てようやくアイクはアスラが嘘をついたのだと確信をもつ。
「アスラ!」
 咎めるようにアイクが声をあげる。
 振り返ったアスラは申しわけなさそうな様子を一切見せず、まるで二人のことを共犯者のように思っているように見返してきた。
「悪いね、二人には付いて来てもらいたくてさ」
 いつもの態度であるが、さすがに今回ばかりは許容できない。
「森の奥に入ることは禁止されているって、君だって分かっているはずだよ!?」
「どうするのよ、このままだとあたしたち……出られなくなっちゃうよ」
 アスラに詰め寄りながら言うアイクであるが、彼の態度は相変わらずだ。
 ナナが怯えるように呟く。
「この森の奥に、白い古城があるっていう噂、知ってるよな?」
「何を今更……」
 睨みつけるアイクに対して、手のひらを見せるようにしてそれ以上言うのを遮らせる。
「まあ、待てって」
 面白い話をもったいぶるようにする態度に、アイクは内心呆れていた。
「そこに絶世の美女が住んでるかもしれないんだ」
「もしかしてアスラ……君はただそのためだけに」
 ようやく今回の企みの真相に行きつくことができた。
 それはナナも同じで、怯えながらも非難するような目でアスラのことを見ていた。
 二人からの視線に肩をすくめるだけで答える。
「ぼくたちは帰るよ。そんな危険な場所、入っちゃ駄目なんだから」
「相変わらず優等生だね、お前は」
 褒めているのか、貶しているのか分かりにくい。
 しかし褒めているとしても、うれしいとは思えない。
 ナナに帰ろうと告げながら、アスラに背を向ける。
 すると後ろから声がかかった。
「おっと、そんなことをしてもいいのか、優等生?」
 あからさまに馬鹿にしたような口調だ。
 立ち止まりかけるが、気にせず二歩目を出した。
「お前が首都の医学学校に通えるのは俺の家が金を出しているからなんだよな?」
「だから……?」
 肩越しにアスラを見ながら呟く。
 いくら実家が病院を営んでいても、専門的なことを学ぶのには限界があり、また、医者を名乗るためには医学学校を卒業する必要があった。そこに入るのだけでも莫大な費用がかかる。病院を経営していても、所詮小さな田舎村のものでしかなく、首都やその付近と比べるとはるかに収入は少なかった。そのため個人負担ではどうしようもできないため、将来は村医者を継ぐという契約でアイクはアドルフ家から費用の大半を負担してもらっているのだ。それを盾に使ってくるとは予想できなかったわけではないが、汚いという言葉があてはまる行為だ。
 しかしアイクがそう思っていても、言葉にすることはない。
 否、できなかった。
 彼の家からの援助があるからこそ、医者を目指すことができている。
 ここで彼の申し出に対する対応を間違えてしまえば、ただでは済まないだろう。
 費用の負担が途切れてしまい、学校に通うことができなくなるのは間違いあるまい。
「なあ、頼むよ。付いてきてくれないか?」
 そうお願いするように言うが、言葉の響きとしては命令しているようにも聞こえた。
 アイクは戻ろうとする足を止め、口をつぐんだまま立ちすくむ。
 二人のことを交互に見ているナナは困惑した表情を浮かべている。
「もちろん無理はしないさ。それに、二人が森の奥に入ったってことを親父たちに言うつもりはない」
 次々とアスラはアイクの懸念事項を潰していく。その他に念押しをするかのように、秘密にすると約束するように言った。
 ここで戻るという選択をすれば、自分だけでなく両親やナナにまで迷惑をかけることになる。彼が本当に約束を守るのかは信じる他にはなく、残ったアイクの取るべき選択肢は一つしかなかった。
 後ろ向きの状態から、クルリと身体の向きを変えると、アイクは正面にいるアスラの方を向く。
 その行動が答えと受け取ったのか、アスラの顔に笑みが生まれる。
「よぅし! それじゃあ、出発だ!」
 声高らかにして、アスラは意気揚々と歩き出す。
「アイク……」
 不安からか、身を縮こませているナナが話しかけてくる。
 彼女自身は戻りたいという思いでいっぱいだろう。
 自分がわがままを言うこともまた、多くの人に迷惑をかけてしまうことを理解しているために必死に耐えている姿がとても小さく見えた。
「ごめん……」
