十二月二十四日。クリスマス・イブ。

 夜の冷たい外気に悴み、職業病とも言える腱鞘炎の痛みが相まってあまり使いたくない手を半ば仕方なく扉の取っ手に掛ける。

 金属で出来たそれはやはりひんやりとしていて冷たかった。これ以上冷えるのはあまり好ましくないのでさっさとそれを内側へと押す。

 扉はいかにも荘厳な軋み音を鳴らしながら開かれた。それに続いて彼――広野紘は教会の中へと入っていった。

 中は一言で言えば思ったよりも広く、それでいてとても静かな空間だった。

 建物自体は縦に長く屋根が高い作りとなっている。そのために変な圧迫感を感じることなく居られるのだろう。

 両端の壁には等間隔に蝋燭の明かりが取り付けられている。凝った作りだ。素直にそう思う。

 ただし基本的に明かりはそれだけ。後は最奥の教壇に天井からライトのような明かりが降り注がれているが、全体的な薄暗さは否めない。

 中央に入口から教壇まで伸びている赤いカーペットが敷かれていて、それを避けるように左右に長椅子が置かれている。ここに信者が座って日々祈りを捧げているのだろう。

 ただ今はその人影はおろか人の気配すらない。クリスマス・イヴと言えばミサが行われるものだと思っていたが、どうやらもう終わっていたらしい。まあそちらの方が『取材』するのには好都合であることに変わりはないが。

 とりあえず一歩、また一歩と歩き始める。ふかふかなカーペットのお陰で床を歩いている感じがあまりしなかった。

 歩きながら、左右を見回してその光景を目に焼き尽くしていく。やはり想像とは違って実物を直に見ると、その既成概念がいとも簡単に壊れていくのが良く分かる。今回の場合は恐らく良い意味で、だ。

「へー、中はこんな風になってたのかー」

 紘がここを訪れたのは今日が初めてだ。そもそも別にクリスチャンでもない紘にとって、教会とは日常生活において全く縁のないところだった。
 
 音羽町。紘が住むこの町の少し外れにあるここは恐らく長い歴史でもあるのだろう。その風貌はとても新しいものだとは言い難い。良く見ればところどころ老朽化が進んでいる風に見受けられる。
 
 でもそれは音羽町の人々から愛されている証拠でもあると思われる。事実掃除は行き届いているようだし、町に出ればたまに慈善事業をしている教会の人間であろう者たちの姿も見かける。何にせよそういう場所が一つでも残っているのは良いことなのだろう。
 
 ふと、中央に目がいく。そこには教壇がある訳だが、良く見るとなかなか凝った作りをしている。そこだけ現代文明の必需品によって照らされているため、その様子は多少遠くからでも掴むことが出来た。
 
 教壇自体は木製の至ってシンプルな作りだが、その背景にある十字架。それを中心として展開されている色鮮やかな飾り付けがとても綺麗に見えた。勿論ここは教会だ。そこまで金額的に高いものは使ってないにせよ、逆にそれが目を瞠る出来となっているのだろう。
 
 もっと近くで見てみたくなり、そこに近づいていく。とりあえずここで何かヒントを掴んでおかなくては。そうでないと遠出までした価値がなくなってしまう。

「あら。残念ですけどクリスマスのミサはもうお開きになりましたよ」

 それは丁度ライトの明かりが照らしだす部分に体が入るか入らないかの瀬戸際だった。

 声。それは聞き慣れない女性のもの。どこだろうか――右上の方から聞こえた気がする。

 そちらを振り向くと、やはりそこには人がいた。ただし通常の既成概念からは途轍もなく外れたところに、だが。

 その女性はいかにもシスターらしい格好をしていた。黒い修道着みたいな服を着ていて、紺色の長髪の上にも黒い帽子を被っている。真っ白で大きいリボンを結んでいるのだろう、その両端が肩辺りから覗いている。

 ルビーのような赤い瞳。歳は自分と同じかそれ以下に見える。その少女が座っているところ――それは恐らく建物を支えているであろう柱の一つ、そこに出来た僅かなスペースの上だった。床からは結構高い位置にある。

