第25話



 寒風が音をたてて軒下を吹き抜ける。
 月齢16の満月が銀色の輝きを放ち、冴え渡る煌めきが大地を凍りつかせる。

 前の晩、帝都に初めて霜が降りた。
 比叡の山を走り抜けた息吹は、初霜の冷気を含んで湾にぬける。

 長い冬がはじまろうとしていた。


 庭に下りた悠陽は、しばし寒風に身を任せていた。
 連日続いた軌道降下訓練は、いまだ発展途上の悠陽の肉体には厳しいものであった。
 筋肉は熱をもって悠陽をさいなみ、骨は髄から疲労を訴える。
 
 戦術機操縦はハマーンに委ねておいて問題ないはずであったが、その当人から訓練を積むよう促された。10日前に10歳を迎えたばかりという身体的なハンディキャップがあったにもかかわらず、悠陽は降下訓練もハイヴ突入演習も問題なくこなしていた。ハマーンの力を一切借りずに行ったはずなのに、彼女から及第点をもらえるほどに優れた戦績であった。

 やはりな、というハマーンの言葉が脳裏に蘇る。
 二人が深層意識レベルでつながっていて、両者の経験が肉体にもフィードバックされている可能性がある。これが彼女の推論であった。この推測を確かめ、識域下で共有されている体験を反復訓練によって悠陽自身のものとすること。これが、ボパールハイヴ攻略作戦開始までに、悠陽が成し遂げなければならないことであった。

 ソ連特殊情報部隊とともにハイヴに潜るとは、多数のリーディング能力者に思考を読まれる可能性があるということである。戦術機操縦中の衛士をリーディングしたところで大した情報が得られるとも思えないが、念には念を入れておいた方がよい。場合によっては悠陽自身が戦術機を操るかもしれない。だからこその訓練であった。


 冬の気配を伝える凩が、火照った悠陽の神経を冷ます。

 一月前に、ソ連のコルニエンコ書記長と悠陽との間で、インド派兵をめぐる合意が成立した。ソ連政府と日本政府との間の正式協定ではないから、国際法上の効力はない。スワラージ作戦の延期および斯衛軍参戦承認と引き換えに御剣製技術を提供するというもので、技術協力分野は多岐にわたった。

 さらに悠陽は、米軍需産業への技術協力を餌に米議会のロビー団体を動かし、スワラージ作戦への米軍派遣を勝ち取った。
 地上での作戦についてはインド軍および国連軍に一任されるものの、ハイヴ突入部隊の主力は日米ソの戦術機部隊が担うことになる。

 この取り決めに日本政府は公式には参加していない。帝国軍中枢はインド派兵で得られる国防上の利益は少ないとしてスワラージ作戦参加に反対した。国連安保理では、中国戦線への日本帝国軍派遣を求める声が強くなっており、軍部としては中国大陸防衛を前に、インドに兵を出す余裕はなかった。外務省も、ソ連と公式な協力関係を持ってはアメリカに痛くもない腹を探られることになりかねないとの考えから、スワラージ作戦への介入には消極的であった。出兵費用捻出に苦慮した財務省も、これ以上赤字国債を乱発できないと判断し、財政的観点からインド派兵に反対した。

 帝国軍派兵は好ましくないと判断した榊首相は、悠陽のシナリオを受け容れて、斯衛軍のインド派兵を黙認するという決断を下した。斯衛は将軍の護衛に過ぎず、帝国首相の管轄外にある。人類全体の大義ために将軍が斯衛を派遣するが、これに日本帝国政府は一切関わっていないというアピールである。スワラージ作戦をめぐっては、日本はおろか米国内部でも見解が割れており、榊の決定は最も波風の立たないものであった。



 悠陽の脳裏には、スワラージ作戦をめぐる各方面との利害調整に奔走した榊首相の忠告が蘇る。

「スワラージ作戦を何としても成功させなければならず、そのためには斯衛軍部隊によるハイヴ突入が有効だという悠陽様のお考えは理解できます。ですが、その下準備のために手札を切りすぎです。アメリカはおろかソ連やインドにまで、新技術を惜しげもなく……。御剣が持っている技術力は、もはや一企業の問題はありません。帝国の国益にも直結しているのです。そこのところをもう少しご理解いただけませんか?」
 祖父の雷電をまじえた三者の会合の席上、榊は苦言を呈した。

