アキトはもがいた。

 もがくことしかできなかった。
 言葉にならない叫び声をあげながら、自由の利かない身体でもがいた。
 目の前で一人の少女が首根っこだけでなく手足を男数人の手で押さえつけられ暴れている。
 少女の静止の声も懇願も、男達を止めるには至らない。
 暴れる少女の悲鳴は、彼女を押さえつける男たちの嗜虐趣味を刺激したか。
 静かに見守る学者然とした白衣を着る男達には、目の前にある未知への探求的興味しかそそられないのかもしれない。
 それは少女の背中からのびる一対の羽根。
 蝶を思わせるその羽根は青から緑へのグラデーションを描き、神々しささえ感じられるような透明感を持っていた。
 素手で触れてはいけない、それを穢してはならない、そんな思いを抱かせるほどに美しい。
 だからこそ男達の興味をそそったのかもしれない。
 少女が押さえつけられ、抵抗することに疲労感が見え始めるころ、白衣の男の一人がメスを手にした。
 そのことに少女は気付いたのだろう。恐怖からガクガクと全身を震わせる。
 アキトは叫ぶ。しかし伸ばす手は少女の元まで届きそうにも無い。
 メスを持った男は少女に何ら興味を示すことなく、その一対の羽根を少女の身体から切り裂いた。
 麻酔も無しに。
 部屋に少女の絶叫が響く。
 羽根だけ丁寧に取り扱われ、その少女は寝台に捨て置かれた。
 アキトはその思うように動かない身体を引き摺りながら、必死の思いで少女のそばに近寄り、寝台の上に手をかけると自分の身体を渾身の力で引き上げた。
「ラピスっ!」
 寝台の上の少女は羽根を割かれた以外、何も外傷は無いし、出血もない。暴行も受けていない。
 それでも大量の涙が彼女の絶望を物語っている。
 アキトはラピスを抱きしめた。それが何の救いにもならないことは自分自身にもわかっている。しかし、それ以外に目の前の少女の慰め方をアキトは思いつくことができなかった。抱きしめるラピスの小さな身体は、それが手にはっきり伝わってくるほど震えていた。押し殺すような泣き声がかえって痛々しさを倍増させる。
「……悔しい」
 嗚咽の中でラピスがぼそっと呟いた。
 それがまるで自分のことのように感じられたアキトは、自分の腕の中で震える少女の頭をかき抱いた。


 殺してやる。絶対に、殺してやる。皆殺しにしてやる!
 アキトはそれまで抱いてきた憎悪を遙かに凌ぎ、初めて木連人に殺意を抱いた。
 自分にされたこと、ユリカにしたこと、そして今目の前でラピスにしたこと。火星を生き延びた人々全てにした事を思い浮かべ、アキトの心はただ殺意に彩られていった。


 ネルガルの手によってアキトたちが救出される少し前の出来事だった。




fairies fall



Written by f(x)





 遺跡から救出したユリカをルリらナデシコCに集った人達に預けて、アキトはユーチャリスでその場を立ち去った。
「終わったね」
 ユーチャリスのオペレーターシートでラピスがアキトに向かって呟く。
「終わってないさ」
「……アキト?」
「木星人を皆殺しにするまでは終わらない」
 バイザー越しであってもアキトの殺意は遮られることは無かった。
 そんなアキトを見てラピスは首を横に振った。
「もう終わりだよ、アキト。なにより、私が限界」
「ラピス?」
 そんな言葉に思わずアキトはラピスを見やる。
「この身体、今までよく持ってくれた。あの人を助けるのに間に合って良かった」
 そうラピスは寂しげにほんの僅かに微笑む。
「やっぱあの時……」
 アキトの脳裏に寝台の上で、その羽根を切り裂かれるラピスの姿が浮かぶ。
「うん。あの時、死ななかったのが不思議なくらい」
 ラピスは隣に立つアキトの手を取った。
「きっと神様がこうしろって。でも、もうそろそろ終わりみたい。なんでかな、わかっちゃうの」
 その神様とやらにアキトは叫びたかった。
 だったらなんでこの子はこの世に生を受けたんだよ、と。
 人間の手によって人為的に生み出された命に宿った奇跡。それは確かに神がかり的な奇跡だったかもしれないが、こんな仕打ちを受けるくらいなら、むしろ生まれてこないほうが幸せだったのではないか。
 アキトにはそう思えてならない。
 アキトの手に触れたラピスの手は次第にアキトの腕に絡めていた。
「私、最期は皆の笑顔に囲まれて死にたい」
 アキトの腕に絡ませたラピスの両腕。やがてその腕に自らの頭も寄せていく。そしてそこから伝わってくる震え。
 本当は死にたくなんか無いくせに、無理しやがって……。
 でもそれがきっと本当に彼女の最後の願いなのだろうとわかった。
 無理をさせていたのはアキト自身なのだという事もわかっていた。
 だからアキトはユーチャリスを、ネルガルのドックに向けて進路を取った。




