人はうまくいかない時、運命のせいにする。

人は自らの力ではどうにもならない時、運命のせいにする。

人は、まるで運命が意志を持っているかのように語る。

果たして運命とは何なのだろうか。

 

 

夢だ…

僕は、またあの夢を見ている

僕は顔を見渡せた。そうだ、いつもの光景だ。

夢の中にいて、それが夢だとわかる時、何故人は空虚さを禁じ得ないのか。

何度も目にする目の前にあるその光景を眺めることで、それが夢である事を彼に知らしめる。

だが、足の裏には固く冷たい土の感触が絶えず伝わってくる。視界に映っている空には全てを包み込むような漆黒の天鵝絨(ベルベット)が張り付いているようだ。

僕は歩き出す。それは、いつもの行動。

どれほど歩いたかわからない。どれほどの時間が経ったのかもわからない。

だが、たどり着く所はいつも同じ。

そして、たどり着いたその場所でする事も同じ。

周りでは、何かが蠢いている。
不意に暗い空間が蠢きぼんやりと黒い影のはっきりとした姿を写し出す。その正体は見ても分かるように人間ではない。
化け物――そう言っても差し支えはないであろう。それらはゆっくりと僕の周りに集まろうと歩を進める。

僕は顔を上に向ける。そこに見えるものも同じもの――星ひとつたりとも輝くのを許さないように広がる闇の中に唯一つ輝く満月。
その傍らに光るもう一つの物体。
それは血のように赤く、美しい星だった。その位置関係が幻想的で綺麗と思うと同時に僕は恐怖を感じてしまう。
赤い星は化け物が近づいてくるたびに輝きを発する。それは、ただの偶然とは考えられなかった。

僕は、その赤い星が僕を見下して嗤っているように見えた。

「また、あの夢だった…」
良太郎はベッドから半身を起き上がらせると、額に浮かぶ寝汗を拭いながら呟く。
これで何度目だ。同じ夢を見るのは…
人間の人生において、同じような夢を見るのは何も珍しいことではないかもしれない。
だが、内容が全く同じの夢をほぼ毎日見るようになることは人間の人生においてありえることだろうか?
最初にその夢を見たのは三週間ほど前、その時はおぼろげにしか覚えていなかったので気に留めなかった。
その次は一週間後、その次は三日後と日ごとに夢を見る間隔は狭まっていた。
「そういえば……」
良太郎は自分の姉が経営する店の常連客が話していたことを思い出した。
不思議な夢というのは脳でイメージした人や場所、そして自分のまだ見ることのない心の一面を表し、不思議な夢ほど本当の夢の形だと考えられる、と。
ならば、あの夢は一体何を表しているのだろうか?
更に良太郎はその話をもう少し掘り下げ、先程の夢に関して考えるがいまいち答えに辿り着かない。
時間にして数十秒ほどだが、予備知識なくして答えなど辿り着くわけがないと思い知らされた良太郎は仕方ない……と一言呟き、ベッドから降りる。
自分の見た不思議な夢に関して明日絶対にやってくるその常連客に訊くことに決定したのだ。
ベッドから降りたのは、再び眠るためのきっかけ作りに水を飲む為だった。

