今はもう動くことも無い,ブラックサレナのコックピット。
起動キーも既に暗号化されて久しく,恐らくもう二度と稼動することは無いだろうとアキトは考えている。
コレがもう一度動くとき――もしそういった事態になってしまったとしたら,恐らく自分は既に死を覚悟しきってしまっているんだろうな,とぼんやりと思っ
た。
ある意味,今までの人生でTOPクラスに濃密な生と死を実感した場所だ。
かつてはこの黒い鎧こそが自分自身だと信じたときもあったし,きっとこの中で死ぬんだと疑わなかった。
でも,今ここにこうして生きている自分がいる。
まだ生き続けている自分がいる。
確かな事実だ。
廻らせる思考は,全て自分の思いでなのにも拘らず――どれも他人事のように思えてならなかった。
19歳までの自分と,それから今までの自分にギャップがありすぎる。
正直なところ,19歳までの自分と言う過去は夢だったのではないかと思えてならない。
自分を構成する要素は,過去の記憶に連なる体験が大元になっている。
日々薄れていく"あの頃の思い出"。
反比例するように頻繁に見続ける悪夢は・・・アキトの過去と,現在との乖離を促進させているような気がするのだ。
現実感が乏しい,とも言える。
ほんの数年前までは大切だったはずの"記憶"が,霞掛かったように不鮮明な物でしかなくなってきている。
過去を証明する人たち――大切だと思った人たちは,確かにこの世界に存在しているし,彼ら・彼女らも天河アキトをしっかりと覚えていてくれている事は,重
々に承知している。
しかし反面では,"皆が覚えている自分"と"今の自分"との間に大きな隔たり
◇
出会いは・・・健全とは言えないだろう。
共に囚われの身であり,そして幾人もの死の上で"助けられたもの同士"なのだから。
助ける者。
助けられた者。
最初はそれだけの関係で,もし何の切欠も無かったなら,そのままで終わったことは確かだ。
彼は彼女に名を与えた。
恐らくもう戻れないと覚悟し,その中でも大切な思い出の中にあった一人の少女の名前を。
そして二人はパートナー同士として,力を得た。
彼が憎しみを持って力を使えば,彼女も追従して死をばら撒いた。
とてもたくさんの,平等な死を。
◇
その頃のラピスは"自分"と言うものが希薄だった。
思考は全てアキトに委ねられ,希薄な感情と希薄な意思は全て彼の思いのままだった。
二人に与えられたはずの力は彼の意思によってベクトルを指向され,復讐と憎しみで死を彩った。
反面,感覚はラピスに依存するしかなかった。
ラピスによって世界を補正されることでしか,アキトの生の実感はありえず。
そういう意味においては,アキトはラピスに依存していると言えた。
思考と感情のリンク。
振幅の激しいアキトの想いに揺さぶられる形で,ずっと変わらないと結論付けられていたラピスの意識に変調が見られた。
自我と感情の発露。
自己の確立。
全てが"負の連鎖"と言う状況の中で起こった,ただひとつの"分岐点"と言えた。
人はそれを,奇跡と呼ぶ。
◇
ラピスの自我が薄弱だったからこそ行えたリンケージは,状況が破綻することで一気に崩壊を迎えることになった。
途絶はすぐさまアキトの体調の変化に現れた。
全感覚の希薄化。
ラピスとのコンタクト不全。
戦いが終わった後だったからよかったようなものの,もし戦闘の最中にそれが起こっていたらと思うと底知れない寒気を感じた。
予兆はあったが,決戦を控えたその数日間,アキトは誰にもその事は話さなかった。
・・・発覚後,イネスにしこたま怒鳴られたのだが。
再び陥ったアキトの全感覚不全状態に,彼を知る誰もが落胆したのだが・・・当の本人のアキトにしてみれば,それはある意味救われる結果になった。
ラピスの自我の確立によって,彼女を実質"支配していた"と言う状況を脱したこと。
素が善人なアキトにとって,その負い目は相当な負担になることが自分でも容易に予測できたため,心底ホッとしたのが本音だった。
そして,それは"ある意味"だけでなく・・・アキトの"人生の意味"をも救う事になった。
◇
アキトは回想する。
◆
次第に体調も快方へ向かいつつある事で、アキトの精神の状態も良くなってきていた。
完全に元通りにはならないにしても,通常の生活で師匠の無い程度までは回復の見込めると言う結果によるものだ。
主治医のイネスによれば,あと1〜2年以内に退院も可能だと言う。
暇を見つけてはお見舞いに訪れるエリナと,それにくっついて来る小さなラピスの存在も,アキトを安定させている要因となっていた。
戦いが終わって1年。
ずっと寝たきりだったアキトには,その後世界がどう変化したのかは一切わからない。