「ねぇ、ラピスのこと、助けられないの?」
 エリナはイネスからコーヒーの入った紙コップを受け取りながら、イネスにそう尋ねた。
「……ごめんなさい。無理よ」
 ハッキリと断られたことがエリナは気に入らない。
 助けようとする素振りすらイネスが見せないことが、エリナの苛立ちに拍車をかける。
「だったら延命措置くらい」
「それも無理なの」
「だから、何でよ!せめて診てあげるくらい」
「私があの子に対して何もしなかったとでも思っているの?!」
 エリナの声を遮るようにしてイネスが怒鳴る。
 悔しげな表情を浮かべる。涙を浮かべる寸前まで感情を昂ぶらせてしまった。
 その表情があまりに思い詰めすぎていて、エリナは言葉を返せなくなってしまった。
「これを見て」
 と言ってイネスが表示させたのは1つのウインドウ。
 それをじっと見て何であるかをエリナが気付くまで幾ばくかの時間を要した。
「これって、DNA構造よね?」
「そう。ラピスから採取した、あの子のDNA構造の一部」
 そう言われてエリナはもう一度、しげしげとそのウインドウを見る。
「それがどうし……ちょっとまって、この空白部分は何?」
 ラピスのDNA情報には、普通であればあり得ない欠損が含まれていた。一部の塩基情報が表示されていないのである。
「DNAっていうのは4つの塩基で構成されているわ」
「いくら私が化学に疎いからって、さすがにそのくらいはわかるわよ」
「ところが、あの子にはその4種類の塩基のどれにも含まれない塩基情報があるの」
「それじゃあ、この空白って」
「そこは空白なんじゃ無くて、未知の塩基なのよ」
「そんなことってありえるの?」
 ウインドウからイネスの方へと視線を移動させながら言う。
「あり得ないわ。発表したら今頃学会はパニックになるか、それとも最初から相手にされないかのどちらか」
 エリナはそのイネスの言葉に眉を顰める。
「じゃあ、このラピスのDNAはどういうことなの?」
「今、私に言えるのは、あの子のDNAは地球上に存在するどの生命体にも当てはまらないということだけ」
 生物として根本から違う存在であることを示していた。
「あの子のこと調べれば調べるほどわからなくなる。何が悪いのかすらわからないから、治療も延命も手が出せない。どうしていいかわからない……本当にどうしたらいいかわからないのよ」
 イネスが声を詰まらせたことで、エリナもまた何を言えるのかわからなくなってしまった。
 それはエリナが見た中で、見覚えがないほど弱々しいイネスの姿だった。




