※注意!
冒頭部分に一部食人描写がありますので、ご注意ください。
―――――少し昔。とある所に、とある家族が居た。
父、母、姉、妹の4人家族。少し田舎の、2階建ての一軒家。それほど裕福なわけではない。だが貧しいわけでもない。普通極まりない、普通の家族、普通の家庭。
他と少し違ったのは、両親が奇妙な力を使えたこと。父は庭先で剣を振るい、母は軒先で杖を振るう。だから幼い娘たちは、両親は正義の味方なんだと、そう思っていた。
それが、一家で一番幼かった妹―――“彼女”の生まれた環境だった。
普通の家庭の、普通の日常。
―――――ただ一つ。
―――――ある日父親が正気を失って。
―――――その日から毎日、娘に暴力を振るっていたことを除けば。
理由は分からない。いつからだったかも分からない。少なくとも“彼女”が生まれた時からそうだったわけではない。けれど、幼稚園や小学校に通った覚えも無い。
“彼女”と姉は、狂人となった父親に、毎日のように理不尽な暴力に晒されていた。殴る、蹴るだけには留まらない。熱湯を注がれ、壁に叩きつけられ、包丁で切られ、ライターで炙られ、爪を剥がされ、階段から突き落とされる。
姉は逃げようと言った。けれど、どうしても玄関から先に出れなかった。結界がどうこうと嗤いながら、自分たちを引き摺って行く父親の姿を憶えている。
地獄よりも地獄のような日常―――だが、それを地獄と思うような感性は、“彼女”にはまだ育っていなかった。
“彼女”にとって何より幸運であり、同時に最大の不運であったのは、“彼女”が自身の “気”を操る天才であったことだ。
“彼女”は激しい折檻を、無意識に気を用いることで防御し続けた。そのおかげで出血も衝撃も最小限に抑えられ、治癒も速かった。
同時に、大して傷の付かない娘を見て、父親の折檻はさらに激しさを増していった。煮え滾る湯に直接放り込んだり、鋸で半日かけて太腿を半分まで切ったり、2階のベランダから叩き落としたり、電流を数分間流し続けたり。
そうした虐待を受ける度、“彼女”の纏う気は洗練されていき、より効率良く運用されていった。そして父親の折檻も苛烈さを増していく、正に負の循環だった。
1年も経つと、父親が暴力を振るうのは“彼女”だけになった。
殴っても殴っても、3日も経てばほとんど傷が癒えている少女は、父親にとっては格好の玩具であり、姉にはうってつけの生贄だった。
だが“彼女”は、本当に何も分かっていなかった。
自分が暴力を振るわれているということを、おかしいとも感じていない。そもそも、暴力とは何なのかを理解してもいない。痛みはある。だがそもそも、痛みを痛みとして認識出来ていない。そして、思い起こせば
だから、
無論、それが普通でないことなど明らかだ。だが、指摘する人物など、“彼女”の
それでもある日、“彼女”は問うた。
“――――ねえお父さん。これってなあに――――?”
固い棒で殴られながら、“彼女”は聞いた。これが彼女の人生で初めての問いかけ。
“―――いいかい、■■―――”
“―――父さんが、お前を殴るのは―――”
“―――お前を、愛しているからだよ―――”
躾。きっと父親にとってはそうだったのだろう。
だが“彼女”にとっては初めての教育であり―――
暴力と愛が同一のものと、胸中に深く刻み込まれることになった。
そうして、どれくらいか分からないけど、日時が経った。
日常は変わらない。朝起きて、殴られて、蹴られて、眠る。そんな毎日。
“彼女”にとって、それは愛に満ち溢れた日々だ。
捨てるなど、逃げるなど、考えつくはずもなかった。
ある日、父親は“彼女”に命じた。
“―――お姉ちゃんを、連れてきなさい―――”
結局逃げなかったあの日から、ずっと自分の部屋に引きこもったままの姉。
時々父親の目を盗んでは台所に行き、食べ物を貪っている姉。“彼女”に見つかる度に、金切り声を上げて逃げていく姉。“彼女”にしてみれば、よく分からない人。
とにかく、連れていくことにした。ドアノブを引き千切り、ぼさぼさに伸びた髪の毛を掴んで、泣き叫ぶ姉を父の許に連れていく。
“――――――やめて”
“――――――許して”
“――――――助けて”
ずっとずっと、そんなことを叫んでいた。
だから、“彼女”は何の気なしに聞いてみた。
“―――お姉ちゃんは、私のこと、好き―――?”
