|| prologue ||
屋上に吹く風は弱く、だが冷たかった。
とっくに陽は沈み、本来であればこんな時間に屋上に人がいるはずもない、そんな時間帯である。
だがそんな場所に、彼はいた。
車椅子に座るその男は齢にして四十を越えているだろうか。表情に浮かぶ疲労の影は、時に老人のようにも見えるほど、彼が苦しめられてきた時間の長さを物語っている。
そんな男が気怠げに煙草を吸い込む。深く吸い込み、静かに吐き出す。
背後に一人の女性が姿を現した。
「お時間ですよ、もう戻りませんと」
薄桃色の看護服に身を包んだ、若いと言うには僅かに齢を重ねた妙齢の女性と言えるだろう。
「巧くいったか?」
だが、男の返事は、会話だけを聞けば全く意味の噛み合わない言葉だった。しかしその声は、きわめて静かだった。
「ええ」 とだけ、女は答える。その声もまた、たいして強くも無い風にかき消されてしまうのではないかと思うほどに小さかった。
「そうか。済まなかったな、面倒事に巻き込んで」
申し訳なさそうな男の声に、女は静かに首を横に振った。
「後はもう流れにさえ乗れば計画通りに進む。君は追っ手が来る前に姿を隠せ」
男は車椅子を反転させると室内に戻っていこうとしていた。
「私が裏切る可能性とか、考えていないの?」
「その時はその時だ」
男の答えは簡素だった。
「ねぇ」
数瞬の間を置いた後で、女が声をかける。
「愛してる」
車椅子を漕ぐ男の手が止まる。
そして首だけで振り返り、女を見る。
「愛されるようなことをした覚えは無いんだが?」
「苦痛に耐えながら生きてきた、あなたを支えたのは私、だと思うのは自惚れって分かってる。でも、最後だからこそ言わせて。絶望のまま死んで欲しくない。本当は生きてほしいけど、それがどれほど苦痛なことなのか私は知っているつもり。だから止めない。ただ最後にそういう女が一人いたことを知っててくれればそれでいいから」
女の告白は、男にとって苦い記憶を呼び起こす。
それは二十年以上前、立場が逆転し、彼がある女性の闘病を支え、そして最期を看取った。彼女を支えているのは自分という、まさにその自惚れこそが報われない愛情を支える根源でもあった。だが、彼女は結局、現実を受け入れられぬまま生きることを拒み息を引き取った。
まさにその苦い感情がそのまま鏡写しのように、今現れている。
だから、せめてあの時自分が欲したものを、彼女に残して逝こう。そう思い男は女の側に車椅子を戻した。
「なんでこんなポンコツに惚れるんだかな」
苦笑と照れ笑いが綯い交ぜになったような笑みだった。だが、笑顔は笑顔である。思い詰めた表情の女も、自然と表情が和らいでいく。
「屈んでもらえるか」
男に言われた通りに、女は膝を曲げ腰を落とす。
「悪いな。この程度のことしか、返してやれない」
「十分よ」
そう言って二人は口吻を交わした。
そして、それが二人にとっての最初で最後だった。
affection series, episode #4
Martian Successor Nadesico : case from the another timeline, 2206 A.D.
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希求
Written by f(x)
|| scene.1 : nonplussed ||
そろそろ寝ようかとしていたタイミングで、テンカワ・アキトに第一級の集合指令がかかった。第一級指令などというものは、彼がシークレット・サービスに所属を始めてから一度もお目にかかったことがない代物である。
それが今夜発令された。
「すまん、急な仕事ができた。行ってくる」
そう、家族に声をかける。
そんな急な呼び出しは二人の妻を不安にさせる。だが、一人だけ無関係な人間がいた。娘のマドカである。ソファから立ち上がったアキトの足下にひょこひょことやってきて、足下にしがみつき、「だぁー」っと抱っこをせがむ。
「マドカ、パパはお仕事だって」
アキトは愛娘を抱き上げると左腕で支え、右手で頬をなぞるとちょっとくすぐったそうな笑い声をあげた。
「マドカ、いい子にしてるんだぞ」
もちろん、まだ1歳になったばかりの娘には言葉は通じない。そんなマドカをユリカに預け、自身は寝間着からスーツに着替える。
「じゃあ行ってくる」
「気をつけて下さいね」
もう一人の妻、ルリからも声をかけられる。
「ああ」
「ほら、マドカ、パパに行ってらっしゃいして」
ルリとアキトが手を振ると、マドカもそれを真似て両手を前後にパタパタと振りながら「ばいばいばー」と言う。どうやら、手を振る動作とバイバイはこの子の中で繋がっているものになっているようだ。
シークレット・サービスなどという危険な仕事をしていても、この家族がいる限り、俺はここに帰ってくる。それがアキトにとってもモチベーションになっている。
そんな家族の笑顔に包まれながら家を出る。
そして車に乗り込む時には、すでに妻子ある夫から一人のシークレット・サービスに表情は切り替わっていた。
普段と変わり無く車を発進させる。だが、今まで発せられたことの無い呼び出しに、心に走る緊張が解けることは無かった。
同様の呼び出しはイネスにもかけられていた。
幸か不幸か、その時点で彼女はまだ職場にいた。
「徹夜確定ね」
そんな独り言でおどけて見せたが、このレベルの呼び出しともなると、徹夜が一晩で済むのかという話になってくるのだが、それは今は考えないことにした。
