木枯らしが吹きすさぶ季節の節目。
 天国に繋がっているわけでもないのに無駄に長い坂道を上っていく。少し進むと、その行く手を拒むかのように向かい風が襲いかかってくる。
 こんな日に身に付けている防寒具がマフラー一つというのには、さすがに己の防寒に対する意志の薄さに驚かずにはいられない。
 とは言え、それだけの理由で登校を拒否してしまうなんて馬鹿な考えを抱くわけにもいかんし、もしそんなことをしてしまった日には、二度と外には出れなくなる。主に、羞恥心とお母様のお怒りを畏れて。
 無いとは思うが、我らがSOS団団長である涼宮ハルヒ様のお手を煩わせることとなるわけで、もし心配してお見舞いに来てくれたなんてことがあれば心底申し訳なく思ってしまう。
 なんて、取り止めのない事しか考えられない脳内会議だが、それだけ暇を潰せばそのうち学校へと到着しているわけで、何も考えずに歩くよりは体感時間的に速かったような気がする。
 しかし、学校に着いたところでただの一般的な高校の一つでしかなく、万年エネルギーを持て余してるようなハルヒが全校舎に暖房を入れるなんて突飛なことをしろとは考えないわけで。結局、寒さに震えるままに教室まで行かねばならんのだ。
「おーっす」
「おう」
 途中、すれ違った知り合いと軽く挨拶を交わす。
 どこでいつ知り合いになったのかなんて覚えちゃいない。そもそも名前すら思い出せない。なんとなく、自分のクラスメートに似た顔の奴がいたような……所詮、友人以外はそんなもんだ。
 ほんの少し歩き、突き当たりの廊下を曲がる。すると、視界に映ったのは自分の割り当てられた教室がある学年の廊下。
 ようやく、目的地に到着する。
 そんな気持ちが強まってか、自然と足の動きが良くなった。そこに求めているのは学業ではなく、それこそほんの少しの暖かさだけなわけだが。
「ん?」
 ふと、教室の前に見慣れぬ人物がいた。
 ……いや、見慣れないというには少しばかり一緒にいた時間は長い。その内容もなかなかに密度の濃いものだ。主に、マイ生命(ライフ)を脅かす地球外生命体らしきものを撃退していただいているのだから。
「どうしたんだ、長門。そんなところで」
「……」
 問いかけに対する応答はない。そのときに微かに動いたのが確認できた以外に、これといった変化を見出すことはできなかった。
 それにしたって、いつもは文芸部室にいるなんてイメージしかない長門がこんな所までやってくるってことは、思った以上の出来事がどこかで起きているのだろうか。
「大丈夫。涼宮ハルヒの精神状態は落ち着いている。情報改変が起こり得る可能性は限りなくゼロに近い」
「ぬぁっ……ま、まあ……ハルヒが何もしてないのなら別に問題は無いが」
 そういえばそうだったな。
 いつだったか長門の側に寄って考え事をしたとき、俺に対していきなり話しかけてきたな。それも、しっかり俺の考えの答えになるようなことを。……もう何にも驚くことまいと思っていたが、さすがに心の中まで見透かされていると思うと心臓に悪い。
 ま、古泉みたいに何考えてんのかわからんような奴の頭の中を覗いてほしいとは常々思っている。俺が常日頃から考えていることといえば『どうやって回避不能なハルヒの突発的行動を回避しよう』かだ。
 自分で思うのもなんだが、他にも考えることはあるだろうに。
「なあ、お前もそう思うだろ? 長門、って……長門?」
「……」
 表情一つ変えない長門は、黙ったまま俺を見上げていた。この静かさは是非とも騒々しいハルヒ様に見習ってもらいたい。
 と、しょうもない事を頭の隅に浮かべてはいるが、実際のところどうして長門が俺を見上げているのかという理由が分からずにいた。
