第14話




―――1992年秋、煌武院家

 唯依が、悠陽付きとして、煌武院家に住み込むようになってから、一月以上たった。
 その間、衛士訓練校に行くための準備として、座学や剣術、果ては煌武院が所有する戦術機シミュレータで訓練に励んでいる唯依であった。
 聞けば、赤以上の名家の子弟は、訓練校に行く前に自家にて基本的な訓練は一通り終わらせてしまっているらしい。篁家の本来の資産規模からすれば、私的にシミュレータに乗ることなど考えられなかったこと。何でもないかのように、その機会を与えてくれた悠陽様に感謝してもしきれない、と唯依は思う。かくなるうえは、一日も早く立派な斯衛軍の一員となって、悠陽様の恩に報いなければ、と。

「……迅雷の高速機動にも大分慣れてきたようだな。そなた、なかなかに良い筋をしておる。この調子で訓練に励めば、訓練校で他の衛士候補に負けることはまずあるまい」
 唯依とのシミュレータ訓練後、汗を拭いながらシミュレータから降りてくる悠陽。唯依とエレメントを組んで、対BETA地上戦闘プログラムをすすめていたのであった。唯依を突撃前衛としてBETAに突っ込ませてみたところ、案の定というべきか、唯依は嬉々として長刀を用いての近接格闘戦にはいっていった。未だ周りが見えておらず、ただ前面の敵を斬ることに注意を集中しているようだが、訓練開始後わずか一ヶ月ということを考えれば、上出来であると言えよう。

「ありがとうございます。悠陽様の支援が素晴らしく、安心して突入することができました」
 同じく、汗を拭きながら、充実した表情を浮かべてシミュレータから降りてくる唯依。自分でも、戦術機をここまで動かせるのかと思うと、気分が爽快だ。篁家にいたころは、色々と悩んで悶々としていたが、煌武院家にきては悩む暇さえなく、気づけば一心不乱に前へ前へと歩み始めていた。同年代で、常に遥かな高みから己を導いてくれる悠陽を見ていると、自分の悩みなど、大したことはないのではないか。そう思ってしまうのである。
 本当の天才とは、悠陽様のような人物を言うのであろうな、と唯依は思う。自分よりも一つ年下であるのに、戦術機の腕前は斯衛最強。おまけに、あの年にして既に、戦術機開発にまで携わっている。雷電様の信頼厚く、政治上の問題が生じた際にも、雷電様に助言を与えている。

「今晩、彩峰中将が当家にお見えになる。いつものように、そなたは隣室に控え、彩峰中将のお話をうかがっておくように」

 悠陽は、唯依に命じる。

 そう。唯依には解せないことだが、悠陽はことあるごとに、煌武院家を訪れる重鎮たちと雷電らとの会談を隣室で密かに聞いておくよう、唯依に命じる。悠陽自身は勿論、毎回会談に直接参加して、自らの見解を述べている。そして、客が帰ったのち、唯依に感想を求めるのである。これには、ほとほと困ってしまう唯依であった。
 自分に期待しているからこそ、悠陽様はこのような命を下されるのだろう、ということはわかる。だが、自分は未だに10歳になったばかりの子どもにすぎない。会話の内容を理解するのに必死で、自分の意見を述べるどころの話ではない。
それでも、日米関係が少なくとも、篁の分家たちが騒ぎ立てるように単純なものではないということはわかった。

「米国が悪辣であるとか、帝国を蔑ろにしているとか。そう言って喚きたてる右翼や軍人には事欠きません。ですが、大国が傲慢なのは当たり前のこと。国家間関係においては相手に出し抜かれるほうが悪いのです。アメリカをアジア地域に繋ぎ止めて、彼らの潤沢な物資をアジアに流し込むように仕向けること。このために、我々や外務省がどれだけ苦労していることか……。口先では勇ましいことを語る彼らは、そういうことを理解できないんですよ……」
 以前、煌武院家を訪れた榊首相が、ついた溜息が唯依には忘れられない。

 篁の集会などでは、売国奴の代名詞として、口汚く罵られていた榊首相。しかし、榊を実際に見、その声を聞くと、彼らの批判があまりにも浅慮に思えてならない。榊首相が帰った後、悠陽から日米関係の現況について、丁寧に教えられると、そうした思いは一層強くなった。