 アキトは帰港してからずっとラピスと共にいた。
 おはようの挨拶から、おやすみの挨拶までずっと一緒に。そしてベッドの中も一緒。
 ラピスの命がいつまで持つのかは誰にもわからない。ならばせめてその最後は、ラピスと共にありたいと考えた。
 時間がゆっくりと流れて欲しいと思うのに、こういう時に限って残酷なまでにいつも通り過ぎていく。
 ラピスはラピスで、自分が死んだ後の事を懸念していた。私はアキトの全て、と言い切ったのは伊達ではない。リンクによって五感をサポートしている。もしそれが失われれば、この先アキトはどうやって生きていくのだろうかと考えてしまう。
 一緒に死ねる?
 それは甘美な響きも感じるが、却下。自分の分までアキトには長生きして欲しい、そう思う気持ちの方が強かった。
 ソファに腰掛けている二人。なんとなくラピスの方から、アキトの隙を突くように頬にキスをする。
 キスされたアキトのバイザー越しの素顔に優しそうな笑顔が浮かぶ。そしてゆっくりと髪をなでられ、肩を抱かれアキトの方へと引き寄せた。肩を抱いた反対の手で軽く顎を持ち上げられ、今度は唇を塞がれた。
 いつまでもこうしていられたらいいのに。
 そんな事を考えてしまったら涙が浮かんできそうになった。
 ここで泣いたらダメ、という気持ちが逆に胸を苦しくさせる。
 もっと、ずっと、一緒にいたい。
 それを言葉に出せて言えればどんなに楽だろう。叶わないことがわかりきっているから、余計に辛い。
 そして言葉を飲み込んでしまった分、涙をどうやっても止めることができない。
 でも、とラピスは思う。
 最後がこんな形なら、それはそれで悪く無いかな、と。少なくとも、羽根を切り裂かれたショックでそのまま死ぬより遙かにマシだった。
 次の日も同じように目を覚ました。
 ただ今日は違う、という絶対的な確信があった。そのせいだろう、やけに身体が重く感じる。
 来て欲しくない日が来てしまった。
「アキト……」
 ラピスは今日が自分にとっての最後の日だとアキトに告げた。
 アキトもそのラピスの気怠げな具合を見て、避けられない事態を理解してしまった。
 急いでコミュニケを通して、イネスとエリナとアカツキを呼ぶ。
 その結果、三者が揃いもそろってこの部屋に弾かれたバネのように飛び込んできた。あまりにも皆が同じように入ってくるので、3人目のアカツキが入ってきた時にはラピスに笑われたほどである。
「ラピス君、どこも痛くは無いのかい?」
 アカツキの気遣い方がとても優しく感じる。この人からビジネスという枷を取り払ってあげることができたら、きっとこれがこの人の本当の姿なんだろうなとラピスは思った。
「うん、痛みとか苦しさとか全然ない。ただ身体が重いだけ」
 それがせめてもの救いだろう。
「ねぇ、みんな、そんな顔しないで。笑って?またすぐに会えるから」
 離れがたいと思っていたが、一度死を覚悟して受け入れることができたら、かえって気が楽になった。
「みんなの思い出に、ラピス・ラズリは笑顔で死にましたって覚えておいて欲しいの」
 だから、泣かないで。
 4人と言葉を交わしながら、少しずつみんなの声が遠くなっていくのを感じる。
 ゆっくりと眠気が強くなっていく。
「ラピス……」
 もうあまり時間が残っていない、と誰もが悟った。
「今まで、ありがとう。ラピス」
 アキトの囁き。
 最後の最後でありがとうという言葉が貰えた。うれしい。自然と笑顔が零れる。
「みんな、ありがとう」
 ラピスはその笑顔のままで言った。
 こうして望み通りに皆の笑顔に囲まれて最後を迎えられるなら、幸せだって思えるから。


 その日の夕方前、ラピス・ラズリは静かに息を引き取った。
 本人が願った通り、みんなの心に焼き付けられるほど、とても綺麗な安心した笑顔を残してこの世を去って行った。








 それから2ヶ月後。
 ルリは自分自身の体調の悪さを気にかけたその日に、2通のメッセージをオモイカネから受け取っていた。
 1通目はアカツキからのものだった。
 まずそちらの内容を確認する。
 ビジネス的な挨拶は省略されたいかにもアカツキらしいメッセージ。ルリやユリカの近況を気遣う言葉の最後はこう締めくくられていた。
「テンカワ・アキトはネルガルにて静養中。とにかくあの腑抜けをなんとかして欲しい」と。
 その一文を読んで、思わず勢い立ち上がりかけたが、もう1通メッセージがあることを思い出して腰を落ち着かせた。
 そして2通目。
 その差出人は、ラピス・ラズリからのものだった。
 内容はルリをもってして驚愕せしめる文章が綴られていた。
 読み終えたルリはどうしたものかと背中をシートに預けながら考えていた。
「サブロウタさん、ハーリー君。私、ちょっと外出します」
「いってらっしゃい」
「艦長!僕もお供します!」
「いいからお前は座っとけ」
 立ち上がりかけたハーリーの肩をサブロウタがぐっと押さえ込んだ。それを見たルリは少し笑みを浮かべながら、ブリッジを出て行った。






