※本作品はイカロスの翼の続編になります。先にイカロスの翼をお読みになることを強くオススメします。
イカロスの翼 握る小指
風の草原に朝靄が満ちる。暁は背から迫る。半刻もすれば曙光は朝靄を切り裂いて、濃紺の空を金色に染め上げるだろう。
まとわりつく湿気の中、時刻は朝凪。そこに一振りの剣があった。
研ぎ澄まされ、危ういほどに漲る刀があった。
今、草原に風が吹き抜ける。
「いいか、相棒。とにかく指揮官を狙え、馬や幻獣に跨ってる偉そうなやつらだ。それで、指揮系統を混乱させたら、同士討ちを誘え。
疑心暗鬼に陥ってくれれば時間が稼げる。この朝もやだ、魔法の誤射もあり得るぞ。いいかい、相棒。
お前さんは死ぬために駆けるんじゃない、守るために駆けるんだ。わかってんな。わかってんなら――行け、俺のガンダールヴ!」
言うに及ばぬ。少年はこくりと小さく首を動かした。加速していく景色の中、先ほどまでは遠く朧な砂煙であった軍勢は加速度的にその威容を現しつつある。
怖い、と思う。心臓の鼓動はかつてないほど激烈だ。待ち構えるは騎兵の横隊、触れなば切り裂く剣風に未だ気づかず長大な黒槍を担ぎ行進する。
大丈夫、走れる。愚者の瞳に迷いはない。覚悟はなくとも、今だけは走れる。
早鐘の如く打ちつける心臓とは異なり、頭はむしろ冷静。燃え盛る焔は左手の輝きに変わり、輝きは強さに変わる。
目を晦ませる輝きを放ちながら、左手のルーンは猛り狂う。風の丘は過ぎた。擦り合わさる鎧の軽音、棚引く戦旗の擦過音。
戦馬の嘶き、蹄の叫び、まとわりつくような鉄火場の熱気、息つく人熱鬨の声、間近に感ずる破滅の気配。
風は駆け抜ける。誰にも気づかれないほどの速さで、誰をも寄せ付けないほどの強さで。
目を凝らせば一際燦然と輝く意匠を凝らした鎧が見える。あれが指揮官か。無人の野を行くが如きだったろう。
何せ敵は内部崩壊、自滅。そして今では味方として付き従っているのだから。潰走した敵軍を狩るのは欠伸が出るほど楽だったろう。
それは最早敵ではない。対抗する力を失ったものは、ただの獲物だ。デルフリンガーはそう考える。
だが、いまや敵が来たぞ。願わくば――てめえら全員、相棒の獲物になれ!
愚者の祈りが始まった。
颶風が形を成して欠伸する指揮官を襲ったのはその直後であった。
「気づかれたな、相棒、混乱してる騎兵隊を盾に銃弾を防げ。防いだ後は弓兵隊、銃兵隊は無視しろ。奴らは何もできやしねえ。
問題はメイジだ。追尾性の魔法を連発されたら流石に防ぎきれねえ。うろたえる弓兵隊を盾に動揺を誘え。
指揮官ぶったおしたら、中央に向かえ!そこに将軍がいるはずだ。影を縫うように近づいて一撃離脱しろ!生き残れ、相棒!」
声もなく、少年は駆けた。その足音は落馬の音であった。黒槍を佩する騎馬兵の足元をすり抜け打ち倒し、杖を抜こうとする指揮官の頭部をデルフリンガーが襲った。
一撃で昏倒した指揮官の頭上を、矢の雨が降る。その時には既に少年はその場にいなかった。
怒号が戦場に木霊した。騎兵隊は命令系統を失い、味方の攻撃を受け散開する。迫る足音。呼吸を忘れ、重さを忘れ、命を忘れた颶風が再び戦場に吹いた。
油断していた前衛部隊は、混乱の坩堝に落とされた。少年は剣を振るう。その一撃のたびに騎兵は落馬し、歩兵は呻き声と共にくずおれた。
「銃撃、来るぞ!」
少年は混乱する騎兵隊を縫うように駆けた。銃声が轟き、硝煙の匂いが鼻をつく。だが、一発の銃弾も一片の破片もその身に触れることあたわず。
盾となり果てた騎兵隊は味方の攻撃になすすべなく崩壊した。
連射のできない旧式の銃を物ともせず、風は突き進む。
「何が起きている!?」
銃兵部隊の指揮官は恐怖と共に叫んだ。削られている!部隊が削られている。目を凝らせばそこにあるのは黒い風。黒い風は何だ?左手に鮮烈に輝く光を携え、一本の大剣を構えるものは!
