―ここは、俺の世界じゃない……。俺は、自分の世界で生きることもできないのか―
俺の心を、深い深い絶望が暗く黒く塗りつぶしていった。
「ここは……どこだ?」
頭が痛い。ガンガンする。
体も痛い。ところどころズキズキするし、手も少しプルプルと震えている。
だけどそんなことは大して気にならない。
その理由は、周りを見回してみれば一目瞭然だった。
まず俺は、さっきまでデスティニーのコックピットにいたはずだ。
それなのに、何だこの部屋は?
窓から差し込む月明かりに照らされてうっすら見えるのは、木製のフローリングの床と、
清潔な雰囲気を醸し出している白地の壁。
暗闇に慣れてきた目をこらしてよく見ると、部屋の一角にけっして大きくないテレビとゲーム機らしきものが置かれている。
そしてこの独特の匂い、というのだろうか。
信じられないが、どうやら普通の一軒家のようだった。
というかどう見ても軍の施設には見えないし、何かしらの拘束器具を取り付けられている
というわけでもなく、部屋のベッドで寝かされていた。
敵軍に捕縛された、というわけでもないらしい。
何より、体に強烈な違和感を感じた。
宇宙空間にいた時の、あの浮遊感を全く感じない。
この地面に縛り付けられるような感覚は間違いなく、重力。
外はもう暗いが、どこまでも続く空には星が煌めいていて。
多分、プラントじゃない。そう、思った。
「ここは、地球か………?」
ポツリと口から出た言葉に一つの疑問が沸く。
「何で、地球に、いるんだ………?」
そうだ。さっきまで自分は月面に横たわったデスティニーの中にいたじゃないか。
それが、いきなり地球だと―?
一つ疑問が沸くと、次々と疑問が浮かんでくる。自分では止められない。
俺はどれくらい眠っていた?
どうして地球にいる?
敵につかまったわけではないのなら、何でこんな生活感溢れた部屋で寝かされている!?
というか地球といっても、どこの国だ!?
オーブか!?それとも他の国か!?
いや、そんなことはこの際どうでもいい。
皆はどうなった!?
ルナはっ!?ミネルバはっ!?レイ………は…………………。
そこまで考えて、急に意識がはっきりしてくる。
さっきまで爆発しそうだった脳は急速に芯まで冷えていき、あの戦いで起こった出来事が
溢れるように蘇って、現実味を帯びていく。
あの戦いでレイは………グラディス艦長は…………議長は………。
「死んだんだ…………」
そうつぶやくと同時に、両手をキツく握りしめる。自分の不甲斐なさを諌めるように。
いつの間にか唇を噛み締めていたらしく、口から血が一筋、流れ落ちた。
(また……守れなかった。また………誰も…………)
その現実は、今の俺には重すぎて。
心がまた悲鳴を上げ、泣き叫んだ。
(だけど………)
今度は、涙は流さない。
いや、泣きたいのに、涙を流したいのに。俺の瞳からは一滴の雫さえ流れなかった。
心は慟哭の声を上げて、渦巻いているのに、やはり涙はただの一滴さえ出てこなかった。
(………とうとう、涙さえ枯れちまったみたいだな。情けない話だ)
また意識が悪い方へ、悪い方へと流れていくが必死にそれをせき止める。
声に出して自分を叱責して、未だ荒れ狂う心を抑え込んで、固く、固く目をつむる。
そうすると、絶望に満たされた心の中に、ほんの少しだけ光が差し込む。
その光の名を、俺は覚えている。
闇に堕ちていく俺の心を掬い上げてくれた少女の名を。
(ステラ……)
あの時ステラと交わした言葉は、俺の胸に刻みつけられている。
そうだ、俺はあの時ステラに誓ったんだ。
今度こそ全てを守るて。
どんな現実が俺を押しつぶそうとしたとしても、色んな人に託された想いを背負って、
歩いていくんだって。
だからこそ、俺はこんなところで涙を流せないんだと思う。
もし俺が次に涙を流す時がくるとしたら、きっと全てが終わった時、なんだと思う。
そう思うと、荒れ狂っていた心の波風が次第に治まってくる。
頭もすっかり冷え切っていて、俺は必死に心を奮い立たせ、冷静に状況を分析しようと努める。
まず、どうやらここは地球らしい。だが地球のどの国なのかは分からない。
次に俺は敵軍の捕虜になったわけでもないらしい。
じゃあ俺をここまで運んで、このベッドに寝かせてくれたのは?