「ご懸念はもっとものことと思います、榊首相。帝国政府の一部に、今回の御剣の行動にかなり強い反発があることも理解しております。国産技術を他国に売り払うなどけしからんと煽動する者が後を絶たないようですね。ですが、敢えて言わせていただければ、人類はこれ以上失敗できません。これ以上時を無駄にする余裕は、我々にはないのです。戦術面で進化著しいBETAの攻勢をこれ以上許しては、人類は挽回の機会を永久に失することになります。もうお聞き及びのことと思いますが、BETAは母艦級群による地中侵攻を戦術の基本に据えてきています。人類は、地中に対する攻撃手段を持たないどころか、母艦級の接近を察知することすらできません。母艦級を相手にしては、従来の陣地戦、防衛戦は不可能なのです。どれほど堅固な防衛線を敷こうとも、最終的には北欧戦線の二の舞になります。BETAの侵攻を遅滞させるためにできることは、攻勢しかありません。すなわち、ハイヴの間引きか、ハイヴ攻略です。もはや、帝国の威信がどうのと言っている段階ではないのです」
 サファイアよりもなお深い群青の瞳が榊を射すくめる。決意の光がやどった双眸が見据えるのは人類の未来のみ。

「悠陽様の指摘は、おそらくは正しいのでしょう。ですが、それでも帝国内の動向にもっと注意されるべきです。いま帝国内では、幕末の尊王攘夷もかくやというくらい、国粋主義的な気運が高まっております。帝国政府高官や武家の一部にも、排外主義に呼応する動きあります。足元をおろそかにしては、勝てる戦も勝てなくなりますぞ」

 悠陽の鋭い眼光を、榊は真っ正面から受けた。視線が互いの網膜に突き刺さる。まるで無言の仕合のよう。

 先に視線を和らげたのは、悠陽であった。
「まったく困ったものです……。御剣は他の財閥系企業とは違います。技術開発に国費は一切投入されていません。一民間企業が開発した技術をどう使おうが、国が関知するところではないでしょうに。だいたい、アメリカとてソ連にレンドリースで大量に技術を提供しているはずです。人類全体が滅びの危機に瀕している現在、新技術は交渉の道具にはなり得ても、技術を秘匿すること自体に意味はないでしょう」

 悠陽は、幼い貌に似つかわしくないため息をつく。帝国内の反対派をどうにか懐柔できればいいのだが、米ソと調整しながらスワラージ作戦に備える悠陽に、そこまでの余裕はない。

「悠陽様、問題は反対派の論理が正しいかどうかではありません。悠陽様の主張に賛同しない者が政権や軍内で無視しえないほどになっていることが問題なのです」

「たしかに、彼らは帝国内で活動を活発化させています。民間右翼や新聞も色々煽っているようですね。ですが、今の彼らに果たして私たちの動きを妨害できるだけの力があるのでしょうか? 必要以上に彼らの動きを警戒しては、身動きがとれなくなります。もはや、彼らの感情的な議論に付き合っているだけのゆとりはありません」

「悠陽様……。政治では、敵をできる限り減らすことこそ肝要なのです。先ほどから『彼ら』と仰っていますが、その『彼ら』とて一枚岩ではありません。悠陽様に内心で反対している政府高官の多くは、悠陽様の目標自体を問題にしているのではありません。彼らの多くは極端な右翼や国粋主義者とは異なります。公に日本政府を通すことなく、御剣財閥を経由して米ソ主要国政府と取引していることに反発しているのです。今では御剣財閥が第二の外務省と言ってもよいほどの対外的プレゼンスをほこっています。右翼的ではない官僚は、政府への政策の一元化を望んでいるだけなのです。そして、私もこの見解は一理あると考えております。悠陽様、どうか日本政府を通じて他国と交渉していただきたい」

 日本政府を蔑ろにしないでほしいという榊の懇願をうけて、悠陽は深く嘆息する。

「榊首相、それでは遅いのです。官僚機構の意志決定にどれほどの時間がかかるか、首相こそよくご存じのはずです。対外政策の一つ一つについて、外務省や国防省などで意見調整をし、主立った与党議員の賛成をとりつけて、アメリカと調整する。そんなことをやっていては、スワラージ作戦は半年は遅れるでしょう。そして、その間にBETAはインドを呑み込んでしまうでしょう」
 悠陽は音を立てずにお茶を啜り、言葉を続ける。