 ラピスがこの世を去って以降、アキトの落ち込みは激しかった。
 それまでラピスがリンクを介してサポートを続けてきたが、今はオモイカネの新しいコピーが稼働率100%でアキトの五感を支えている。だが、それはラピスによるサポートに遠く及ばない。視覚聴覚はラピスの時と同程度だが、それ以外はかなり危うい。特に触覚の喪失具合が危険で、安全のため車椅子での生活を余儀なくされていた。
 だがアキトにとってそんなことよりも、心の問題の方が大きかった。
 ラピスを失ったことの喪失感は本人が覚悟していた以上に大きく、心臓を大砲で吹っ飛ばされたような空虚な気分が埋められないでいた。
 そんな状態のまま、無為に2ヶ月が過ぎた。
 最初の頃は仕方が無いと思っていた周囲も、さすがに心配を始めていた。そしてそんなアキトの状態を、アカツキは「腑抜け」と称した。
 車椅子に座りながら、アキトはぼーっと部屋から窓の外を眺めていた。
「いつまで、そうやって深窓の美少年を気取っているつもりだい?」
 アカツキが部屋を訪れると藪から棒に言い出した。
「アカツキ、来てたのか」
「僕が来たことに気付かないほど耄碌するようになったか、君は」
 ほとほと呆れ果てる、という体で言った。
「まだ戦う気はあるのかい?」
 まぁ無理だろうな、とは内心で思っていた。
「あんなに皆殺しにしてやりたいと思ったのに、今じゃすっかりどうでも良くなった。不思議なもんだな」
「きっとラピス君が持っていったんだろうね」
 それはもう君には不要なものだから。
「じゃぁ、後はユリカ君のところに帰るだけか。ルリ君も待っているだろうしね」
 その筈なのだが。
 アキトは窓の外を眺めたまま返事を返さない。
「はぁ。こりゃぁ、重症だね」
 アカツキは額に手を当てながら言う。
「とりあえずルリ君には連絡入れておいたよ」
 そのアカツキの言葉にアキトは僅かに眉を上げる。
「いまさら、ルリちゃんに会ってどうしろって言うんだ」
「別に君には期待していないよ。ルリ君が君をどうするかの方が興味がある」
「もう俺がルリちゃんやユリカと会ったところで、してやれることは何も無い」
「同じ事を君がラピス君に言われたら、君はどうする?」
 そのアカツキの問いに、アキトは表情をこわばらせる。手をさしのべずにいられようか。
「人を愛することっていうのはそういうことなんじゃないの?」
「お前の口から愛なんて言う言葉が出てくるとは思わなかったな」
「別に僕は博愛主義者じゃ無い。ただ、目の前にいる仲間となると話は別だ」
「仲間か……」
「少し気障な言い回しだけど、君にはハッキリと言っておこう」
 アカツキの目つきが変わる。それまでのどこか飄々とした雰囲気ではなく、アカツキ・ナガレという一個人が持つ本来の顔をしていた。
「僕はこんな仕事を押しつけられたせいで、心から友達と呼べる人が極端に少ない。こんな本心がさらけ出せる相手なんて指折り数えて数人しかいないよ。そんな僕にとってナデシコの中にいた人の中に戦友と呼ぶべき友が数人いる。その中に、君やルリ君、ユリカ君も含まれている。単にビジネス的な打算のためだけに、今回の件に荷担したわけじゃない」