この時点で彼女がいた作業場から、呼び出しのあった別の作業場まで、アキトと同じように車で移動を始める。
そしてネルガル本社に着き、アカツキのいる会長室に乗り込んだ時にはすでにアキトとアカツキの二人がいた。
「急な呼び出しで、申し訳ないね」
命令の発令者にして、雇用主であり、最大の盟友でもあるアカツキから労いの言葉が投げられる。
「いいけど、一体何があったの?」
「ちょうどそれをテンカワ君にも説明しようとしていたところさ」
そういうとアカツキは二人を、会長室の中央に鎮座する高級そうなソファに腰掛けるように薦めた。そして自らは、この高級感のあふれる室内とソファにはおよそ似つかわしくない、コーヒーの入った紙コップを3つテーブルに並べて、そのうちの一つを手に取った。
「で?」
イネスも、テーブルの上のコーヒーを手に取りながら、口を付ける前にアカツキに問う。
アカツキはすぐには答えず、コーヒーを息で少し冷ましながら一口付けて、口を開いた。
「ボソン・ジャンプでやってきた客人を確保したよ」
「なっ!」
まさしく想定外。あり得る筈の無い事態に直面するほど、科学者は狼狽える。
「まだジャンパーがいたの?」
「分からない。少なくとも、ジャンプしてきた人物が君たち二人と、ユリカ君の3人ではない、ということだけは確実だ」
「一体、誰なの?」
「それを調べてもらいたくて、君たちを呼んだんだよ」
そんなアカツキの言葉に得心したのか、イネスも落ち着きを取り戻して手に持っていたコーヒーを口に含んだ。
「そいつは今どうしてる?」
「SSの管理下に置いているが、まだ意識が戻っていないようだ」
3人は無言になる。
火星の後継者の事件以降、正確にはアキトがユーチャリスから投降して以降、ボソン・ジャンプは事実上封印された状態にある。翻訳機としての役目からユリカが解放されて以来、遺跡にコンタクトする術を持たない非ジャンパーは言うに及ばず、現存する3人のジャンパーもジャンプを利用していない。
SSという特殊任務を帯びているアキトだけが例外的にCCを所持しているが、それを使ったことはSSになって以来一度も無い。
だが、その数年の沈黙を破って、正体の分からないジャンパーが突如として現れたのだ。
「そいつはどこにジャンプしてきたんだ」
「サセボのドックだよ」
軍事事業から撤退しているネルガルではあるが、民間のシャトル造船事業は継続しており、サセボにあるドックは軍縮計画の一環としてネルガルに払い下げられていたことも、今回はプラスに働いた。
「あそこがうちの物になってて助かったよ。もし連合軍に、今回の人物の身柄が押さえられていたら、奴ら何をしでかすか分かったもんじゃないからね」
「会長はよほど連合軍がお嫌いなのね?」
「去年、ルリ君を暗殺しようなんて計画をぶちあげる輩がいるところだよ?信用できるわけがないじゃないか」
「ちょっと待て。それ、初耳だぞ」
あ、ヤバ。とアカツキは口に手を当てた。
「アカツキ!」
「まてまて!悪かった説明するから、そんな真っ黒なオーラをドバドバふりまかないでくれよ」
アカツキは、去年のNAIS設立の際に入手した、否決されたテンカワ・ルリ暗殺計画の資料の内容について説明する羽目に陥った。
だが、説明することでアキトが怒りを鎮めたかというと、むしろ逆効果でさえあった。
「あいつらー!」
「だから落ち着けって!ミスマル元帥の尽力で、連合軍のトップとはこんなことをさせないことで話は付いてるし、ルリ君に手を出すほど連合軍のトップもバカじゃないから、計画は却下されてるんだよ」
「だったら何故それを隠してた」
「説明したら、テンカワ君、一人で連合軍にケンカ売りに行ってたろう?」
「そんなに俺は無鉄砲に見えるか?」
「見える」「見えるわね」
二人にあっさり肯定されて、アキトはガックリと腰を下ろした。
「お前らな」
「数年前まで真っ黒クロスケだった人が何を言う」
「その片棒を担いでいたお前が言うか?」
イネスはアキトとアカツキのやりとりを聞きながらコーヒーを飲み干して、紙コップを机の上に置き立ち上がる。それが無駄話の時間の終わりを意味した。
一時間後、《客人》の検査を終えたイネスは、同室でイネスの作業を無言で見守っていたアカツキとアキトの二人に声をかける。それは検査終了の旨を告げるものであったが、彼女が多分に不快を感じていることは、その声と表情からありありと二人に伝わっていた。
「こんなこと認めたくは無いけど」
深い溜息をつきながらイネスはそう前置きした。
「どうなんだい?彼は」
「彼の正体は二人とも知ってる人よ。何故、彼がジャンプしたのかは後から本人に聞くとしても、何故ジャンプできたのかについては、理由は明白よ」
「ナノマシン?」
「ええ。それもアキト君を木連軍から救出した時に匹敵するわよ、彼の血中ナノマシン濃度」
そのイネスの言葉に二人は顔を顰めると同時に、彼女が不快そうにする理由を察した。
「後天型人工ジャンパーか……。正直、常人だったら生きている方が不思議と言わざるを得ないね」
「常人だったらね」
「イネス、そりゃどういう?」
アキトがそう声をかけた時に機材がアラームを鳴らした。
「どうやら、彼がお目覚めのようよ。詳しい話は本人から聞きましょう?」
そういって3人、検査機材の置かれた部屋から、客人が寝させられている隣の検査室へと移動した。
ベッドの上の男はまだ意識の覚醒が中途半端なのか、それとも室内の明るさのせいなのか、まぶしそうに眉を顰めて、目を開けることが出来ずにいる。