たった今気づいたが、俺にこのTシャツと短ズボンを着せてくれたのは?
それも分からない。
メサイア防衛戦はどうなったのか?分からない。
今日は何日だ?分からない。
そもそも俺をここに連れてきた理由は?やっぱり分からない。
分からない尽くしだ。ここまでくると、いっそ笑える。
いや、実際は全然笑えないので、真剣にこの状況を打開する策を考える。
考えること数分………。
……よし、思いついたぞ。この状況をどうにかできる起死回生の一手を。
作戦名―『分からないことは、知っている人に教えてもらっちゃおうZE☆』―
………………………。
ほらみろ。やっぱり笑えない。
慣れないことをして、心を奮い立たせるのはもうやめだ。
まあ、なんだ。
結局のところ冷静に分析したとしても俺一人では完全に手詰まりなわけだし、俺を連れてきて
くれた人をつかまえて聞いてみるのが一番手っ取り早いし確実なのだった。
痛む体をなんとか起こして、とりあえずこの部屋から出ようと扉の方に顔を向ける。
するとふいに扉が開いて、
「「あっ」」
扉の前で俺を凝視しながら立ち尽くす、大きいバンダナを頭に巻いた、赤髪の女の子と目が合った。
廊下から漏れ出す明かりに照らされて、驚きにそう大きくもない胸を上下させるその子はとても可愛くて。
俺はこんな時にも関わらず、不覚にも目の前の彼女にしばし見とれてしまったのだった。
◇
時間はもう夜の19時。
日はすっかり沈んで、外には他の家の窓から漏れる明かりや街頭の明かりがぽつぽつと輝いている。
お兄の部屋に寝かせたこの人を、今私が看病している。
あのピチピチの変テコな服はお兄が着替えさせてくれたので、私は体中の擦り傷や切り傷に消毒液を塗って、
絆創膏を貼って。
疲れが出たのか熱まで出てきたので、汗を拭いて濡れタオルをおでこに乗せる。
看病の最中、私は何度となく目の前で眠る彼の顔を覗き見る。
綺麗な顔だと思った。
余計なお肉が1gもついていないその顔はとても均整がとれていて、少しやんちゃそうな目元がぼさぼさの
黒髪とよく合っていて。
正直、かっこいいと思った。
だけど目の前の端正な顔立ちは、さっきから苦悶に歪んでいる。
熱のせいで苦しいのもあるんだろうけど、たぶんそれだけじゃないと思う。
彼はうわ言で誰かの名前を呼びながら、右手をなにもない空中に彷徨わせる。
まるでそこにはいない誰かに、縋りつこうとするように。
「マユ……………ステラ………………レイ………………」
その口から漏れだす言葉が、あまりにも悲痛で。
なにもない虚空を必死に掴もうとするその姿が、あまりにも痛々しくて。
私は思わず顔を逸らしてしまう。
そうして、もう何度目になるだろう。彼の顔に張り付いた絶え間なく滲む汗を拭き取った。