 アイクはナナに対して謝ることしかできなかった。
 そう言われてナナはただ無言で首を横に振った。
 気にしていないと言いたいのか、それとも嫌だと言いたいのかは分からない。
 ズンズンと一人で奥のほうに進んでいたアスラから声がかかる。
「おーい、早く来いよ」
 アイクは自分たちが立っていた場所から、まだ一歩も動いていないことに気付く。
 気付いていなかったアスラはしばらく前に進んでおり、見える姿が小さくなっていた。
 アイクはナナの背中をそっと押しながら歩き出す。
 促されるままに歩き出すナナを見て、アイクは――彼女のことを自分が守らなければ、と思う。
 腕組みしながら待っていたアスラは、二人がやって来るのを確認してから再び歩き出す。
 調子よく前に進んでいくアスラとは対照的に、二人の足取りは重く、双方の間にある距離は放れることはないが一定の間隔が開いていた。その間隔がそれぞれの気持ちを表しているかのようだった。
 立ち入り禁止の杭が穿たれた場所から相当奥へと入り込んだ。
 これまでも、そしてこれからもけっして足を踏み入れることはないだろうと思っていた場所であるからどういう場所なのかなど知る術もない。
冒険者みたいにスリルを楽しんでいるアスラとは違い、アイクとナナの二人はただただ不気味さを全身で感じていた。
ジメジメとした空気がまとわりつくような汗を促し、服が肌について不快感を与えてくる。整備された場所ではないため、足場はひどく荒れており、木の根が隆起して足をとられ、転んでしまうことも多々あった。
「くっそ……、白い古城なんてどこにあるっていうんだよ」
 吐き捨てるように言いながら、先頭を歩くアスラが首下にある噴き出した汗を拭う。最初こそ勢いに任せて歩いていたが、今はすっかり気持ちも萎え始めているのためか、その勢いは微塵も感じられなかった。
 苛立ちを隠し切れないためか近くにあった大木に蹴りを入れた。
 するときの上にとまっていたと思われる鳥たちが一斉に羽音と鳴き声をけたたましく立てながら飛び去った。
「ひっ……」
 ナナが小さな悲鳴を上げ、身をすくませる。
 その様子を見てアスラは態度を一変させ、腹を抱えて笑った。
「安心して、ただの鳥だから」
 怯えながら、鳥たちが飛び去っただろう頭上の方を仰ぎ見ているナナに声をかける。
「う、うん。大丈夫だよ」
 ナナは無理やり笑顔を作ってみせる。
 すると辺りから草を掻き分けるようなガサガサというような音が聞こえてきた。
 密林であるために、ほとんど四方八方から聞こえてくる感じだ。
 アイクとアスラはお互いの背中にナナを隠すようにして辺りを警戒する。
 アイクは懐に忍ばせていた武器である、トンファーを手に持って構える。
「ふ、二人とも……」
「だ、大丈夫だよ……な、アイク」
「そこでぼくに振るかな……」
 怯えているのが明白であるように、声が震えているアスラの問い掛けに対して、アイクは呆れながら呟く。
「でも警戒して。それといつでも走り出せるように」
「ど、どうして?」
 警戒を強めて言うアイクに対して、ナナは声を詰まらせながら尋ね返す。
 スッと目を細めて視線を向けている方向を見る。
 その先にある茂みが小刻みに揺れ動いているのが見え、小さくガサガサという音が聞こえてきた。ゆっくりと忍び寄って来ており、不気味に光っている眼光が暗闇にいくつも浮かんでいた。
「く、熊か!? お、狼か!?」
 怯えながらも手に持っているランタンをかざして正体を確かめようとする。
 だが近づく必要はあらず、向こうから突然飛び出してきた。
 真っ先に前に立っていたアイクへと迫る。
「アイク!」
 ナナの悲鳴のような叫びを聞きながら、すでに反応し動き出していたアイクは構えていた武器であるトンファーで迫ってきていた敵を横殴りにする。
 くぐもった声をもらしながらその敵が地面に倒れた。
 その姿を見て三人は声を失う。
 小さく痙攣しながら地面に横たわっているのはまぎれもなく人間の姿をしたものだった。
「う、うそ……どうしてこんなところに人間がいるの?」
 青ざめながらナナが言う。
「俺に分かるかよ!? おいアイク、どうするんだよ!?」
 喚き散らすように叫ぶアスラ。一人だけ大きく後ずさりをしながら対応を求めてくる。
「どうするかって言われても!」