一瞬呆けた後、姉は啄木鳥のように首肯を繰り返す。
そして、こう言った。
“■■も、お姉ちゃんのこと、好きだよね?”
その言葉に、“彼女”は考えこむ。
父親は自分を愛してくれている。姉は自分を愛していると言っている。
だが私自身はどうなのだろう?父を、姉を、愛しているのだろうか?
だが、その答えが出る前に、父親が彼女たちを迎えに来た。
姉の悲鳴がこだまする。だが、“彼女”にその言葉の意味は分からない。
結局その日以来、姉の姿を見ることは無くなった。
代わりに。
その日から毎日、父親が料理を作るようになった。
これまでは腐りかけの食糧や、家の中を這いずり回る禽獣を食べていた。
しかし父の作るその料理は、それまでの“彼女”の人生において、例え様もない程美味で。毎日毎日同じメニューだったけど、そんなこと全く気にならなかった。
毎日毎日、何杯も何杯も、おかわりした。
その、真っ赤なシチューを。
毎食シチューを食べるようになったある日、“彼女”は気付いた。
シチューの中に入っている肉。これまで別段気にすることなく咀嚼していたそれ。
よく見ると、自分の指とよく似ている。
よく見ると、爪を剥がした痕がある。
そういえば、自分も姉もよく爪を剥がされていた。
そんな“彼女”の様子に気付いたらしく、父親は薄気味悪い笑みを浮かべて、こう諭す。
“―――――美味しいかい、■■―――”
父親は、自分の皿から肉を一つを掬いあげる。
爪を剥がされた、人の親指。
“彼女”はコクリと頷く。父親は満足げに笑う。
“そうかそうか、大好きなお姉ちゃんが、そんなに美味しかったのか――――”
いくら痛めつけてもケロリとしている娘を不愉快に思ったからか、それとも本当に単なる趣向からか、いずれにせよ父親は肉体ではなく精神を傷つけるという手段に打って出た。
これが普通の人間だったなら、その場で廃人と化してもおかしくはない。
だが、この狂人たる父親は、大切なことを見逃していた。
“彼女”がすでに、彼以上に狂ってしまっていることを。
“お姉ちゃんだから、美味しいの―――――?”
“彼女”は、純粋だった。
虐待、食人、そういった行為の悪逆さなど何一つ知らず、学んだもの、与えられたものを、ただただ無条件に受け容れる。清濁併せ呑むのではなく、全てを“正しい”こととして認識していく。
誰よりも純粋で―――誰よりも歪な、その在り方。
“―――ああ、そうさ。”
父親の声が響く。まるで世界を謳う雄大な詩を詠み上げるように、朗々とした声が。
“お姉ちゃんは、お前のことを愛していた―――”
一言一句が、“彼女”の脳に刻み込まれる。忘れてはならないことだと、“彼女”の本能が囁きかける。
その言葉は、正しく天啓だった。
“―――――だから、美味しく食べてあげるんだよ。”
―――――カチリ、と。
―――――“彼女”の中で、狂った歯車同士が、狂ったままに、正しく噛み合った。
“ああ、そうなんだ―――――”
“お姉ちゃんは、私を愛してた―――――”
“―――――だから、食べなきゃいけないんだ。”
彼女の中で。
愛とは暴力であり。
暴力は愛であり。
そしてまた、愛とは食事であった。
こうして、“彼女”の中で、全ての欠片が繋がった。
警察がその家に立ち入ったのは、それから数カ月後。
立ち込める異臭に文句を言おうと家に押し掛けた末、行方不明になり続ける周辺住民。中に入って行った警官たちが見たものは。
冷蔵庫に突っ込まれた、この家の長女の肉塊。
腐乱した隣近所の住民の残骸。
上半身だけの市役所職員。
誰のものとも知れぬ腕や足、散らばった内臓の欠片。
そして。
血で全身を赤黒く染め上げたまま、父親の頭部を齧る少女の姿。
“彼女”は青褪めた顔の警官たちの存在に気付き、見惚れるような笑みを浮かべて、こう言った。
“お兄ちゃんたちは、私のこと、好き――――――?”
