ヘルマンは目の前で起きた事、起きている事が信じられないでいた。
今、自分たちの前に立ち塞がる少女は、間違いなく石柱に押し潰されたはずだった。運良く即死を免れたとしても、指一本まともに動かせない。しかも背中に残る痛々しい傷から察するに、何らかの治癒魔法を用いたわけでもなさそうだ。
にも関わらず、彼女は一歩、また一歩と歩み寄ってくる。その血に染まった全身から滲ませる明確な殺意が、ヘルマンの肌をチリチリと焼く。
「ハッ、死に損ないが格好付けてんじゃねえ!大人しく寝てりゃ、これ以上痛い目見ないで済んだのになァ!」
せせら笑う声が、男たちの中から聞こえてきた。ヘルマンは不快感を隠すことなく、声のした方に顔を向ける。しかし意外なことに、笑い声を上げている者はまばらで、最初に声を上げた者以外は皆引き攣ったような笑顔を浮かべているのだった。
「…へえ、自分の命の危険を何となく察する程度の脳みそは残ってたか。」
そう言って見下す千雨の口の端からは、真っ赤な血が溢れだして線を引いている。
「ま、後10分ともたない体だが…。それだけありゃ充分だ。」
次の瞬間、千雨の姿が全員の視界から掻き消えた。
そしてほぼ同時に、男たちの後方から何かが破裂する音が響き、雨以外の何か生温かい物が降り注ぐ。
振り向いた先に居たのは、真っ先に千雨を貶した男。
正確に言えば、男の残骸。
腹部のあった場所に大きな空洞と血まみれの脚が生え、上下半身が完全に分かたれていた。支えを失った上半身は、背後に立つ千雨が頭部から持ち上げており、掴まれた顔は茫然自失の様相だ。
そして茫然自失としていたのは、ヘルマンも同じであった。
先ほど彼女は、裕奈たちを捕らえる悪魔を蹴散らしてから自分と明日菜たちとの間に割り込み、拳を受け止めた。そして今も、一瞬で誰にも気付かれることなく最後方に移動し、蹴りの一撃で腹をぶち抜いた。
己の身体能力のみで成し遂げる、およそ人の域を逸脱した“瞬間移動”。それを、このいつ崩壊してもおかしくない体で使ったのだ。それがどれほどの苦痛を伴うものか、想像すらしたくない。
掴まれた男が、遅れて己の死を認識し、白目を剥く。それとほぼ同時に千雨に投げ捨てられ、べチャッと嫌な音を立てて潰れた。
「さあ、地獄への道行き、付き合ってもらうぜ…!」
死神に魅入られた少女が、獰猛に唸りをあげて突進していく。
降り注ぐ大粒の雨で、返り血も、自分の血も、洗い流しながら。
#39 嵐の中に燃える命
「おおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!!」
蜘蛛の子を散らすように逃げる男たちの中で、一人はぐれた男に目を付ける。
たった一歩でその懐まで潜り込み、胸倉を掴み上げた。
「ひっ―――――――」
男の漏らした悲鳴は短く、次の瞬間にはその場に叩きつけられ、列車に轢かれたかのような肉塊と化した。
途端に、それこそ列車と激突したかのような激痛が千雨を襲った。
どこかの骨が砕け、どこかの血管が千切れる。神経も筋繊維も、すでに数えきれない程損耗している。潰れた臓腑からせり上がってくる血を無理矢理押し留めるが、その度に視界が揺れ、許容外の激痛が平衡感覚を麻痺させる。
「テメェ、何で立ってられる!?間違いなく即死だっただろうが!傷だって回復してねぇ、出血も致死量だ!なのに何でまだ動けるんだよ!?」
恐慌状態に陥った男たちの叫びすら遠い。視界が歪み、まともに顔を判別することすら出来ない。
―――――堪えろ。
歯を食いしばり、激痛に喘ぐ体に鞭打つ。
そうだ、立ち上がった時からずっと激痛は体を蝕み続けているのだ。今さら痛みが増したくらいで、止まるわけにはいかないだろう。
「うるっ…せぇ!!」
一喝と共に一気に踏み出す。風圧が身を裂き、着地の衝撃が爪先から脳まで串刺しにする。雨粒すら針のようだ。
「ち、畜生!
