<機動戦艦ナデシコ×銀河英雄伝説 〜IF STORY〜>
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新銀河帝国軍ナイトハルト・ミュラー上級大将がその日の軍務を終えたのは午後8時をまわったあたりである。自由惑星同盟との和平調印式からは1年以上、「史上最悪の奇蹟」とまで評されたオーベルシュタイン元帥の世紀末的な結婚式からは7ヶ月ほどが過ぎ去ろうとしていた。
「なるほど。平和とはこういうことを言うのだな……」
戦時中は軍務に多忙を極め、官舎に帰宅するのも深夜というのも珍しいことではなかったが、和平が成立し怒涛のような戦後処理が一段落すると軍務に拘束される時間はみるみる短くなっていった。
こういうとき独身というのは寂しいものがある。家族や恋人がいれば余った時間を有意義に過ごすことができるだろう。同僚のワーレン提督やアイゼナッハ提督などは戦時中はほとんど叶わなかった分も含めて子供との時間を大いに堪能しているらしい。
しかし、若き上級大将はいまだに独身だ。今年で35歳になるのだが、自分でも甲斐性がないと感じてしまうくらい浮いた話がない。おそらく無意識に昔の大失恋を引きずっているのかもしれないが……
もう少し落ち着いたら実家に帰って兄弟姉妹とすごすというのも、いいかもしれないだろう。
「さて……」
ミュラーは、高級士官用官舎には戻らず、帝都オーディンにあるなじみの店へ一人で向かったのである。
地上車から通りに降りたミュラーがまず感じたことと言えば、北半球に位置する帝都の気温の低さだろう。軍支給のコートを着ているとはいえ、またたく星空がよく見えるということは、それだけ空気が冷たく澄みきっているという証であった。
(地上からこうしてゆっくり夜空を見上げるというのもずいぶん久しい気がするな……)
地に足を付けて、というのがそもそも奇妙なのだ。ほんの少し前までは巨大な宇宙戦艦の艦橋から広大な銀河を眺め、縦横無尽に翔び回っていたのだ。こうして地上から星に俯瞰されるのではなく、その中心にあって星々を掴むような感覚で……
(平和と引きかえに我々は自由の宇宙から遠ざかっていくのだな……)
ミュラーは、白い息を吐きながら大通りへと進み、なじみの店に通じる交差点に差し掛かったところ、ついさっきまでのまじめな感傷を彼方に追いやるほど愕然とし、反射的に身を隠してしまった。
かろうじてその驚愕を内心に留めたミュラーの砂色の瞳に映っていたのは──
──映っていたのは、結婚式から7ヶ月目にして夫婦としての実態をようやく確認できた軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタイン元帥と、その妻ホウメイのツーショットであった。
ミュラーは、自身のゴシップ遭遇率に複雑な気分だった。どういうわけか彼は帝国軍人やその他VIPのまさかの場面に遭遇することが多いのだ。老犬のために自ら肉屋に買い物に行く軍務尚書を筆頭に、ブラッシングをする軍務尚書や、犬と散歩をする軍務尚書や、ペットショップで真剣?に首輪を選ぶ軍務尚書や、美術展に出品予定だった油絵を割ってしまった「芸術提督」や、子供に買ってあげたアイスクリームを思わず義手で握りつぶしたワーレン提督や、子供を肩車しながら陽気に踊る「疾風ウォルフ」etc……
(強運というより悪運の類だろうな……)
オーベルシュタインは軍服ではなく私服と思われたが、黒いロングコートを着ているのでその下はよくわからない。だんなと腕を絡めるホウメイ──オーベルシュタイン夫人は白っぽい暖かそうなコートを羽織り、羽根付きの白い帽子を被っている。普段は白いシェフ姿がほとんどなのでとても新鮮に感じられた。
(なんとかは忘れた頃にやってくるとはこの事だな……)
と言うのも結婚式後、二人は新婚旅行に繰り出すでもなく、水入らずで過ごすでもなく、翌日にはそれぞれの職場にごく普通に戻っていたのだ。
その後、職場で顔を合わせても夫婦らしさの微塵も感じられない会話を交わすばかりで、諸将の間では「軍務省離婚」などと冗談交じりに噂されていた。しかも奇怪なことにプライベートの夫婦生活を目撃した者たちも皆無であったのだ。
それが、ここにきてまさかの遭遇である。
ミュラーとオーベルシュタイン夫婦の距離は直線距離にして50Mもないだろう。大通りから分かれた別の道の向こうとこっち側という位置関係だ。夫婦は何やら家具店の前で立ち止まり、展示されている商品を見ているようだった。
ミュラーは無意識にコートのポケットまさぐったが端末の感触がない。