 今日は、帝国軍の青年将校たちから圧倒的な信望を集めている彩峰中将が来るという。高潔な方だというけれど、国粋主義者だという話も聞く。どういう話をされるのだろうか、私には理解できるのであろうか、と思わずにはいられない唯依であった。

「唯依。午後からは、剣術の稽古をつけに、紅蓮少将がお見えになる予定だ。それまでに、昼食を終えてしまおう」
 悠陽の声にハッとする唯依。思考の海に溺れかけていたことを隠すかのように、慌てて、了解いたしました、と返答して、悠陽に続く。



 訓練でくたくたになった体を引き摺りながら、唯依は彩峰中将との晩餐が予定されている座敷の隣室に腰を下ろす。いつもながら、 同じ食事をわざわざ唯依のために隣室に手配してくれる悠陽の心遣いが嬉しい。

「ようこそお出でくださった、彩峰中将。そちらは……お話にあった沙霧少尉ですかな?」
 雷電様の声が聞こえる。どうやら、客が到着したようだ。

「左様です。副官の一人として補佐してくれております。若いのに、戦術機の腕前も随一、向上心も旺盛な好男子ですわ。今回、雷電様よりご招待預かったと話しましたところ、是非自分も出席したいとせっつかれましてな。ご迷惑かとも思いましたが、同道させることを伏してお願いした次第でございます……。沙霧」
「ハッ。彩峰中将閣下の副官を勤めさせていただいております沙霧尚哉少尉と申します。此度は、小官のたっての願いをお聞き入れくださいまして、誠にありがとうございます」
 緊張しているのであろう。硬い表情でそう挨拶する沙霧。

「私的な宴席なのだ。そう硬くなることはない、沙霧少尉。紹介しよう、これが孫の悠陽だ。先の模擬戦の映像は広く回覧されておるようだから、もしや中将も少尉もご存知やもしれぬが……」
 自慢の孫を紹介するのが嬉しくて堪らない。そういう表情を隠しもせずに、悠陽を二人に紹介する雷電。

「こちらが……。私は彩峰萩閣と申します。帝国陸軍において、中将の位を授かっております」
 悠陽の噂は耳にしたことがあるのか、あるいは彼自身、模擬戦の映像を見たことがあるのか。悠陽に向けて自己紹介をする彩峰。
 外から見ても冷静そのものの表情である彩峰に対して、沙霧はいささか興奮しながら悠陽に語りかける。
「わたしは沙霧尚哉少尉でございます。悠陽様の模擬戦の映像、拝見いたしました。よもや、戦術機であそこまでの動きができるものか、と僚友ともども驚嘆しておりましたところでございます。まさか、こうもお若いとは……」

「彩峰様、沙霧様、ようこそお越しくださいました。煌武院悠陽にございます。……模擬戦のことでございますが、わたくしは若輩者で従来の戦術機に通じておりません。それゆえ、歴戦の勇士の方々よりも少し早く迅雷の操作法に慣れることができました。ただそれだけのことかと存じます」
 淑やかな笑みを浮かべながら、躾の良さを思わせる優美な一礼をする悠陽。さすがに名門の子女である。




「雷電様、この沙霧、是非とも雷電様に申し上げたき儀がございます」
 宴も終盤に差し掛かった折、それまでほとんど会話に参加しなかった沙霧が、突然そう切り出した。

「まて。よさんか、沙霧」
 沙霧が何を言うのか、わかったのであろう。止めにはいろうとする彩峰。

「構わん。申してみよ、沙霧少尉」
 雷電は、彩峰を押さえて、沙霧の話を聞こうとする。

「されば申し上げます。現在、陸軍には二つの潮流がございます。一方は、武家や名家出身のものから構成されて、軍の主流を構成しております。そして、もう一方は、地方の貧しい農家の次男三男からなる傍流でございます。私を含め、貧しい農家の子弟には、親から継ぐべき土地もなく、地元には職もなく、かといって都会に出て学ぶだけの資金もございません。そうした者どもにとって、数少ない働き口となっているのが、陸軍なのです。軍の兵士、下士官、下級将校の大半は、こうした地方の貧困層出身の者で占められております」