 少女はこちらを見ながら薄らと笑みを浮かべている。上手く言えないが――この少女からは何か不思議なものを感じる。

「あぁ、別に俺、信者じゃないから。てかそれより――」

「はい?」

「……どうやってそこに乗ったんだ? てかシスターがそんなことしてていいのか?」

 少し少女の屈託ない笑顔に言いづらかったが、尤もな疑問をぶつけてみる。
 
 すると少女は拳と手の平を軽く打ち合わせて、いかにも絵に描いて出てきそうな反応を示した。思わず苦笑いしてしまうのを隠せない。

「ああ。それなら前者はともかく、後者はあなたと同じですよ」

「はぁ? なんだよ、それ」

 正直、理解に苦しむ回答だった。
 
 自分と同じ要素がこの少女にあるとはとても思えない。というかお互い初対面の筈なのに、一体何を根拠に同じだと言い切れるのか。
 
 まあ考えるだけ無駄な気がしたので、素直に少女の返答を待つことにする。
 
 その少女はと言えば、依然にこにこしたままその意味を率直に述べてきた。

「クリスマスなのに一緒に過ごす恋人も居ない寂しい人ですよ」

 それを聞いた瞬間、頭の中のどこかで小規模噴火が起こった気がした。

 怒りという名の火山灰と溶岩が頭の中をゆっくりと埋め尽くしていく。別に塞き止める気は毛頭なかった。というか塞き止めようとするだけ損だ。

 全てを噴火の産物に委ねて目の前の少女に返す。自然、言葉と表情が険しくなる。

「……俺が聞いてるのはそういうことじゃないんだけど」

「冗談ですよー。そんな顔されると怖いですよ」

 多少怖みを利かせているから当たり前として、冗談にしては少々性質が悪い気がした。これを別の人間に言っていたら、恐らく本気でキレ出すか泣き出す者だっていたことだろう。
 
 しかし初対面の人間にここまでのジョークを飛ばすとは、この少女はある意味確かに自分と似ているかもしれない。少しだけそう感じた。

「私は雨宮優子。『雨』にお宮参りの『宮』、そして『優しい子』って書きます。ちなみに私はただの通りすがりで教会の関係者でもなんでもありません」

「……丁寧な説明をどうも……」

 凄くどうでも良いところで疑問が晴れた。思わず表情が引き攣ってしまう。

 色々と突っ込みどころは満載だったが、とりあえずどれもお蔵入りにしておくことにする。正直、何か言ったところで自分が理想とするまともな会話が成立するとは思いにくい。

 何か、どっと疲れてきた気がする。溜め息の一つでもつきたいくらいに少女――雨宮優子との波長が自分側の考えとして合わなかった。無論、相手がどう考えているかは分からないが。

「ふふっ。それでそろそろ私との会話に疲れてきた生真面目なあなたのお名前は?」

 内心、少し驚いた。こういうタイプは決まって相手の様子を読めない、所謂『KY』な部類に属する人間だと思っていただけに、少しだけ意外だった。

「……どうしてそう思うんだよ」

「簡単ですよ。あなたの表情を見ていれば疲れてきていることぐらい誰だって見抜けますよ」

 当たっている。当たっているが――それは優子との会話だけのせいではないだろう。
 
 言われて、そう言えばここ最近休暇という休暇がない自分のスケジュールを思い出す。
 
 意識した途端、急に痛みを思い出す右手。職業病とはいえ、自分自身右手を酷使し続けている現状は把握していた。それだけに今の指摘はあまりにも痛い。
 
 さり気なく右手を優子から見えないように背後に隠し、何気なく呟きを発した。

「まぁ……職業柄仕方ないっていうか……」

「職業……ですか?」

「いや、まぁ、そんな事よりも名前だっけ? 俺の」

 職業。そのワードに反応を見せた優子の疑問をはぐらかすように話題を元に戻す。
 
 はぐらかすのには理由がある。それも職業柄、と言ってしまえばそれまでだが、あまり知人を含めた大体の人間には自分の職に関して口にしてはいない。
 
 というかそのことに関しては一部の人間を除いて所謂トップシークレットになっている。とここまで言うと某国の諜報機関のエリート特派員とかとんでもない方向に思われるかもしれないが、そこまで非現実的なものない。
 