(しまった……デスクに置いてきてしまったか……)
将官級に支給される画像データーも撮影可能な通信端末を通常ならば持ち歩いているのだが、油断してしまったのか忘れてきてしまったのだ。戦時中なら大目玉に違いない。
ミュラーは残念そうに指を鳴らし、そしてふと我に返った。
(やれやれ、いったい何を考えているのやら……)
ミュラーは己の邪念を振り払うとなじみの店に向かってきびすを返そうとしたのだが、不意に後ろから右肩を叩かれる。
ミュラーが驚いて肩越しに振り向くと、そこにはたくましい体格と荒々しいオレンジ色の頭髪を有する帝国軍きっての猛将フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト提督が立っていた。
「ようミュラー提督。こんなところで珍しいじゃないか、一体何を見ているんだ?」
ついフォーカス対象に振り返ってしまったのが致命的だった。ミュラーは慌てて同僚に向き直ったものの、時すでに遅しである。
一瞬だけ、ビッテンフェルトは放心状態だった。
「な、なんということだ……よもやこんなところで!」
反応は自分と同じだな、とミュラーは感じたが、それはあまりにも呑気すぎた。彼はこの場をなんとか誤魔化そうとしたものの、それより早くビッテンフェルトのたくましい腕が首に絡みついてきた。
「さすがフォーカスミュラーだ! 謎に包まれたあの軍務尚書の新婚生活に遭遇するとは異名に恥じないではないか!」
ビッテンフェルトの賛辞にミュラーはちっとも感情を刺激されなかった。
ミュラーには「鉄壁ミュラー」という軍事的才能を褒め称える異名が銀河に轟いているのだが、その名誉に比べると俗な異名は不本意きわまるものだ。
ただ、声を大にして拒絶しないところがミュラーの精神的な器量を示していただろう。
ミュラーは咳払いをした。
「いくらあの軍務尚書閣下とはいえ、他人の私生活を覗くような卑劣な行為は慎むべきかと存じますが?」
ビッテンフェルトはミュラーのもっともな忠告を無視し、コートの内側から端末を取り出して、さっさとオーベルシュタイン夫婦を激写していた。
「ここで遭ったらなんとやらだ。ククククク……」
不気味だ、とミュラーは肩をすくめた。7ヶ月前、ビッテンフェルトは皇帝ラインハルトの命により、大嫌いな軍務尚書の結婚式で祝辞を読むことになった。時おり声を詰まらせる猛将に事情を知らない出席者の中には「上司の門出に涙するよき部下」の姿に感動し、もらい泣きする関係者も少なくなかった。
もちろん、ビッテンフェルトは自分が情けなくて嘆いていただけなのだが……
家具店を覗いていた夫婦が移動を開始した。
「行くぞ、ミュラー提督!」
ビッテンフェルトの表情は活き活きしていた。ミュラーはあえてすっとボケてみた。
「どこへでしょうか?」
「決まっている。後を尾行(つけ)るんだ」
ビッテンフェルト曰く、妻の尻に敷かれる軍務尚書閣下の決定的瞬間を可能な限りフォーカスしてやる! のだという……
「そんなことはやめませんか?」
ミュラーのまっとうな意見は雑踏に吸い込まれてしまった。いや、ビッテンフェルトはすでに尾行を開始していたのだ。
問答無用らしい。
「やれやれ……」
ミュラーは大きくため息をつきつつも同僚の後を追った。万が一の場合、自分が抑えに回ろうと考えたのだ。
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ターゲットはしばらく歩いて大通りに差し掛かった。新皇帝ラインハルト一世を中心とするさまざまな分野の改革によって経済に多くの個人資本も参入したため市場は活況を呈している。新年を一ヵ月後に控え、帝都は銀河の平和到来と重なって人々の希望と笑顔にあふれているようでもあった。
「こっちだミュラー提督」
先行するビッテンフェルトに催促されて最年少の上級大将は白い息を吐きながら歩を早めた。大通りは予想以上に人の往来が増え、少しでもよそ見をすると夫婦を見失ってしまいそうだった。
(こんなところを他の誰かに見られたくないものだが……)
ミュラーは大きく肩をすくめた。それはオーベルシュタイン夫婦であり、その二人を尾行──調査する彼らである。
(とはいえ、これだけの人がいると心配だが……)
懸念といえば、これ以上、厄介な人物に介入されたくないことだ。帝都に滞在中の
「
そんなことになれば事態が3.5倍増でややこしくなることは目に見えている。ナデシコに関わる連中はみんなゴシップ好きなのだ。出会ってしまったらそれこそビッテンフェルトに喜んで協力しかねない?
