告白された。
今日、俺は、二つ隣の席に座っている生徒に。
手紙は下駄箱に入っていた。
可愛らしい便箋が二つ折りにされており、綺麗な文字で綴られていた文は、簡潔明瞭に書かれてあった。
『放課後、皆が帰った後、教室で待っています』と。
時間は等しく、皆に平等に振り分けられ過ぎていった。
その中には俺も含まれていた。頭の中は手紙の主が誰なのかということで一杯だった。
ただ時間と場所だけが記されていたその手紙を教科書の間に挟み、ボーっとその文面を見下ろしていた。
だからだろう。
いつもより時間の流れが早く感じられたのは。
夕暮れ時。
沈みかかった橙色の光源が長い影を創り出す。
俺もまた、その影を創り出している一つの遮蔽物でしかなかった。
今この教室には誰もいない。
規則的に鼓動を続ける秒針だけが無音の空気を振動する。
「待たせてしまいましたか」
ただ立って待っているのは何だからと思い取り出した小説は、おの表紙のカバーに手を触れたところで止まっていた。
白いブックカバーが、橙色の濃淡を彩っていた。
「いや、そんなに待ってない」
「それは良かった」
開け広げられていた戸を潜り姿を現した彼の姿は、男子の中でも少し背が高い俺よりも少し高い。
窓から差し込む陽射しが足下から照らしてゆく。
ほぼ水平線まで傾いた夕陽が教室の隅々まで照らし出す。
夕日隠れも何も無い、限りなく真っ直ぐ突き進む光は、ただ表情だけを照らし出すことはなかった。
だから俺は、こいつと目を合わせない。
「で、お前がここにいるっていうことは、つまりお前が俺に手紙を押しつけてきたのか」
「そうだけど……ひどいな。押しつけるなんて」
苦笑を漏らし、手を口に持って行く。
その仕草は確かに様になっていた。
「普段から優等生の俺は、真っ直ぐ家へと帰宅したかった」
「そこでくつろぎたかった?」
「有り体に言えばそうなる」
「否定はしないんだね」
誰がこんな奴の手紙をもらって嬉しいと言うだろうか。
いや、もしかしたら俺だけかもしれない。こいつは、何だかんだ言って同級生たちの注目の的だ。
俺の根性がひねくれているのは何時だって変わらない、不変の定理。
ありのままに世界を謳歌することができるぞと勧められれば、二も三もなく今の自分に飛びつくだろう。
それこそ、人生の転機さへ訪れてくることがなければ。
「それで? 用件は?」
「……本当に、待ってくれないみたいだね」
当然だと言わんばかりに大きく溜息を吐いてやる。
わかりやすいよう肩を大きく上下に動かして。
溜息に対する返しもまた溜息。肩を落とし、その目に浮かべるはいかなる感情か。
「私は、貴方が嫌いだ」
ある夕暮れ時。
射し込む陽射しをモノともせず、クラい暗い双眸を、淀んだ吐息と共に渡してきた。
未だかつて愛の告白というモノを体験したことがない俺に、初めてを体験させてくれた奴の胸の内はどうしようもなく真っ黒で。
二つ隣の席で笑っていた奴の表情とは思えないほどに暗闇が覆い尽くしていた。
つきおとし
愛憎の二文字が表す意味通りならどれだけの昼ドラを体験することになるのだろううと思ったが、愛を通り越し、憎悪の念だけ押されてしまった次の日。
もとから嵐が起こるだろうと予報していただけに、とりとめて大きな傷心を抱いたわけでもなし。
明確すぎる拒絶の言葉にどうしようかと悩みはしたが、何も考えずにありのままの自分でいようと普通に登校。
──いつものようにさざめいている通学路。