ドアを開けるための空気圧の抜ける音と数人の足音が聞こえてきたことで、誰かが部屋の中に入ってきたことを知る。だが、目を開けられないため、それが誰なのかはまだ彼には分からない。
だからと言って男が慌てる様子も焦る様子もない。何か危険が迫っていたところで、彼の下半身は麻痺してしまっている。逃げようが無いのだ。むしろ自分が今こうして意識を取り戻したという事実の方に、彼は落胆を感じている。それは計画が失敗していることを意味しているからだ。計画通りであれば、ランダムジャンプ事故に見せかけて自らを宇宙空間に放り出すつもりだったのだ。この計画に巻き込んでしまった、さっきまで彼の傍らに居てくれた女性の身を案じる。彼女に疑惑や暴力が及んでいないことを願う以外に無かった。
「お目覚めは如何かしら?マキビ・ハリさん?」
そう言ったのは部屋に入ってきたイネスであり、そのイネスに続いて入ってきたアカツキとアキトの二人は明らかに驚きの声を挙げている。
「ハーリー君?彼がハーリー君だというのか?」
アカツキの驚きは当然だろう。彼が知っているマキビ・ハリは、ホシノ・ハリへと名を変え、今や彼の持つ子会社の部下だし、なにより目の前に横たわる男とは年齢が違いすぎる。まだミドルティーンの少年の筈なのに、目の前の男はどうみても40前後──つまりは、自分たちよりも年上──に見えたからだ。
そして、ベッドに横たわる男の方も違和感を感じていた。
「何を今更、そんなことで驚く」
「そりゃ驚くわよ。私たちの知っているハーリー君は、まだ15歳なんですもの」
そのイネスの言葉に、男はまぶしそうに目を塞ぐ仕草を止め入ってきた者たちを見ようとした。
「あんたら……確かイネス博士に、アカツキ会長か?おい、随分若いな、一体俺は何年にジャンプしてきたんだ?」
「ジャンプしてきた、ということは分かってるのね。今は2206年よ」
彼の目が大きく見開かれる。
「ようこそ、25年前へ」
「やれやれ」
力が抜けたように男は、僅かに浮かせていた頭を再び枕に沈めて、手で目元を覆った。僅かな逡巡の後、再び入ってきた三人に目をやった。
「その奥の真っ白頭は誰だ」
「テンカワだ」
アキトが自らを名乗った時、それまでの驚きなど大したことでは無かったと思わせるほど、男が反応した。下半身が動かないとは言え、上半身だけで跳ね起きたのだ。
「テンカワ・アキト?!何故貴様が生きているんだ?!ユーチャリスでどこ行ってやがった」
「何を言っているんだい、忘れてしまったのかい?ユーチャリスが投降するとき、君もナデシコCに一緒に居たじゃないか」
そういうアカツキの言葉に、男は顔を顰める。
「……投降?この男が投降したというのか?いつだ!」
「いつだっけ?火星の後継者事件からだいたい1年くらい逃げ回ってたから、2202年か3年頃だったかな?」
「いい加減なことを言うな」
「いい加減じゃないさ、君もあの場に居たじゃないか」
「居るわけがない」
互いが眉を顰めながら言い合う。
「記憶違いじゃないのか?」
「それはこっちの台詞だ。いいか、2203年って言やぁな忘れもしねぇ、テンカワ、あんたを諦めきれなくて追いかけてそれでもつかまえることが出来なくて、やがて艦長が精神に変調来してあっという間に逝った年だろうがよ」
「待ってくれ、艦長とは、ホシノ・ルリ君のことだよな?」
「当たり前だ、他にナデシコCの艦長などいねぇだろう」
「ルリ君が死んだ?2203年に?」
「何を今更……?」
互いが互いの違和感に気がついた。
元々いた世界の歴史と、今いる世界の歴史が、別のものだとしたら。
ボソンジャンプが、時空間移動であると同時に並行次元移動まで行うとしたら。
「今、ここは何年だ?」
頭が真っ白になってこんがらがって、こんな質問しか湧いてこない。
「さっきも言ったけど、2206年よ」
「ルリさん、生きてるのか?」
「すこぶる元気だよ、なあテンカワ君?」
「……ああ」
男は言葉無く、口を半開きにしたまま呆けていた。
「あ……、どうした?」
アカツキが突っ込まなければ、あともう暫くこうだったかもしれない。
やがて男はガックリと頭を垂れた。
「おかしいな」
嗄れた声だった。そしてどこかに自嘲の響きがあった。
「ずっと、ルリさんが生きてさえいてくれればそれでいいと思ってた。20になるくらいまではな。それから随分たった。今じゃルリさんの声も思い出せねぇし、顔もずいぶんあやふやな思い出しかねぇ。忘れまいと言い聞かせても、どんどん記憶がぼやけていく。残酷なもんだ。」
男はそこで言葉を切った。何かを確かめるように。
「なのに、今こうしてルリさんが生きてると聞いても、何の感慨も湧いてこねぇ」
やがて男は暗く笑い出した。その笑い声は低く抑揚こそあまりないが、暫く止まりそうになかった。
3人には声のかけようがなかった。
それが、涙こそ出ないだけで、間違いなく「泣く」という行為に他ならないことがわかったからだった。
|| scene.2 : roamer ||
マキビ・ハリのジャンプ騒動から一晩が過ぎた。
彼に対するSSの監視体制はまだ継続している。暫くの精密検査を受けることを条件に、アカツキが経営するホテルのスイートルームが貸し与えられた。
スイートを貸し出したのには理由があった。それは彼が車椅子を必要としていて容易に逃げ出すことが出来ない部屋をあてがったのと同時に、室内をある程度自由に車椅子が移動できる広さが欲しいこと、長期滞在になりそうであること、そして車椅子使用者向けのバリアフリールームはすでに客が居たことなど、複数の理由が重なったからである。