(想像しただけでも恐ろしい……彼女なら突撃インタビューとか記念写真を撮るだとかごく普通にやりかねない)
ミュラーは、
同盟軍の地形を生かしたゲリラ戦に帝国軍は苦戦を強いられた。ミュラー、ルッツ、ワーレンの三提督は同盟軍のとった戦法と行動から彼女が時間稼ぎをしていると予測し、逆に罠に嵌めようとしたのだが、ユリカは帝国軍の後方にあった巨大な惑星をナデシコ級戦艦三隻の相転移砲によって消滅させ、一転して大攻勢を仕掛けたのだった。
帝国軍の誰もがその非常識な戦術に度肝を抜かれてしまい敗れてしまった。ミスマル艦隊はそのままフェザーン方面の決戦に参戦し、講和のきっかけを作ることに貢献したのだった。
(思い出しただけでも頭が痛いな……)
ミュラーは、その宙域のバランスを破壊し、銀河中の航路データーと星系図を書き換えさせるという人類史に残る暴挙をやってのけた見目麗しい女性提督の穏やかな笑顔を思い浮かべて身震いした。
ミュラーは、急に立ち止まったビッテンフェルトの背中に顔面をぶつけてしまった。何事かと問う暇もなく、同僚に交差点の角にある建物まで引っ張られてしまう。
「い、いったいどうされたのですか……」
ミュラーがしたたかに強打した鼻を押さえてたずねると、ビッテンフェルトは建物の角から別の通りのむこうを伺いながら激しく舌打ちしていた。
「ビッテンフェルト提督?」
「やばいぞ……」
「はっ?」
尾行がばれたのかと思ったら、そうではなかった。ビッテンフェルトがくいっとあごを上げて示した方角には、ミュラーが遭遇したくなかった見目麗しいが、非常に油断できない女性が旦那と手を繋いでルンルン気分で歩いていた。
「ミスマル提督!!!!!!」
正確には「テンカワ提督」なのだが、旧姓の方が長い間脳内に刷り込まれているのでとっさには出てこない。遅い新婚旅行中のテンカワ夫妻は楽しそうに会話を交わしながら大通りの交差点を一直線に目指しているように映った。
ミュラーと同じように対ミスマル艦隊とは悪夢しか思い浮かばない帝国の猛将は、苦々しい表情をしながら建物の壁を拳で叩いた。
「やばいな、このままだとこっちに来てしまうぞ。もし大通りを北上でもしたらオーベルシュタインに声をかけるに決まっている。そうなれば数々のスクープを独占できなくなってしまうぞ!」
(懸念する方向性が違うような……)
というミュラーの心の嘆息にビッテンフェルトはむろん気づかない。ミュラーが懸念しているのは、ミスマル──テンカワ・ユリカがオペ夫妻と遭遇すればおとなしくは終わらないだろうということだ。いろいろ周囲を巻き込むことはもちろん、後日,
話が広まることは目に見えている。
しかも、ナデシコ連中は元のゴシップを大げさに拡大する困った一面がある。あの同人作家アマノ・ヒカルという女性やウリバタケという技術者は特に思いもよらない方向に過剰装飾しかねない。
いや、するだろう……絶対にそうなる!
「ミュラー提督、卿が行くしかない。鉄壁ミュラーの出番はいまだ!」
根拠のわからない理由で同僚から突然対処を依頼され、ミュラーは唖然としてしまう。
「俺が行ってしまうと上手く対応できず、余計に怪しまれる可能性があるから卿が対処するのが最善だ」
ミュラーは、ビッテンフェルトの言い分に納得したわけではなかったが、あながち間違いでもないので引き受けることにした。ただし問題はある。
「ですが、どうするのですか?」
あまり考えている時間はないようだった。テンカワ夫妻は大通りの交差点に進入する手間まで来ている。対するオベ夫妻の歩みはゆっくりで、軒を連ねる多くの店舗を覗きながら中心街に向かおうとしているらしかった。テンカワ夫妻の行動によっては見事に鉢合わせしてしまうだろう。
そして鉢合わせしたが最後、カーニバルが始まる……のだろう?