中央本陣を守護しようと隊を挙げて立ちはだかった指揮官は目を凝らして見た。速すぎる。曙光は霧に遮られて、それは片手で剣を――。
過程なく結果だけが現れるように、銃兵隊の指揮官は倒れた。少年は再び駆け始めた。硝煙を切り裂いて、本陣に向けて何よりも速く。
空が紅く染まっていた。曙光が山際から漏れ、風の草原を紫に染めた。
たなびく靄を切り裂くのは幾多の超常、魔法。駆け抜ける命を止めるためにメイジは杖をふるった。
これで終わりだ――誰もがそう考えた。剣を持っている以上、恐らくは平民。魔法に対してはなす術を持たない。
しかし―――!
「喰らい尽くせ……!」
「応とも!」
ヒュっと息を吐きながら、少年は呼気鋭く呟いた。我武者羅に振るわれた大剣は数多降り注ぐ災厄を悉く切り裂いた。
熱を、冷気を、雷を、肉を裂き骨を絶つ風を。隆起する大地を飛び越え跳ね除け、少年はやはり災厄のように降り立った。
振り向きざまに振るわれた剣により二人の兵が昏倒した。
槍衾が迫っていた。その選択は正しい、と剣は思った。一点ではなく面による攻撃。避け場のない一撃こそ止められない敵を止める手段。
ただし――。
「ただし、俺たちが相手じゃなかったらなァ!」
剣の叫びが合図であったかのように、少年は迫る槍衾に飛び乗り駆けぬけ、兵たちに強か一撃を加えた。一角の崩れた槍衾。動揺する歩兵たち。
少年は倒れる歩兵の顎を踏み抜きながら、なお進んだ。
見える。遠く白い幌。馬の嘶き、蹄の叫び。戦杖を持った兵に守られ揺られる一頭の白馬。
少年はさらに加速した。地を蹴り土を巻き上げ荒馬の如く。立ちはだかる兵を、馬を、幻獣を切り裂いて一気呵成に突き進む。
それは一陣の風、猛り荒ぶり切り裂く風。風は真っ直ぐに吹き抜ける。
「まずい、相棒、魔法が来るぞ!」
信頼する相棒の声に、はっと顔を上げれば空を染め上げる死の洪水。
再び詠唱の終わった魔法が千の雨のように降り注ぐ。空を覆い、地を穿つものに、少年は剣を向け歯を食い縛る。
避け、駆ける。避けきれないものは剣で切り裂き、避けきれるものには地を這った。
しかし、圧倒的な数の前に、個は無力だった。被弾する。
「ぐッ」
「左かッ?」
「くそ……動かねえ」
左手が引き攣る。だが、足はまだ動く。縦横無尽に少年は駆ける。唇を噛み痛みに耐え、目前に迫るメイジにデルフリンガーを打ち付ける。
驚愕の表情で――メイジは倒れた。その速さは人ではない。だが、走るのは心を振るわせる唯の人間だ。
ルーンは光り輝く。まるで命の、最後の一瞬の煌きのように。
。
少年は剣を右手に持ち替えた。すぐに次の魔法がくる。次は生き残れるだろうか。分からない。でも、少年は死にたくなくても、死ぬかもしれなくても、この戦場に立ったのだ。
覚悟なんてない。死にたくなんてない。神の盾だなんて呼ばれようが、皆の盾になるなんて真っ平ご免だ。
でも譲れないものもある。きっと、ある。命賭けてもいいものがある。
天秤にかけて、量って、きっと心臓よりも軽くて重いものがある。
少年は歯を食い縛った。
「相棒、風の魔法は避けろ!土と水の魔法もだ!だが、火だけは俺を使え!」
風を切る音に混じり、デルフリンガーの声が聞こえる。くそ、避けれるならそうしてる。だけど避けきれない……!