情報の遮断を行っているのが主治医のイネスであるし,正直アキトには世界の情勢自体にはもう興味・関心自体なかった。
唯一気に掛かっていたのは,ユリカの状態と,ルリの近況だけだったが――イネスやエリナから伝え聞く限りでは安心できる状況にあると,それだけで満足して
いた。
月日が移り変わると言う事を実感するには,自分だけでは難しい。
加えて,四季の変化の無いこの月面都市においては,備え付けれているカレンダーだけがその唯一の手段となりがちだ。
いつの間にか1年が過ぎ――なんて事にもざらにある。
時間を無駄にしないために,アキトは本を読むことにしていた。
ジャンルは特に指定しない。時間だけはたっぷりあるので,どんな本でも構わなかった。
ナノマシン不全による全身の感覚喪失という症状の為、電子機器は彼の周りには最低限のものしか置けないことも,"本"である理由のひとつだ。
一冊の本を読むのに掛かる時間はまちまちだけれど,読み終えてから次の本に取り掛かるまで時間を開けたことは無かった。
ラピスだ。
ラピスが毎回新しい本を調達するようになったのはエリナの入れ知恵だったのだが,それは二人に思わぬ接点を設けることになった。
ラピスにはラピスの生活があり,リズムがある。
その中で,アキトへ本を渡すと言うそれだけの行為が根付くまでそう時間は掛からなかった。
そしていつの間にか,ラピス自身もアキトが横たわるベッドの隣で椅子に座り,本を読むことが多くなっていた。
時の移り変わりを実感するには,他人を見るのが最良だと思う。
アキトは本を読み終えるたびに新しい物を持ってきてくれるラピスの来訪を楽しみにしていたし,共に過ごす穏やかな時間を気に入ってもいた。
たまに交わす会話は読んでいる本に対しての感想だったり,異見だったり。
どうやらアキトに渡す本はラピスも目を通しているらしく,様々なことを話し合ったりした。
◆
正直,そんな二人だけの時間が・・・
楽しかった。
◇
§
◇
地球を眺めながら廻らせる思い出は,自分を自分として認識できるようになってからのこと――つまり,アキトが入院する病院への訪問だった。
エリナ・ウォンに連れられて赴く先には,自分と共に戦っていたときよりも穏やかになった男が横たわっていた。
最初の頃は,正直何の感慨も沸かなかった。
ただ,彼の心の振幅の残滓を感じているような気がしていた事だけは,覚えている。
◆
ある日エリナはラピスに提案を持ちかけた。
アキトは毎日病院で暇しているのだと言う。
だからなんだ,と言うのが小さかったラピスの意見だったが,同時に なら何か退屈しないものでも持っていけば良いんじゃないか とも思った。
そうエリナに提案したら,じゃぁ本でも持ってってあげて といわれた。
視覚神経の回復が一番初めにその兆しをみせたらしく,今は安静にしているよりも多くの刺激を与えて神経を活性させたほうが良いのだという。
それは良い。
でも,
どうして私が。
そう返したが,なんら取りあってくれずそのままなし崩し的に彼の元を来訪することになった。
最初は 適当に済まそう なんて考えていたが、いざ本を選ぶ段階になって手抜きは出来ないような気がしてきたのはラピスの性分故だ。
うんうん悩んだ挙句に一冊を手に取り,カウンターでお金を払って購入した本は,平凡な幻想記。
なるべく読み応えが在りそうな物を選んだためか,やけに分厚いハードカバーノベルが手に重い。
一人での来訪。
それは"あの日々"以来の二人きりの時間の始まりでもあった。
数日後,エリナの様子見に付き合って訪れたアキトの病室。
無言で差し出したハードカバーノベルは既に読み終わっていたらしく・・・ベッド脇のサイドボードの上の小さな本棚にしまってあった。
ラピスが病室に入って行く。
アキトはラピスに開口一番。
「こないだは本,ありがとうな」
そう笑顔で告げた。
「――。」
正直,ラピスは心底驚いた。
息を呑んだ。
"ありがとうな"
と言う言葉の持つ暖かさと,微弱にだが感じることの出来るアキトの心・・・その熱に。
瞬間的に沸騰したような熱を持つ頬を隠すために思わず下を向いて,
「べ,べつにアキトの為じゃなくて,その・・・エリナが持ってけって」
「そっか」
呟きは素っ気なかったが、暖かい一言。
今まで感じたことの無かった良い知れぬ感情に変なことを口走ってしまったが,それすら気にしていられない。
思わず言葉が零れた。
「・・・また,本持ってくる・・・?」
「ああ,持ってきてくれると助かるな。何しろやることがなにもない」
苦笑する響きに思わず顔を上げてラピスはちらりとアキトを見る。
笑ってる。
あのアキトが()笑っている・・・?
