【来訪の理由】



――媛伝説、それは弥生後期から、江戸の元禄宝永の頃まで、その時々の時代に合わせて史跡や文書、図画や詩歌として残されている、とある史料の総称であり、多くは、赤き凶星、巫女、宮中の祭事などについて記述されたものである――

『天河諭の研究ノート』二ページ目第三行から抜粋




「天河教授が手がけていたモノ――『媛伝説』の調査を教え子であった君にお願いしたいのです」
「ちょっ、ちょっと待って下さい!」

グリーアの言葉に良太郎は本日一番の驚きを言葉に乗せた。
向かい側に座るジョセフ・グリーアはまるで良太郎の反応を予測していたのか、表情を崩さない顔で良太郎を見据える。
天河諭、考古学界においてはフィールドワークを重視する余りに戦場にでも躊躇無く飛び込む豪傑であり、興味のあるものしか研究しないが文句の付けようのない完璧な論文を書き上げることでも有名である。
そして、両親を早くに亡くし、姉と一緒に祖母に引き取られしばらく暮らしていた良太郎にとって、もう一人の父とも言える存在であった。
「いきなりそんな事を言われても……それに『媛伝説』は先生の研究のはずじゃ」
それは同時に天河教授が自身のライフワークとした研究の題材でもあった。
長い研究の結果、媛伝説の根源がとある土地にある事を確信した天河教授は、唯一の家族である娘と共々に移り住んだということも良太郎は思い出した。
良太郎自身は媛伝説のことは知らないわけではない。ただ、それについては数年ほど前に天河教授から口頭で当たり障り程度のことしか聞いていない。媛伝説の本質的な内容を知らない人間にいきなり研究を引き継げというのはあまりにも無謀と言ってもよい。
「確かに…君の言う通り『媛伝説』は天河教授がその研究を進めていました。ですが…」
そう言うとグリーアは口を閉じる。が、数秒の間をおいて閉じていた口を開いて言葉を紡ぎ出す。
「その天河教授は現在行方不明となっているのです」
グリーアの発した行方不明という言葉に反応を示したのは僅か数名ほどの客。ほんの少しだけ顔をこちらに向けるがやがて興味が失せたのか次々と顔を元の位置に戻していく。
しかし、目の前で直接聞いた良太郎は言葉を反芻させて、再び驚きの声を上げる。そして、グリーアはそれに静かに頷いた。
「で、でも何で…先生は」
自ら研究を投げ出すような人ではない、良太郎がそう言おうとした所でグリーアの手が良太郎の言葉を遮らせた。
「確かに。私はスポンサー側の窓口担当という立場上、教授とはよく顔を合わせていますが君の言う通り、自分の研究を投げ出すような人物には見えません。それは事実です。ですが……天河教授が現在行方不明というのもまた事実です」
グリーアはまるで子供を言い聞かせる父親のような面もちで良太郎に話しかける。
「はい…」
グリーアの口調で落ち着きを取り戻したか良太郎は静かに頷いた。グリーアは未だに湯気が上るコーヒーに手をつけて、それを口の中へ招き入れる。そして、良太郎もまたいつの間に置かれたのか飲み残していた愛理特製の健康ジュースを苦い顔をしながら飲んだ。
それを見計らってグリーアが口を開く。
媛伝説研究の第一人者である天河教授が突如行方不明となったことでそれなりのダメージを被ったのと同時に宙を漂うことになった媛伝説の研究に対してシアーズ財団は天河教授に代わる人物の選考に躍起になっているらしく、彼が研究のために書き記していたノートも速記のように複雑に書かれている為にそれを見た大半は何が書かれているかさえも理解することが出来ないらしい。