地面が爆砕した。石飛礫が怒涛の勢いで、散弾の如く打ち付ける。
ちくしょう、痛い。二の腕が引き連れて、叫びだすほど痛い。口を開けたくない。口を開けたらきっと喚き散らしちまう。
少年はこくりと、小さく頷いた。ちきしょう、帰りたい。戻りたい。自分の意地とかプライドとかどうでもいいじゃん。生きていたい。だけど、だけど。
痛くて辛くて、怖くてしょうがないけど。
まだ、走れる。
風は止まらない。左手の甲に刻まれたガンダールブのルーンはまだ煌くほどに眩しく光を放っていた。
風は止まらない。黒い風はメイジの一団にぶつかり、突破した。悲鳴と怒号が響いた。
駆け抜けた瞬間、土の拳を打ち付けられた。巨大なゴーレムだった。もんどりうって倒れた。口元から血が滴り落ちた。内臓を痛めたらしかった。
追撃が、来る。
「相棒、前だ、来る!体勢を低くしろ、横隊だ!」
デルフリンガーの声に従い、反射的に身を屈めた。槍が通り過ぎていった。歩兵。重厚な鎧を纏った戦人。兜の合間から覗く目は恐怖に濡れていた。
少年は唇を噛み締め、剣を振るう。胴鎧にデルフリンガーがめり込んで、歩兵はくぐもった悲鳴を上げた。
手にした黒槍ががらんと音を立てて落ちる。崩れ落ちる歩兵はそれでも少年の足首を掴み上げた。
「…………ッ」
すぐ右から、左から歩兵が槍を突き出す。数本が身を削っていった。血が流れ出す。命の終わりが始まる。
少年は歩兵の横隊を避け後方のメイジの一団へと向かった。詠唱が終わっていた。投射系の魔法は控えられたが、局地的な魔法は健在だった。被弾する。
「………ぐッあ、あ」
風を切って、走り抜ける。裂傷から血が吹き出る。デルフリンガーを振るい、敵の魔法を吸収する。目の前にいるメイジを剣の柄で殴り飛ばした。
二人、三人。殴り飛ばし、蹴り飛ばし、踏み抜き、切りつける。詠唱が完了するまでに、包囲が完成するまでに、次を、次の指揮官を探す。
まだだ、まだ足りない!確実に守りぬくためには、まだ足りない!
少年は駆ける灼熱の鉄火場。砲弾雷雨の空の下、右手に一振りの剣だけを携えて。
なんでこんなに頑張ってるんだろ。7万の軍勢のただ中、ふと、少年は疑問に思った。
神官は言った。確実に死ぬよ、と。少年の問いに剣は答えた、たぶん、と。
分かってて、戦場にたったはずだ。なのに、どうして?と今更ながらに思う。
最初は多分、認めて欲しかった。自分のため、自尊心のため。
死ぬ気になって、味方を救えば気難しいご主人様だって少年を認めてくれると思った。
だけど、生きてなきゃ、しょうがない。死んで認められたって、どうなるっていうんだ。そんなことより、死にたくない。
嫌だ、皆の盾になるとか、そんなの。痛いし、苦しい。息が出来ない。体が悲鳴を上げている……寒い。
血と一緒に熱がなくなってきている……怖い。死んでいくのだろうか?一人ぼっちの戦場で……?