恐慌状態に陥った男が至近距離から放った魔法を、避けることなく真正面から受ける。数十枚にも及ぶ石の刃を悉く回避し、走り寄る勢いのまま手刀を振るった。
首を跳ね飛ばされた勢いで、空中を回転する頭部を、もう片方の手で掴む。そして力強い踏み込みで重心を安定させ、野球の投手のようにその
投げられた
「ごぷっ…!が、はぁっ、あ゛、づ――――――」
元の体勢に戻った瞬間、大量に吐血した。
思わず崩れ落ちそうになるのを必死に耐えながら、溜まっていた血を吐き切った。
ふと肩に違和感を感じ、横目で見ると、先ほどの石刃の一枚が刺さっていた。どうやら避けきれなかったらしい。今の千雨の状態を考えれば当然といえるのだが、千雨はそれを不快そうに眺めながら引っこ抜いた。
そしてその刃で、向かってきたヘルマンをいなしつつ、斬りつけた。
ヘルマンは斬られた肩を庇いつつも、千雨の正面蹴りを真正面から受け止めた。
「いい加減楽になったらどうかね?その傷ではさぞ苦しかろう?」
「ハッ、寝言言いてえんなら、とっとと地獄へ還っとけ!」
足を振り解き、すぐさまヘルマンの背後に回り込む。
しかしその動きはヘルマンに先読みされていた。背後に振り向くと同時に、肩の傷を庇う振りをしていた腕が伸び、お返しとばかりに千雨の肩を射抜く。
「がっ―――――!」
苦痛を堪える声と、肩の骨が砕ける音が同時に響いた。肩から奔る激痛が、連鎖的に全身の痛覚を刺激し、千雨のなけなしの意識を刈り取ろうとする。
それでも、そんな様子は億尾にも出さず、千雨は歯を噛み砕かんばかりに喰いしばる。
「舐めんじゃ――――ねぇっ!!」
カウンターの一撃を繰り出すも、同時にヘルマンが後退を取ったため、直撃には至らない。しかし掠めた拳と風圧だけで、ヘルマンを後方に吹き飛ばした。
「やれ、悪魔共!!押し潰せ!!」
恐慌気味のウェルダンの号令の下、下級悪魔たちが群れを為して千雨に襲いかかる。片腕が使えなくなったのを好機と見たのだろう。
「単分子鎖ナノ鋼糸、開放―――左上腕部、各神経及び筋繊維を接合。出血部位を縫合―――!」
千雨が小さく呟くと同時に、目に見えない極細の魔力糸が、負傷した千雨の左肩から腕にかけてまとわりつく。骨が砕け、動かせなくなったはずの腕に力が戻り、傷口からの出血が止まる。
そして、千雨の周囲を取り囲むように襲いかかる悪魔たちを、両腕を廻して薙ぎ払った。
「―――っ、まさか、自分の体を!?」
「…その通りだよ、アルベール・カモミール。今千雨は、自分自身を操り人形にして動かしている。」
愕然とした面持ちのカモに、レインが隠しきれない苦渋を滲ませながら答える。
「ど、どういうことなのよカモ?操り人形って?」
困惑する明日菜とは対照的に、カモは沈痛な表情で俯く。意味を察した夕映とネギも、今にも泣きそうな表情で、暴れ回る千雨を見つめていた。
「…長谷川の姐さんは、今、アーティファクトを使ってる…。そうだよな?」
カモがレインに確認を求めると、レインはにべもなく頷いた。それがカモの心をますます暗くさせる。
「おそらくあのアーティファクトの正体は、疑似神経繊維。あの姐さんは砕けた脊椎の代わりに、とんでもなく極細な糸を全身の全神経に巡らせて、それを脳と直結させて、傷の大小有無に関わらず無理矢理動かしてる。それに加えて、傷口の縫合とかも行ってるはずだ。さらに魔力供給による身体能力の向上と、生物学的リミッターの強制解除。違うか?」
再度の確認に、レインが同じように頷く。
「無理矢理…、それって、怪我は回復してないってことよね!?そんな体で―――」
「回復どころか、酷くなる一方だよ。普通ならとっくに棺桶の中。激しい動きの連続で傷口は際限なく広がっていって、その度に地獄のような痛みが千雨を襲ってる。」
「麻酔無しで手術―――それも、傷口を縫い合わせて出血を抑えてるだけだ。それでも出血量は致死量を超えてる。あんな風に、立って戦えてること自体が異常なんだ…!」
レインとカモが悔しげに顔を歪ませ、明日菜も顔を青く染めた。夕映は俯き、その表情は伺えない。ネギは歯どころか体全体を震わせ、呆然と千雨の戦いを見ている。
「うおおおおおおおっっっ!!」
咆哮と共に、千雨が右手を石畳に叩きつける。
指先から手首まで、石畳を破壊しながら地面に沈みこませ、振り子のような勢いのまま、目前の悪魔たちに向けて土砂を浴びせかけた。
千雨の剛力によって掻き出され、散弾と化した土砂が、抵抗する暇すら与えず悪魔たちの体を引き裂いていく。
レインとカモの認識はほぼ正しいが、一部誤りがある。
千雨のアーティファクトの正式名称は、『白紙の切符』。その効果は『他者の武器、能力のコピー』である。ただしこの効果を発動出来るのは一回きり。以降は書きこまれた能力の発動源となる。
そして千雨が書きこんだのが、レガートの武器―――単分子鎖ナノ鋼糸である。
本来ならこの場に居る全員を一瞬で操り人形にしてしまう程の強力な武装であるが、そもそもナノサイズの極細の糸を自由自在に操るという芸当自体が常軌を逸している。