「やめんか、沙霧。ここはそういうことを話す場ではない」
 なおも、止めにはいろうとする彩峰。

「彩峰。私は話を聞くと申しておる。続けよ、沙霧」
 それに対して、沙霧に話を続けるよう申し渡す雷電。

「ハッ。私どもは、軍内部においても、学がないであるとか、世界情勢を広く見ることなく狭量な右翼思想に染まっている、などと馬鹿にされてきました。五摂家をはじめとする武家の皆様方の中にも、そうお思いの方が多いことは、存知あげております」

 ですが、と彼は続ける。雷電をしかと見据えながら。そこには、例え不興を蒙ろうとも、何としても自分の主張を述べる、という真摯な覚悟が見えた。もはや、沙霧に中断させることを諦めたのであろう、彩峰も何も述べずに黙って聞いている。

「敢えて申し上げたい。郷里におります私の両親や兄弟たちは、軍事費を負担するために高額の税を納めなければならず、困苦に喘いでおります。それなのに。軍の高級将校のなかには、民の血税を横領するもの、財閥と癒着して豪遊するものが後を絶ちません。政治家や官僚の多くも、徒に米国に尻尾を振るのみで、国を真剣に憂うもの少なく、財閥から多額の賄賂を受取り、見返りに軍需物資の発注をしている始末。これでもなお、彼らに大義があると言うのでしょうか。貧困に耐えながら、なおもお国のためと血税を納めている幾千万の民のためにも。どうか、今一度大義をお示しいただきたいっ」

 決して大声で怒鳴っているわけでもない。それなのに、魂の絶叫を、唯依は確かに聞いた気がした。沙霧のあまりの想いに、脳が痺れて動かない。まだ若い唯依は、圧倒されていた。

「……して、そなたは私に何を望む、沙霧」
 雷電の静かな声が聞こえる。

「次の政威大将軍としてお立ちいただきとうございます。将軍として、再び帝国に大義を取り戻していただきとうございます」
そう言った。言い切った。

 さしもの彩峰も、あまりの発言にやや青ざめている。
「いい加減にせぬか、沙霧。先ほどから聞いておれば、埒もないことを……。雷電様、申し訳ありません。どうもこの者、酒がはいりすぎたようで、妄言を……」
 そう言って、沙霧を連れて退出しようとする。

「そなたの言いたいことはわかった、沙霧。だがな、私も今の斉御司殿下と年は変わらぬ。最近、ご体調の優れぬことが多い殿下の後に、将軍職を拝命したところで、ほとんど何もできぬうちに死ぬであろうよ」
 沙霧の主張の中身には触れずに、自分の年齢を挙げて、次期将軍就任を淡々と拒否する雷電。
 失望したかのように肩を落として退出しようとする沙霧に、彼はなおも言葉を続ける。

「だが、次期政威大将軍として誰を推すかについては、私にも考えがある。きっと、そなたも満足する人選であろうよ、沙霧」
 それ以上は語ろうとせず、雷電は黙って彩峰と沙霧を見送る。



 彼らを乗せた車が煌武院家の門を去るのを見送った後、悠陽は唯依のもとを訪れた。
「さて。今宵の沙霧殿の話、そなたはどう思いました?」
 そう問いかけてくる悠陽に対して、唯依は返す言葉を持たない。以前の榊の発言ももっともな話だと思う一方で、沙霧の血の滲むような訴えには、反論を許さない何かがあるように思われた。

 言葉に詰まる唯依に対して、悠陽は優しく語り掛ける。
「そう難しく考える必要はない。そなたは、先の榊の言葉も、今の狭霧の言葉も、どちらも正しいと思ったのであろう?ならば、どちらも正しいのだ。もう少し、自分の考えに自信を持つがよい」

――それにしても……。農村がそこまで疲弊しているとは……。そういう農村の疲弊を省みずに、財閥と癒着して国政を恣にしているかに見える政治家や官僚……。かつての沙霧のクーデターの根底には、光州事件や天元山での老婆立ち退き問題だけではなく、郷里での少年期の実体験があったのですね……。貴女はこのことを知っていましたか、ハマーン。