だが、彼に部屋を愛でる暇もくつろぐ余裕も無かった。
情報と気持ちの整理が追いつかないのである。目を閉じるだけでいろんなことを考えてしまい、いろんな感情が去来してしまうため、イネスに数日分の睡眠導入剤を処方して貰ったほどである。酒に酔えるならアルコールに身を任すこともできたが、味わえるのは舌触りと喉越しだけで、体内に入った瞬間あっという間に分解されてしまって、酔うことができないのだ。
彼が端末に向かい合っている間に、来客を知らせるチャイムが鳴る。誰が来たのかをろくに確認もせずに、マキビ・ハリはロックを解除しドアは客人たちの前でスルリと開いた。
「やぁ、マキビ君、お邪魔するよ」
「ああ」
「何やってるんだい?」
端末との睨めっこを続けているマキビ・ハリに対して、部屋にやってきたのはアカツキとイネスの二人だった。
「過去の事象を時系列に追ってた。2198年頃あたりから現時点までのな」
「どうだい?」
「あんたが昨日言った通り、2203年を機に大きく食い違っているな」
「だろうね。感想はあるかい?」
「確認すべきだった情報である一方で、見るんじゃ無かったって言いたくなる情報てんこ盛りだな」
「見るんじゃ無かった情報?そんなのあったかい?」
マキビ・ハリは大きく溜息をついた。
「まずルリさんのウェディング姿。テンカワとはともかく、ミスマル・ユリカを含めた相互関係重婚ってなんじゃこりゃ」
「テンカワ君とはかまわないのかい?」
そのアカツキの問いに、マキビ・ハリは若干の沈黙を必要とした。が、出てきた言葉は存外に軽い調子であった。
「火星の後継者事件当時、オペレーターとして乗ってた当時10歳かそこらの餓鬼の俺ですら、あの人がテンカワを見る目が、家族を見る目じゃなくて、男を見る目だったのは丸わかりだったんだぜ。思い人と結ばれてんなら、それはそれで構わねぇ」
「君のところのルリ君は違ったんだね?」
「ああ。テンカワが行方不明のまま見つからなかったからな。探し続けて、だが、見つからなくて、最初は軽い鬱状態から始まって、最後は俺たちIFS強化体質者にとっては致命的な病気を患ったよ、あの人は」
その言葉に反応を示したのはイネスの方だった。
「『IFS強化体質者にとって致命的な病気』?それは何?」
「拒食症さ」
そのマキビ・ハリの言葉に二人は重く、あぁと頷くしかなかった。
「次は、この時代の自分自身の姿だな。年齢が違いすぎてドッペルゲンガーになる気分は避けられたが、それでも、あのユーチャリスに乗ってたラピスラズリとか言う人形と恋仲とか、何考えてんだか」
そうマキビ・ハリが発言したときに、キレたのはイネスだった。
イネスは彼の襟を両手で締め上げたのだ。さすがに想像だにしていなかったのだろう、マキビ・ハリの顔には驚愕が張り付いている。
「今の言葉、訂正しなさい」
「……あ?」
「貴方の認識がどうあれ、ラピス・ラズリは私たちにとっての大事な妹分であり、娘よ。ハーリー君との関係を含めて、私たちはあの二人をとても大切な家族と想っているわ。その家族に対する侮辱は絶対に認めない。訂正なさい」
驚きで一瞬言葉を詰まらせたものの、対して深い意味を持たせたマキビ・ハリの発言であったわけでもないため、あっさりと「悪かった」とさほど謝意の感じられない謝罪が口をついた。そんな様子に、衝動的にキレた自分を誤魔化すためか、まぁいいわとあっさりと開放した。
「で、だ」
アカツキが方向転換を図る。
「君は今後どうする?」
「俺に選択肢が与えられているのか?」
「訊き方が悪かったようだね。君は今後どうしたい?」
「……訊き方の問題じゃねぇ気もするが、正直言ってどうしたらいいかわからねぇ。元いた時代に戻りたいわけじゃねぇし、身体の自由が利くわけでもねぇしな。一応最後のカードはあるんだが」
「なんだい?それは」
「殺してくれ」
「それだけは認めないわよ、マキビ・ハリ」
「ああ、貴女ならそう言うと思ったぜ」
張り付く苦笑とも微笑ともつかない笑顔。だが、決して人を不快にさせるような嫌らしい笑みではなかった。
「まぁ、もう暫く考えてみるさ。心配しなくても、ある日突然この部屋で首吊り死体になってるなんてこたぁねぇから心配すんな」
「時間はあるから、それも悪くないね」
「それと、あなたのその麻痺してる下半身、たぶん治るわよ?」
「なんだって?」
「あのナノマシン漬けだったアキト君を治したのは私たちよ?あなたの下半身不随が事故によるものでなくて、ナノマシンによる脊髄圧迫が原因である以上、治療は可能よ」
「どうやって?まさか身体からナノマシンを除去するとか言わないよな」
「そのまさか以外に何があるというの?」
「ナノマシンを除去だと?聞いたことがねぇ」
「そうでしょうね、手法を編み出したのは私。適用患者一号はテンカワ・アキト。貴方の時代の私が何をしていたのかは知らないけれどね」
「さぁな、ルリさんの最期を看取った時以来、貴女の行方は知らなかったし、知ろうともしなかったな」
「案外、あっさり殺されてたか、それとも貴方と同じように実験台に供されたか」
「かもしれん。奴等ならやりかねんからな」
「ああ、それも聞きたかった。君にあのナノマシン追加処置を施したのは誰だ?」
「一言で言えば政府。火星の後継者残党と手を組んだ連合軍幹部と癒着した統一政府。表向きは平和だったがな、裏ではえげつねぇことも結構やってたな」
