サイトが降り立った北の地、オルニールは寒かった。
かつてこの場所は複数の北方遊牧民族が抑えていた地域の一部である。
そこにトリステイン王国が侵攻し、全てを占領したのだ。
その時に行われたトリステイン軍の行為、非戦闘員の虐殺、僅かながらに耕作できた土地に塩を撒くなど、語ればキリがない。
結果として北方は敗れたのだ。
勝者の言い分が全て正しく、何十年もたった今ではこの事実をトリステイン国内で知るものは少ない。
だが、今も草の1本も生えない畑が散見されるに、当時の凄惨な戦いが思い出された。

「ここが、私の拝領した土地か」

しゃがみ込み、土を掬って口に含む。
すぐに吐き出すが、口の中に残ったのは少々の塩気だ。
サイトは確信した。
今もって、この地は死んでいるのだと。
それでも、サイトはこの土地を何とか再生させなければならない。
さもなければ――




さて、そもそもサイトがなぜ北の荒れ果てた地を拝領するに至ったか?
詳しく説明するには少々時を遡ることになる。
事の始まりは周知の通り、サイトが異世界「ハルケギニア」に召喚されたことにあるが、その召喚主のルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールがトリステイン軍学校の主席であったことが事態をややこしくした。
何せ軍学校始まって以来の秀才と称されたルイズが、こともあろうか召喚の儀式で使い魔ではなく人間を召喚してしまったのだから、同期生をはじめ教師陣も驚愕した。
当の本人は最初から使い魔を必要とはしていなかったので、まったく気にしていなかったが、周りの反応があまりに大きく何らかの対策を講じることになってしまった。
結果としてサイトはどのような扱いになったか。
学校側の意向でサイトは特別措置で学校に籍をおくことになり、ルイズと共に軍学を始めその他諸々のことも沢山覚えさせられた。
サイトは不思議なルーンの力で武芸こそ秀でていたが、読み書きをすることからのスタートだったので大変ハルケギニアに馴染むには苦労した。
それでもわずかに2ヶ月程度で言葉に不自由はなくなり、次第に学内で頭角を表したところは流石と言うべきだろう。
事実、その才覚を妬み色々と問題は起きたが、それもサイトにとっては良き思い出であった。
喧嘩をした後はすぐに和解することができ、その度友人は増えていった。
まあ、殴り合いをしたのは男性ばかりで、女性にいたってはむしろサイトの容姿と相まって惚れる、と言った場合が多かったのだが。
色恋沙汰で同期のみならず、男性の不興を買っていたのは間違いないが、それ以上にルイズの機嫌は加速度的にさがっていて、それをどうにかすることの方がサイトにとっては焦眉の急であった。
……話は戻る。
サイトは軍学校をルイズに次ぐ成績で卒業した。
その実力を同期生も皆認めていたが、学校の体裁を鑑みた一部の役人からそのまま少尉任官するのではなく、下士官(曹長)待遇で北の遊牧民族で編成された部隊に配属されたのだ。
そこから、トリステイン王国を取り巻く情勢が突如として悪化した。

時にトリステイン王国歴220年、アンリエッタ王妃の婚約者、アルビオン王国皇太子ウェールズ暗殺事件が発生、その首謀者はガリア王国の者と判明した。
ガリアが皇子を暗殺した経緯には、トリステイン王国とアルビオン王国が両者の婚約により強い外交的な結びつきを得ることを恐れたことがあげられる。
この事態にトリステイン王国側は強く反発、ガリア王国に対し賠償と北部の領土の割譲を要求した。
当然、ガリアはこの要求を退けた。
そのことで態度を完全に硬化させたトリステイン王国は、遂にガリア王国に宣戦布告、両国は戦闘状態に入った。
ただ、ここで一つだけトリステイン軍に誤算があった。
それはアルビオンが戦争に参加しなかったことである。
が、それでも十分に勝算ありと軍部が奏上したため、開戦されている。
開戦から1年の間は、多数の優秀な魔法使いを擁するトリステイン軍が優位に進めた。
破竹の勢いで進撃し、当初要求していた領土をすぐに占領すると、さらに南下した。
結果としてこの快進撃が、トリステイン軍にとって命取りとなった。

戦争開始から2年目、ガリア軍は伸びきっていたトリステイン軍の兵站線を寸断することで自国領に孤立させた。
それだけならば、トリステイン軍はすぐに撤退をすることは可能だった。
だった、と言うことから推察される通り、実際にはトリステイン軍は撤退することすらできなくなっていた。
原因は多々あるが、大きなものとして2つあげられる。