 続けて襲い掛かってきた敵を殴り飛ばしていくアイクも困惑を隠しきれず、冷静さを乱しつつあった。
「逃げるしかないよ!」
 一体に対してトンファーを打ち込んで怯ませると、その後ろから迫ったもう一体に対して回し蹴りをお見舞いする。
 敵はすでに身体が腐敗してしまっているためか非常に脆く、腐敗臭がいやに鼻をつき、不快感を与えてきた。
 蹴りによってつま先が相手の身体に食い込む。そのまま地面に叩きつけるようにすると、他と同じようにしばらく痙攣していると、何事もなかったかのように立ち上がってきた。
「な、なんなんだよこいつらは!?」
 いよいよ泣きそうな表情を浮かべているアスラが叫ぶ。
「お、俺は死にたくない……死にたくない!」
「ちょ、ちょっとアスラ、どこに行くの!?」
「う、うるさい!? 俺は生きてここを出てやる!」
 震える足で数歩後ずさったアスラがクルリと背を向けて走り出した。
 突然のことに、ナナが反射的に叫ぶ。
 それに対して、アスラは我が身かわいさ溢れる言葉を吐き出した。
 しかしアスラが動けたのはほんの数歩だった。
 三人が歩いてきた方向からも同じように夢遊病者のようにおぼつかない足取りで近づいてくる腐敗した人間たちが現れたのだ。
 とうとう腰を抜かしてしまったのか、アスラはその場にへたり込んでしまう。
 ランタンを手にしたまま、硬直してしまい、引き攣った笑い声をこぼしている。
 そんなアスラに対して、迫っていた敵が倒れこんできた。
「ぎゃあああぁ!?」
 森全体に響き渡る絶叫だった。
 ランタンを持っていない方の右肩に噛みついてきたのだ。
 その敵の歯がアスラの着ている服を容易く引きちぎり、肌につきたてられた。抵抗することができないアスラはされるがままに肉を噛み千切られる。さらに貪るようにして傷口を抉るようにしてくるため、激痛に喚くことしかできない。
「痛い、痛い、痛い!?」
 無数の血管が切断され、その傷口からは噴水のように鮮血が噴き出す。
 バタバタと痛みからのた打ち回っているが、体勢が悪いために完全に敵に組み伏せられている。
「アイク、このままじゃアスラが!?」
「分かってるよ!?」
 背中の後ろにいるナナが助けを求める。
 迫っていた数体の敵をドミノ倒しのように地に伏せさせる。
 それらにトドメを刺すことなくアイクは数体の敵に群がられ、今にも肉塊にされようとしているアスラのもとへと走る。
 アスラの着ていた上等の服は見るも無残なものへと変わっており、全身に噛み付かれた痕や肉の抉られた箇所があった。
まだ息があるのが奇跡といえるような状態だ。
 今ならまだ助けられる――そう思いアイクは空気を切り裂くようにトンファーを振るった。
 まずは一体の背中を叩き、そのまま向こう側へと殴り飛ばす。
 二体目の顔を下から顎を蹴り上げ、仰け反ったところを横殴りにトンファーをぶつける。
 残っていた二体はそれぞれトンファーで即頭部を殴って頭の半分まで食い込ませたり、踏みつけて頭を潰したりすることで完全に沈黙させることができた。
「ナナ、手伝って」
 敵の血や髄液を被ってしまっている白衣であるが、止血するのには使えるだろうと、ひどい傷口に適当な大きさに引き裂いて応急処置を施した。
「アイク、向こうに大きな建物が見える!」
 ナナの希望に満ちた声が聞こえる。
 アスラに肩を貸しながら立ち上がったアイクは指差された方向を見て、確かに視界に白い古城を映した。
 まさか、本当にあるなんて……。
 噂でしかないとばかり思っていたために、受ける衝撃は大きかった。
 しかしすぐに周りからにじり寄ってくる敵の存在に意識が向けられる。
 肩を貸すことで何とか立ち上がることができたアスラであるが、負った怪我が重く、手早く行なった応急処置では危険だと思われた。
 このまま戻るにも時間がかかりすぎるのはここまで歩いてきただけで感じた疲労からして明白だった。
 見えている古城までの距離は、目視だけでもそう遠くないと分かる。
 アイクは硬直し、言葉にならない声をもらしているナナに向かって古城の見える方向に走るように告げた。
 ナナは怯えた表情で頷くと、敵に背を向けて走り出した。
 アイクもアスラを背負うと、彼女を追うようにして走り出す。
