田中芳樹作・銀河英雄伝説
前南北朝史伝 常勝と不屈と
−偽書銀英伝−
作者:出之
3話 罪科と福音と
「つまり総括すると卿は、叛徒どもにメダルを配りに、遥かここ帝都を発し賊地に乗り込み、皇帝陛下御貸与の貴重な生命、財産を蕩尽した挙句、自身はのめのめ落ち延びここで恥を晒して平然と居る。これで偽りないか」
銀河帝国帝都、主星、オーディン。
帝国軍統帥本部本館。
ラインハルトに反論はいくらでもある。
地勢情報の不利、侵攻軍としての様々な制約、将官二人は引き止める手を振り払って、自ら断崖に身を躍らせた。捕虜の二人も志願あってのことだ。
しかし。
空しい、総ては空し過ぎる。
百万言を費やしたとて、自身の惨敗、その恥辱は拭えるものではない。
何より自分が、それを一番よく知っている。
「相違ございません」
静かに答え、ただ頭を垂れた。
これは、と罪状を読み上げる独裁官を演じる、統帥本部総長、シュタインホフ元帥は少し目を開く。あの金髪の儒子が随分と人がましい真似をしている。
「再度、問う。相違ないか」
もちろん、何らかの造反を期待しての念押し。
「ございません。陛下の御心のままに」
ライハルトは再び、静かに即答する。
元帥は一つ、空咳。
「では申し渡す、ラインハルト・フォン・ローエングラム。上級大将より一階級降格、並びに現在の総ての職を解く。別命あるまで本星内にて謹慎、待機せよ、以上だ。不服はあるか」
ラインハルトはぴくりと肩を震わせたが口にはせず。
「陛下の温情に篤く御礼する次第」
深く礼を正す。
部屋を辞すと、外には赤毛の友人がそわそわと待ち侘びていた。
靴を鳴らして駆け寄ってくる。
「ラインハルト、さま!」
血の気の薄い顔で見下ろして来た。
「け、結果は……!」
ラインハルトは無表情に親指を立て。
自らの首を掻き切る。
「すまん、ジーク……今まで有難う。感謝が尽きない」
キルヒアイスはその場にへなりと四足で崩れる。
「じゅ、銃殺……そんな……」
限界だった。
ラインハルトは爆笑。
頭上の笑顔をキルヒアイスは恐ろしげに見上げる。き、狂を発したか我が友よ。
「ははは、ああ俺は正気だ、そんな顔で見るな、大佐殿」
なにごとかと足を止める幾人か。
その中にあって靴音は、メトロノームを思わせる正確さで規則正しく近付き。
”アナタガフサワシイ”
ラインハルトは無論、追いかけなかった。
振り向くことさえ自制した。
背中にその者の、強い視線を感じていた。
今の俺を見て言う、貴様は誰だ。
その囁きにしかし、天使の息吹を感じ取っていた。
ドミニオンかルシファーかは、判らねど。
300kmで巡航。
宇宙機には及ばないがラインハルトはこの地上車の運転も好きだ。
「いくら何でも悪趣味だ!俺は本気で心配してたんだぞ!」
顔を染めての大声。さすがの赤毛の友人も今回はなかなか納まりそうにない。
「それは大変有難う」
ラインハルトは涼やかに受け流す。が。
「俺が、こんな処で終わると思うか」
少し気を入れて、尋ねる。
「……それは。」
言葉に詰まる友人に。
「じゃあ取り越し苦労というやつだ。老けるぞ」
軽やかに笑う。
「あ、引っ掛けやがった!」
ドライバーはラインハルトだ。宇宙機なら手足に操るキルヒアイスだが、車の運転は出来ない。正確にはこの優秀な副官にして、免許を取る時間がどうしても捻り出せない。
それ程に激務であるらしい。
キルヒアイスは助手席から手を伸ばし。
ドライバーにデコピンを見舞う。
車は大きく蛇行。オートドライヴで車線に復旧。
ラインハルトは路肩に急停車させ、助手席を見た。
「な、何をする!死ぬ気か!」