アカツキの表情がさもありなん、と物語る。彼は根本的に連合軍を信用していないのだから仕方のないことである。
「まぁ、大まかな事情は分かったことだし、君もナノマシン除去手術に同意してもらえたわけだし」
してねぇよ、という反論は無視された。
「暫く身の振り方と治療に専念してもらうとしてだ、僕としては、君に名前を変えてもらいたい。癪に障る言い方であることは承知の上で言うけれど、君は僕たちの時代のマキビ・ハリじゃない。ハーリー君はすでに居る」
「確かに癪に障りはするが、あんたの言い分の方が筋だ。どんな名前にすればいい?」
「アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ゴールデンバウムとかどうだい?」
「笑えねぇから止めろ」
結局、アカツキの遠戚筋にあたるタキガワ・ユウイチという名が仮登録された。
「さて、ユウちゃん」
「おめぇ、先にその呼び名から決めてたろ」
「そんなことはないさ」
説得力の欠片も無い。
結局、アカツキの母方の遠戚にあたり、ネルガルへの影響力はゼロ。治療のために親戚の紹介からアカツキ・ナガレを経て、イネスへと繋がったストーリーを即興ででっち上げた。
「よくもまぁ、そんな出任せがポンポンと口をついて出てくるものだな」
「そう言うなよ、僕とユウちゃんの仲じゃないか」
マキビ・ハリ改めタキガワ・ユウイチは、心底ウンザリしたような顔をした。
|| scene.3 : betting round ||
マキビ・ハリがこの時代に飛んできて苦労を強いられたのは、歴史の自分自身の認識の差異の摺り合わせではなく、後付で与えられた「タキガワ・ユウイチ」という仮の名前を自分の第二の名前として認識することだった。
しばらくは「タキガワさん」と呼ばれても自分が呼ばれていると認識できずに、反応が遅れるということを繰り返していた。だが、それも治療を続けながら時間が経過するにつれ、1ヶ月も経つ頃にはようやく慣れてきていた。
そしてイネス・フレサンジュ女史をもってして「興味深い」と言わしめたのは、患者一号のアキトの際に起こった頭髪の脱色現象が、タキガワには発生していないことである。年齢とそれまでの過酷なナノマシン実験による苦痛で、年齢不相応に白髪が多いことが彼を実年齢以上に見せかける要因になっている。
そんな事情もあって、「治療開始時点で白髪が多かったからかどうかはわからないが、患者二号のタキガワには、頭髪脱色現象はほとんど認められなかった」とイネスは結論づけた。
もっとも、この治療を行ったことによって、何故アキトの頭髪が脱色したのかという点については、実はメカニズムは明確ではない。根拠となる臨床例数が余りに少なすぎる特異な治療なのに由来するためだろう。
ネルガルが治療にかかる一切の金銭を負担しているのであって、現在の医療で誰もがこの治療方法を受けられる訳ではない。というよりも、ナノマシンを入れることの方が少ないのが通常であり、それもごく少量、ないしはほとんど無害というナノマシンを除去しなければならないような事態に陥るような人間がいない。そのためイネス自身もネルガルも、これを医学界に報告したり臨床試験を受けようなどとは考えていない。
医療行為としては限りなく黒い行為である。だが、存在を知られなければ存在しないのとほとんど同じ。このことを追求されることは無い。
ナノマシンを抜くと言ってもやってることは原始的だ。
交換輸血に使い方法で血液を一旦体外に出して、機械を通して濾過する。必要なナノマシンは体内に戻し、有害もしくは用途不明なナノマシンは除去する。方式は原始的だが、かつてのアキトや現在のタキガワくらいナノマシン量になると、体内のほとんどのナノマシンを篩いにかけるだけで1ヶ月もの時間を要する。その間本人はただ横になっているだけ。動き回れない分苦痛でもあるので、1日にそう何時間もやるわけに行かない上に、そうそう毎日毎日輸血のために注射をするわけにも行かず、時間のかかる治療法なのである。
単純故か、その面倒さ故か、タキガワのかつての時代ではそのような方法でナノマシンを抜くということは検討されなかった。そんなのに割く時間と費用はナノマシン開発に回され、ナノマシン過剰による中毒死を起こしても人命の方が軽視されていた環境の中にタキガワはいた。
それは彼がナノマシンによる脊髄圧迫で下半身麻痺を引き起こしても、それを回復させるための治療が一切行われなかったことによく現れている。
ナノマシン除去治療と、長年未使用だった足腰を使うためのリハビリでかれこれ半年もの時間を必要とした。それだけの時間を、彼は病院での入院やあてがわれたホテルのスイートとを往復するだけに費やし、結局この時代、彼が何をするのかという点については結論を見いだせなかった。
「これだけ考える時間がたっぷりあるというのに、まだ何がしたいのか決められないの?」
イネスはそう評した。それに対して、タキガワはこう言い訳をした。
「俺は元々死ぬつもりでボソン・ジャンプ実験に細工を加えたんだよ。覚悟を決めていたのに、今更それをチャラにして生きる方策を考えろって言われてもな」
「あら、そう言えば聞いてなかったけど、ジャンプ実験に細工を加えたっていう話だけどどんな細工をしたの?」
「ああ、ジャンプ先の時間を求める計算をする関数の四則演算を全部べき乗演算に書き換えるようにハックした」
こともなさげに言うが、それがまさにとんでもない結果を生み出したわけだ。
「……遺跡もオーバーフローするのかしらね」