本来であれば、その研究を引き継ぐべきは教え子というのが基本である。だが、天河教授は一部では和製インディー・ジョーンズと称される程の人物だ。引き起こす破天荒な行動についてこれる学生はおろかゼミ生はいないに等しい。
「僕って事ですか…でも、調査なんて…その」
確かに天河教授と供に過ごした時間は天河家の家人を除けば群を抜いている。フィールドワークのイロハを教えてもらったり発掘の現場にも立ち会ったことがある。そして、媛伝説について聞かされたこともあった。
だが、あくまで基本的なことで媛伝説に至っては伝説の大まかな内容やそれに対する推測と考察が主だった。
しかも、それらの話は何年も前に聞いたモノで正確に全てを覚えているわけでもない。とても何かの役に立つとは思えない。
「えぇ、ですから君には教授が残した資料から彼がどの辺りまで研究を進めていたのかを簡単にまとめて頂きたいのです」
つまり、それはシアーズ財団が代理人を選考している間、良太郎は天河教授が記した資料を元に教授がどの辺りまで研究を進めていたのか、実際に調査をしていた場所に足を踏み入れて調べてもらいたい、ということであった。
「あれ?でも、グリーアさんは先生とよく顔を合わせているんですよね。それぐらいのことなら僕じゃなくても……」
グリーアの依頼の内容を聞いた良太郎は素直に感じた疑問を口から紡いだ。すると、グリーアは気まずそうな顔になった。
「お恥ずかしながら……連絡役という立場の実際は、天河教授が作成した調査レポートをただそのままに財団へと渡すことにありまして、定期的な報告を受けてはいましたが、そもそも私は考古学が得意ではありませんので……」
自分の役割は、文字通りの橋渡しであって、研究の深い内容までは判らない。しかも、媛伝説などの考古学に関しては問題漢である。つまり、そういうことである。しかし、ここで良太郎に疑問点がよぎった。
「あれ?先生の調査レポートはシアーズ財団に届いているんですよね?だったら、調査なんて必要ないんじゃ…?」
そう。わざわざ調査を依頼するよりも、天河教授本人が記したレポートさえあれば事足りることである。良太郎が疑問に思うことも当然であった。
良太郎が告げるとグリーアの顔が少々曇ったようになる。
「………突然、このようなお話をして混乱を来すのは無理もないことです。このようなことは本来話すべきかどうか迷うところですが…」
迷うような表情を見せるグリーア。だが結局、思い立ったように良太郎に告げた。
「今までシアーズ財団は、媛伝説の研究にではなく、天河諭教授の人格と能力に対する資金援助を続けていました。しかし……」
神妙な顔になり言葉を濁すグリーア、続く言葉をじっと待つ良太郎。
「財団の中では、資金援助を引き継がれた学者に切り替えるか、天河教授の研究の整理を以て媛伝説の研究を打ち切りするか、という意見が出ているのです」
そられに関しての話を良太郎は理解していた。考古学における最高のフィールドワークとも言うべき発掘作業はかなりの資金を必要とする。大規模な発掘作業を行おうとすれば纏まった資金など羽が生えたかのように飛んでいってしまうのだ。
「つまり、僕の役目は?」
「強いて言うならば、上層部が判断を下すための材料…」
そこまで言われ、良太郎はようやく理解した。つまり、若い年齢の良太郎でさえまとめることの出来る研究ならば、他の学者が引き継いでも都合が良く。逆にまとめることができなければ、無用の長物だということ、良太郎はその判断を円滑に下させるための格好の材料という事だ。