これは明日の銀河の平穏のためにも絶対に阻止しなくてはならない。
「ミュラー提督、とりあえず時間を稼ぐんだ。ホウメイ殿たちがもう少し遠ざかるまであの二人を足止めするしかない。委細は卿に任せる。行け!」
同僚に急かされる感じでミュラーは駆け出した。とりあえずどうにかするしかない。理由は異なっていても、あの二人をあの二人に会わせてはいけないという意見は一致しているからだ。
ミュラーは交差点を渡り、人ごみを利用しながら若い夫婦の視界に微妙に入らないように近づき、ほんのちょっとすれ違ったところで声を掛け──
──掛けるより早く、テンカワ・ユリカに声を掛けられてしまった。
「あー、ミュラーてーとくじゃないですかぁ! おっ久しぶりでぇーす!」
相変わらず能天気な高音だった。30歳になる前に結婚することができたかつての恐るべき敵将は、くったくのない笑顔をミュラーに向けながら、振り向いた際に乱れた腰まで届く美しい髪をしなやかな動作でかき上げる。
通常ならドキリとしてしまうしぐさだが、ミュラーは大切な「使命」に集中しているためか心を乱したりはしない。
ミュラーは居住まいを正し、夫婦に挨拶した。
「このようなばしょでおふたりにあうとはきぐうですね」
態度は自然だったが、挨拶はガチ棒読みの不自然だった。少し離れた場所から様子を見守る同僚が思わず右手で顔を覆ったほどである。
「ほんとうに奇遇ですね、ミュラー提督」
「ミュラー提督、結婚式ではお世話になりました」
テンカワ夫妻は軽くミュラーの棒読み挨拶をスルーした。特に何も疑っていないのだろう。気負ったミュラーとビッテンフェルトは内心で脱力していたが、むろん夫婦の知るところではない。
それよりもミュラーは安心した。テンカワ・ユリカに先に声を掛けられたことは失敗だったが、思惑は成功していたからだ。ミュラーの視界には大通りの交差点付近からこちらを見守るビッテンフェルトが見えていたが、テンカワ夫妻は通りに背中を向けている。
進行方向をひっくり返すことは成功したのだ。戦場でいえば敵に見られたくないとっておきを派手な攻撃で覆い隠したといえるだろう。ビッテンフェルトは今のうちとばかりにミュラーに片手を上げて合図し、交差点を横切ってオーベルシュタイン夫妻の後を追った──
と思ったらテンカワ・ユリカが何事かを感知でもしたかのように突然肩越しに振り返った。
「あれ? 今ってビッテンフェルト提督が横切って行きませんでしたか?」
ミュラーは硬直してしまう。どういう奇蹟であの瞬間に振り返るんだ! そしてあれだけ人通りがあるのに、なぜビッテンフェルト提督が視界に入ってしまうんだ!?
数万隻の艦隊戦によって窮地に追い込まれても滅多に戦場では動揺しない帝国の名将の心臓はドキバクだった。
ようやく押し出した言葉が、
「そんなはずはありません。ビッテンフェルト提督は陛下とお食事のはずです」
という自分自身にため息をつきたくなるほどの嘘だった。ついに冷や汗を出すほど焦ったのだが、
「そうですかぁ、ミュラー提督がそうおっしゃるならユリカの見間違えでしょうねっ」
とテンカワ夫人はあっさり納得した。妙な場面でミュラーの誠実さが真価を発揮したのだが、もちろん本人はちっともうれしくない。
(どうせならプライベートで真価を発揮できないものだろうか……)
しかし、なんだかんだと危機が去ってミュラーは内心でほっとした。
(どうやら第一段階は成功したが、問題は第二段階だな……)
このままてきとーな話題で足止めが可能かもしれないが、ミュラーもビッテンフェルトのやりすぎを止めねばならないので、あまり時間を掛けてもいられない。かといって足止めが短すぎ、二人が中心街に向かうような事態は避けねばならなかった。
「ミュラー提督は家にお帰りですか?」
そう尋ねてきたのはユリカの旦那テンカワ・アキトだった。背の高さはミュラーにやや劣るものの、褐色の瞳に宿る光彩は引き締まった表情と身体そのものを体現しているといえるだろう。同盟軍エステバリス隊エースパイロットとして帝国軍戦闘艇部隊を震撼させた男であり、自分のもう一つの未来に決着をつけた男でもあった。
「ええ、そうでしたが、急用ができたので艦隊司令部に戻るところです」
ミュラーが答えると、夫妻揃って同情してくれたが、テンカワ・ユリカはちょっと怒っていた。
「ミュラー提督、私たちに気づいていたのにそのまま通り過ぎようとしていませんでしたか?」