キルヒアイスは不敵に笑い返す。
「命ならいつでも張ってる。試されるのは愉快じゃない」
真っ直ぐな言葉にはっとした。
ラインハルトは顔を赤らめる。
「すまなかった、ジーク」
素直に詫びる。
キルヒアイスは無言で頷く。
再び移動を始め、二人はしばらく静かだったが。
堪えきれず、同時に爆笑した。
「で、どこに向かってるんだ。アンネローゼ様はこっちじゃ」
「教会」
ラインハルトは一転、暗い声で応える。
キルヒアイスはまずい、顔をした。そうだ、今回はまだだった。なお悪いことには時間が空いているうちにと、自分独りで済ませてしまっていた。
着いた。
それは、旧ミューゼル領に立つ、ちいさな教会。
今は一人の神父が維持していて、二人は密かに寄付している。
そこは聖域だった。
かつては主神に祈った。姉君を還して下さいと。
今は自らに誓う。
死んでいった者たち。
隣でキルヒアイスが静かに吟じるその一人一人に、ラインハルトもまた瞑目する。
その死、決して無駄にはしない。
闘志を胸の奥深く、着実と刻み付けていく。
ラインハルトの姉、アンネローゼはいつに変りなく二人を温かく出迎えた。
「お帰りなさい、ラインハルト、ジーク。」
二人はしかし、しばし無言だった。
「?どうしたの」
いぶかしむ彼女に二人は同時に頭を下げる。
ラインハルトが口を開いた。
「姉上!、此度の戦、叛徒の地、アスターテにて不肖、ラインハルト・フォン・ローエングラム並びにジークフリード・キルヒアイス両名、勇戦適わず、叛徒に大きく敗れ、おめおめ戻って参りました!。陛下より預かりし戦船、臣民を損ねることまた大きく……」
やはり途中で詰まってしまった。
敗戦報告などなにしろ初体験なので、何をどうすればいいのか判らない。
”仕事”の方は、向こうが勝手に調べて並べるのでそれに頷いていればいいのだが。
「?そう、負けたのね。珍しいこと」
でも、どうして。
姉のそぼくな言葉に、それは……。
事の次第を手短に説明しかけ。
ラインハルトは衝撃に立ち竦む。
そうか。そうだったのか。
独り、敗戦の分析をしていたときには、思い付かなかった視座を、姉の一言で、得た。
後背に出現した敵戦力が囮であることは百も承知だった。
なればこそ相手にせず、運動戦に突入した。予想通り、別の戦力が狙っていた。
だがまさか敵が、三方での包囲を自ら棄却し、我が内線機動に即応し二方包囲を組み直してくる、とまでは読み切れなかった。だってそうだろう、それならなぜわざわざ自軍を”三分”するのだ。
叛徒どもへの侮りが無かったかと問われれば、正直、認めるしかない。あの、あたかも戦勝を既定の未来であるかに錯誤していた旗下の空気をこそ戒めるべきだった。詮無きことだが。
そしてなお、アスターテの本質は別にあった。
それが今、判った。たぶんそうだ。
ラインハルトはアンネローゼの手を取り、口付けする。
「きゃ」
「姉上!有難うございます。今の一言、千金でも及びません、盲が開けました……。」
久しぶりに姉の手料理を満喫した。
再び高速巡航。官舎への帰途。
二人だけの空間でラインハルトは独語する。
「ジーク」
「ん、なんだ」
「俺は玉座を狙わない」
キルヒアイスはきょとんと隣を見る。諦めたのかまさか。いや。
「地にあるを拾う。これを簒奪とは誰も呼ぶまい?なあジーク」
なにやらさらに雄大な構想を構築中であるらしい。
「時を与えられたのだ。なれば存分に使う」
「つまり、結論から申しますと、実際に迎撃作戦に必要だった兵力は2700。間違いはありませんか。」
自由惑星同盟首都、主星、「ハイネセン」
自由惑星同盟民主評議会、議場。