この後。彼女を取り押さえるまでに、さらに4名もの犠牲者を出し、7年近く続いた凶行は終わりを告げた。
愛する私のお父さん。
大切なことは、みんなお父さんが教えてくれた。
愛する私のお姉ちゃん。
私に人の愛し方を教えてくれた。
とってもとっても優しい二人。
とってもとっても美味しい二人。
ある日やってきたお兄さん。
ある日やってきたお姉さん。
ある日やってきたおじさん。
ある日やってきたおばさん。
みんなみんな、とっても優しい。
みんなみんな、とっても美味しい。
愛する人のお肉は柔らかい。
愛する人のお骨は固い。
愛する人のお腹は温い。
愛する人はいつも真っ赤っか。
いつもお姉ちゃんは言っていた。
お母さんさえ居ればって。
家に来た人はいつも私に聞いた。
お母さんはどこにいるのって。
分かんない。分かんない。分かんない。
お母さんのことなんて、分かんない。
けれど思い出すと胸があったかくなる。
思い出すとよだれが止まらなくなる。
きっときっと、お父さんやお姉ちゃんより優しくて。
きっときっと、お父さんやお姉ちゃんより美味しいんだ。
探さなきゃ。きっとどこかに居るはずだから。
探さなきゃ。きっといつか出会えるはずだから
もしも会えたら、その時は。
その時は―――――――――――――
#27 Dies irae
千雨は窮地に立たされていた。
「アハハハハハハハ!!アハッ、アハハハハハハ!!アハハハ、アハハハハハハ!!」
「クソがっ…!!」
腕が2本とは思えないような、猛烈な剣舞が繰り出される。
千雨の反射神経をもってしても、ギリギリで躱すのが精一杯。常人ならばとうの昔に細切れになっている。
そして何より、反撃する暇がほとんど無い。
「ちょうだいお母さん、お母さんんんん!!お母さんの、アハハハッ、手、足、
「っ―――――!!いい加減、耳障りなんだ―――――よっ!!」
右から迫る一刀に、千雨は月詠の手首を蹴りあげることで防御した。
だが、月詠の全身は気によって
「アハッ――――足、くれるの?」
蕩けそうな甘い香りすら漂わせるその響きは、千雨の背筋を粟立たせるには十分だった。
月詠の剣が、千雨の足を貫かんと迫る。
が、突如月詠の視界から、千雨の姿が掻き消えた。
「目が追い付いてないぜ、
月詠の視線が自分の足に集中していることを利用し、体を捻って移動。死角を利用し、月詠の視界に映らないよう背後に回る。当然視線を浴びる足は、ギリギリまで引き付けておいてから動かす。
そして、がら空きの左脇から、心臓に向けて銃弾を撃ち込む。
「っ――――!あっ、はははっ!!あははははっ!!」
が、銃弾は心臓どころか、皮膚すら貫けない。
(コイツの皮膚は合金か何かか…!?)