冷たい癖に,火傷しそうな程の感情を迸らせていた男の・・・全く知らない感情がそこにあった。
それを知りたいと,初めてラピスは求めた。
心の中で。
だから,
ラピスはぎゅっと胸の前で左手を握り,小さく「うん」 とだけ呟いた。
◆
アキトに本を持って行っていた時間を思うと,微笑ましいような恥ずかしいような・・・そんな気分になる。
この本を読んだらどう思うだろう,私と同じ様に感じてくれるかな・・・?
そう期待と不安に胸を高鳴らせながら決死の思いで毎回本を渡していたような気がする。
ジャンルは多岐にわたった。
ラピスは,アキトに渡す前には一度じっくり読んでいるから読了後にお互いの感想で盛り上がることもあったし,大いに意見を戦わせることもあった。
そんな時間がラピスにとって。
とてもとても大切だった。
◇
§
◇
リンケージ崩壊から約二年という年月をアキトはベッドの上で過ごした。
その年月はそのまま彼の入院していた期間をあらわし,その重度の障害にしてはとても短い入院期間だったと言えた。
視覚,聴覚,触覚が日常生活には障らないほどに回復し,アキトは退院の日を迎える。
味覚も多少戻ってはいたのだけれど,それもよりも重い症状を表していたのが嗅覚だった。
それを告げられた時――以外にもアキトは「そうか・・・」と少し窓の外を見ただけでそれ以外は普段の穏やかなアキトだった。
しかしラピスは分っている。
微かに――アキト自身にも分らないほど微かに残っているリンクの残滓が,彼の心に悲しみを湛えていることを。
だから,その日だけはずっと傍にいた。
誰の陰謀だか分らないが,アキトはネルガルの社員として雇用されていることになっていた。
会社での新型エステバリスの試験運用中の事故,として彼の状況は処理されていて,今までの入院費や社会保障・生活保護だの福利厚生とかいった細々としたこ
とは全てネルガル持ちになっていた。
その事についてはアキトは何も言わなかったが――どこかぼんやりとした調子で聞き流しているようにも見受けられた。
住居もネルガル月支社に近い高級マンションの1室が与えられ,とりあえずその日はラピス・エリナともに帰宅することにした。
少なくとも,動けるようになったからといっていきなりアキトが居なくなったりというような状況は無いだろうという判断の下だ。
その判断をしたのはエリナだったが。
出会った時より成長したラピスは,微弱なアキトの繋がりの中で彼が一体何を考えてるのかにわずかに触れた。
心に広がる空虚な感覚。
ハッとアキトの顔を見上げると,その瞳に力を感じることが出来ないことに気付く。
エリナはもう玄関に向かって歩いていて,ラピスに早く来るよう促してもいる。
じっとアキトを見詰め,アキトも気付いたようにラピスを見返した。
「どうした? エリナが呼んでるぞ」
「・・・うん。また来る」
瞳を伏せて頷き,その日は去った。
ラピスが,自分で何をしたいのかを考えながら。
アキトの部屋のドアが閉まる一瞬前に,呟きが聞こえたような気がした。
ポツリと,弱弱しい呟きが。
「何,しようか・・・」
その一言が,ちょっとした勇気をラピスに与えた。
◇
§
◇
アキトの回想は続く。
ほとぼりが冷めるのを待つのに,ここで過去を思うことが多い。
何故ならこのコックピットこそが,希薄な過去との最大の接近点に他ならないからだ。
過去と,今の自分を隔てる場所。
そして,戦いからの自分とラピスとの繋がりを明確にする場所でもある。
そしてそれは,"約束"の証としてこの場所にこれまで存在し,これからも存在し続ける。
そんな特別な場所――二度と命()の入る事の無いサレナのコックピットの中にいる
と,あの頃のことを否応なく思い出させる。
何をしたら良いのか全く分らなかったあの頃。
本当の意味で全てを失った直後だ,どうしても思考が停止状態に陥る。
今考えれば,冷静にそう思い至ることが出来る。
入院中はまだよかった。
何もすることは無いといっても,欠かさずラピスが本を持ち込んできてくれたからだ。
二人で本を読む心地よい空間。
お互いにその本に対して持った感想をやり取りするコミュニケーション。