 ただ、紘は学生だ。その身分であまり職に関して知られたくないのはあった。
 
 優子がそれを察してくれた、とは言い難いが、またあの納得ポーズを見せて話題は元に戻ったみたいだ。少しほっとして胸を撫で下ろす。

「そうでした。私も名乗ったんですからあなたも名乗ってくれないとずるいですよ。減るもんでもないですし、さぁ教えて下さい」

 何故か必死に名前を聞き出そうとする優子の勢いに若干押される。
 
 正直、自分で話を戻しておいて名乗るつもりなど毛頭なかった。けれど今までのやり取りから考えて、この流れを自分的方程式に当てはめると――素直に名乗っておいた方が良さそうだった。
 
 無難な路線を心掛けるため、溜め息を一つついてぶっきらぼうに自らの名前を口にした。

「……広野だよ。広野紘」

 発したのはそれだけ。内容は自分の名前を言っただけ。なのに。
 
 優子の表情が、少し変わった。何か思い当たる節でもあるかのような、少しだけ戸惑っているような表情。紘にはそう見えた。
 
 最初、あそこまで必死になって名前を聞き出そうとしていたのは優子が名前フェチか何かだからだと思っていた。いや、そんな性癖があるとは思い難いが、世の中は自分が思っている以上に広い。そういう人間が一人くらいいてもおかしくはないだろう。
 
