空の境界

──変わりゆく日常──




─御上真の章─(其の一)


 

 1998年12月21日 15時50分

 
 11月の下旬から12月の中頃にかけて世間を恐怖に陥れた「連続猟奇切り裂き魔事件」は、犯人の自殺という形で幕を下ろした。俺にとって、きわめて心苦し い結末となってしまったわけだが、友人に励まされ、何とか前に進むことができていた。
 
 それから一週間、世間はようやく間接的な恐怖からも解放されたが、潜在的な不安感を押し殺しながら冬のイベントにいそしむことで事件を忘れようと努力す る。

  俺、御上真にとっても、事件の始まりから終りまでは、めまぐるしく進行する時間との戦いに明け暮れる一方、めまぐるしく変化する日常の光景を再構築する 日々でもあった。
 
 やはり、意外だったのは順応の早さだ。非日常を日常として捉えていく自分に苦笑しつつも、それが「俺」にとって「日常」にとりこむ長所であることを今更 ながら気づかされたのだ。
 
 それは、彼らにも当てはまるのではないか?

 
 「伽藍の堂」(がらんのどう)

 
 工場地帯と住宅街の中間にある建設途中で放棄されたビル……
 
 ここは完成していれば六階建てのオフィスビルだった。
 
 何でも、途中で建設会社が不況で倒産してしまい、そのまま放置されてきたが、とあるもの好きの女性が買い取って仕事場にしている。一階は車庫。中型のオ フ車と側車付きのハーレー、真っ赤なスポーツカーがいつも出番を待っている。二階と三階は女性の仕事場兼作業場だ。
 
 俺は、このビルの四階に居る。ビルは四階までなのだ。作りかけの五階のフロアが天井を形成している。内装はされておらず、コンクリートがむき出しの一室 に机やら事務機器やらを持ち込み、事務所兼オーナーの私室になっている。
 
 残念ながら事務所内は洗練されているとはとても言えない。殺伐としているというのか落ち着かないというのか、彫刻や入手先の怪しい品物があったり、何台 ものブラウン管のTVが一つの大きなスクリーンを形成するように積み上げられていたりと、まあ、物が多いということだ。
  
 「所長、紅茶をお持ちしました」

 「わるいな、御上」

  クールな口調で蒼崎橙子所長は言った。彼女は淹れたての紅茶を口に含みつつ、次の展示会の資料に目を通す。

 
 この女性が廃墟のようなビルを買い取ったオーナーだ。年齢は二〇代後半で、印象としてはオフィスで部下の男性社員を叱咤激励する美人キャリアウーマンと いったところだろう。それを強調するように機能的な服装が好みらしく、今日も白いシャツに、下は黒系のセミワイドパンツだ。女性らしい装飾といえば左耳を 飾るオレンジ色のピアスだろう。これは彼女のお気に入りになっていて、常に身に付けているように俺には見える。タバコも好きで、くわえていない日を探すほ うが稀というヘビースモーカーでもある。

 ただ、一つ気をつけるべき点は、眼鏡の掛け外しで性格がジキルとハイドになるということだろう。今日は眼鏡を掛けているので「よい人」だ。

 それにしてもこのビルといい、この事務所といい、彼女の服装といい、「飾る」ということに関して「蒼崎橙子」という人物にはさしたる意味を持たないよう だ。

 「うん、美味しい。私は幸せ者だな。黒桐のコーヒーと御上の紅茶の二つの楽しみを日常にできるのだからな」

  そう言ってほめてくれるのは嬉しいのだが、その後にタバコは止めてほしいと思う。この凛々しい女性は、自分の身体のことはあまり気にしていない。実際に 面識を得てから二週間ばかりだが、所長を知れば知るほどそう思えてならない。

◆◆

 次に、二つ隣の席で資材の見積もりと発注をしている、同じ年齢の友人に紅茶を差し入れる。
 
 「ありがとう。御上さん、たすかるよ」

 混じりけのない温和な笑顔は、“黒桐幹也”という人柄を切実に表しているといってよい。黒目黒髪で黒ぶちの眼鏡をかけ、服装はほとんど上下とも黒一色で 統一されているという、一見、害のない男という印象ではある。

 しかし、高校時代からそうだったように、黒桐幹也は周囲の人間を惹き付ける「人徳」が確かに存在していた。

 それは、今も昔も変わることのない素朴な印象をはるかに越える彼の「魅力」であるのだが、当の本人は気がついていないのか意識していないの か……
 
 まあ、俺にとっての「黒桐幹也」であればそれでよいのだが。
  
 「おいおい黒桐、『御上さん』なんて他人行儀な呼び方は止めてくれよ。俺たちは高校も大学も同じだったんだからね。それに黒桐はここの正社員、俺はアル バイトの学生だ。もうすこし威張ってもいいんだよ。それが無理なら対等に頼むよ」
 
 俺は、そう言って黒桐の背中を叩いたのだが、どうも強く叩きすぎたらしい。すまん、と謝って、咳き込む彼を介抱する。
 
 「──ゲホッ──ごめん、別に遠慮しているとかではないんだ。なんというか、上手く言えないけど自然にそうなってしまうというか……」

 これは黒桐の本心だろう。誰に対しても優しくなれる男。彼は誰かを傷つけようとはしない。何かを意のままに得ようともしない。無欲なのかお調子者なの か、聖人なのか? お人好しだけなのか?