繋がりの中に楽しさが何時も在って,希薄な世界の中で唯一本物と思える"現実()"その
ものだっだ。
だから,あの時こそが本当の転機だったに違いない。
◆
退院した次の日。
五感の中で最も回復した視覚が,カーテンの隙間から入り込む朝日を鮮明に捉えた。
時刻は午前7時半。
目は覚めても頭は覚醒しない,そんな微妙な時間帯だ。
ぐう
と典型的だが腹の音がした。
アキトは自分が空腹である事を自覚し,しかし朝食を準備しないといけない空しさに朝から気分が重くなる。
味覚を楽しめない食事ははっきりっておいしくない。
元料理人として生きていたこともあるから,はっきり言って苦痛である部分が大きく割合を占める。
それでも空腹を耐えて良いことは無いから,食べるしかないのだが。
さらに,取り立ててアキトには用事も予定も何も無い。
となると,やはり何をするにも朝食を摂る事が繰り上げて最優先に上がってきてしまう結果になる。
一度溜息をついて起き上がり,リビングの向こうのシャワールームへ・・・
「おはよう」
「・・・おはよう。何してるんだ,ラピス?」
ソファに掛けつつ優雅にコーヒーを啜りながら,ニュースペーパーを読んでいるラピスが何故かそこにいた。
§
どうやって部屋に入ったのか,など気にはなったが,とりあえずシャワーを浴びて頭をすっきりさせることにした。
どうせ問い詰めてもごまかされる気がする。
エリナと一緒に暮らしているせいか,口が達者になってきている気がするからだ。
さておき。
部屋に常備されていたコーヒーメーカーで作ったものだったのにも関わらずアキトがそれに気付けなかったのは,やはり嗅覚が麻痺しているからに他ならない。
ラピスに関しては,流石に二年も寝たきり生活をしていたら,勘などさび付いて当然というものだろう。
退院前の2ヶ月ほどはずっと日常生活に戻っても支障ないための体力づくりのリハビリだったが,やはりそれだけでは十分な筋力は戻ってこない。
やせ衰えた自分にわずかにショックを覚えつつも,まず頭をすっきりとさせることを優先すべきだろう。
そしてなぜここにラピスがいるのかを問わねばなるまい。
5分ほどでささっと上がり,予め用意しておいたウィンドブレーカーを羽織ってリビングへ戻る。
「ん?」
見回すが誰もいない。
飲み終えたコーヒーカップだけが所在無げにぽつんと置かれている。
「ラピス・・・」
もしや夢か。
いや,だとしたらこのコーヒーカップは一体・・・?
一瞬夢と現実が混同されそうになったが,直後聞こえてきた声にアキトは我に返った。
「アキト,ご飯作ったからこっちに来てー」
「ダイニングか」
ぽん,と手を打ってそちらに向かった。
§
作ったというが,ラピスのその手の実力は未知のものだ。
一瞬女性に作ってもらう手料理に関してのトラウマが首を擡げたがどうにか押さえこんだ。
(嗅覚の不全か・・・つらいな)
ダイニングに入ると,もうテーブルの上に朝食が並べれていた。
トースト,ジャム,マーガリン,サラダ。
ミルクの代わりに作りたてのコーヒーをカップに注いでいるラピスは,入ってきたアキトに「座って」と促す。
言われるままに椅子を引いて目の前の朝食を眺めるが――
「朝食,作れるんだな」
「こんなの誰だって出来るでしょ。パン焼いてサラダは野菜千切るだけだし」
いや,出来ない人間もいるらしいぞ とは心の中で呟くに留める。
「なあラピス――」
「まずは食べてから。はい,いただきます」
確かに用意してもらった手前,きちんと食さねば作ってくれたラピスにも目の前の朝食にも悪い。
味はしないけれど,ありがたく
「・・・いただきます」
非常に簡素といえば簡素な朝食だ。
味付けも減ったくれもない,ただ食材を切り分け,多少焼いたりジャムを塗ったりするだけのもの。
ラピスが手間を嫌ってこんな楽な形にしたのか――それとも,味の分らないアキトを慮って味付けの必要の無いもの()を
選んだのか。
どちらにしても,一人で過ごす朝食よりは全然ありがたかった。
億劫だった朝食だったはずなのに,どこか優しい気分に成れたのは――
「私,これからここに住むね」
んぐ・・・!?
