──三門市──
人口30万人あまりの街を、突如として悲劇が襲った。魚類や昆虫に似た白銀の装甲を持つ「侵略者」に蹂躙されたのだ。
こちらの世界の兵器は、後に「近界民」と称される侵略者たちには効果が薄く、三門市の壊滅は時間の問題と思われた。
しかし、謎の一団の出現によって三門市は壊滅を免れ、侵略者たちは瞬く間に駆逐された。
そう、その一団こそ「近界民」の技術を独自に研究し、「トリガー」という武器を駆使して戦う「境界防衛組織」──「ボーダー」であった。
それから4年。ボーダーは三門市の一角に巨大な拠点を短期で造り上げ「近界民」に対する防衛体勢を整える。
そして、その三門市でこちら側の少年と近界民の少年が出会ったことで、物語は新たなステージに進もうとしていた。
しかし、近界民の少年が持つ段違いの性能を誇る「ブラックトリガー」をめぐり、ボーダー上層部が強奪を企てていることを彼らは知る由もなかった。
これは、そんな少年たちを追った、とある冬の日の11時間に及ぶ記録である。
本当は「10周年記念作品」だったけど……
シルフェニア11年目突入記念作品
ワールドトリガ─
『ブラックトリガー争奪戦当日の11時間』
「玉狛のとある日常@」
冬の寒さが一段と深みを増した12月半ば。ボーダーの「玉狛支部」では、新人3名を鍛えるべく、厳しくも愛のこもった「修行」──訓練が行われていた。
当日は朝から快晴。空気もより澄んで川の上に立つ「玉狛支部」から外を眺めれば、ひんやりと心地よい空気を感じながら、せせらぎの音を聞くのも一興と思うところだろう。
──午後12時16分──
「他にやれる事はないか、あらためて考えてみよう」
「はい、すみません」
トレーニングルーム001号室から最初に出てきたのは、玉狛支部所属のA級隊員もっさりイケメン≠アと烏丸京介と、後者はもたざるメガネ>氛氓烽ニいまじめそうな顔をしたメガネ少年三雲修だった。二人は訓練室を出ると併設されたラウンジに腰を下ろした。
──腰を下ろす前から烏丸の表情はやや苦難気味だった。彼はペンを胸ポケットから取り出すと何やらメモ帳に追加記入する。向かいのソファーに座る修は緊張した面持ちで一つ上の先輩防衛隊員の発言を待った。
「そうだな……」
烏丸の静かな呟きとともに修の姿勢はさらに正される。
それは「防衛隊員」としての実力が不足しているという現実を自覚しているためだ。修は現時点でボーダー隊員の主力であるB級隊員の一員に連なってはいるものの、B級昇格までの経緯はとても自慢できるものではなかった。
もし「空閑遊真」という近界民の少年と出会っていなかったならばB級に昇格することもなく、C級隊員のまま近界民のトリオン兵と無謀にも戦って命を落としていたかもしれないのだ。
それが、知人の妹の決意に協力するためにボーダーの精鋭部隊であるA級隊員を目指すことになれば、現実を打開するためにできることはやらねばならなかった。
だからこその「師匠」とのマンツーマンの訓練でもあるのだが……
(今、自分を成長させるために必要なことは何なのか)
無言になりつつも修の頭の中は、いかに己の能力を底上げするか、常にそのことが脳内に付きまとっていた、
不意に烏丸が顔を上げて修に話しかけようとした時……
「ふいー、午前中は2勝がやっとだったか……」
反省するような声とともに002号室の扉が開いた。そこに立っていたのは白い頭髪も不思議な小学校高学年くらいの少年だった──だったが、なぜか髪の毛が爆発していた。
「よ、オサム。そっちの調子はどう?」
彼こそ、空閑遊真──近界民の少年だ。見た目はちびっこいが実年齢は15歳であり、身長168cmの修とは同じ中学校に通う同級生である。とある理由によって遊真の身体は11歳の頃から成長していなかった。
修はその理由を知っているが、空閑遊真もまた三雲修と出会ったことで運命の歯車が大きく回りだしていた。
「ちょっと遊真、出口で考え事しないで」
きつめの口調とともに、もう一人002号室から出てきた。その動作は颯爽とも優美とも言いがたいが顔立ちは端正であり、少女らしい華奢な身体と背中まで届く茶褐色のさらさらな髪が印象深い。
小南桐絵──それが彼女の名前だ。年齢は17歳、いわゆるJKだ。精鋭揃いの玉狛支部では唯一の女性防衛隊員だった。
その小南は、冷ややかそうな眼で白髪の少年を睨んだ。
「ちょっと、2回勝ったくらいで調子に乗らないでよねっ!」
そして負けず嫌い……
遊真は「調子になんか乗ってないよ」と言いたげで困惑していると、烏丸が援護射撃? した。
「あ、でも小南先輩。空閑は先輩の強さに惚れ惚れしちゃったから、将来、結婚していいかもって言ってましたよ」
「え? そうなの。惚れたってマジ? マジかもしれないけど、け、結婚て……まだ早いとと思うけど、あたしこう見えても尽くすタイプだし、料理も一生懸命作るからよい奥さんになれるよ!」
頬を染めて遊真を見る眼がマジだ。少年の首筋を冷や汗がつたう。烏丸が素早く断ち切った。
「スイマセン、ウソです」
声が冷静すぎる。
「は!?」
「全部ウソです」
「は? ウソ!?」
いまどき小学生でも信じないウソに騙されるのが鵜呑み系女子小南桐絵クオリティーでもあった。
(将来、大丈夫かな?)