自分のために、死んでいくのだろうか。
詰まらないプライドのために死んでいくのだろうか。嫌だ。嫌だ……。
だけど、そうだ。大切なものが、あったんだ。
死にたくない。死にたくない。だけど、大事なものがある。何ていったっけ、思い出せない。仄かに痛む小指。
……結婚式。二人だけの結婚式。そうだ。神官もいなくて。二人だけで。ルイズ。睡眠薬。飲ませた。そのとき。
『俺はお前が好きだよ、ルイズ』
そうだ。そういった。これが大事なものだ。約束。絶対、絶対守りぬく。一人教会で誓った。どんな窮地に陥ろうとも、何があろうとも。
千の艱難から、万の辛苦から。あの時からきっと、少年は本当のガンダールヴ。
『俺はお前が好きだよ、ルイズ』
この気持ちが嘘になるのだけは、耐えられない。きっとこれは何よりも辛いこと。
少年は脚に力を入れた。走れる。分かってきた。死ぬために走る気持ち。絶対譲れないものがあったんだ。
死んでも、「信頼」を裏切れないと思ったメロス。死んでも、自分の「気持ち」を裏切れないと思う自分。
駆けろ。今駆けねばいつ駆ける?最後の最期まで……駆け続けろ!
「うぅうう……おぉぉッ」
「相棒、もういい、退くぞ!大分混乱を与えたはずだ!もういい!」
左手のルーンがかつてないほどに輝いていた。少年は駆けた。一群のメイジに囲まれる白馬。
あそこに行けば、きっと地位の高い軍人がいる。そいつを倒せば、きっともっと時間が稼げる。
一分一秒でいい。少しでも長く時間を稼ぐ。これがかわいいご主人様が与えられた「任務」。道具の自分が代わりに引き受けた。完璧にこなして見せるとも!
全部自分のためだ。これでいい。痛くて辛い、もう走りたくない、進みたくない。だけど。
まだ、まだ走れる!
「……これッで、い……い!」
「くそ、後ろは周りこまれた。真っ直ぐ進め!お前さんは最速だ!駆け抜けろ!お前さんは最強だ!俺の……最強のガンダールヴだ!
生きろ、生きて駆け抜けろ俺のガンダールヴ!」
血風と共に、白銀の輝きを称えた左手と共に、少年は草原を駆け抜ける。
「分かりません、一体何が起こっていたのか……。黒い風が走ったと思ったら指揮官殿が落馬されていて……」
「もういい。下がれ」
「は、はッ」
ホーキンスは汗顔の部下を下がらせて、一つため息を吐いた。
「どう思われますか?」
「単騎だな、信じがたいことだが」
副官の問いに、言葉少なに答える。
気に入らない。実に気に入らない。嫉妬だな、と心中で認める。敵は将軍たる自分にできないことを今まさに実行しているのだ。
「まず軍隊ではない。軍隊であれば私からも視認できよう。部隊であれば迎撃の前に散開しているはずだ。またメイジでもない。メイジであれば魔法を使う。
しかしこちらに向かって打ち出される魔法はない。ではエルフの先住魔法か?私は否であると思う。
第一にエルフが我々に敵対する理由がない。また部隊でないのは明白、第二に単騎で我々に敵するというならトリステインに忠誠を誓っているということになる。
エルフがトリステインに忠誠を誓うはずがない。かの枢機卿殿もいることだしな。
答えは軍でも部隊でもエルフでもない存在だ……しかしそれは一体何だ?」
「小官には分かりかねます」
「私にも分からん。だが、気に入らないな」
「左様ですな」
「君もか?」
「勿論です。それは我々の憧憬の矢でありますれば」
ホーキンスは深く頷いた。
白馬の上から睥睨すれば周囲には一群のメイジ。将軍を守る鉄壁の布陣である。
「………」
その布陣の外に、前衛の騎兵、槍を構える歩兵が立ち並ぶ。そこにまで混乱が広がっている。
だが、彼を囲うは熟練のメイジたち。ホーキンスまで敵が及ぶことはないだろう。
少々口惜しいと思う。だが自分は将軍だ、軽挙は許されない。
「どのような者かは知らないが、やるものだ。何のために戦っているのだろうな」
「戦場の名誉を貴ぶのは戦士の性であります。死中に名誉を求める武人こそ勇気を知るものと愚考いたします」
「同感だ」