「もちろん、榊首相が警戒しておられることにも一理あります。問題は国粋主義勢力それ自体ではなくて、私なのでしょう?」

 サファイアの双眸が一際強い輝きを放ち、榊の神経に突き刺さる。

「や、そこまでは申しておりませんぞ、悠陽様」
 榊が狼狽を隠すかのように反論する。

「いえ、いいのです。民主政体では、政府の意志決定はどうしても遅くなります。これを回避するには、普通は、挙国一致内閣を作り反対勢力を一時的に封じるか、あるいは民主主義そのものを停止するかしかありません。軍部や武家の主流派が望んでいるのはこれでしょう。彼らは政治に介入する機会を虎視眈々と狙ってきましたからね。そして……皮肉な話ですが、私は彼らにとって希望の星でもあるわけです。榊首相は国粋主義派の勢力を随分危険視しておられますが、彼らは軍部や武家の極一部にすぎません。大多数は軍事政権を望んでいるだけでしょう。そして、現政府を揺さぶる上で、御剣財閥と私の存在は、彼らにとってまたとない材料なのでしょう。何せ、帝国政府を介さずに外国政府と交渉できるとあっては、帝国政府の権威が損なわれますから。だからこそ、首相は、御剣の、そして私の外交上の最大の武器である対外的な技術供与を封じようとしておられるのでしょう?」

 榊から好々爺然とした柔らかい表情が消えた。
 少女を宥め賺すための仮面が剥がされた。
 代わりに現れたのは、政敵と言葉で切り結ぶ政治家の素顔。

「そこまでお分かりならば、言葉を取り繕ってもはじまりませんな。仰るとおりです。ただでさえ、政府は軍部と米国に挟まれて身動きがとれなくなっております。その政府の行動を軟弱だと新聞が書き立てて世論を煽っております。ですが、もし現政府を倒壊に追い込んだとして、国民を待ち受けているのは、さらに脆弱な政権か――軍事政権です。軍部には、次期首相を軍人から選ぶべきだという声さえあります。ですが、彼らのような視野の狭い者に政治権力を譲り渡してしまっては、日本帝国はBETAが攻め寄せてくる前に崩壊します。それを阻止するためには、現政権を維持するしか手はありません。そのための障害となりつつあるのが、悠陽様、貴女なのです。貴女と御剣財閥が帝国政府の決定を待たずに次々に米ソと合意を取り付けていることは、少し注意深い者ならば知っております。おかげで、現政府の対外交渉力は低下の一途をたどっております。御剣の技術を欲する国は、帝国政府ではなく御剣財閥と交渉し、対価として外交的な便宜を図ることも多い。国民からは、帝国外務省は御剣よりも対外交渉が遅くて下手だと非難されます。軍部は議会制民主主義に対する不満を露骨に表明するようになりました。こんな有様では、日本の国益を真に守ることなど、到底出来ません」

 榊は一気に心情を吐露した。

 悠陽は憤りを露わにする榊の言に静かに耳を傾ける。自らの政策が帝国政府にとって有害だと批判されているのに、濡れたサファイアの瞳に動揺は見られない。

「首相のご指摘はもっともです。戦前の軍部と外務省の確執を見るまでもなく、二重外交は国家の対外戦略破綻のもと。そのことは、重々承知しております。ですが――繰り返しになりますが、インド大陸は、今失われようとしているのです。BETAは今、戦術を大幅に変化させているのです。問題は将来の政府形態などではなく、今なのです。今ここでBETAの侵攻を食い止められなければ、人類に未来はありません。政争に時を費やすゆとりは、今の人類にはありません。榊首相、スワラージ作戦成功の暁には私は将軍職を継ぎます。そうなれば、建前の上では全権代行の承認のもとで御剣は行動することになり、問題は自然と解消します」

 結局のところ、二人とも目標とするところは同じでありながら、手段が異なっていた。あくまでも帝国政府による政策の一元化を求め、軍部や武家の台頭を警戒する榊。民主主義の護持を最優先する榊の主張に理解を示しつつも、BETAに対するためには、ときには帝国議会および政府を迂回して即決即断する必要があると考える悠陽。






 悠陽を説得することが適わなかったと消沈しながら帰った榊の背中が思い起こされる。悠陽とて、自分の判断が最善だと確信を持っているわけではない。軍部によるクーデタを体験している身として、帝国政府の権威を不必要に貶める真似をしては、我が身を滅ぼすことにつながるということも理解している。けれども、BETAが今までよりもはるかに進化し強大化している現実を前にしては――

