Prologue
トリステイン王国は二つの地域にわかれる。
一つはトリステインを建国してから数える王国歴元年から有する地域。もう一つは王国歴二百十五年に併合したトリステイン王国より北部地域一帯、北の民と呼ばれる遊牧民が住んでいる地域である。
元々、北の地域はトリステイン王国と帝政ゲルマニアとの相互不干渉地域として、長年空白にされていた。その場所を、現在国を治めるアンリエッタ女王の父であった先王が、併合したのである。
現在、王国歴二百二十四年であることを考えると北部地域はトリステイン史上、新しい地域であると言える。
併合した際には様々な問題が起きたのは言うまでもない。ガリアとの戦争においても差別され、多くの北の民の青年が死んだ。最も、それは固有のトリステイン領に住む青年も同じなのだが、差別されてはいない。
戦後すぐに各地では暴動も起きた。しかし、中には関係ない市民を集団で暴行し、殺す事件も多かった。北の民の被害者が多かったのは、やはり差別の現れだと言える。
今では小康状態になったトリステイン国内の治安だが、そこかしこに火種は残っていると言える。
そもそも、北の民が差別された理由は民族の違いからくるものではない。北の民はトリステインに併合されるより以前に、トリステインやゲルマニアなど、各地に住んではいた。
トリステインで北の民が差別対象となったのは併合時の戦いが起因している。トリステインはハルケギニア大陸随一の軍事大国であった。当時の国の軍事力を端的に表すのは簡単で、すなわち魔法使いの数が多ければ多いほど、軍事力は高いと認識されていた。
トリステインは周辺国よりも大幅に、魔法使いを擁していた。ゆえに、領土面積、人口が他国に比べ圧倒的少ないにも関わらず、独立していられたという経緯がある。
既に示したように、不干渉地帯であった北の地域を併合できたのも外交の延長線上にある武力あってこそできたのである。
しかし、その圧倒的な武力を持ちながらもトリステインは北の地域を併合するまでに二十年以上の歳月を費やした。理由はたくさんある。硬直化した軍組織、兵站の軽視など挙げればきりがない。
トリステインが結局、魔法使いを擁して併合したこと事態は(軍事的に)評価されよう。やはり魔法の力は偉大だった。しかし、当時簡単に併合できると踏んでいた軍上層部、大臣達にとっては大きな衝撃として受け止められた。
この戦いで得られた戦訓を後のガリア戦争に活かせていれば、またトリステインの歴史はかわっていただろう。だがトリステインは結局魔法使いによる力任せの戦術しか採らず、科学を軽視したことでガリア戦争における致命的な敗北を招いたことは間違いない。
話は戻るが、長らく続いた北の地域併合による衝撃は何も軍人や大臣だけに留まらずに国民にも広がった。
北の民は魔法使いなどいなかった。そんな奴らに自分たちの国が苦戦した。その感情が屈折し、北の民への強い差別へと繋がっていったのである。
そんな、差別され続けた北の民が躍進したのは皮肉にもガリア戦争であった。彼等は遊牧民であるから馬術に長け、機動戦を行うのに適していた。
また、中央の軍学校から左遷人事を受けたある下士官の影響もあった。その下士官は人望があり、なおかつ戦術に優れていた。
下士官は(戦況の悪化もあって)順調すぎるほどに昇進し、最後には北の民で構成される軍集団長になった。もちろん、北の民にとっては希望だった。
だが現実は非情にもその士官を北の民から奪った。最後の最後で、いなくなってしまったのだ。
それから、様々な出来事によって今では一部の北の民は、その士官のことを良くは思っていない。だが、未だ大多数の北の民は言葉にはしないがその士官に感謝しているのだ。
彼は決して北の民だからと差別しなかったし、かつての併合戦争によって荒廃した土地の改善を指導してくれた。彼の存在がなければ、今も北の土地では作物など取れることはなかった、と。
願わくば、もう一度彼に会いたいと願う北の民たち。奇しくも、その願いは彼女の願いと同じである。
T 四月二十八日
ガリア王国への旅が決まったと言っても、ルイズ一行はすぐに出立するわけではなかった。むしろ、今まで旅の準備に追われていた。ほんの一日前、旅支度を終わらせたばかりだ。
勿論、旅の用意をしたのはシエスタである。万能メイドたる彼女はその力を遺憾なく発揮してルイズと自分の準備、はたまたベアトリスの旅支度までした。
そのおかげで、ルイズはいつもと変わらない生活を送っていた。今も一人、ロッキングチェア(揺り椅子)にもたれ部屋で本を読んでいる。
そこにノックとともに、シエスタが部屋に入ってきた。
「お茶を持って来ました」
「ありがとう」
ルイズのすぐ傍、慣れた手つきでシエスタがお茶をカップにうつすと、お茶の香りが部屋に広がる。同じくシエスタが持ってきた皿の上にはクッキーが盛られている。
「クッキー、ねぇ」
ルイズは少し困った表情をした。
「お嫌いではないですよね?」
「好きよ。貴女が作ってくれたものは特に。だけど」
「だけど?」
「同時に本は読めないわ」
ルイズは本を閉じた。
「お行儀が悪いですよ」
シエスタは本を受け取り、棚に戻した。
「分かっている。言ってみただけよ」