誤解もはなはだしいが、彼が狙ったタイミングを思えば十分勘違いされて当然だろう。本当のことを言えるわけがないのでミュラーは素直に頭を下げた。
「申し訳ない。新婚旅行中のお二人に声を掛けるのもどうかと思いまして」
ミュラーがすまなそうに答えると、テンカワ夫人は誠実な上級大将を許した。またまた普段の行いが功を奏したといえるだろう。
「ところで……」
ようやく落ち着きを取り戻したところでミュラーが二人に行き先を尋ねると、それは最も懸念していた中心街だった。
「どこかにおいしい食事処はないかなーって探しに行くところなんですよ」
ユリカの言葉に、ミュラーは思わず「これぞ天祐!」とばかりにガッツポーズしてしまった。夫婦には不審な行動に対して怪訝な表情を向けられてしまったが、若き上級大将は咳払いをして強引に誤魔化した。
「ああ、いえ実はですね……」
やや経過が遠回りしたが、要は大通りを北上させなければいいのである。しかも夫妻の希望にかなう店をミュラーは紹介できる。違和感や強引さをともなわず危険を回避できるのだ。
「そういうことでしたら、ひとつご紹介したいお店があるのです」
ミュラーが言うと、夫婦は表情をほころばせながら聞いてきた。
「ミュラー提督推薦のお店ってことですね! ぜひぜひ教えてください」
ミュラーは「内心」でガッツポーズした。かつてこれほど黒い感情を秘めたことがないくらいに……
「ええ、お店は小さいのですが料理の味は確かです。なによりも価格が適正ですよ」
ミュラーがおすすめメニューなどを説明すると、テンカワ夫妻は顔を見合って上級大将なじみのレストランに行くことを決めてくれた。これで完全に二人は逆方向に向かうことが決定したのだ!
「ではお気をつけて」
ミュラーは、テンカワ夫婦が大通りを南下するのを確かめると、大急ぎでビッテンフェルトの後を追ったのだった。
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ビッテンフェルトとの距離はさほど開いていなかった。というよりオーベルシュタイン夫婦の移動距離が短かったといえるだろう。ミュラーにとっては不幸中の幸いだった。
追いつくなりビッテンフェルトはやや大きな声でミュラーを呼んだ。青年提督がきょとんとすると、同僚は人の悪い笑みを浮かべてある方向を指した。
「みろ、あのオーベルシュタインがホウメイ殿に引っ張られてケーキ屋に入ったぞ!」
ビッテンフェルトは興奮しているようだった。声が明らかに上ずっている。決定的瞬間を端末に収めた猛将は今にも夜空に向かって咆哮しそうだった。
唖然とするミュラーにビッテンフェルトはさらなる衝撃を伝えた。
「もう少し近づいてオーベルシュタインがどんなケーキを選ぶのか確認しようではないか」
「えっ?」
とミュラーが目をしばたかせた瞬間には、猛将は店舗づたいに俊敏に移動し、店内を一望できる場所を確保しつつデジタル双眼鏡を構えて夫婦の様子を探った。
(なぜあんなものをお持ちなのだ?)
ミュラーにはふと湧き上がった疑惑があった。ビッテンフェルトはもしかしたらいつこのような場面に遭遇してもよいように日頃から事前に準備をしていたのではないか?
(ある意味、その執念はすごいですけど……)
時折、下士官たちが彼らの横を通り過ぎていくが、帝国軍を代表する上級大将だと気づいた幾人かはコチコチの敬礼をして去っていくだけだった。よもや銀河を震撼させる「スクープ」を追っていることなど想像できていないだろう。
双眼鏡を構えるビッテンフェルトはミュラーそっちのけである。
「ふうむ、オーベルシュタインのヤツがどのケーキに視線を走らせているのかいまいち分からんな」
店内はけっこう混んでいる。オーベルシュタイン夫婦はじっくりとケーキ選びをしているらしい。この光景だけでも大きなスクープだ。
やがて、
双眼鏡を覗いていたビッテンフェルトが突然ほえた。ミュラーは店内を詳しく伺うことはできない。彼は気になってしまったので訊いた。
「どうしましたか?」
双眼鏡を覗きながらビッテンフェルトはニヤニヤと笑っていた。
「こいつは傑作だぞ。あのオーベルシュタインが生クリームたっぷりのでかいイチゴを乗せたショートケーキを三つも買いやがったぞ! あとはモンブランというやつか?」
よほどウケたのか、ビッテンフェルトは大笑いをこらえるのに必死だった。何が面白いのかとミュラーは怪訝な顔をした。