 走る二人の後をゆっくりとした足取りで追ってくる敵の姿が肩越しに見える。
 彼らの手に捕まらないように古城に向かって一直線に進む。
 時折横を見れば、敵が森の奥の暗闇から溢れるように出てくるのが見えた。
 もはや悲鳴をあげる余裕もない。
 二人はようやく森を抜け、開けた場所へと飛び出した。
 青々とした枝葉のある木々が密林とは打って変わって手入れの行き届いているかのように立ち並んでいる。
 地面は向こうに見える古城の入り口に向かって土色の道が伸びるようにしてあり、それを左右から挟むように草花が花壇のように広がっていた。
 一瞬その景色に目を奪われた二人であるが、アスラの呻き声にハッとする。
 その古城に誰が住んでいるか分からないが、とにかく治療と休ませる必要があるために二人は古城へと向かう。
 自分たちの村の近くにあるとは思えないほどの建築物であり、二人が空を見上げる必要があるほど高々と聳え立っているである。なぜこれまで発見されずに噂だけにとどまっていたのか不思議であった。
 しかしこれだけ大きいものであるなら、それなりに治療に役に立つものが揃っているだろうと思う。一応持ってきているものだけで間に合えばよいのだがと不安を抱きつつ、二人は玄関の前に立ち、アイクがドアを叩く。
 しかし中からはまったく反応がない。
 これだけ大きいためか、もしかすると気付いていないのかもしれない。
 ならば声をかけてみようかと思い、アイクは一度気を失っているアスラをナナへと預ける。
 アスラを預かったナナは不安そうにアイクのことを見つめる。
 アイクは緊張から生唾をゴクリと飲み込む。
 そして意を決してゆっくりとドアを引くと、何の抵抗もなくギギッと鈍い音を立てて開かれた。
 まさかカギもかけられていないとは、これだけの城に住んでいる者としては無用心すぎるのではないかと思う。
 顔を覗かせると、大きな玄関ホールが見渡せた。
 ランプに明かりが灯されており、明るくホールを照らし、塵一つ落ちていない生活観溢れる様子が、今もまだ誰かが生活していると思わせる。
「すいません、誰かおりませんか?」
 アイクの声が玄関ホールに響き渡る。
 しかし聞こえてくるのは反響するアイクの声だけで、それもしばらくすると小さくなり、消えてしまった。
「どうしよう……」
 心配するようにアスラの容態を確認しながら言う。
 もう一度声をあげてみる――が、結果はさきほどと同じく、反応する住人はいなかった。
 留守なのでは――という考えはなかった。
 こんな森の奥にある古城に住む人物など生まれてこの方聞いたこともなければ、ここはつい今日まで噂の中での存在でしかなかった。
 時間ばかりが過ぎるばかりで、アイクたちの存在に気付く住人は未だに現れない。
 アスラの呼吸が荒くなる。
 このままでは手遅れになりかねない。
「勝手だけど、お邪魔しよう」
「アイク!?」
 考え込むように顔を俯かせていたアイクが顔を上げて決断するように言った。
 アイクの性格を知っているナナは、その言葉に一瞬驚きを表すが、なりふりかまっている暇はないので、すぐに頷いた。
 アイクはアスラを引き取り、ナナが先導して白の中へと入る。
 とりあえず、アスラのことを寝かせられるものがある場所がよいということで、寝室やソファーのあるかもしれない応接室などを探した。
 一階辺りには書斎や待合室のような部屋があったが、寝かせられるものはなく、二階で探すことにする。一階においてその他には大人数で食事を摂ることができる長テーブルと椅子の置かれた食堂があり、唯一カギがかかっているためか開けられない部屋もあった
 一階同様二階にもいくつかの部屋があった。
 住人それぞれの部屋だったのか、部屋ごとに装飾や置かれているものが異なっており、一室は主人と婦人の部屋なのか、ベッドが二つ置かれており、城壁と同じ白一色に統一された壁や天井が三人を出迎えた。もう一室は二人の娘の部屋と思われ、女の子らしく明るい色で装飾されており、置かれているものの多くは動物にぬいぐるみが多く、棚や大きな机だけには収まりきっておらず、ベッドに積まれるように置かれていた。隅々まで掃除が行き届いているため埃一つ見当たらず、清潔感が溢れている。詮索するのは後回しにして、とりあえずベッドにあるぬいぐるみが血で汚れるのはマズイので、急いで脇に寄せると、ぐったりとしているアスラのことをベッドに寝かせる。応急処置として傷口を縛るようにしていたアイクの白衣は血で真っ赤に染まっていた。