と修は本気で心配しないでもないが、実は小南の学業成績はけっこう良いことを知っていた。優等生かどうかはさておき、学校ではもしかしたら伊達眼鏡をかけているかもしれない。
(意外って思ったら失礼かな……)
普段、上から目線の発言が多いわりに騙されやすいのは、ただ単に世間知らずなのか、はたまた実は純真な心の持ち主なのか、いや、そもそも天然なのか?
ささやかで友情を育むやり取りから5分後、003号室の扉が開く。姿を現したのは玉狛のA級隊員「落ち着いた筋肉」、「頭の良い筋肉」こと木崎レイジだった。玉狛の防衛隊員の中では一番の年長21歳であり、隊長でもある。その異名通り191センチの長身にガッチリ型の体躯だ。「男らしい」の代名詞のような彼は多方面に才能が及んでいるらしい。
「おつかれさまー」
という皆の声はレイジの後方にちょこんと存在する少女にも向けられていた。
「皆さん、お疲れ様です」
律儀にぺこりとお辞儀。レイジの身体に隠れて一時的に見えなかった少女の名前を雨取千佳という。年齢は14歳。修の幼馴染であり、彼女の決意によって遊真を含めた三人でチームを結成し、「近界」の遠征に参加すべく玉狛支部からA級を目指すきっかけを作った人物と言ってもよい。
修たちが訓練室から出てきたのは休憩のためだった。ボーダーの入隊日となる1月8日まで、彼らは師弟となって修行の日々を送るのだ。腹が減っては「修行」も出来ないわけで、休息も大切な修行の一つだった。
「よし、食べよう」
昼食はレイジの作ったサンドウイッチだった。手先も器用で料理も作れるクールガイながら、実は内には熱いものを秘めているという非常に頼りになる人物である。
食事が進むと、話題になったのはそれぞれの修行の進捗具合だった。
レイジ曰く「雨取のトリオン量は超A級クラスであり、戦い方を覚えればエースになれる素質がある」と極めて評価が高い。当の千佳はとえいえば、つい数日前までごく普通の女子中学生だった。それが修や遊真と関わったことにより、少女に桁違いのトリオン能力があることが判明。彼女は近界民に誘拐されたと推測される友人と兄を探すためにボーダー隊員になることを決意したのだった。
当初、レイジは千佳が戦闘向きではないと感じていた。が、そのトリオン能力と努力家であることを知って考えを改めた経緯があった。
レイジは、千佳を見やって言った。
「雨取は確実に的に当てるようになっている。もう少し精度を上げられれば、すぐに動く標的の訓練にも移れるだろう。集中力もあるし、入隊式までに基礎をみっちりやっておけば入隊後のB級昇格も短い期間で可能だろう」
一番の有望株は雨取千佳である、とも取れる。レイジは決して甘い人間ではないので、千佳に対する評価は本物だろう。
これにムッとした表情で反応したのは、
「ちょっと、遊真の方が超有望よ。あたしから二つも勝ちを取れるんだから、今すぐA級に上がってもおかしくないわ」
と小南がライバル心向き出しで言った。新人組みを最初は歓迎していなかった彼女だが、いざ修行が始まると遊真はもとより修や千佳の面倒もちゃんと見ている。玉狛のS級隊員迅悠一に騙された内容がそっくりそのまま自分に移って楽しんでいることなど、きっと小南は意識していないだろう。
千佳と遊真の仕上がりは順調である。残念ながらただ一人を除いて……
小南の冷ややかな視線が修に向けられた。
「で、どうなの修。あんたちょっとはマシになったんでしょうね?」
反応は「恐縮」だった。まだ修行を開始して3日しか経過していないので、強くなったのかと問われれば、決して当人は胸を張って肯定する段階になかった。
眉をしかめる小南に対し、そこは師匠たる烏丸が助け舟を出した。
