【来訪者】

 

雲ひとつない蒼い空、照りつける太陽、小山を背に、郊外の丘の上に立つ教育施設に続く長い坂道。
もし、この条件を聞かされた者は即座にクーラーの利いたバスか乗用車で坂道を上ることを選ぶはずだろう。だが、周囲には風に触れる木々が目に映り、飽きない景色を見せ続けてくれる。
「あ、あづい…」
最早、その鳴き声を完全にコピーできると言ってもいいほどに頭の中に受け入れたのは明らかに一匹や二匹ではない大量の蝉の鳴き声。できるものであれば、耳を塞ぎたい一心であるが、それができるのであれば全く持って苦労はしない。
仕方なしに被っていた鍔広の麦わら帽子を深く下げる。聞こえてくる鳴き声の量は相も変わらずだが耳に入ってくる音量が少しだけ下がったことは嬉しく思わなければならない。
夏が暑いというのは万国共通であり、それは風華学園の通学路とて例外ではない。
直射日光の下にいる人間は少なく、時たまにすれ違う人々の大半は日陰の下を通っていた。暑さから逃れようとしているその足元に、野良猫などが座り込み、涼しそうに午後の睡眠を貪っている。
猫の安息の時間を邪魔せぬ為に慎重に歩を進める。
人間に慣れているのだろうか?猫の方は人間が接近していると言うのに、全くの反応を示さない。珍しい猫がいるもんだ。
暑さと蝉の鳴き声に苛まれつつも歩を進めていく。しかし、全ての行動には「きっかけ」があるようにトラブルというのは一体どこに落ちているのかわからない。
そんな事を考えながら歩いていたのがいけなかったのか、足の底に柔らかい何かを感じ取った。
「フギッ!?……フッ〜〜〜!!!」
聞こえてくる謎の小さい悲鳴。そして、次に聞こえてきたのは最初は小さく、徐々に音量が上がっていく唸り声。恐る恐る、壊れた人形みたいに顔を振り向かせてみる。
すると、そこには自慢の尻尾を踏まれたことによる怒りで歯を全開に剥き出しにするほどの唸り声を発する普通の猫よりも大きめのサイズを誇る猫であった。
ゆっくりと足を尻尾から退け、まるで、暴れ馬を落ち着かせるような手の動きで猫の動きを制しながら足を後退させていき、あと一歩でそこから逃げ出せそうになるが未だに歯を剥き出しに唸り声を上げ、更にガラガラヘビよろしく尻尾と毛を逆立たせている猫の姿を見た時、彼は――
「ご、ごめんなさぁぁぁぁぁぁぃ〜〜〜!!!!」
己の体質をただ恨めしく思ったのだった。

+++++++++

「い、痛…いたたたたた」
二十代目前の若い顔におよそ似つかわしくない数十本の引っ掻き傷を拵えてそこに戻ってきたのはおよそ十分後であった。全力疾走と暑さは貧弱な体に思った以上のダメージを与えており、心なしかその足もふらつき気味である。
生まれつき不幸に遭遇しやすいという謎的な体質ではあるが先程のようなことは基本的に慣れていた。慣れ、とはある意味で人間の持つ最終武器だと認識したくなる。
「いつつっ……」
痛みで思わず引っ掻かれた顔に手を当てる。
「消毒した方がいいかな…」
そう考え、リュックを下ろしチャックを開けて中身を探る。心配性な姉からは遠出の際には常備するようにと言われた消毒液を取り出すためだ。
しかし、小さなリュックサックには不幸体質がどのような状況に巻き込まれるかできる限りの想定をしていたのか多彩な物が詰め込まれていた。懐中電灯や虫除けスプレー、もっと凄いものは発煙筒までもが入っていた。
思わず、苦笑してしまいそうになるが折角入れてくれた物に文句を付ける気は無く、そのまま消毒液探しを続行した。
「……あった!」
リュックの底の方まで漁り、ようやくそれらしきものを見つけると喜びの声を上げて消毒液を取り出そうとする。
「ぬ、抜け…ない!」
しかし、掴んだのはよかったがそこから手が抜けなくなってしまった。
元々、雑多であった中が漁ったせいで雑多となってしまった荷物の中は消毒液を持った手を通してくれる隙間が無くなってしまったのだ。
「む〜!」
力を更に込めるが抜ける気配など皆無。最終手段としてリュックを両足で挟むように固定した上で引っ張るという荒技までも繰り出した。
全身全霊の力を込めている。それを証明するかのように上半身がのけぞり、頑張れば完璧なブリッヂが完成するというところまで迫っている。
「う〜ん!……うわぁ!?」
全身全霊の力を込めて上半身がのけぞるまでに頑張った功が奏したのか、消毒液の入ったプラスチック製の容器が右手に握られているのを視界に収めた。そして、それと同時に雑多に詰めこまれていたリュックの中身が空を泳いでいる瞬間も視界に収めた。
思いっきり体を後転させたと気付いた時、次に感じたのは歩道の硬い感触だった。
「あれ?え、え……」
ここは上がり坂、後方に転んだその末路は…
「およよよよ〜!と、止めてえぇぇぇぇぇぇぇぇ〜……!!」
大音量のその叫び声はあまたにいる蝉の鳴き声と重なって真夏の太陽の下で響いた。
そして、転がりが止まったのはそれから数秒後。丁度、坂のスタート地点辺りにあった郵便ポストに激突してのことだった。
「およ…およよ…」
猫に引っ掻かれる、消毒液を取り出そうとすれば荷物は散乱、挙げ句の果てには坂道から転げ落ちる、と本日も不幸体質は絶好調。幸運に転がる気配など微塵もない。
ポストに直撃した後頭部をさすりながら立ち上がり、あちこちに散らばったリュックの中身に視線を移す。ほんの少しの逡巡の後に散らばった荷物を拾い始める。大抵の物は自分の周りに集中して拾いやすい位置にあるのだが、一番大事な二つ折り式の財布が歩道の向こう側に開いた状態で転がっており、早足気味に道路を渡って財布を拾い上げる。
するとある物が目に写り、財布の中にあった物をじっと見つめる。
それは、写真だった。
端の部分は長い年月が経つにつれて茶色く変色している、だが、そこに写っている人物の特定は可能であった。写真には三人の人物が写っている。
長身に見合った筋肉質な体つきが特徴的で立派な髭を蓄えている壮年の男。その人物を中心に両脇には、ラフな格好をした少年と長く伸ばした長髪にワンピース姿の少女がいた。

懐かしい。

その写真を見る度に思うことがそれだった。目を瞑れば、それだけでも写真の人物との思い出が蘇る。
名残惜しそうに財布を閉じると、視線を丘の上に立つ施設――風華学園へと移す。

野上良太郎

2007年7月 風華学園に続く坂道を再び上り始める。

そこにある伝説、『媛伝説』を求めて……



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