 ナナは隣にある夫婦の部屋からシーツを引っ張ってきて、医療器具にあるハサミを使って適当な大きさに切った。ナナのサポートを受けながらアイクは必死にこの場であるものを使ってできる治療を施す。
しかしアスラの容態は極めて危険な状態で、頚動脈を噛み切られなかっただけ運が良かった。
とはいえ、出血が多すぎて、これ以上血を流させないように押えているしか施せる治療手段がなかった。
「絶対に死なせはしない!」
 アイクは傷口を押えるシーツを取替えながらアスラに向かって叫び続ける。
「アスラくん、頑張って!」
 ナナも手のひらを血で真っ赤に染めながら、アスラの手を握り締めながら励ます。
 二人の必死な治療と励ましを受けるアスラであるが、その呼吸は徐々に弱くなり、握り締める手の力も抜けていくのが分かった。
「アスラ!」
 勝手に死なないでほしい。
自分たちがこんなところに来ることになったのはそもそもアスラが誘ってきたからだ。
断れない理由もあったが、事の発端は彼の誘いなのだから、生きて謝罪してもらわなければ困る。
だがこんな十分な治療設備の整っていない場所でできることなどたかが知れている。
アスラの呼吸はとうとう耳を近づけなければ聞こえないほどになってしまい、もはやどうしようもない状況であることを否応無しに二人に現実はつきつけてくる。
アイクはそれでも諦めるかと、アスラの着ていた服を剥ぎ取ると、心臓を圧迫して蘇生させるマッサージを始める。呼吸が止まりかけているために、もはやなりふりかまっていられないと人工呼吸も施す。口を覆うようにして息を吹き込むと、血生臭さと鉄の味がした。眉間にしわを寄せるも、それを言葉にはしない。医者になれば、こんなことはあたりまえになるのだから。
十分も経っていないにもかかわらず、必死なアイクは全身から汗を流している。マッサージをしている両腕は悲鳴をあげているかのように痛い。何度も人工呼吸をしているために、口の中は血で真っ赤に染まっていた。
「アイク、このままじゃ!」
「分かってるよ!」
 悲痛なナナの叫びに対して、一喝する。
「ぼくだって分かってるよ!」
 どれだけ必死にやってもアスラが息を噴き返すことはない。
 そしてとうとうアイクの動きも止まってしまう。
 ナナはそれだけですべてを察した。思わず口元を手で覆い、忍び泣く。
 アイクも呆然とした面持ちで、床に座り込む。
 助けられなかった……。
 アスラは確かに権力を鼻にかけたような態度と口調が気に入らない人物だった。
しかし自分が首都の医学校に通えるように資金を出してくれているのは彼の家であり、村長と医者という関係があるために小さい頃から面識があり、友人関係であったから胸には悲しみが広がる。それと同時に無力感も音もなく広がった。
 医者の卵である研究医であろうと、人の死を目にするのは当然のようにある。
だが少しでもそうならないようにするために医者になろうと思ったのではないか。
アイクは沸々と湧き上がる自分に対する怒りをぶつけるように、床にこぶしをたたきこんだ。鈍い音が響くだけで、残ったのはジンジンとしたこぶしの痛みだけだった。
 耳にはナナの忍び泣く声が聞こえる。
 これからどうしようと考えなければいけないのに、ただアスラの死体を見つめながらそこに座っているだけで、一歩も動けなかった。
『悲しき者よ、無力な者よ……』
 突然頭に響く声にハッとする。
「どうしたの?」
 赤く腫れぼったくなった目をしたナナが尋ねる。
「声が……」
「声?」
 辺りを見渡すアイクとナナ。
 しかしさきほどの声の主の姿は見えない。
 もしかして部屋の外にいるのかと思い、アイクは立ち上がってドアノブを捻り、開けた。
『我は汝の傍に立つモノ……』
 アイクの目に映るのは部屋の外の通路と向こう側、そして手すりから下の一階部分だけで、妖しい人物の姿は影も見えなかった。
 しかし聞こえてくる声がある。
 どうやらナナには聞こえていないようであるが、これは一体どういうことなのだ。
「きゃあっ!?」
 突然部屋の中から悲鳴が聞こえた。
 ――まさか、いつの間に!?
