彼はとても現状に不満で仕方なかった。思わず人差し指を膝の上で上下させる。
そこは人間三人が居座るには少々窮屈な広さの部屋。中央に一つのテーブルがあるだけの簡素な作りとなっている。
部屋は薄暗く、明かりという明かりはテーブルの上に置かれた小さなランプ一つのみ。これでは折角持ち込んだ文書もろくに読めもしない。
テーブルを挟んで対面する側にいる女はと言えば、至って平常に見える。尤もこの暗さだ、姿なんてものはろくに見えもしないが。それでもランプの僅かな光に反射して、耳元のサファイアをあしらったイヤリングが青い光をこちらに返していた。
ただ、今の彼にはそれさえも目障りに思えてならない。そろそろ我慢の限界が近づいていた。
「――どうしたんだ? 少し落ち着かない様子だが……」
こんな時に聞くあまり好印象のない人物の声とは、これほどまでに耳障りなものなのだろうか。
彼は声のした方向――左斜め前方を向き、そこに確かにいるであろう男に向かって告げた。あくまで冷静を装って。
「しかし正直言って驚いたよ。君がこんなにも悪趣味な部屋をわざわざ我々に用意してくれたのだからね」
皮肉交じりについた悪態に、男はきちんと反応してくれた。ただしあくまで冷静な声で。
「これは失礼。私の趣味を全面的に押し付けてしまったことに関して気に入らなかったのなら詫びよう」
冷静さのせいか、または違う要因か。ともかく彼にはその言葉が酷く無感情に聞こえた。ただ別にそれに関しては特に何も思わない。本気で詫びられたところでどうなるものでもないし、何より貴重な時間を浪費する訳にはいかなかった。
そういう意味でもこの空間で過ごすことに意義はない。自分にとって興味のない話などとっとと終わらせるに越したことはなかった。
ひとまず苛立ちを静める。そうしないと効率が落ちると判断してのことだった。
「俺への気遣いなど良い。それよりも話を進めてくれないか。出来れば要点だけを簡潔に述べてもらいたいものだが……」
こちらの意思が伝わった、とは考えにくいが。恐らく男は今の言葉で苦笑いを浮かべていることだろう。むしろそう願わずにはいられない。
男は基本的に話の切り上げどころを知らないタイプだ。彼は本気で男が無駄話の才能でも持っているのだと踏んでいる。蛇足、とは本来こういう人間に使うべきなのだろう。
男はそれに関してあえてだろうか触れてはこなかった。その代わり声のトーンが落ち、そこに一抹の真剣さが混じる。
「……今回のために必要なモノが全て明示された。それはお二人とも既知のことだとは思うが。まあ知っての通り今回はなかなか厄介でね。少しでも不安材料を消しておくに越したことはない。それについて少し意見を交わしておきたかった訳だ」
それを聞いて、つい溜め息が漏れる。別に隠すつもりも毛頭なかったが。
彼は不意に席を立った。しばらくぶりに体を起こしたような錯覚によって、少々体の節々が鈍ったように感じる。
それに反応したのがやはり男だった。あまり焦りの色はなかったが、少々不思議がっているようだった。その声音で分かる。
「ふむ? 話はこれからなのだが……」
「話は終わりだ。個人的に不安材料など全く見受けられなかったのでな。そもそも今回の内容に何を危惧することがある。俺には到底理解出来ん」
つまるところ。彼には男の提案が途轍もなく下らないことにしか聞こえなかった。むしろそれはそれなりの場数をこなしてきた自分に対する侮辱ですらあった。
「……本当にそうかしら?」
もうこの部屋を出る気でいた彼に、今まで口を閉ざしていた女が疑問を呈してきた。
思わず鋭い目つきでそちらを睨む。再び募った苛立ちを隠すようなことはしなかった。
それに臆することなく。もしかしたら単に暗さで見えていないだけかもしれないが。女は淡々とした口調で続きを口にする。