――そろそろ室内に引き上げたらどうだ? 今晩は冷える。風邪をひいては元も子もないぞ。
――ええ、そうですね。
 ハマーンにそう応じて、くるりと踵を返す。

 天を仰ぎ見れば、凍てついた銀月が、地表の熱を奪わんとして、燦然と輝いていた。














「これが国防省が作成した中国派遣軍人事の素案だ」
 そう言って長田軍務局長は、長田の執務室に出頭した東条中佐に、ファイルを手渡した。

 帝国軍の中国大陸派遣については、未だ帝国政府の正式決定はない。だが、国連からの圧力および帝国軍の新たな国防方針からして、中国派兵は時間の問題であった。長田は、国防省で派兵規模、期間、人員等について検討させ、その素案を東条にも見せたのである。

「ハッ。拝見させていただきます」
 恭しくファイルを受け取り、リストを一瞥した東条は、驚愕を抑えることができなかった。
「これは……。中国派遣軍司令官に彩峰中将、参謀長に真崎大佐、派遣軍主力を帝都防衛にあたっている第一師団より抽出。おそれながら、これでは彩峰中将と正面から衝突することになりはしませんか?」

「きゃつらは反対するであろうな。だが、人事権を握っておるのは、我らだ。反対はさせんよ」
 長田は泰然と答える。

 その一言で、東条は長田の意図を悟る。これは、非主流派を大陸派遣軍に押し込めて、いわば「島流し」にしてしまうという軍内部の謀略。これで、軍中央は完全に長田や梅田参謀総長を中心とする主流派の手に渡る。

 だが、長田がこれを東条に見せる意図が理解できない。東条は、出世したとはいえ、参謀本部作戦部作戦課長。参謀本部では出世街道に乗ったと言えるが、この手の謀略に手を染めたことはない。東条自身、主流派に属してはいるが、積極的に派閥抗争に没頭しているわけでもない。

「ふむ。なぜ貴様にこのリストを見せたのか、理解できぬという顔をしておるな」
「ハッ。申し訳ありませぬ」
「此度の中国派遣軍だが、確実に大敗するだろう」
「は?」
 東条は、あまりな言葉に絶句する。

「まあ、聞け。現在の帝国軍には対BETA戦闘経験は皆無に等しい。それでいて、斯衛にできて帝国軍にできんはずはないという驕りがある。敵であるBETAを見下し、己を過大に評価しておっては、勝てる戦も勝てんよ。だが、勝てんなら勝てんなりに、戦闘情報を持ち帰ってもらわねばならん。儂が派遣軍に求めるのは、大敗に他ならん。大敗によって軍の弛んだ空気は引き締まり、派遣軍を率いた彩峰らの信望は失墜する。さすれば、儂らが今までよりも軍の方針を主導できるようになる」

 呆気にとられている東条を前に、長田は腹の内を吐露する。
「軍中央の意思統一を図る、これが第一段階だ。だが、これだけでは高度な国防体制を築くことは出来ん。政府が軍を完全に抑えておるからな。しかも、きゃつらに首尾一貫した国防方針があるのかと思えば、それもない。ただ日々の政務に汲々としておるだけだ」
 そこでだ、と長田は話を続ける。

「軍が国防体制構築の中心であらねばならん。そのためには、現政府が邪魔だ」
 口がカラカラに渇いている。東条は、唾を飲み込もうとして、失敗した。ここから先は、危険だ。脳内で警報が鳴り響く。だが、長田を遮る言葉は口から出てこない。人形よろしく長田の前に立ちすくむことしかできない。

 そんな神経質な東条を見て、長田は苦笑する。
「まあ、そう固くなるな、東条。何もクーデタを起こせなどと言っておるわけではない。むしろ、そんなことを考えておるのは、彩峰を崇める隊付将校であろうよ」

 クーデタという言葉に肩をふるわせる東条を長田は注視する。

「軍主導で国防体制を作り上げる上で緊要なのは、できる限り速やかに悠陽様に将軍職に就いていただくことだ。悠陽様に対する国民の支持は絶大だ。しかも、軍事にお詳しい。御剣財閥以外の軍需企業は反対するだろうが、そんなことは大した問題ではない。悠陽様が将軍になれば、必ずや国防体制強化に賛同してくださるだろう。次の選挙で悠陽様が押す人物が首相になれば、帝国政府を一新できる。クーデタなどという失敗が目に見えておるものに手を出さずとも、軍を中心とする政権は樹立可能だ」