「あの銀河激辛伝説の生ける模範のような男が夫人に促されたとはいえ、ものすごく甘ったるいケーキを自ら買ったんだぞ!」
さらに、オーベルシュタインがコーヒーか紅茶片手にケーキを食べる光景も滑稽だが、生クリームが口元や鼻の頭に付いた姿を想像しただけでもお腹がよじれそうだという。
(なるほど……)
ミュラーは冷静に同意した。「絶対零度の剃刀」と評される泣く子も黙る軍務尚書が優雅──とは言い難い無表情さで甘ったるいケーキを食している姿は確かに大きなネタになるだろう。そのネタを現実に形としてスクープするには、ほとんど犯罪まがいの方法を採るしかないが、実際にビッテンフェルトの妄想が現実になるかは別問題だった……
「ミュラー提督、隠れろ!」
ようやく会計を終えたオーベルシュタイン夫婦が店内から出てきた。二人はすばやく建物の影に身を引っ込めたが、夫のほうが無表情で大きなケーキ箱を両手に一つずつ提げている光景には吹き出さざるを得なかった。
「……ビ、ビッテンフェルト提督、クッ……笑うのはいかがかと思いますが……」
「フックククク……そ、そういう卿こそ笑いをこらえているではないか、プッククククククククク……フフフフフ……」
上級大将二名の異様なリアクションもスクープといえなくもない。親に連れられた幾人かの幼子が怪訝そうに二人を見つめるたびに「見ちゃいけません」と親からたしなめられるのも、また現実というものである。
時刻は標準時で午後8時40分を過ぎようとしていた。外気はさらに下がったようだが人通りが絶えることはない。週末ということもあるのかもしれない。
「さて、次はどこへ向かうかな?」
ビッテンフェルトは再び尾行を開始した。ミュラーがその後をすぐに追う。猛将は尾行しながらすぐ後ろを歩く同僚に皮肉交じりに呟いた。
「残念といえば、死神をも黙らせる軍務尚書もしょせんは人の子であったと証明してしまったことだな。女性はやはり強いらしい」
「はあ……」
ミュラーの意見はいささか違った。ホウメイ女史が特別なのだ。豪放にしてどこまでも懐深く、強固な意志を併せ持つ女性だからオーベルシュタインの「妻」となりえたのだろうと。また、「獄炎の料理人」と言わしめるほど、その道の実力者だからこそ「絶対零度の剃刀」を凌駕できたのかもしれないと。
(いずれにせよ、女性は偉大だということかな?)
ビッテンフェルトが再び声を上げた。そしてサッっと建物の陰に隠れて激写しまくる。つられて隠れたミュラーが目にしたターゲットの姿は夫婦揃って手を繋ぐありえざる──半分信じていた価値観(神格化みたいなもの)が崩壊した──光景だった。
「みろよ、あの醜態を! 笑いを通り越してある意味オーベルシュタインに同情してしまうほどのインパクトじゃないか」
ビッテンフェルトの感情は「嘲笑」と「幻滅」が複雑に混ざりあっていた。もう少し分かりやすく表現すると「泣き笑い」というところだろうか? ビッテンフェルトの本音は、オーベルシュタインが何者をも簡単には寄せ付けない冷酷非常な政治家であってほしいと望んでいるのかもしれなかった。
ふと鐘の音が夜空に響いた。時計塔の鐘だろう。今にも雪が舞い降りてきそうな寒空の中、その音色は厳かですらあった。
(そうだな……)
ミュラーは、その鐘の音に心境を変化させた。ビッテンフェルトに向き直る。
「もうこのあたりでよいでしょう。十分に目的は達成できたはずです。これ以上、個人のプライバシーを侵害する行為は寝覚めが悪くなるというものです」
まさに正論だが、ビッテンフェルトは首を縦に振らなかった。
「ビッテンフェルト提督!」
「言うなミュラー! 俺は式場での仕打ちを忘れてはいない!」
ビッテンフェルトが「祝辞」を読んだあと、臨時インタビュースタッフとなったテンカワ・ユリカがオーベルシュタインに心境を尋ねたら、
「何もない」
と答えたのが許せなかったのだ。(ある意味、軍務尚書らしいのだが……)
ビッテンフェルトはずかずかと歩き出す。オーベルシュタイン夫婦は肉屋に入っていった。
「フフフフ、伝説の肉屋か。しぶとい老犬と二匹目のために軍務尚書閣下自ら肉を買うか。まさか映像に納めることになろうとはな、ふふんっ」
ビッテンフェルトは、店舗の脇まで近づいて軍務尚書が肉を購入するさまを激写しまくるが、不意にモニターが真っ暗になった。
「何のマネだミュラー提督?」
最年少の上級大将はビッテンフェルトの端末を手で覆いながら頭を振った。
「やめましょう。これ以上は看過するわけにはまいりません」