天頂に至りて燦々と照りつける太陽と例年通り新緑の香りが衰退する町中でコーラスに興ずる陽気な小鳥。
首輪に繋がれ軒下を占領する我が物顔の番犬は、適当な歩行者を捉えてはけたたましく騒ぎ立て。
突き当たる大通りは行き交う人と車で活気と排気に溢れ、岸際で寄っては重なり揺れ動く波のよう。
押し寄せる幾重もの波に飲み込まれる前に、耳にイヤホンをつける。
立ち止まり、目をつむる。
五感を通して誘ってくる波打ち際を締め切って、今日もまっすぐ岸壁を進んでいく。
打ち寄せられる波に、しかし足場は揺らめかない。
無骨な、風と波に浚われ風化してゆくこの岸は、確かにここにある。
「ん……?」
校舎に接するように広がる通学路。
自意識のない亡者のようにふらふらと校門を潜りゆく生徒たちの中に混じって、彼女の姿を見つけてしまった。
数人の女生徒に囲まれ、楽しそうな笑顔を周囲に魅せている。
誰しもを魅了しそうなその笑顔と雰囲気は、関わりのない一般生徒が見れば麗らかさを見いだせるだろうその表情は、まるで昨日の暗闇を払拭していた。
集団で歩いているせいか、歩度が遅い。
俺は構わず歩き続ける。ただまっすぐ、玄関を目指して。
三歩目には、イヤホンから流れてくる音楽に意識が向いていた。
だから、まったく意識もしてない内にその集団を追い越していて──ふと、足下が揺らめいたのに促されるように首を動かし、後ろに視線を向けてしまった。
そこに、彼がいた。
光の届かない昏い濁りが、周囲で戯れている女生徒を縫うようにまっすぐと向けられていた。
誰も気付くことのないその特異性をただ一人俺だけが知っている。
こいつは俺に、何を求めているのだろうか──
「ねぇねぇ、由里さんって松永家の長女なんだよね!」
「え、あの良いところの?」
「そうそう、やっぱり格式が違うのか、もう雰囲気がお嬢様って」
皆が口々に褒め讃える。
松永家の長女としてこの世に生まれ落ちたこの身を、ただ格式という上辺をなぞらえ異口同音。
昔も今も変わらない。何も変わらない。
ただ、笑顔を浮かべてここに有るだけ。そこに、私という意志は在ってはならない。
ポン、ポン──
目の前に転がってきた砂埃で所々茶色くなった硬式のテニスボールに、ふと目が止まった。
「すみませーん! 取っていただけませんか?」
テニス部員らしきラケットを手に持った男子が走り寄ってくる。
朝練でもしていたのだろうか。陽射しを受けて額に浮かんだ汗が白く光っていた。
それを拾おうと手を伸ばしかけ、隣にいた女生徒が先に拾い上げ投げ返してしまった。
走り寄ってきた男子より少し上を通ってその影に消えたボールは、一人軽快にテニスコートへと戻っていった。
「もう、しっかりしなさいよ!」
「いや、今のは貴女がしっかりしないと」
「え、私?」
伸ばしかけた左手を、緩やかに握りしめつつ右手で包み込む。
すぐ横で響く声を耳に、意識は胸の前の両手の中。
指の間から射し込む陽射しを受け入れ、おぼろげに揺らめくテニスボールが、手に入れがたい黄金の輝きを閃いた。
二つ隣の席にはあいつが座っている。
その凛とした表情は、学校中の男子生徒の注目の的になっているだろう松永由里。
最近新聞によく取り上げられ、風雲児ともてはやされている松永巌が率いる松永財閥の長女、一人娘として産まれた彼女は、当然の事ながらお嬢様然として育てられたそうだ。