故に千雨は、この鋼糸を、
千切れた神経や脊椎を補強する形で、擬似神経として全身に張り巡らせることにより、負傷を無視し、かつ人体の限界を超えた動作を取ることを可能とした。さらにレインからの魔力供給を全て身体能力強化に充てることで、こちらも同じく限界突破した筋力を発揮出来るようになったのだ。
ちなみに、千雨がこの能力を使う事が出来たのは、ノーマンズランドの未来を、レガートの戦闘映像を見たからである。
「キシャアアアアァァァァッッッ!!」
千雨の土砂散弾をかろうじて避けた数体の生き残りが、再度千雨に襲いかかる。その耳障りな奇声からは、知性の欠片も感じられない。
「うる―――せえっ!!」
千雨の腕の一閃で、悪魔の上半身が文字通り消し飛ぶ。そのまま2体目、3体目と、単なる蹂躙戦の様相だ。
悪魔たちを狩るその背中が、明日菜の目に映る。醜く拉げたその背中はあまりにも痛々しく、とても直視に耐える物ではなかったが、それよりも目を逸らしてはならないという想いの方がずっと強かった。
どうして、そこまで。
それ程の傷を負ってなお、立ち上がり、戦おうとするのか。
自分たちのためだと言われても、全く実感が湧かない。
明日菜の瞼には、自然と理由の分からない涙が溜まっていった。
「それ以上動くなっ!!コイツ等がどうなってもいいのか!?」
だが、突如響き渡った声に思わず視線を逸らして振り向く。
ミディアムがその両腕に明石親子を抱え上げていた。二人の横には石の槍が生えており、抱える手を離した瞬間貫かれるようになっていた。
その魔手から逃れたまき絵、亜子、アキラの3人が、息も絶え絶えに明日菜たちの元へ駆け寄ってきた。3人の泣きそうな顔から察するに、裕奈が逃がしたようだ。座り込む亜子を抱きかかえながら、ステージ上のミディアムを睨みつける。
「…ホントに、救い様の無え馬鹿だな、テメエら。」
だがそんな明日菜の気概は、それを遥かに上回る千雨の怒りを耳にした瞬間に鎮火した。
両手にそれぞれ悪魔の頭を掴み上げ、血を滴らせながらステージに向かい、歩を進めていく。恐怖で引き攣るミディアムの表情から、今の千雨がどれ程鬼気迫る物なのか、容易く想像出来た。
「私が何で、無理矢理延命してまでテメエらに立ち向かってるか―――分からねえ訳じゃねえだろうが!!」
咆哮と共に、石の槍に千雨の掴む悪魔の頭がそれぞれ叩きつけられた。
そして空いた両手がミディアムの両肩を掴み、そのまま抉り取る。
ぶちっ、という不快な音と噴出する血を間近で浴びながら、明石親子を肘で軽く突き飛ばす。返り血を浴びさせないための処置だ。頭部を失い泡のように消え行く直前の悪魔たちの体が上手くクッションになり、倒れ込む衝撃を和らげた。
最後の仕上げに、怯えるミディアムの頭を両手で掴み、駒のように勢いよく回した。砕け千切れる音が響いた後、顔を完全に背中側に向けながら斃れる。
千雨はその様子を一瞥すらしない。否、している余裕が無い。
このナノ鋼糸による擬似神経繊維は、今の千雨にとって諸刃の刃だ。というのも、今鋼糸が補っている部分は、いずれも致命傷の箇所ばかり。すなわち、その部分の痛覚もより鮮明に感じてしまう。しかも一部の繊維は脳と直結させてあるため、痛みを訴える信号が、直接脳に届くのだ。
つまり、常人なら軽くショック死する程の激痛の濁流を、ダイレクトに脳に叩きつけられ続けている、という事に他ならない。
身を焼く痛みは数秒おきに意識を剥離させ、酷使し過ぎた脚が背中と同じくらいボロボロになっている。ナノ鋼糸もそろそろ在庫切れだ。それに何より―――
「くそぉぉぉぉっ!!」
自暴自棄な叫びが、明日菜たちの真後ろから聞こえてきた。
顔を醜く、絶望に引き攣らせた男が、ナイフを腰に構えて突っ込んできた。ナイフの切先は、ちょうど夕映とネギの居る場所を向いている。
「このっ…!」
「いいよレイン。どいてろ。」
応戦しようとするレインを聞き慣れた声が遮った。明日菜たちの頭上を天馬のように跳び越えながら、担いできた明石親子を放り渡す。
「ひぃっ―――――ぐっ!?」
千雨が夕映たちの前に割り込み着地すると同時に、流れるような仕草で怯える男の胸に手を突き刺した。
ぶち、ぶち、と、男の体の内側から、くぐもった音が響く。やがて千雨の手は男の背中を突き破り、完全に体を貫通させた。その手にはビクビクと蠢く心臓が握られていた。
男の口から大量の血が溢れだす。そして千雨が勢いよく手を引き抜くと同時に、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。引っこ抜かれた心臓は、無造作に放られ、潰れた。
明日菜たちは呆然とその一連の惨劇を見届ける。
全員、千雨に釘付けになっていた。男の無惨な死に様も、紙屑のようにぐしゃぐしゃになった背中も、目を背けて当然の光景であるはずなのに、目は絶対に千雨を視界から外そうとしない。
(―――その誓いを果たすまでは、死んでも死にきれないってことだ。)
まき絵の脳裏に、つい数日前の早朝の千雨との会話が克明に思い出される。
