―――――― 夢を見た。
それは毎夜毎晩、一日も欠かさず見てきた悪夢。
父さんが、母さんが、マユが、ハイネが、ステラが。
理不尽で不条理で。
何より残酷な、戦争という名の業火に焼かれて、その命の灯火を消していく。
そしてつい一日前から、その悪夢に新たなキャストが追加された。
……議長と、グラディス艦長と、レイ。
崩れ落ちるメサイアを見つめながら、ただ泣き続けるだけの情けない俺。
そしてそのままデスティニーと共に底の見えない暗闇にズブズブと
沈んでいって。
その闇の中で、誰かに言われた気がした。
― たった一回守りきれただけで、休めると思うなよ ―って。
― お前が守れなかった人たちに償うには、まだまだ足りないんだからな ―って。
― お前は一生、もがいて、足掻き続ける運命なんだ。一生、休まる時なんてないんだから ―ってさ。
……分かってるよ、そんなこと。
わざわざ夢の中にまで出てきてご忠告してくれるとは、相当暇なんだな、アンタも。
……それじゃ、そろそろこの悪夢も終わりだろうから、目を覚ますとしようか。
まだまだ俺には、やらないといけないことが一杯あるんだからな。
それじゃあ、また。
明日、この悪夢で会おうぜ。
俺は首だけで振り返り、光彩の失せた瞳で俺を睨みつける『俺』に、軽く微笑みかける。
そしてそれと同時に、俺の体は果てない漆黒の中に溶けていった。
そうして目を覚ました俺を待ち受けていたのは、新たな大切な人たちとの出会いと、
新たな物語のプロローグだった。
◇
ずっと、うなされていた。
初めて出会った時と同じように、ずっとずっと。
その口から漏れ出す悲痛な声。
噴き出し続ける汗。苦痛に満ちた表情。
そしてそのどれか一つさえも止めてあげることができない私は、ただ唇を噛み締めて
シンさんの手を握り続けることしかできなかった。
ここは私の家から少し離れた場所にあるIS学園内の医療施設。
大学病院並みの施設が揃っているここで緊急手術を受けたシンさんは、特別に割り当てられた
VIP用の個室で、もう三日間も眠り続けていた。
でも、それも仕方ない。
打鉄の残骸から降ろしたシンさんの傷は、それは酷いもので直視することさえ難しかったから。
私とお兄を庇った時に受けた時の傷、全身に無数についた内出血の跡、そして左足のふくらはぎの傷。
それに加えて右腕の傷に全身の傷とやけど。
私はシンさんを見た時そのあまりの傷の酷さに、シンさんに縋りついて泣いてしまった。
しょうがないじゃない。
あの時の私は泣くこと以外に、何もできなかったんだから。
あの時は、本当に大変だった。
だってシンさんの怪我は想像もできないくらい酷いもので。
一刻も早く治療してあげなくちゃいけないのに、交通機関は完全に止まっていて
病院があの惨状の中無事かどうかも分からなかった。
私たちだけじゃどうしようもなかったと思う。
一夏さんのお姉さんが、千冬さんがあの場にいなかったらどうなってたか分からない。
気がついたら私はシンさんの手をより強く握りしめながら、あの時のことを。
あの蒼いISが撤退した後の事を思い返していた。
・
・
・
・
「シンさん!シンさん!!しっかり、しっかりして下さい!?」
「これは………。こんな、酷い…………」
「こりゃあ………。いくら何でも、あんまりだろ………!」
私たちは地面に横たわったシンさんの肉体を目の当たりにして、思わず言葉を失った。
見るに堪えない、あまりに酷い傷。
まるで現実味がない程の、酷すぎる傷。
こんな、こんなボロボロになってまで、私たちを守るために戦って………。
それに背中の傷はおじいちゃんから聞いていたけど、右腕の傷も目の前で見ていたから
知っているけど………、この左足の傷は何!?
しかも、この傷も相当酷い……。
この全身に無数に広がっている内出血の跡もとても痛々しくて………。
こんな酷い怪我を負っていたのに、ISに乗って戦っていたっていうの!?
私たちを、皆を守るために。
こんなになるまで、こんなボロ雑巾みたいになってまで、戦い続けていたっていうの………!!?
瞳から、止めどなく涙が溢れてきた。
泣いてる場合じゃないのは分かっていたけど。
それでも、今のシンさんを見ていると。
悲しくて、ただひたすらに悲しくて、胸が締め付けられるように苦しくて………。
私はただ泣きながら、シンさんに縋りついた。
どうしようもないほど、私は取り乱してしまっていた。
それは、私だけじゃない。
お兄も、お母さんも、いつも豪快なのに冷静沈着なおじいちゃんでさえ、慌ててしまっている。
シンさんを心配して集まってきた他の人たちも、同じ反応だった。
だけど、それはしょうがないことだと思う。
あのISが撤退したとはいっても、街はまだあちこちで火の手が上がっているし。
人々の混乱は未だ続いているし。
何より、皆を守るために戦ってくれていたシンさんが、こんな状態じゃ………。
こんな酷い状態のシンさんを見てしまったら、とても冷静じゃいられない。
「じーちゃん!早く救急車を!このままじゃ、シンが……!!」
「分かってる!分かってるが……!携帯は食堂に置いてあるし、公衆電話も街がこの有様じゃあ……!
それに病院や個人医院も破壊を免れているかどうか……。道路も滅茶苦茶だし、
車も通れやしねぇ…………!」
「そんなこと言ってる場合かよ!!早く治療をしないとシンが、シンが死んじまうよっ!!!」
「落ち着きなさい、弾!おじいちゃんに喰ってかかっても仕方ないでしょ!」
お母さんが必死に二人を宥めるけど、お母さんも分かっているはず。
この状況じゃ、シンさんを助ける方法がないってことを。
この廃墟と化した街じゃ電話なんて通じないし。
たとえ電話が繋がって救急車が呼べたとしても、道路も破壊されてしまっているから車も通れない。
仮に救急車がここまで来れたとしても、大きな病院には車で移動しても、十五分はかかる。
もちろんそれは街がいつも通りならの話で、ここまで街が破壊された今の状況じゃ、時間は倍以上
かかると考えた方がいい。
食堂の近くの医院さんは、私が救助作業してた時に滅茶苦茶に破壊されているのを見ているし。
それに、そもそも大きな病院も無事かどうか………。
とにかく、シンさんを病院に連れて行くこともできないし、私たちには医学の知識もない。
まさに、手詰まりだった。
私たちは皆一様に何もできないという無力感に苛まれながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
私たちにはもう、シンさんを助けることはできないの?
今、散々シンさんに助けてもらったのに?
シンさんに命を救ってもらった私たちだけが助かって、私たちを守るためにこんなになるまで
戦ってくれたシンさんだけが、死ぬ………?
そんなの、そんなの絶対嫌!
そんなの絶対認めない!!
そんな、そんな悲しいこと、絶対に!!!
でも、現実として私にできることは、シンさんのために泣くことだけで。
私を含めて、その場にいる全員が絶望に打ちのめされていた、その時だった。
「いつまでも絶望していてどうする!!その少年を助けたいのなら、前を向いて
涙を拭け!希望を捨てるな!!捨てなければ、そこに必ず希望の光は差し込む!!!」
突如どこからともなく、私たちを叱咤する声が響き渡った。
その声はとても力強くて、とても凛としていて。
私たちは今までの混乱も一瞬忘れて、その声のする方、はるか上空に目を向けた。
そこには追い詰められたシンさんを救ってくれた、二機のISの姿があった。
一機は緑髪で眼鏡をかけた、優しそうな女性が駆るラファールリヴァイブ。
そしてもう一機は肩までかかりそうな艶やかな黒髪をなびかせる、厳しそうな瞳の
女性が駆る打鉄。
その二機は私たちのすぐ近くに悠然と着陸する。
未だ呆然とする私たちに最初に声をかけたのは、打鉄を駆る黒髪の女性。
その細めた双眸をフッと柔らかくして、その女性は静かに切り出した。
「私はIS学園で教鞭をとっている織斑千冬と申します。こっちは同じIS学園の教師で
山田真耶。この度は援軍として駆けつけるのが遅れて、申し訳なかった」
そう仰々しく謝罪の弁を述べてくるが。
私は、いや私たち五反田一家はその自己紹介に思わず「おや?」と思ってしまう。
「織斑」千冬。織斑………織斑?