「でも小南先輩。誰だって最初から強いわけじゃないです。むしろ空閑のような存在のほうが稀なわけで、修は現時点じゃアレですけど、彼は決して弱くはないですよ。少しだけ他の誰よりも時間が必要なだけです。師匠やってる俺が保証しますよ」
小南は疑わしそうな視線を修に向けたものの、A級揃いの玉狛支部においては強くなってもらわねばならず、言いたいことは山ほどあるようだったが「そう」と素っ気なく言って話を打ち切った。
「ふう」
と肩で息をしたのはもちろん修だった。父親からプレゼントされた眼鏡が若干曇っているように見えるのだが、それはたぶん少年の心情を表しているのかもしれなかった。遊真も千佳も当然突っ込んだりしない。二人は肩を叩いてリーダーとなる少年を励ましたのだった。
「玉狛のとある日常A」
──12時48分──
休憩もそこそこに午後の訓練が始まった。早々に小南は遊真を連れて001号室に消えていった。それまでの二人のやり取りは師弟というよりも強敵同士の──であり、やたらと戦慄をはらんでいた。修も千佳も心配しないのは、もちろん遊真の実力を知っているからだろう。
(小南先輩は空閑のブラックトリガーのことはどう思っているんだろう?)
遊真が「近界民」であることは小南も知っているはずだ。そうでなければ「ボーダーのトリガーであたしに勝てるつもり?」などと挑発したりしない。たぶん……
遊真は桁違いの能力を誇る「ブラックトリガー」を所有してはいるが、ボーダーに入隊し、千佳や修とチームを結成するためにはブラックトリガーは「S級扱い」になって単独行動になるので使用できない。いわば玉狛での訓練はボーダーのトリガーに慣れるためだ。
実際、遊真はブラックトリガーなしでも十分強かった。初日の訓練で小南から一本取ったのだ。
しかし、修と遊真にとって小南の強さは予想を超えていたと言ってもよい。近界民の少年のお目付け曰く、修行1日目の帰り、遊真はいかにして小南に勝ち越すか、修たちと別れてからもずっと真剣に考えていたという。
そして修行2日目にして早くも10回勝負して2勝するまでにたどり着いたのだが……
「ああ、三雲。午後からの訓練だけど朝言ったとおり俺はこれからバイトがあるからたぶん見てあげられない。お前から希望のあったとおりでいいから自分なりに工夫してやってみよう」
その烏丸の声に修は我に返って師匠を見た。
「3時の途中休憩の後はレイジさんの指示に従うように。結果次第では特訓メニューを見直すよ」
はい、と言って修が頭を下げると、烏丸は席から立ち上がってなにかレイジに伝えると部屋をイケメンらしく退出していった。
その後姿を見送ったレイジが二人に言った。
「さて、雨取も三雲も訓練を再開するぞ。雨取は午前中の続きだ。15時まで課題を意識しつつ射撃に励むこと」
少女がうなずくと、レイジの視線が修に向けられた。まさに筋肉クールガイ視線である。
「……三雲は、たしか仮想戦闘モードでモールモッドと対戦訓練でよかったな?」
「はい」
「そうか。自分で考えたメニューだ。足りないものは何なのか、克服したい課題が見えているならそれでいい。まずは少しでも結果を残すことだ。いいな」
「はい。みんなの足を引っ張らないよう努力します」
修が応じるとレイジは黙ってうなずき、千佳とともに003号室に消えていった。
修はというと、次の訓練に備えて呼吸を整え、そして考えた。モールモッドとの仮想戦闘を通じて予想される課題をこなすことができるか、また実戦において成長するべき側面は何であるのか……
このとき、修が漠然と目標にしていたのは「戦闘能力を高めること」だった。彼の最大の課題というのが「弱すぎる自分」を成長させる一点に絞られていたと言ってもよい。