 正直、長門とはあまり日常的な会話をすることがない。ハルヒの世界改変だか革命やらわからない事件に巻き込まれる以外で、俺が長門と関わりを持ったことと言えば、一緒に図書館に行ってやったくらいか。
 あとは、レトルトのカレーとおでんを食わせてもらっただけか。
「……」
「ん?」
 何処からともなく取り出した一冊の本を、すっと差し出してきた。
「これ、俺に読んでほしいのか?」
「……そう」
 その本を包み込んでいる真っ白なブックカバーは、どことなく長門らしかった。
 白く細い親指がカバーに薄らとした影を落としている。
 ……残念ながら、長門と比べるのが失礼なぐらいに読書と縁がない俺は、長門と本を見比べ、ふと思い付いた疑問を口にした。その返答で、長門が何を言うのか想像しながら。
「どんな内容の本なんだ?」
「……ユニーク」
「そうか」
 確かにそれは、俺の想像通りの返答で。
 ただ、一つだけ予想できなかったのは、想像通りの言動をしてくれた長門が、そうなるであろうと考えていた俺に対して、幾ばくか驚いているように見えたことだった。


「……ん? 今日はまだ誰も来てないのか」
 いつも通りの授業に、これまたいつものように襲い掛かってくる睡魔との戦いを繰り広げ、危うく壇上にて御教鞭を振舞って頂いている先生方のお目に留まってしまうところだった午前の部は何とか切り抜けることができた。
 昼食を挟んでの延長戦は、味方となってくれると思っていた糧食たちが中腹に陣取って謀反を起こし、残り少ない幾ばくかの根性は勢力を増した睡魔に敵うことなく撃退されてしまった。
 気付いたのは、最後の授業が終わった後のHR(ホームルーム)で担任の岡部先生に起こされた時だった。
 近くで笑いを堪えている谷口に腹は立ったが、それ以上に国木田が俺の後ろをチラチラと見ながら浮かべている笑顔を引きつらせているの見て、正直俺も同じような表情を浮かべただろう。
 何とかその場は何事もなく過ごしたが、頭の中で妙にやつれた表情をしている古泉に、ちょっとした罪悪感を抱いてしまった。
「さて、と……」
 これ以上ハルヒの機嫌を悪くするという行為は、古泉のスマイルをやつれ切ったものにするには十分なものだが、それ以上に俺自身の安全のためだ。
 ちょうど、掃除当番でしぶしぶ箒を動かしているハルヒを横目に、さっさと部室へとやってきた俺は、誰もいない部屋に置かれた特等席に腰かけ、朝に渡された本を手に取るのだった。
 ……長門は何も問題無いと言ってたが、こうやって本を渡された時は何かしら問題が起きているときだという俺の認識はどうやって覆せるだろうか。だからだろう、まず先に(しおり)が挟まれてないかどうか調べてしまうのは。

 ――結論から言おう。栞は見つかった。
 同時に「やはり」という感覚が湧き上がり、溜息交じり吐き出した吐息を追うように指をゆっくりと栞に這わせようとして、はたと、指が栞に触れる直前で止まった。その(ページ)には挿絵が添えられていた。
 うら若き女性が、彼女より少しばかり背の高い男性と身を寄せ合っている。
 如何に恋愛経験の無い俺とは言え、ここまであからさまな行為をしているのを見れば、ある程度は予測することはできた。栞をそのままに、題名を確認するためカバーを外し、その表紙を眺めた。
 そこに表記されていた文字は、やはり恋愛ものの小説の題名そのもので、そこに鍵となるような言葉があるのかどうか、それすら理解することは出来なかった。
「なんだって長門はこんなものを俺に……」
 何か隠されているのではと思いもしたが、その鍵となりそうな栞は、どこにでも挟まっている栞そのもので。恋愛ものの小説の題名と栞に書かれた題名が一致してるのは、普通に小説を購入して読書した後のようにも思えた。
 詰まる所結論として俺は、長門が恋愛小説に興味を持っていると考えているのだ。
 あの長門が?