下の名前はこの際どうでもいい。問題は名字の方。
織斑なんて名字、そうそうある名字じゃないし。
少なくとも私たちは「織斑」という名字を聞いて、たった一人しかその名字に該当する
人物を思い出せなかった。
だから私は無意識の内に「彼」の名前を呟いていたの。
「織斑って、一夏さん………?」
「!……君、弟のことを知っているのか?」
へ…………?
私たちの時間がピタッと止まった。
彼女が言った言葉を、私たちはたっぷり十秒ほどかけて反芻して。
そしてその言葉の意味を理解した時、私たちは素っ頓狂な声を上げてしまっていた。
「「「「お…………弟ぉ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!????」」」」
「ああ。一夏は私の弟だ。君、というかあなた達全員、一夏のことを知っていたのだな」
驚愕に目を見張る私たちをよそに、一人淡々と冷静な彼女……千冬さん。
嘘………、一夏さんにお姉さんがいたなんて、全然知らなかった。
一夏さんちっともそんなこと教えてくれなかったし……。
だけど言われてみれば、どことなく一夏さんに似てる気がする。
顔はもちろん一夏さんと同じで、とても整っていて美形なんだけど。
そういう表面的なことじゃなくて、なんかこう………雰囲気が………。
だけど、私たちのそんな下らない思考は、彼の辛そうな呻き声に一瞬でかき消された。
「うぅ………。ぐ、ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……………」
「っ!シ、シンさん!大丈夫ですかっ!!?」
「そうだ、シンがヤバいんだった!!な、なあ、アンタ一夏の姉ちゃんなんだろ!
だったらさ、アンタのISでシンを病院に連れて行ってくれないか!?」
「おぅ、そうだな!一夏の姉ちゃんなら無条件で信用できるし……。頼むぜ、千冬さん!
こいつを、シンを!怪我を治療できる場所まで運んでくれよ!!」
私たちは一斉に千冬さんに詰め寄って、懇願する。
私たち自身がシンさんを助けることができないのは悔しいけど……。
でも、シンさんが死んじゃうことの方が、何百倍も辛いことだから!
私たちのそんな嘆願を聞いて、千冬さんはその厳しい顔つきをさっきよりもさらに柔らかい
ものに変える。
そしてなるべく私たちを落ち着かせるような口調で語りかけてくれた。
「言われなくても、我々もそのつもりだ。IS学園の医療施設には既に連絡してある。
私がISでそこの少年を運ぶ。最大加速で飛ぶから、五分とかからない」
その言葉を聞いて周りからワッと歓声が巻き起こる。
お兄たちもようやく顔にほんの少し安堵を浮かべた。
だけど、私はその言葉を聞いても少しも安心できなかった。
確かに病院で治療できたならシンさんは助かる可能性が出てくる。
そう、可能性が出てくるだけなのだ。
シンさんの怪我は酷すぎるし、医療施設で手術を受けたからって、助かるとは限らない。
未だ私の心臓は、ドクンドクンと早鐘を打ち続けていた。
と、千冬さんがシンさんを優しくお姫様だっこする。
そして私たちに背を向けて、首だけで振り返る。
「では、少年は連れていくぞ。医療施設に到着したらすぐに手術だ。成功するかは分からないが、
結果は分かり次第連絡する。あなたたちはここで待機していてくれ。もうすぐ他のISや
自衛隊も到着するから、その後は彼らの指示に従ってくれ」
それだけ早口で言うと、ISのスラスターを噴かせ、空中に駆け出そうとする。
お兄たちはシンさんがまだ助かると決まったわけじゃないと気づいて、呆然と
しているが、私はそのことに気を使う余裕はない。
私は反射的に千冬さんを呼び止め、彼女の目の前に向かっていた。
「あ、あの!千冬さん、待ってください!私も一緒に連れて行ってください!!」
「……何?」
千冬さんは再び振り返り、私に視線を向ける。
と言っても別に睨みつけたり鬱陶しそうにするわけじゃない。
ただただ私を見つめて、次の言葉を待っていてくれる。
私は大きく息を吸い込んで、吐き出して。
落ち着いてから、言葉を紡ぐ。
今の私の、正直な気持ちを。
「あの……、シンさんは今家族と連絡が取れないらしくて、手術や入院となると
付き添いが必要になるというか……。着替えとかも持っていく人がいた方がいいし……。
……って、そうじゃないですよね。……私、シンさんのことが物凄く心配なんです!
私たちのためにこんなになるまで頑張ってくれて、なのにシンさんに何もしてあげられ
ないなんて、私は耐えられない!!せめてシンさんが元気になるまで傍に居てあげたいんです!
お世話してあげたいんです!!だから、お願いです!!私も一緒に連れて行ってください!!
絶対、迷惑はかけませんから!!だから、だから……………!!」
最後の方は半ば叫ぶように言ってしまった。
だけど、今のが私の正直な気持ち。
私には何もできることがないのはわかってるけど。
私に、シンさんを助けることはできないけれど。
でも、せめてシンさんの、彼の傍に居てあげたかった。
彼が元気になるその時まででもいい。
彼に、ついていてあげたい。
そんな思いを込めて、私は千冬さんを見つめ返した。
すると今まで黙って私の言葉を聞いていた千冬さんは、ゆっくりその表情を和らげていって。
そしておもむろに彼女の横に待機していた緑髪の女性……山田さんに視線を移した。
「山田先生、そういうことです。この少女を一緒に連れて行くので、運んであげて下さい」
「ふぇ!?お、織斑先生本気で言ってます!?IS学園は基本一般人は立ち入り禁止ですよ!?
今は春休み中ですけど、学園内にはまだたくさん生徒もいますし、不味いのでは……!?」
山田さんは千冬さんの男らしすぎる対応にアタフタするばかり。
でもそれも当然のことで、IS学園はIS操縦者を育成するための世界で唯一の機関であり、
そういう特殊な場所故にISに関する機密事項がいくらでもある。
なのでIS学園は基本一般人の出入りを禁止している。
もちろん例外はあるだろうけど、医療施設に何故か分からないがISを扱える男性が入院して、
その人の付き添いが一般人の女の子。
IS学園としてはかなり特殊なケースだろうし、シンさんはともかくまだIS学園の生徒でもない
私をそう簡単に受け入れるだろうか?
しかも入院となれば結構な期間になるはず。
たぶん通院という形になるだろうけど、そんな長期私をIS学園に自由に出入りできるように
するのは、かなり難しいんじゃないかと思う。
だけど、そんなことをモヤモヤ考えている私と山田さんを置き去りにして、千冬さんはただ一言
言い放った。
「私が話を通しておく。行きますよ。この少年、本当に手遅れになる」
そう言うや否や、凄まじい加速で空中に飛び出して、ものの数秒で私たちの視界から消え去ってしまった。
それをポカンとして見ていた山田さんはいち早く復活して溜息をつく。
「お、織斑先生っ!……もう、こういう時は本当に強引なんだから。でも私も彼女の願いは
叶えてあげたいですし……、しょうがないですね。じゃあ、あなた。こっちに来て。
全速力で飛ぶから、落ちないようにね」
そう言うと山田さんはにっこりと微笑んで、こっちにこいこいと手で招いてくる。
おずおずとそちらに向かうと、山田さんは私の腰に腕を回して、私を安心させるようにふんわりと
笑いかけてくれる。
私はぎこちなくその笑顔に微笑み返して、お兄たちに振り向いた。
「お兄、おじいちゃん、お母さん。シンさんの事は任しておいて!お店の片付けとか手伝えなく
なっちゃうけど……。シンさんの付き添いは、私がしっかりやっておくから!!」
私の言葉におじいちゃん達は力強く頷いてくれる。
そしてお兄はニッとはにかんで、親指を立てた。
「こっちは俺たちに任せとけ!蘭、シンのこと頼むぞ……!」
その緊張感のない笑顔を向けられて、私もつられて笑みを浮かべる。
その様子を見ていた山田さんは、タイミングを見計らっていたようにISのスラスターを広げ、
フワリと私を抱えたまま宙に浮かぶと、突如加速してIS学園へと向かう。
シンさんを連れた千冬さんが向かう、IS学園へと。
◇
……その後施設に到着したシンさんはすぐに集中治療室に運ばれて。
簡単な検査を受けた後、すぐに手術室に担ぎ込まれた。
シンさんの手術は十二時間にも及ぶ大手術になった。
手術室の前でたった一人で待っていた私には、その時間は永遠とも呼べるほどに長く
感じられた。
気分を紛らわすために自販機で買ったホットコーヒーもほとんど口をつけないままに
冷めてしまって。
結局そのままゴミ箱の中に捨ててしまった。掃除係の人には悪いことしたなぁ。
そうして待ち続けていると、ようやく手術室のランプが消えて。
神妙な面持ちで出てきた外科医さんは、開口一番にこう言った。
「彼は本当に、人間なのですか?」って。
その言葉の意味が分からずに聞き返すと、その外科医さんは思案顔で口を開いた。
「あの傷はおよそ人間の耐えられるものではありません。火傷が思った以上に
軽かったことだけは不幸中の幸いでしたが、全身のあの傷にあの出血の量……。
手術は何とか成功しましたが、何故手術が成功したのか、処置をした私自身も
驚いているんですよ」
それを聞いて、私は心臓を鷲掴みされた気分だった。
シンさんの命がとても危なかった。
あの傷を見ればそれは一目で分かることなのに。頭ではそのことを理解していたはずなのに。
自分でもシンさんが助からないかもしれないって考えていたはずなのに。
それを他ならぬ処置をした外科医さん本人から聞かされて、私は視界が思わず暗転しそうになった。
っていうか、お医者さんが患者の関係者に容赦なくこんな事言うなんて何考えてるのよ!