というのも、この情報をくれたのがクラスメートで自称ファンを謳っている奴で、他にも個人情報を余計に語っていた。
曰く、父親は大層厳しい人だ。
曰く、その父親に一人娘として育てられた。
曰く、彼女は毎日習い事をしている。
確かに彼女のことを教えてくれと頼んだのは俺だ。
「由里さんの事を知りたいだって?」
何を吹き込もうとしてくれているのやら、余計な身振り手振りを交えて話し続けるこいつの姿に、まだ話は続くだろうと後の内容は適当に流して無視することに。
ちらと、彼女がいる席に視線を向ける。
こちらの視線に気付かず読書している姿からは、まるで俺に告白をしてきたときの感情を感じさせない。さすがに普段からあんな昏い瞳で世界を見回しているような奴なら、ここまで綺麗だという奴がかなりの物好きになってしまう。
意識を彼女に戻すと、そこにはもう彼女の姿はなく、変わりに彼が座っていた。
誰もその違和感に気付かない。気付けない。
俺だけじゃない。周囲一体を威圧するその姿は、近づくものを拒絶する王者のような風格さえ漂わせている。
「あ」
「ん? どうした?」
「いや、何でもない」
彼の外見、顔つき装い。見た目が若く、制服をまとっていたから分からなかったが、ようやくわかった。
彼が見せた暗闇は、確かに彼女の感情をそのまま反映していたが、その見た目は新聞の一覧を飾っていた松永巌その人である。
下駄箱を開ける。
同時に封筒の束が崩れ落ち、足下に散らばり広がった。
そこには、男子女子問わず名前が記されている。
溜息を一つ、スカートを手で抑えてしゃがみ、その一つ一つの名前を確認しながら破いていく。紙片が零れ、スカートに付着する。それすら構わず破いていく。
校庭で部活動に励んでいる生徒たちの声と無惨に散らばる封筒の破れる音が反響する。
足下に落ちた最後の封筒を手に、その名前を目にしたとき、彼女の手は止まる。彼女の視界に映った文字は、昨日告白したばかりの雅京介の三文字だった。
皆がいなくなった教室、落ち掛けた陽射しと影が包み込んだそこに、彼はいた。
まるで昨日の光景をそのまま抜き取り再現するように橙色のカバーの本を手に、席に着いていた。影の具合も、窓から見える雲の形も何もかもが同じに見えた。
何も変わらない。
告白を真に受けて何も変わることのないその姿勢は、それだけで腹立たしかった。
「待たせてしまいましたか」
「いや、そんなに待ってない」
「──それは良かった」
ビデオを再生しているかのようなやり取り。
彼は、手にしていた本を机の上に置き、こちらに視線を向けてくる。気怠げな雰囲気がありありと感じられる。
「用件はできるだけ手っ取り早く済ませようと思ってる」
「優等生の君は、早く自宅に帰宅したいからかい?」
自分が潰れ、自分以外の感覚が鎌首をもたげる。
意趣返しに返した言葉は、しかし彼の感情を揺るがせることはできなかったらしく、一つ肯定を示す相槌を打つと、じとりと目を合わせてきた。
「お前が何を悩んでいるのか、何を知ってほしいのかなんて皆目検討もつかん。俺は、お前じゃないからな」
ぴたりと、思考が止まる。
「ましてや、松永由里って自分を自棄している奴の気持ちなんざ、いくら考えたところで理解できん」
まるで核心に至っているような言いように、脳が理解を拒んだ。
いや、そう思っているだけで、こうして理解を拒んでいる時点で自分自身、その感情を抱いていると、嫌でも理解させられる。
「──どうして」
「あん?」