「財団としては、君に引き受けてもらいたいでしょうが……私はこの話に強制力は無いと思います」
そう言うと、グリーアは席から立ち上がる。そして更に言葉を紡いだ。
「引き受けるかどうかは君の自由です。ですから、返事は日を改めてお伺いに参ります。では」
「待ってください」
踵を返そうとするグリーアを良太郎の声が止めた。
「その返事…今させて頂きます。先生が手がけていた媛伝説の調査を……お引き受けしたいと思います」
その言葉にグリーアの顔は驚きに満ちていた。正確には、言葉にではなく声に秘められた“強さ”にであった。気弱な声ではなく、どこか底知れぬ強さを秘めた覚悟と声にグリーアは驚きを見せたのだ。
「よろしいのですか?荷が重いかもしれませんよ」
問い掛ける声に良太郎は当然と言うように頷いた。
「先生が何故いなくなってしまったか分からないですけど、これはやらなきゃならないことだと思うんです。なにより、長年研究していた媛伝説の調査を終わらせてしまうのは先生にとってもツライはずですから」
良太郎の言葉が終わる頃にはグリーアの口の端がほんの少し上がっていた。
「なるほど、そうですか……確かに君のお返事は受け取りました。ならば、これを」
グリーアは黒服のポケットから静かに四つ折の紙をテーブルに置いた。良太郎は手にとってそれを開いた。そこには、とある住所が鉛筆書きで記されていた。
「数日後、財団から電話が掛かってきた時そのメモに記された場所まで来てください」
そう言うとグリーアの足は既に踵を返していた。そして、ゆっくりとした足並みで会計を済ませ、ミルクディッパーから出て行った。
“風華”
良太郎はメモに記されていたある名前を一点に見ていた。不思議な響きを持つその名前は良太郎の目を奪うのに十分であった。





「天河諭ぃ〜?誰だよ、そりゃ」
両足をテーブルの上に投げ出し、人間の味覚に合わずイマジンの味覚に美味しと評判を持つ、デンライナー客室乗務員ナオミのコーヒーを啜る赤鬼――モモタロスは良太郎の話の中に出てきたその名前を気だるそうに声を出す。
「うん。ずっと前に死んだお父さんの親友で中学と高校の時にお世話になった先生なんだ」
テーブルの上に乗っているレモンスカッシュをストローでかき混ぜながら良太郎はモモタロスの言葉に答える。
「じゃあ、良太郎の恩師ってこと?」
良太郎の向かい側に座っていた同い年ぐらいの女性、ハナがそう言うと良太郎は頷く。
「あぁ、その人の名前なら雑誌で見たことあるよ」
会話に盛り込んできたのは亀を人型にしたようなイマジン、ウラタロスであった。
手に持っていた雑誌をペラペラと数枚ほど捲って、会話の対象となっている人物が載っている部分を開いた。
「確か、戦場のど真ん中で遺物を発掘したって人だよね?」
開いたページ部分で大きく写っている人物を指しながら、二人のテーブルの上に置く。
そこを見ると良太郎は微笑み、ハナは驚きの表情を浮かべる。
「戦場のど真ん中って…」
「……普通にバケモンだろ、このオッサン」
驚きに満ちるハナの目はそのページに釘付けになっているとモモタロスまで会話に割り込んでくる。だが、ハナが驚いた理由は他にあった。発掘したその戦場というのは、長い激戦によって荒廃の地となってもなお攻撃が続き、一日に最低数回のなんらかの爆発が起こるという危険地帯であったからだ。
「発掘ができれば、先生は基本的にそういうことは気にしないんだ」
苦笑気味に言う良太郎。どんな屈強の戦士でも願い下げをやりかねない状況を苦笑気味に言えるのは何故だろうか?