そう思って外科医さんを睨むけど、その外科医さん自身、どこか呆然としている。
訝しげに見つめていると、外科医さんは私を見つめ直して、手術の様子を思い出しながら
切り出した。
「私は外科医になってもう三十年近くになります。その間私は、実にたくさんの患者を
見てきました。でも、これほど生きることへの『執念』を感じさせられたのは、あの
少年が初めてです」
「生きることへの『執念』、ですか………?」
私はその言葉に含まれる重みについて、いまいちピンと来ずに聞き返してしまう。
だってそうでしょ?
生きたい、死にたくないなんて感情、誰だって持っているものだもの。
私だって、そう。
瓦礫の雨が降ってきたあの時、私は死にたくないって、そう思った。
生きたいって、強く願った。
もしそれを『執念』と言うのなら、外科医さんの感じた『執念』と私の『執念』に、
一体どんな違いがあるっていうの?
やっぱり、想いの強さの違い?
でも、それでもやっぱり私にはピンと来ない。
多分それが、この世界で生きている人間の、大半の認識だと思う。
すると外科医さんは私の聞き返した言葉に、重々しく頷いた。
「人というのは、必ず誰でも生きることに対して執念を持っています。そしてその
執念は、手術をする時にはより強くなって、私はそれを感じることができます。
一種のオーラ、とでも言いましょうか。もちろん中には『手術なんてしても無駄……』
と、生きることに執念を持たなくなってしまった人もいました。
しかしやはり、大半の人は『手術を成功させて、もっともっと生きたい』と思う
人ばかりなのです。ですが………」
そこで外科医さんは一度言葉を切って、ほんの数秒目を閉じる。
シンさんの手術をしていた時のことを、よりよく思い出すように。
そうして、ゆっくりと目を開いて、続ける。
「……ですが、彼の場合はその執念が桁違いに強かった。
あれだけの傷を負って、人間に耐えられる痛みの限界をとうに越してしまっている
はずなのに。彼の執念は、オーラはどんどん増す一方でした。
あれほどの痛みを受け続けた人間は、普通『早くこの痛みから解放されたい』
『もう楽になりたい』と、そう思うはずなのにです。まあその執念のお蔭で
手術が成功したようなものですから、私としては良かったんですけどね」
私は外科医さんのその言葉を、困惑しながら、しかしただ黙って聞いていた。
何でかって?
だって私がシンさんに感じていた印象と、外科医さんがシンさんに感じた印象は、
あまりにも違っていたから。
私はこの二日間のことを、シンさんと出会ってからのことを思い返す。
初めてシンさんと出会った時のこと、お兄の部屋でお話した時のこと、
そしてあのISと戦っていた時のシンさんのことを。
そこで私がシンさんに感じたことは、いつも、とても辛そうにしていたってこと。
何か私たちが想像もできないくらい重いものを背負っていて、いつ押しつぶされても
おかしくなさそうで。
ISと戦っている時も自分の体のことなんか、微塵も考えていないように見えて。
私はそんなシンさんを見て、「早く死にたがっている」「一刻も早く楽になりたいと
思っている」って、そんな風に感じてしまっていたの。
だから、だと思う。
シンさんと接している間、話している間もずっと「この人には誰かが寄り添ってあげて
いないといけない!」って思っていたのは。
でも、この人はシンさんから凄く強い「生きたいという想い」を感じたのだという。
どっちなんだろう?
どっちが本当のシンさんの姿なんだろう?
生きたいと願うシンさんと、死にたいと願っているシンさん。
どっちが、彼の本当の願いなんだろう?
そんなことを考えていた私は外科医さんが発した言葉の続きにハッと我に返る。
何を話してるんだろうと顔を上げるが、彼は私から目を逸らしてポソポソと呟いている。
どうやら独り言らしかった。
私はその内容が何故か気になって、思考の海にどっぷりと浸かっている外科医さんに
話しかけた。
「あのっ!……どうかされたんですか?何か気になることでも?」
「えっ?ああ、いや………。さっきの手術のことを、彼のことを思い出していたんです
がね………。彼を手術している時、とても心が苦しかったことを思い出したんですよ。
彼を、見ているとね」
眼鏡をくいっと上げて白髪の総髪をぐしゃぐしゃと掻きむしる彼の言葉を聞いて、
私はぐっと息を飲む。
だってそれは私がシンさんを見ていて感じていたことと、全く同じだったから。
外科医さんは押し黙る私を一瞥した後、続きの言葉を口にする。
「まだあんなに若いっていうのに、あれだけの傷を負って涙一滴流さないし。
手術の最中ずっと誰かの名前を呟き続けているし。その姿を見ていると、
何だか妙に心が痛くてね。織斑先生の話だと、彼には戸籍もなかったって
いうし。一体どこで何をしていたんだか………。
あくまで私の想像でしかないけど、きっと彼は我々とは全然質の違う人生を
歩んできたんだと思う。あくまで、想像だけどね」
それだけ言うと、彼は会釈して私から離れていった。
私は今の彼の言葉を反芻する。
「シンさんは私たちとは全然違う人生を歩んできた」、私には正直、そんなこと
分からない。想像もできない。
だって私は……シンさんのことを何も知らないから。
たった一日しか、お話してないから。
でも、それはきっと、ただの言い訳。
今日一日で色んなことがあったのに。
シンさんの魂の叫びを、これでもかってくらい聞いたのに。
外科医さんが想像したことさえ、今の私には想像できなかった。
今の私は、シンさんのことを全然理解できていない。
それが、とても悔しくて………。
私は胸の中でくすぶる自分でもよく分からない思いを前に、ただ立ち尽くす
ことしかできなかった。
・
・
・
・
……長かった私の回想もようやくここで終わり。
ごめんね、退屈させちゃったかな?
手術は一応成功したけど、やっぱりシンさんが受けたダメージは大きすぎて。
ずっと目を覚ましてくれないけど。
さっきまでの苦悶の表情も悲痛なうわ言も、私が手を握ってからは
ゆっくりと和らいできて、今は何とか落ち着いている。
……な、何か照れるね。……コホンッ!
ま、まあそれはとても良いことなんだけど。
シンさんについて心配なのはそれだけじゃない。
千冬さんの話だと、シンさんには戸籍がなかったらしい。
当然彼の国籍も、家も、家族のことも分からなかった。
戸籍がないなんてあまりに突拍子もない事態に、私はただオロオロするばかりだった。
千冬さんはそんな私を見るに見かねてか、「私が何とかしてやる。心配するな」って
言ってくれたけど。
一体どうやって戸籍の問題なんか解決するんだろう?