そうすると彼はまたもがき苦しみ、おでこに乗っていたタオルがずれ落ちてしまった。
そのタオルを濡らそうとして、容器に入っていた氷水がすっかりぬるくなっていることに気付いた。
(氷水、作ってこないとね)
私は未だに悪夢を見続けているであろう彼の顔を見つめる。
本当はずっと一緒にいてあげたいけど、それだと氷水が作れない。
私はそっと立ち上がって、水の入った容器を持って音を立てないように扉まで向かう。
そしてくるっと振り向いて、彼が起きないように声のボリュームを低くして……。
「ちょっと出てきますけど、すぐ戻ってくるので待っていてくださいね」
と、囁くように断りを入れた。
私は彼が起きていないのを確認してから、電気を消して静かに扉を閉めた。
◇
彼が起きないように注意しながら階段を下りて、裏の玄関から出て食堂に入る。
まだ夜の準備中なので店内にお客さんはいない。
いたのは夜に向けての仕込みをしているおじいちゃんとお兄の二人だけだった。
最近は仕事帰りのサラリーマンが多いので、夜遅くまで店を開けなくちゃいけない。
おじいちゃんも大変だ。当然、店を手伝う私も大変なのだけど。
私に気付いたお兄は、まるでトマトみたいに赤く腫れあがった顔をこっちに向けて、
彼のことを尋ねてくる。
「よう、蘭………。あいふ、目を覚ましたふぁ?ずいぶんうなはれへはみはいだはら、
気になってたんふぁ……」
「…………………………」
何を言っているのかは分かるけど、声がくぐもってとても聞こえにくい。
丸々と膨れ上がったア○パ○マ○みたいな顔も鬱陶しいし、正直とても不気味。
でも、お兄がこんなトマト顔になっちゃったのには、ちゃんと理由がある。
それは何を隠そうお兄がおじいちゃんの鉄拳制裁をくらったから。
だけど、別にお兄が彼を家に連れ込んだのが原因ってわけじゃない。
むしろおじいちゃんは事情を話したら…………。
「そいつは大変だ!おう、弾!構わねぇから、その兄ちゃんお前の部屋に上げてやれ!俺も
後で精のつくモン作ってやっからよ!」
って心配そうに言ってくれた。
それにお兄にも………。
「ったく、弾のヤツ!やる時はやるじゃねぇか!いつもフラフラしやがって、一夏に比べて
ずいぶん頼りねぇって思ってたのによ!流石は俺様の血を受け継いでいるだけあるな!
見直したぜ!」
…………なんて。
ずいぶんお兄のことを褒めていた。だけど、問題はその後だった。
おじいちゃんから手放しに褒められて照れくさそうにしてたお兄は、何か思い出したのか、
いきなり顔を真っ青にして飛び出していった。
いきなり出て行ったんで驚いてたら、お兄は家の前の路上に置いてあった買い物袋を持ってきて、
おじいちゃんにブルブル震えながら差し出した。
おじいちゃんは訝しげにしながらも袋を受け取って、中を確認した。
そしたら、何と!!