ビッテンフェルトの眼光が鋭くなった。
「離せミュラー」
「いえ、離しません」
「離せ!」
「離しません!」
上級大将同士のプチ取っ組み合いが始まった。要は端末の奪い合いである。傍から見るとエアアームレスリングをしているようにしか見えないのだが、当人たちはどちらも大真面目だった。
そしてこの幕引きは実に因果なものとなった。ミュラーが奪った端末をビッテンフェルトが激しく腕を振り上げて端末を取り戻そうと触れたとき、その衝撃によってミュラーの手から端末が弾き出され、それはゆるやかに弧を描いたまま地上に落下し、絶妙なタイミングで店内から出てきた軍務尚書に踏み潰されてしまったのである。
一方は呆然と、一方は意外そうな表情でお互いを見つめた。
「おやおや、ビッテンフェルト提督にミュラー提督じゃないかい」
真っ先に反応したのはホウメイだった。この様子だと尾行──調査されていたことには全く気づいていないようだ。彼女は包容力のある大らかな笑顔とともに上級大将二人の手をとった。
「こんなところでどうしたんだい。珍しいじゃないか?」
このとき、ミュラーとビッテンフェルトは世紀の瞬間を見逃してしまった。ホウメイに気を取られ、オーベルシュタインが焦っているという変化に気づけなかったのだ。
もし目撃することができたらならば、特にビッテンフェルトはそれまでの憤りが浄化され、天使のような態度で軍務尚書に接したかもしれなかった。
ホウメイの問いに窮したミュラーとビッテンフェルトの視線は、誤魔化すようにオーベルシュタインの足下に向いた。
ホウメイは二人の視線にハッとして旦那に振り返った。
「そういえば、あんた何か踏んづけたよね?」
オーベルシュタインはごく平静に右足を上げ、無残な姿を晒すカード大の端末を異様な光彩を帯びる義眼で見つめながら生気のない手で拾い上げた。
目を丸くしたのはホウメイだった。
「これって将官級に支給される万能の通信端末だったよね? あんたたちのどちらかのだったのかい?」
ビッテンフェルトが申告すると、ホウメイは顔色を変え、旦那に代わって深々と頭を下げた。猛将は慌ててしまう。
「奥方、軍務尚書閣下に非はございません。うっかり手を滑らせた小官の不注意が要因。全く気に病む必要はないのです。それでは!」
ビッテンフェルトは一気に言い切り、オーベルシュタインの手から端末をもぎ取るとミュラーに目配せしてその場を逃げるように立ち去った。
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ビッテンフェルトとミュラーは、しばらく大通りを早足で南下し、別の通りの交差点まで撤退したところで、よやく息を整えていた。二人ともついムキになって争ってしまったため、夫婦が店から出てくることに気づけなかったのだ。話がややこしくなる前に立ち去ることができて正解と言えるだろう。
ふとビッテンフェルトは手に持っている端末をみた。液晶部分は粉々になり、かなりの力が加わったのか本体中央部には大きな亀裂が入っていた。この状態だと中のメモリーチップは無事ではすまないだろう。数々のフォーカスは全て水泡に帰したことになる。
「申しわけありません」
深々と頭を下げたのはミュラーだった。端末を破損するきっかけを作ったことを詫びたのだ。
ビッテンフェルトは無言で頭を振ると、しばらく端末を見つめて言った。
「卿は何も悪くない。お調子に乗りすぎた俺に一番の非がある。ホウメイ殿には申し訳ないことをしてしまったしな……」
「オーベルシュタイン」と言わないところが精一杯の譲れない抵抗だったのかもしれない。
「ミュラー提督の言うとおりだ。今日のことは卿と俺だけの秘密としておこうと思うが、どうだ?」
「異論はありません」
「そうか……」
不意に二人は顔に冷た違和感を感じた。通りを歩く人々も足を止めたり手のひらを広げてその正体を突き止めようとし、その大半は空を見上げていた。
「雪……ですね」
「雪だな……」
帝都オーディンの初雪だった。例年より1週間ほど早いかもしれない。二人の上級大将は上空から舞い落ちる氷の結晶をしばらく静かに見つめていた。
やがて、人々の足が再び慌しく動き出した。
ビッテンフェルトとミュラーもお互いに向き直った。先に口を開いたのは猛将である。
「さて、俺は用を思い出したのでここらで別行動をとらせてもらう。散々引きずり回してなんだが、ミュラー提督はどうする?」