 どこから部屋に入ったのかと困惑しながらアイクは振り返る。
「あ、アイク!? こいつが突然現れて……」
 ナナが震える身体を抱きしめるようにしている。
 彼女の視線の先には、さきほどはいなかった異形の存在があった。
 灰色の布のような囚人服と思われる継ぎ接ぎだらけの服を着て、さらに顔を覆うようなマスクを被っている。マスクは着ている服とつながっており、さらに恐ろしいことに服の切れた奥が空洞のように真っ黒に染まっており、奥からは赤い眼光のようなものがこちらをうかがっているようにあった。
 その手には血の滴る肉切り包丁があり、肩辺りを押えているナナの手が赤く染まっているのに気付いた。
「ナナ!? このおおおぉ!」
 喉の奥から声を吐き出しながら、武器であるトンファーを構えてその人型の存在に接近する。
 振り抜かれた風を切るような一閃が叩き込まれる。
 敵はそれを持っていた包丁によって受け止めた。
「そんな!?」
 攻撃を受け止められたことに動揺する。
 さきほどの戦闘では相手が動く屍のような存在であったためにこちらが一方的に攻撃でき、相手は格好の的だった。さきほどの相手と大きなギャップをもっている分だけ衝撃が大きかった。
 敵は受け止めていたトンファーをぞんざいにあしらうと、そのままアイクのことをきりつけてくる。
 動きが鈍ったのが災いしてか、敵の鋭い一撃を交わすことができなかった。
 腕に鋭い痛みが走る。
 切りつけられた箇所からは赤い血が流れ出し、着ていたものを赤く染めていく。
「ぐっ……」
 アイクの口から苦悶の声がこぼれる。
 さらに腕に走った痛みに思わず持っていたトンファーを一つ落としてしまう。
 追撃の構えを取ったために、アイクはすぐさま残っている一つを中腰の状態で構えた。
 そんな時気を散らせるように再び声が聞こえる。
『我は汝を守護するモノ……』
 ――こんな時に……。一体誰がぼくに声をかけているんだ?
 その声に気を向けながらも、正面に立つ敵を注視する。
 しかし敵もこちらに狙いを定めているが、動きを見せることはない。
 まるで何か見えないものに前を遮られているかのようだった。
『汝、力を欲するのならばその思い、発せよ……』
 藁にもすがる思いだった。
 ――そこまで言うのなら……。
 この状況を打破するには、姿の見えない声の主に頼るしかなかった。
 アイクはスゥッと息を吸い込むと、思いの丈を口にした。
「これ以上誰にも傷付いてほしくない!」
 その時だった。
 アイクの声に呼応するかのように部屋に光が満ち溢れた。
 煌めく粒子とともに、アイクと敵の間に割って入るかのように現れた存在があった。
 唖然として宙に浮くようにしている存在を見つめるしかできない。
 医者を模しているのか白衣のような外套を身に纏っている。しかしその下は全身を包帯で覆っており、僅かに開いている隙間からは爛々としている双眸が見えた。
『我は主アイク・ルシュドを守護する霊なり。癒しの力、存分に振るおうぞ』
 温かい光に包まれると、腕にあった痛みが和らぐのを感じた。
「痛くない……」
 肩辺りを抑えていたナナも驚きを隠せずにいる。
 それだけではなく、ベッドに横たわっていたアスラの傷をも癒し、そして止まっていた生命活動を再び促した。
「う、うぅん……」
 むずかるような声をもらし、ゆっくりと目を覚ました。
「ア、アスラくん!」
 身体を起き上がらせたアスラを見て、ナナが喜びの声をあげる。
 一度は死んだはずの友人が目を覚ましたことに、驚きよりも安堵の方が大きかった。
 事体を把握していないアスラは、視線の先にいる人型の存在を見て悲鳴をあげる。
「な、なんなんだよ、そいつは!?」
 さきほどまでの動く屍とは異なる存在に言いようのない恐怖を感じていた。
 さらに双方の間に割って入るようにしている謎の存在を目の当たりにし、まるで酸素を求める魚のように口をパクパクと開けるだけしかできなかった。
 アイクも二人の無事を確認し、内心ホッとする。
 だが状況はそれほど大きく変わっておらず、戦えるのは自分一人だけだった。
 自分を守護してくれる霊的存在――守護霊という目の前にいる存在であるが、それがいったいどのような存在で、どのような力を持つものなのか、なぜかは分からないが一瞬で理解することができた。まるで誰から教わるわけでもなく、もともと火に触れれば熱いと本能で分かっているかのように。