……………夜の仕込みに使う予定だった卵が、全部割れてたの。
どうやらお兄、彼を見つけた時に慌てて買い物袋を放り出しちゃったらしい。
私はそんな状況なら袋を放り出しても仕方ないと思うんだけど、おじいちゃんは許さなかった。
必死に状況を説明して仕方なかったってことを主張するお兄に対して……。
「それはそれっ!これはこれだ!しかもみっともなく言い訳なんてしやがって!俺は、
俺は悲しいぜぇ!!」
ってそれはもう激昂して。
間髪入れずにお兄の顔面に、目にも止まらぬ鉄拳の雨を叩き込んだ。
浅黒い影が空気を切り裂きながらお兄の顔に吸い込まれていく。
その光景を見つめていると、ふとあることを思い出した。
タイトルは忘れちゃったけど、ずっと昔の漫画で確かこんな感じの必殺技を見たことがあった。
確か火の中にある甘栗を、火の熱さを感じる前に取り出すほどの速度で拳を繰り出す技。
名前はか…………火中………火中天津………だめ、思い出せない。
おじいちゃんがお兄をぼこ殴り、拳の風圧だけでお兄を吹っ飛ばすのを見て「ああ、これが
あの漫画に出てた必殺技なんだな」って、不覚にも感激してしまった。
私がISを操縦できるようになったら、是非とも今の攻撃を真似してみようと思う。
まあとにかく、そういう理由で髪も顔も真っ赤ッ赤の妖怪トマト男が完成したのだった。
って、こんなこと説明してる場合じゃなかった。
早く氷水を用意してあの人の所へ戻らないと。
私は彼の様子だけ手短に伝えて、厨房の流し台へ向かう。
「まだ寝てる。何かさっきよりもひどくうなされてるみたい……」
「そうふぁ……。引ひ続ひ、ふぁんびょう頼むふぁ……いへへっ!」
心配そうに目を伏せたお兄は、次の瞬間には痛みに顔をしかめる。まあ、それだけ殴られれば
痛くて当然でしょうね。
お兄の言葉を聞いたおじいちゃんも、豪快に中華鍋を振りながら尋ねてくる。
「蘭、あの名無しの兄ちゃんは何か身元が分かるもんは持ってなかったのか?免許証とか、
保険証とかよ」
「ううん。そういうものは何も……。携帯は持ってたけど、勝手に見るのもあれだし……」
彼は身分証明ができる類のものは何も持っていなかった。携帯はプライベートの塊だから、見る
のは最後の最後。
唯一の手がかりは、彼がうわ言で呟いた名前。
だけどこの名前はどうしてか、他の人には言ってはいけない気がした。
「とにかく、あの兄ちゃんが起きたら食堂に連れてこい!俺様の大盛業火野菜炒め定食を喰わせて
やっからな!」
「おじいちゃん、一応病人なんだからもっと消化のいいものにしてよ?」
おじいちゃんの威勢のいい声に苦笑しながらも、新しい氷水と替えのタオルを持って食堂を出る。
母屋の階段を上がりながら、ふと考えた。
なんで私、あの人のことがこんなに気になるんだろうって。
思えば今日初めて彼を見たときから、ずっと彼のことが気になっていた。
って、別に一夏さんと初めて出会った時みたいな、一目惚れってわけじゃなくて!
私は一夏さん一筋だし!
ゴホンッ!ゴホホンッ!!
……でも何だろう。
彼を初めて見た時から「この人を放ってはおけない!」って思った。
何でそう思ったのか分からないけど……。
もしかしたら、ただの同情心や義理人情だったのかもしれないけど……。
彼には誰かが寄り添ってあげないと駄目だって思った。
理由は……女の勘ってことにしておいて。
彼を起こさないようにそうっと、ゆっくりと扉を開ける。すると、
「「あっ」」
体を起こしてこっちに振り向いていた彼と、ちょうど目が合った。
彼の鋭く切れ味のある双眸に射抜かれて、私の体と思考が同時に停止する。
……綺麗な目だった。
窓から差し込んだ月の光だけが照らす薄暗い部屋の中で、彼の赤い瞳だけが爛々と輝いていた。
私は無意識のうちに、彼の瞳をずずいっと覗き込んでいた。
するとルビーのような透き通った赤い瞳の奥に、突如燃え盛る紅蓮の炎を見た気がして、思わず
ぐっと息を飲む。
それでも私は、いつの間にか彼の熱気を帯びるその瞳に惹きつけられてしまっていた。
その強さと優しさと、そして私では計り知れない程の悲しみを内包したような、紅蓮の瞳に。
私は静止してしまった世界の中で彼の瞳と、そして彼自身をただひたすらにポ〜ッと見つめて
しまっていた。
今思えばこの時から、私は彼の、シンのことが気になってたんだろうなぁ。
◇
………さっきから目の前の女の子は、俺を見つめたまま微動だにしない。
それにつられて、俺もさっきから指一本動かせないでいる。
……この沈黙が痛い。
いや、別に嫌な感じの沈黙ではないんだけど……。
彼女の俺に向けられる視線が、何だ。むず痒いというか気恥ずかしいというか。
とにかく、何ともこそばゆい気持ちになっていく。
どういうことだ?この変な感じは?