 なんて事を思ってしまうが、如何に自分のことを宇宙人だのと言っていてもそれなりに少女的感覚を有しているのではなかろうか。そう考えれば長門が恋愛小説を薦めてくることには……繋がらないな。
 純粋に推薦図書として読んでほしいのか、それともこの本のどこかに長門の隠された意図が潜在しているのか。それすら分からない。
「なぁに本なんか読んでるのよ」
「うおわっ! おま、いつの間に……」
 あれやこれやと悩んでいる間に来たのだろうハルヒに、その悩みの種を()いてくれた本を奪われてしまった。猫も驚きの速さは、うちで飼ってるシャミにも見習ってほしいほどだ。
 栞が挟まっているところを無遠慮に開くと、俺と同じように固まり、それから俺と本を何度か逡巡した。
「キョン、あんた……こんな本なんか読んでるの?」
「ん? いや、まぁ、いつもとは違った主旨の本でも読んでみようかと思ってな」
「ふぅん……恋愛小説なんかに興味あるんだ」
 ペラペラと頁を捲り、中身を流していくハルヒはまるで興味が無さそうだ。
 そもそも、恋愛を一種の病気だと思ってるやつが興味なんか示すはずもなかろう。そう考えれば、宇宙的論理でいきなり突拍子もないことを敢行してくれるハルヒが、俺の物だと思い込んだまま本を放り投げるなんて事をしてくれなかっただけ良かったのだろう。
 中学生の頃はいろんな男子生徒と付き合っては別れを繰り返してきたみたいだが、確かに、こいつの性格を思えば、告白した男子たちの心の傷を増やすだけの行為ととれるわけだ。まあ、ある意味では俺もこいつにつき合わされえるようなもんだが。
「……」
「なんだ? どうした、ハルヒ」
「……ふん! なんでもないわよ」
 鼻息荒く踵を返したハルヒはそのまま団長席へと向かい、そんなに体重もないだろうにドスンと大きな音を立てながら椅子に座り、パソコンの影へと隠れてしまった。一瞬こっちを向いた時の表情からするに、最悪とは言わんが機嫌が悪くなってることが読み取れた。
 ……いつだったか、誰に説明されたのか覚えてないが、俺の使命はこの世界を守ること。そのために、俺の眼前でマウスを動かしている団長様の機嫌を取ることだと。
 すまん古泉。今日お前がここに来れなかったら灰色の空間で真っ赤になってるのかもしれないが、俺にはその原因を突き止めることはできなさそうだ。


 ――パタン
 いつも通り何もすることなく、何も起きることなく帰宅時間となった。
 何故かはわからないが、急用ができたらしい古泉は部室に寄ることなく真っ直ぐ帰宅していった。いつもであれば二人でボードゲームをしていたのだが、今回は長門に借りた本もあり暇とは思わなかったが、今頃古泉はどうしてるだろうか。
 いつも通りのハルヒを見るに、いつ気を悪くするような事があったかまったく分からない。……不甲斐ない俺を許してくれ。
「もうそんな時間か」
「それじゃあ帰りましょうか」
 いつもと変わらない平穏な時間を過ごし、さて俺も帰ろうかと席を立ち上がろうとしたとき、いつの間にか目の前に立っていた長門に驚き体が硬直する。
「読んだ?」
 簡潔明瞭な問いかけは、俺の右手に収められた一冊の本に対して問われていた。
「あ、ああ……まだ全部は読み終わってないがな」
「そう」
「何してんのよ。早く帰るわよ!」
「ああ、わかってる」
 しかし、目の前の長門が一向にどいてくれようとしない。そんな長門をどかして立ち上がるわけにもいかず、今まで自分が座っていたパイプ椅子を横にずらし立ち上がった。
 不意に、軽い衝撃が襲い掛かった。
 ポフッと可愛らしい音を立てた元を見ると、目の前にいたはずの長門が俺に倒れ掛かってきていた。制服に押し付けられた長門の表情を見ることはできないが、何か異常でも起きたのかと思い長門の額に手を当ててみる。が、前みたいに熱があるわけじゃなかった。
 どうしたのか聞き出そうとして、いつの間にか背中に長門の両手が回っていた。
 ほんのりとした暖かさが、制服越しに伝わってきた。
「な、長門?」
 いきなりの行動にドギマギしつつ名前を呼ぶが、当の本人は俺に抱き着いたままの恰好で固まってしまっていた。
「……」
「な、キョキョキョン!? あんた有希に何してんのよ!」
「待て待て待て!? 神に誓っても良い! 一切俺は何もしてないぞ! ほら、長門も早く俺から離れてくれ!」
「……ん」
 ようやく離れてくれた長門の表情はいつも通りの無表情だが、何故か俺には幾分かの物足りなさが垣間見えた気がした。
 後ろから掴みかかってきたハルヒを落ち着かせるため、長門が何かにつまずいて体勢を崩したのを支えてやっただけだと言い聞かせたが、事の真相は長門しか知りえない。これもまた、情報思念体とやらの命令なのだろうか。
 いくら考えても出てくることのない答えに溜息を吐く。
 ふと、長門が顔を埋めていたところを撫でる。ほんの数秒のことではあったが、(ぬく)みだけは離れずに残っていた。


 その夜、長門の行動を疑問に思いつつ家でダラダラしていた俺は、何もすることなくそのまま就寝してしまった。妹に無理矢理起こされた俺は、以前のような世界改変という大掛かりなことが起きていないことを祈りつつ朝食を流し込む。
 身だしなみを気にすることもなく適当に羽織った制服に、何の教科書を入れたか覚えてない鞄を肩に担いで家を出ようとしたところで、瞬きをひとつ。
「……長門?」
 いつもの無表情を浮かべた長門が、何故か玄関に立っていた。
 誰でもいいが、長門が来ているのなら一言でも伝えてくれたって良いんじゃないか?
