○西暦一九九二年六月二日
ややジメジメっとした日が続く昨今、梅雨の到来も間近な様子です。
鬱陶しい梅雨が通り過ぎれば、また暑い帝都の夏がやって来ます。
うう……何度、過ごしても慣れないものです。
もう少し、気候の良い場所に設けておけば良かったものを。
……等と思うのは、きっと唯依だけではない筈です。
しかし武家たる者、暑いの寒いのと弱音を吐く事は許されません。
――心頭滅却すれば火もまた涼し
唯依も、そういった面で、まだまだ精進が足りないのでしょう。
精神修養に割く時間を、増やすべきなのかもしれません。
……とはいえ、それは後日の話。
そう、後日の話なのです!
………え〜〜……サボるつもりではありませんよ。
昨日、兄様から神根島へのお誘いを受けてのお話です。
また、お休みが取れるそうですが、その後のご都合で神根島から動けないのだとか。
それで唯依の方から、遊びに来ないかとのお誘いでした。
無論、唯依の側にお断りする理由などありません。
泳ぐには、まだ少し早いですが、海辺で涼しい風を受けて過ごすというのも良いでしょう。
……まだ、その……水着とかを着て、兄様の前に出るには、少し凹凸が寂しいままですし。
ううっ……何故に、兄様の周りにはスタイルの良い女性が多いのか。
叔母様しかり、咲世子さんしかり……セシルさんだって、それなりにありますし……
そんな方々に混じってしまえば、唯依が貧相に見えてしまいます。
そう、あくまでも、あくまでも比較の問題なのです!
唯依は歳相応の成長なのです。
身長だって、体重だって、ちゃんと平均を越えているのですから!
……ふぅぅ……
まあ良いです。
今度の休日は、また兄様と一緒に過ごせるのですから。
ああ本当に早く、週末になって欲しいものです。
○西暦一九九二年六月六日
やって来ました神根島。
そう唯依が来たのですよ。
わざわざ帝都から。
なのに……それなのに……
……兄様、ルル兄様……その隣に居る娘は誰ですかっ!?
やっぱり女房や畳と同様、妹も新しい方が良い――って、叔母様、耳元で妙な事を囁かないで下さい!
……妙な事を……言わ…な……い…で……
………兄様、唯依は……唯依は、もう要らない子なのですか?
………
……
…
………えっ?
ジェレミアさんの娘?
……嘘を吐くなら、もう少しマシな嘘を吐いてくださいっ!
ジェレミアさんは、まだ独り身ではありませんか!
……えっ?
養女?
戦災孤児を引き取った――と。
………
……
…
……ううっ、恥ずかしいです。
穴があったら入りたいとは、まさにこの事でしょう。
……ああ、ルル兄様……お願い、お願いですから見ないで。
そんな生暖かい眼で見られたら、愚かで嫉妬深い唯依は、恥ずかしくて死んでしまいそうです。
ううっ……叔母様も、叔母様で大笑いしないで下さい!
折角の美人が台無しですよっ!
……本当にもう。
確かに、早とちりしたのは唯依の落ち度ですが、仕方ないではないですか。
数日ぶりにお会いするルル兄様の傍に、見知らぬ女の子が居たのですから。
それならそうと、最初から仰って下されば良かったのに……本当に、意地悪な兄様です。
……ところで兄様、いつまでその娘の手を握っているのですか?
そもそも何故、その娘がここに居るのですか?
今日は、唯依と一緒に休日を過ごして下さるのではなかったのですか?
お答え下さい。 ルル兄様!
……えっ?
唯依に、その子を紹介したかった。
友達になって欲しい――という事ですか?
そう尋ねる唯依に、兄様は苦笑混じりに首を振り、唯依の問いを否定すると、こう言われました。
『友達になるかならぬかは、当人達の決める事。
外野が、あれこれ指図するなど無粋というものだ』
そう告げた後、一瞬だけ兄様の眼が、どこか遠くを見ていたような気がします。
唯依の知らぬ場所、唯依の知らぬ時、そして唯依の知らぬ誰かを……
その事を、問いたい衝動に囚われつつも、唯依は必死に自制しました。
何故だか、今はまだ訊いてはいけない―――そんな気がしたからです。
そんな唯依へ向けて兄様は、ジェレミアさんの義娘であるマオさんの背を押しました。
軽く押し出されたマオさんは、ニ、三歩前に進んだ所で、躊躇うように立ち止まります。
そのまま、ジィィッとばかりに唯依を注視する姿は、
正直、何というか、非常に罪悪感を感じるというか……
もしかして先程のやり取りで怯えさせてしまったのではないかと思うと、再び恥じ入るばかりです。
この歳で戦災孤児となれば、相応の辛酸を舐めて来た筈。
想像する事しか出来ない唯依には、到底、理解できない苦労もしてきたのでしょう。
そんな子に、あんな心無い言葉をぶつけてしまうとは……
ああ……馬鹿、馬鹿、馬鹿……唯依のお馬鹿!