 そのために先日の会議で悠陽を試したのか、と東条は得心する。

「そこでだ、東条。貴様は、北欧以来、悠陽様と近しい。参謀本部で入手した各地の戦況をいち早く報告しておるというではないか」
「ハッ。煌武院家の情報力をもってすれば、それしきの情報など不要かとも思いましたが、いち早くお知らせできればと思いまして……」
「それでよい。貴様には、今後も悠陽様とのパイプ役になってもらう。現状では、帝国軍のなかで悠陽様に一番近いのが貴様なのだ。帝国のため、是が非でもやってもらうぞ」

 了解いたしました、と答えながらも、東条は自分の役割に自信が持てない。悠陽と何度も話し合ったが、そのたびに叱責されるか軽蔑されていたように感じられる。話せば話すほど悠陽の不興を買っていたのは間違いない。そんな自分の言に悠陽が耳を傾けるか、甚だ心許ない。だが、長田の命令を拒否することもできない。



 悠陽が榊を高く評価しており、榊以外の首相などまるで考えていないことを長田らが知るには、なお時間がかかりそうであった。







 そのころ、米軍内でもスワラージ作戦参加に向けた準備が進められていた。

「第三戦術機連隊第一大隊所属アルフレッド・ウォーケン大尉、ご命令により出頭いたしました」
 常夏の島、ハワイ州オアフ島のアメリカ太平洋軍司令部に出頭したウォーケンを待ち受けていたのは、初老を迎えたスミス太平洋軍司令官本人であった。

 たかが一陸軍大尉に、太平洋軍の司令官が直々に会おうというのである。ただ事ではあるまい。何か極秘任務でもあるのだろうか。いろいろと思案しながらも、ウォーケンは怪訝そうな顔つきをすることなく、司令官に敬礼した。

 今年で退官する予定のスミス大将は、長官室のアームチェアに腰を下ろしたまま、真っ白になった髪を撫でつけていた。敬礼するウォーケンにご苦労、と呟く。
 スミスは、デスクに置かれた書類に目を落とし、おもむろに口を開いた。
「ウォーケン大尉、貴官は大変優秀らしいな。ウェストポイントを主席で卒業、在欧陸軍に配属され欧州における遅滞防御戦闘で優れた戦果を上げ、任官半年で中尉に昇進、昨年には欧州における戦績に対してシルバースターを授与される。その後、太平洋軍に異動、現在に至る。いや、まったく大したものだ」
「おそれいります」
「そんな君を見込んで、やってもらいたいことがある」
 スミスは椅子に腰を下ろしたまま、身長180センチを越える大柄なウォーケンに視線を向けた。
「ハッ、何でありましょうか?」
 やはり、何らかの特殊任務か、とウォーケンは得心する。太平洋地域で重大な国際問題が生じたという話は聞かないから、対人戦闘任務ではないと思う。命令あらば人間同士の戦闘行為もやむをえないが、できれば戦闘はBETA相手にしたい。下級士官でありながら、視野の広いウォーケンはそう願った。

「いずれ正式に発表されるだろうが、国連軍では新たなハイヴ攻略作戦が検討されている。目標は、ボパール・ハイヴ。北インドにあるフェイズ4の大型ハイヴだ。その際、国連宇宙総軍は軌道降下兵団をハイヴに突入させる計画だ」
 スミスは、スワラージ作戦の概要をウォーケンに説明する。ウォーケンが理解したのを確かめたのち、いよいよ本題にはいった。
「貴官には、一個戦術機大隊を率いてハイヴ攻略に参加してもらいたい」
 話の流れからして、あるいはと思っていたが、まさか本当にハイヴ攻略部隊を率いるよう命ぜられるとは。ウォーケンは驚きを抑えることができなかった。ハイヴ攻略部隊の生還率は極端に低い。三人に二人は命を落とすと言われている。

「いえ、しかし……。小官は軌道降下訓練すら受けたことがありません。軌道降下兵団の精鋭をこの任務に当たらせるのが至当ではありませんか?」
 ウォーケンとて死にたくはない。自分がこの任務に最適ではないと理解しているだけに、なおさらだ。