「ハハハッ!おもろい先生やんけ。一度手合わせを願いたいもんやな」
親指で首を鳴らし、両手をハの字に開き、柏手を打つのはこの中で一番の強固な体躯を持つイマジンであった。そのイマジン――キンタロスの声には、どこか嬉しそうな調子がうかがえる。
カッコよく戦うことを主とするモモタロスとは違い、好戦的ではあるが武人でもあるキンタロスにとって常人とはかけ離れた行動力を持つ天河教授は刺激的な人物であるようだ。
「ね!ねぇねぇ!考古学って何?面白いことなの、カメちゃん?」
ぽてぽてと子供のような足踏みで近づいてきたリュウタロスはウラタロスのことを自分が付けた愛称と共に質問をぶつけてきた
ぶつけられた質問に対してウラタロスは爪を弄りながら、ほんの少し考え込んでからリュウタロスの質問に答えた。
「う〜ん、そうだねぇ…例えば、良太郎が遺跡を見つけたとするよね?この遺跡は文化的に既知のいずれに当てはまるのか。似通っているのか。あるいは未知のものなのか。この集落の担い手はどのような人達だったのか、どのような肉体的・精神的活動をもって生活を営み、周辺環境を利用していたのかを調べる事かな?」
「つまり、そこに住んでいた人達がどんな風に生活をしていたのかを調べることなんだ」
少々長い説明に良太郎がかいつまんでリュウタロスに教える。
「ふ〜ん……何だか、面倒臭そうだね。良太郎の先生ってそんな事やってて楽しいの?何が面白いの?」
幼ささ故かリュウタロスは首を傾げる。
「人が何をやろうが別にいいだろうが、そいつにとって考古学ってのは、お前がおもちゃで遊ぶみてぇな感覚で楽しいんじゃねぇか?」
良太郎が答える前にモモタロスがぶっきらぼうな口調で先に答える。
「モモタロスには訊いてないのに何で答えるの?空気読んでよ」
「なんだと……クソガキッ!」
「お、落ち着いて…モモタロス」
リュウタロスの生意気な物言いに飲みかけのカップをソーサーの上に乱暴に置くとモモタロスは席から立ち上がろうとするがそれと同時に良太郎が怒りを抑えに掛かる。
「チッ…」
憤っていた赤鬼イマジンはしばしの逡巡の後に元の席へ戻っていった。
人間の子供にもよく見られる生意気な性分はイマジンにも例外なくあるらしい。モモタロスに生意気なことを言い、それにわざわざ反応するモモタロス。このデンライナーにおいては珍しくもない光景だ。
「それで?その天河っちゅう先生と良太郎の行くところに何か関係あるんか?」
「あ、うん。僕が今から行く所で先生はある“伝説”の調査をしていたんだ。その名前は“媛伝説”」
「「「「媛伝説?」」」」
デンライナーの中で見事に重なった声が発せられる。
「それって一体どういうものなの?」
当然とも言える疑問をハナは投げかける。
「僕も詳しいところはよく解らないんだけど、何でも悲劇の伝説らしいんだ」
「何だか、かったるそうな話だな」
モモタロスを引っぱたくとハナは向き直って良太郎に尋ねる
「ねぇ、良太郎それってどんな物なの?」
「うん。媛伝説は弥生後期から元禄宝永までの1800年間で起きた宮中の祭事、巫女と、乙女の悲劇についてのことなんだ。時代に合わせて様々な史料が残されているから、結構有名な物だって先生が言っていたんだ。」
「すごく深い伝説なのね…でも、これぐらいだと調査にもお金とか掛かるんだろうね。考古学って文系でしょ?」
「うん。だから、シアーズ財団が援助を名乗り出た時は先生も結構、嬉しそうだったみたい」
言葉を紡ぐと良太郎は微笑んだ。ハナもつられて頬を緩めた。
「しかし、悲劇・・・ねぇ。女の子が食いつきそうなネタじゃないな」
残念そうな声を出すウラタロス。モモタロスとハナは呆れたような目つきでウラタロスを見る。そして、良太郎の耳にデンライナーのミュージックホーンが入り込むと同時にナオミはマイクを手にとって車内アナウンスを始める。
『もうすぐで到着です。良太郎ちゃん下車の準備をお願いしま〜す』