だけど、大丈夫だと思った。
だって千冬さんからは、一夏さんと同じ雰囲気を感じるから。
「この人に任せておけば大丈夫」っていう、そういう人を安心させるような雰囲気が
彼女にはあるから。
「……はふぁ……」
……いけない、欠伸しちゃった。
だけどこの三日間、ほとんど付きっきりでシンさんの看病してたし。
家に帰ってもボロボロになった店内の片付けとか、家を失った人たちへの炊き出し
とかあったし。
それらが一段落した後もシンさんのことばかり考えてたから、ろくに寝れて
ないんだよね。
本当に、学校が春休みに入ったばかりじゃなかったら、危なかったよね。
間違いなく授業中に居眠りしちゃっただろうし。
……って、まずい。
そんなこと考えてたら余計に睡魔が………。
だけど、もう限界だった。
臨界点を突破した疲れが頭のてっぺんからつま先にまで浸透して、私は
シンさんが寝ているベッドに、頭を突っ伏してしまった。
でも、シンさんの手は離さない。
シンさんの手を握っていると、何だかとても安心するの。
あのISと戦っていた時のシンさんは、まるで太陽のような灼熱の闘気を放っていたけど。
今は静かに揺れる水面のように、とても穏やかで。
彼の手の温もりが、疲れ切った私の体に染み渡っていくようで。
もしかしたらこれが、シンさんの本来の暖かさなんじゃないかなって思うの。
「シンさん…………………」
そう一言呟くのが、もう精一杯だった。
私はゆっくりと瞳を閉じて、夢の世界に旅立つ。
右手から伝わってくるシンさんの暖かさを感じながら。
シンさんの匂いに、温もりに抱きすくめられながら、私は意識を手放した。
「夢の中ではシンさんとゆっくり話してみたいな」なんて、
そんなことを考えながら。
◇
「………ここ、は?………どこ、だ…………………?」
まるで接着剤で塗り固められたように開かない瞳を無理やりこじ開けると、
まず見えたのは、見慣れない天井。
部屋の電気はついておらず、室内を照らすのは窓から差し込む月明かりのみ。
それは俺がこの世界に来た時に初めて見た光景と、よく似ていた。
でも、今俺の目の前にある天井は、弾さんの部屋の天井ではない。
かといってミネルバで俺に割り当てられた相部屋の天井でもない。
もしかしたら今までのことは全て俺の夢で、起きたらルナやレイたちが俺を
笑顔で迎えてくれて、なんて。
いくら何でもそんな都合の良いことなんて、あるわけないよな。
少しでもそんなことを考えてしまった、自分の馬鹿さ加減に苦笑する。
一息ついて、ここはどこなのかを確認するために横たわっていたベッドから
体を起こそうと、全身に力を入れるが………。
「……ぅグッ!?ぐ、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………!!?」
突如凄まじい痛みが全身を駆け巡る。
そのあまりの痛みに、俺は呻きながらゆっくりとベッドに倒れこんだ。
気をやってしまいそうなほどの痛みに何とか耐えつつ、自分の体の状態を
確認する。
「………ぅお」
命名、ミイラ男。
実際は顔の部分はガーゼが貼られているだけだったが、それ以外の部分は
包帯でぐるぐる巻きにされていた。
もっとも痛みの激しい胴体にはより厳重に包帯が巻かれていて、じんわり血が
滲んでいる。
………何で俺、こんな怪我してるんだ?
寝起きのせいか頭が全く回らない。
それに首だけで周りを観察してみると、ここはどうやら病室のようだった。
どうして俺、こんな所に………?
朦朧とした頭で記憶を掘り起こそうとしていると、扉の方から引き締まった凛とした
声がかけられた。
俺はゆっくりとそちらを振り向く。
「ようやく、気がついたようだな」
いつの間にか扉が開いており、そこにはピチピチの黒スーツを身に纏った気の強そうな
女性と、対照的にゆったりした可愛らしい服を着たほんわかとした印象の女性が立っていた。
その二人に見覚えのない俺は、知らず問いかけようと身を起こして。
「ぁ………ギィ!?ぐ、ぅぅぅぅぅぅぅ…………」
またしても激しい苦痛に唸ってしまう。
それを見ていた緑髪の女性が慌てて駆け寄ってくる。
心配そうに俺の体を支えてくれる。
「ちょ………、駄目ですよ起きちゃ!瀕死の重傷なんですよ!?無理したら傷口が
開いちゃいますよ!」
「ぐぅぅぅ………。す、すいません…………」
俺はおとなしくベッドに身を沈める。
流石にこれ以上は痛みに耐えられそうにない。
少し落ち着いたところで、俺は改めて彼女らに問いかける。
「……ところで、あなた達は?それに、ここは………?」
「私は織斑千冬。こっちは同僚の山田真耶。我々はこのIS学園で教師をしている。
そしてここはIS学園内の医療施設。お前はここで三日間眠り続けていたのだ」
「三日、間………?一体、何で……………………………………」
そこまで言いかけて、脳裏に俺にとって「ついさっき」までの光景が
フラッシュバックした。
廃墟と化した街。
あちこちから上がる火の手。立ち昇る黒煙。
そんな中を逃げ惑う人々。
生きるために必死に足掻いてもがいて、でも逃げられずに苦しみ続ける人々。
そんな人々を嘲り笑いながら、暴虐の限りを尽くすISを身に纏った女。
その女がライフルをゆっくり向けて、その銃口から撃ち出されたビームが
俺の視界を白亜に染め上げ………。
そこでハッと俺の意識が現実に引き戻される。
……思い出した。
俺はあの瓦礫の山で偶然見つけたIS・打鉄を纏って、サイレント・ゼフィルスを駆る
あの女と戦って………。
だけど、あの戦いの結末を、俺はよく覚えていない。
奴のスターブレイカーとドラグーンの同時射撃を防ぐためにありったけのエネルギーを
使ってシールドを目一杯広げて、奴に突貫して。
その後のことは霞のようにしか覚えていない。
全身から冷や汗が引き出す。
ドクンドクンと心臓が早鐘を打ちはじめる。
歯がカチカチと音を立てて、視界がぐるぐると回りだす。
頭が、脳がぐちゃぐちゃになってとろけていく。
そうだ……街はどうなった?
あの女は?援軍は来たのか?
街の人たちはどうなった?
弾さんは?厳さんは?蓮さんは?蘭さん………は…………?
気が付いたら俺は。
傍に居た織斑さんにしがみついていた。
その黒スーツを力の限りに握りしめて、その鋭い双眸を見つめる。
彼女はそんな俺の奇行を目の当たりにしても、表情を崩さない。
ただ黙って、俺の視線を受け止めた。
だけどその時の俺はそんな彼女の態度も気にしていられなかった。
ただすぐ近くにいる誰かに、あの後のことを聞きたかった。
ただ、それだけだった。
「街は………?あの後、街はどうなった!?あそこにいた人たちは!?弾さんたちは!!?
どうしている!?無事なのか!!?」
「ちょ……アスカ君!いきなりどうしたの!?」
緑髪の女性、山田さんが俺のいきなりの豹変に驚いているが、気にしていられない。
体の中に渦巻くドロドロを吐き出すように、俺は喚き続ける。
「あの蒼いISは、あの女はどうなった!?援軍は!?ちゃんと来たのか!?
あの女は撤退したのか!?誰も……誰も死んでないよな!?
皆、無事だよな!?そうなんだよな!!?なあ、何とか言ってくれよ!!!?」
「アスカ君、落ち着いて!安静にしてないと、傷口が開いちゃうわよ!!
今無理したら、死んじゃうわよ!!?」
「それがどうしたぁ!!!!!」
ビクッと。
俺を落ち着かせようとしてくれていた山田さんが、息を呑んで身を縮こませる。
後になって思えば酷いこと言ったと思うが、あの時混乱の極限にいた俺はそんなこと
全く考えられなかった。そんな余裕はなかった。
……傷口が開く?死んでしまう?