良太郎は店のカウンターの中にある冷蔵庫のドアを開けて、500mlペットボトルに入っているミネラルウォーターを飢えた野獣のように体内に流し込むと、水分が体中に巡りわたるのを実感した。
数時間以上冷蔵庫で冷やされたそれは夢のお陰で熱くなった身体を冷やすには十分な物であったようだ。
もう一度水を煽る。しかし、食道に流し込まれるはずの水が誤って気管に入り込んでしまい、静寂を奏でていた筈の台所に数回の咽る声が響いた。
咳と共に出てきた唾液を手で拭うと、良太郎の目はの壁に掛けられた時計に移った。
夜光塗料で塗られた長針と短針は部屋の明かりをつけずとも今の時刻を知らせてくれる。今は夜中の三時過ぎだ。
起きるには早すぎる、新聞配達の準備が始まるかどうかぐらいであろうか。
あと、数時間もすれば、夜という侵食の時間は日の光によって駆逐されていく。だとすればこの後の行動は言わずがもだ。
もう一度水を飲み、ペットボトルを冷蔵庫にしまい部屋に戻ろうとしたのだがその足がふと止まった。
「………」
店の窓から光が漏れている。それが月光だと思うのに時間は要らなかった。
部屋に戻る為に使う階段から良太郎は窓に向かって歩を進める。スリッパの柔らかい底が木製の床と重なるたびにキュッキュッと可愛らしい音を出す。
だが、窓に向かっていたはずの足が止まる。良太郎は先程の夢のことを思い出していた。
あれは夢という一言では片付けにくい現実さを持ち合わせていた。まるで、今この場にいることが夢の中にいると錯覚してしまうくらいに。
そんなことはあるわけがない。頭では理解しているはずなのに、窓の外を覗きこみたい衝動に駆られるのは何故だろうか?
止めていた足を再び動かして良太郎は窓から外を覗き込む。
綺麗な星空が目に映っているが良太郎の目は夢にあった赤い星を探していた。
だが、いくら探してもそんなものは無く、綺麗な星空の中でひときわに輝きを放っているのは月のみであった。
「そんなわけ、ないか……」
溜飲が下がったのか、良太郎は自嘲気味に言葉を紡いだ。
夢の中でのことが現実に現れるわけがない。
そんな風に考えながら、窓から踵を返すと再び可愛らしい音を出しながら自分の部屋へと帰ってゆく。
良太郎が部屋に帰ったことによって、静寂が訪れた店の中。
窓から見える夜という海の中に漂う月の隣で、血のように赤い光が一瞬だけ煌いた事に一体誰が気づいたであろうか。