その声に応じ良太郎は下車の準備を始める。
それと同時に、良太郎は頭の中を漁り数日前に出会った神父――グリーアとの会話を思い出していた。

『君の言う通り、自分の研究を投げ出すような人物には見えません。それは事実です。ですが……』

『天河教授が現在行方不明というのもまた事実です』

風華――伝説に最も深く関われる土地に移住した教授が何故行方不明となってしまったのか。その真実はその土地にあるのではないか、良太郎は己が問うことの答えがそこにあることを考えるとどこか胸が熱くなるのを感じ取っていた。
リュックサックを背負って良太郎はイマジン達からの送りの挨拶と共に食堂車から足早く出ていった。

++++++

「気になるねぇ…」
「あ?何、が…気に…なるんだよ?」
良太郎が目的地に着いたデンライナーから下車して数分程経った時、カラカラとグラスの中に入った特製コーヒーと氷をストローでかき混ぜながらウラタロスが声を出すと、良太郎が降りる前から挑戦している知恵の輪に四苦八苦しながらモモタロスはその声に反応する。
「さっきの話。少しばかり、面白い名前が出てたからさ」
「あぁ、確か、何とか……アンズ財団だったか?」
天然で言っているのかそれとも、わざと言っているのか。どのようにすれば、大幅に間違った名前になるのだろうかとウラタロスは心の中で溜息をつく。そして、とりあえず『アンズ』ではなく、『シアーズ』と訂正の言葉を送る。それを聞いたモモタロスは「どっちも同じだろうが」と、ある意味で開き直りとも取れる態度で言い返す。
「そのシアーズ財団のコトなんだけどさ、魚臭い…ていうか妙にキナ臭い感じするんだよねぇ………」
カラカラとストローをかき回す手を止めると、自分の爪をいじり始める。
「ハッ!何言ってやがんだよ。臭いのは何たらって財団よりもオメェの方だろうが、スケベと亀の臭いがプンプンするぜ」
書店やコンビニエンスストア、おもちゃ売り場などでもたまに見かける知恵の輪、キャストパズルのキャストスターというもので難易度でいうと普通レベルのパズルを引っ張ったり、カチャカチャと金属音を忙しなく立てて、モモタロスはウラタロスにぶっきらぼうな口調で言葉を投げる。
「先輩さぁ………前々から思ってたんだけど、ちゃんと頭の中に言葉を通して言っているの?自分が言ってることわかってんの?」
「あ?」
「餌を取り付ける場合には、しっかりと針を通さないとね。口に出す前にまず、頭に通さなきゃ…ねぇ?」
「気のせいか、バカって聞こえるぜ?」
「あぁ、ごめん。先輩には言葉を通すほど頭の中身はスカスカだったよね。すっかり忘れてたよ」
自分の頭をコツコツと指先で叩いてウラタロスはわざとらしく言った、というよりもわざと言った。
オーバーアクションと言えるウラタロスの振る舞いと彼の言葉が終わると同時にモモタロスがグッと拳を握りしめるとおよそ理解できない音が食堂車内を浮遊する。そして、握り拳が開けられると中には音の発生原因でもある銀色の光沢を放つ知恵の輪が原形を留めずに拉げていた。
「上等だ……今すぐかっ捌いて亀鍋にしてやろうかぁ、あぁ!?」
自分の座っていた座席のテーブルを壊しそうな勢いでバンッと叩くと、モモタロスは立ち上がってウラタロスを睨め付ける。すると、つい先程まであやとりをしていたリュウタロスとナオミが喧嘩の始まりを感じ取ったのか、ワクワクした様子で二人に近づく。
「ふ〜ん。先輩、脳味噌が干物になっていると思っていたけど、ギャグのセンスはあるみたいだね」
「…こんのクソ亀が!!」
ウラタロスの言葉が終わるかどうか確実に頭の中の何かが切れたモモタロスはウラタロスに掴みかかる。ウラタロスも掴みかかれると同時に掴み返した。
しかし、それらの行動は無意味に終わる。次の瞬間には、二人の行動を力づくで止めた人物がいたからだ。
「いい加減にしなさいっ!」