それが何だ。
俺のゴミみたいな命なんか、どうだっていいんだ。
大切なのは弾さんの、蘭さんの、厳さんの、蓮さんの。
あの街にいた全ての人たちの命だ。
あの人たちが助からないと、何の意味もないんだ。
はらわたがねじ切れるような痛み、傷口がどんどん裂けていく痛み、様々な痛みが
俺の体全てを蹂躙するが、今の俺はそれさえもどうでもよかった。
今の俺が気になるのは、皆の安否。
それだけなんだから。
頭から垂れてきた血が、俺の視界を紅く染めるが。
それにも構わず尚も目の前の織斑さんに喚き続けた。
そうするしか、今の俺にはできなかった。
どれくらい喚いただろう?
喉も既に枯れ、しゃがれた声しか出なくなっても俺は口を閉じなかった。
そうすることで、何とか襲いくる混乱に耐えていた。
「俺のことはどうでもいい……。でも、弾さんたちは………。あの人たちは……。
俺の、大切な人たちなんだ………。もしあの人たちに何かあったら、俺は………」
消え入りそうな声で縋るように、織斑さんに語りかける。
お願いだ。
皆は無事だって言ってくれ。
皆生きてるって、誰も死んでないって言ってくれよ………。
俺はもう、誰も失いたくない。
レイたちを失ってまだ間もないのに弾さんたちまで失ったら………。
俺は、どうすればいいんだよ…………。
そんな思いを込めて懇願するように織斑さんを見つめていたが。
彼女はフッと息をつくと、その視線を逸らし、俺にその方向を見ろと言うように
顎でしゃくる。
俺はよろよろとそちらに視線を向かわせて……ハッと息を呑んだ。
俺が寝ていたベッドに突っ伏すように、彼女は眠っていた。
よっぽど深く寝入っているのか、俺の喚き声にも目を覚まさず、熟睡している。
聞こえてくる安らかな寝息が、俺の混乱を、緊張を解きほぐしていく。
俺は無意識の内に、ポツリと呟いていた。
俺が守りたかった、大切な人の名を。
「蘭……………さん………………………」
「……彼女は、五反田は目を覚まさないお前をずっと看病していたんだ。
朝は早くから夜は遅くまでな。ずっと、お前のことを心配していたんだぞ」
その言葉に愕然としながら蘭さんを見つめる。
心配してくれていた?俺を?
信じられないという思いが俺を支配する。
俺みたいな男を心配して、一体彼女にどんな得があるっていうんだ?
思えば初めて出会った時から、彼女は俺のことを何かと気にかけてくれていた。
でも、一体何故………………?
そんな俺の自問自答は、織斑さんの声に中断させられる。
でも、それでもいい。
だって彼女の言葉は、俺の疑問なんか忘れさせてくれるぐらいに、強烈なものだったから。
「お前はあの街にいた人々の安否を気にしていたな。重軽傷者は多数いるが、幸運なことに
死者は一人もいなかった。それに怪我をした者の中でも、お前が一番重傷なくらいだ」
その言葉に、体中の力が抜けていく。
極限まで張りつめた緊張が一気に緩んでいく。
誰も、死んでない。
あの悲惨な状況の中で、誰も死者が出なかった。
怪我人が多数出てしまったのは悲しいけど、最悪の事態は避けられた。
……頭の中で、今までぐるぐるとあの時の出来事だけが渦巻いていた。
本当は、たった今言われた「死者が出なかった」という言葉だけでは、心のモヤモヤは
晴れなかった。
あの惨状の中で死者がいなかったなんて、正直信じられなかったからだ。
でも、彼女の次の一言は。
彼女が突如フッと優しい光を宿した瞳は。
俺のそんな心のモヤモヤを、瞬く間に消し去ってくれた。
「……お前が、守ったんだ。お前があのISを食い止めたから、あれ以上被害は広がら
なかった。お前が、あの街の人々の命を救ったんだ。
全て、お前のおかげだ」
その言葉が。
その優しい眼差しが。
「死者は出なかった」というその言葉を事実だと認識させてくれた。
そしてその言葉を聞いた俺の口からは、知らず笑いがこぼれ出していた。
「はは…………、はははははははははははは………………………」
スーツを握りしめていた手から、力が抜ける。
俺は織斑さんに縋りついた状態のまま、ズルズルと崩れ落ちて。
その体勢のまま、ただ笑い続けた。
俺の心を支配していたのは、安堵。
ただ、安堵。
五反田家の皆が、あの街の人たちが無事だったことへの安堵。
ただ、それだけだった。
誰も死ななくて、良かった。
あんな理不尽な暴虐で、命を落とす人がいなくて、良かった。
良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった
良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった
良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった
良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった
良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった
良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった
良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった良かった本当に
「本当に、良かった…………。ははは……良かった………。良かった、本当に………。
ははは……はははは………ははははははははははははは………………」
俺のいきなりの奇行に彼女たちがどんな表情をしているかは少し気になったけど。
今は、少なくとも今は、どうでもよかった。
俺は全身を包み込む安堵を全て笑いに変えて、ただただ、吐き出し続けた。
◇
「…落ち着いたか」
「はい……。すみませんでした、いきなり取り乱してしまって」
あれから何分経ったかは分からないけど、ようやく全身に帯びていた熱が冷めていって。
それと同時に忘れていた体の痛みが蘇ってきて。
またしてもベッドに倒れこんでしまった。
さっきまで純白だった体の包帯は、今は鮮血に染まっていて。
…結局、いくつか傷口が開いてしまった。
あとで看護師の人に大目玉を喰らうのを覚悟しないといけないな……。
織斑さんはそんな俺をさっきと変わらないキツい眼差しで見下していて。
山田さんはさっき以上にアタフタしていて。
まあ、目の前の病人がいきなりトチ狂って騒ぎ出した挙句、傷が開いて血まみれになったら
そりゃ慌てるだろう。
どこかのホラー映画みたいだったので、顔についた血は拭き取ったが、ベッドのシーツまで
血で汚れている。
なのに、蘭さんは未だ夢の中だ。
……俺を朝から晩まで看病してくれていたっていうし、よっぽど疲れてたんだと思うと
申し訳なくなってくる。
でも、やっぱり嬉しくて。
蘭さんを微笑ましく見ていると、山田さんはさらにワタワタしだした。
血まみれの本人がこんなに暢気にしていたら、誰だってそうなるのかもしれないけど。
「二人とも何でそんなに落ち着いてるんですかぁ!特にアスカ君!血まみれになってる
本人がどうしてそんなに落ち着いてるんです!?と、とにかく早くお医者さんを呼んで……!」
「その必要はないですよ山田先生。こうなったのは、こいつの自業自得だ」
……何気に厳しいこと言うなこの人。
まあ実際その通りだから何も言い返せないが。
しかし少しは心配とか動揺とかするもんじゃないのか?
まあ、俺の開いた傷を応急処置してくれた本人が慌てるのもおかしな話だけど。
おかげで血は止まっているし。
心なしか、痛みも少しはマシになったみたいで、今は割と普通に話せてる。
……すぐ痛みがぶり返してきて息も絶え絶えになるのかもしれないが。
でも、それを気にしてばかりもいられない。
なぜなら織斑さんの顔はさっきと同じ仏頂面で……いや。
心なしかさっきよりも真剣味が増しているような気がするからだ。
「それに、今から少し大事な話をするから、人がいない方が都合がいい」
「え?織斑先生……まさか今彼にあの話をするつもりですか!?」
「ああ、人に聞かれては困る話だし。アスカにとっても、早く話しておいた方がいいだろう」
何だ俺に関係のある話って?
それにさっきからアスカアスカって……、俺、彼女たちに名前教えたか?
まあ、多分蘭さんあたりから聞いたんだろうけど、承諾くらいとってから名前を呼んでくれよ。
そんなことを考えるが、織斑さんの10%ほど増した眼光が俺を射抜き、否応なしに
思考を中断させられてしまう。
「単刀直入に聞く。アスカ、お前は何故打鉄を……ISを動かせた?」
「……はぁ?何故動かせたっていうのは?」
「何でお前は男の身でISを動かせたか聞いている。その理由が、お前に分かるか?」
……何を言ってるんだ織斑さんは?