ホーキンスは意匠を凝らした戦杖を片手で弄んだ。ずしりと重いそれを、敵に対して振るったことは幾度あったろうか。
戦場にて敵と杖を合わせ、そして打ち勝つ栄誉を奪われてどれほどたったろう。髀肉の嘆を託つのも飽きるほどだ。
将軍などという地位は、まったくもって嬉しいものではない。
横に立つ副官もそうなのだろう。苦々しげな顔付きである。だが、万の兵の命を司る以上、身勝手な行動はできようはずもない。
「将軍などに、なるのではなかったよ」
「心中お察しします」
ふと見れば、戦場の同様は手前のメイジたちにも伝わっていた。熟達の兵が何を恐れるのか。
ホーキンスは目を凝らした。これはなかなかに――面白いことになるのかもしれない。
混乱を拡大させる。少年は一際逞しい白馬へ至るべく剣を振るう。
少しでも、進軍を止める。そうすれば味方の撤退がより確実になる。ご主人様が確実にトリステインの地に帰れる。
約束を、勝手に守ると誓った約束を守り通す。自分のために戦っている。矜持か、意地か。だけど、思い出すのはあの教会での結婚式だけ。
『俺はお前が好きだよ、ルイズ』
二度目の笑みを見たとき、勝手に決めた。こいつを守り抜くって。痛くて、辛くて、苦しいけれど、後悔はない。死にたくないし、真っ平ごめんだけど、しょうがない。
自分勝手な使い魔に、ご主人様は怒るだろうか。けど、きっと許してくれる。きっと自分の後に召還される使い魔は、彼女に相応しい素晴らしい使い魔だろうから。
だから、今だけはお前の使い魔でいさせてくれ、ルイズ。
少年は紅い空に願う。
血が滴り落ちる。終わりが近いのが少年にも分かった。
体の節々がぎちぎちと音を立てる。動く右手を握り締め、脚に力を入れた。まだだ、まだとまっちゃダメだ。まだ、もう少し――!
戦杖を構えるメイジの奥の奥、白馬の男に向かい少年は駆ける。
ホーキンスは己目がけて攻め入る風を見つめた。よもや、と思う。よもやあの防壁を掻い潜りこの身まで至ろうとは!
左手は動かないだろうに、右手だけで武器を握り締め、息をするのも忘れ歯を食いしばり、衣類を鮮血に染めてまでこの身に至ろうとは!
突破はされたが未だ健在の護衛騎士から少年に向かい魔法が放たれた。吸い込まれるようにそれらは少年を穿つ。否。
少年は右手に持つ大剣を振るいそれらを打ち落とした。しかし風神剣戟の隙間を越えて数発は少年を捕らえた。
致命傷だろう。ホーキンスは杖を構えた。引導は自分が渡す。
「……デル・ウインデ…」
エア・カッター。風の刃を飛ばす。しかし剣士は身を屈めてそれらを避けた。ホーキンスは目を見張った。まだ動けるというのか、その負傷で!
なんと雄雄しき戦士なのだ。トリステインの臆病者め、なんというものを隠し持っていたのだ!
斯様な戦士を死の戦場で消費するなど、なんと無能な指揮官か!
少年の脚がもつれる。もう、立っていることも辛いのだろう。しかし右手一本で剣を突き出し、勢いに任せるまま体ごとホーキンスにぶつかってくる。
ホーキンスは敗北を受け入れた。それもよし。戦場での敗北の誉むべきかな!
体中が痛い。寒い。時間がない。
少年は前を見据えた。風の刃を避けられて、壮年の男は驚愕の表情を浮かべている。こいつが、多分高級指揮官。
こいつを倒せば、きっと間に合う。船はロサイスを出て、トリステインに帰れる。ご主人様の受けた任務を、完遂できる。
脚がもつれた。後方から放たれたマジック・ミサイルは少年の体を蝕んでいた。失血がひどい、脚が、止まる。
約束を、守る。一方的で勝手な約束だけど、ここまで駆けたのは、あの気持ちが嘘になるのが耐えられなかったから。
ここで、こいつを倒して、証明するんだ。嘘じゃないって、好きだっていった気持ちは本当なんだって。
報われなくてもいい、もうフラれてる。だけど、そんなことどうでもいい。そうさ、どうだっていい。大切なのは好きだっていったこの気持ちだけ。
好きだから。その気持ちに嘘はない。だから駆け抜けた。その終着がここだ。今この時。最後の最期まで、駆け抜けろ!