【来訪、その一歩前】

とある町の路地裏にひっそりとある隠れ家のような店の入り口には木目の看板が出ている。
懐古的な外装を持ったその喫茶店の看板には『ミルクディッパー』という名前を持っている。中に入れば星をテーマにした内装と展示品が来訪を告げるベル音と共に入ってくる客を出迎え和やかな雰囲気を与える。
老若男女を問わずに好まれるような場所であるが、何故か男が多い。
右を向けば、男達が熱心に店主を見つめている。
左を向けば、男達が熱心に店主を見つめている。
正面を向いても、男達が熱心に店主を見つめている。
午後の一息を過ごそうと思うサラリーマンがそこに集中していても何ら問題も無い。だが、重要なのは男達の種類、スーツを着たサラリーマンから、美少女アニメの絵がプリントされシャツを着こなす分厚い眼鏡を掛ける男、果てまではビジュアルホスト系まで席は男だらけである。
女気が皆無であるこの状況を作り出してしまっているのはカウンターでネルフィルターに入ったコーヒーの粉に中心から「の」の字を描くように湯をゆっくりと粉の表面に注いでいる女性の存在にあった。
店主である彼女の名は野上愛理。
元は自分の父親が経営していた星に関する書籍を扱うライブラリーカフェ『ミルクディッパー』を営む現店主である。
若い女店主がおいしいコーヒーを淹れてくれる。男の心に直撃するものがこれ以上にあるものだろうか。味も良し、店主も良しと文句の付け所が無く、彼女に惚れるなというのは無理な話だ。
そうなると、是非とも彼女にお近づきになりたいという男が現れるのは至極当然であり、。惚れる人間も尋常な数ではないはずだ。いつしか、ミルクディッパーには常に彼女目当ての男性客が多数たむろするほどになってしまい、勇気を出して愛理に告白をしようとする者もいるが、愛理目的の常連だらけなので足の引っ張り合いばかりである。
しかし、そんな常連達でもお客なので、経営者の立場として愛理はキッチリ線を引いている。
もちろんその線を踏み越えていこうとするツワモノもごく少数存在するのだが、今のところ成功者は出ていない。
同時に肝心の愛理本人にはその自覚が無く。その頭の中には、店の切り盛りと美味しいコーヒーを入れること、そして夜空にきらめく星が大半を占めている。
しかも、かなりの天然ボケのためにお近づきになりたい男達や勇気のない者が置いていったプレゼントなどは全て『忘れ物』として処理されており、玉砕される者も多い。だが、それでもなお、愛理に何度もアタックする者が多いのも事実である。
「どぉ〜もぉ〜!」
「どうも、こんにちは…!」
来訪を告げるベル音と共に二人の若い男が先を争うようにして入ってくる。
片方は襟首を掴んで相手を先に進ませようとせず、もう片方の男は相手の脛を蹴り上げ、悶絶している隙に先に進もうとするなどある意味で子どもの喧嘩のようである。
来店してきた二人の若い男―柄の入ったスーツを着こなし、肩まで伸びた茶髪の下で笑顔を作っているこの男は、自称、愛の雑誌記者の尾崎正義。
もう一人の男の名は、三浦イッセー。スーパーカウンセラーと自称しているが和服にハンチング帽とメガネをかけ、首から数珠をさげているその姿はミルクディッパーの中にいる客の中でも最も異彩を放っており、カウンセラーというよりは怪しいオカルト関係者と言い換えても差し支えはない。
この二人も店の常連客であり、愛理に思いを寄せていることは言うまでもない。
「ちょっと、三浦く〜ん。邪魔なんですけど!」
「うるさいっ!貴様こそどけ!私が最初に入店しようとしたんだからな」
「残念だけど、僕の靴が1cmほど君より先に入っていたんだよ?だから僕が先に、入店するんだっ…よ!」
「1cmだと?そんな軟弱な長さで先に入ろうとしているのか、ええい醜いぞ貴様っ!!」
「どこが!?君よりも先に入っていることは事実だから!」
「あら?尾崎さん、三浦さんそんな所でどうかしたんですか?」
入店してもなお、カウンター席に現れない二人に愛理は不思議そうな表情をして声を掛ける。
すると、互いを罵り合う声がピタリと止むと同時に尾崎と三浦は愛理の顔を見るや否や先程までの表情とは打って変わって綻ばせて、いつも座っているカウンター席へと駆け寄る。
「あぁ〜!どうも、すみません!どこかの誰かさんのお陰で入れなかったんですよぉ〜」
「どこかの三流雑誌記者が普通に入ろうとする私のことを妨害しまして入れなかったんですよ、おかしいですよね!」
二人は互いにそう言うと同時にジト目で互いを視線で突き刺す。
店内の客誰から見てもこの二人の仲が良くない、犬猿の仲だということは判る。だが、周りの客よりも近い場所で二人を見ているはずの愛理は「お二人とも、仲が良いですね〜」