 無言で見つめられると、早く行こうと催促されている気がする。長門がここにいることの意図を見出すこともできないままに靴を履き、家を出る。元気に行ってらっしゃいと声を掛けてくれた妹を見ると、その後ろのお母様がイイ笑顔で手を振っていた。
 見なかったことにしよう。
 それにしても、こうやって長門と一緒に登校するなんて初めてだ。そもそも長門が暮らしているマンションは学校から俺の家までの通学路と反対側にある。偶然家の前を通りかかったからなんて言葉は出てこない。
 しかし、ハルヒに関することで何か起きているとすればすぐに言ってくるだろう。
「読んだ?」
 不意に長門が問いかけてきた。
「すまん、まだ半分くらいまでしか読んでない」
「そう」
 とりあえず何も問題は無いのだろう。
 今までにいろんな事を体験してきたが、それでも次に何が起きるかなんて考えることもできないし、俺なんかが問題を解決しようとしたところで何か答えに繋がるような鍵を作ることもできないしな。
「それにしても、長門が俺の家に来るなんて珍しいな」
 いつも無口の長門だが、ただ無言で一緒に歩くのもどうかと思い、俺から話を振ってやる。せっかく二人で歩いているのだから、いつもとは違った雰囲気で登校したかったと言えば本音になる。
 ふと、長門が立ち止まったことに気づいた俺は、どうかしたのかと尋ねようとして、
「貴方と一緒に登校したかったから」
 風に揺れる前髪を気にすることもなく見上げてくる長門の言葉は、しっかりと耳に届いていた。
 いくら神様ハルヒ様でも長門がこんな事を言うとは思わなかっただろう。俺だって思っちゃいなかった。それに、俺と一緒に登校して何が嬉しいのだろうか。
 もともと無口な性格もあってか、それっきりいくら俺から話をしても頷くだけで一言も喋らなくなってしまった。
 自分の中に芽生えた気持ちに気付くことなく歩き続けた。

 二人で長い長い坂道を登る。
 運動とは縁のない俺が歩きたくないと駄々をこねる両足を必死になって前へ動かしている横で、まるで疲れを感じさせない足取りを見せる長門を羨ましく思いつつ足を動かす。
 歩行者の数が少ないからだろうか、話し声が聞こえてこない坂道はいつもと違う不思議な雰囲気を持っていた。ギャーギャーと五月蝿い谷口も、それに付き合う国木田の姿も見えない。
 ただ長門と二人で歩いているだけなのに、この空間を楽しいと感じている自分がいた。
 長かった坂道を登り切った俺たちはいつの間にか学校の前に着いていた。とは言うものの、俺が勝手にそう思っているだけで長門はどう感じているかなんて分かりっこない。
 横目で見る長門は妙に嬉しそうで、
「キョンと有希じゃない」
 そのまま校門を抜けようとしたところで後ろから声がかかった。
 振り返る前に校舎の上にかけられた時計を一瞥する。HRが始まるまでまだ三十分もある。
「ハルヒ、いつもこの時間に来てるのか?」
「そんな訳ないじゃない。今日は偶々よ、偶々」
 鬱陶しそうに手をひらひらと動かしているあたり、何か担任に申し付けられたのだろうか。