 悠陽も、かつての沙霧のクーデタの背景に、日本社会に潜む矛盾があると気づかされ、唇をかみ締める。

――まさか。私はこの地では異邦人。経済統計から、農村の疲弊はある程度推測できていたが、所詮それは紙の上での話。実際に現地に赴いたこともなければ、彼らの話を聞いたこともない。それでは、いかにニュータイプといえど、彼らの想いに気づくことはできんよ。我らは超能力者ではないのだ……。かつてのお前のクーデターの記憶を元に、国粋主義者どもが暴発する前に一網打尽にしてしまえばよいと思っていたが、事はそう簡単ではないかもしれんな。口先だけの右翼集団や過激な将校をのさばらせておくつもりはないが、沙霧のような者の扱いには慎重を期すべきであろう。彼の言動は非常に危うい。自らの政治的主張を掲げ、それが受け入れられないときは実力行使に踏み切ることに躊躇しないかもしれぬ。だが、同時に、彼は軍部の土台を支える農村出身軍人の代表のようなもの。彼は、言ってみれば、陸軍下部の空気を反映するリトマス試験紙のような存在なのかもしれぬ。

淡々と分析するハマーン。

――またクーデタを起こされては適いませんから、早々に斬り捨ててしまおうとも考えていましたが、難しそうですね。
 悠陽も、沙霧をどう扱えばよいか、と苦慮する。実際に沙霧にクーデタを起こされたという経験は、彼女の心に深い傷痕を残していた。
――むしろ、彼を切り捨てることで、農村部出身の過激な将校たちの見解を知るチャンネルを一つ失うことになり、マイナスになるかもしれぬ。彼らに不穏な空気が流れたとしても、沙霧を通じて早い段階で動向をキャッチできるであろう。あと、もう一点気になっているのは、彩峰だ。彼は青年将校からの信望厚いというが、単に彩峰の人格に由来するものだというより、実は彩峰も沙霧らに近い思想を持っているからなのではないか、という気がする。

 ハマーンにしても、かつて叛乱によって窮地に追い込まれた経験を持つ。主義主張はどうあれ、潜在的叛乱分子に向ける視線は厳しいものがあった。

――さらに気になるのは、沙霧が口にしていた、陸軍中央のエリートたちと、実働部隊に勤務する農村出身の叩き上げの間の対立だ。軍事行動がない現在でさえ、そうした対立があるのだ。実際に戦闘が開始され、現場を知らない陸大出の参謀本部作戦課のエリートたちが、実情にそぐわない作戦を立案して、現場に無用な損害を出してみろ。恐らく、沙霧のような多くの農村出身の将校たちは、陸軍中央に対して強い憤りを覚えることだろう。まして、そうした中央のエリートたちの出自が、武家や名家で固められているとあっては、容易に政治問題に転化しかねない。

――なるほど……。陸軍内部にも課題は山積みなようですね……。
 頭が痛い、とつぶやく悠陽。

 いきなり黙ったきり、考えこんでいる風の悠陽を前に、どうしたのだろう、と唯依は首をかしげる。

 唯依の動きに気づいたのか、悠陽は話を続ける。

「わたくしは思うのですよ、唯依。本当に、財閥と癒着している腐敗した政治家や官僚を一掃するだけで帝国が改善するのであれば、さぞ楽なことでしょうね、と。勿論、日本の国益を顧みずに米国の代弁者として振舞う者や、賄賂にしか興味のない俗物どもをのさばらせておくつもりはありません。ですが、恐らく問題はもっと深いところにあります。かつて、日本には軍備増強を支えるだけの経済力がなかったのです。そこで、歴代帝国政府は、農民から搾取した血税を、工業基盤拡充のための原資としてきたのです。少数の財閥による寡占状態は好ましくないと知りつつも。その結果、御剣をはじめとする各財閥は、国産戦術機を作り上げることができるだけの技術力を獲得しました。言わば、農村こそが帝国の発展を支えてきた最大の功労者なのです」

ですが、と悠陽は続ける。

「帝国発展を支えてきた農村も、もう限界がきているのかもしれません。世界有数の穀倉地帯であるソ連の黒土地帯は既に失われ、大陸ヨーロッパも今やBETAの支配下。日本にも、中国の対BETA戦線で使用された核兵器や重金属で汚染された黄砂が飛来していて、雨水や土壌の汚染が深刻になりつつあります。このままでは、近いうちに食品安全基準を遥かに上回る汚染物質が農産物から検出されるようになるかもしれません。そうなっては、農家が本当に破産してしまいます。そして、最も重要な戦略物資である食糧が調達できなくなったとき、国は滅びの道をたどることになります」