「どうして、貴方が!」
呟かずにはいられなかった。問わずにはいられなかった。
「どうして、か」
その呟きに、彼を見る。
合っていた視線はそのままに、意識だけが心奥へと沈み込んでいた。
いつの間にか、胸の前で両手を握りしめていた。そこに黄金の輝きはなく、底知れぬ感覚だけが掌の中で震えているだけだった。
「見えるんだよ」
そして彼は無造作に指を突き付けてくる。
ゆらゆらと、法則性の見受けられないその動きは、確かに何かをなぞっているようにも見えた。
「……見える?」
「これ以上足下を揺らしてほしくないから言うが――
彼が何を言っているのか理解できない。
――お前の親父さんが」
ただ、その一言だけは、しっかりと理解することはできた。
「お、父様?」
「確かに、お前さんの親父さんは大層な人だ。新聞には大きく取り上げられて、テレビにも出演して。まさに、今の時代を時めく時の人ってな」
目線を上に、大袈裟に肩を上下に大きく息を吐き出した。
どうしてそこで父親の名前が出てくるのか。
ただ一度だけ、直接嫌いと口にしただけなのに、何をこの人は理解したのだろうか。
「一人娘として産まれて育って、それだけでも俺はスゲェって思うが、どう見ても厳しそうな人だしな。巌って名前もそうだが、他人の思惑なんざ頑として聞かなそうだし」
おもむろに立ち上がった彼は、女子の中でも少し背が高い私よりも少し大きい。
肩を落とし、右に顔を傾けたまま見下ろしてくるその姿には気負ったものはなく、脱力したまま普段通りに言葉を紡ぐ。
「だけど、そうまでしてお前が自分の心を絞め殺してんのは何でだ?」
それなのに、普段通りの彼の言葉は心に突き刺さる。
「貴方なんかに……貴方なんかに私の気持ちが分かるはずないっ!」
「ああ分からん。人の気持ちなんて理解できん。分かんねぇから聞いてんだ」
不真面目そうに見えるのに、瞳をのぞき込んでくるその眼差しは、ただまっすぐに私の心を見つめていた。
「なんで」
視線を落とし、問いかける。
「ん?」
「私は、貴方のことを嫌いって言ったのに、どうして……」
力なく、蚊の鳴くような声で。
恐い──何を言われるのだろうかと、ぎゅっと握った掌が少しばかり汗ばんでいた。
「あんな破れかぶれの言葉を、俺が真に受けると思ってんのか?」
そんな想いは一瞬で脆くも崩れ落ちた。
落としていた視線を戻し、彼を見る。何も変わりないその表情は、きょとんとしているようにも思えた。
まるで、覚悟すること自体が馬鹿らしいとでも言っているようで──何となく、嬉しかった。
「ほんと、ひどい人……」
さっきと同じぐらい弱々しい声で呟く。
ただ、その声はもう震えていなかった。
──松永家はね、今でこそあんなに大きな財閥まで成長したけど、昔は小さな庄屋だったとも武家だったとも言われてるの。
でも、いつからか松永の血筋は商人のそれを見出すようになってから小さな店を持つようになって、次第にそれは大きくなっていった。
大戦があったとき、運悪く店はその影響を大きく受けてしまった。
だけど、代々受け継がれてきたその店を、私のお爺様たちは無くなってしまうのを拒んだ。
その中でも、お爺様と父様の財力運営に関する能力は群を抜いていた。
教科書の一ページを朗読するようにすらすらと語り出した彼女は、そこで一息吐くと、ゆっくりと顔を上げ、見つめてきた。
落ち行く陽射しは彼女の瞳の中で俺を写している。