俺は思わずゴクンと唾を飲み込んだ。静寂が辺りを支配する個室では、唾を飲み込む音さえもよく
響いてしまう。
その音が聞こえたらしく、彼女は見てて可哀想なほどびくっと体を震わせた。
だけど彼女は顔を背けるどころか、逆にさっきよりも俺のことを凝視してくる。
……駄目だ。これ以上の見つめ合いを続けていると、俺の精神がどうにかなってしまう。
俺は意を決して、とりあえず当たり障りのない話題でこの雰囲気を打開しようと試みる。
「……あの」
「えっ!?えっ、えっと!な、何でしょうか!!」
「……あの、とりあえず電気を。あなたの顔も、よく見えませんし……」
「ふぇ!?……あっ、はい!電気!電気ですよね!?すいません、私ったら全然気づかなくて……」
彼女は慌てふためいて、震える手で電気をつけてくれる。
……雰囲気打開作戦、失敗っ。
さっきよりもますますよく分からない雰囲気になってしまった。……どうしよう。
でも、どうやら俺をこの部屋に寝かせてくれたのは彼女みたいだ。悪い人でもなさそうだし……、
とりあえず一番最初に、彼女に言うべきことを言っておかないとな。
「あなたが、俺をここに連れてきてくれたのか?」
「へっ!?あ、あの……。お兄、じゃなくて!兄と二人でここまで………」
「そうか……、ありがとう。あなたのおかげで助かったみたいだ。……あなたの名前は?」
「わ、私の名前ですか?五反田蘭、ですけど……」
……おかしな名前だと思ったけど、流石に口には出さない。
「蘭さん、か。ありがとう、蘭さんは俺の命の恩人だ」
そう言って笑いかけると、彼女は突然顔をさっきよりも真っ赤にして、ものすごくあたふたしだした。
さっきよりもさらに早口になって、捲し立てるようにしゃべり続ける。
「ふへぇ!?い、いやいやそんなっ!道端に人が倒れてたら助けるのは当たり前ですし、それに最初に
あなたを見つけたのはお兄、じゃなくて兄でしたし「ち、ちょっと待って!」へっ!?な、何ですか?」
何ですかも何も、今の俺にとっては聞き逃すことができない不穏な台詞が混じっていた。会話を切ってでも
聞かずにはいられない。
「今、何て言った?俺が、道端に倒れてたって……」
「え?え、ええ。私の家の横のゴミ捨て場に。……もしかして、何であそこに倒れてたか覚えてないん
ですか?」
覚えていないとかそんな問題ではなく。
俺はさっきまで月面に、宇宙にいたんだぞ?ゴミ捨て場?何だそれは?
「い、いや……。ちょっと聞かせてもらうけど、一体ここはどこなんだ?重力があるし窓から空が見える
から、地球だと思うんだけど……」
「重力?まあここは確かに地球ですし、当然重力もありますけど……。ていうか、地球以外に人間が
住める場所なんてありましたっけ?」
そう不思議そうに首をかしげる蘭さんはとても可愛くて魅力的なんだが、今の俺にはそのことを気にする
余裕なんかない。
ただでさえ宇宙空間からいきなりこんな民家みたいな所で寝かせられて、自分がゴミ捨て場に投棄されていた
ってだけでも混乱するには十分なのに……。
蘭さんは何を言っている?
プラントのことなんて、地球に住む誰もが知っていることじゃないか。
それなのに、何でそんなにきょとんとしてるんだ?
何でそんな、本当に知らないような顔をするんだよ?
