「ティディ!!」
		 愛称を呼ばれて、青年はキーボードを打つ手を止めた。上半身をひねって振り返ると、首の後ろでひとつにまとめた茶色い巻き毛が、くるんと揺れる。エプロン姿の少女を認めて、青年――ベルフェゴールは嬉しそうに破顔した。
		「やぁルコちゃん。僕に会いに来てくれたのかい?」
		「あんたの部屋に、あんた以外の誰に会いに来るっていうのよ! そんなことより……」
		 ベルフェゴールの体越しに、
		「あー、またこんなこと書いて! 正体がバレたらどうするつもりなのよ」
		「こんなの本気にする人いないよ〜。なりきりブログだと思われてるんじゃない? それよりルコちゃん、制服のまま料理したら汚しちゃうよ」
		 学校から帰って、そのまま夕飯を作っていたようだ。高校の制服の上に、ティディベアのアップリケ付きのエプロンという奇妙なファッションを自覚しているのか、彼女はパッと頬を染めた。
		 私立の女子高に通う彼女の名は、
		 感情の変化が素直に表情に出てしまう少女なので、ベルフェゴールは退屈しない。自然な足取りで彼女に近づくと、チュッと音を立てて、その額にキスを落とした。
		「きゃっ」
		 瞬間、パッと弾けるように広がる、甘酸っぱい香り。悪魔の嗅覚だけが嗅ぎわけることのできる、魂の香りだ。
		 両手で額を抑えて飛び退いた流弧は、「セクハラで訴えてやるんだからっ!」と、きつくベルフェゴールを睨みつけた。
		「訴えるって、だれに?」
		「え、えっと……魔王とか、魔界の偉いヒト」
		 おかしさを堪えきれず、ベルフェゴールはくすりと笑みをこぼした。
		「自称魔王なんて、魔界へ行ったらゴロゴロしてるよ。さ、着替えておいで。僕は先に降りてるからね」
		 そう言って隣室を指し示す。壁の向こうは、流弧の部屋だ。
		 ベルフェゴールを警戒し、じりじりと後退する流弧。手探りでドアを開けると、軽やかに身をひるがえして逃げ去った。
		「う〜ん、見事な逃げ足だw」
		 美味しい魂の香りを摂取し、満足げに胸をさすったベルフェゴールは、今度は人間の食事に付き合うべく、階下の食堂を目指した。
		
		
		 悪魔にとって、人間の食事は栄養源にならない。まだ肉類や野菜類など、自然の姿をとどめているものからはかすかに魂を摂取することができるが、スナック菓子などになってくると、文房具や家具を食べるのと大差ないという有り様だ。べつに食べられないことはないが、無味無臭のなんだかよくわからない物体を食べるのに等しいわけである。
		 要するに、ベルフェゴールは悪魔としては悪食と言える。
		 今日の夕飯は、鍋焼きうどんだった。
		「ナギちゃん。はい、あ〜ん。白菜さんだよ、美味しいかい?」
 ベルフェゴールが運んだ白菜を、もぐもぐと一生懸命小さな口を動かして飲み込んだ
「とろとろで、おいしーい! はい。ベルたんも、あ〜ん」
「ぼくにもくれるの? ありがとーv」
		 凪ににんじんを食べさせてもらったベルフェゴールは、しまりのない顔でニヤニヤしていた。
		「……付き合いたてのバカップルか」
		 と、流弧がつっこんだのも無理はない。
		 凪は流弧の妹で、現在5歳。流弧をそのまま幼くしたような顔立ちで、大きな瞳には、無邪気さと理性が同居しているように見える。なかなかおしゃまな物言いをする子供なのだが、すっかり居候の悪魔になついてしまっているのだった。
		 ジト目で睨んでいる流弧を見て、ベルフェゴールはハッと閃いた。
		「ごめんね、ルコちゃん。はい、あ〜ん」
		「わたしはいいのよっ」
		 流弧に豆腐を食べさせようとしたベルフェゴールの目論見は外れた。が、助っ人は思わぬところから現れるものだ。
		「おねーちゃん。ひとのこういは、すなおにうけとらないと、ダメなんだよ」
		 まだ5歳の凪は、下心という言葉を知らないようだ。
		 ベルフェゴールは我が意を得たとばかりに満面の笑みを浮かべた。
		「そーそー、ナギちゃんの言うとおり! はい、あ〜んv」
		 妹の手前、仕方なく口を開ける流弧。真っ赤になりながら、不本意そうに咀嚼する姿を見て、ベルフェゴールは心の中でガッツポーズを決めた。しかし表面上はごくごく普通に、「じゃ、ナギちゃんにもお返し〜」と、あ〜ん攻撃を再開するのだった。
		