宇宙の誕生が100億年前だと言われているが、さらにその1兆倍の未来に飛べなどという計算をさせようとしたら、遺跡だってオーバーフローするのかもしれない。
「そういえば、翻訳機に使われたユリカさんも無しA級ジャンパーも無しで、どうやって遺跡にイメージを伝えようとしたのかしら?」
「通訳が居ないのなら、自分たちが遺跡に分かる外国語を習得すればいいと科学者考えたらしい」
「発想が単純すぎて、かえって感心するわね。で、実際、遺跡に伝わるものなの?」
「ジャンプするというのは伝えられるナノマシンかどうかの試験はクリアしたみたいだな」
「それが貴方に入っている?」
「そのまさに実験第2号のジャンプが俺だった」
「第1号は?」
「特殊遺伝子操作とナノマシンの入ったチンパンジー」
「行き先のイメージングは?」
「さぁ?」
「呆れた」
まさしく心底呆れたと言わんばかりに溜息をつくイネスだった。
「ランダムでもなんでもジャンプできれば初期段階としては成功だとでも考えたんじゃねぇか?あれだ、かつてのアポロ計画だって最初からいきなり月に行ったわけじゃなくて、大気圏出て、周回軌道に乗れて、とか段階的に開発進めてたろ。あの感覚じゃねぇか」
「『正しく』ランダムジャンプできたかどうか、なんて確かめられないじゃない」
「さあなジャンプするためのスイッチが入れられれば、それでOKだったんじゃねぇのか?」
携わる技術者のレベルが低すぎることが、イネスには不満でしょうがなかった。
「正直言って、そんな技術者と呼ぶにもおこがましい低レベルなバカにジャンプ弄って欲しくないわね」
「原子炉の直上にでもランダムジャンプさせたとき、初めて気づくんじゃねぇのか?自分たちのやってることに」
「貴方の世界、それが原因で滅びるかも知れないわよ?」
「知ったことか」
それは偽らざる彼の心境だった。
そしてイネスは密かに、彼自身が原子炉の直上にジャンプしてやれというイメージングに至っていなかったことに、微かな救いを感じていた。
その頃、アカツキはアキトを会長室に呼び出していた。
「何かあったか?」
会長室に入ったアキトは、挨拶を省略して藪から棒に言い出した。
「うーん、タキガワ君の件で、一つギャンブルに出てみようと思うんだけど、その前に君の了承を得ておきたくてね」
「ギャンブル?」
「ルリ君やラピス君に彼を会わせてみようと思ってね」
「それ、ギャンブルになるのか?」
「わからない。ただルリ君に関しては彼自身思うところもあるだろうし、ラピス君はなんて言うかな、25年後の彼氏の姿を見たときに、どんな化学反応を起こすか見てみたいというだけなんだけど」
「25年後のハーリー君に幻滅しても知らないぞ」
「大丈夫あの二人はそんなに柔じゃないよ。それに気に入らなければ、ラピス君によるハーリー君改造計画でも始めるだろうし」
「あまり趣味が良いとは言えないな」
「分かってる。僕だって本意じゃないんだよ。ただ……」
「ただ、何だ?」
「これだけの時間があっても、彼はまだ『死ぬ覚悟を決めたとき』にいれたスイッチをOFFに出来ずにいる」
「死にたがっている?」
「そこまでは無い。ただ生きる目的が見いだせていないんだ。僕は、それを何とかしてみたい」
「ったく、本質的にお前はお人好しだからな」
「テンカワ君にそんなこと言われるとはね」
と言いつつも、僅かにはにかんだのは、照れている証拠かもしれない。
「まぁ、狙いは分かった。一応俺とイネスが同席するということでなら、構わない」
「万が一、タキガワ君がルリ君に手を出さない様に?」
というアカツキの冷やかしに、アキトはぷぃっと横を向いた。それがまたアカツキの笑いを誘ったのは余談である。
翌日、アキトの時と同じようにルリとラピスとアキト、そしてユリカと母親に抱っこされたマドカの姿がネルガル会長室の中にあった。
「僕としては、ルリ君とラピス君だけで良かったんだけど」
「えー。私としては、是非25年後のハーリー君に会ってみたいんだけどなぁ」
「あれ、テンカワ君、もう説明したの?」
「大まかにな。しないほうが良かったか?」
「いや手間が省けて助かる」
「私聞いてない」
ラピスの不満顔に、アカツキは省けてないやんという言葉をかろうじて飲み込んだ。
「ああ、じゃあ、かいつまんで説明しよう。先日のことなんだが、うちのドックに別の世界から来たと思われるハーリー君がジャンプしてきた。このハーリー君の容態が酷くてね、かつてのテンカワ君並という、異常な量のナノマシンを入れられてジャンプ実験のモルモットにされてたんだ」
「酷い!」
「別の世界というのはどうして分かったんです?」
憤慨するラピスとは対照的に冷静に突っ込むルリ。
「まずは歴史が大きく違ってるんだ。我々の世界ではテンカワ君はこうして君たちの側に居る。彼がいた世界ではテンカワ君は行方不明、ルリ君は病気を患って2203年に他界しているそうだ」
「自分が死んでるというのは、あまり気分の良いものじゃありませんね」
「まぁ、そりゃそうだろうけどね。それから25年以上に渡って、唯一の生き残ったIFS強化体質者として、様々な人体実験に利用されてきたそうだ」
「25年以上ってことは今、そのハリはいくつなの?」
「40歳」
「私たちよりも年上なのよね」
ユリカは、母親の肩を枕代わりにして昼寝に入ってしまったマドカをあやしながら言った。
「それよりも、私たちが彼の正体を知った上で敢えて会う意味をお聞きしたいのですが」