「い、いやいや。地球以外に人間が住める場所って……。プラントが宇宙に浮いてるじゃないか」
「プラント……?植物のことですか?何にしても、そんなものが宇宙にあるなんて聞いたことが……」
「何を、何を言ってるんだよ。地球からでも空を見上げればプラントが見えるじゃないか!ほらっ!ここから
でも空を見ればプラント…………が…………………………」
俺は彼女の態度に何か言いようのない不気味な不安を覚え、痛む体を引きずって部屋の窓を開けた。
そして空を見上げ、必死にプラントを探すが………。
…………どういうこと、だ?
地球からならどこから見上げてもプラントがうっすら見えるはずなのに。それは夜であっても関係ないはず
なのに……。
そこには雲一つない、満点の煌めく星空があるだけでプラントなんて影も形もなかった。
「……………そんな、バカな………………」
俺が空を仰ぎ見ながら絶句していると、ずっと俺の様子にあたふたしていた蘭さんが、心配そうに俺の側に
やってくる。
「あの……どうしたんですか?その、プラントっていうんですか?ここから見えるんですか?」
「……いや、どういうわけかどこにも見えないんだ。そんなこと、あるはずないのに………」
そう、こんなはずはない。
俺は頭痛が治まらずぐちゃぐちゃになっている頭を片手で押さえて、必死に冷静になろうと努める。
こんなことが、あるはずがないのだ。
地球から空を眺めて、プラントが見えないだなんて。
落ち着け、こんなことがあるはずがない。
きっとここからではプラントが見えないのかもしれない。そういう自分の知らない場所が地球にも一か所や二か所、
あるのかもしれない。
そうだ。もしかしたら彼女がプラントのことをただ知らないだけなのかもしれない。
たぶんここは地球でも物凄い田舎なんだ。
ここだけ何十年も時代の波から取り残されているか、蘭さんが世間のことを何も知らない箱入り娘なのか…。
だったら、そう。世間を知らない蘭さんでも知っていそうなことを尋ねてみよう。
このことは知っているはずだ。いや………。
知っていないと、おかしいんだっ!!
「……なあ、蘭さん。この地球にある、オーブっていう国のこと知ってるよね?この酷い戦時でも他国の争いに
介入せず、他国の侵略を許さないっていう武装中立政策を提言している国家なんだけど………」
「……オーブ、ですか?すいません。私、国の名前とか大体首都の名前も含めて覚えてますけど、オーブなんて
国は聞いたことが………。第一、今が酷い戦時なんてことは全然ないですし。確かに各国家が互いの軍事力の
抑止力としてISを配備していますが、それを使って戦争になったことなんて………」
蘭さんは俺が何を言っているのかわからないという風に肩をすくめるが、そんな態度が俺の焦燥感をさらに煽る。
何でそんな目で俺を見る?
何でそんな、訳のわからないことを言うんだ?
「ちょ………ちょっと待ってくれ。オーブを、知らない?今が、戦時じゃない?何を………、何を言っているんだ、
あなたは」
「え…………?あの………………」
「じゃあザフト軍って聞いたことあるか?ナチュラルは?コーディネイターは?地球連合軍は?ロゴスは?まさか、
『血のバレンタイン』って言葉を聞いたことがないなんてことはないよな?」
「あ、あの……。ごめんなさい、私にはあなたが何を言っているのか………」
本当に、何も知らないというような様子だった。
逆に「何をいきなり意味不明なことを言い出すんだ、この人は?」とでも言いたげな視線に、俺の心臓が早鐘を打つ。
混乱の頂点にあった頭が、ますます混乱して煙が出てくる。
俺はブルブル震える口を何とか開けて、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「……一つ、聞いていいか?ここは、地球の何て名前の国なんだ?俺が置き去りにされてたってことは、ここは
オーブかと思ったんだけど違うみたいだし……」
「……ここですか?日本……ですけど。それが何か「は、ははは……」え?な、何ですか?何でいきなり笑ってる
んですか!?」
笑いたくもなる。そうだろう?