公聴会が開催され、今回の戦いについての総括が進んでいる。
「それは、事実とはやや異なります。」
発言を許可されたシトレ元帥は擁護を試みる。
「迎撃作戦を発動した時点で、彼我の関係は不期遭遇戦の状況にありました。敵は総戦力2000を常に集中運用可能でありましたが他方、我が3軍は4000÷3。幼年兵でも判る不利な戦局にあったのです。一見、防御に見えますが邀撃である以上は攻撃、攻者三倍の原則からも必要戦力は敵の3倍の6000、それも最低限の……」
そこまでだった。
「議長!元帥は議題に無関係な軍事用語で当会を侮辱しています!」
議員の抗議に。
「議長!これは戦力積算にあたっての重要な、問題認識の手法です」
シトレもすかさず反論するも。
「異議を認めます、反論を却下します。シトレ君は一般的な、判りやすい簡潔な説明を行うように」
タームを封じられたらその定義から説き起こす必要がある。戦例を引きつつ解説すれば、この議場はそのまま士官学校の講堂になってしまう」
「実際に必要であった戦力は6000、機動予備を含めれば8000ないし10000!これが事実です。」
発言を求める挙手。
「財務庁長官」
首を振りながら相手は起立する。はなしになりませんな。
「シトレ君は事実を尊重し現実が間違っているという。なるほど、トリューニヒト国防大臣が防御なら1/3でよいと看破された訳です。放っておけば軍事予算は際限なく膨れ上がる。それでは苦労であろうと予算限度、上限の4000を与えても実際に使われたのは僅か3000足らず。残りの1000は余剰、はっきり申してムダ、であったのが”現実”です。これは正に血税の浪費、国民への重大な背任ですぞ!。まあ、今回はそれでも勝ちました様ですので深くは問いますまい。しかし!今後を考えて私はこの場でご提案申し上げたい。敵迎撃に掛ける予算上限は敵の1.5倍。今回の例に即せば3000になりますか。これで十分と思いますが如何か議員諸君!賛成の方は挙手を。」
次々に高々と突き上げられる掌の群れ。
賛成多数。今の動議を可決します。
議長が告げる。
これはいったいなんなんだ。
証人控え席に曳き据えられ過ごすパエッタの顔は、朱に染められている。
いつもは空席が目立つ評議会議場は満席、民間人の立ち見も外周に溢れている。
我々は、勝利をもたらしたのだぞ、あの過酷な戦場で!。
立ち上がり、力の限り叫びたい衝動が全身を巡る。
文字通り末席に座する”ブリ”をふと見るとあおむけに我関せず、堂々と”いびき”をかいていた。
「では引き続きまして、今作戦に於ける遵法性での審査に移ります。委員代表現地審査官であるエドワーズ君、証人席へ。」
例の白痴、訂正、軍事的知識と才覚とは無縁そうな天然美人が証人台に立った。
「貴方は今作戦で実質的指揮官であった、パエッタ中将の身辺にありその職務について国民代表の責任を以って視察した。間違いありませんね」
議長の言葉に頷き。
「認めます」
ジェシカはよく通る澄んだ声で応える。
「それでは証人に訊きます。パエッタ中将の職務内容は決議を逸脱せず、確かに遵法的なものだったでしょうか。」
議場の視線がパエッタに突き刺さる。
パエッタはジェシカの背中を貫通させんと、視線に力を込める。
緊迫した場内の空気は、証人の明るい声で天地無用とひっくり返された。
「ミスタ、パエッタは当時、国民の為、議会の為、心から精勤されていました。私にはそれがよく判りました。」
ジェシカは朗らかに断言する。
「だから、帝国軍に勝てたのでしょう。他に何か」
パエッタはジェシカの横顔、天使の微笑みをしげしげと眺めた。