「彼ね、ジャンプ実験の時点で死ぬつもりだったらしいんだわ。ところが、結果として僕たちの世界にやってきた。並行世界の存在とか、並列次元の存在とか、そんなものはこの際どうでもいい。未だに生きる目的を見いだせない彼を何とかしてやりたい。特に、ルリ君、君の最期を看取った数人の一人が彼だそうだ。たぶん特別な想いがあると思う。諭してくれとは言わない。ただ君たちと会うことで、彼が立ち直るきっかけが出来ることに賭けてみたいんだよ」
「昨日も聞きたかったんだが、どうしてそこまで彼に肩入れする?」
最期の質問はアキトだった。
「彼を見ていると、プリンス・オブ・ダークネスとか呼ばれてた頃の君を思い出すんだ。アレはやむを得ない事情だったとは言え、あれが彼と、あの時代のルリ君の将来を狂わせていると思うと、なんとかしてやりたくてね」
「アカツキさんって、本当に善人なのか悪人なのか分からなくなりますね」
「ありゃ、酷いねぇ。ラピス君、なんか言ってやってよ、君の姉に」
「うん、アカツキって昔からアキトと同じくお人好しだよ、実は」
そのフォローもなんだかなぁーとアカツキは机の上に突っ伏した。
|| scene.4 : showdown ||
タキガワがいつもの治療とリハビリを終える頃、イネスの診療室を訪れた彼に待っていたのは驚きだった。
驚くのも無理は無い。イネスか、居てもせいぜいアキトかアカツキか、看護師くらいだったものが普段なのに、今日に限っては見知った顔が何人もいたのである。
「ハーリー君の面影、感じますね」
微笑をたたえて言葉を切り出したのはルリだった。
「ルリ……さん、なのか?」
「はい。そうですよ。貴方の知ってるルリではありませんが、私もルリです」
タキガワにしてみれば衝撃の度合いは計り知れない。
突然ルリらがやってきたこともドッキリだが、目の前に、かつて渇望した健康で自分に微笑みを向けるルリの姿が目の前にあるのだから、衝撃を受けるなという方が無理がある。
「一応、紹介するわね」というイネスの言葉と共に、ルリ、ラピス、ユリカ、そして娘のマドカと順に紹介していった。
「驚くなって言っても無理でしょうけどね、一応、貴方の身の上、彼女たち知って貰ってるから」
勝手にばらすなと言う文句も浮かんだが、それ以上に目の前に居るルリから視線を外せない。
「ルリさん……。今となっては俺の方が年上で、それでもさん付けで呼ばせて貰うが、ルリさん、この時代に来て一つだけ、聞きたかったことがある」
「なんでしょう」
「貴女は今、幸せか?」
「勿論です」
「……その言葉が、聞きたかった」
そう呟くタキガワ、基いマキビ・ハリの表情は憂いと喜びとが綯い交ぜになった複雑なものだった。
できることなら25年前に聞きたかった。
たとえテンカワ・アキトが居なくても、自分が彼女を幸せにしたかった。
望み、願い、そして叶わなかった夢が、今目の前に現実として現れた。
25年の間に自分がルリを、という想いはいつの間にか擦り切れていた。ただルリが幸せになってさえくれれば、それで良かった。
最期を看取る時、僅かにぬくもりを残し、同年代の女性からは比較にならぬほど細く骨張ってしまっていた彼女の手を取った。
耳元でルリさんと囁いた。
あの時、僅かに首を動かして誰を捜していたのだろう。
それが自分であろうとなかろうと構わない。
「もう、大丈夫です」と、あの時、焦がれた凛とした声を期待した。
でもそれも叶わず、微かな微笑を残して息を引き取った。
大声で泣きたかった。だが、歯を食いしばった。涙だけが止めどなく溢れ出た。
何故だ。
もしこの世に神が居るのなら、その襟首つかんで問いただしてやりたかった。
何故、彼女に幸せを与えてやらないのだと。こうしてやるのか慈悲だとでも言うのかと。
そんな25年前に置き去りにしてきた感情が、目の前にあるルリの微笑みと共に蘇ってきた。
「それなら良いんだ。もう思い残すことは無い」
何かを吹っ切ったような顔をしたことに、アキトは若干焦りを感じた。
アカツキが願ったのとは逆に、このギャンブルが彼の最後に残った「生への拘り」を断ち切ってしまうように思えたからだ。そうなってしまっては逆効果だ。
だが、最後のジョーカーは意外なところから発せられた。
ラピスは数歩前に出たかと思うと、いきなりタキガワの頬を引っぱたき、乾いた音が診療室に響いた。
「何を」
「思い残すことは無いって何よ!」
タキガワは突然頬を叩かれ、怒鳴り返そうとして叩いた相手を見て驚いた。
そこには涙を流しながら仁王立ちになって怒りを露わにするラピスの姿があった。何故起こっているのかと、何故君なのかという二つの意味で驚いたのであった。
「あなたが25年後のハリなのは知ってる!人体実験に利用された辛さも分かる!たぶん私が感じた恐怖の何倍もの辛さを味わってきたんだと思う。だからって!もう死んでもいいみたいな顔しないで!何のためにイネスがあなたを助けたと思ってるの?!今度はあなたが自分の幸せを求める番じゃないの?違う?!」
タキガワには返す言葉が見つからないでいた。
次は俺の番……。
そんなこと考えてみたこともなかった。というのが、今の彼の正直な心境だ。
「俺の……番?」
アキトはラピスが放ったジョーカーをワイルドカードにするタイミングを見逃さなかった。
「そうだ、次はあんたの番だ。プリンス・オブ・ダークネスとか呼ばれた俺でさえ許された。次はあんたが自分の幸せを探す番だ」
俺にその資格があるのかという台詞はすでに封じられている。あの、テンカワ・アキトでさえ幸せを許されたのだ。そしてふと、25年前に神様に問いただしたいと思ったことが蘇ってきた。