「貴官がそう言うのももっともな話だ。我が軍の内部でも、この人選をめぐって紛糾した。なにせ、軌道降下に特化した部隊があるのだ。それを差し置いて貴官を部隊長にあてるのは、どう考えても筋が通らない。しかしだ――」
 スミスは一拍置く。

「日本帝国が、というよりも御剣財閥が、貴官のハイヴ突入部隊への参加を要請してきた。どうやら、帝国でも貴官の武名は知れ渡っているようだな、ウォーケン大尉。どうせいずれ知ることだろうから、もう一つ言っておこう。日本帝国から、この作戦にはインペリアル・ロイヤルガードが一個大隊参加する。部隊長は煌武院悠陽。欧州戦線にいた貴官なら聞いたこともあろう。わずか9歳にして北欧戦線で多大な戦果をあげた、次期ショーグンの最有力候補だ」
「なっ」
 日本と一切接点のない自分をなぜ日本が指名したのか。その日本は、次期将軍を生還率が極めて低いハイヴ突入に参加させるという。日本指導部内の謀略によるものか。ウォーケンは女児を死地に追いやる帝国政府と、そんな帝国の言を容れてウォーケンを派遣しようとする司令部に対する憤りを覚えた。

「貴官の驚きはもっともだ、ウォーケン大尉。実のところ、私もこの要請を受け容れた統合参謀本部の真意を図りかねている。帝国政府は、ハイヴ攻略に絶対の自信があるようだが、そんなものは当てにならない。我が軍でも、ハイヴ突入部隊は志願制をとっている。したがって、貴官には今回の指名を断る権利がある。むろん、その場合は今日話した内容は忘れてもらうことになるがね」

 言うべきことは言った。そういう顔で、スミスはウォーケンを見守っている。

 さてどうしたものか、とウォーケンは考えあぐねる。ハイヴ突入は高いリスクを伴う。だが、BETAが相手では、そもそも通常のリスク計算など当てにならない。対BETA戦闘では、安全な前線など存在しえない。安全なはずの部隊がBETAの強襲で全滅したことが幾度あったことか。
 それに、これは滅多にないチャンスである。軌道降下兵は米軍衛士の憧れ。厳しい試験をクリアした最優秀の衛士たちで構成された人類の最高峰。どういう経緯で自分が選ばれたのか、今ひとつ釈然としないが、軌道降下作戦に参加できるというのは、一衛士として戦意を掻き立てられるものがある。

 自分を注視するスミス司令官の眼差しが感じられる。
「言い忘れていたが、統合参謀本部の見解では、本作戦でハイヴ攻略に成功する確率は決して低くはないそうだ。ハイヴ攻略にはじめて成功した作戦として、軍事史にその名を刻まれることになるかもしれないな」

 人類で初めてハイヴ攻略に成功した衛士として表彰される自分の姿が瞼に浮かぶ。緊張している可愛らしい次期将軍の手を握りながら、大統領の前に立ち、名誉勲章を授けられるかもしれない。BETAの攻勢で疲れ切った世界に、ハイヴ攻略成功の報はさぞや大きな希望を与えることだろう。英雄願望など自分にはないと思っていたが、この自分、アルフレッド・ウォーケンの名が歴史に永遠に刻まれるというのは魅力的だ。どの道、いつ死ぬともしれぬ命である。せめて、何か大きなことに挑戦してみたいという欲もある。

 ウォーケンは、視線をスミス司令官にもどした。
「どうやら、決めたようだね、ウォーケン大尉」
 穏やかなスミスの声が聞こえる。
「はい。この任務、お引き受けいたします」
 ウォーケンは力強く答えた。
「歴戦の勇士たる貴官ならば、きっとそう答えてくれると思っていたよ」
 スミスはしたり顔で、ウォーケンの決断を賞賛した。
「さて、早速だが、貴官は宇宙軍に転属となる。作戦開始までの二ヶ月間、軌道降下訓練およびハイヴ内戦闘訓練にあたってもらう。詳細は追って連絡するので、私物の整理をはじめておいてくれ」
「了解。アルフレッド・ウォーケン大尉、退室します」
 立ち上がって手をさしのべたスミスと握手したのち、ウォーケンは意気軒昂として退室した。