いつも音楽を奏でて、クラスを盛り上げてくれていた少女。
その少女は今、血まみれで、今にも倒れそうな身体を引き摺って、死を覚悟して戦っている。
彼女は譲れない誓いと言った。その誓いを果たすまで、決して死にはしないと言った。そして今、死を目前にしながらも、崩れかけた身体を引っ張って、戦いを挑んでいる。それはとても凄惨な光景で、目を背けて当然のものであるはずだ。
なのに何故、私は。
目の前で人を殺すクラスメイトの姿を、綺麗だと感じているのだろう。
だが次の瞬間。
とうに限界を超えていた千雨の身体が、ここに来て最大級の悲鳴を発した。
見様によっては艶やかにすら映るほどに、全身から鮮血の華を散らせた。
「―――――――――っっ!!」
声すら出せない。
古傷までもが開き、残された僅かな血液を一気に噴出する。同時に、身体の内側から、鋼糸では補いきれない程の致命的な断裂音が次々に響いてくる。
(畜生ッ…!横隔膜より下、食道と胃の接合部分を切除し、
すでに胃より下の内臓はほぼ潰れており、全く機能していない。ならばいっその事、最低限の止血だけしておいて、余った鋼糸を他の重要箇所に回した方が良い、と千雨は考えたのだ。
そうと決まった以上、躊躇はしていられない。素早く該当箇所の鋼糸を解き、最低限の止血と血流の一部操作を施す。そして歯を食い縛りつつ、食道と胃の接合部を一気に絞め上げた。
ビクン、と大きく身体が跳ねると共に、口から滝のように吐血する。
それまでの比ではない程の激痛が、一本の剣のように千雨を頭から足先まで貫く。全身が陸に揚げられた魚のように痙攣し、鼻どころか目からも血が溢れだした。
―――まだだ。
―――まだ、終わってないだろ。
失いかけた意識に叱咤が飛ぶ。
短くも力強い、千雨が千雨自身に送る激励。
そうだ、後3人。
後3人屠れば、楽にしてやる。
漂白された意識を引き戻し、か細く波打つ心臓に力を込める。腕と脚に感覚と力が戻っていく。
「い、今の内だっ!逃げるぞっ!」
千雨の状態悪化を見て取り、ウェルダンが残る部下たちに叫びかける。反対する者など居るはずもなく、ウェルダンを先頭に一目散に駆け出そうとする。
「―――――逃さぬ。」
だが、その決断は余りにも遅かった。
楓の膝がウェルダンの鳩尾にめり込む。そのまま空中に跳ね上げられ、一回転しながら石畳に叩きつけられた。起き上がる間もなく背中に乗られ、万力のような力で頭部を掴まれた。残る二人は、楓と千雨の挟み打ちに合った事実を認識し、硬直している。
「…楓、か。サンキュ。」
千雨が弱々しい微笑みを見せると同時に、身体をよろめかせた。
重力に従ってそのまま後ろに倒れこもうとする身体を、明日菜と夕映、そしてアキラが支えた。
「…あぁ、神楽坂と、大河内、それに、綾瀬か。ありがと。助か、った。」
弱々しい微笑みはそのままに、息も絶え絶えにお礼を述べる。その余りにも痛々しい姿に、またしても明日菜の瞼に熱い物が溜まっていくが、不意に夕映がある事に気付いた。
「長谷川さん…まさか、目が…。」
夕映の震えた声に、千雨は微笑みを苦笑気味のものに変えた。
ミディアムを始末した時にはすでにぼやけていた視界は、今や血だまりと水たまりの区別も付かないほどに白濁していた。それでも個人を認識出来るのは、やはり自慢の聴力のおかげであるが、それすら楓の到着に気付けなかった程に低下している。
「…千雨殿。後は拙者が請け負う。このような下衆共のために、これ以上千雨殿が手を汚す必要は無い。」
全員が絶句する中、楓が語気を強めて言い放つ。その手には鈍く光る苦無が握られており、頷く以外の答えを許さない、と言外に語っているも同然だった。
しかし千雨は意に介さず、首を横に振る。
「…駄目だよ、楓。お前が、手を汚す必要なんて、ない。汚れ役は、私の仕事だ。…最期までな。」
「だがっ…!」
「楓。」
今度は千雨が有無を言わさぬ口調になった。しかしその顔には相変わらず微笑が浮かんでいる。
まるで消える間際の線香花火のような、儚さに満ちた微笑みが。
「もう、
一瞬何かを叫びかけた楓が、何も言えなくなって口を閉ざす。その代わりとばかりにウェルダンの後頭部を思い切り殴りつけた。
その顔には、名状し難い程の悔恨がありありと浮かんでいた。
「本当に、ありがとうな、楓。…それと、ゴメン。」
小さく呟いてから、千雨は残る3人に向かって歩き出そうとする。
だが、去ろうとする彼女の服の裾を掴んで離さない手があった。
「もう…。もう、いいです…。もう、休んでください、長谷川さん…。」
夕映だった。俯き、その表情は伺えないものの、その涙交じりの声さえ聞けば、どんな顔をしているか想像に難くなかった。
「長谷川さんが、私たちのために戦ってることは、よく分かったです。…散々酷い事言ってゴメンなさい…。だから、だからもう、休んでください。これ以上は、もう…。」
夕映が唇を震わしながら懇願する。そしてそれはきっと、この場に居る全員の願いでもあるのだろう。もうこれ以上苦しむ必要はない、と、苦しむ顔は見たくない、と、明日菜たちの表情は一様にそう訴えていた。