本当に、本当に、恥ずかしい限りです。
この償いは、何としても果たさねばなりません。
そんな思いと共に、唯依は一歩前に出ます。
その動きに反応し、わずかに後ずさり掛けたマオさんの肩に、大きな手が乗りました。
養父となったジェレミアさんが、ややぎこちない笑みを浮かべつつ、励ますように頷くと、それに力づけられたのか、マオさんも一歩前に出ました。
向かい合う唯依達の間合いは、もはや殆どありません。
躊躇いがちに差し出した唯依の手に、少し小さめの手が重なりました。
どこかひんやりとした手の平。
その感触を感じながら、唯依は、驚かさぬよう細心の注意を払いつつ、ゆっくりとソレを握り締めていったのでした。
○西暦一九九二年六月七日
昨日知り合ったマオさんと、神根島の浜辺で遊びました。
かなり無口な方だったので、聞き出すのにやや骨が折れましたが、どうやら『海』というモノを見たのも初めてとの事。
あの様な巨大な水の塊の実在に恐怖すら感じるとの告白には、どう答えていいのか正直困ってしまいましたが……
とはいえ、ルル兄様から聞いたお話では、マオさんは、これから暫らく『アヴァロン・ゼロ』で過ごす事になるそうなので、この機会を逃したら当分『海』自体と縁遠い暮らしが待っている訳です。
ここは唯依が一肌脱ぐべきだと感じた末に、浜辺での水遊びに興じる事となったのでした。
打ち寄せる波に、おっかなびっくり触れ、白い砂浜につく自身の足跡に、ホン少しだけ相好を崩すマオさん。
唯依と同い年くらいに見えますが、どこか幼子の様な面を見せるマオさんを見ていると唯依の頬も、知らず知らずに緩みます。
………お姉さんぶっている訳ではないですよ?
まあ、唯依がマオさんの世話を、アレコレと焼くのを見ていたルル兄様が、『すっかりお姉さんが板についたな』と仰られた時は、少しだけ嬉しかったのですが……
コホンッ。
唯依とてお姉さんぶりたい訳ではないのですが、何というか、何処か世間知らずというか、危なっかしいというか………
とにかく放っておけない感じのする娘なのですから仕方が無いではありませんか。
――友達になるかどうかはともかく、折角の機会、厭な想いなどさせずに済ませてあげたい。
そう思ってこその世話焼きです。
鬱陶しがられないかと、内心、少しドキドキものではありましたが。
ともあれ、そんな唯依の心情は、マオさんにも伝わったのでしょう。
伝わったのだと信じます。
伝わったからこそ、きっとマオさんは――
――おっと。
いけません、いけません。
ここから先は、一部始終を見守っていた兄様から、きつく口止めされた事。
たとえ日記とはいえ、用心するに越した事はありませんね。
まあ、とにもかくにもマオさんと唯依は、楽しい休日を過ごせた事だけは確かな様です。
当初、期待していたモノとは、やや異なった結果となりましたが、これはこれで良いお休みであったと言うべきなのでしょうね。
ルル兄様、本当に、良い休日をありがとうございました。
――でも、次はご自身で、付き合って頂きますからね?
○西暦一九九二年六月十四日
ふぅぅ……
ちょっと気怠るげな溜息が出る昨今の唯依です。
わずかな邂逅ではありましたが、中々に印象深い結果に終わったマオさんとの出会いと別れ。
今頃、お空の彼方で、ナニをしているのやら……
気になる思いに、溜息が、またひとつです。
一方、そんな唯依の気分を他所に、世相は移り変わりつつあるのでした。
唯依などが知る由もなかったBETAに対する一大反攻作戦『スワラージ作戦』の敗報も伝わり、ここ数日は、やや消沈した空気が校内にも蔓延しています。
一時悪化していた大陸の戦況が、やや持ち直しつつあるとの一報に沸いた先月が状況が、まるで嘘のようでした。
まあ先生方に言えば、唯依達の年代の者が戦の勝敗を論ずるなど、まだ早いと言われるでしょうが、それでも気になるものは気になります。
ことに大陸では叔父様も戦っておられる訳ですしね。
ルル兄様なら、巷に流れるものよりも遥かに詳細で正確な情報を持たれているでしょうが……
……気になります。
本当に気になるのですが、何故か心のどこかで、兄様にお尋ねする事を制止する何かが生じていました。
世の中には知らなくてもいい事があるのだ――具体的には、ルル兄様の周辺に、重点的に。
と、唯依の中の唯依が囁きます。
何と言うべきなのか?