 後に残されたスミスは、無事に一仕事片付いた、とばかりに肩をほぐした。


 スミスは、退役後、ノースロックの理事として再就職することが決まっている。YF-23の主契約企業である。今回のウォーケン指名も、ノースロックから強く求められたために、スミス自ら、一大尉の説得にあたったのである。ノースロックは、ウォーケン派遣の見返りにYF-23完成に必要な技術を安価で御剣重工から提供されることになっている。ノースロックでの理事報酬のためにも、ウォーケンが受諾してくれたことは、スミスにとっては非常に有り難かった。
 今晩は孫を招いて自宅でパーティーをしよう。悠陽と同じ10歳になったばかりの孫の写真を机の引き出しから取り出しながら、スミスの脳裏はパーティーのことで埋め尽くされた。









 駐日ソ連大使館の自室で、トリーはアラスカから届いた一報を読んで、柳眉をしかめていた。
 悠陽との交渉がまとまり、日ソが共同でボパール・ハイヴに突入することが決定した矢先のことである。


 折衝役として悠陽との会談を繰り返してきたトリーにとって、アラスカのKGB本部から届いたこの情報は好ましいものではなかった。
 国防相になり損ねたグレチコ元帥が、日本帝国の一部の軍人や武家と接触している可能性があるという。スワラージ作戦終了までは、日本との関係は細心の注意を要する。それだけに、ウスチーノフ元帥を国防相に選んだ現書記長に強く反発しているグレチコが、日本で何やら陰謀めいたことをやっているというのは、重大な懸念材料であった。

 そもそも、オルタネイティヴ3に批判的なソ連軍人は少なくない。特に前線では、オルタネイティヴ計画に莫大な資源を使うことに反対する空気が根強く存在する。お伽噺めいた計画に貴重な資源を使うよりも、新型戦術機開発や前線への物資補給を充実させるべきだ、と考える軍人は多い。そんな前線指揮官の信望厚いのが、グレチコ元帥である。生粋の軍人として、豊富な戦闘経験を持つグレチコは、将兵からも支持されている。それに対して、ウスチーノフ元帥は、軍産複合体の有能なマネージャーであり、元帥号を授与されているとはいえ、軍人ではない。そのため、書記長と極めて近しいとはいえ、軍内部での評価は低い。

 そのグレチコが、密かに帝国の一部と接触しているというのは、穏やかではない。だいたい、グレチコは極めて粗野な性格をしており、アジア人に対する差別意識が強い。日本人と対等な交渉をするとは考えにくい。緻密な謀略も恐らくできまい。それだけに、トリーの危機感はつのる。想像もつかないほど馬鹿げた行動に出られる可能性があるからである。KGBの日本支部にも最優先で探らせているが、なかなか成果はあがっていない。

 一番考えられることは、日ソ関係を破綻させること。政治局内で、日ソ関係改善をもっとも強く主張したのがコルニエンコ書記長であるから、この政策の失敗はコルニエンコの政治的失点につながる。
 とはいえ、煌武院悠陽は、トリーの見るところ、決して馬鹿ではない。それどころか、政治家、謀略家としてもかなり優秀だと思われる。日ソ関係を損ねようとする勢力が存在することは理解していようし、そのための対抗策も講じていることだろう。

 悠陽と言えば、彼女のハイヴ攻略参加をめぐる武家社会の反応が鈍すぎる、とトリーは感じた。悠陽が優れた衛士だから確実に生き残ると考えるほど、武家とは甘い集団ではないはずだ。それなのに、悠陽がハイヴ突入部隊を率いることに対する反発がほとんどない。それだけ悠陽の裏工作が巧みだったとも考えられるが、それだけでもないように感じられる。

「まるで、悠陽が生きようが死のうが、どうでもいいとでもいうかのような……」
 口に出してみて、トリーは馬鹿げた思いつきに苦笑した。

 煌武院悠陽は、武家にとってかけがえのない存在のはずだ。遺伝子マップさえあれば、全く同じ存在をいくらでも生み出せるオルタネイティヴ計画の子どもたちとは違う。彼女の替わりとなるものはいない。

 自らの思いつきを一笑に付して、トリーは眼前の問題に注意を集中した。 



 木枯らしが、大使館の窓を震わせていた。


















・最近、戦闘シーンを書く機会がなくて、少しフラストレーションが溜まっていました。そこで、chekhovaというペンネームで、Arcadiaのチラシの裏で戦闘描写練習用に冥夜主人公の中編を書き始めました。本編とは一切関係ありません。よろしければ、そちらもご覧ください。



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