であるからこそ、これから訓練する相手は数日前に修が惨敗──死にかけた相手であるモールモッドだった。そのトリオン兵は正規の防衛隊員にとっては雑魚に近い。その相手に惨敗するようでは、とても遠征など遠い御伽話であり、モールモッド一体すら倒せないままであるなら自分に次はないと悲痛な決意すらしていた。そのモールモッドとの対戦を通じて上を目指すきっかけを掴めればいいとも……
(まずは倒せるようになること。あのときのような悔しい思いはもうたくさんだ)
数日前、修は通学する中学校で不意にゲートから出現したモールモッドから生徒や友達を守るために、屋外で使用が禁止されている訓練用トリガーを使って立ち向かった。結果は前述の通りである。
「修くん、じゃあ午後の訓練を始めていいかな?」
葛藤する少年に声を掛けてきたのは、玉狛支部の戦術支援オペレーターである宇佐美栞だった。黒髪ロングヘアーの眼鏡っ娘だ。その印象を分かりやすく例えるならば、やり手で世話好きの生徒会長と言ったところだろう。誰に対しても分け隔てなく基本的に親切だが、眼鏡を掛けた人にはさらに親切になるという「差別的平和主義者」でもあった。
また、技術者としてもレベルが高く、玉狛の仮想戦闘モードにあるトリオン兵との対戦プログラムは栞が一部を改良している。もとは本部に所属し、現在A級第3位にある風間隊がB級だったときには、そのオペレーターを務めていたこともあった。腕は確かなのだ。
「宇佐美先輩、訓練室に入ります」
修はトリガーオンし戦闘体に換装、002号室に入った。もう一度呼吸を整える。
(まずは少しでも自分を知ろう)
栞から通信が入った。
「さて修くん、準備がよければ始めるよ。どうかな?」
『はい、お願いします!』
栞から返答の直後、鋭い二つのブレードをもった白銀の装甲をもつ車大のトリオン兵が姿を現した。修は武器であるレイガストを構える。実際の戦闘データーから構築されたプログラムとはいえ、ほとんどその威圧感も存在感も実物に近い。いや、栞のプログラム能力で言えば「実物以上」かもしれない。
──15時10分─―
果たして訓練の結果は?
「はいはい、おつかれさまぁ」
修は、栞から手渡されたスポーツドリンク入りのボトルを握ったままソファーに倒れこんだ。息も荒い。仮想戦闘モードなのでトリオンの消費もなく、ずっと戦い続けられるはずなのだが、どうやら自分の不甲斐なさでどっと生身が疲れてしまったようだった。
結果は惨敗。13戦全敗だった。修が大失敗だったと痛感したのは、栞のお願いを断りきれずに一度は断った彼女自慢の「やしゃまるシリーズ」に手を出してしまったことだろう。
VS圧倒的なパワーと装甲! やしゃまるゴールド!
=存在自体が眼くらましでした! 瞬殺されました。
VS 神速の斬撃ととんがったボディ! やしゃまるブラック!
=とげって痛そう、どう攻めるかな? って考えていたら瞬殺されてました!
VS 女子受けがいい! やしゃまるハニーブラウン!
=色彩センスがいいなー、と思っていたら、瞬殺されてました!
VS やしゃまるブラックのことが気になっているが、実は生き別れた兄妹だとはまだ知らない! やしゃまるピンク!
=瞬殺は免れたけど、派手すぎるかな? って半ば唖然としていたら先手を打たれて結果は……
(やっぱり、普通のモールモッドがいいな)
と最終的に反省して戻してもらったものの、シールドモードのまま受けに回りすぎて反撃できず、やはり負けてしまう展開に終始してしまった。それでも瞬殺されることはなくなったのだが……
(ぜんぜん、ダメじゃないか!)