と、天然ゆえか微笑みながら見当違いな事を言っている。
睨み合ったままでは埒が明かないと判断したのか尾崎と三浦は渋々とカウンター席に座る。
「あ、そうだ。三浦さん、ちょっといいですか?」
「へ……私に、ですか?」
思い出したようにポットを静かに置くと愛理が微笑みながらそう言うと愛理の見えない所、カウンター席の下で互いの足を蹴り合っていた三浦は一瞬だけ驚いた表情を見せるが好意を持つ彼女から話しかけられたことによって、三浦の顔には一瞬にして笑顔が宿る。
「は、はい!なんでもどうぞ!」
ある意味で瞬間的と言える速さで三浦は返事をすると同時にちゃっかりと愛理の手までも握っている。
それに対しての尾崎は三浦の行動をおいそれと見逃すわけもなく、握っている手を叩くとパチンっと小気味のいい音が店内に響く。
はたかれた手を擦りながら、尾崎を睨もうとした三浦であったが笑顔を作って愛理の方へ顔を向ける。
「そ、それで一体何でしょうか?」
「はい。実はうちの良太郎が三浦さんに相談したいことがあるみたいなんです」
「良太郎君が?」
愛理のこの言葉に尾崎は頭に疑問符を思い浮かべて愛理に聞き返す。少なくともペテン師と詐欺師の区別がつきそうな一般人であるはずの良太郎が何故、自身をスーパーカウンセラーと高らかに自称する胡散臭い男に相談を持ちかけるのであろうか。
「えぇ、良太郎 ここ最近、変な体験をするようになったらしいんですよ」
愛理の言葉に三浦は顎に手を添えて静聴する。
「で、私が三浦さんだったらそういうことに詳しいはずだから訊いてみたらって言ったら、そうするって」
「なるほど……そういうことだったのか」
「お願いしてもよろしいですか?」
「勿論!このスーパーカウンセラーの三浦イッセーにお任せあれ!」
愛理の言葉を待ってましたかのように耳の中に入れた三浦は凄まじい勢いで奇声にも似たしかし、辛うじて人間としての声と認識できる声を発しながら椅子の上に登ってあさっての方向を指差しながら仁王立ちになった。
もし、それが銅像であれば有名になるであろうポーズで。
「ちょっ、ちょっと!いいんですか、愛理さん!?こんなインチキ臭い奴に任せて」
隣で全てを聞いていた尾崎は反射的に三浦に指を刺し、愛理に反対の声を挙げる。
「インチキとは何だ!インチキとは!言っておくがな、私は正統な所で学んだのだ。お前のようなカストリ記者と一緒にするな!」
「何がスーパーカウンセラーだよ!良太郎クンを診察するよりも、自分のことを診察したほうがいいんじゃないのぉ?」
「何だと!」
「何さ!」
愛理の手前、互いに手は出さないがすぐにでも殴り合いが起きてもおかしくない状況である。互いに睨み合い、視線を外せば負けという単純明快な視線と視線のタイマンが繰り広げられ、愛理が電話で連絡し良太郎が帰ってくるまでの間、尾崎と三浦の間には濃厚な空気が漂い続けたのは言うまでもない。
「た、ただいふぁ……」
愛理の頼まれ事を終えてミルクディッパーへ帰ってきた良太郎の体には『本日の不幸』が目一杯に刻まれている。買い物に行く途中かそれとも帰る途中でこけたのか、今時の若者らしい服装には似合わない大量の土や砂が付着し、林の中を駆けたのか頭には蜘蛛の巣、顔などには小さな擦り傷などが目立つ。そして、極めつけが両脇に抱えた大量の本と口に銜えたビニール袋。歯に力を加えているためか、プルプルと震えて今にも落としそうになりながらも何とか踏ん張って店の中に入り、それらをカウンターの上に置くと、周りの客は心の中で拍手喝采した
「良ちゃん、ご苦労様」
愛理は帰ってきた良太郎に労いの言葉を掛けながら、ビニール袋の中にある食材を一つ一つ冷蔵庫に収め始め、良太郎はゼーッゼーッと息を荒く吐きながら、カウンターに突っ伏した。
「大丈夫かい?良太郎君」
あまりの姿に三浦が声を掛ける。良太郎は先程よりは整った呼吸をしながら「あ、三浦さん……」と三浦の方に気付く。
「だ、大丈夫です…慣れていますし」
「そ、そうかい?あ、ところで私に何か相談したいことがあるって聞いたのだが」
「あ、そうだった……三浦さんにお聞きしたいんです……実は」
そう言って、良太郎は三浦の方に体を向ける。いつの間にか、カウンターの上には胴長のグラスに注がれたコーヒーやカフェオレの類のモノではない色の液体――愛理が良太郎のために作った黒ゴマとヒジキを豆乳に混ぜた健康ジュースが置かれており、喉を潤そうと知らず内に手を伸ばし一口だけ飲んだ良太郎は苦い顔をしながら、ここ最近の妙な出来事についての話を切り出した。