なんだ、イイ女じゃないか。
「エドワーズ委員、貴重な証言を有難う。」
渦巻く野次と喧騒に静粛を求めながら、議長は証人を素早く退席させる。
「続いて作戦立案の責任者、ヤン・ウェンリー大佐。証人席へ。」
どこかで聞いた名前だ。
ぴたりと跳ね起きた”ブリ”が、半端に整った黒髪を一つ掻きあげると証人席に向け歩き出す。
ヤン・ウェンリー……そうだお前は。
パエッタの頭脳で過去と現在の断片が繋がる。
「エル・ファシル」の……厄病神。
そうかお前が。なるほど記憶野が仕事を拒否する道理ではあった。
同盟辺境、エル・ファシルの戦い。
現地指揮官が指揮権を投げ出し、敵前逃亡した。
それはまあ、拭えない同盟軍史の汚点ではあるが仕方ない。永き人類の戦例に照らし、珍しいことでもない。
問題はその後だ。
軍が見捨てたエル・ファシルの住民。
一部は徹底抗戦を呼号したが大部分が疎開、脱出を希望した。
それを、事もあろうに請われるまま実施してしまったのが当時、一介の中尉だったこの男だ。
何と余計なことをしてくれたものか。当時の政権と軍は揃って頭を抱えた。
人民の軍隊。ああ全くその通りだが、だが!。脱出など、全く不要だったのだ。
当時も今も、帝国軍には同盟領侵攻の意志は、存在していない。
なればこそイゼルローン回廊を要塞で閉塞しているのだ。
ここまで叛徒、同盟が勢力伸張してしまった現実を前に、ホンネとタテマエはちゃんとある。
イゼルローンから先に兵站を延ばすことを帝国は欲しない。今回の一時を見てもそうだ。
負け続けているが攻めているのは同盟、回廊に阻止線を張っているのが帝国。
エル・ファシルでもそうだ。占拠といって、せいぜい帝国軍旗を地に立て記念撮影して終わり、だ。
帝国軍がちょろりと回廊から顔を出しただけで、周辺住民が疎開を言い立てたらどうなるのか。
そして疎開させたものは、何れまた帰星させねばならない。
膨大な官費、血税を投じて、だ。
エル・ファシルが”無かった”扱いは至極、当然の帰結だった。
誰も幸せになれないからだ。
そして事実、関係者は全員不幸に見舞われた。
この大佐もその一人だろう。
いや、元凶そのものだ、とパエッタは思い直す。
そしてヤンは席に着くなり許可も待たずにいきなり始めた。
「状況は戦術局面、作戦の最終段階にありました。軍事に暗い、前例主義の作戦指導により当時、作戦参加兵力の総て、全将兵が残らず確定的な死と直面していた。よいですか、戦術局面です。戦場は常に法の外にある。アスターテでもそうだった」
ヤンは言葉を切る。
議場は完全に鎮まっている。
「手を打たねば皆、死んでいた。私を含め全員、生き残りに必死だった。無い知恵絞って自軍を勝利に導いた。我々に過誤があったなら唯一、それでも帝国軍の一部突破を許したことでしょう。弾劾の目的はそれですか。でしたら謝罪します、大変申し訳なかったと」
議員の一人が恐るおそる手を掲げる。
が、ヤンが一瞥を飛ばすとぱたりと降ろした。
続けた。輪を掛けてとんでもない言葉を。
「私は軍も軍隊も軍人も嫌いだ。私は歴史が学びたかった、ただそれだけだ。何時でも職を辞する覚悟でいます、議長!あなたこそが民主主義を体現した作戦を立案すればいい。そして国防大臣!あなたが指揮官先頭で軍の指揮をお取りなさい!不足があるとすれば是非!我々に範を示して欲しい、ああ可能であれば我が軍に限らず、帝国軍の作戦行動も規制して頂きたい。そうすれば皆、安心して除隊できますから。」
一拍間を置き。
議場は、爆発した。
怒号から会議資料のハードコピーまで、あらゆるものが宙に舞う。
そしてヤンは平然と席を立つ。