 でもそれは違うみたいだった。紘自身人の表情を読むのはあまり得意ではないが、それでもそれだけは分かる。

 けれどその真意までは分かる筈もなく。言い方は悪いかもしれないが考えるだけ時間の無駄だろう。だから待つことにした。こちらがどうこう言ってもどうなるものでもない。

「……ふふふっ」

 それも対して必要なかったみたいだ。もう次の瞬間には優子は声を出して笑っていた。
 
 ただ笑う、という行動に出るとは思いもよらなかった。思わず聞いてしまう。

「……何がおかしいんだよ」

「いえ別に」

 その質問は見事にはぐらかされてしまった。
 
 やはり良く分からない少女だ。ミステリアス、と言えば聞こえは良いのだろうが、紘にはとてもそんな生易しいものには思えなかった。
 
 良くも悪くも変わっている人間であることには違いないだろう。そもそも教会関係者でもない通りすがりの人間が何故こんなところで、しかもあんな場所に座っているのか。
 
 あまり詮索するのは良くないと分かっている。それは紘としても同じことだから。

 だから深入りしない程度に疑問をぶつけてみることにする。もしそれが優子の闇の部分に触れることならそれ以上入り込まなければいいことだろう。

「なぁ……本当はこんなところで何してんの? 俺はともかく、一人でこんなところにいるのって相当変わってると思うけど……」

 やはり、と言っては何だが少しきょとんとした表情を見せる。
 
 かと思うとまたあの納得ポーズ。そんなに連発されると癖なのかと疑われても仕方がないだろう。
 
 優子は何故か悪戯っぽく笑って、こちらの予想の範疇を超えたことを口にし出した。

「もしかして……好きになっちゃったりしますか?」

「はぁ!?」

「私はできればお友達からお願いしたいんですけど……」

 本気で、あり得ない。というかこれでは取材どころではない。一応気分転換も兼ねての外出だったのだが、これでは精神的に参ってしまう。
 
 だから結論は一つ。紘の頭の中では即決だった。

「……帰らせてもらう」

「冗談ですってー。本当に、いま一つジョークの通じにくい人ですね……」

 優子に背を向け出口に向かおうとして、呼び止められる。その格好で体ごと大きく溜め息をついた。
 
 というか今思うと何故自分はこの少女に付き合っているのだろうか。理由を探してみても――思い当たらない。
 
 自分自身ですらもう何が何だか分からなくなってきそうで少し危機感を覚える。これは本気で帰り時かもしれない。そう思った時。

「……会わなくちゃいけない人が居るんです」

 思わず優子の方を振り向く。それは反射的なものだった。

 そのトーンはどちらかと言えばシリアスな部類に入るのだろう。もう何が冗談で何が本気か分からなくなりかけていたが、これは本当だ。何となくそう判断出来る。
 
 待ち合わせ。それなら納得できるが、少し疑問を覚える部分もなくはない。
 
 今の時間帯。今頃町は賑わっている頃だろうが、それにしては少し遅い気がする。
 
 待ち合わせ場所。そうなると相手はクリスチャンだろうか。でもミサはとっくに終わった筈だ。違う気がする。
 
 まあ何にせよ、聞いてみるしかなさそうだった。

「会わなくちゃって……誰と?」

「誰なんでしょうね」

「なんだよそりゃ」

 思わず突っ込みを入れてしまう。それほどに謎な答え。

 何か真剣に考えて損した気分だった。今なら断言できる。この少女――雨宮優子は自分で遊んでいる、と。

「分からないんですよ、私にも」

 とりあえず埒が明かないので、適当に優子の言い分をまとめてみることにした。

「どこの誰だか分からないけど、とにかく会いたい人が居ると」

「ええ」

 不思議だった。いや、この少女と初めて会ったときからそうなのだが、今回ばかりは嘘を言っているように思えない。
 
 その一言一言に何か――強い意志のようなものを感じ取ることが出来た。嘘を言う人間の言葉にはこんな感情はこもらない筈だ。
 
 それを前提で考えると。自分でまとめておいて何だが、手掛かりは全くないに等しい。いや一つある。待ち合わせ場所。ただ手掛かりとしてはとても弱い気がする。
 
 考えながら一回唸った後、お手上げといった感じで紘は優子に聞いた。

「すんごいあやふやだな……本気で会えると思ってんのかよ?」

「ええ、もちろんです」

 いとも簡単に肯定する。しかしその言葉には、絶対的な自信が満ち溢れていた。自信がない人間は、ここまで即答は出来ないだろう。
 
 素直に驚いた。勿論、それは内心で止めておいたが。
 
 優子が続ける。

「誰かは分からないけれど……ここに居れば会える気がするんです」

 ふと優子が気付いたように人差し指を立てて付け加える。

「それにほら、今夜はクリスマスですから……夢を見たっていいですよね、今夜くらいは」

 それに関して、紘は少し疑問に思った。
 
 クリスマスは確かに特別な日らしい。それは万人共通で世界規模にまで膨れ上がる。
 
 でもその枠に自分を入れて欲しくはなかった。クリスマスは紘にとって――普通の日となんら変わりはないのだから。
 
 周りが勝手に騒いでいる、くらいの認識しかなかった。思い入れなんて、これっぽっちもない。
 
 だからそれを率直に口にする。別に他意はない。

「別に今夜じゃなくても夢なんかいつでも見れるだろ」

 優子はかぶりを振って返答した。胸に両手を当て、少し俯きながら目を閉じて。

「そんな事はありません。クリスマスは特別ですよ。叶わない願いかもしれないけど、今日だけは夢見ることだってきっと許されると思うんです」

 その気持ちは、正直言って理解出来なかった。けれどそれに関して口出ししたりはしない。
 
 人それぞれ、色んな考えがあって良いものだ。何に縋ろうが何を願おうがそれはその人の意志であり、それに他人が介入する余地はない。
 
 それが強まったものが一種の宗教であり、これに関しても別に非難するつもりはない。
 
 でも優子のその思いだけは――何となく伝わった気はした。もしかしたらその意志の強さは人間として見習うべきことなのかもしれない。

「……まぁ、会えるといいな。頑張ってくれ……」

 それだけ告げると、紘は優子に再び背を向け出口へと歩み出す。
 
 今度は本気で帰ろうと考えての行動だ。別にこれといった理由はなく、強いて言えば話的に切り上げどころだったのと仕事を考えてのことだ。

「あれ、もうお帰りですか?」

 予想はしていたが、優子から声が掛かる。が、その言葉からは別に引き留めようという意思はあまり感じられなかった。ここは理解が早くて助かる。
 
 そのままの姿勢で立ち止まり首だけ優子の方に向けると、紘は軽く手を挙げて引き揚げの意を示した。

「あぁ。俺も一応やらなきゃいけないことがあるんだよ。それじゃ」

「あ、待って下さい。最後に一つだけ――」

 出口付近まで辿り着いた紘に向かって優子が再度呼び止めてくる。
 
 もう用事はない筈だと思ったが。訝しげにもう一度首だけ優子へと向けると。
 
 笑顔で、一言。しばらく聞いてなかったあの言葉を久しぶりに聞いた気がした。

「メリークリスマス」

 こんな状況で初対面の人間に言われるとは思いもしなかった。
 
 クリスマス。それは一年で一度の祝い事。三百六十五日で一度しかやってこない特別な日。
 
 別にそれを認めた訳ではない。紘にとっては一年で一度しかない日だろうが関係ない。
 
 だからその言葉を最後に言ったのは、果たして何年前だっただろうか。もう思い出せないくらい昔のことのように思える。

(今日だけは夢見たって許される……か)