「………ッ」
吐血が、口をついた。それでも少年は止まらない。動かない脚をそのまま、今まで駆け抜けた慣性で敵指揮官へと突進する。動け、最後の一歩を。もう、ちょっと……
倒れながらも――右手を伸ばして――もう少し――これで――とどい、た――。
目前に切っ先があった。精一杯右手を伸ばしてそれでも届かず、虚空を穿ちぬいていた。
ホーキンスは戦杖で剣を払った。剣士は前のめりに倒れた。
「そうか……。すでに事切れていたか」
倒れ伏す少年に、つまらなそうに呟く。願わくば――この少年と一対一で戦ってみたかった。
「閣下、ご無事で!?」
「ホーキンス将軍!」
「健在だ。損害を報告しろ」
護衛の騎士たちにホーキンスは短く呟くように答えると、地に膝をついた。血と埃に汚れた少年の顔を確かめる。
「若い……まだ少年ではないか……」
何者にも染まらぬ黒い髪と異国の風貌をした少年であった。斯様に年若き戦士が我が軍を止めたのか。ホーキンスにはそれが誇らしくさえあった。
水の使い手を呼ぼうとしたが……この傷では苦しみを伸ばすことがせいぜいだろう。誇り高き戦士を苦しめるのは心苦しい。
「羨ましいな」
「は?」
「単騎よく大軍を止める、か。英雄だな。私も将軍ではなく英雄になりたかった」
頭を振りつつ、ホーキンスは独白した。本音であった。名誉と勇気こそ戦士の誉れ。
仮令敵将の前に倒れ伏すとも、それは戦士の本懐である。一度鉄火場にたったのならば英雄を目指さぬ者などあろうか?
誰でも己の内にある灼熱と共に、戦場を疾駆する。才と努力、天運はあろうが皆等しく栄光の高みを目指すだろう。
この少年はその本懐へと指をかけたのだ。
「ですな。釣り合う勲章が存在しない程です。残念だ、彼が敵でなければ最高の勲章を与えられるのに」
「誇り高き戦士だ。雄雄しき騎士だ。敵とは言え、また貴族ではないとは言え、勇気にはそれに応じた名誉と祝福、敬意と賞賛が与えられるべきだと思う」
「同感です」
ホーキンス将軍とその副官は威儀を正し、最上級のアルビオン式敬礼を行った。
二人の周りの騎士たちもそれに倣った。
「彼を手厚く葬ってやれ。手抜かりは許さん」
傷つき倒れた少年を葬るため、二人の兵士がやってきた。鎮痛な面持ちであった。
声がしたのは、その時であった。
「触るな」
ホーキンスは振り向いた。生きていたのか。いや、息を吹き返したのか。直ちに水の使い手を呼ぶ。
少年はいまだ倒れ伏していた。衣服は鮮血に染まり、左腕は炭化してさえいる。満身創痍、健在な箇所は一部もない。
にも関わらず敵の手は借りぬという意思、なんと雄雄しきことか。ホーキンスは慨嘆した。
「俺の相棒に触るな」
「インテリジェンス・ソード……?」
少年が息を吹き返したかと思ったのが誤解と分かり、ホーキンスは落胆した。
だがそれも仕様のないことだろう。この傷では仮令息を吹き返したとしても……長くはない。
「お前の相棒を、我々に葬らせてくれ」
「触るんじゃねえ、といってるんだ、死にたがり共」
「何だと?」
「相棒は生きてたかったんだ。死にたくなんてなかった。てめえら死にたがりと一緒にするんじゃねえ。
戦場の名誉だ?
名誉の戦死だ?