「それより、あんたの方が珍しいじゃない。こんな時間に、それも有希と一緒に登校してくるなんて」
 不機嫌そうだったハルヒは一転、訝しげな表情を浮かべて問いかけてきた。
「そうだな」
「ふぅん……有希、大丈夫? 何もされてない? キョンはこんなしみったれた怠い顔してるけど一応男なんだからね。何かされたらすぐに私に言うのよ」
「お前は俺のことをどう思ってるんだ」
「獣よ獣! あんただけじゃないわ。この世の男は皆獣なのよ!」
「おいおい……どんな偏見だ」
 そんな他愛無い会話。いつも通りのやり取りをしていると、ふと背中の(すそ)を引っ張られるような感覚がして、そのままの勢いで後ろを見ると、長門が寂しそうに見上げていた。
 いつもの無表情となんら変わりなく見えるのに、そう思えるのは俺が自意識過剰だからだろうか。ハルヒとの会話もそこそこに切り上げ、長門と一緒に入口を潜りそこで分かれる。その寸前で手渡された二冊目の本を手に自分の教室へと向かった俺は、自分の座席に着席して睡眠の体制を取るのだった。

「おい、キョン。お前にお客さんだぜ」
 谷口に声を掛けられ顔を上げる。
 時間は過ぎて昼休み。そこそこに授業を受けては睡眠学習を繰り返していた俺は、眠気を抑えつつ客とやらの顔を拝むため、廊下の方に顔を向ける。
 数人の女子が俺と同じ方向を見ているが、そこに向けている感情がこれほどまでに違うこともないだろう。面倒だが、おもむろに立ち上がった俺は、笑顔でこちらに手を振っている古泉のもとへと歩いて行った。

「昨日から涼宮さんの機嫌が優れないようですが……何かありましたか」
 さっきまで浮かべていた笑顔は何処へやら。
 人気の無い中庭に着いた途端、古泉は真剣な表情で俺に問いかけてきた。
「閉鎖空間か?」
「ええ、その通りです。それも、近頃では珍しいくらいに多くの閉鎖空間が感知されている。まぁ、今までの中で最悪というほどの規模ではありませんが、それは今朝も感知されています。貴方に事の詳細を聞くため、今回僕が呼び出されることはありませんでしたが」
 両手を肩の位置で上下に動かす古泉の表情はすでに和らいでいた。むしろ、疲れからか苦笑に近い笑みに思える。
 昨日からと言われても、何かハルヒの気に障るようなことがあったかと言えば、そんな事は無かったと思う。思い返してみてもそんな事は何もなかったはずだ。……心当たりが無いわけでもないが。
 いつものように、何が原因でハルヒが機嫌を悪くしているのか理解できない俺は、某主人公のように古泉に助けを求めるべく、事の顛末を話すことにした。
 しかし、その話の途中から古泉は顎に手を当て、何かを考えるような仕草をするのだった。
「まさか、長門さんがそのようなことをするとは」
「ん? 長門がなんだって?」
「いえ……しかし、一番の原因であるのが貴方であることは紛れもない事実。ここは、貴方が今回の件を解決してくれることを祈っていることしかできそうにありません」
 それは、事実上お手上げ状態だってことなのか?