それが、千雨が自分たちのために戦い、傷ついているが故の心苦しさから来る物であったとしても、千雨を楽にしてやりたいという気持ちに偽りは無い。せめて安らかに眠りに着かせてあげたいという一心だった。
「―――馬鹿だな。私は別に、お前たちのために戦ってるわけじゃないよ。」
しかし千雨が口にしたのは、思いも寄らない言葉だった。
夕映が聞き間違えたと言わんばかりに呆けた顔で見つめている。そんな夕映の頬に伝う涙を、千雨が血の付いていない指で拭った。
「これは、私のための戦いなんだ。私が通すべき意地を通すための、戦わなきゃいけない戦いなんだ。…それに、お前の言ってた事は、間違ってなんかないよ、綾瀬。」
涙を拭い終えた指をそっと外し、ほとんど見えていない目で夕映を見つめ返す。
「お前の言った通り、私は疫病神さ。クラスメイトを守るなんて意気込んでおきながら、結局は皆を不幸の渦に巻き込んでる。お前も、神楽坂も、明石も、和泉も、大河内も、佐々木も、他の皆も。麻帆良でも京都でも、私のせいで、沢山の人が傷ついた。」
夕映が大粒の涙をこぼし続けながら、ふるふると首を振る。掴まれたままの裾にさらに力がこもり、皺が広がる。
「私はさ、殺人鬼なんだ。人を殺して生き長らえるような、最低の人間なんだ。けどその生き方に後悔は無い。でも一方で、必死になって身に付けた力が使われもせず腐っていく現状が嫌でもあった。」
静かに紡がれる懺悔に、レインを含めた全員が、ただただ静かに聞き入っていた。
「結局私は、お前たちを利用しただけなんだ。お前たちを守りたいとか、そんな体面の良い言い訳使って、私は自分の力を存分に振るえる場所に望んで飛び込んだんだ。そして、多分その先に、自分の死に場所を見てたんだと思う。」
千雨の瞳から、血涙を押し流すように、透明な涙が滴り落ちる。
「私は私の生き方の言い訳に、お前たちを使った。情けない話だよな。お前たちの倍以上生きてるくせに、人をだしにしなきゃ生きてく理由も見つけられないんだから。」
自分の涙は拭うことなく、自分自身を嘲笑する姿は、負う怪我と相まって、今の千雨をより痛々しく映し出していた。
「けれど、3−Aの皆が大切だったのもホントだ。私の音楽を褒めてくれた人たちが、笑い合った大切な友達に、人を殴って、傷つけなきゃいけないような、そんな世界に巻き込まれて欲しくなかった。」
裕奈が苦しげに息を吐く父親に視線を向ける。父親も、そしてきっと亡き母親も、自分の知らない所で、死と隣り合わせの日々を過ごしてきたのだと感じ、同時に、それがあまりに今更であることを痛感していた。
「言い訳してばっかりで、都合の良いお為ごかしばっかり口にして、挙句それすら守れなくて、こんな無様晒してるけど―――それでも、皆を守りたいっていう気持ちだけは、本当に、嘘じゃなかったから…。もう私には、それしか残ってないから…。」
咄嗟にそれは違う、と言いそうになった夕映だったが、口が思うように開かない。
止めたい。けれどきっと千雨は止まらない。千雨の強い瞳が、強い眼差しが、何よりも雄弁にそれを物語っていた。
「だからせめて―――クラスメイトを守るっていう、この決意だけは、最期まで通させてくれ。」
夕映が今度こそ何も言えなくなり、打ちのめされたように俯く。
夕映は思い出していた。大好きだった祖父が話してくれた、親友との別れのこと。大切な人を守るために特攻隊に志願し、そして二度と戻らなかった親友のことを。
今の千雨はきっとそういう存在なのだ。
「レイン、後頼んだ。ネギ先生も…皆を、守ってくれ。」
それだけ言い残し、千雨は背中を見せて去っていく。
彼女を止める手は、もう無かった。
「…目を逸らさないで。」
レインの言葉は、ある意味ひどく的外れな物だった。
何故なら、誰一人として千雨から目を逸らそうとしている者など居ないからだ。自分たちが目を逸らす事は許されないと理解しているのだ。
「あなたたちの…いえ、私たちのこれまでの日常が、どんな想いの上に立っていたものなのか…この場に居て知らずにいれる程、愚かでもないでしょう?」
レインの口調は刺々しいが、哀しみに満ちていた。全員それに気付きつつも、気付いていない振りをして、最期の戦いに赴く千雨の背を見つめる。
「ちっ、くしょおおおおおおおっっ!死んで、たまるかぁぁぁぁぁ!!」
楓に取り押さえられていなかった男二人が、完全に自棄になって千雨に特攻する。
無論そんなものが通用するはずもなく、真っ先に近付いた男が胸倉を掴まれ、もう一人の男の方にぶん投げられた。
避ける間もなく二人は衝突し、それと全く同時に千雨の渾身の蹴りが、二人の腹部を爆砕し、文字通り蹴散らした。
「…別れの言葉は済んだかね?」
ヘルマンが紳士然とした態度を繕いなおし、千雨を迎える。
「…まあな。一方的に並べ立てて、勝手に話終わらせただけだけど…。やっぱり、アイツ等の声を聞くと、ちょっとホッとするな。不思議と心が静かだ。」
前世でレガートに惨殺された時と同等かそれ以上の苦痛を味わいながらも、迫る死を甘受出来るほどに、穏やかな心持ちだった。