「私も今回の内容を知って、少なくとも彼の言っていることも馬鹿には出来ないと思ったけれどね。頭ごなしに否定するのはどうかと思うわ」
その声はどこか、自分への牽制を孕んだ棘のあるものに聞こえてならなかった。
それが余計に頭にくるが、仮にも同じ立場の人間。それが二人も危険視することの意味が、彼の好奇心をどこか執拗に擽っていた。
再び椅子に座りなおす。まだ苛立ちは残っていたが、やり場のないそれを目の前に置かれた文書にぶつけるようにして目を通す。
暗さはこの際無視することにした。目が慣れてきたのもあって、意外と文字をそれだと認識することが出来たのに少しばかり驚く。勿論、それを表には出さなかったが。
「……『地球』という世界から『広野紘』、『森宮依人』。『グラニデ』という世界から『ロイド・アーヴィング』。そして……この世界には正式名称がないらしいが、そこから『カイル・デュナミス』。北の十字に位置するのは……『ロイド・アーヴィング』か。では実行舞台は『グラニデ』ということになるだろう」
一度間を入れる。そこで暗闇に慣れてきた目で二人を見据え、もう一度同じことを繰り返し告げた。
「さて。二人はこれのどこに危険因子を見出しているのだ? 実直に告げて欲しいものだが」
と。今度は対面から溜め息がこぼれた。
その女の態度に少しむっとしたが、それは眉間の皺だけで止めておくことにした。下らない話を続行させた者の言い分も聞いておきたい。
「……その『グラニデ』に少々難があってね。貴方もデータを一瞥したなら知ってるだろうけど、あの世界には世界樹があるのよ。それもかなり強大な力を持つ、ね。まあ幸いにしてマナ不足が進行してるらしいけど、それを差し引いても『ディセンダー』が生まれる可能性は高いわ。あれは計画進行の障害に成り得る因子と考えて良い筈。貴方もそれぐらいは認知してるでしょ?」
それを聞いて。少し笑いが込み上げてくるのを、自分自身でも抑制することが出来なかった。
結果、狭い室内に彼の抑え気味の笑い声で満たされる。当然、二人には聞こえたことだろう。むしろそちらの方が効果的で良かったとさえ思えてならない。
「何を言うかと思えば……『ディセンダー』だと? 笑わせる。よもやそれだけのためにこんな下らん話し合いを持ちかけたのか?」
再び席を立とうとして、はたとその動作が止まる。また、女が溜め息を一つ漏らしていた。
彼にとって二度の溜め息など自分への愚弄ととってもおかしくない仕草だった。それが、彼の怒りにとうとう火をつけた。
立ち上がり、反射的に。目の前のテーブル目掛けて右手を思い切り振り下ろす。それに呼応して大きな打撃音。
テーブルは真っ二つに、谷を作るようにして崩れ落ち、ランプはその衝撃で床に弾け飛んでいた。傘の部分は粉々に割れ、横たわった本体から出る火が床をゆっくりと焦がし始めている。
それがどことなく気に入らなかった。追撃のようにランプの本体を右足で踏みつぶす。それで鎮火はしたものの、そこに残ったのは無残な姿に変わった男の日常用品だった。
その破片の一つを手に取り、女はこちらを見つめてくる。その表情は至って平常そのもの。
こちらもそれを睨み返す。完全に明かりは消え、姿は見えないに等しい。それでもその闇さえも切り裂くような鋭い視線を女に対して送った。
でもそれ以上のことはしなかった。何故なら女はこの程度のことでは表情一つ変えることがないのを知っていたから。要は、相手のし甲斐がない。それだけ。
数秒沈黙した後、静かに女が告げてくる。元々声のトーンは小さかったが、それよりも更に落としているように聞こえた。
「……余程自分の力に自信があるのね。でも、過信は禁物よ。それが慢心となって堕ちるとこまで堕ちることを貴方が一番良く知ってる筈でしょ?」
「なに……?」
やはり、腹が立つ。その一言一言、その冷静加減全てに。でも彼はそこで怒りを収縮させることにした。