 アイクの誰にも傷付いてほしくないという思いが反映されているのか、その守護霊の固有の能力として“オール・リカバリー”というものがあった。
 直接的な戦闘に特化した存在ではないようであるが、そこが自分らしさがにじみ出ていると思い、よしとした。
 大きな動きを見せたのはやはり人型の存在だった。包丁を片手に振り上げ、中腰の状態であったアイクへと襲いかかる。すぐさま足元にあったトンファーを蹴り上げ両手に構えると振り下ろされたそれを受け止める。
 敵の後方にはナナがいるために、蹴りを放つわけにはいかない。
 わざと後ろに走ることで部屋から出るようにする。
 好機と見たのか敵は力任せに押してくる。
 部屋を出るとすぐに廊下に出て、手すりが見える。
 アイクは部屋を出た瞬間、床に倒れるようにして、足を敵の腹部へとあてがい、そのまま手すりの向こうに向けて蹴り飛ばした。
 倒れる際の勢いもあってか、敵の身体は宙を舞い、手すりを越えて一階へと落ちていった。
 何か硬いものが折れる鈍い音と、くぐもった声がかすかに聞こえてきた。
 立ち上がり、手すりに手をかけて一階の方を見下ろす。
 そこには頭から落ちたためか、まるでスイカが割れたかのように完全に頭は砕けており、脳漿が当たりにぶちまけられているというグロテスクな光景が広がっていた。かすかに身体が痙攣しているが、それもほんの数秒程度のことで、すぐに動かなくなる。
 研究医として動物の解剖程度なら何度も経験していることであり、知識程度ならこの光景を説明することもできたりする。だが実際問題として、このような光景を目の当たりにすることはこれまでになく、実際目にしてみてやはり不快感を簡単に拭い去ることはできそうにない。
 こちらにやって来ようとするナナの気配と足音がしたが、彼女にこの光景を見せるわけには行かないと思い、「来ない方がいい」と釘を刺すように言う。
 ナナは一瞬思い悩むが、アイクが自分を思って言ってくれたのだと納得する。
 部屋にあるベッドに座っていたアスラが立ち上がり、部屋にある大きな鏡の前に立って自分の姿を見る。
「な、何だよこれ!? この服結構高かったんだぜ、それが血まみれ、傷だらけかよ」
 鏡に映るアスラの姿は森に入る前に比べてあまりにひどいものだった。きれいな箇所を見つけることの方が難しいほど上下ともズタズタに引き裂かれており、傷は癒えているが出血によってすっかり赤黒く色が変わってしまっている。おまけに鉄臭く、来ているだけで不快感を覚えるほどだった。しかしこの場所に着替えとして使えそうな服はない。
 だがちょうどよく隣の寝室がこの古城の夫婦のものだったはずなので、そこに主人のもので着られそうなものがあるかもしれない。
 そのことをアスラに伝えると、さっそく行こうと足早に移動する。
 隣の部屋に移動すると、クローゼットの中をあさって着られそうな服を探す。
 アイク、ナナもアスラの治療や蘇生時に浴びた血で着ていたものが赤黒く変色してしまい、同じく鉄臭くなっていたので着替えることにした。
「あたしは、さっきの部屋にある服を着るね」
 そう言って一度ナナはさきほどの部屋に戻る。
 今夫婦の寝室にいるのはアイクとアスラの二人だ。
 適当に選んだ主人の服を拝借する。
 少々体格的に二人の方が小さかったため、調節する必要があった。
「あまり俺の好みじゃないけど、我慢するしかないかな」
 渋々というように、自分のことを無理やり納得させている。
 田舎村ではあまり見られない、首都などの都会でよく見られる服装が多くあった。
 あまり派手なものは好まないため、アイクはできるだけ地味なものを選ぶようにした。アスラは正反対にできるだけ派手なものを選んでいた。
 ふたりが着替え終わると同時に隣からナナが戻ってきた。動きやすさを重視にした服装にしているようだ。
「ねえ、これからどうする?」
「逃げようにも、途中でまたあの動く屍に遭遇する可能性が高いね」
 ナナが不安そうに尋ねてきた。
 アイクは眉間にしわを寄せながら考える。