 優子の言葉の意味が分かる時は果たして来るのだろうか。別に来なくても良いと思う。思うけれど――それは何だか少し寂しい気がした。

「……メリークリスマス」

 一言だけ返し、紘は教会を後にした。
 
 外の冷気が体を一挙に冷やしていく。早く帰って熱々のコーヒーでも淹れようかと紘はどことなしに考えていた。



 

 

 誰もいなくなった教会。それは優子が思っている以上に閑散としたものだった。
 
 そんな中、不意に笑みがこぼれて仕方がない。素直に面白かった。その感情に反することなく優子は一人呟く。

「ふふふっ、面白い人に出会いました。広野紘さん……これから動き出す運命を背負いし人」

 ふと天井を見上げる。屋内なので当然屋根の骨格しか見えないが、優子はその先の夜空を一人見透かしていた。
 
 疎らな星々の輝きが冬の夜空に映える。それはとても綺麗な光景だった。
 
 同じ星空は二度とない。だからそれをしっかりと目に焼き付けるように――

「今夜は雪が降りそうですね。ホワイトクリスマス……あちらへ行っても、見れるでしょうか。今夜くらいは……望んだっていいですよね――」



○●○●○



 窓から風が入ってくる。カーテンを弄ぶように揺らし、心地良い空気を運んでくれる。
 
 窓側の一番後ろの席は、クラスでも人気の高い席の一つだ。クジ引きでたまたま当たったものの、それ以前に正直席の配置自体に興味がなかった。宝の持ち腐れというやつかもしれない。
 
 机には一枚の用紙が乗っている。『進路希望調査票』。上から順に希望する進路内容を書き込んでいく形式の調査票。
 
 それを両手で掴んでじっと見つめる。が、次に出たのは一つの溜め息だった。
 
 それを丁寧に二つ折りにし、机の横に掛けてあった鞄に入れ、席を立つ。もう授業はとっくに終わっていて、教室内には生徒が半数以下しか残っていなかった。
 
 教室を出て淡々と昇降口まで辿り着き、靴を履いて帰路につく。
 
 その帰り道、ふと空を見上げてみた。雲一つない真っ青な空。透き通ったそれはまるで天の海のようにも思えた。
 
 夢。あることにはある。いや正式にはあった、と表現すべきか。
 
 昔――それは幼い頃から童話などに出てくるお姫様を守るナイトのような存在に憧れていた。
 
 その頃は誰にだってその夢を披露していたし、またいつかなれるものだと本気で思っていた。
 
 いや、中学三年生になった今でもその夢は密かに持ち続けている。ただそれを人前で貫けるかどうか別の話。
 
 もうこの歳では誰もナイトになりたい、などという夢には取り合ってくれない。それを進路希望にして良い歳はもうとっくに過ぎていた。

(夢はお姫様を守るナイトになること。でも――)

 ふと見上げていた空を一台の飛行機が横切っていく。それに連れて伸びる一筋の飛行機雲。それは真っ直ぐと迷いなく伸びているが、いずれ消えてしまう存在。

「でもそうなるには少し遅かったなぁ……」

 呟き、またその歩みを進める。彼――麻生蓮治はその足を自宅へではなく、何故か町外れの教会へと向かわせていた。







「進路調査?」

 その男性は教会を支えているであろう柱の一つ、そこに出来た僅かなスペースに腰掛けていた。
 
 茶色いスーツのような服を上下に纏っている。上の服にボタンはなく、前は完全に開いている状態となっている。その下地には同じく茶色いセーターのようなもの。ただしこちらは少し明るめな色になっているが。
 