これが俺に対する慈悲なのか、と。
「分かったよ」
憑きものでも落ちたように、静かに笑ってタキガワは言った。
その様子にイネスは彼が一皮むけたことを感じ、アキトはギャンブルの逆転勝利を確信した。
「お前、ラピス・ラズリだったな」
「そうよ」
「この時代のマキビ・ハリと居て、お前は幸せか」
「もっちろん!ナデシコ1のバカップルはアキトたちに譲るとしても、第2位は私たちだもんね」
「自分でバカップルとか言うなよ」
アキトが呆れながら言う。
「そうか、それならいい。マキビ・ハリが泣き言言ったら、さっきみたいなビンタかましてやれな」
「任せて!」
何故かタキガワもラピスもそう言って笑った。
「次は俺の番か」
その言葉がよほど、心に響いたのだろう。繰り返しタキガワは呟いていた。
「はい、じゃあ、マドカが応援のチュウーをしまーす」
そうユリカが言うと、突然一歳児を手渡された。
「お、おいおい」
「はい、マドカ。おじちゃんのお膝でたっちして。そうそう。そしたらおじちゃんにチューしなさい」
というユリカに乗せられたのかどうかはわからない。
たしかにチューした。
ただしそのチューと称するものは、歯もあまり生えそろわない口をパクっとあけて、相手の鼻にパクリと噛みつく行為をさした。
目の前には無垢な瞳をどアップにして間近に近づいて、ぱくっと噛みつかれた鼻の先をペロリと乳児の舌先が舐めた。
端から見てるとなかなかシュールな絵である。
「勘弁して」
タキガワが情けなさそうに白旗をあげる。
「よーし、マドカ、ちゅーできたね、えらいえらい」
偉いのか?と毎晩ちゅーされてるアキトは思いながら、袖で鼻先についたマドカのヨダレを拭うタキガワに対して、心の中ですまんと謝りつつ、タキガワの腕のなかで明後日の方向に身体をよじって遊んでるマドカを受け取った。
|| epilogue ||
「まったく、あの時はどうなるかと思ったよ」
あれから数ヶ月が経った今でも、アキトは、タキガワとルリやラピスと引き合わせた“ギャンブル”のことをアカツキにぼやく。
「まぁだ言ってるのかい。いいじゃないか、結果オーライだって何度も言ってるだろう。それに彼はほら、うまくやってるよ」
そう言って手渡されたのは、新聞の切り抜きだ。ただしそれは日本語ではなく英語で書かれた記事の切り抜きだった。その記事の切り抜きにはあのタキガワの写真が写っている。
「アカツキ、俺は英語読めないんだが、なんて書かれているんだ」
「『日本からの魔術師、ラスベガスに現る』、彼ルーレットとポーカーとブラックジャックでラスベガス滞在1ヶ月で1千万ドルを荒稼ぎしたらしい」
「旅に出る?」
治療とリハビリをほぼ終え、アカツキにどうするかと聞かれたときにタキガワが答えたのがこれだった。
「まぁ自分探しの旅って奴だ。あちこち回って、自分の幸せって奴をもう少し考えてみるさ」
「何にせよ、自分の将来に前向きになったことは良いことだよ」
「で、まずは原資として100万貸してくれ」
「は?」
「で、真っ先に向かったラスベガスでその原資をあっという間に1000倍にしたらしい」
「賞賛すべきか、呆れるべきか悩むな」
「とりあえず、両方でいいんじゃないか?」
その頃、NAISの研究開発部の面々のお昼休み。今日のランチのお店に向かってテクテク歩く道すがら、ラピスはハリに話しかけた。
「ねぇ、ハリ。ハリってもうヒゲとか生えてきてるの?」
「ちょっとずつね、まだそんなでもないけど」
「そう。大人になったら、ハリ、無精ヒゲ禁止ね」
「は?」
「ヒゲは毎日、キチンと剃ること」
「なんで」
「似合わないから」
「???」
ラピスにも、タキガワから得たものは有ったようである。
fin
Postscript
最後までお読み頂きありがとうございます。
そしてご無沙汰しております、と言うべきでしょうか。前作から1年半ものブランクです。遅筆にもほどがありますが、ご容赦下さい。
というわけでaffectionシリーズ第4話をお届けしました。
この話、元々はこのシリーズではなく、独立した短編にするつもりだったんです。
もし何らかの理由でハーリーが並行世界にジャンプしたら。ただし逆行ではなく、未来に。逆行ジャンプパターンは最早、多くの方がやってるパターンなのであえて後ろではなく前にジャンプしたらということを考えてみました。
ところがそうした場合、キーになる人物がルリしか居ないんですよね。あとサブロウタくらいですかね。何か足りないんですよね、って煮詰まりました。そこにふと魔が差したのです。このシリーズのラピスと絡ませてみたいと。絡んだの一瞬だけですけどね。
落ちは決めてましたけど、この落ちに向かうまでの筋道作るのにちょっと時間かかりましたが、なんとか、話としてまとまりを得たのではないかと思います。
本来予定していたエピソードが第5話になります。が、如何せん、時間がかかりますので、あまり期待をせずにお待ちください。子供の描写見ていて気づく方もいらっしゃるかもしれませんが、私、妻子持ちです。しかも年齢もちょうどマドカと同じくらいの子がいまして、育児に時間を取られてなかなか、ゆっくりと創作に時間を取るのが難しいのですが、頑張って次のエピソードを纏めてみようと思っています。
それではまた機会がありましたら第5話にてお会い致しましょう。
2010年2月
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