修は猛省した。天井を見つめたままついたため息は大きい。何かを掴むどころか現実をまざまざと見せつけられてしまったのだ。
それらの様子を途中からモニター越しに見ていたレイジは、なぜ修が完敗したのか理由が分かっていた。わかっていたがあえてアドバイスはしない。自分で原因を探ることもまた修行だからだ。それに師匠は烏丸だ。余計な口出しをレイジはしないつもりだった。
しばらくして千佳と遊真もそれぞれの訓練室から出てきた。1日目はずっと撃ち続けてしまった少女だがレイジからのアドバイスを受け、休憩を挟みつつ自分なりのイメージをしっかり構築した上で次の訓練に挑むように指導されているらしい。そのためか表情が三日前より凛としていた。
一方、遊真は……
「ふいー、あともう1勝がほしいところなんだが……」
午後、最初の勝負の結果は最高で2勝8敗。不慣れなボーダーのトリガーを使って「強い小南」から二本取っただけでも大したものだ、と烏丸さえ口にするくらいだが、近界民の少年としては不満がくすぶるところだった。
「でも、どんどん小南先輩の動きはつかめてきたから次はもっと勝てるかな」
「はあ? 何度も言ってるけど1000年早いから。今日の最高は2勝止まりよ」
遊真は、なぜか訓練室から出てくるたびに頭髪が爆発していた。いったいどんな戦闘をしているのか修には想像も出来ない。遊真は爆発した頭髪を整えながら、小南に向かってニヤリと笑う。
「それはどうかな?」
負けず嫌いな小南と飄々とした遊真の視線が衝突した。険悪というよりは、どことなくお似合いの師弟という雰囲気だ。
レイジが二人のやり取りを制した。
「よし、その続きは休憩を入れてからだ。訓練し続けるだけが強くなる秘訣じゃないぞ。頭と身体の切り替えは必要だ」
はーい、と遊真はあっさりしたものだった。小南もレイジの言うことは聞くようで意地の張り合いを止めた。絶妙のタイミングで栞が言った。
「じゃあ、休憩室にレッツゴー! 今日のおやつは三門屋本店のどら焼きだよ」
目の色を変えたのは小南と遊真だ。三日前、修たちが初めて玉狛を訪問した際、栞がおもてなしで出してくれたのが三門屋本店の「どら焼き」だったのだ。そのふんわりとした食感とこしあんの絶妙な甘さを遊真はいたく気に入ったらしく、次の日にわざわざ買いに行ったくらいだ。反対に小南は来訪者に「どらやき」が提供されてしまったため、楽しみにしていた「おやつ」を食べることができず栞に八つ当たりしたものである。今日は、二人にとって「吉日」になっただろう?
ちょうどこの頃、ボーダー本部に最精鋭の隊員たちを乗せた遠征艇が帰着し、A級1位太刀川慶を中心に遊真のもつブラックトリガーの強奪作戦立案を話し合っていた。
もちろん、そんな危うい事態が進行しつつあることなど、修たちは知る由もなかったのである。
唯一、その場にいない一名を除いて……
休憩終了後、各自次の訓練に移行したが、修と千佳はレイジの指導を一緒に受けることになった。
すなわち、トリオン体による運動能力を高めるため生身を鍛える訓練である。
「よし、各自宇佐美が用意したトレーニングウェアに着替えたら、軽いストレッチの後にランニングをするぞ」
硬直した人物がいた。いわずもがな三雲修である。彼は見た目の印象どおり「運動」は苦手だったのだ。それでも自分が強くなるにはどうすべきなのか、と常に模索中の少年は疲労困憊の未来を想像しつつもレイジの指導に従った。根性はある。
一方、「どら焼き」で景気を付けた小南と遊真は、お互いの鼻息も荒く足早に訓練室に向かおうとしていた。残った三つのどら焼きを賭けて勝負をするためだ。修たちがどら焼きを遠慮したので、条件を満たした一方が残り全てを美味しく頂ける事に決まっていた。
遊真はいつになく張り切った。
「よし、なんだか勝ち越せそうな気がしてきた」
「はぁ? 1000年早いって言ってるでしょ。ぜーんぶ、あたしがどら焼きもらったんだからねっ!」
育ち盛り? と近界民の少年が虜になった老舗の「どや焼き」の威力は恐ろしい……
(いいなぁ……)
と修は、実力のある者同士だからこそ交わせる対等のやり取りを心底羨んだ。自分があの中に入っていけるまでにあとどのくらい必要だろうか? とても少年にはその着地点を想像することは困難だった。
それでも前に進むしかない。人一倍努力しなければならないことを修はあらためて痛感していた。
レイジの声が修の耳に響いた。
「三雲、行くぞ」
「はい、レイジさん」
「玉狛のとある日常B」
ヘロヘロになった修が千佳とともに屋外トレーニング終えて支部に戻ったのは、すでに冷たい空気が周囲を凍てさせ始める18時半ごろだった。
「おつかれ〜」
人なつっこい栞の声も修の耳には半分も届いていなかった。もちろん、自分がいつスポーツドリンク入りのボトルを手に取っていたのか直後は覚えていないほどだった。栞から受け取ったと知ったのはもう少し後のことだ。
対する千佳は、呼吸こそ乱れてはいたが修よりはるかにへばっていなかった。長距離はけっこう強いという眼鏡少年の評価を裏付ける結果だろう。レイジとしては、少女のスナイパーとしての素質を十分測れたトレーニングとなったようだった。
ただし、やはり修への視線はやや厳しいものがあった。
(三雲には足りないものが多い。やる気と覚悟でどこまで差を埋められるか、今後は京介と意見交換することも必要かもな)
そんな事をレイジが考えているとは……多少なりとも察知していた修は肩で息をしつつ、スポーツドリンクを喉に流し込み、いつボトル握ったのかようやく思い出していた。
(宇佐美先輩にお礼言ったかな?)