 歳は二十代ほど。目まで掛かるくらいに伸ばされた銀髪が物語るように、性格は落ち着き払っている。視力が悪いのだろうか。金色の瞳には眼鏡が掛けられている。
 
 火村夕。詳しい素性は知り合いの蓮治でさえ良く知らないが、一応仕事はしているらしい。ただこの時間帯にはいつもこの教会にこうして腰掛けている。それについて聞いたことはないが、前々から不思議には思っていた。

「はい。自分じゃ思うように決められなくて……それで火村さんの大人の意見を聞きたくて」

 ついで、みたいな言い方をするとあまり良くは聞こえないが、実際そうだった。
 
 自分でも分からない内にこの教会へ足を運んでいた。気が付くと、夕と自然に会話をしている自分があることに驚きを隠せなかった。
 
 思うに夕はぶっきらぼうだがいつも的確なアドバイスをくれ、相談役としても良い人柄だった。それだけに夕に助けを乞うほど行き詰っていたのだろうか。それはあり得るかもしれない。
 
 だが夕は蓮治の言葉を聞いた途端、溜め息を漏らして頭を掻いた。

「それは自分自身が決めることだろう。人に言われてどうこうするものじゃないし、ましてや人から与えられるものでもない」

 夕の言っていることは至極正論だった。
 
 もし自分の将来が人から与えられるものだったら。それはそれで楽かもしれないが、恐らくは反抗することだろう。将来とは人の数だけあるから成り立っているのだとも思う。
 
 つまり蓮治は今、夕に対してそういうことを言っているのだ。流石に無理な相談だったか。少しだけ後悔の念を覚える。
 
 それが表情に出てしまったのだろうか。また夕は溜め息を一つついて少し違うことを切り出してきた。

「お前、好きなことは?」

 言われて少し考えてみる。
 
 思いつく限りでは、小説を読むこと。つまり読書。というかそれくらいしか趣味と言えるものがなかった。
 
 だからそれをそのまま口にする。

「読書……かな。趣味って言えばそのくらいだし……」

「だったら出版関係の仕事にでも就けばいい。もしくは自分で小説を書いて売り込んだっていいだろう」

 即答だった。それでいて的確なアドバイス。
 
 でも――何かしっくりこなかった。それはやはり人から与えられた将来だからだろうか。
 
 だとしたらこのまま相談を続けても埒は明かない。いや――それは最初から分かっていたことではないだろうか。
 
 夢と現実。夢はいくらでも見られるものだけれど、現実は一つしかない。そのギャップが何だかしっくりこなかったのかもしれない。
 
 と。ふと夕がこちら――を通り越して出口を指差しているのに気付く。

「アドバイス終了。これが大人の意見ってやつだ。あとは自分で見つけるしかない。それと――」

 一つ間を置いて、夕は淡々と告げた。

「俺は神父なんかじゃない。たまには違う人間にでも相談してみろ」

 神父。確かに夕は教会関係の者ではないが。
 
 蓮治は注意の意も込めて思ったことを口にした。

「こんなところでそうしてれば誰だって間違えますよ。そういえば火村さん……いつもここで何してるんです? 誰か人でも待ってるんですか?」

 流れでいつも聞けなかったことを口に出したのだが。
 
 それを聞いて、だろうか。夕はどこか遠い目をしていた。それが何を意味するのか蓮治には到底分からなかった。でもその目が『何か』を見ていることだけは確かだった。
 
 少し心配になった。聞いてはいけないことだったのだろうか、と。

 その夕から。こちらを見ずにぽつりと、それはまるで独り言のように呟かれた。

「そうだな……俺は――待っているのかもしれない」







 太陽は最高到達点からは多少落ちてきていたが、それでもまだ完全に落ちる気配を見せずにいる。
 
 あの後、少し考えてみた。勿論、自分の進路のことについて。
 
 夕はああ言っていたが、何故だかそれを受け入れられない自分がそこにはいた。
 
 その原因はやはり夢――なのだろうか。仮にそれが原因となって考えられない現実など――意味は、あるのだろうか。

「大人の意見って、結局は自分で考えろってことかぁ……」

 少し、考えすぎたのかもしれない。どことなく休息が欲しいと脳が感じている。
 
 日はまだ落ちそうにない。ゆっくりと読書でもして、気を休めるのも悪くはない。
 
 蓮治は早々に自宅に帰ることよりも、ゆっくりと読書の出来る環境のある場所へと行くことを選択した。





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