俺はそんな名前の国、一度も聞いたことがないんだから。
心の片隅で、もしやと思っていた。
俺と蘭さんとの、異常なまでの話の噛み合わなさ。
まるで俺と蘭さんが、全く別の世界のことを話しているかのような。
ファンタジーなことなんて全くこれっぽっちも興味なんてないし、信じてもいないが……。
確かめたかった。自分の置かれている状況を。
「なあ、蘭さん。もしよかったらこの世界の、歴史について書かれた本を見せてくれないか?あったら、でいいん
だけど」
「歴史の本、ですか?私が使っている歴史の教科書がありますけど……」
「それでいい。見せてくれないか?」
「あ、はい!すぐに持ってきます!」
大急ぎで部屋を出ていく蘭さんを見つめながら、大きく息を吐き出した。
正直、何が何だか分からない。
頭がパンクしてしまった。吐き気もする。
だけど俺はこの違和感の正体を知っておかないといけない。なにせ今自分の身に降りかかっている異変なのだから。
もし俺のただの勘違いなら、蘭さんの悪質なドッキリなら、笑い話で済むんだから。
と、バタバタと足音が聞こえてきて、蘭さんが部屋に飛び込んできた。
「はぁ、はぁ………。はいっ!持ってきました!」
頬を紅潮させて息を切らせながら本を差し出してくれる蘭さんに「ありがとう」と言ってから、本を受け取る。
まだ少し震える手で本をペラペラと捲っていくうちに、頭痛と吐き気と目まいがどんどん増していった。
そこには俺が知っていた、勉強した歴史とは大きくかけ離れた記述が所狭しと踊っていた。
プラントについての記述なんて一切ないし、ナチュラルやコーディネイターのことも、モビルスーツのことも、
ザフトや地球連合軍のことも、『血のバレンタイン』のことについても、何も書かれていなかった。
IS?篠ノ之束?何のことだそれは?
もしかしたらこれはただの夢なのかもしれないと思った。
だけど全身を駆け巡る痛みが、そしてレイたちを失った記憶と心の痛みが、これは現実なのだと俺に悟らせる。
もしかしたら蘭さん以外の誰かに尋ねたら、俺のよく知っている歴史や事柄について聞けるのかもしれない。
だけど、蘭さんのあの表情を察するに、とてもそうは思えない自分がいた。
ファンタジーなんて糞くらえと思うけど、さっきも言ったように俺はファンタジーなんて信じてないけど。
有り得ない結論が俺の中で、現実味を帯びていった。
ここは、俺の知っている世界じゃないんじゃないか?という結論が。
「…………ははは……………………はははは……………………」
知らず、乾いた笑いが漏れる。
人間ってのはどうしようもなく途方に暮れた時は笑い出すことがあるらしいけど……。
多分、今の俺の笑いはそれとは違う気がする。
今俺がいるこの世界が俺の知っている世界とは違うかもしれない。
それがもし正しかったとして、それがどうしたっていうんだ?