		 きゃっきゃと笑い声が響く古びた旧寮棟には、彼らのほか誰もいない。
		 半年前。両親を失った流弧に召喚されて以来、ベルフェゴールはここで成美姉妹と楽しく暮らしていた。
		
		 パジャマの袖から覗く、流弧の白い手。小刻みに震えるその手を、ベルフェゴールがそっと包み込んだ。
		「さぁ、お楽しみを始めようか」
		「だめよ、まだ心の準備が……」
		 あたふた慌てる流弧を見下ろし、くすりと笑みを浮かべるベルフェゴール。
		「さぁて、どうしようかな。流弧ちゃんの心の準備が整うのを待ってたら、夜が明けちゃいそうだからね」
		「やだ、待ってってば、ティディ……!」
		 流弧の悲鳴を無視したベルフェゴールは、片腕を伸ばして容赦なく電灯のスイッチの紐を引っ張った――。
		
		 パッ。
		
		 部屋に明かりが灯った。
		 悪魔は当然人間より夜目が利く。だからベルフェゴールは、流弧のために明かりを点ける。人間が暗い中で作業を続けると、視力の低下を招くからだ。
		「もう、待ってって言ったのに」
		 そう言いながらも流弧は観念したらしく、コントローラーを握りしめる手の力を抜いて、スタートボタンを押した。
		 真夜中のゲーム大会の始まりである。
		 凪を寝かしつけたあと、ふたりで小一時間ばかりゲームに興じる。TVゲームでも、ボードゲームでもなんでもいい。要するに契約者と一緒に過ごす時間、これが重要なのだ。この時間が深まるほど、ベルフェゴールの求める魂が、より美味しく価値あるものへ変化していくのである。
		
		 古来からの伝承にある通り、悪魔の食料は人間の魂だ。魂というのは生きとし生けるすべてのものが持っているものだが、高度に分化した感情を持つ人間の魂は格別なのだ。よって悪魔は人間の魂を求める。
		 魂はすべての生き物に宿るもの。しかし、いったん生命の輝きが失われると、魂は途端に劣化し、やがて消滅する。
		 かつては、人間を殺して魂を狩る悪魔が多かった。直接的に魂を手に入れる最短の方法だからである。だが一度死んだ人間は蘇らない。また魂を得るためには、別の獲物を探さなくてはならないのだ。
		 悪魔たちは考えた。効率よく魂を収集する方法を。そして気付いた。人間の強い感情には、高濃度の魂の香りが宿っていることを。また強く感情を昂ぶらせたまま死んだ人間からは、より美味な魂が得られることも発見された。一昔前、異端狩りだの戦争だのが流行した時代は、悪魔たちにとってまさしく天国だったのだ。
		 しかし近代化が進むにつれ、悪魔たちの景気は悪くなった。事件がなくなったなら起こせばいいじゃない、という意見もありそうなものだが、やりすぎると人間はあっけなく死んでしまう。生命体としての地力が、絶対的に異なるからだ。こうなると、最初の事例に戻ってしまう。
		 そして考え出されたもうひとつの方法。それが『契約を交わす』というものだった。人間と契約し、その望みを叶えることによって、人間の感情を満足させて高濃度の魂を繰り返し抽出、最終的には生命とともに魂を食らうことができる。これなら一定期間、少量ずつだが食料を確保できるし、取り決めによりほかの悪魔に対して獲物の優先権を主張できる、まさに一石二鳥の方法なのだ。
		