もちろん会議の模様は生で、同盟はおろか全人類に向け堂々と中継されていた。
<<♪ しばらくおまちください ♪>>
”提督!こっちですこっち”
素早い挙動の少年が、それこそ艦列を中央突破するが如く人波を縦断し、巧みに先導する。
ユリアン・ミンツ。戦災孤児で、政府による生活支援事業、その措置結果の一例が、今ヤンと同居している彼という存在だった。
提督は止めてくれとヤンは何度も”命じて”いるのだがこの抗命はなかなかに改善されない。
1つ、人を役職で呼ぶのは人格の否定。
1つ、悪目立ちする。
1つ、何より私が不愉快。
1つ、事実に反する……。
「だって」
と少年は頬をふくらませ抗議する。
「ヤン大佐はえ……事故さえなければ戦功から、もうとっくに艦隊指揮官に!」
ヤンは少年の、聡明と熱情を宿す瞳を直視して言葉を紡ぐ。
「自身の理想と現実を、自ら意識して取り間違えてはいけないよ、ユリアン。遊びのつもりでも、命を落とすこともある。それは民主主義にとっても極めて危険な行為なんだ」
命題を一般化してヤンはそう、いつも優しく警句を与える。
この件に限り効き目は弱いが。
なんとか二人、”やり逃げ”の喧騒から離脱し一息付いていると、隣に居る別の一組に気付いた。
男女二人。目が合う。
「ヤン!今回はハデにブチまけたな」
同世代の、同じく軍服の男が破顔一笑。
自由惑星同盟宇宙軍、ジャン・ロベール・ラップ、階級は少佐。同期で、ヤンより”ちょっとだけ”イイ男。その隣に居るのは。
彼女はヤンの両手を取り、静かに涙を零す。
「有難う、ありがとうヤン!。あなたのお陰でジャンが、私のジャンが無事に還って来ました……」
感謝の言葉を漏らすのはラップの婚約者にして反戦運動団体、「法令遵守推進委員会」委員長、ジェシカ・エドワーズその人だ。
「いやジェシカ、それは違う」
ヤンは冷静に誤解を糺す。
「我が軍はアスターテでも少なくない犠牲を払った。殲滅の最後の瞬間まで、帝国軍は勇戦を続けた。突破阻止の正面に居た部隊は酷い有様だ、戦力半減状態まで磨り潰された。敵将の捕縛もそうだ、1mの前進に、ダース単位で兵が犠牲になったんだ」
ラップも暗い顔で俯く。
「第六艦隊は勝報に弛緩しきっていた。司令官は旗艦を高速戦艦に移し、他に巡航艦だけ引き連れ後を幕僚に任せると敗残狩りに突撃。それが僅か400足らずの相手に伏撃、逆襲を受け潰滅。救援に駆けつけた後続の自分たちも手酷い反撃を受けた。ムーア中将は一握りのスタッフと共にMIA。遺体どころか臨時旗艦の残骸すら発見出来なかった……。せっかく予備として、無傷で残っていたのになんてざまだ。」
ヤンはひとしきり頷き、向き直る。
「だから、礼はいいんだ、ジェシカ。あそこでは全員が、それぞれの才覚で生き延びた。君を含めて」
ジェシカも黙って頷いた。
その、4人の談笑の場に、近づく人影があった。
ヤンの両手を力いっぱい握り締め、大きく振り回す。
「有難う!私は……君を誤解していた、ヤン大佐!私を許して欲しい!」
許すも何も。
「ぱ、パエッタ中将?」
「ミスタ、パエッタ?」
「中将閣下?!」
「上官ですか、提督?」
ありがとう、よくぞ言ってくれた、ありがとう、心からありがとう。
破れんばかりに、パエッタ中将、男泣き。
「ああびっくりしました。けど、いい人みたいですね、中将閣下」
ユリアンの感想に。
「んん、まあ、そう」
ヤンは難しいコメントを迫られる。
二人、官舎であるヤンの自宅に、帰還。
「ただいま」
発した声に。
「お帰りなさい」
「よ、お邪魔してる」
中に居た若い男女二人が交互に応える。