くだらねえ。これ以上相棒を冒涜するんじゃねえ」
「何を言う。この勇士は暴れに暴れ、連合軍の撤退する時間を稼ぐために戦っていたのだろう。相違なくこれは名誉の戦いだ。我々は敵だが、勇気には敬意を払う」
「違うね。相棒は連合軍なんかどうでもよかった。ふざけろ。どうでもよかったんだ。
ただ――ちっぽけで勝手な約束と、自分の想いのために戦ってたんだ。てめえらに認められたくなんて、なかっただろうよ。
相棒が認められたかったのは、世界でたった一人だけだ」
そう、この愚直な相棒は、自分の言葉が嘘になるのが嫌だ、なんて理由で戦っていたのだ。
自分の言葉を、気持ちを嘘にしないために、守ることを選んだのだ。
そして、頑張った分だけご主人様に認めてもらいたかっただけなのだ。認めて欲しかったのは、敵じゃない。
ああ、何て馬鹿な相棒だ、と剣は思う。
お前さんはとっくの昔に、認められていたんだ。お前さんが気づいてないだけで貴族の嬢ちゃんはとっくの昔に認めていたんだぜ。
死にたくないと祈って、生きたいと願って、叶えられないと知って挑んだ七万の戦場。
戦って、戦って、戦い抜いて、傷ついて斃れた。ここが最期の場所だって、分かっていた。
どうにかして、生かしてやりたかった。でもそれももう叶わない。
もう、相棒は虫の息、一刻を待たずに果てるだろう。だが、よし果てたとしてもこの白のアルビオンに埋もれさせるわけにはいかない。
頑張った相棒には、花を捧げる乙女がいるだろ……?
もしかしたらそれは誰にとっても最悪な結末かもしれない。あるいは死体が見つからなければ、希望を抱いていけるかもしれない。
けれど、魂の抜けた遺骸であったとしても、相棒が欲したものを与えてやることができるとするならば。
「俺の相棒に、触るな。てめえらが相棒を葬ってみやがれ。
相棒はどうやって嬢ちゃんに会えばいい?
世界で一人だけ認められたかった女にどうやって再会すりゃいい?
誰が相棒を労ってくれる?
誰が相棒のために泣いてくれるってんだ。ふざけやがれ」
剣はまくし立てた。ホーキンスは首を振った。兵士たちは静々と頷くと、少年の体を持ち上げようとした。
「触るんじゃねえ!」
剣が叫ぶと同時に少年の体が跳ね上がった。少年は目を閉じていた。意識はないのだろう。
驚愕するホーキンスらを尻目に、少年はやってきた兵士に一撃し、そのまま森へと走り抜けた……。
森の中腹で少年は苔むした大木に背を預けていた。
「使い手の体動かすなんて、何千年ぶりかな。おい、相棒おきな、もう大丈夫だぜ。
奴ら油断してたからな、けつ巻くって逃げ出すのも楽だったぜ……」
「………」
「おい、何寝たふりしてやがんだ。さっさと起きろよ。お前さん頑張ったから、アルビオン軍のやつらロサイスに間に合うことはないだろうぜ」
「………」
「いい加減にしろよ、相棒。何時まで寝てやがんだ。使い手の体動かすのって疲れんだよ。さっさと起きろって」
「………」
「……生きてんだろ?まだ、生きてるんだろ?まだ死んじゃいねえ。俺が動かさなくてもまだ心臓は動いてんだ。
なあ、起きろよ」
「………で、るふ」
小さな小さな、返事があった。蚊の鳴くような声だった。
「起きたな!寝るんじゃねえぞ。大丈夫だ、お前さんは最強だ。このデルフリンガー様のガンダールヴだ」
「……敵、は?」
「やっつけたぜ、相棒。何の心配も要らない。嬢ちゃんたちは今頃空の上さ」
「そう……か。よか…た」
少年の体は傷だらけだった。左手の二の腕は炭化し、全身には裂傷が刻まれ、打ち込まれたマジック・ミサイルは背を破壊していた。
背を預ける大木の周囲には血溜まりができつつあった。
少年の瞳は虚ろで、焦点が合ってはいなかった。全身が震えていた。左手の甲のルーンの光は消えかけていた。
「…さむ、いん、だ。デルフ……体が痺れ、て、前が……見え、な…い」
「………」
「怖……い。でる、ふ、ここ、に……居るの、か?」
「ああ、ここにいるよ相棒」
「痛い……痛い……耳、元で、心臓の……音がきこえ、る。鼓動……が、いた、い……死にたく、な、い……嫌、だ」
「相棒、俺はここにいる」
「……なあ…でる、ふ」
「なんだい、相棒」
「おれ、しぬの、か……な」
剣は一瞬言葉に詰まった。
「……たぶん」
死ぬとはいいたくなかった。けれど助かるなどということもできなかった。仕方なく、風の草原で言った言葉を繰り返した。
嘘を吐けたなら、どれだけ楽だったろう。けれど剣はその主に嘘を吐きたくはなかった。
「そう……か。しに、たく……ない……な」
「もう、喋んな。もういい」
「…で、る、ふ」
「喋んなって……口から血が出てるぜ…」
「あり、が、とう……な」
「………!」
何かが決壊した。少年は寂しげに笑っていた。
「礼なんかいらねえ。俺はお前さんを守りきれなかった。何がガンダールヴの左腕だ。何が伝説の剣だ!