 人それぞれに判断と意見の分かれる事ではあるが、少なくとも俺やこの空間にいる人たちは「黒桐幹也」という人間の本質を受け止めているにちがいない。
 
 「まあ、そうだな、無理するな。『さん』と付けられても俺は増長も感謝もしないから。ただ、黒桐に苗字で呼ばれると、何と言うか背筋が寒くなるという か、妙な感覚になるんだ。俺の精神面の健康を考慮して、せめて真(しん)くらいで頼むよ」
 
 「うん、そうだね」
 
 と、黒桐幹也は眼鏡の奥からやさしい瞳を覗かせてうなずく。そういうところ式とおなじだね、と彼は微笑して付け足す。やれやれ、きっとこいつは俺のことを今後も「さん」付けで呼ぶんだろうなぁ。
 
 「ああ、そういうことさ、式さんと同じだよ」

◆◆
 
 その場を離れ、俺はトレイを片手に次の人物の下へ急ぐ。通常なら一番奥の席では長い黒髪の少女──黒桐の妹さんが師である橙子さんから出された「課 題」をこなしているはずだが、今日はその日ではないのかまだ姿を見せていない。
 
 そこを通り過ぎると、無造作に積まれたTVの前のソファーに腰掛け、つまらなそうな顔で画面を見つめている「和服姿の黒髪の少女」に歩み寄る。彼女の傍 らには、冬に身に着ける真っ赤な革のジャンパーが脱ぎ捨てられている。
 
 「式さん、お待たせ。はい紅茶」
 
 「ああ……」

 と、少女は実に素っ気なく呟き、一瞥もなく紅茶を受け取る。そして紅茶をすすりながら、いつものつまらなそうな表情でTVの画面をじっと見る。たぶん、映像そのものはどうでもいいのだろう。俺も同感だ。もっぱら俺の関心は彼女がのむ紅茶にある。前回、前々回 と違い、彼女の飲み方に変化があり、ずっと紅茶を飲んでくれる。
 
 両儀式(りょうぎ しき)それがこの仏頂面の少女の変わった名前だ。肩口までの切りそろえられた黒髪と漆黒の瞳、普段着が和服で足元は編み上げのブーツ という装いなのだが、一見、ミスマッチな組み合わせが中世的な美しさの彼女にはどういうわけかふさわしいと納得させられてしまうから不思議である。

 今日は、初めて会ったときと同じ藍色の紬を身に着けている。彼女のお気に入りの色であるらしい。

 「どうやら今回は……」

 俺は内心で手ごたえを感じた。想えば過去二回、淹れた紅茶を飲むたびに、否定的な無表情をされていた。祖父の手ほどきで紅茶道を極めたはずの俺のプライ ドはズタズタにされてしまった。

 なにが悪いのか?

 それから試行錯誤したわけなのだ。客人の好みを言われなくても把握するのは訓練の一環でもある。それはきっと俺の「起源」に起因することと思うのだが、 たった三回目で複雑な人格者「両儀式の好みの味」を探り当てたであろう己に乾杯したくなった。

 「どうした、 俺の顔に何か付いているのか?」
 
 不意に、両儀式が秀麗な顔を向けてくる。俺はハッとして我に返った。

 「ああ、いや、どうやら今度こそ合格かな、と思ってね」

 俺が照れながら答えると、彼女は紅茶に視線を落とし、かすかに笑って、

 「ああ、これはいい。今までで最高だぜ」

 と、いつもの男口調で呟き、しかしはっきりと合格点を出してくれたのだった。

 両儀式、というミステリアスな少女とあらためて相まみえたのは、「連続猟奇切り裂き魔事件」の四人目の殺害現場だった。顔を横に半分切断された凄惨な遺 体の前。そこに暗闇から音もなく現れたのが「両儀式」だった。
 
 俺がかつて視た光景そのままに、漆黒に美しさをたたえ、その肢体に戦慄をまといながら、彼女は俺と死体を挟んで対峙したのだ。

 「お前が殺したのか……」

 低く、玲瓏で、静かで、それでいてこれほど威圧のある女性の声を俺はかつて耳にしたことがなかっただろう。

 しかし、彼女を目の前にした俺は、楽しいくらいに高揚していた。ようやく彼女たちの非日常に入っていける。自分は境界を越えることができたのだと。その 先に立ち入り、この先、ずっと彼女らとともにあるのだと。

 たとえ彼女が、殺人現場にいる俺の殺気に近い高揚感を誤解していたとしても、一度は刃を交えたい相手を渇望するのが同じ位置に身を置くもの同士の「性」 か「嗜好」であるに違いない。対峙した時間はとても短かったにせよ、「御上真は確かに両儀式と戦った」のだった。



─御上真の章─(其の二)につづく

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 あとがき

 最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。第一章の半分まで一気に掲載しました。ええ、まだ一章の半分です。白状すると、主要登場人物四人のそれぞ れの章までできています。こちらに投稿にあたり、今一度修正などをしているものですから、一気には運びません。短い期間で続きはいけるかな? というとこ ろです。

 
 2008年3月22日──涼──修正一回目

 私も投稿を始めて一年以上が経過しました。で、いろいろ修正ですw
この作品を修正している時点で空の境界も七部作を完結しました。スタッフのみなさんや声優の方々にすばらしい作品を観させていただけたと感謝しています。


 2009年11月──涼──修正二回目


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