この女の勘は、間違いなく当っていると確信してしまった唯依は、恐くて恐くて、とてもではないですが、兄様に、この話題を振る勇気が持てませんでした。
まったく何たる惰弱!
唯依もまだまだ修行が足りないようです。
こんな有様では……その…あの……あ、兄様の未来の……っ……として、諫言する事すら出来ません。
本当に、本当に――
ふぅぅぅ……
――な気分の今日この頃です。
○西暦一九九二年六月十八日
お手紙が来ました。
――お空の彼方から。
『アヴァロン・ゼロ』へと渡ったマオさんからです。
正直、驚きでした。
別れる時に約束したとはいえ、所詮はわずか二日だけの間柄でしたので、こうも早く文が来るとは思ってもいませんでした。
いえ、それ以上に驚いたのは、その文自体でしょうか。
たどたどしい平仮名の羅列ではありますが、マオさんの母国語ではなく日本語で書かれていたのです。
ところどころで、はね方や濁音に間違いはありましたが、それでも一生懸命に書いたと分かるソレを読むと、何と言うか、その……胸の奥の方が、ポカポカしてくる感じがしました。
何でも向こうでの生活も、ようやく落ち着いたので筆を取ったとか。
日本語自体は、一緒に宇宙に上がったセシルさんが、暇を見て教えてくれたそうです。
とはいえ、これだけの短期間で平仮名だけとはいえ書けるようになったのは、マオさん自身の努力の賜物と言えるでしょう。
そしてそれが、唯依に文を書きたい一心での事と思えば、やはり嬉しさに頬が緩んでしまいます。
たった二日だけの友人。
ですが、それも今の時点での話。
これから更に友誼を積み重ねていく事が叶うなら、またお互いの関係は自ずと別のモノになるのでしょう。
それをするかどうかは、兄様の言われた通り、唯依と彼女が選ぶ事。
そう選択は、唯依達自身に委ねられているのですから。
さて、そういう事ですので、今度は唯依の方から文を出すとしましょうか。
そうそう、ルル兄様に無理を言って撮らせていただいた写真も同封せねばなりません。
きっと喜んでくれるでしょうからね。
○西暦一九九二年六月二十三日
また、お手紙が来ました。
――今度は海の向こうから。
何故かアレ以来、今でも時折、文を交わしているレオン・クゼ君からです。
……何故なのでしょう?
期待を裏切られた気分が少々……
――まあいいですか。
問題は、その内容です。
時候の挨拶に加えて、書き記された一文に、唯依も少し驚いてしまいましたから……
なんでも軍人であるクゼ君のお父君が、今度、在日米軍に転属になったとの事。
それに伴い、クゼ君も当分の間、日本で暮らす事が決まったそうです。
残務の引継ぎ等があるので、こちらに来るのは早くても年末、恐らくは年明けになるだろうとの話ですが、クゼ君にしてみれば憧れていた日本に来れるという事で、浮き立つ気分が文からも感じ取れる程です。
……むぅ。
まあ、男の子ですから良いですか。
ルル兄様も、基本、年下の子にはお優しい方ですから、クゼ君が日本に来れば、口ではどう言おうと色々と構ってあげる筈。
その分、唯依の為に割いて頂ける時間が減ってしまうのは、正直、少し面白くはありませんが、ここは広い心をもって受け入れて上げるのが、唯依の器量の示しどころでしょう。
色々と敵の多い兄様です。
少しでもシンパが増えるのは、後々の事を考えれば良い事でしょうでしね。
さて、それでは明日にでも、兄様にクゼ君の事を、お伝えしておきましょう。
どんな表情で受け応えして頂けるのか?
……不謹慎ではありますが、少しだけ楽しみです。
どうもねむり猫Mk3です。
今回は、題して『唯依姫、妹分が出来る』の巻。
まあ妹ポジションがデフォな本作での唯依。
とはいえ、やや堅苦しそうではありますが、面倒見は良さそうなタイプですので、手のかかる妹みたいな子が居れば、率先して世話焼きに走るでしょうからね。
さてレオンの来日も決まり、マオもほとぼりのさめた頃合で降りて来るでしょうし。
唯依の身の回りも、更に賑やかになるでしょう。
これから色々と起きますが、その賑やかさは、きっと必要なものになる筈ですから。
さて、それでは次回は本編で。
ではでは。