女に敵対の意思は愚かその言動からは配慮の念すら感じられたから。自分の尤も恐れていることを、ストレートに伝えた人間はここ最近でも数えるほどしかいなかっただろう。
拳の力を緩める。気を許した訳ではないが、せめてもの礼儀くらいは果たそうと努めることにした。無言で落ち着くことで、話を促す態度を示す。
女はまた、そう言ったことを察知する能力にも優れているようだった。男とは違って簡潔に要点だけを告げる。
「『ディセンダー』。確かにその存在は精々一世界を救える程度のものでしかない。けれど常に例外は存在するもの。用心に越したことはないわ。それに『グラニデ』には時を越えることの出来る剣だって存在している。まああれを守護している精霊に勝るだけの実力を持つ人間がいるとは思えないけどね……ああ、あの一人を除いて、だけれど」
そこで少し引っ掛かった。精霊のことは当然既知の事実だったが、あれは通常人間の敵う相手ではない。
すると男が女の言葉に相槌を打ってきた。また少し、耳障りなのを我慢する。
「ああ、あの男か……確かに現状で一番の障害と成り得る存在かもしれないな。まあ急を要するほどの相手でもないことは確かだが。それから『地球』。あれも少し異質でね。今回転移させる土地には複数の『夜禍人』なる存在が確認できている。全く、異世界とは未知なる部分が多いところだ」
少し、聞き慣れない単語が出てきた。ただそれに関してあまり関心はない。脅威と成り得る存在ならば、とうの昔に台頭している筈だからだ。
未知、という意味では、男の言っていることは正論だった。残念ながら、彼らでさえその膨大な空間を知り尽くすことは不可能に近いことだった。恐らくこの先どんな発展した文明を持つ人種が出てこようと、それは決して破られない壁のような存在なのだろう。
「……完全なる適合者。いつになったら現れるのだろうか……ああ、それはそうと――」
男は恐らく肩を竦ませたのだろう。大体こういう時は本人的にもつまらない情報を仕入れた時だろう。そういう意味で話題転換にさほど期待は出来ないし、そもそもしていない。
「例のターゲットだが、どうやら動いたらしい。一応直属の部下に対応させているが、お二人は何かご注文は?」
本当につまらない内容だった。ある意味肩透かしだったのが多少気に食わなかったが。
この件に関して彼から言うことは何もなかった。正直、興味がないの一言に尽きる。
だから返答は決まりきっていた。溜め息混じりに返事を返す。
「……好きにすれば良い」
「……念のため、空戦隊に待機命令を。それだけで良いわ」
間髪入れず女が指示を口にする。正直、女の意図が理解出来なかった。
それは男としても同じだったようだ。少し疑念ともとれる声音で聞き返す。
「空戦隊……か。悪いがそれはやりすぎだと思うが? 相手はたかが鼠一匹だというのに。それに外に出れる保障など万が一にもないだろう?」
「私は慎重派なのよ。さっきも言った通り、常に例外は存在するもの。そこを読むのが私の仕事でもあるから」
結局、空戦隊には待機命令を下すことに決まった。
例外。それは例がないだけであって、確かに起こりえる可能性はある。だが逆を言えば例がないほど起こりにくいともとれる文脈。
彼は別に例外の怖さを知らない訳ではなかった。ただ、それを恐れる必要が今の自分にはないだけの話。
女の意見は彼が聞いても尤もだと思った。そういう発言を躊躇なく出来るからこそ今の地位にいることも知っているつもりだ。
でも所詮人の考えなど千差万別。彼が信じるモノ――それは力。女がそうであったように、彼がそれで今の地位にいることは紛れもない事実だった。
そんな彼の目に映るものは常にただ一つ。それは――
「――絶対的な力を、我が手に」
その呟きを拾えたものは誰もいなかった。
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