丁度トーストを飲み下そうとしているところにその発言は少々キツかった。
喉につっかえそうになるアキトのある意味必死の形相に,ラピスは慌てて傍に置いといた牛乳のパックを手渡す。
後でコーヒー牛乳にでもするつもりだったのだろうか?
いや,それはどうでもいい。
一息つけたアキトは涙目で「ありがとう・・・」と言った後に改めてラピスに向き直り,
「どういうつもりだラピス? 今はエリナの所に住んでるんじゃなかったのか?」
「出てきたもん」
「いや,そうじゃなくてだな・・・そもそもエリナには相談したのか?」
「書置き残してきたから大丈夫」
澄まし顔で言い切るラピスに,絶句したアキトは思わず天を仰いだ。
「大丈夫じゃないだろそれ! しかもそもそもラピス,お前みたいな年頃の女の子が俺みたいなやつと一緒に暮らすなんてダメに決まってるだろう・・・!」
初めて出会った頃は小さな女の子だったが,もうあれから5年は経つ。
そういえばラピスの正確な年齢は聞いたことはなかったけれど少なくとも16,7歳にはなってるはずだ。
色々とまずい事には変わらない。
「ふーん・・?」
ラピスは瞳に剣呑な光を灯し始めた。
今の今まで見たこともなかった彼女のその雰囲気に中てられ,アキトは思わずたじろぐ。
「そんな事言うんだ・・・」
左手で頬杖を付いて,カップの中のコーヒーをスプーンでゆっくりとかき混ぜるその仕草。
流し目のようで――その実少しも笑ってない冷めた瞳がアキトを射る。
ごく,と喉を鳴らして唾を飲むほどの迫力――これが年頃の女の子に出来る顔か・・・?
そう戦慄するアキトをよそに,ラピスは言葉の刃を突きつけた。
「もう大分過ぎちゃったことだけど・・・私の心,支配してた事は忘れてないよ。その責任も取らないつもり?」
§
グサリ と良心を突かれた。
切っ先は鋭すぎるナイフ。容易く魂を切り裂けるほどの鋭さと,切ったそばから心を侵す猛毒を兼ね備えていた。
一瞬で真っ青に変わるアキトを冷淡に見詰めるラピスの瞳からは,なんの感情も伺えない――。
「俺を・・・恨んでるのか。」
「私の心,そんなに安くないよって事。対価を要求するの。アキトは従うしか道は無いよ?」
一転して,ラピスは楽しそうにクスリと笑った。
え,とポカンと口をあけて一瞬の間に劇的に変化するラピスの顔をぼけーっと見詰めてしまうほど,その展開の速さについていくことが出来ない。
「ちょ,ちょっとまて・・・ラピス、は。・・・俺のことを恨んでいるんだろう?」
「私が? アキトを?? んーん、恨んでなんか無いよ。 でもやっぱり・・・」
悪戯な笑みでラピスは激烈な言葉を述べやがりました。
「乙女の心を弄ぶなんて・・・すっごく罪深いと思わない?」
にやにや、と笑うラピス。
今度こそ本当に絶句したのはやはりアキトだ。
なんと言うか,反論の は の字も思いつかないほどショックを受けていた。
何も言えなくなったアキトを見て満足したのか。
ラピスは今度こそ満面の微笑みを浮かべた。思わず見とれるアキトだが――状況は激烈に変化していく。
「要求は二つ。一つ目は,アキトはこれから私にずーっと尽くすこと。何があっても,どんなことになっても。あ,拒否権はないから。」
コーヒーを一口飲んで続ける。
「二つ目。時間のあるときは・・・その。また一緒に本,読もう。えへっ」
頬を染めてそんな風に言われたら,反論などできやしない。
もとより拒否権は無いらしいし。
「・・・わかった?」
上目遣いに言われたアキトは,しかしそれに答えるだけの処理能力をすでに脳が有してなかった。
既にハングアップ寸前の脳をどうにか騙し騙し動かしつつ,思わず手放しそうな意識を必死につなぎとめて状況を纏める。
逃げられない・・・?