生死の怒鳴り声と共に両の拳骨が喧嘩のゴングを鳴らした赤鬼と亀のイマジンの脳天に直撃し、その際に生じる鈍い音が食堂車内を響かせる。
「あんたらは少し目を離せば…ケンカ、ケンカって!どこまでアホでバカなのよ?!」
喧嘩の仲裁、というよりは当事者への制裁を与えたハナは頭を抑えて蹲るウラタロスとモモタロスに大音量の声を浴びせる。
「〜〜ってぇな!このハナクソ女!!」
殴られたことに対する怒りか、それとも叱られた怒りか、あるいはその両方の怒りを携えたモモタロスは怒りを忘れてハナに殴りかかろうとしていた。
「……フンッ」
しかし、今のモモタロスの状態は突っ込むことしか頭にない猪のようなものであった。ハナはそんなモモタロスに対して鼻で笑うと文字通り猪突猛進であるモモタロスを横に避けて、足払いを掛ける。
「ヌォ!?…アベしッ!」
足払いで完全にバランスを崩されたモモタロスはそのまま重力に惹かれるままに前のめりに倒れ込んだ。
「ハァッ!!」
そして更に無防備となっている背中へ空手家顔負けの掛け声と共に足が思いっきり降り注いだ。その足の持ち主は言わずがも、である。
「…てめっ!おい、ハナクソ女!んなことしてただで済むと」
モモタロスがハナに向かって怒りの言葉でも浴びせようと顔を見上げたが怒りの言葉は紡がれずにいた。
背中には人が持つにしては異常な黒いオーラ、幻覚なのか切り揃えられた長髪を持つ頭に角が二本生えているようにも見える。それらを見てモモタロスは今自分を踏みつけているのがただの女ではないことを察知したからだ。
「へぇ、どうタダで済まないか教えて貰いたいものね」
今、食堂車内は異様な空気が生まれようとしていた。凍てつく氷のような、研ぎ澄まされた刃のような。魔王降臨、満を持して、と比喩表現の方法は他にもあるが今言えることはただ一つ、血の雨が降るかどうかはモモタロスの舌先三寸にかかっているということだ。
「いや、あの……」
いくら、好戦的なモモタロスでもすぐに今の状況が頭の中に浮かび、最悪の結果を回避するための行動を始めていた。
「スンマセン、別に何も起きません。スンマセンスンマセン……」
「先輩、これでわかったんじゃないの?鮫に喧嘩を売ったらダメだって事をさ。ね?ハナさ…」
脳天に受けたダメージから立ち直ったウラタロスはちゃっかりとハナの隣に立ち、その肩に手を回していたが、その刹那にハナの裏拳が鈍い音と共にウラタロスの顔の中心にめり込み、地に伏せることになってしまった。
「あんたも同罪よ」
ハナの冷たい声がウラタロスの耳に届いたかどうかはさておくとして、自分を馬鹿にしていた相手が鉄拳制裁を受けて惨めに地に伏せている姿を見てモモタロスは悪ガキのような声をハナの隣で出す。
「ヘッ!バーカ!バーカ!」
「うっさい!」
「ヘブンッ!!」
見事に裏拳はモモタロスの顔面に直撃する。よく見てみれば、若い女性特有の柔らかそうな肌に一体どれ程の破壊力が秘められているのだろうか。
「ナオミちゃん、あたしちょっと降りるからこのバカ達をお願いね」
「ハ〜イ!あれ?でもどこに行くんですか?」
「ちょっと、愛理さんの所にね。良太郎の言ってた先生の事もう少し知りたいから…じゃ、
お願いね」
「分かりました、いってらっしゃ〜い」
手を振って見送るナオミに対してハナも手を振って応えるとドアの奥に消えていった。
ハナを降ろす為にデンライナーは一度止まるが、数秒もしないうちに再び動き始めた。
「…んで、何が気になるんや?亀の字」
見事な裏拳が鼻に直撃し、倒れこんだ床でまるで芋虫が這いずり回るかのような体勢で痛みに悶えるモモタロスとウラタロスに対して、キンタロスはトレーニングに使用していた120Kgダンベルを置くと訊ねた。
「………あぁ、それそれ、そうだった……」
屍になる直前に訊ねたのが幸いしたのか、ウラタロスは鼻を押さえながら立ち上がる。因みにモモタロスのほうは未だに起き上がろうとはせず、時折体をピクピクさせている。