着弾地点の筋肉を引き締め、気で強化して防ぐ。たったそれだけで銃弾をも防ぐ硬度を持たせることなど、月詠以外には出来ない芸当だ。
月詠の剣が振るわれる。素早くしゃがんで避ける。もう一方の剣が迫る。飛び退いて避ける。
開戦直後から何度も繰り返されてきた、焼き直しのような競り合い。攻撃のチャンスが掴めないことに、千雨は苛立っていた。
千雨の守りの脆弱さは、エヴァに「悲惨」と評させた程に低い。一応エヴァから防御用の護符をもらい、服に縫い付けておいたが、呆気なく切られている。月詠の剣の前には、せいぜい障子紙が湿っているか乾いているか程度の違いしかなかったようだ。
よって、月詠の攻撃は避け続けるしか無い。だがその猛攻は千雨ですら紙一重という、とてつもないスピードだ。
そして更に最悪なのが、月詠の戦い方である。
月詠は極端な
それ故に、敵の隙を突いて一撃で仕留めるという戦法の多い千雨にとっては、最悪の相手だ。手数が多過ぎてそちらの対処に向かわざるを得ず、衝撃波を放つための呼吸の暇は無い。その上負傷を恐れず気にせず向かってくるのだから、怯ませることも難しい。
事実、すでに千雨は数か所負傷している。いずれも軽傷ではあるが、動く度にジクジクとした痛みが走る。
千雨にとってはエヴァ以上の難敵だった。
「お腹空いたなァ♡沢山食べたいなァ♡お母さん―――美味しそうだなァ!アハハッ!」
舌舐めずりを交えつつも、月詠の剣は真っ直ぐに軌跡を描く。元々の才能と人を解体し続けてきた経験は、邪道とは言え一流の剣士と呼ぶに相応しい腕前に仕上げた。
激しさを増す剣をかろうじて避けながら、千雨は木乃香の方に耳を傾ける。未だ眠り続けているようなので、少し安心した。
当然といえば当然だが、祭壇の木乃香には全く興味を示していない。月詠の狙いは完全に千雨に絞られており、他など一切眼中に無い。なので、木乃香のことを然程気にせず戦えるのは、千雨にとってはありがたい。巻き込まれる可能性がある時にだけ注意すれば大丈夫だ。
そして状況の方も、完全に八方塞がりというわけではない。悪く言えば敵は猪武者だ。ならば、付け入る隙は必ず来る。
「アハハハッ!!」
月詠の渾身の突きが繰り出される。予想通り隙が出来た、と内心でほくそ笑む。
闘牛のような一撃を、あえて懐に飛び込んで避ける。そして懐から脇にすり抜けながら、銃口を月詠の後頭部に向ける。
千雨が引き金を引くのと、月詠がもう片方の剣を振るうのは同時だった。
上体を反らして剣の軌道から逃れる。当然銃口も下に下がるが、それでも狙いは月詠の頭部に向けたまま。
引き金を引く。両方の手は伸びきったままで、迫り来る銃弾を撃ち落とすには到底間に合わない。
その、必殺の銃弾を。
月詠は、あろうことか、奥歯で受け止めた。
コンマ一秒遅れれば即死の技に、何の気なしに挑む怪物性。避ける、防ぐという行為を嘲笑うかのようなその所業は、おぞましささえ感じさせる。
しかしさすがに衝撃だけは殺しきれなかったらしく、頭が後ろに大きく仰け反った。
そしてその隙を見逃す千雨ではない。素早く後ろに下がり、肺に空気を送り込む。下がりながら、月詠に銃弾を浴びせることも忘れない。
心臓を狙った2発の銃弾だったが、皮一枚破っただけでその勢いを殺される。そして、口内の銃弾を噛み砕きながら、月詠の頭が正面を向いた。
「死ねっ!!」
その瞬間に放たれる衝撃波。
まともに喰らえば即死は免れ得ないであろう一撃だが、月詠の体を後方に吹き飛ばす程度に終わる。内臓が潰れ、ゴボリと月詠の口から血が溢れだすが、その眼に宿る闘志も、狂気も、微塵も薄れてはいない。