1つ目は、ガリア軍が個人携帯火器の開発に成功したことにある。
つまり、小銃が普及し始めたことにより従来の魔法使いを頼みとする戦い方をしなくてもすむことになったのだ。
ガリア王国はそもそも魔法使いの数が少なく、その補填のために国民皆兵としていた。
慢性的な攻撃力不足(魔法使い不足はすなわち火力不足なのである)を科学技術の発展で解決することにより、強大な軍事国家に変貌したと言える。
何せ国民の成人男性は皆、1度は戦闘訓練を受けており兵力の補充は簡単にできる。
結果、単純な火力でトリステイン軍の数倍の力を手に入れたので、一気に防衛線を押し上げたのである。

そして2つ目の原因、トリステイン王国の軍組織の硬直化。
これがトリステイン軍の撤退にとどめを刺したといえる。
トリステイン王国は厳格な貴族制を敷いた国である。
そのため、戦争の表に立って戦うのは貴族と定められており、どれだけ優秀な国民兵がいても、決して上級士官にはなれないのだ。
また、前線の貴族将校は負けたところで引き下がることをせず、無謀な戦いをして率いる部隊ごと全滅する例が多々見受けられた。
前述した携帯火器の一斉射撃の前になんの策もなく、無謀な突撃を繰り返すだけ。
トリステイン軍の前線が崩壊したのは、もしくは貴族が持ったつまらないプライドのためだった、と言えるかもしれない。

さて、各前線が破られ続ける中、ひときわ大きな戦功を上げる者達がいた。
それがルイズやサイトと同門である、トリステイン軍学校70期生の士官である。
彼らは前線の兵を逃すための戦いをした。
そのため、かろうじて戦線を後退させつつ、トリステイン領内に引き返すことができたと言える。
サイトも部隊の隊長が死亡した後を引き継ぎ、周到に後退を重ねていった。
果たして、大失敗に終わったトリステイン軍の大攻勢は1年余りの時をかけ、何とか国境線まで引き下がることができ、両国の間は小康状態となった。

ただ、撤退するために払った犠牲は多大だった。
前線に投入した兵力8万人に対し、帰還を果たしたのはわずか2万人足らずであった。
その中でひときわ目立った戦果をあげた70期生の犠牲は更に酷かった。
ほぼ全員が殿軍を務めたため、最終卒業者数163名の内、実に57名が戦死、また4名は戦傷で前線を退いた。
同期生の3分の1が死んだ中、ルイズとサイトに関しては部隊の被害も最小限に抑えて撤退した。
その功によりルイズは陸軍少佐、サイトは陸軍中尉となった。
開戦から2年ほどで、2人がここまで昇進したのは僥倖である。
だが逆に考えれば、若い者を一気に士官に繰り上げなければならなくなった、トリステイン軍の士官不足を露呈したとも言える。

しかしながら、サイトも晴れて士官として前線で指揮することになった。
そして任官後、最初に言い渡された命令がガリア領内に取り残された部隊の救出であった。
それから1年に渡り、サイトはガリア領内で遊撃戦を行いながら敗残兵を見つけては救出した。
その戦功で、サイトは陸軍大尉となった。
次にサイトが任じられたのは、トリステイン王国の意地とも言える、ガリア領内への大侵攻の先鋒であった。
ここでも少し解説が必要であろう。
そもそも、3年前に大打撃を受けたトリステイン軍がどこから兵力を取ってきたのか?
答えは簡単で、トリステイン軍はガリアの方式を真似た。

つまり国民皆兵である。
そして無残な敗退から2年余り、敵から奪取した小銃を徹底的に解析、トリステイン軍も量産化に成功することで国民を軍人に仕立て上げたのである。
そのため、これより両国の戦闘は国家総力戦へと移行した。
実際、トリステイン軍が大侵攻に投入する兵力は50万人。
対するガリアが防衛に割いた人員も30万人と、ハルケギニア史上空前の戦力での戦闘が繰り広げられたのである。
サイト率いる先鋒軍の兵力は一万人、その構成の殆どは北の遊牧民族だった。
彼らと共にサイトは奮戦し、橋頭堡となる地点を早期に確保した。

が、ここで大きな誤算が生じる。
サイトが率いる部隊のみが前線の突破に成功しただけで、後詰の攻略部隊が敵前線で阻まれたのである。
そして敵中に孤立したサイトの部隊は執拗なガリア軍の攻撃に晒された。
日増しに銃弾が飛び交い、サイトの部隊は相当数の兵を失ったが、それでも攻略部隊が到達するまで持ちこたえた。
サイトの部隊がどれほどに精強だったかは、当時の敵国無電から傍受した「サラゴサ要塞にはなお10万人を超える敵が展開する」と打たれて増援を求めていたことから伺える。
実情として、この無電が発信された時既に、サイトの部隊には7千名程度しかいなかったにも関わらず、だ。
さて、この戦功が認められサイトは異例の5階級特進で陸軍少将となった。
ここで最初の答えになる。
サイトは昇進に加えて貴族の称号「シュバリエ」、北の大地「オルニール」領を下賜されることになったのである。




そして、物語は戦争開始から四年、サイトがハルケギニアに来てから数えれば5年目から開始される。



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