 このまま戻ろうとしても、さきほどの敵と再び遭遇してしまうだろう。村長の息子であるアスラと医学校に通う自分が同時に姿を消したとなれば捜索が行なわれるだろうと考える。家を出る際に、両親には森の方に向かうと伝えてあるので、捜索は森を中心に行われるだろう。
問題は立ち入り禁止の先にまで来てくれるかだ。
 これまで誰一人として帰って来ていないという噂があるために、捜索も顔を見合わせることになるかもしれない。
 この古城にどれだけの食料と水が蓄えられているかも生き残るためのカギとなりえる。せいぜい一週間分残っていればと思う。一週間篭城して助けを待ち、最悪こちらから敵との遭遇を覚悟して脱出を図るしかないと考えた。
 そのことを二人に伝えると、ナナは不安そうな表情をしながらも頷き、アスラも逡巡したが同意することを口にした。
 さきほどの戦闘のこともあるので、立て篭もる場所も考えなければなるまい。
「とにかく今は水と食料の確認をしなくちゃ」
「そう、だな。ならまずは一階か」
 ここで一階のホールには、さきほどの敵の遺体が無残な状態で放置されているのを思い出した。それをナナに見せるわけにもいかないため、彼女には目隠しをしてもらうことにした。
「え、大丈夫なの?」
 置いていかれたりしないかと、不安の色を濃くする。
 ちゃんと連れて行くからとそっと手をつなぐと、目線を下げて恥ずかしそうにする。
 それ以上何も言ってこないことを了承と捉え、アイクは手ごろな布を使って彼女の目を隠した。
 彼女の手を握り、アイクとアスラは部屋を出て一階へと向かう。
 ホールへと降りるために、長い階段を降りる。
 ナナが足を踏み外さないように、なるべくゆっくりと歩くようにする。
 一階のホールに降り、辺りを見渡すとやはり遺体はそのままの状態であり、さきほどの戦いが夢ではなく現実であったことを突きつけてくる。
 玄関から入ってすぐのところに大きな鏡がある。その大きさは大の大人の姿を映し出せるくらいである。
三人はちょうどその前を通る。
するとアスラが足を止め、その鏡を見つめる。
「アスラ、どうかしたの?」
 立ち止まったアスラに声をかける。
 鏡に映っているのはアスラ――と鏡に映る彼を後ろから抱きしめている少女だった。
 アスラはその少女に見入っているのか、アイクの声に反応を示さない。
「アイク、何があったの?」
 目隠しをしているためにナナには何が起きているのかを把握できていない。
 アイクもその光景の衝撃が大きかったためか、ただ鏡に映る二人を見つめることしかできない。
 するとアスラが鏡に向かって手を伸ばした。
 同じようにして、鏡に映る彼女もこちらに向かって手を伸ばした。
「ちょっと、アスラ!」
 ハッとして、それはまずいと直感し、慌ててアスラへと手を伸ばした。
 しかし次の瞬間、アイクの手がアスラに触れるよりも先に、アスラの手を掴んだ彼女が一気に引っ張ると、彼は勢いよく鏡の中に呑み込まれてしまった。
 アスラの身体に触れることすらできず、アイクの手が虚空を掴む。
 目の前で友人が鏡に飲み込まれるのを見てしまい、言いようのない恐怖が背中を走る。
 状況を把握しようとし、ナナが目隠しを外す。
 そこでアスラの姿が見当たらず、アイクが呆然とした様子で立ち尽くしているのに気付く。
「アイク?」
 怯えながら隣に歩み寄り、尋ねる。
「その……アスラ、は?」 
 ナナの問い掛けに、アイクは腕を挙げ、鏡を指差す。
 ナナは腕の動きを追うようにして、鏡に視線を向け――瞠目する。
「あ、あああ、あああぁ……」
 まともに言葉を発することができない。
 鏡には、アスラのことを奥へと誘う少女の姿が小さくなっていくのが見えた。
 慌てて追いかけようとし、鏡へ触れる――だが、一瞬にして鏡に亀裂が走り、砕け散った。乾いた音を響かせながら無数の破片が二人へと飛び散る。思わず顔を守るようにする。
しかしいつまで経っても、飛び散った破片が身体に当たることはなく、水を打ったように静まり返っているのに気付いた。
 恐る恐る顔を上げる。
 目の前には鏡が砕けたために枠だけが残っているが、辺りには一枚も砕けたはずの鏡の破片が見当たらなかった。
 ただ不気味なまでの静けさがふたりのことを包み込んでいた。



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