+++++++++

「同じ夢を何度も見る、か」
顎に手を添えて全ての話を聞き終えた三浦は考え込む。
「はい。さすがに何度も続くと変な感じがして…」
そう言って良太郎は健康ジュースに手を伸ばす。恐る恐る一口飲むとその表情が歪む。普通の人間ならば残すことには躊躇いを覚えないだろう。しかし、良太郎としては愛理がひ弱な自分に作ってくれたものを残すことには躊躇いを覚え、ちびちびと飲みながら確実にグラスの中の減らしていく。
「なるほど…非常に興味深いぞ…!」
つい先程まで顎に手を添えて考え事をしていた三浦の顔には面白いものを見つけた、子供のような表情へと変わり、懐から背を糸でかがって綴じられた装幀の本が取り出され、開くと墨を湿らせた小筆を本の中に走らせる。
まるで、リミッターが外れたかのように三浦は本に――通称『良太郎レポート』に文字を書き込み始める。良太郎はそっとノートの中を覗き込むがそこに書かれている三浦の字はひらがなだけが辛うじて読めるぐらいで漢字に至っては黒く塗りつぶされた何かにしか見えない。全くの解読不能である。
「あの…三浦さん?」
解読不能文字を次々に書き出し、書くスペースが無くなったと思えばページを捲ってまた書き始めるの繰り返しが暫くの間続き、何とも言えない空気に良太郎がもう一度声を掛けるが、
「状況である夜をxとし、そこにあった赤い星とやらをyとする。しかし、夜はNightであるからNとし、赤い星はRSとしよう。そして、この二つの関連性を証明するには三浦心理法則式と三水準の対象比較の方法を活用すればいいとして………」
「………」
ある意味で、声を掛けたくない状況ができてしまっている。
「良太郎く〜ん!」
このまま放っておく訳にもいかないので更にもう一度声を掛けようとするが後ろから聞こえてきた気安い陽気な声によって中断された。
「ダメだよぉ、こんなエセ祈祷師じゃなくて僕に相談した方がいいって!そういう夢ってさ、本人が抱えている悩みとかが原因だって聞いたことがあるんだ。だから、僕に言ってみなよ」
陽気な声の主は尾崎であった。良太郎の肩を掴み、弟を持つ兄のような声で話しかけてくる。
このミルクディッパーの中で愛理目当ての男達は二種類のタイプに分けることができる。
一つはプレゼントなどをして愛理に行為を伝えようとする者達。もう一つは『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』という者達だ。
これらは弟である良太郎に取り入り、いざというときに便宜を図ってもらう為だ。その為、店の客達は良太郎を弟(未来の)として扱っているがその筆頭が尾崎と言ってもいい。
「貴様…、良太郎君は私と話をしているのだ!とやかく首を突っ込むでないっ!」
『良太郎レポート』に解読不能文字の記入をようやく終えたのか三浦は良太郎から尾崎を引き剥がす。
「首を突っ込むとはとんでもない!彼がオカルトなんて下らない世界に引きずり込まれないようにしているだけさ!」
「カストリ雑誌記者の貴様がそれをぬかすか。まぁ、いいだろう…今回の出来事は良太郎君に取り憑いている悪霊の仕業であることは明白だ!今にスーパーカウンセラーの凄さを思い知らせてやる!」
引き剥がされたことが気に食わないのか尾崎はバカにしたような口振りで言う。
対する三浦も負けておらず、尾崎にビシッという効果音が付きそうな指さしで高らかに声を上げる。
「これだから、オカルト人は困るなぁ!いいかい!?男ってのはね、いくつものの仮面を持っているものなんだよ!悪霊が取り憑いている?馬鹿馬鹿しいね、やっぱり自分が診てもらった方がいいんじゃないの」
「ふん、愚かな奴だな…狭い視野に捕らわれているとは…!超常的なことに目にしてもなお、それを認めずに目を背けることはそれに対して恐怖を抱いているのと同じ!それで記者とは片腹痛し!!」
互いを罵る言葉が飛び交い、尾崎と三浦の間には不穏な空気が流れ始める。その証拠にカウンター席に座っていた他の客は自分の飲み物を持って避難を始めていた。
「あ、あの三浦さん、尾崎さん……落ち着いて」
不穏な空気のまっただ中にいる良太郎は何とかして二人を鎮めようと声を掛けるが、三浦と尾崎の耳には良太郎の声は入っておらず、今の二人はさながらコブラとマングースの状態だ。
(ど、どうしよう…)
この状況に慌てふためく良太郎。元々は妙な夢を見るようになったことを相談しただけなのにどこをどうしたら殺気が孕んだ視線が飛び交う状況を作り上げることができるのであろうか。
愛理にも救いの手を求める視線を投げかけるも本人は良太郎の視線に気付いてもにこっと微笑むだけで、止めるどころか客から受けた注文であるサンドイッチ作りを再開していた。
「三浦くん…君とは一度ははっきりさせておかなきゃならないと思ってたんだ」
「奇遇だな。私も丁度、思っていたところだ」
「あわわわ……」
周りに優しくない無慈悲的なメンチの切り合いがここまで激化するのはマズイと良太郎の脳が判断すると、二人の間に入り込もうとした。
だが、宥めの言葉を発しても視線と視線のタイマンが止まる事はおろか、弱まる素振りさえもは見せない。
いい加減に限界が近付いてきた良太郎の耳の中に響いた音は天使の如き救いの声かそれとも破滅を招く悪魔の声かベルの音がミルクディッパー内に鳴り響く。