「小官は夕食に向かう途中でしたので、今からでも行きます」
「そうか。本来ならば詫びの記しとして同行したいところだが、この後の用事はそうもいかなくてな。スマン」
「そうですか。ちょっと残念ではありますがいたしかたありません。近日中に機会があれば今日の事を話題に一杯やりたいものですね」
「同感だな」
二人は握手ではなく、お互いに敬礼してその場を離れた。ビッテンフェルトは交差点を別の通りに向かって歩を進め、ミュラーは大通りをそのまま南下しようとした。運がよければテンカワ夫妻と同席ができるかもしれないだろう。
(短い時間に騒ぎすぎたからな……)
ミュラーは、かつての強敵と食事ができれば、ちょうどよい気分転換になると思ったのだ。
ミュラーは、同僚が去った方角から確かに女性の声を耳にした。立ち止まって振り返り、気になったので交差点まで戻って別の通りの先を窺うと、思いもよらない光景に出くわした。
あのビッテンフェルトがウェーブの軽くかかった茶褐色の髪のうら若い女性と何やら会話を交わしていたのである。
(なんと……)
ミュラーは、この新たなスクープを目の前に好奇心が勝ってしまい、悪いと思いつつもちょっとだけ様子を窺うことにした。
「こんなところで会うとは奇遇だな。ちょうど貴女の店に寄ろうとしていたところだ」
なるほど、用とはこのことだったのだ。ビッテンフェルトとどうして大通りで会ったのかずっと不思議に感じていたのだが、これで合点がいった。
(それにしても……)
ミュラーは納得するとともに驚きを隠せない。「兵営生活の青年士官」という印象で一生を終わりそうな──などと揶揄される、まるっきり女っ気のない帝国軍の猛将が妙齢の女性と面と向かって会話を交わし、しかもかなり親しい間柄だという事実!
「どういう関係なのだろうか?」
これは、オーベルシュタインの新婚生活を違った意味ではるかに凌駕するスクープであろう。早とちりはいけないが、ただ親しいというわけでもなさそうな雰囲気だった。
会話は続いていた。
「こんな遅くなってもお店に寄っていただけるなんてとても光栄です」
「いや、その……なんだ…貴女の店の料理はどれも美味いから、一日空けてしまうとすぐに行きたくなってしまうのだ」
「ありがとうございます」
女性は一礼するとにっこりと微笑んだ。とても穏やかで温かい感じだった。そう感じるのはきっと人柄が良いからだろう。
ビッテンフェルトはその笑顔に顔をいささか赤くし、態度もややぎこちない。
(おやおや、これはまさかのまさかということでしょうか?)
少し離れた建物の陰から見守るミュラーはそう感じた。ビッテンフェルトは同僚とは完全に別れたと思って油断しているのか周囲を窺う様子がない。
猛将は軽く咳払いをした。
「ところで、こんな夜中にどこに行くんだ?」
「はい。予想よりも多くのお客さまが来店され、食材の一部を切らしてしまったので私が調達しに行くところです」
なるほど、とミュラーは頷いた。女性は手にバスケットを提げていたのだ。
すると、ビッテンフェルトは表情と背筋を正した。
「そういうことなら小官も同行しよう。女性の夜中の一人歩きほど危険なことはないしな」
なぜか言葉に不埒な成分が含まれていないと感じることができるから不思議だった。
意表を突いたのが女性の返答である。
「ビッテンフェルト提督がご一緒してくださるなら安心です」
「……う、うむ。任せてもらおう……ゴホンっ」
二人は並んで大通りに向かってきた。ミュラーは慌てて別の建物の一角に隠れる。
(これは祝福すべきことではあるが……)
身長差は30センチ近くあるだろうか? 大人と子供──というのはいささか極端だが、大柄でがっちり体型の軍人と小柄で華奢な若い女性の組み合わせというのは、弁護士のような憲兵総監とその奥方を思い浮かべてしまう。年齢でも最低10歳は差があるだろう。
(どうも私の同僚たちは年の差婚が多いような気がするが……)
同時にミュラーには予感めいたものがあった。
(ビッテンフェルト提督は近い未来にご結婚されるかもしれぬな……)
ミュラーは二人を見送ると、彼の目的へそっときびすを返したのである。
こうしてナイトハルト・ミュラー提督が遭遇した二つのフォーカスは映像には記録されず、銀河は平和的な新年を迎えたのだった。
そしてミュラーの予感はおよそ一年後に現実となる。今度はオーベルシュタインが結婚の祝辞を読み上げることになり、数々の伝説を銘記することになるのだった。