視線が栞に向く。眼鏡っ娘はニッコリ笑って手を振ってくれたが、たぶん勘違いしているだろう。
修がようやく一息ついたとき、少年の空腹感を目覚めさせる美味しい香りに気がついた。
「ああ、今ちょうど夕食の支度中なのよね。今日の当番はこなみだよ」
栞の説明に一瞬だけでも怖気付いたのは、おそらく修だけだろう。ただ、そんな根拠の──ありそうな懸念は少年も大好きな国民食の香りが打ち消してくれた。
(いいところなしだったし、手伝おうかな)
修は、疲労感が抜け切らない状態でもソファーから立ち上がった。栞に伝えると幸いにも人手は必要なようだった。千佳とともにダイニングルームに移動すると、薄いピンクのエプロン姿の小南が意外な真剣さで、ちょうどカレーの味見をしようという瞬間に出くわした。
「もう少しね……」
そう小南は呟くと、何かを圧力鍋に放り込み、軽くかき混ぜた後に火加減を弱火に調節した。
(けっこう小南先輩って料理できるんだな……)
ただし、「カレーだけ」とは知らない。
小南は、料理中に現れた新人二人に──特に修にやや冷たそうな視線を向けた。
「なに? 訓練終わったの? 残念だけど夕食にはまだ早いわよ」
応じたのは修だった。
「いえ、小南先輩を手伝いに来ました。宇佐美先輩にも頼まれたので」
小南の様子的に断られるかと思ったのだが、
「そう、それは助かるわ」
と意外な返事。小南は、冷蔵庫から野菜を出してサラダを作ること、それが終わったら各テーブルに食器を並べることを修たちに指示した。
「わかりました、すぐにやります」
修の返事に軽くうなずいた小南は鍋とにらめっこしたまま、なぜか動かない。
(何かのタイミングを計っているのかな?)
修が様子をしばらく見ていると、不意に小南が少年に話しかけた。
「おさむ、遊真を見なかった?」
「え? 空閑ですか? 小南先輩を手伝っているんじゃないんですか?」
「まぁ、食材の下ごしらえまではいたけど、玉ネギ切ったときに耐えられなくなったのか出て行って、それっきりなんだけど。情けないわねぇ」
修はたぶん、唖然としたに違いない。
(トリオン体──空閑に玉ネギが効くのか?)
本当に効くのかどうかはまた別問題として、修は頭を切り替え、ここぞとばかりに聞いてみたいことを小南に聞いてみた。彼女はおたまを握ったまま、
「えっ? 遊真のブラックトリガーのこと? もちろん知ってるわよ」
やっぱり知っていたのか、と修は確認できてよしと思ったのだが、この後が小南の真骨頂だった。
「かなりヤバイトリガーなんだってね。満月をみると大猿になってトリオン量が10倍に増えるんでしょ? あと、特殊能力でもう一体分身を出せるそうじゃない……幽波だったけ?」
えええええっ!?
「ヤバイっていうのはわかるけど、あたしには絶対勝てないわよ」
修は声が出なかった。衝撃を受けたというよりも呆然としてしまったのだ。誰が吹き込んだのか、だいたいの予想はつくが、ここは騙されていると言うべきだろうか……いや、小南先輩のショック度とプライドを考慮すればそっとしておくべきなのか?
(ど、どうする?)