使い手を守りきれなくてどうやって他人を守れんだ!ちくしょう、ちくしょう、相棒、死ぬんじゃねえぞ!」
「う…たが、きこ……える」
「…歌?」
「…………た、だいま……し、んぱ…かけ、ごめ……る……かあ…と……」
「相棒?」
「…………」
デルフリンガーから注がれた力が消え、少年の右腕から握力が消えた。
大剣は転がるように手のひらからずり落ち――小指に引っかかった。
約束。必ず守ると勝手に誓った―――。
何年も前のような気がする昨日に、夕暮れの教会で、確かに小指を絡めて、永遠の約束をした。
まだ、守り切っちゃいないだろうが。
昨日の今日で破るなよ、相棒。
「おい、起きろよ。手ぇ握りしめろって。約束したんだろ?一方的で勝手な約束だったけど、守るって、守りぬくって誓ったんだろ?
なあ……起きろって。目え閉じんなよ、なあ、おい、相棒………」
さらさらと砂の落ちるように、ルーンは消えた。
森に一陣の風が吹いた。風は少年の黒髪を優しく揺らした。
少年は夢を見ているようだった。それはきっと優しい夢に違いない。なぜならばその横顔には微かな微笑が刻まれていたのだから。
どこからか遠くから、唄が風に乗って流れてきていた。子守歌のように優しく、穏やかな歌だった。
少年は小さな歌に身を任せるように、眠りに就いた。
あとがき
どぅもーtrsです。短編書いてないで長編書けよって突っ込みはなしでお願いします。結構忙しくて長編資料が集まらないんです……。
と、いうことで短編書いて文章力上げてみよう!と思い短編をつらつら書き連ねているんですが、今回のテーマは「熱い文章」です。
熱いっていっても演出とかできませんから、どうにかこうにか文章にスピード感を与えられたらなーとか考えてやったんですが、どうでしょう。
本とは「習作」って前書きしてイカロスの翼だけ上げる予定だったのですが、あれ、続編希望あるのかーと思ってこれ書いたら結構すんなり書けたので
よし、じゃあ続編ってことで出してみよーと。ちなみに前編(?)は韻を踏んだ文章が目標でした。
あ、私を当然含めるとして作家さん感想とかに結構敏感ですので拍手でも希望だしてみるとなんか書いてくれるかもしれませんよ。
この人にこんなの書いてほしいとか思ったら感想で言ってあげるといいかも。モチベーションもかなり変わってきますからね。
以下拍手返信
09月27日0:25:23
変態紳士ものはマジメに書こうかと思ってますよ。変態なのに真面目。不思議。
09月30日18:56:49
このオチだけは誰にも予想できないだろう!と自負を持って書いてたんですが、なかなかオチにつっこまれなくて寂しい思いをしてましたw
10月23日15:56:50
アニメ版見たんですけど、ちょっと原作無視してた感じがしましたね。一応続きぽいのの方もご期待に沿えればいいのですが。
10月23日23:0:12
読み応えがあるといってもらえると嬉しいですね。色物として定着する前に真面目なのを書いてよかったとこ一時間(ry
王様の仕立て屋は漫画みたいですね。今度書店でも見に行ってみようかなぁ・・・
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