		 これらのことを、ベルフェゴールは契約者に話して聞かせた。
		 流弧は理解したうえで、自分が召喚した悪魔とゲームに興じている。
		
		「はい、残念。本日十回目のゲームオーバーだよ。じゃ、お祝いのキスv」
		「い、いらないってば!」
		 真っ赤な流弧の抵抗もむなしく、ベルフェゴールは彼女のやわらかな頬にキスをした。じゃれあうふたりの後ろでは、TV画面に『ゲームオーバー』の文字が躍っている。
		「ん〜甘くて美味しいw ごちそーさまでしたw」
		「はいはい、お粗末さまでした……って、角としっぽ出てるわよ」
		 嬉しさのあまり角としっぽを仕舞い忘れたベルフェゴールに、流弧の叱責が飛ぶ。「日常生活では人間らしく。他人に正体を悟られないこと」というのは、契約の一環である。
		 慌てて収納するが、顔がにやつくのは許してもらうしかない。
		 ふと、流弧が真顔に戻って「そういえば、ひとつお願いがあるんだけど」と切り出した。
		「お願い? ルコちゃんのお願いなら大歓迎w」
		 はしゃぐベルフェゴールと違い、流弧は慎重だった。
		「大したことじゃないんだけど……あのさ、このくらいのことで、魂取られちゃったりしないよね?」
		 不安げに見上げる彼女の頬を、ベルフェゴールはスッと指の腹で撫でた。
		「教えたでしょう? 悪魔を動かすのは、契約と報酬。言ってごらん。君の望みを叶えるのも、契約の一環だ。もちろん、割り増し料金はいただくけど」
		 ベルフェゴールの双眸に囚われたように身を固くしていた流弧だが、しばらくしてふぅっと肩の力を抜いた。
		「クリスマスプレゼント。なにが欲しいか、ナギから聞き出して欲しいのよ」
		「あぁ、もうすぐだね、神様の誕生日。ずるいよね〜世界中の人に誕生日祝ってもらえるなんてさ」
		「……ちゃんとクリスマスも知ってるわけね。じゃ、話が早いわ」
		 毎年、サンタクロース宛にどんなプレゼントが欲しいか手紙を書くそうなのだが、今年は凪が、その手紙をどこかに隠してしまったらしいのだ。両親に代わり、凪の『サンタさん』にならなくてはならない流弧だったが、凪は頑として教えてくれない。それで困ってベルフェゴールに相談したというわけだ。
		「お安いご用! 心を読むのも失せもの探しも、悪魔の専売特許さ。でもま、五歳のお子ちゃま相手だから、巧みな話術で聞き出すことにしようかな」
		 五歳児相手に能力を披露するのも大人げない気がする。第一、能力を発揮すれば腹が減る道理である。
		「お願いね。それで、報酬ってどうすればいいの? 魂の香りとやらは、普段から勝手に取ってるんでしょう? その、キ、キスとかしたときに」
		 初々しい反応が面白くて、ぎゅっと抱き寄せてみる。腕の中の体は小さく縮こまっていて、それなのに柔らかくていい匂いがした。
		「そーだね、今回は魂はいらないや。たまには別のにしてみようかな」
		「別の、って?」
		 もぞもぞと恥ずかしげに顔を上げた流弧の表情が、一転して呆れ顔になった。
		「ルコちゃんの、サンタさんコスプレが見たいなw もちろん、スカートはミニでね!」
		「……オヤジくさい」
		 そりゃあ人間から見れば結構なトシだし――と言おうとして、やめた。ドン引きされると、しみじみと堪える。
		「じゃ、今日はもう寝よっか」
		 流弧を部屋へ返し、ベッドに横になる。眠たいわけではない。そもそも、悪魔はほとんど睡眠を必要としない。
		「明日にでも、さっそく調査済ましちゃおう」
		 そしたらコスプレ衣装も買いに行かなくちゃ……と、流弧が知ったらますます青ざめそうな楽しい想像をしているうちに、夜は更けていった。
		