「……私は、ただ父様の言うとおりに生きていくことしかできなかった」
ぽつりと漏れたその言葉は、空虚の儚さを漂わせていた。
「私の中で、『父』は絶対的な存在で、あらかじめ敷かれてあるレールに従って前へ進むことしかできない私は、自分でしたいことを決めることはできなかった」
見上げてきていた双眸は細められ、粉雪のように白く染め上げられた柔肌には、深い溝が刻み込まれている。
「だから、私は貴方が嫌いなのっ」
吐き出すように絞り出された言葉は、拒絶の感情を色濃く含んでいた。
「自由に生きることができるのに、なのに、貴方は何にもしてない!」
それは、彼女が見せた初めての感情の昂ぶり。
大きく肥大した感情は、今まで歩んできた人生の中で培ってきた自己を揺るがすには十分すぎるほど大きな波となる。
「縛るモノなんて無い! 自由に青春を謳歌することだってできるのに、貴方は……」
「そうだな」
今までの弱々しさが嘘のように、綺麗に整った黒髪が左右に揺らめくことも厭わず、掴みかからんとばかりに一歩近づいた。
だが、それでも俺は揺るがない。
「俺は、運動をしようとは思わないし、一般的に青春と呼ばれているものを謳歌しようとも思わない」
こんな言い方すればこいつのことだ。勘違いして、目に見えて激昂するに違いない。
だが、そんな事で揺らぐわけにはいかない。
「──ッ!」
「だがな、勘違いするなよ」
今にも掴みかかってこようとしているこいつと睨み合う。
「何かに縛られて生きてるのは、テメェだけじゃねぇってな」
「そう……よね「だけど、俺は自由だ」……え?」
矛盾してる。そんな事は自分でもわかってる。
別に言葉遊びがしたいわけでもないが――
「お前は、その縛り付けてくるモノに反発したことはあるか? 抗おうとしたことはあるのか? 自分の足で歩こうとすらしてないなら、ただの操り人形だ」
――松永由里を見てると、子供の頃に見た人形劇でも見てるようだった。
父親に言われるがままに歩んできた人生。中には興味を持ったものもあるだろう、強制的にやらされる御家事。まぁ、この辺りは想像でしかないが、大体そんなところだろう。
手足に繋がれている糸に従い、あらかじめ定められている台本に沿って意のままに操られる。
このまま何もせずにいれば、ずっと父親と言う糸に縛られて生きていくことになるのだろう。
――どう言うわけか、昔から人の悩みを目で見て取ることができた。
人によって形は違うけれど、その悩みは大きければ大きいほど明確に表に出てくる。
何度も何度も、遠く離れた場所からほんの少し離れた隣まで、様々なところで人の悩みにさらされてきた。
悩みというのは、存外、本人がそう思って無くとも表に出ていることがある。
辛い、苦しい、悲しい、怒り。
心の奥に生まれる小さな気泡は小波で、熱が通るほどに波紋は広がる。
それは、些細な癖となって目につくようになる。
近くにいる人間との関係がより親しいほど、その波は、船が揺られるほどに感じやすい。
近ければ近いほどに波は大きく、乗客の数が多いほど、搬送途中の物資が多ければ多く、重ければ重いほどに動揺もまたおおきなものとなる。
それを救いだそうとするか、目の前の最小限を守るに限るか、見限るか。
それは、悩んでいる本人が決めるものではない。
本人はただひたすらに荒波の中心から遠ざかり、溺れてしまわぬよう立ち向かい、逃げているのだから。
──なら俺は、彼女に救いの手を差し伸べてやるべきなのか?