などと躊躇していたら、
「ちわー」
と棒読みのような熱意の欠片もない声が修の耳に入ってきた。もう、すっかり聞きなれた声だ。
「あー、夕食には間に合ったみたいだね」
烏丸だった。吹き込んだに違いない張本人である。イケメン仏頂面のまま、かるく右手を上げて挨拶し、そのままごく当たり前のイケメン動作でテーブルの席の着いた。小南が眉をしかめ、エプロン姿のまま尋ねた。
「とりまる、あんた早かったわね。バイトそんなに早上がりだったっけ?」
「えー、まぁ、迅さんが代わってくれたんで早く帰って来れました」
「あ、そう。あいつ、今日も帰ってこないと思ったらあんたのこと手伝ってたんだ。最近見ないのってそれ?」
「ええ、そうですよ。感謝してます」
そんなわけがない……。後で修が聞いたところによると、烏丸は、夜のバイトを休んで弟子の訓練進捗を確認しに帰ってきただけだった。
突っ込むべきか悩んだ修は、いろいろとこの後に起こったやり取りに流されているうちに玉狛のメンバーが続々ダイニング兼キッチンルームに入ってきて、言うべきタイミングを完全に失ってしまった。その中には行方不明? になっていた遊真の姿があった。気のせいか浮かない顔だ。玉ネギのせいなのか?
修は遊真に訊く事が出来なかった。小南からカレー皿にご飯を盛るよう指示され、そのまま和気あいあいとした夕食に突入してしまったのである。もちろん、同様に小南に真実を話すことなどうっかり忘れてしまったのだった。
夕食から約2時間後……
──20時32分──
修たちは夜間訓練の真っ最中。
このとき、A級1位太刀川慶以下10名のブラックトリガー強奪部隊が本部から出撃し、襲撃地点に向かいつつあったが、途中、玉狛支部所属のS級隊員迅悠一と本部忍田派に属するA級5位嵐山隊が協力し、強奪部隊の前に立ちはだかって戦闘に突入していた。
──22時20分──
「お疲れ様でした」
本日の訓練は終了した。飛躍した者、課題を見つけた者、もがく者と、それぞれ得た収穫は様々だった。
このとき、すでに強奪作戦は迅たちの活躍によって阻止され、ボーダー最高司令官城戸正宗と取引が成立。迅は何食わぬ顔で玉狛に戻ってきて自室で眠りについていた。
──22時43分──
修、千佳、遊真の三名は揃って玉狛を出た。月明かりの下、はく息も白さが増す中で家路を辿った。
その途中、修は小南の強さについて遊真に思い切ってブラックトリガーで戦ったらどうなのか? という質問をした。
遊真の返答は意外に淡白だった。
「五分かな」
「えっ? そこまでなのか?」
「……世の中には強いヤツはまだまだいるもんだと勉強になったかな。うんうん」
遊真の表情はどことなく楽しそうだ。少年自身、ブラックトリガーと共に歩んだ近界での3年間の戦闘で多くの経験と実戦を積み重ね自信をつけている。慣れ親しんだトリガーではなくボーダーのトリガーでもA級に迫る実力があるにもかかわらず、小南には勝ち越せないのだ。
勝ち越せないが、遊真の足取りは軽い。
「今日も3勝が最高だったけど、しおりちゃんにいろいろこっちのトリガーのことも教えてもらったし、明日はもっと勝てる気がする」
謎のドヤ顔で遊真は言い切る。少年曰く、ボーダーのトリガーで小南に勝ち越せるようになれば、迅悠一にも勝てるようになるかも、とのことだった。
遊真がふと少女に質問した。
「千佳のほうはどうなんだ?」
彼女の訓練進捗は、止まった的の狙撃については合格点をもらえたらしく、明日からは本格的に動く的を相手に訓練に励むという。
けっこう順調と言うところだ。
修はというと……
今日一日、何かに満足できたとことは一つもなかった。仮想戦闘は全敗し、トリオン体を俊敏に動かすために屋外トレーニングも散々な目で終わっていた。苦手な体力つくりトレーニングは明日以降も続いていく。
「はぁ……」
それを想像して修の口から少年とは思えないため息が吐き出された。だが、訓練の内容を悲観したのではなく、自分がその中で少しでも何かを得られるのか、成長することができるのか、それが心配になったのだ。
「!!」
修は、やや驚いたような顔をして左右の友人二人を交互に一瞥した。彼の不安と葛藤の数々を感じ取ったのか千佳と遊真がほぼ同時に修の背中を軽く叩いたのだ。
「オサム、大丈夫だって。オサムが挫けそうになったら俺が小南先輩から三門屋のどら焼きを獲ってみせるさ」
「修くんならきっと強くなれるよ。だから一緒にがんばろう」
二人の親友に励まされ修の心に変化が生じたのか、少年の表情は吹っ切れたものに変化した。
「ああ、みんなでA級になろう」
修が今日のうちで得た一番の収穫だったかもしれない。結局、自分に止まっていることは許されないし、難しく考えている余裕もないのだ。わずかでもいい、前に進んで行くしかないのだと。
「じゃあ、俺はここで」
不意に遊真が修たちとは反対方向の路地に進んだ。
「おい空閑、どこに行くんだ?」
「マッ○」
と遊真は簡潔に目的を告げた。近界民の少年が進もうとしている方向は言わば「抜け道」であり、そのまま進んでいくと駅前の商店街に出る。
(空閑は、まだ食べるのか?)