		 その翌日。ベルフェゴールは、さっそく凪を近所の児童公園に連れ出した。幼稚園の帰り道である。流弧はまだ高校の授業が終わっていないので、ここにはいない。
 冷え込みが激しくなってきたためか、人影はまばらだ。順番待ちをすることもなく、二人はブランコに乗る。凪の定位置は、もうすっかりベルフェゴールの膝の上だ。
「マフラーはちゃんと巻いてるね? しっかり掴まってるんだよ」
 凪の様子を確認してから、ベルフェゴールはゆっくりとブランコをこぎ始める。
 ゆらゆら。ゆらゆら。
 ブランコが揺れる、ゆったりとしたリズムに合わせて、凪はその日幼稚園であったことを思いつくままに話す。折り紙をしたこと、先生が歌を歌ってくれたこと、みんなでクリスマスツリーの飾りつけをしたこと……ベルフェゴールはにこにこ笑いながら凪の話に耳を傾けている。
「それでね、ゆーたくんがゆったの。サンタさんなんて、いないんだって。それでね、さーやちゃん、ないちゃったから、かわいそうだった」
「そっかぁ。お友達が泣いてると、自分まで悲しくなっちゃうね」
 こくん、と凪は頷く。
 そんな凪の頭をぽんぽんと軽く叩いて、ベルフェゴールはそっと身をかがめた。
「それで、凪ちゃんはどうしたの?」
 頭のすぐ上から響くやわらかな声に誘われるように、凪は深くもたれかかってくる。
「なにも。だって、ゆーたくんのゆったことは、ウソじゃないの。だけど、いわなくていいことなの。サンタさんをしんじてるこは、いっぱいいるんだもん。しんじさせてあげたらいいのにって。そしたら、なにをゆっていいのか、わかんなくなっちゃった」
		 五歳児の鋭い感性に、ベルフェゴールは言葉を失った。その後、口元からゆっくりと微苦笑が広がっていく。
		「う〜ん、まいったなぁ」
		「なぎ、わるいことゆった?」
		「まさか、そんなことないよ」
		 凪の懸念をベルフェゴールは笑顔で払拭し、そして片手で癖のある髪をくしゃくしゃに掻きまわした。
		「なぎも、サンタさんしんじてるとおもってた?」
		「うん、正直ね。実はねぇ、僕、流弧ちゃんに――」
		 そうしてベルフェゴールは、サンタクロースにお願いするプレゼントを聞き出してほしいと頼まれたことを白状した。
		 凪は、さもありなん、と訳知り顔で頷く。
		「だからこのさむいなか、こうへんにいこうなんてゆったのね。こーゆーときはね、おしゃれなかふぇーのほうが、おんなのこのくちはかるくなるのよ」
		「……肝に銘じておきます」
		 殊勝に頭を下げるベルフェゴールの頭頂部を、凪の小さな手がよしよしと撫でる。流弧の前では好き勝手にふるまっているベルフェゴールの、意外なウィークポイントがここにあるのかもしれない。
		 幼児に慰められて気を取り直したベルフェゴールは、改めて尋ねた。
		「それで凪ちゃんは、プレゼントになにがほしいのかな?」
		 凪は首を横に振った。
		「いらない。なぎ、もうねんちょーさんだもん。おねえちゃんにも、そうゆったげてね」
		「年長組の子たちだって、きっとみんなプレゼントもらってるさ。だから凪ちゃんも、遠慮しないでいいんだよ?」
		 しばらく、凪の返答はなかった。
		「……凪ちゃん?」
		「いつも、なぎとおねえちゃんと、ふたりにプレゼントがあったの。でも、ことしはおねえちゃんはプレゼントもらえないの。だから、なぎだけもらっちゃいけないの」
		 それはたぶん、凪の精一杯の強がりだったのだろう。ベルフェゴールはそれを察したがなにも言わず、「じゃ、そろそろ帰ろうか」と凪の手を引いて公園を後にする。すぐ近くのスーパーマーケットで買い物をし、凪を寮へ送り届けると、「知り合いに会ってくるから」と、再び外へ飛び出して行くのだった。
		
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		たいへんご無沙汰しております、路地猫みのるです。
		このたび、シルフェニアさんが9周年を迎えられると聞き、拙作を投稿させていただきました。
		
		今回はオリジナルです。
		本来、主人公(になるはず)の女の子・流弧ちゃんの視点で書いたほうが良かったのかもしれませんが、
		どんな風になるか試行錯誤した結果、こういう形に落ち着きました。
		
		しかし季節ものって、シーズン過ぎるととんでもなくおマヌケですね^^;
		続きものですので、あまり間をおかず続編を投稿させていただきたいと考えています。
		お付き合いいただければ幸いです。
		
		それでは良いお年を!
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