「いや、俺は横転していた倉持技研って所のトラックから打鉄を借りて動かしただけで……。
接続されていたパソコンにも『動作確認完了』って出ていたし。
俺があの機体に手を触れたら勝手に起動して。操作方法も頭の中に流れ込んできて…………」
俺は彼女の質問の意味が分からず、とりあえずあの時のことをツラツラと説明していく。
その説明を、山田さんは驚愕に目を見開いて、織斑さんはほんの少しだけ目を開いて聞いて
いたんだけども。
途中まで説明して、俺は「おやっ?」と首をかしげる。
織斑さんは今、何て言った?
「何でお前は男の身でISを動かせたか」って、そう言ったのか?
何で織斑さんはそんなこと聞いてきた?
だって、その言い方だとまるで………。
「あの、織斑さんちょっといいですか?」
「何だ?」
「さっきの、『男の身で』ってどういうことですか?その言い方だとまるで、男にはISを
扱えないっていうふうに聞こえるんですが…………」
俺の言葉に、場の空気が止まった。
山田さんはポカーンと口を開いて呆然としているし。
織斑さんは鋭い眼光の中に怪訝な色を滲ませている。
え?え?
何だよその反応。
俺、何か変なこと言ったか?
「……アスカ、こんな時に冗談か?」
「は、はい?あの、俺は別に冗談を言ったつもりは…………」
俺は少し狼狽えながらも正直に答える。
織斑さんはそんな俺をじっと見て、「嘘を言っているわけではないようだな」と、
小さくポソッと呟いた。
当たり前だ。
そんな所で嘘をついてどうなる。
と、織斑さんはフゥと一息ついて、俺を見据える。
「ISはな、女にしか扱えない機体なんだ。男でISを起動できたのは、この世でたった一人だけだ。
お前を除いてはな」
「………………………………………………はい?」
今度は俺がポカンとする番だった。
女しかISを扱えない?
え、何だそれは?
「…………冗談ではなく?」
「私が冗談を言うように見えるか?」
見えません。
え?ということは、今の話は本当のことなのか?
でもそんなの、そう簡単に信じられるものではない。
「……原因は?」
「まだ解明されていない。そもそもISは、まだまだ謎な部分が多い研究途中の機体なんだ」
おい、何だそれは。
女しか起動できないなんて、とんだ欠陥機じゃないか。
しかもその原因がまだ解明されていないだと?
今更ながら、打鉄に搭乗して戦ったことが恐ろしくなってきた。
そんな欠陥機なら、他にどんな欠陥があっても不思議じゃない。
というか、ISが本当に女性にしか扱えない機体っていうなら………。
「俺、何でISを起動できたんだ?」
「だから、その理由が分かるかと聞いてるんだ」
分かるわけがない。
そもそもISが女性にしか扱えないっていうことすら初耳だったのに。
俺と一連の問答を続けていた織斑さんもハァと息を吐いて、目を伏せた。
「どうやらこの件に関して、これ以上聞いても無駄なようだな。だったら、
別の質問をさせてもらおう」
何だ?他にも何かあるのか?
俺が少し身構えていると、織斑さんはさらに双眸を鋭く細めて問いかけてくる。
「アスカ、お前は今までどこで暮らしていた?」
心臓がドクンと跳ね上がった。
それはある意味、今一番してほしくない質問だった。
だが織斑さんはそんな俺のことなど、お構いなしに続ける。
「悪いとは思ったが、お前の名前を五反田から聞いて、お前のことを調べさせて
もらった。だが、お前に関するデータは全く見つからなかった。
IS学園の情報網を使って、世界中の機関に調べてもらったが…………。
お前の国籍すら分からずじまいだ。普通ならこんなことは有り得ないんだが……、
お前がこの世界で生きてきた『事実』を見つけることは、私たちには
できなかった。だから、改めて聞く。お前は一体、何者だ?」
探るような、全てを見透かすような冷たい視線に射抜かれ、俺は反射的に
目を伏せた。
どうする?本当のことを話すか?
……いや、言っても無駄だろう。
「俺はこことは違う世界から来たみたいなんだ」なんて、どこの誰が信じるっていうんだ?
頭がおかしいとか思われて、精神病棟に移されでもしたらたまらない。
結局、俺の答えは厳さんに質問された時と同じ、曖昧な逆質問になってしまう。
「その前に一つお聞きしたいんですが……。『プラント』って知ってますか?
人が住むために建造された、スペースコロニーなんですけど……」
だけど俺は、二人がこの質問に良い返答をしてくれるんじゃないかと、密かに期待していた。
さっき織斑さんは俺について調べるために、世界中の機関に協力してもらったと言った。
もしそれが本当なら、このIS学園はそれが可能なほどの権力、力を持っていることになる。
そんな所で教師として働いている彼女たちなら、もしかしたらプラントのことも
知っているかもしれないって思ったんだけど。
でもやはり、俺のそんな仄かな期待は……。
「……私はそんなコロニーが建造されたなぞ、聞いたことはない。
山田先生は、どうです?」
「み、右に同じです。私も全く聞いたことありません」
「そ、そう…………ですか………………」
見事に裏切られた。
少し期待していた分、余計に堪えて、意気消沈してしまう。
肩を落としてガックリと項垂れてしまった俺を、織斑さんはじっと見つめていて。
そして、また溜息を一つ。
「……どうやら、この件に関しても、今はまだ聞くことができないようだな。
まあ、いい。正直なところ、今それらはさほど重要じゃない。
本題はここからなのだからな」
っておい。
今までのは前座だったのかよ。
今度は俺が怪訝そうな顔をしてしまうが、織斑さんは全く意に介さない。
ただたださっきまでと同じ、鋭い視線を投げかけてくる。
「アスカ、お前の事情は五反田に聞いた。お前は今、帰る家がないそうだな。
だから五反田家に住み込むことになったと聞いたが…………」
「……ええ、そうです。まあ、まだ一日も過ごしてないんですけどね。あの襲撃で
店も滅茶苦茶だろうし。早く五反田食堂に、戻りたいですよ」
心なしか、声が弾んでしまう。
早くこの怪我を直して皆の所に戻りたい。
元の世界に帰ることを優先させなきゃいけないけど。
また、あの暖かな空間で、皆と過ごしたい。
せっかく、皆生きていたんだから。
その喜びを、皆で噛み締めたい。
早く、皆に会いたい。
しかし、改めて考えると何という偶然だろう。
俺が五反田家に拾われたその日に、あんな事件が起こるなんて。
俺って、実はとんだ疫病神だったりするんじゃないか?
ここを退院したら、いっそう腰を据えてお店の手伝いをしないと、厳さんたちに
申し訳が立たないよな。
なんてグダグダ考えていると、織斑さんはゆっくりと頷いて。
「それならやはり、早めにこの話をしておいて正解だった。……アスカ、単刀直入に言う。
五反田家での住み込みは止めて、IS学園に入学し、寮生活をしろ」
「………………………………え?」
……は?
何を言い出すんだこの人?
俺はまだIS学園っていうのがどんな所か詳しくは知らないけど、名前からして大体想像はつく。
ISの操縦者を育成する機関ってとこだろう。
ザフトにもモビルスーツパイロットを育成するアカデミーがあったし、似たような場所なんだろう。
だけど、何で俺がそんな所に入学しなきゃならない?
しかも、五反田家での住み込みを止めて、寮生活をだと?
何で織斑さんにそんなことを命令されないといけないんだ?
俺は、五反田家で厄介になることが決まってるんだ。
厳さんたちも、それを承諾してくれた。
そこで元の世界に帰る方法を模索するんだ。
それに半壊した店の片付けとか手伝いとか、仕事もたくさんあるはずなのに。
IS学園にそれらを全てほっぽり出して入学するなんてとんでもない。
当然、却下だ。
その旨をきっぱりと織斑さんに伝えようと口を開く。
「申し訳ありませんが、それはお断りさせていただき…………」
「さっき言ったな。ISは原則女にしか反応しない。男でISを扱えるのはお前を除けば、
たった一人。私の弟である織斑一夏だけだ」
俺の言葉を遮り、織斑さんは勝手に話を進める。
……何だってんだこの人?
………とりあえず、確かにその話はさっき聞いた。
男でISを扱えるもう一人が、織斑さんの弟さんだとは知らなかったが。
でも、それが何だ?