「体が耐性身に付けたってか…!?何処まで常識外れだ、コイツ…!」
さすがの千雨も驚きを隠せない。
昨日の分も含めて、合計で4発。そもそも一人の人間にこれほど衝撃波を打ち込んだことも初めてだし、ましてや衝撃波に
「アハハハ…アァ♡」
恍惚とした笑みを浮かべ、口から血を滴らせる。絵になるような可愛さと生理的嫌悪感が入り混じるその姿は、紫陽花に集る蛞蝓を連想させた。
ふと、自分の靴裏のぬらりとした感触に気付いた。それが、月詠の足元に転がる死体の残骸と分かり、思わず顔を顰めた。月詠も足元のそれに気付いたらしく、剣先で内臓の欠片を放り上げ、口に含んだ。
「……やっぱり、美味しくない。」
不満げにそう漏らすも、表情は喜色に染まっている。
所詮目の前の、極上の料理を食する前の口直しに過ぎないと言わんばかりに。
突如、血溜まりが大きく跳ね、月詠の姿が掻き消えた。原型を留めぬ死体が、内臓が、千雨の頬にまで飛び散る。
そして月詠は、千雨の真上に回り込んでいた。
銃口を向ける暇もない。すぐさま飛び退く。一瞬前に千雨が居た場所に叩きつけられた剣が、激しい爆風と風塵を巻き起こし、千雨の体を煽る。
「アハハハッ――――――アッハハハハハハハァァァ!!」
土煙の中から現れる人喰い鮫。
ギリギリで千雨の着地が間に合い、喉元を狙う月詠の顎から身を逸らす。
「――――――いただきまァす♡」
双剣と野獣のような顎を振るい、先ほど以上の猛ラッシュをかける。刀はもちろん、少しでも彼女の歯に掠れば、そのまま肉を喰い千切られるのは自明の理だ。
「お前に喰わせてやるほど、この
対する千雨は。
迫り来る大顎に、怯むことなく両手に銃を持つ。
「―――――鉛玉でも喰らっとけ!!」
躊躇無く、右手の引き金を引く。一瞬置いて左手も。
銃弾は狙い違わず、月詠の剥き出しの前歯の付け根にぶつかる。
前歯が木っ端微塵に粉砕されるも、構わず月詠は特攻してくる。
が――――そこに、左手の銃が放った弾丸が襲いかかる。
弾丸は空いたばかりの前歯の穴をすり抜け―――月詠の口腔に突入する。
「ガ、ふっ―――――――!!?」
月詠の声が、経験したことの無い激痛に濁る。口から喉の奥まで一直線に銃弾が貫通し、呼吸すらままならない。
無論、血染めの地面を駆ける足もふらつく。無様によろけ、片方の剣を地面に突き立て、倒れないよう体を支える。
そして千雨が一気に空気を吸い込む。先ほどまでの衝撃波の倍以上の吸気をもって、必殺の一撃を放つ―――――!!
「っ、グ―――――ああああああああッッッッ!!」
月詠の顔から、笑顔が消えた。
地面に突き立てた剣はそのまま、もう片方の剣に気を集中させる。溢れだす濃密な気は陽炎を生み、空気を歪ませる。
そして、一気に剣を振るった。
竜巻が爆発したかのような斬撃の嵐が、地面を抉りながら奔る。
空気を揺らす衝撃の波と、空気を引き裂く斬撃の波がぶつかり合う。
「ぐぁっ――――――――!?」
「ぎ、ぃっ――――――――!?」
二つの波が爆散する。千雨も月詠もその余波に巻き込まれ、吹き飛ばされた。行き場を失った斬撃に身を刻まれながら、二人とも背中から地面に着地した。
ゲホゲホと咳き込みながら、千雨は何とか立ち上がった。額の切り傷から血がつぅと垂れ、瞼にかかるのを手で拭う。
(くそ、衝撃波を相殺された…!銃弾も貫通してない…!今のどちらかで決めるつもりだったのに…!)