 アキトはそんなアカツキの独白を黙って聞いていた。
「目の前で喪失感にもがいている友がいる。もう一方で、君の帰りを待っていてくれている友がいる。それをただ黙って見過ごしてるようなクズに僕はなりたくない」
「それはお前の勝手な理屈だ」
「そうだね、これは僕が勝手にやることだ。動き出すためにケツを蹴り出すだけで、それで動き出すかどうかは君たち次第さ」
「無責任にも聞こえるぞ?」
「そうかな、望んでいる姿があるのにそれをしないでそうやってウジウジしているほうが、僕にはよっぽど無責任に見えるね」
 すると後ろからパチパチパチという拍手の音が聞こえてきた。
 二人が振り返るとルリの姿がそこにあった。
「ルリちゃん……」
「やぁ、思ったよりもかなり早かったね」
「ええ、イネスさんの検査を終えてからここまで急いできましたから」
「検査?」
「はい。これからお話することはとても大事なことなので、アキトさんに聞いていただく必要があります」
 じゃあ、あとはこの子に任せればいいか、とアカツキが身を翻そうとした時だった。
「アカツキさんもいて下さい」
「え?さすがに、そんな無粋なことはしたくないなぁ」
「重要な話なんです」
 ルリの表情を見ると、動き出せなくなってしまった。
「その、私……」
 さすがにこれを言うのはかなり勇気が必要だった。
「私、妊娠したみたいです」
 その言葉の意味をアキトとアカツキの二人が飲み込むまで、しばらく時間がかかった。
「「はぁあ?!」」
「さっきイネスさんに調べてもらいました。自覚症状はまだありませんが、妊娠4週目の赤ちゃんがいるようです」
 アカツキとアキトの衝撃度はどれほどのものがあっただろう。
 事件事故に巻き込まれました、とでも言うのでもない限り、まだまだ少女、こんな話と一番縁遠い存在だからである。
「あ、相手は誰……?」
「アキトさん」
「?!」
 そんなバカな、とアキトの額に汗が浮かぶ。
「と言いたいところなんですが、実際は誰が父親なのかわかりません」
 そのルリの言葉にアカツキが顔を顰める。
「どんな奴かもわからないような男と寝たのか?」
「そういう誤解を解くために、アカツキさんにも残っていただいたんです」
「と、言うと?」
「私、まだ男の人に抱かれたことがありません」
 そういうルリの恥ずかしげな顔を隠すことはできなかった。
「……まさか、処女懐胎?」
「そうみたいですね」
 アカツキにはなんでこの子がそんなに冷静でいられるのか理解できなかった。
「それを君は望んでそうしたのか?」
 そこには何らかの希望や理由があって人為的にそんなことをしたのか?という確認が含まれていた。
「いえ、私が望んでそうしたわけではありません『でした』。ですがこの先どうするかはアキトさんの希望が大きく関わります」
「どうして俺が……」
 ルリはその言葉に直接答えず、1枚のウインドウを浮かび上がらせ操作する。
「今、1通のメッセージをお二人だけに共有シェアしました」
 その瞬間、アカツキとアキトの目の前にそれぞれ1枚ずつのウインドウが現れる。
「これは……?」
「ラピス・ラズリの遺言です」