 だからそうなる前に手を打つ必要がある、と悠陽。

「御剣では、現在最新の水耕栽培プラントを開発しています。また、当面は軍用食や非常食用として、たんぱく質合成プラント技術開発も急がせています。これは、植物プランクトンと動物プランクトンを培養して、そこから動物性及び植物性たんぱく質を抽出するというものです。味はお世辞にも良いとは言えませんが、必要な栄養は補給できます。農村部には、これらの農業プラントを建設して、農業生産が不可能になったときに、スムーズにプラントによって農業生産を代替できるように準備を整えておく必要があるでしょう。そして、農家の方々にはプラントで働いてもらうことになるでしょう。彼らの農地への愛情を思えば、心苦しいですが、年々ひどくなる黄砂の汚染を考えると、他に打つ手はなさそうです」

 早急に農村対策をとっておかないと、農村を壊滅させることになり、農村部出身の沙霧のような将校を暴走させることになりかねませんしね、と語る悠陽。

 唯依は、あまりの内容に反応することさえできない。
 そもそも、将来国政に参加することもないであろう、中流武家出身の自分に、どうしてこのような話をするのだろう、と思う。

 その答えは、悠陽からあっさり告げられる。
「何で自分にそんなことを話すのか、という顔をしていますね、唯依。決まっているでしょう。そなたにも、わたくしの片腕として手伝ってもらいますからね。そのために、こうして毎晩のように、政治の勉強をしてもらっているのですから」

「む、無理です、悠陽様。私は所詮、譜代の武家に過ぎません……」
 絶句して、それから大慌てで無理だと告げる唯依。

 しかし、そんなことに頓着する悠陽ではなかった。
「すぐ思考が後ろ向きにはるのは、そなたの悪い癖ですね、唯依。無理かどうかは問題ではないのです。要はやるかやらないかです。大体、ここまで色々と極秘情報を聞いておきながら、今更普通の武家として平穏な人生を送れるとでも思っているのですか」
 存外迂闊ですね、そなた、と素晴らしい笑みを浮かべながら語る悠陽。いつの間にか、手はしっかりと唯依の肩の上に置かれ、逃げることもままならない。

 もしかして、自分ははめられたのだろうか。そう自問する唯依。
 その唯依の頭を両手で挟むように押えて、表情を改めながら悠陽は語りかける。唇が触れ合わんばかりに、顔を近づけながら。
「帝国を改革し、BETAに勝つことができる国にするために、わたくしは政威大将軍になります。ですが、わたくしは未だ若く、本当に信頼できるものはほとんどおりません。どうか、わたくしの傍にあって、わたくしを助けてはくれないでしょうか、唯依」

 悠陽は、不安そうに、縋るかのように、潤んだ瞳で唯依を見つめる。

「無理にとは申しません……。駄目……でしょうか……」

 泣きそうな顔でそう続ける悠陽を前に、唯依は動けない。
 この方は、本当に帝国のことを憂えておられる。そして、将来は将軍として帝国を導く覚悟を決めておられる。私よりも年下だというのに……。この天才にとっても、将軍の座はあまりにも重いのであろう。ひどく不安そうにしておられる。そして、この私に助けを求めておられる。
 ならば、と唯依は思う。ここで、お助けせずして、どうして武家を名乗れようか。
 唯依は、そう覚悟を決める。
 残念ながら、老練な名女優の演技を見破るには、彼女はあまりにも人生経験が足りなかった。

「私でよろしければ。この一命にかけましても、悠陽様におつかえいたします」
 真剣な表情で、やや青ざめながらも、そう返答する唯依。心の中で、叔父様申し訳ありません、と謝罪しながら。

「ありがとう。唯依」
 思わず、という形で唯依に抱きつく悠陽。

 そのとき、不幸にして、唯依は悠陽が浮かべた表情を見ることができなかった。
 手駒が一匹確保できた、とでもいうかのように晴れ晴れと黒い笑みを浮かべる悠陽を。
 唯依は、悠陽の本性を看破する最初で最後の機会を失したのかもしれなかった。



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