恨むような目で月詠を睨むも、少々月詠の様子がおかしいことに気付く。前後不覚というか、妙に足がおぼつかない。
月詠が激しく咳き込んだ。大量の血と共に、歯と銃弾が吐きだされた。それを見て気付く。
(まさかさっきの銃弾…脊椎に当たったのか?)
月詠の体は、銃弾では貫けないレベルにまで強化されている。故に、骨格もコンクリート並の硬さを誇る。
とはいえ体内から銃弾で貫かれ、脊椎に当たったとなれば、月詠とてただでは済まない。
もし脊椎に当たっていなければ、皮膚を貫き切れずに止まっていただろうが、運悪く脊椎に激突され、一瞬全身麻痺に陥ったのだ。しかもそれを無理に動かして大技を放ったため、全身の神経系統に異常をきたしている。
そして今動かせても、月詠は一生に渡って体に重い障害を抱えていかなければなくなる。足を折った野生のライオンと同じだ。
勝っても死、負けても死。
月詠の運命は、すでに決まっている。
だが、だからといって油断していい理由にはならない。
そもそも月詠は、自分の体の異常など意にも介さないだろう。
現に―――――
「あはははっ…!あははははははははっ……!!」
全身を蝕む苦痛に、心の底から嬌声を挙げているのだから。
(これだけ攻撃しても、まだ足りないのか…!)
並外れた堅牢さ。心が折れそうなほどの生命力。いくら傷つこうと血を流そうと、笑いながら迫ってくるおぞましさ。
―――間違いなく、今自分が立っているのは、前世も含めて5本の指に入る窮地だ。
「アハハハッ――――アハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!お母さんお母さんお母さんッ!!アッハハハハハハハハ!!」
来る、と直感的に悟る。
そして、次で仕留めきれなければ負ける、とも。
(大丈夫…!
たった今見つけた、月詠の弱点。もしこれが不発なら泥沼だと、内心で覚悟を決める。
月詠が右足を一歩踏み出す。千雨には、走り出さんとするその動きが、スローモーションのようにゆっくりと流れて見えていた。
サックスを構える。銃は効かない。超音波は時間稼ぎにしかならない。ならば衝撃波を放つ以外に有り得ない。
問題は何処に当てるか。手足、脳、内臓、どれも月詠には意味が無い。すでに彼女は、全身のありとあらゆる機能が人間を超越しているのだから。
―――――だが。たった一つ。
月詠が、人間の枠内で有り続けている箇所がある。
「お母―――――さんッ!!」
月詠の爆発的な踏み込みが、千雨との距離を一気に詰めてくる。
十分間に合う、と判断する。いくら速いとはいえ、音速には程遠い。上体を反らし、サックスに目一杯息を吹き込む。
狙うは極小の的2つ。左右同時に、ただ一点を穿ち抜く―――――――――――!!