「いらっしゃいませ〜」
客の来訪を告げるベルの音に合わせて愛理が入ってきた客に挨拶をする。
客が入ってきたから、それとも愛理の声が聞こえたからか、どうやら、それらは救いに値するものだったらしく、その証拠に尾崎と三浦のタイマンはピタリと止まった。
入店してきたのは男であった。白みのかかった灰色の髪の毛がその男が四十から五十代にかけた中老である事を語っていた。中肉中背の体にまとっている足下まで隠れる学生服のような服とその色で烏を連想させ、首から下がった十字架のアクセサリーが印象的だ。
男は店内に足を踏み入れても、顔をあちこちに向けている。その行為は待ち合わせの人物を捜しているようにも見え、空いている席を探しているようにも思える。
「良ちゃん、お客さんを席にご案内して」
愛理は男の行動を席探しと考えたらしく、良太郎に促した。姉からの指示に反応し、良太郎は即座に行動に移した。
「お待たせしました。どうぞ、こちらの方に……」
男の元へと歩み寄ると良太郎は席の方へ案内しようとする。しかし、途端に妙な感覚を覚える。それは目の前にいる男が良太郎の顔をじっと見ているからだ。
「あの…」
「失礼ですが、君の名前はもしや、野上良太郎では?」
「え?あ、はいそうですけど………」
驚きが抜け切れていない良太郎は返答する。
良太郎の記憶が正しければ、この男とは初対面のハズだ。だが、初対面のハズの人物が何故自分の名前を知っているかという疑問よりも問い掛けに対する返答を優先させてしまったのは、突然的に発生する出来事に何度も直撃しているために慣れてしまった為であろうか。
「そうですか、君があの人の……」
良太郎の返答を聞いた男は柔和な表情を浮かべてふむふむと納得したように頭を頷かせる。しかし、とうの良太郎は今の状況に全く理解が追いついていなかった。おそらく、彼の顔には混乱という文字が右往左往に行き来していることだろう。
「あ、あの…」
「ん?あぁ、失礼」
そう言うと、男は丁度、コーヒーの粉にお湯を注ぎ終えた愛理に顔を向けた。
「いきなりで申し訳ないのですが、彼とお話がしたいので少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」
普通ならば、誰もがこの男に疑いの念を抱かざるを得ない。その証拠と言わんばかりに尾崎と三浦が二人揃って、腕をクロスさせてバツの字を掲げている。
「えぇ、どうぞ。じゃあ良太郎、あちらの席にご案内して」
直視すればそれに撃墜された男は数知れずの笑顔を作りながら、愛理はカウンター席から離れた――窓際に近い席を指す。カウンターから離れているとは言っても、その距離は数歩ほどであり、しかも、きっちりとその席の全てが目に入るほどであった。
「どうぞ」
「これは、どうも」
男の前に愛理が淹れたコーヒーが置かれる。男は軽く会釈して白い陶磁器の取っ手を掴むと顔の前に持っていく。立ち上るブレンドの風味を鼻腔へ招き入れ、そして、カップの縁に口を付けてコーヒーを少しだけ口の中に招き入れる。
向かい合わせに座った良太郎は男を見ていた。男が淹れたてのコーヒーを一口啜り、カップを静かにソーサーに置いた時を見計らって声を掛ける。
「あの…僕に何のご用でしょうか?えっと………」
「失礼、紹介が遅れました。ジョセフです、私はジョセフ・グリーア…ある教会で神父をしている者です」
すると、男――グリーアは柔和な表情と共に首から下がっていた十字架を摘んで良太郎に見えるように掲げる。
ギリシャ十字と並んでキリスト教で最も頻繁に用いられる十字の一つである「ローマ十字」、アクセサリーにするには不似合いな複雑に彫り込まれた紋様と装飾。どうやら神父というのは本当らしい。だが、それでもごく僅かに残る疑問の念は晴れそうになかった。
「お仕事中に申し訳ありませんでした。しかし、少し急を要してまして…」
グリーアはバツが悪そうに苦笑しながら言うと、良太郎は大丈夫です、と言った。
「さて、いきなりで済みませんが良太郎君、君は考古学者の天河諭という人物をご存じだね?」
知らない人間から、自分の知人の名前を言われることがどれ程に驚きを生み出すのかがよくわかった事であろう。
「ッ!?…はい、中学と高校の時の恩師です」
良太郎はグリーアから紡がれた名前の人物を鮮明に思い出しながら、グリーアに答えた。
そう言ってグリーアは一度コーヒーを啜り、良太郎と視線を合わせた。
「野上良太郎君、私がここに来たのは……あなたに、ある『調査』の依頼をお願いしに来たのです」
グリーアは手と手を合わせ、その向こう側で細くした目で良太郎を見据えていた。
「調査、ですか?」
良太郎は思わず、グリーアの言葉を反芻させる。オウム返しのように言葉を紡ぐ良太郎にグリーアは頭を数回、頷かせる。
「そう、天河教授が手がけていたモノ――『媛伝説』の調査を教え子であった君にお願いしたいのです」

「………え?」

グリーアの言葉を聞き、良太郎はただ驚きの言葉しか紡ぐことしかできなかった。そして、その後に良太郎は本日一番の驚きを顔に浮かべることとなった。



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