遊真の身体は生身ではない。トリオン体だ。トリオンは成長しないが、喉が乾いたりお腹が空いたりする。修は今更だがその理由を知りたいと思った。
そしてもう一つ、空閑遊真と出会ってからずっと疑問に感じていたことがあった。
その疑問は千佳を送って帰宅したあと、遊真のお目付け役である「レプリカ」──本体の分身である「豆レプリカ」(黒豆)が教えてくれた。
レプリカとは「黒い炊飯器」……ではなく、遊真の父、空閑有吾が造った「多目的型自律トリオン兵」であるが、修がその事実を知るのは1月8日以降であった。
修が常々疑問に思っていたこと、それは遊真の持つ多額の資金──つまりこち側のお金のことだった。何かヤバイことをして手に入れたわけではないことは修も予想していた。
「そうだな、オサムには話しておこう」
豆レプリカが、修の目の前にふわふわと浮いた状態で答えてくれた。
「それはユーマの父ユーゴが、ユーマのために遺していたものだ」
修はなるほどと、相槌を打って納得した。十分ありえることだからだ。ボーダー最初期のメンバーであるし、かなりの実力者だったことは城戸司令や忍田本部長の反応から明らかだったから、何か大きな資金を持っていても不思議ではない。
(まさかとは思うけど、空閑の親父さんは、いつかこうなることを見越してお金を遺したのだろうか?)
その疑問に対する豆レプリカの返答は「わからない」だった。今となっては本人にしか答えようのない真実だろう。それでも修は、遊真のために有吾が遺したお金だと信じたかった。
「それで……」
この際なので修がもう一つ知りたかったことは、有吾がどのくらいのお金を遊真に遺したのかであった。豆レプリカの答えは「ユーマがよほど散財しなければ、しばらくは問題ない額」だという。
(なんか、いろいろ買い食いが多いけど……)
会った当初のあぶなっかしい金銭感覚からはどうにか脱したように思えるが、遊真はまだ「貨幣経済」とその扱い方をよくわかっていない様子だ。
(近界ではお金は存在しないってことなのか? じゃあ、どうやって経済は回っているんだろう?)
いずれにせよ、金銭面についてはもうしばらく修が教えるべきだった。
『さてオサム、そろそろ休んだほうがいい。明日も厳しい訓練になるぞ』
豆レプリカに促され、修はようやくベッドの上で目を閉じ、今日のことを振り返る余裕もなく少年は深い眠りについたのだった。
こうして、とある1日は終わった。三雲修が夜のうちに起こった出来事を知るのは年明けを待たねばならなかったのである。
END
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あとがき
涼です。シルフェニア10周年記念に間に合わず! というわけで、恥ずかしながら「11周年目突入記念」にしました(大汗
で、それは個人的に注目している週間少年ジャンプ連載作品「ワールドトリガー」を基にしました。内容の通り、遊真の持つ「黒トリガー争奪戦」の当日を原作の描写にオリジナルを加えて書いたものです。内容は読者さんにお任せします。
内容では、公式的に発表されていない部分もあって、そこは基本的に「想像」か「推理」です。最後の推理が合ってればいいなーとw
あと、初稿は描写がくどくなりすぎたので端折った感があります(汗
スマン、ようたろー! 雷神丸っ!
これを投稿した時点、原作ではB級のチームランク戦の真っ最中ですが、修たちが完敗するとしたら、自分は「東隊」だと予想しています。B級上位でいまのところ出てきているのは東隊だけっていうのもありますが、東隊長ってかなり優れた戦術指揮官ですからねぇ。彼の隠された過去とか出てきそうですw 元A級だったとか。
また、これも執筆中に起こった奇蹟ですが、タイタニアが完結を迎えました! 田中せんせー、ありがとう! その勢いで七都市とか銀英伝の外伝とか完結させてほしいです。
リアルの方が多忙で大して投稿ができない1年でしたが、15年度は仕事を落ちつかせて連載しているほうの二部完結を目指したいという思いです。
それでは、次回はクロス作品のほうでお会いしましょう。
2015年もよろしくお願いします。
2015年2月8日 ──涼──
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