「あはっ――――――――――え?」
月詠の動きが、驚愕の言葉と共に止まる。
「…え?あれ?お母さん…消えちゃった?」
両目を、潰されていた。
空洞となった眼窩から、血と涙とゼリー状の物質が、一緒くたに混じって零れ落ちる。墓場から蘇ったばかりの
千雨が狙ったのは月詠の目。目潰し、といえばチャチな物に聞こえてしまうが、衝撃波を眼球内部に打ち込み、内側から目を破裂させるという、かなりえげつない戦法だ。気で強化されていようと、内側からの膨張に耐えきる弾力性には成り得ない。
内側から膨れ上がるベクトルを持つ衝撃波を、月詠が迫ってくる状況下で、両目分同時に演奏してのける辺り、千雨も充分人間の域を超えているわけだが、当の本人は月詠から目を逸らすことなく、足音を消しながらその場から移動する。
「アアァァァ…、■■■■■■■■ァァァァァーーーーーーーーッッ!!」
次の瞬間には、元居た地点に月詠の剣が振り下ろされた。
例え視覚を潰されたとて、真っ直ぐ行けば千雨の居た場所だ。一直線に走ることすら難しい上に、平衡感覚が保てているかどうかすら怪しくても、走る以外の生き方を彼女は知らない。
中枢神経を傷つけられ、両目を完膚なきまでに破壊され、それでもなお月詠は
―――が、そうすること自体が、あまりにも大きな隙だった。
「これ以上戦っても苦しいだけだろう―――今、楽にしてやる。」
足元の水辺を震わしながら、衝撃波が眼窩の中へと放たれる。脳内へ、ダイレクトに。
脳を取り巻く血管が弾け飛び、血流が脳を圧迫する。体中の機能が停止していき、呼吸すら止まる。
「――――あ゛…。」
月詠の体を、激痛が走る。
同時に、理解できない、初めて生じる感情も。
―――――痛い。
少女にとって、痛みは愛だった。
痛みを感じれば感じるほど、暖かい気持ちになれた。かつて父親が自分を愛してくれていた時のことを思い出し、家族の面影を見た。
―――――痛い。痛い。痛い。
そして、食べた。父親に、姉にそうしたように。そうすることでまた愛を感じた。
そうしてきた。そうして生きてきた。
なのに。
―――――痛い。痛い。痛い。痛い。痛い―――――!
全身から伝わる激痛。手が、足が、内臓が、目が、骨が、脳が、限界を叫ぶ。
そして、月詠ははっきりと感じた。
嫌だ、と。
嬉しくない、と。
―――――こんな、痛いの、嫌だ――――――――!!
感情が電流のように駆け巡り、そして――――
―――ふと。見覚えの無い記憶が甦る。
穏やかな晴れの日。緑豊かな公園。
私とお姉ちゃんを抱きかかえる、知らない男の人と。
こちらを見ている、血まみれの知らない女の人。
お姉ちゃんが何か叫んでる。
“助けて、■■■■―――”
きっとあの女の人に言っているんだけど、涙交じりでよく分からない。
でも、女の人は。
“大丈夫よ、二人とも―――――”
血まみれで、苦しげで、今にも倒れそうなのに。
すごく優しげな、キレイな笑顔で。
“お母さんに任せなさい―――――”
お父さんが泣いている。
お姉ちゃんが泣いている。
女の人が、お父さんの腕の中で眠っている。
私は、よく分からなかったけど。
何だかとっても、目が熱かった。
これが原初の記憶。
幸せだった日々の断末魔。
“私”という名のパズルにはめ込む、最初の1ピース。
「あ、ア―――――――――
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッッ!!!」
吼える。
眼窩から涙のような血を流し、月夜を覆う群雲に吼える。絶叫は空気を震わせ、水辺を揺らし、森をさざめかせ、彼方まで響き渡る。
悲鳴でも断末魔でもなく、喜びでも怒りでもなく、正気でも狂気でもなく。
ましてや末期の祈りなどでは断じて無い。
例えるならば―――――産声。
人として死んでいた少女が。
人として生まれたような声。
「っ――――!この野郎、まだ――――!!」
千雨はむしろ憐れんだ。
こんな姿になってまで、まだ生きなければならないのか、と。
今彼女の体を蝕む激痛など、想像したくもない。自分やエヴァであっても、確実にショック死する。