「ホラ、さっきの良太郎の話の中で『シアーズ財団』って名前が出てきたでしょう?」
「おぉ、何なのか知らんが、名前だけは聞いたことがあるな。なんや、それがどないしたんや」
普段は寝てばっかりで外の情報を頭の中に入れていない、入れようとしないキンタロスがシアーズ財団の名前を知っているは大したものだ。ウラタロスは話を続ける。
「シアーズ財団は様々な分野に手を伸ばして、その都度に成功を収めている複合企業……その一説では、リックフェラーやモルゲンなどの財閥を上まる組織力を持っているとされているんだ。気になるのが、つまり、そんな所が何でわざわざ小魚を釣るようなマネをしているのかってことさ」
「?」
「オメェ…はいつも回りくどいんだよ……!?さっさと言っちまえよ…!」
ハナから受けたダメージがようやく回復した様子のモモタロスがどこかのホラー映画よろしくの動き方でテーブルの端っこの方に頭を乗せて会話に入る込む。
「鈍いなぁ、先輩は」
「あぁ?」
「大物が釣れる高級釣竿を持っているお金持ちが、それを使ってわざと小魚を釣る……なんで、そんな事する必要があるの?」
「だから、それのどこがおかしいんだよ!」
「いい?先輩。考古学ってのはいわば『文系』だよ。科学とかの『理系』ならともかく、数字の塊みたいな大企業が人間の活動なんかの研究を必要にすると思う?」
ウラタロスの言い回しが独特すぎるのか、それともただ単にモモタロスが馬鹿なのか、ウラタロスは呆れたような素振りを見せるとモモタロスはそんな素振りを見せたウラタロスの頭を叩く。
「……つまり、その媛伝説の研究ってのは、僕から見たら金食い虫にしか見えないってコトだよ」
「だったら、良太郎の先生が調べとる媛伝説っちゅうのに調査援助してもシアーズに得があるように見えへんっちゅう事か?」
ウラタロスの独特な言い回しを理解をしたかキンタロスは、再びモモタロスと取っ組み合いを始めそうになるウラタロスに言った。
「ま、そういうことになるかな」
自分の言ったことに対してようやく理解してもらえたことが嬉しいのかウラタロスはナオミ特製のアイスコーヒーを半分まで飲み干して喉を潤した。
そしてキンタロスの先程の言葉を肯定しながらウラタロスは顔を向ける。
「はっ、勘ぐりすぎだろ。あんまり、考えすぎてっとハゲるぞ亀公」
ダメージから何とか回復したモモタロスはナオミにコーヒーのおかわりを注文してウラタロスの青い頭を軽く叩いた。
「気まぐれに決まってンだろ!気まぐれ!」
いい音がした頭を押さえてウラタロスは睨むようにモモタロスに顔を向けてもモモタロスは言葉を続けた。
「金持ちのやることなんだ、俺らには関係のねぇ話だ…っと」
ウラタロスの睨むような視線をモノともせずにモモタロスは壁に背中を預ける形で座り、行儀悪く組んだ両足をテーブルの上に放るとナオミが持ってきたおかわりのコーヒーを一口啜る。
「そのオッサンがどこまで研究を進めていたのかを調べりゃいいんだろ?簡単な事じゃねぇか。こんな事に裏があるってんなら、どんな裏なのか教えてもらいたいぜ」
「せやな、今回はモモの字の言う通りかも知れんな」
「………」
「何をシケたツラしとんねん。もし裏があったとしても、そん時は俺らが良太郎守ったらええんや!」
黙るウラタロスの肩を叩くキンタロスはそのように言い放つと、座席に戻り、トレーニングを再開しだした。ウラタロスは叩かれた強さが予想以上に大きかったからか肩を擦り、目の前にあるアイスコーヒーの中の氷をストローでかき始める。
「考えすぎ……なら、いいけどね」
誰に聞こえたか知らない言葉を紡いでウラタロスはゆっくりとストローを介してアイスコーヒーの残りを飲み始める。胸の奥に漂う濁ったわだかまりが消えるのを願いながら。



押して頂けると作者の励みになりますm(__)m

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.