「私の弟がISを扱えると分かった時は、全世界のメディアが取り上げた。『世界で唯一
ISを扱える男子』なんて見出しで、そのニュースが全世界を駆け巡った」
それはそうなんだろう。
今まで女性しかあの凄まじい兵器を扱えなかったのに。
ある日突然、それらの女性と肩を並べることのできる男が現れたとあっては、皆が
注目するのも無理はない。
「当然、私と一夏の実家には連日マスコミが殺到した。毎日毎日マスコミが家の前に
張り込んで、外に出るだけでも一苦労で。さらには遺伝子工学研究所の人間まで
やってきたりしてな。まあ、一夏がIS学園に入学すると決まってからは、流石に
その騒ぎも治まったがな」
……なるほど、大変だったんだな。
俺の感想といえば、それくらいだった。
他人の苦労話を聞かされたって、俺には何の関係もない話だし。
そのはずなのに。
なのに、何でさっきからこんなに心臓がドキドキするんだ?
「それだけなら良かったんだがな。騒ぎが治まった後も、色々と問題が起こるように
なった。例を挙げると、一夏を妬む者からの脅迫文や脅迫電話などだな。
酷いものでは放火未遂もあった。一夏は精神が強いから、さして気にしてなかったが、
お前が住み込む予定の、五反田家の人々は別だろう」
心臓が大きく跳ね上がった。
冷や汗が際限なく噴き出してきて、滴り落ちる。
ちょ、ちょっと待ってくれ。
確かに、それは有り得る話だ。
女しかISを扱えない、それが本当ならあの強力な兵器は女にしか扱えないってこと。
拳銃の弾を難なく弾き、たった一機で街を壊滅させてしまうほどの強力な力。
それが女にしか扱えないとなると、しかもその女たちがそのことを鼻にかけ
増長したとしたら。
当然、男からは不満が噴出するだろう。
あの警官だって、サイレント・ゼフィルスに向かって、ISと女への憎悪を喚き散らして
いたじゃないか。
つまり、この世界の男の、女性に対する劣等感はかなりのものだということ。
そんな世界にひょっこりISを扱える男が現れたとする。
その時、この世界の男たちはどういう感情を持つだろう?
そんなの、簡単に分かる。
憧れ?羨望?
そんな生易しい感情を、はたして抱くだろうか?
大半の男が抱くのは妬み、嫉み、お門違いの逆恨み、そんなとこだろう。
だからこそそういう輩が、その一夏さんって人に嫌がらせをした。
でも一夏さんがIS学園に入学してしまったら、彼らはもう手が出せなくなる。
そんな状況で、もう一人ISを扱える男がひょっこり現れたとしたら、どうなる?
当然男たちの行き場を失った鬱憤は、その二人目の男に向かうだろう。
そしてその被害を受けるのは、当人だけじゃない。
その男に関係のある人にも、被害が及ぶ可能性は十分にある。
つまり、今の状況に例えると。
二人目の男が俺で。
そして俺に関係がある人間は、俺を住み込ませてくれる家の家主たち。
つまり五反田家の皆だ。
それらが導き出す現実は、たった一つしかない。
「俺がこのまま五反田家の厄介になったら、蘭さんたちに迷惑がかかる………!?」
「……今は不要な混乱を防ぐために情報を規制しているが、じきにお前のことを公表
する機会がやってくるだろう。これは、世界的な大事件なのだからな」
つまり俺のことが世間一般に公になったとたん、俺は謂れのない誹謗中傷を受ける可能性
があるわけで。
そのとばっちりを、蘭さんたちが受ける可能性があるわけで。
例えば、食堂を再開したとしても俺のことが公になれば、連日マスコミが詰めかけて、
売り上げが大幅に減ったり。
ドス黒い嫉妬心に支配された男どもが食堂や蘭さんたちに、何がしかの被害を与えたり……。
視線が定まらず、せわしなく泳がせる。
歯がカチカチと噛み合わなくなってくる。
そんな、そんな馬鹿な…………。
俺がISに乗ったことが、そんな大事になってるなんて…………。
「それに、問題はそれだけではない。二人目の男のIS操縦者が現れたことは各国政府の
上層部や、IS関連の施設や企業のトップ連中に通達したが。
お前がどこの国籍も持っていないことが問題になってな」
「……どういう、ことだよ……」
何かもう、嫌な予感しかしない。
俺がどこの国にも属さない人間だということは、もうばれているようだし。
次に問題になるのは、俺をどこの国に属させるかっていうこと。
「各国政府が一斉に『シン・アスカは我が国の人間だ』と言ってきた。しかもそれぞれが
シン・アスカの経歴をでっち上げて、偽の国籍まで用意してな」
……何だよ、何だよそれ………。
あまりに非現実的な話に、理解が追いつかない。
そんなに俺のことを囲いたいって、一体どんな理由があって………!?
織斑さんはそこで言葉を切って、忌々しそうに顔を歪めて、吐き捨てるように言う。
「IS操縦者は今や国防力の要だ。どの国も優秀なIS操縦者を確保するために躍起に
なっている。そんな時に、二人目の男のIS操縦者が現れた。しかも不思議なことに
その男はどこの国の国籍も持っていない。この世界から、完全に孤立した存在。
そんなおいしい存在を、各国が目をつけないわけがない」
何、だよそりゃ。
俺をそんな理由で手元に置いておきたいってか?
そんなの、ふざけてる!
でも、不機嫌そうな織斑さんの言葉はまだ続く。
「男のIS操縦者というだけで話題性は十分だし。お前は打鉄を使って、イギリスから
強奪されたBT二号機であるサイレント・ゼフィルスと戦って撤退させただろう」
確かに俺は打鉄を駆って、あのISを食い止めた。
撤退させたかどうかは覚えていないけど……。
少なくとも互角以上には渡り合えたと思う。
しかし、それがまずかったらしい。
「打鉄とサイレント・ゼフィルスとでは、明確な性能差があってな。普通なら打鉄で
サイレント・ゼフィルスとやり合うなんて無謀なのだ。だが、お前はそれをやって
のけた。しかも街をサイレント・ゼフィルスの攻撃から守りつつ、だ。
普通ならそんなことできない。それができたってことは、打鉄の操縦者の能力が
破格だったってことの証拠なのだ」
だからこそ、優秀な操縦者が喉から手が出るほど欲しい各国政府は、俺を手に入れようと
躍起になってるってわけか。
……下らない。
何で俺がそんな思惑に付き合わなきゃならない。
たとえ各国のトップがやってきて、目の前で頭を下げたとしてもお断りだ。
俺がムスッとしているのを織斑さんはチラッと見やって、苦笑する。
だけどすぐに厳しい顔つきに戻って、俺を見据えた。
「当然、お前はそんなことをされて面白くないだろう。仮に運よくお前とコンタクトが
取れて、そのまま交渉に移れたとしても、断られることは目に見えている。
だから、だろうな。各国の内のいくつかが、不穏な動きを見せているんだ」
「不穏な、動き…………?」
「男でありながらISを扱えるお前の生体を独占して研究して、他国を出し抜こうと
考える過激な国も、中にはあるということだ。特に今お前はどこの国にも属して
いないし、お前の存在も秘匿されている。強引にでもお前を連れ去ろうとするなら、
今しかない。被害届も出ないことだしな」
…………は?
何だ、それは?
つまり、俺を誘拐しようと考えるキチガイな輩もいるってことか?