目の前には にこにこー と機嫌良さ気に頬を染めて微笑んでいるラピス。
とてもじゃないが,
(逃げれない…よな)
ならどうする。
状況を打破するには――!?
と,青くなったり赤くなったりするアキトを堪能したのか,ラピスは ふう と息を吐いて立ち上がった。
どことなく苦笑している様子に幾分落ち着きを取り戻したアキトだが,ラピスの「ちょっとそのまま座ってて」という言葉に何故か逆らえずに椅子に座り続け
る。
アキトの後ろに回ったらしい気配を感じながら,何をするつもりだろうと――
「ごめん。うそだよ」
ぎゅっと抱きしめられる感触。
後ろから首に回される両腕と,肩と背中の丁度中間辺りに感じる女性のやわらかさ。
言葉と共に首筋を撫でる熱い吐息。
余計石化した。
「アキト,何をしたら良いのかわからないんでしょ?」
そうだ。
もう,これからどうやって生きていけば良いのか分らない。
全てが終わって,奪うだけ奪いつくされて。
ここに残っているのは,死に損なった僅かな命と――ポンコツになってしまった体だけなのだ。
優しく自分の本音を言い当ててくるラピスに,否,そんなことは無い というつもりだった虚勢すら張ることが出来ず。
震える子供のように頷いてしまった。
そんなアキトの首筋に,ラピスは頬を寄せてぎゅっとしがみつく。
「・・・やっぱりうそ。ね。アキト,私の心を支配してた対価。アキトの人生で許してあげる。だから私の・・・」
区切って,言いづらそうにだけれどハッキリと告げた。
「・・・私の現実()になって。」
§
その一言で,アキトは理解できた。
言葉にならない感覚の域で,自分の欲求と共鳴したと,そう感じた。
現実()。
言葉の意味はそのままだが――ただ,アキトとラピス以外には共有できないものがある()。
返して言えば,アキトとラピスでなければ理解できない意味がある()。
アキトは唯一人,この世界で過去()を夢と疑ってしまう人間になってしまった。
無論,思い出を共有できる人たちはたくさんいる。
が,その中の自分と。今の自分を,どうしても重ねることが出来ない()。
ラピスは唯一人,微かな意識の中から覚醒した,記憶の希薄な人間だ。
彼女のルーツはアキトにあり,彼を通して世界を認識した。
それまでの記憶はあるものの――まるで他人事のような・・・強いて言うならば映画を見る観客のような客観的な"記録"しか知らない。
彼女の現実()は,ラピスの,彼女自身の本当の記憶は,アキトとの本を読ん
でいるあの日々から始まっているのだから()。
これは罪か。
それとも罰か?
思わず心の中で唱える声には,しかし答えなど返ってくるはずも無い。
ただ分っていることは・・・
ラピスを本当の意味で理解できるのは自分以外に居ないと言う現実。
そして――自分を本当の意味で理解できるのも,この年端も行かないラピスでしかありえないという,現実だけだ。
全ては直感でしかない。
しかし,間違っているとは思わなかった。
答えは一つ。
唯一つ。
「俺は」
抱きしめられている腕をそっと抑えて,撫で付けるように優しく摩る。
「ラピスの現実()だよ」
◇
§
◇
忘れてなんかいない。
忘れることなんてありえない。
あの時のあの,アキトの言葉を忘れることは生涯無いだろうと断言する。
テラスと宇宙を仕切る強化ガラスの向こうに輝く地球を見ながらそう思う。
あの日から既に4年経つけれど,アキトは何時も傍にいて。
いつでもどんな時でも,優しいアキトで居てくれている。
これ以上の幸せは――私が望んでも良いものなの? と何度も何度も思ってしまうくらい・・・。
時間を置けば頭が冷えてくる。
ヒートアップしてた気持ちが漸く落ち着いてきてくれた。
(しょうがなかったんだもん・・・)
感情の制御というものは,それほど簡単なものではないということだ。
対象が"あのヒト"だったということもある。
少しは自分に非もあったかもしれない。
「謝ったほうが・・・いいかな」
憂鬱そうに呟くラピスからは先ほどまでの剣呑な雰囲気がすっかり なり を潜めており,そこにはただ,少しさびしげな様子の女の子が居るだけだ。