住む場所がない?金がない?確かにそれは致命的な大問題だが、少なくとも今の俺にとってはどうでもよかった。
問題は、この世界が俺のいた世界とは違うという、その根本的な一点だけだった。
だってこの世界には、ルナがいない。
ミネルバの皆もいないし、ザフトもプラントもない。
グラディス艦長の息子さんにも、会いに行くことができない。
つまりここは、俺が生きることを決意した、歩いていくことを決意した世界じゃない。
ここは、俺が戦っていくべき世界じゃない。
(そうか………………)
ここまで考えて、ようやく俺は一つの事実にたどり着く。
ここが一体どこで、何で俺がこんな所に来てしまったのかは分からない。
でもたった一つ、確かなことがある。
それは今の俺には、最低最悪の、絶望的な悪夢だった。
(俺は、自分の世界で生きることすら、できないんだな…………)
俺の心がまたしてもドス黒い闇に支配されていく。
それは絶望なのかもしれないし、もしかしたら諦観なのかもしれなかった。
……そうなのかもしれない。
大切な人を誰も守ることができなかった俺が、皆の想いを受け継いで戦うなんて、ムシの良すぎる話だったのかも
しれない。
「あ、あの…………………」
蘭さんは黙ってしまった俺を見つめてオロオロしていたが、一度ゆっくり頷いて、突然部屋を出て行ってしまった。
……当然だな。
善意で家に運び込んで看病までしてた男が、いきなり妙なことを言い出して、騒いで。
挙句突然笑い出したかと思うと、黙って口を開かなくなっちゃったんだもんな。
俺はしばらくの間目を伏せて、ベッドに腰掛けていた。
俺にはまだやることがたくさんあるっていうのに。
こんなところで途方に暮れている自分に腹が立った。
自分の不甲斐なさに苛立ったし、何より、情けなかった。
ステラに誓ったのに。今度こそ全てを守るって。
レイとグラディス艦長に誓ったのに。二人に託された願いを果たしてみせるって。
でも、今の俺ときたらどうだ。
気絶している内にどこかの家で介抱されていて、バカみたいに取り乱して、蘭さんまで困らせて。
とにかく、自分が情けなかった。
そうして底なしの思考の海にずぶずぶと沈んでいると、不意に何かの香ばしい香りが俺の鼻腔をくすぐり、一気に
意識を引き戻される。
不思議に思って顔を上げると、蘭さんが立っていた。
その手にはコーヒーの入ったコップを持っていて、それをゆっくり俺に差し出してくれた。
俺が驚いて目を見開いていると、蘭さんは俺の目をしっかりと見据えて、しかしおずおずと口を開いた。
「あの、私何であなたがそんなに取り乱しているのか、理由は分からないですけど………。それでも、そんなに
混乱してたら冷静に物事を考えることができないっていうことは分かります。だから………」
これを飲んで、まずは落ち着いてください。
そう言うと顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
俺はそっとコーヒーを受け取って、それを一口啜る。
すると口いっぱいに濃厚な苦みが広がり、立ち上る湯気が鼻から脳まで一気に駆け巡って、気持ちを落ち着かせて
くれる。
二口目を啜る頃には、頭も心もすっかり落ち着いていたのだった。
(全く、本当に情けない男だな、俺は…………)
俺は今度こそ自分の不甲斐なさに苦笑する。
散々醜態を晒した挙句、蘭さんにも気を遣わせてしまった。穴があったら入りたいとはこのことだ。
でも、そうだよな。
いくら自分が異常な事態に直面していたとしても、混乱して騒ぐだけじゃ何も変わらない。
まずは蘭さん以外の人にも色々と聞いてみて、俺の知っている事柄があるか確認してみよう。
もしここが俺の知っている世界とは全然別の世界なんだとしたら、元の世界に帰る方法を探してみよう。
俺は何を取り乱していたんだ?
たとえこの世界がどんな世界だとしても、俺のやるべきことは何一つ変わらないってのに。
ふと蘭さんの方に顔を向けると、さっきとは違って申し訳なさそうに目を伏せていた。
「……ごめんなさい。あなたにどんな事情があるか知らないのに、私ってば偉そうに………」
そう言って小さくなる蘭さんを見て、ほんの少しだけ笑みがこぼれる。
どれだけ優しいんだろう、この人は。
散々迷惑をかけてるのは、俺の方なのに。
そんな優しくて暖かい彼女に、今の俺に見せられる最大の誠意っていったら、やっぱりこの言葉しかないと思う。
「あなた、じゃないよ」
「え………………?」
「シン。シン・アスカだ。よろしく。そしてありがとう、蘭さん」
蘭さんはしばらくポカンとしていたが、やがて我に返って「どういたしまして、シンさん!」と。
今日見た中で一番の、とびきりの笑顔で微笑んでくれたのだった。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m