「何か、アドバイスは」
「こればっかりは私にはどうしようもありません。ご自分で解決なさってください。その間発生する閉鎖空間は組織の方でどうにかいたしますので」
 絞り出すように問いかけた言葉を、古泉は笑顔で切って捨てやがった。
 結局、俺は問題を解決する手掛かりを得ることもできないままに昼休みを終えてしまった。一つでも何か得られるものがあれば良かったのだが、これじゃあただ古泉と二人で昼飯を共にしただけだ。
 できれば他のSOS団の誰かと一緒に同じ時間を過ごしたかったと思ったのは男として正直な感想だ。
 しかし、今回の件は俺が原因ってのはどういうことなのだろうか。
 次の授業に遅れないよう歩きだした俺は、いくら考えても出てくることのない答えを求めて首を捻るのだった。


 放課後。
 順当に回ってきた掃除当番を叱られない程度にやり過ごした俺は、冷えてきた廊下に身を縮こまらせつつ部室ならぬ団室へと向かった。
 カタカタと風で揺れる窓ガラスを尻目に、そろそろ厚着をしようかと適当な事を考えている内に離れの文芸部室に着いていた。
 既に着替え終えているだろうが、習慣となったノックをすると朝比奈さんの可愛らしい返事が返ってきた。
「おぃっす」
 団長席でパソコンと睨めっこしているハルヒにいつもの微笑を浮かべた古泉。可愛らしいメイド服姿の朝比奈さんに読書を続ける長門。俺以外のメンバーは全員揃っていた。
 隅に追いやっていたパイプ椅子を引っ張り、適当な場所に鞄を置いて腰かける。ちょうど朝比奈さんが淹れてくれたお茶を一口啜り一息つくと、読書をしていたはずの長門と目が合った。
「やっと来たわね、キョン」
「しょうがないだろ。掃除当番だったんだから」
「そうね……いっその事掃除当番を暇そうな奴に任命しないかしら」
「おいおい、暇そうって言ったらここで何もしないで座っている俺たちだって暇だろうよ」
 それはそれで楽で嬉しいがなと肩を上下に動かす。
 部活動らしい部活動をしているのかと問われれば、どう報告書に纏めて提出すれば良いのか分からない活動を続けるSOS団の団員を、担任の岡部は見逃さないだろう。
「何よ、私たちには不思議を見つけるという大いなる使命があるのよ! まさかキョン、それを忘れたなんて言わないわよね?」
「わかってるよ」
 若干不機嫌そうに顔を顰めているハルヒを刺激しない程度に溜息を吐く。
 鼻息荒く再びパソコンに顔を落としたハルヒとやり取りを終え、お茶を少しばかり口に含んだところで、いつの間にか長門が手に持った本に視線を落としているのに気が付いた。
「どうでしょう、今回はこういったボードゲームなど」
 そう言って鞄から取り出した『ドミニオン』と表記されたカードの束を見せてきた。
 パッケージに包まれているそれは新品そのもので、わざわざ二人分用意するあたりボードゲームに対する古泉の情熱を評価してやらねばならん。
 それが、普段の勝率に影響してるかどうかは別問題だが。
「すまん、今日は読みたい本があってな」
「ふむ……珍しいですね。ちなみに、どういった内容の物でしょうか」
 興味深げに取り出した本を見つめる古泉に、その本を手渡してやる。長門の許可を得たわけじゃないが、これぐらいは問題ないだろうと思っていると、表紙を開いた古泉の動きが止まった。どうせ、俺と同じような感想を抱いているに違いない。
 そして、本と俺を何度か逡巡した後、ペラペラと頁を(めく)っていく。
 挿絵を見た古泉はそこで本を閉じ、目を瞑って二、三回顔を横に振って本を返してきた。
「何か、心境の変化でもありましたか」
「おい、なんだその言い草は」
 確かに俺の趣味からするとそんな本を買うことはないし、俺が買った本でもないが。
「いえ、いくらベストセラーになった本とは言え、貴方がこういった本を読むとは思ってなかったもので」
「何? これ、ベストセラーになってたのか?」
「えぇ、近くの書店でも店頭に置かれていますよ……もしかして、貴方が買ったものではないのですか」
 一瞬、ハルヒの方を見る。いや、実際には長門を見ていたかもしれん。
 こっちの会話は聞こえていなかったのか、そのままパソコンに熱中していたハルヒを尻目に、読書を続けている長門の横顔を見ていた。自分の事を宇宙人だと言っていた彼女の肌は目を凝らさなくとも白く透き通っていて――
 今の動作で何かを理解したのか、納得したと言わんばかりの表情で顔を上下に動かした。