即死させてやれなかったことを詫びながら、今度こそ、と空気を吸い込む。
―――――だが、そんな千雨の思考は、一瞬で消し飛ばされた。
「―――――――な、に?」
月詠の周りの空気がおかしい。
自然に流れるべき空気が、月詠を中心に渦巻き、荒れ狂っている。龍がのたうち回るかのように、激しく、かつ不自然に、不規則に、そして次第に大きくなっていく。
「、ア――――――――――――あ。」
月詠がゆっくりと千雨の方を向く。
月詠を中心に渦巻く乱気流が、一気に倍以上に膨れ上がった。
左手の剣を手放した。剣は地面に落ちた途端に砕け散る。残る右の剣の柄を両手で握り、錆びているかのような動作で、上段に持って行く。
傍目には野球のピッチングフォーム。剣先は斜め下を向き、今にも振り下ろされそうな雰囲気。背に纏う、台風のような風の塊。
月詠が、眼球を失った両目で、しっかりと千雨を捉えた。
千雨の背筋が一気に粟立った。
殺される、という直感。攻撃する暇など無い、逃げろ、と本能が叫ぶ。言われるまでもなく、両足に力を込め、一気に逃げる。
(――――――――――駄目だ。)
逃げようとして、最大の失態に気付いた。
今自分が立っている場所は水辺。すなわち、湖岸。
湖上の祭壇で眠り続ける木乃香が、射線上に居る。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーッッッッッ!!」
全身から伝わる、苦痛を訴える信号を必死でこらえながら。
月詠は剣を振り下ろした。
“彼女”の母は魔法使いだった。
故に、その娘たちも魔力を受け継いだ。
気を操る天才たる“彼女”が先天的に持つ、母親譲りの魔力。
それを自覚して使ったわけではなく、ただ、己が内から湧き上がる力を、いつものように、されどいつも以上に鋭く、素早く、繊細に、全身に流し込んだ。
その結果が―――これだった。
「気」と「魔力」。
本来なら相反する二つの力を同時に練り上げ、合成し、一つの力と為す技術。
習得するだけで歴史に名を刻まれるという、魔法界の特殊技能の最高峰。
その名を――――「感卦法」。
その一太刀で、湖が割れた。
(少し離れたところで繰り広げられる、緊張感の無い舞台裏)
「あの、天ヶ崎さん?」
「何やの?」
「いえ、ふと思ったんですけど…。今あの二人、近衛木乃香の近くで戦闘繰り広げてるわけですよね?」
「そやな。まぁ、月詠本人は近衛木乃香に興味は無いやろけど。」
「だったら、環の『
「…環はんを、あの怪物共の戦いに巻き込ませる気ぃなん?さすがにウチもそれはエグイと思うわぁ…。」
「ご、ゴメンナサイ、軽率でした―――って、環!?大丈夫大丈夫!!嘘嘘、私が馬鹿だっただけだって!!だからそんな泣きそうな顔しないで!?大丈夫、死地に行けとか言わないから!」
「……………………(じわっ)」
「あっはっは。泣かしてもうたなぁ、調はん。」
「暢気に言わないでくださいよ!?ていうか、こうなること分かってたでしょ!?ホントに性格悪い―――ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ!!今のは完全に失言でした!!だからどうかその符をしまってください!!栞、フェ、フェイト様、助けて―――」
「済まない、さすがの僕も庇いきれない。」
「私は一度もそんなこと思ったことない。」
「見捨てられたぁ―――――――――っ!!?ていうか嘘つけ栞!目ぇ合わせろ!」
「ところで絡繰はん、何であの嬢ちゃんに加勢せぇへんかったん?」
「馬に蹴られて死にたくありませんので。」
「何その理由!?」
「はっはっは、なるほどなぁ!うん、ええよ、気に入った。コイツ好きなようにしてええよ。」
「売り渡されたぁ――――――――っ!!?」
「ありがとうございます。対千雨さん用特訓に使えそうです。」
「意外と乗り気だぁ――――――――――――――っ!!?」
(後書きは次回に回すので、代わりに今話を3行でまとめてみた)
月詠、虐待。
月詠、頑丈。
月詠、月牙天衝。
…内容薄っ!!
ではまた明日〜。