「それは、ダメだ」
「え?」
怪訝そうに、弱々しい眼差しで見上げてくる。
微かに揺れ動く瞳に映るは夢かうつつか、揺らめく幻想か。
「俺は、何もできない」
「……そう、よね」
「ただ、これだけは言ってやれることがある」
意気消沈したように項垂れている彼女に、性に合わないが優しく話しかける。
「人に、俺に悩みを打ち明けることができたお前さんは、もう自分の中で自分なりの答えでも見出してるんだろう?」
彼女の瞳をのぞき込む。
しっかりと自分の意志で頷いた彼女を縛る彼の姿は、もうどこにも見あたらない。
──俺の話はこれでお仕舞い。
机の脇にぶら下がった鞄を持ち上げ歩き出す。
陽が落ち、暗闇に包まれつつある教室を、微かに射し込む光をもとに踏み締める。
そのまま彼女の脇を通り過ぎようとして、ああ、そうだと呟いた。
「鏡があったら自分の顔見てみな」
きょとんとしたその表情に、いつもの凛とした雰囲気は感じられない。
「良い顔してんじゃねぇか」
解決したわけでもない悩みを背負った少女の顔に、決意が灯る。
人は誰しもが悩み、波に飲まれその場で足踏みをする。
生きとし生けるもの誰もが抱える悩みを他人が解決することなんてできっこない。だが、その悩みを解決するきっかけを作ってやることぐらいはできる。
……誰もが人の悩みに気付ける訳じゃない。
だから、人よりも波に囚われている俺が、荒波に浚われそうになっている人を、
「それにしてもまさか貴方に、ね」
「なんだ、不満か?」
「いえ、そんな事ないわ。むしろ、貴方に話を聞いてもらってスッとしたわ」
そう言う彼女の口元には笑みが浮かんでいた。
荒々しかった波は治まり、周囲は穏やかに凪いでいる。幾ばくか感じられるさざ波は、これからの事に対しての不安だろう。
まぁ、あれだけ嫌いだ嫌いだと言った男に悩みをぶちまける事になるなんて思ってもないだろうしな。何はともあれ、
「そいつぁ良かった」
俺としても気分が悪くなる原因が無くなってくれて万々歳だ。それで人の悩みを解決できたのだから。
思わず口角が吊り上がる。
「──うん」
「ん? どうした?」
「あ、え、なっななんでもない!」
何気ない問い掛けにあたふたする彼女を見て不思議がる。何分、心の揺れが少ないだけにそう感じざるを得ない。
不可思議な動きをした彼女はそのまま逃げるように走っていった。
あんな姿、他の誰かが見たら卒倒するだろうなと、他人事のように感じていた。
あれからしばらく彼女は学校を休んだ。
風邪。ただそれだけしか壇上の教師は語らない。それ以上の事は誰も知りようがなかった。
あの時仲が良さそうに見えた同級生たちは最初こそは心配していたものの、今ではその影も見えない。仕舞いにはありもしない妄想を語らっては盛り上がるだけ。
その家柄と親父殿の存在に振り回されてる所を見て、俺は笑った。
6日目には皆、日常に戻った。
7日目に、彼女は来た。
ざわざわする教室。1週間経ってから見た彼女は、誰が見ても分かるぐらいに頬がやつれていた。
それを一瞥して笑う。
いくらか痩けている頬とは裏腹に活力を感じさせる眼光に。
周りの騒々しさを遮るようにイヤホンを付ける。外耳を通って鼓膜を振動させる音が、波に飲まれた俺を癒してくれる。
そんな気がする。
──音が遠退き、雑音が混じり混む。
「何すんだ」
元凶を見上げ、その手に握られたイヤホンが視界に入る。そこには、親父殿の影も形もない松永由里が立っている。
気持ちの良いどや顔である。
遠巻きから集まる視線。静まり返る教室。まさに嵐の前の静けさのようで、気が滅入る。
「貴方のお蔭で私はここにいるわ」
「ああそうかい」
「……それだけ?」
眉をひそめ合う。
何を言えば良いのやら。訳も分からず返答したが、その返答が気に食わなかったのか、少しばかりムッとしている。
が、何か悪いことでも思い付いたのか、口元がニヤついた。
「悪い顔してるな」
「べ、別にそんな顔してないわ」
「何を思い付いたんだ?」
「……まぁ、良いわ。こうなったのは貴方のせい」
全身に波が打ち付けられた。
中でも一番の波濤は、いつしか俺に彼女のことをこと細かく教えてくれた奴だった。
何に対して嫉妬を感じていると言うのだ。どうせだ。どんどん足元の地面が削がれていく感覚を味会わせてやろうか。
「はぁぁぁ」
見せ付けるように長い溜め息を吐く。
面白いように笑顔が引き攣った。
それを見て、少しだけ溜飲が下がった。
「あぁ……面倒だ」
今にも爆発しそうな皆さま方は、横向き大瀑布の称号を冠する事ができそうだ。
無論、俺の中での話でしか無いんだがな。
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