「なるほど……これで全て繋がりました。僕から言えることはただ一つ。どのような結果になろうとも、僕は貴方の行動を否定したりしません」
「お、おう」
 笑顔になったり真面目な表情を浮かべたり色々忙しい古泉だが、今回は今までの中で類を見ないほど忙しない百面相だった。


 何事もなく今日の活動に幕が下りた。
 朝比奈さんが淹れてくれたお茶を飲みながらこの一時(いっとき)を恋愛小説を読破するために費やした。やる気元気が取り柄のハルヒは今日もパソコンに噛り付いている。偶にはこんな風に過ごすのも悪くない。そう思ったとき、本を閉じる乾いた音が響いた。
 いつも通り。
 そう、何もアクシデントの起きないいつも通りが至上、なのだが。
「で、だ。用ってのはなんだ、長門」
 誰も居なくなった部室。
 閉め切られた窓から差し込む夕日が影を作り出している。逆光でぼやける長門の姿も、影法師だけは明確に輪郭を捉えている。
 皆と一緒に帰ろうとした俺を、長門は用があると言って引き止めた。
 夕暮れ時の学校にはあまり良い記憶がない。あの時は長門が助けてくれたから何とかなったが、ナイフを振りかざしてきた朝倉のことを思い出すと今でもゾッとする。
「読んだ?」
 今朝と同じ問いかけ。
 主語が抜けているが、さっきまで俺が読んでいた本の事だろう。
「ああ、さっき読み終わったよ」
 返そうと思っていた恋愛小説を取り出し、長門に渡す。
 恋愛経験の無い俺だが、中学生の頃の佐々木との付き合いを思うとそんなに差がないような内容だった。違うところと言えば、公然たる関係では無かった。つまり、佐々木が俺の彼女としてお付き合いをしていたわけではなかったことだ。
 だとすれば、親友と謳っている俺と佐々木の仲は、周りにはどういう風に思われていたんだろう。
 過ぎ去ってしまった過去の記憶が、今になってかなり恥ずかしい記憶に思えてきた。
 それは兎も角、何か問題でも起きているのかという疑念を視線に乗せて見つめる。
「貴方をこの場に留めたのは、一つ、重大な報告があるから」
 過去の記憶に悶えていた俺の気持ちを知ってか知らずか、静かに歩み寄ってきた長門は本を受け取ると、すぐに話を切り出してきた。
「重大な……?」
「そう。今の私には、少なくないエラーが蓄積されている」
「なっ」
 淡々と台詞を口にする長門に、内心抱いた動揺を隠せずにいた。
 いつだったかみたいに熱で倒れられても困るし、また違う世界に飛ばされるなんて経験をしたくはない。
 ……また、あの世界の長門と話をできると思うと、それはそれで楽しみだが。
「この本を貴方に読んでもらったのは、私のエラーの原因を明確に伝えることができるか判別ができなかったため。でも、私は自らの口から貴方に伝えるべきだと判断した」
 更に歩み寄ってきた長門と俺との距離は、腕を伸ばせばすぐに届く近さ。
 身長的に見下ろすことになる長門はいつもの無表情で俺を見上げてきた。
「長門……?」
 訝しげに見つめていると、長門は前と同じように倒れ掛かってきた。
 衝撃という衝撃はほとんどなかったが、いきなりの事に黙ってその様子を見ていることしかできない。背中に回された両腕に、しっかり力が入っていることも。
「私に蓄積されているエラーは人類が定義している感情に当てはまると推測し、その感情に最も近いものを発見するため、資料となるものを探し始めた」
 動転する俺を気にすることもなく長門は説明を続ける。
「それが、これ」
 背中に回していた手をほどき、二、三歩下がるとさっき俺が返した本を見せてきた。
 自分の事を宇宙人だと打ち明けてきた長門が参考にした資料が恋愛小説だってのか?
「私が貴方にこのエラーを言語として伝達する際、齟齬が発生するかもしれない。でも、聞いて」
 今までの俺なら、長門にエラーが溜まっていると耳にしただけで身構えていた。
 だが、今は違う。
 あの長門が俺に何を伝えようとしているのか推測も憶測もできずにいるが、どこか、その先の言葉を待ち焦がれている自分がいた。
「その書物に記された言語を用いるならば、私は貴方に愛情を抱いている」
 いつからだったか、互いに見つめ合っていた。
 真っ直ぐなその双眸に偽りなんて無くて、動転していて気付けなかったが、無表情だと思っていた長門の表情は、いつもより柔らかくて――

「私は、貴方の事が――好き」

 ――夕暮れに染まった部室に紛れるように、その頬はほんのりと赤く染まっていた。



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