・・・もうちょっとだけ。
期待と不安と,謝ろう という気負いを胸に秘めて,ゆったりと椅子に背を預ける。
ちょっとだけ目を閉じて。
誰かが歩み寄る気配を感じながら・・・まだ瞳は開けない。
すぐ傍まで来て,誰かさんの歩みが止まった。
左目だけうすーく開けてみたら,見事に視線が重なってしまった。
もう我慢できず,くくっと笑う。
誰かさんも笑った。
「よいしょっと・・・」
と,体を起こすと目の前に手を差し出された。
ぶっきらぼうだけれど,ラピスを想う優しさに溢れた仕草。
アキトは笑いながら,
「お前()の前に居る俺は…現実()?」
「・・・うんっ!」
取った手を引き寄せられて抱き合う。
強く抱きしめられるアキトの熱を直接感じながら――
(もう少し,このままで)
ラピスは謝るのを先送りして,束の間の・・・でも最大限の幸福に身を任せることにした。
§
これは,そんなありふれた――何処にでも在る様な物語でございます。
〜End〜
あとがき。
まず最初に,たくさんの拍手をありがとうございます。
つか,いきなり増えてビビったでありますよ。
なんと言うか,僕ごときの拙い文に面白いと言って下さる方々がいらっしゃるのは,僕にとってすげー幸運なんだろうなと感謝感激です。
ありがとっすー。
というわけで今回の話。
今後書いてる時点でタイトル未定なんですが,まぁネーミングセンス0なのでテキトーに英語の当て字でカッコつけとこうかな,なんておもってまs ウあなに
するらぴsどいひおえfじゃえ
失礼。
アキラピ推奨委員として,お茶の間にアキラピを〜を目標に書いてるので,なんつーかそういった話だけになってきてますがご理解いただければ本望です(マ
ジデ
今回のネタ,前回?だか前々回だかに書いたアキト入院ネタにめっさ被ってるんですが,そこからじゃないと発展しない展開になってしまったので・・・想像力
乏しい所ですが,いやマジすみません・・・
それに,リアルだの現実だのわけ分らんこと書きましたがホント意味なんて無いです。妙に意味がありそうで実は何も考えてないような言い回しを使ってみた
かっただけなんです。
変にサムを追い詰めないでやってください・・・僕頭弱いのでorz
これからももっと精進して,なるべく新鮮なアキラピをお届けできればと想いつつ座談会のメンバー見てるかコラーしっかり上げたぞ!
と自己主張しつつ,この辺りで失礼させていただきます。
2006/09/22 別作業中にss書くとはかどるな・・・イヤマジデ
〜その,ほんのちょっと後
§
「ね,アキト・・・地球に,なにしに行ったの・・・?」
「ん?」
ほんの数時間までの大喧嘩の事など無かったかのように二人は腕を組んで,社内を降りる重力制御エレベーターの中にいた。
高速で下降しているその筐体の中という密室空間で,ラピスはどうしても聞いておきたかったその質問をアキトに投げかけた。
ああ、とアキトは僅かに苦笑する。
「ルリちゃんが,また家族として暮らさないか・・・って。」
「そう・・・なんだ。」
ラピスは力無げにアキトの腕をつかみ,不安を湛えた瞳で彼を見上げる。
しかし――
「もう無理だって断ったよ。彼女の知ってる俺は,もうどこにも居ないんだからな。」
「アキト・・・」
アキトはネルガル月支社の最外部にある重力制御エレベーターから見ることのできる地球を眺めながら。
少しだけ寂しそうに笑った。
「でも」
視線はラピスの瞳から、二人でつなぎ合っている手――共に握り合っている掌に移,笑みを深めた。
「ここで,こうやってラピスと二人で居る俺が・・・今の俺だから。」
「・・・私も。アキトがここに居て、私がここに居る。ここが,」
そう。
「「現実()」」
「だな」
「だよね」
確認するようなことじゃないけれど。
言葉にしておかなければいけない時だってあるに違いない。
優しく笑いあった二人の影が一瞬だけ重なったのを,遠く青く輝く母なる星はそっと見守っていた――。
〜True End