そんな馬鹿なことが……。
そんなのばれたら、国際問題に……。
そんな俺の考えを読んでいたのか、織斑さんが鋭く言葉を発する。
「言っただろう?お前には今国籍がないとな。自分の国の人間でないのに、どこの
国が抗議して、他国を糾弾するという?人道的な観点?世界平和?確かに
それなら抗議もできるだろうがな。今お前の情報は一般には全く公開されて
いない。お前の存在を知っているのは、各政府の上層部、IS関連のトップ連中だけだ。
世間一般に全く知られていないお前が誘拐された後で、その事実を公表したとしても、
ただの間抜けだ。自分たちの無能を晒すだけで、むしろ何故もっと早く二人目のことを
公表しなかったのかと非難されるだろう。だから何か事が起こった後だと、どの国も手も足も出せない。
つまりどの国もお前の身に何かあっても、何も対応しないし、対応できないということだ」
愕然とする。呆然とする。
つまり俺の存在が隠されている間も、俺の身が危険にさらされる可能性があるってことかよ。
「もちろん、お前が今いるこの国の政府、日本政府はお前に監視を付けるだろう。
だが、それも万全じゃない。お前が仮に誘拐されたとして、秘密裏に各政府が捜査するかもしれない。
だが、それは今は重要じゃない。
少なくともそのような『事』が起こった時、危険なのはお前だけじゃない。
お前を住まわせていた人間だって、危険にさらされる恐れがあるということだ。
……残酷なようだが、ここまで言えば、分かるな?」
「…………ああ、もう、十分だよ………………」
悄然として俯きながらも、かろうじてそう答える。
俺にとってこの世界の事情やしがらみや思惑なんてどうでもいい。
もし何か危険なことが起こったとしても、その被害を受けるのが俺のみなら、
何の問題もないんだ。
だけど今の話だと、俺の存在が秘匿されていて公表されても、俺が五反田家にいたら、
そこの住人である蘭さんたちに迷惑がかかる可能性が十分にある。
それだけは、絶対に嫌だ。
俺が五反田家の厄介になることで、彼らに迷惑がかかるってんなら。
危険なことに巻き込まれる可能性があるっていうなら。
俺は迷うことなく路頭で寝泊まりすることを選ぶ。
……結局のところ、今の話で重要なことは一つだけだ。
つまり、俺が予定通り五反田家に住まわせてもらったとしたら。
ほぼ間違いなく何らかの形で、彼らに迷惑がかかってしまうということ。
「……各国政府にはお前が五反田家に住み込む予定だったことは伝えていない。
だがお前がここを退院してそのまま五反田家に住み込めば、間違いなく
お前と五反田家の関係は各国にばれるだろう。お前のことを世間に公表する
までには色々な調整も合わせると、少なくとも二か月くらいはかかる。
それまでに、何か『事』が起こらないとも限らない。
だが、お前がこのまま退院してIS学園に入学すれば、五反田たちに危害が
及ぶことはなく、お前の身の安全も保障される」
「……ありがとうございます。でも、何でIS学園に入学すれば、俺の身の安全が
保障されるんですか?」
織斑さんが俺の住み込みのことを各政府に伝えていないということに、感謝を
述べておく。
これで俺と蘭さんたちに繋がりがあることは、ひとまず知られずに済んだ。
多分織斑さんはその辺りのことも考えて、このことを伝えなかったんだろう。
そう思うと、本当にありがたいと思う。
でも、何でIS学園に入学することが、俺の身の安全に繋がるのかが、良く分からない。
そんな俺の疑問は、どうやら顔に出ていたようで。
「IS学園特記事項、第二十一項。本学園における生徒はその在学中において
ありとあらゆる国家・組織・団体に帰属しない。本人の同意がない場合、
それらの外的介入は原則として許可されないものとする」
ツラツラと、織斑さんが説明してくれる。
……なるほど、そういうことか。
「つまりIS学園にいる間、お前はあらゆる国から干渉されることはない。
お前が自分からIS学園に入学したいと申し出てくれれば、お前の特殊性ゆえに
無条件でIS学園に入学できるだろう。そうすれば各国も手出しは出来ないし、
お前の生体に関する研究という意味でも、IS学園という専門機関に委託できたことになる
から、誰にも文句は言えない。その間に、お前を取り巻く問題は、私が解決
してやる。……心配するな」
今の特記事項が本当なら、IS学園っていうところは凄い権限を持っていることになる。
それはそれで気になるんだけど。
……なんで織斑さんは俺の問題を解決してやるなんて、きっぱりと言い切れるんだ?
でも、不思議だな。
彼女がそう言うと、本当に大丈夫だって、そう思えてくる。
……そうだな。
もう、他に手なんてないもんな。
本当は話の途中で分かってたんだけど……。
俺は諦めにも似た気持ちを抱いたまま、何とか顔を上げて二人を見つめた。
「……分かりました。入学、します。IS学園ってところに。
それが、最善の選択なら………」
「そうか……すまないな」
織斑さんのその目がほんの少しだけ、遠慮がちに伏せられる。
申し訳なさそうに、声を沈ませる。
何で謝るんだろう?
おそらく彼女は、すぐに事の重大さに気づいて、俺も蘭さんたちも危ない目に
遭わないための手を打ってくれたんだろうに。
感謝するのは、こっちの方なんだろうにさ。
俺は蘭さんを見つめた。
……しょうがないんだ。
軽率にISを使ってしまったのは俺なんだし、住み込みの話がなくなった方が、
蘭さんたちにとってもいいに決まっているさ。
そう、思うんだけど………。
フッと胸に去来した想いに押し出されるように、俺の口から、ポツリと言葉が
漏れ出した。
「せめてあと一日くらい、あの暖かさに触れていたかったな…………」
厳さんに住み込みを勧めてもらって、食堂で働かせてもらった時のことを思い出す。
あの時感じた、あの暖かさ。あの、不思議な一体感。
そんなものを感じている場合ではなかったはずなのに……。
心のどこかで、再びあの暖かさを感じていたいと思っていた自分を見つけて。
それに……俺は五反田家の皆の優しさに触れて。
目の回るような忙しさの中で蘭さんたちと息を合わせて働いていて、こう感じていたんだ。
何だか、新しい家族ができたみたいだなって。
蘭さんたちは俺の住み込みが決まってから、遠慮なしに俺と接してくれた。
厳さんは厳しくも優しく接してくれて、蓮さんも暖かく俺を見つめてくれて……。
……何だか、父さんと母さんみたいだなって。
弾さんと蘭さんは同い年の兄妹みたいだな、なんて。
そんなことを思ってた。
だから、かな。
街がいきなり破壊された時、五反田家の皆については、特に守りたいって思った。
絶対に傷つけたくないって、そう思った。
……結局、住み込みの話はなかったことになるだろうけど、別にいいじゃないか。
一日だけでも、皆の優しさに、あの暖かさに触れられたんだし。
あんまり頻繁に五反田食堂に行くことはできなくなるだろうけど。
俺が初めてISを起動したのも五反田食堂の近くで、俺が入院していた時に看病して
くれていたのが五反田家の人間で、なおかつ頻繁に五反田食堂に出入りしていたら、
各政府が変な勘繰りを入れてくる可能性もあるし。
でも、大丈夫。
また、会いに行けるさ。
だって、皆生きてるんだから。
ちゃんと、守れたんだから。
だから、俺が今感じているこの寂しさは。
この悲しさは。
『新しい家族』との『新しい生活』っていう、俺の勝手な『夢』が潰えてしまった
ことへの、勝手な被害妄想。勝手な落胆。
俺だけの、どうでもいい想い。
だから、これでいいんだ。
これで、良かったんだ。
眠っている蘭さんの髪を、そっと指で梳く。
蘭さんは気持ちよさそうに身をよじって、「シンさん……」と寝言を呟いた。
……それで、もう十分だ。
皆を守れたことへのご褒美は、これでもう十分だ。
その言葉だけで、俺は救われた。
そう心から思えた今こそが、俺のささやかな『夢』の終わり…………。
◇
あれから三週間。
ナチュラルよりも強力なコーディネイターの自然回復能力にものを言わせ、
普通に歩けるまでに回復した。
あれからも色々なことがあったけど、それについてはまた次に話すとしよう。
体にはあの時の無数の傷が、一生傷として残ってしまったけど。
左頬には大きな切り傷の跡が残ってしまったけど。
いいじゃないか、生きているんだから。
手には学生鞄を持って。
身に纏うはIS学園指定の、白が基調の制服。
ポケットには蘭さんに返してもらったマユの形見の携帯と、……ここにある
はずのない、ステラの形見をしまって。
そして俺は今、IS学園の正門の前にいる。
……ここから、始まるんだな。
俺の、この世界での新しい生活が始まるんだよな……。
ここには色々な研究施設も大きな図書館もあるらしいし。
ここで元の世界に帰る方法を探ることにして……。
今はとりあえず、目の前の新しい日々に集中しよう。
大きく息を吸い込んで。
ゆっくりと深呼吸をして。
俺はその第一歩を、力強く踏み出した。
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