ああ、そうか。
これが、護る戦いなんだな。
千雨はそう納得しながら、腕と脚に力を込め始めた。
「それは重畳。心静かなままで永眠出来るというのは、それはそれは幸せなことだよ。そのような死に様が出来るなど、自分でも思っていなかっただろう?」
「最初はそうでも無かったんだけどな。荒事なんて関わり合いにならず、普通の女の子として生きて行こうと思ってたんだけど。」
「何を馬鹿な事を。」
ヘルマンが嘲笑うが、馬鹿にしているような様子はない。むしろその真剣な眼差しは、千雨を誰よりも認め、賞賛する物に他ならなかった。
「―――貴様が今貫いているのは、まさしく雄の生き様だよ。」
群れを守る狼のように、あるいは雄牛のように。
守るべき者たちのために、勇壮かつ凄絶に立ちはだかるその姿は、強く気高い雄の在り方そのものだった。
「…それが褒め言葉になるとでも思ってんのか。女心を学び直してきやがれ、悪魔ジジイ。」
「失敬。そして感謝を。貴殿と出会い、戦えたことは、我が永き人生でも一二を争う幸運であったよ、ミス・サウザンドレイン。」
二人の殺気が呼応し合い、ひりつくような空気を醸し出す。雨音すらその空気に飲まれ、消えていく中、二人は身じろぎ一つせず、向かい合っている。
沈黙する二人の間を、柔らかな風が通り過ぎる。
その微風を切り裂き、二人同時に走り出した。
そして走り出した直後に。
―――ぶつん、と。
千雨の体内から、致命的な何かが断裂する音が響いた。
「――――――――あ。」
何とか発せられた声がそれだった。
直感する。もう駄目だ、と。後一歩届くことなく、冷たい石畳の上で朽ち果てるのだ、と。
足に力が入らない。着地し損なった足がもつれ、前のめりに身体が崩れ落ちていく。視界も意識も真っ白で、何も見えず、何も考えられない。鼓膜に響く音が急速に小さくなっていく。
逆らい難い眠気が、あっという間に千雨を包み込む。その温もりに身を委ね、そっと目を閉じる。
「―――――を元気に!活力を、健やかな風を!refectio!」
ネギの声が千雨の鼓膜を、脳を震わせる。
途端に意識がクリアになる。眠気は一瞬にして失せ、腕と脚に力が戻る。白く染まりきった視界に光が戻り、景色と色彩が網膜に映り込む。
―――そういえば、学年末テストでも唱えてたっけ。
千雨の脳裏によぎったのは、昨年度の学年末テスト。開始時間ギリギリに飛び込んできた後、ネギ先生が小さく唱えていた呪文。それを聞いた途端、集中力が上がったことを思い出す。
「―――ありがと、ネギ先生。」
あの時言えなかった分も含めて、聞こえるように少し大きめの声で感謝を伝える。
よろけた身体を、地面を踏みしめて立て直し、再加速して突進する。ヘルマンとの距離は、もう2mも無い。互いの拳が固く握りしめられ、眼前の敵を貫く槍へと変わる。
だがその槍は相手を貫くことなく、すれ違った。
ヘルマンが最後の一歩で、微妙に外側に逸れたのを、千雨ははっきりと見ていた。しかし傍目からは、千雨がヘルマンの動きを読んで脇を抜けたように見えるだろう。
がら空きになった、ウェルダンまでの道程を駆け抜けるために。
そういえばコイツも気に入らないってぼやいてたっけ、と千雨は苦笑する。
「―――礼は言わねえぞ。」
「―――もう躓くなよ。」
すれ違い様小さな声で会話を交わしあい、千雨は一気に駆け出した。近寄る千雨を見て、楓が無理やり立たせ、背中を蹴りつける。
「ひっ…!ま、待ってくれ!俺たちが悪かった!ホントに悪かった!も、もうこんなことしねえ!二度としねえ!だ、だ、だから頼む!頼むから、こ、殺さないでくれ!なあ!頼むって!か、金ならいくらでも―――――」
「…口を開くな。声を出すな。息をするな。何もかもが不快だ。」
千雨の左手がウェルダンの頭部を掴み、遠慮なく満身の力を込める。
まるで軟球でも握るかのように、ウェルダンの頭が歪んでいく。トマトが萎びていくのを早送りで観察しているような光景だが、トマトなら軋んだりくぐもった悲鳴をあげたりしない。
「たひゅっ…たひゅひぇ――――」
それを最期の言葉に、ウェルダンの頭が完全に握りつぶされた。
血と脳漿が飛び散り、千雨の顔から足元まで濡らす。頭を失った身体が地面に倒れようとするのを、千雨が目障りだと言わんばかりに蹴り飛ばし、四分五裂しながらステージ外まで飛んで行った。
全て終わった。
安堵感が千雨の胸を満たす。為すべき事を為した。通すべき意地を通した。
これで未練なく逝けるはずだ。
けれど、まだ心のどこかに変な引っ掛かりを感じていた。
小さく首を傾げながら、レインたちの方を何となく振り向く。
真っ先に目が合ったのは、ネギ先生だった。
―――ああ、まだあるじゃないか、やるべき事が。
振り返って歩き出す。楓が着いて来ようとするのを止めながら、残った力を振り絞り、普通の足取りで、ネギ先生の元へ。
「待ってくれ、長谷川の姐さん!!」
ネギに視線を向けていることを悟ったカモが、慌ててネギの前に躍り出る。