3Dチェスの試合の最中であるらしい。
ヤンと男二人は素早くアイ・コンタクトするとそのまま奥の、ヤンの自室に引っ込む。
男は何やら防諜措置的な動きをし、次いでバッグからぶ厚い紙束を取り出し、突き付けた。
「算出根拠だ。見るか」
ヤンは汚物でも見たかに、露骨に顔を背けた。
「いえ、結果だけ御願いします、キャゼルヌ先輩」
自由惑星同盟宇宙軍、アレックス・キャゼルヌ、階級は少将。計数にめっぽう強く、前線ではなく主に後方勤務に専従している。士官学校席次での先任であり、今では年の離れた親友、でもある。ヤンの幕僚であり悪友で、よき相談相手だった。
「じゃあ結論だ。驚くなよ、5%〜20%。」
「それは…・・・」
ヤンの顔は硬い。
「その通りだ。因みに私なら乗るね、これは。1%でも十分だからな」
「そうですか……」
ヤンは嘆息し、礼を述べる。
「今回も。有難うございました、先輩」
「うん。おれも面白かった」
やっぱり病気だこの人。
二人、悪だくみが終わって居間に戻ると。
「ん、げげ」
キャゼルヌは盤面を見て絶句。しばらく唸るが。
「参った!また負けた……。」
彼女に投了したらしい。
キッチンから気配。二人して夕食の準備に掛ったらしい。
彼女は家事全般万能選手だ。料理も、アドリブは苦手だがレシピさえあれば”論文の追試”より精確に作り出す。料理自慢のキャゼルヌ夫人が驚いていたのだから相当な腕だ。
「食べてきます、先輩」
ヤンの誘いに。
「いや、用が済んだから帰る。ミズ、グリーンヒル。また相手して下さい」
ぱたぱたと彼女がやってくる。
「すみません、お構いできませんで」
「いえいえ十分お相手もらいました。じゃ、また」
キャゼルヌが出ていく。
ヤンと彼女はしばらく見つめ合う。
「お疲れ様です」
「ただいま戻りました」
3人で夕食が済むと。
「さてと。」
ユリアンは立ち上がり。
「ちょっとヴァーチャしてくる」
宣言して自室に消えた。
仮想空間に入って遊んで来るらしい。
接続中は、生身の感覚は遮蔽される。
「聡明で、優しい子だ」
ヤンは改めてそれを口に出してみる。
「本当に」
彼女も深く同意する。
「さて、じゃあ悪い大人は子供の好意に甘えるとしようか。」
目を逸らし誘うヤン。
見つめながら頬染め、頷く彼女。
フレデリカ・グリーンヒル。
当時の、”江号”の”中尉”は面識があるそうだが、ヤンに覚えは無かった。
或る日、父を拝み倒して獲得したアドレスに彼女はメールを出した。
ヤンも、見知らぬ相手ながら余りの真摯さに、真面目に応えた。
そのまま随分、メル友を続けたのが、先日、いきなり押し掛けてきたのでヤンが驚いたのなんの。
自分には将来が無い。このまま佐官止まりで一生を終えるだろうことは、これまでも何度も説明した。
ヤンは受け容れた。
籍など入れなくていい。そんなことは二人には些細だった。
”あなたは私には、私の、「英雄」なの、ヤン。あの時も、今も変わらず”。
現物を見ても幻滅しなかったようだった。
彼女の姓も特に障害にはならなかった。
同盟軍宇宙艦隊総参謀長、ドワイト・グリーンヒル大将。
その長女、一人娘が彼女だ。
今さら、上級職の一人や二人、恨みを買おうと痒くもない。
もちろん彼女も軍人で、毎日ここから父が勤務する庁舎に出勤しているのだからなかなかだ。
”江号”に関わって得た唯一の報酬、否、まだ短い人生に照らしても無二の至宝。
世界が自分を見捨てても、君は僕と居てくれる。
有難う、フレデリカ。
その夜、二人は存分に愛した。
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