 ルリへ。
 こんなメッセージを唐突に残していくこと、そしてあなたの意志を無視してこんなことをしたことを許してください。
 もう今は私はこの世にいません。
 私はアキトのことが心配です。
 それは今までアキトを支えてきたものを1つ奪うからです。
 きっとアキトはもう木連人を皆殺しにしようなどとは思っていないはずです。
 元々アキトはそんな人ではないと思います。できれば本当のアキトの顔を見たかったと思いましたが、もうそれは叶わないことです。きっとそれはあなたの役目なんだと思います。
 あなたの為に、そしてアキトの為に、私はこうすることを決めました。
 今、あなたの中に私がいます。私と言っても、直接私ではなくて、説明が難しいですが霊的な意志と思ってください。
 私の望みは、この子があなたとアキトの子として生まれてくることです。
 もちろん嫌なら堕ろしてください。それであなたを恨むようなことは絶対にありません。
 でももし私の最後のわがままを聞いてくれるなら、私はあなたとアキトの絆としてもう一度生まれたい。
 もしアキトが立ち止まっていたら、あの人の背中を押してください。そのために私を利用してください。
 どうか、あなたたちに幸福が訪れますように。


 ラピス・ラズリ




(ねぇ、みんな、そんな顔しないで。笑って?またすぐに会えるから)
 そんなラピスの言葉がフラッシュバックした。
 ぽたり、とアキトの涙の雫が膝の上に落ちた。
「っく」
 ラピス……!
 アキトは両方の手を握りしめた。
 そんなアキトの様子を見て、ルリは彼の元に駆け寄った。
「アキトさん」
 ルリはアキトの手の上に自分の手のひらを重ねた。
「私、この子を産みます。だから、アキトさん、一緒にいてください」
 アキトが涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげると、そこに慈しみをたたえたルリの表情があった。
「ルリちゃん……」
 そんな顔を見てしまったら、余計に涙が溢れ出てきた。
 ルリは小柄な身体でアキトの頭をかき抱いた。
「ラピスはきっとアキトさんを愛してました。ここまでするんですから。そして、それは私も一緒です」
 今までずっと言えなかった言葉を言おう。
 アキトの背中を押せ、という言葉で、ラピスはルリの背中を押したのだ。
「アキトさん、大好きです。ずっとそばにいさせて下さい」
 ルリの腰に回されたアキトの両腕が答えだった。
 しばらく二人の抱擁を見た後で、アカツキは黙って部屋を出て行こうとした。
 その足音が聞こえたのだろう、アキトが顔を上げた。
「アカツキ」
「何だい?ユリカ君への説得は君たちからしてくれよ?」
「そうじゃない、別に頼みたいことがある」
 アキトが木連から救出されて以降、久しく見せていなかった前向きな表情を見せたことにアカツキは驚いた。
「なんだい」
「もう1台、オモイカネのコピーを頼めないか?」
「何に使う気だい?目的次第では断るよ」
「俺の補助に回したい。この先も車椅子で生活するのはゴメンだ」
「やれやれ、どんだけ金食い虫なんだよ、君は」
 困ったような笑みを浮かべるが、そこには了承の意志がこめられていた。






 ユリカへの説得はアキト自身が自ら出向いて行った。
 最初こそアキトの帰還を大喜びしたユリカだったが、アキトの話を聞いて押し黙った。
 アキトはラピス・ラズリという少女の全てを嘘偽り無く話した。
 それが今、ルリの中で生まれ変わろうとしていること。
 自分が父親になるという意志を含めて。
 恨み言が何ダースと出てきても、どんなに罵られようとも、俺はその全てを受け止めなくてはならない。そんな覚悟をアキトは持っていた。
 だが、ユリカの口からそんな恨みがましい言葉は何一つ聞かれなかった。
「じゃぁ……籍、抜かなきゃね」
 そんな言葉を口にした途端にユリカの目から大粒の涙が浮かぶ。
 堪えきれなくなってユリカは両手で顔を塞いだ。
「ごめん」
「謝らないで。誰も悪く無い」
 ユリカは首を振りながら答えた。
「……ユリカ」
 覚悟をしていたとは言え、それでも刀で身体が引き裂かれるような思いだった。
「ねぇ、アキト。その子が生まれたら、私にも抱っこさせてくれるよね?」
 顔を覆っていた両手を戻すと、泣き顔の下に笑顔があった。
「ユリカがそうしたいなら、全然構わないが……」
「私ね、アキトのことももちろんだけど、ルリちゃんの事も大好きなんだよ。その二人の子なんだもん。その子も大好きに決まってるよ」
「ルリちゃんが聞いたら、きっとあの子も喜ぶよ」
「アキト、『ちゃん』はもう要らない」
「は?」
「いつまでも『ルリちゃん』なんて、アキトがそう呼んだらダメだよ?」
 そんな強がり方がまた、アキトの胸にしみる。


 後日、ユリカのことを心配したジュンが後釜に納まるのだが、それはまた別のお話。








「ただいま」
 一人の少女が家に戻ってきた。
「おかえり、マリ」
 ルリは夕飯の支度を始めていた。オープンキッチン越しにそれを見たマリは、自室にランドセルを置いて、ふたたびダイニングに戻ってきた。
「今日の夕飯は何にするの?」
「カレーにしようかなと思って」
「ふぅん」
 そういってマリはテーブルの上で頬杖をつく。
 ルリにはそんな姿が、かつてのナデシコに赴任したばかりの「バカばっか」とか言ってた頃の自分に重なる。
 マリはどちらかというとアキト似の娘なのだが、長いまつげと、たまに見せる涼やかな目元はルリによく似ていた。
「どうしたの?なんか元気無いわね」
「……ママはさ、はじめて男の子を好きになった時ってどうしたの?」
 マリは恥ずかしそうに目を横方向にずらしながら母親に尋ねた。
「マリももうそんな年頃になったのね」
 ルリは微笑みながら娘に話しかけた。
「ママ!茶化さないでよ!」
 ぷぅっとマリは赤い顔でふくれっ面をした。
「そうね、じゃあ1つ特別な話をしてあげる」
「特別な話?」
「そう。ある男の子のことを大好きになった、ラピス・ラズリっていう女の子のお話」



fin




 

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