「確かに姐さんが追い詰められたのは、兄貴のせいかもしれねえ!だけどどうか、どうか兄貴を傷つけないでくれ!虫の良い話だってのは分かってる、何なら兄貴の代わりにオレッチを―――」
「カモ君、いいよ―――いいんだ。」
ネギの静かな、決意を秘めた声が、カモの必死の取り成しを途絶えさせた。明日菜も、夕映も、まき絵たちも、誰も何も言えないまま、千雨がネギの前に立った。
千雨の手が上がる。ネギは目を瞑り、痛みを堪えるべく歯を喰いしばった。
――――――――ぽん。
そんな予想外で、優しい音色と心地が、ネギの頭の上から響く。
驚きに目を開けたネギに、千雨が優しく、柔らかく微笑みかけながら、いつの間にか血を拭った手で頭を撫でていた。
「ありがとう、ネギ先生。呪文、唱えてくれただろ?おかげで最期まで倒れずに済んだ。ホントに、ありがとう。」
そんなお礼の言葉に、ネギは一瞬呆けた後、激しく首を振って千雨の手を払った。
「違いますっ!僕は長谷川さんを傷つけたんです!褒められる資格なんてありません!むしろ怒られなきゃいけない、くらいでっ…!僕は、長谷川さんの事を、知りもしないで…!」
それ以上言葉を紡げず、ボロボロと大粒の涙を零す。千雨は柔らかな笑みに苦笑を混ぜて、不快感の混じらない溜め息を一つ漏らす。
「…そうだな、じゃあ、一つだけ叱らせてもらおうかな。」
そう言いながらも、ネギの頭を撫でる優しい手つきは変わらない。
「―――先生が、生徒の前で、
ネギが千雨に襲いかかったのは、千雨が仇だと誤認したからである。それは、自分の都合で人に暴力を振るおうとしたという事に他ならない。
そしてそれは同時に、自分のために他人に危害を加えて生きるという、千雨が最も忌避しつつも、どうしても捨てきれなかった自身の生き方であり、クラスメイトにしてほしくないと願う生き方であった。
「ネギ先生が先生として、生徒のために力を振るうのは良い。体罰だって適度なら問題は無いさ。けれど、生徒の前で自分のために力を振るっちゃダメだ。それが暴力、生徒相手なら尚更、な。…分かったか?」
ネギがしゃくり上げながら頷く。
「―――うん、良かった。じゃあ大丈夫だよネギ先生。まだ、やり直せる。」
「やり直、し…?」
充血し切った瞳で千雨を見上げ、尋ねる。
「そう。ネギ先生はちゃんと反省して、訓戒を受け取った。なら大丈夫さ。もう二度と、同じ失敗はしないだろう?」
「で、でも僕は、千雨さんを―――――」
「それがどうした。」
頭を撫でる手に少し力を加え、髪をくしゃくしゃにしながら、千雨は微笑む。
「ネギ先生の人生は、まだまだ始まったばっかりだろ。たった一回の失敗で落ち込んでるようじゃ、先が思いやられるぜ?充分やり直せるさ。それに―――」
千雨は一旦言葉を切り、目線をネギに合わせる。ネギの目に入ったのは、まるで瀕死とは思えないような、そして殺人鬼とは到底思えないような、慈愛に満ちた千雨の表情だった。
「ネギ先生の周りには、ネギ先生を支えてくれる人がたくさんいるだろ?神楽坂も、綾瀬も、オコジョも、間違った時には正しい道に導いてくれる人がいる。3−Aは皆ネギ先生の味方だ。ネギ先生が困った時は、助力は惜しまないさ。」
千雨に合わせてネギが視線を向けると、明日菜も夕映もまき絵たちも、強い頷きを返していた。一度は止まったはずのネギの涙が、また瞼の外に溢れ出そうとする。
「ネギ先生の過去に何があったか、私は知らない。きっとすごく苦しくて、辛いことだったんだと思う。」
もう一度ネギが千雨の方を向く。千雨は相変わらず綺麗な微笑みを浮かべているが、次第に生気が失われていくのが見て取れた。
「けれど、それに足を引っ張られてちゃダメだ。過去は今へ、明日へ向かうための踏み台だ。決して、生きていくための糧じゃない。過去のために生きるなんて、そんな辛い生き方を選択する必要なんてないんだ。」
千雨の脳裏によぎる、先刻の暴走状態にあったネギ先生の表情。
憎悪に染まりきったあの顔は、生前のガントレットを見ているようであり、それをこの平穏な世界で見ることに耐えられなかった。
―――だから。
ネギ先生の抱える憎悪は、復讐心は、私が地獄へ一緒に持って行く。
こんなどす黒い感情を、暗い運命を、このいたいけな少年に背負わせることはしない。
「ネギ先生は、今を生きていけ。未来に繋がる今を、過去を贖える今を、嘘偽りない自分自身で居られる今を、支えてくれる人が居る、一緒に居られる今を、大切に、自信を持って、歩んで行け。
―――ネギ先生ならきっと出来るよ。私が保証する。」
私には出来なかったから、という言葉を、千雨は飲み込んだ。
結局、一度も自分の未来を思い描いたことなんて無かった。どうしても今を見つめ切れず、過去に固執し続けた自分の間抜けな姿を思い起こし、小さく苦笑する。
ふと、千雨の血濡れた両肩に、小さな手が回された。右肩には子供の頭の感触と重さが、右耳には至近距離から嗚咽が聞こえてくる。
「…汚れるぞ、ネギ先生。」
千雨の服も体も、自身の血と返り血が混じって赤黒く変色し切っている。触れれば赤が浸み移るその服の肩口を、ネギはより強く抱き締めた。
「いい、でずっ…!ぞれ、ぐらい゛っ…!僕、はっ…!」
それ以上は言葉にならず、ネギは千雨の肩の上でひたすら泣き続けた。千雨はネギを優しく抱き締め、頭や背中を擦り続けていた。
明日菜や夕映がこちらを見ているのが分かる。どんな表情をしているのか、すでに視力はおろか、聴力までも殆ど失っている千雨には判別出来ない。
でも、きっと大丈夫。彼女たちなら、これからもネギ先生を支え続けていってくれるだろう。千雨には、そう確信があった。
―――だから私は、安心して眠ることにしよう。
ネギ先生の涙が少し鎮まってきたのを見計らって、ネギを肩から外し、少し突き離す。軽く突き飛ばされたネギを明日菜が受け止め、そして千雨を見た。
千雨の肌は蝋のように白く、血の気が完全に失せていた。ふらつく足で立つその姿はさながら本物の幽霊のようで、ようやく千雨が致命傷を負っていたことを思い出した。
「神楽坂、ネギ先生やクラスの事、よろしく、頼んだ。…それと佐々木、大会、頑張れよ?」
「――――っ!長谷川さんっ!ダメっ!」
「長谷川さんっ!ダメだよ、死んじゃダメ!すぐに、すぐに救急車呼ぶから!それまで―――」
明日菜たちが呼びかける声も、ほとんど千雨の耳には入ってこない。だが、遠くから自分を呼び戻そうとする声が響いてくることだけは、何となく理解出来た。
そしてそれが間に合わない事だけは、完璧に理解出来ていた。
「ゴメン、な…。さすがに、ちょっと…疲れた…かな…。」
一繋ぎの意志で保っていた意識と身体を切り離し、眠気に身を委ねる。
不思議と痛みも出血も無い。あれだけ雨にあたり、冷え切ったはずの身体は、不思議な温かさに包まれている。
倒れ込む直前、身体の内側に波を感じた。
途端に視界がぼやけ、網膜に光景を映し出す。
雨があがり、雲間から光が差し込む。神々しい黄金の光は、まるで本当に天使が迎えに来たかのようだが、お迎えなら天使じゃなくて地獄の獄卒共だろう、と自嘲気味に苦笑した。
そして、脳裏に次々と友達や知り合いの顔が浮かぶ。
自分を産み、育ててくれた父と母。
自分にサックスをくれた、楽器屋の親父。
美味しい酒を振舞ってくれたエヴァ。
やたらと喧嘩を吹っ掛けてきたチャチャゼロ。
私に追いつき追い越すため日々猛特訓に励む茶々丸。
厳しい訓練にもへこたれなかった楓。
こっそり後ろから近づいて驚かそうとしてきたさよ。
いつも私を心配し、見守ってくれていたレイン。
誰よりも私を理解し、支えてくれていたのどか。
暇さえあれば私の音楽を聞きたがったクラスメイトたち。
幼稚園での演奏会や上流階級のパーティー、部活の応援、絵のモデル、曲目の相談、その他様々な事で私を頼ってくれた、大切なクラスメイトたち。
大切な人たちとの思い出が、走馬灯となって蘇る。
最後に残った意識の欠片が、一滴の涙となって、千雨の目から零れ落ちた。
「―――やっぱり、もうちょっと、生きてたかったな。」
これまで一度たりとも、自身の生きる未来を見ていなかった少女の望んだ、最初で最後の未来予想図。
最期の最期で思い描いたそれを、大切に心の中にしまい込みながら。
まるで天使の羽根に包まれるような柔らかな感触と共に、千雨は意識を手放した。
(後書き)
第39話。(血で)真っ赤な誓いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ回。多分今回の千雨は、和月先生の絵が合いそうな気がする。
というわけで、千雨バレイならぬ千雨サマーズでした。勘の良い方は前回の時点で、「ああ、自分の身体を傀儡化したのか」と気付いていただけていたことでしょう。
本編でも解説しましたが、もう一度千雨のアーティファクトについて。名称は「白紙の切符」、効果は「他人の武器、能力のコピー、ただし使えるのは一度きり」。まぁポケモンでいうドーブルのスケッチみたいなモンです。
で、前話でノーマンズランドのその後が流れた時に目にした、レガートの自分の身体を操る術をコピー。回復魔法は本作では誰も使ってないし(せいぜい治癒符)、ニコラスの持ってた回復薬は、ミカエルの眼の人体改造受けた奴じゃなきゃ効果無いですし。まぁ使ったとしてもオーバードーズ必須ですが。
ホントは前作で千雨が殴り飛ばすのはナイブズじゃなくてレガートの予定だったんですが、ナイブズの方が印象強くなるのでそちらにしました。ナイブズ様殴られ自分の能力コピーされ、レガート踏んだり蹴ったりだなぁオイ。
ヘルマンが最後道を譲ったのは、ウェルダンへの意趣返しです。憂さ晴らしです。
今回のサブタイはモンスターハンターポータブル3rdより、アマツマガツチ覚醒BGM「嵐の中に燃える命」です。残り5分針で水レーザー喰らってキャンプ送りになった後、ギリギリで倒せた時のあの快哉は忘れないです。というかアマツはビジュアルからして大好き。
次回は多分短めです。そう言って短く終わったことねえじゃんかよ、というツッコミは無しの方向で(笑)後2~3話で3章終わりますので、よろしくどうぞ!それではまた!