手始めに一枚手に取り、ルイズは口に運んだ。思った通りの美味しさに、笑顔になる。いつもは本を読んでいるため厳つい顔を浮かべているが、シエスタの作ったものを食べる時は相好を崩してばかりだ。
当然、その顔見たさにシエスタも作っているので、料理の研究に余念がない。そして、今もルイズの笑みを見て、シエスタも微笑む。
「お気に召されたようで何よりです」
「貴女も一緒に食べなさい」
「よろしいんですか?」
「ええ、勿論。そのためのもう一つ、でしょう?」
テーブルの上、空っぽのカップを指さしてルイズは言った。
「はい。ではお言葉に甘えまして」
シエスタは空いている席に座った。お茶は、自分のカップに淹れ、ルイズのカップに継ぎ足す。
「つくづく、こうしていられるのは幸せね。本当に貴女がいて助かるわ。私は何もしなくていいのだから」
「まあ、褒めてくださるのは嬉しいですけど、何もでませんよ?」
「実際、そうじゃない。私は旅の支度をするでもなく、いつものようにしていられた」
「いくらルイズさんが元気でも、そのお身体では準備に難儀しますから」
「分かっているけど、何しないと言うのも落ち着かないものよ」
そう言いつつ、もう一枚クッキーを口に運ぶ。シエスタはお茶を飲みながらも、ルイズが食べ終わるのを見計らい言葉を続ける。
「普通は使用人に準備させるものですよ。ルイズさんの何でも自分でやろうとする姿勢は素晴らしいと思いますけど、それではこちらの立つ瀬がないです」
「そう言うものなのかしら」
「そう言うものです」
シエスタの言う通り、ルイズは昔から身支度から何やら自分でやる習慣があった。軍人として当然のことも、今は貴族の娘、当然のことではなくなる。
貴賎の問題は別として、やはりシエスタとしてはルイズに一定の貴族としての振る舞いをして欲しいと思っていた。もっとも、そうさせることもシエスタの仕事の一つである。
ルイズも一応、人任せにしていた時期はあったが、それは幼少期、軍の幼年学校に入るまでの間のかなり昔のことか、軍学校最終学時の一年あまりであったから、慣れていなかったわけで一概にルイズが悪い、とはできない。
「大体、ルイズさんは自分で何でもしていた割にファッションセンスが欠片もありません」
「傷つくわ」
シエスタに断言されてもどこ吹く風、実際ルイズも自分にそんな才能が無いことは知っていた。と言うよりも、ルイズはファッションに無頓着だと言える。ようは、真面目におしゃれをする気がない。
ルイズは退役して、軍服とおさらばしてからシエスタがくるまで、一番酷かった時で、Yシャツ一枚で家の中を闊歩していた。外出時の服装に関しては、人の眼をある程度気にして洋服を選んでいたが、屋敷内よりはマシ、と言った具合だった。
「何をおっしゃいますか。初めてお屋敷を訪ねた時、ルイズさんの格好にはびっくりしましたよ」
「……覚えていないわ」
「なら言いますよ。退役なされた方が軍服を、たかだかメイド一人を迎えるために着たと言うのは珍事です」
ルイズがシエスタを迎えた日、流石に下手な格好はできないと悟ったが何を着ればいいのか分からず、しまっておいた軍服と装飾一式を引っ張りだした。玄関先から出てきたのがご丁寧にフロックコート(いわゆる礼装と呼ばれるもの)まで着たルイズだったものだから、シエスタがとても驚いたことは想像に難しくない。
「……きちんとした身だしなみは大切よね?」
「時と場所、場合を考えるべきでした。雇った使用人を迎え入れるくらいで礼装はいりませんよ。普通に、今のような格好で良かったと思います」
「……当時はあれで最良だと思ったの」
そう言って、ルイズは昔日を懐かしむような眼をした。
「残念ですけど、最良とは言いにくいですよ」
シエスタが来てからルイズの格好は劇的に変化した。元々、素地は良いのだから、あとは彼女の要望を幾つか受け入れて似合う洋服をあてがうだけで何とでもなった。
「ふん……自分で選べたら苦労していないわ」
ルイズは嘆息し、紅茶を飲んだ。シエスタの厳しい指摘に、少し拗ねたのだ。
今日ルイズが着ている洋服(瀟灑なワンピースにベルト、ロングのカーディガンのシンプルな出で立ち)もシエスタが選んだものだ。確かにルイズに似合っている。だからこそ、少し悔しかったのである。
「ま、だからこそ現実を受け入れることも重要よね。どうせシエスタが選んでくれるなら間違いもないし、やっぱり楽で良いわ」
「それは、妙齢の女性としてよろしいことなのか、わからないですけど……」
シエスタにとってルイズが着るものを見立てるは楽しみになっているから、強く言わない。
むしろ言葉と裏腹にサクッと、シエスタはクッキーをかじり、焼き加減は悪くなかった、と安心しているくらいであった。今までのことは、形式上の諫言だ。いささか、主人の機嫌を損ねてしまったが、他愛のない会話の中のことだったし、ルイズも本気で拗ねているわけではない。
「良いのではないかしら。さっき、貴女が言ったことじゃない。何でもかんでも自分でするべきではないと」
「でも、ルイズさんは自分の好みを言わないじゃないですか」
「それはそうよ。私は貴女のことを信頼しているし、間違いがあった例がない。貴女は、良く私の好みを把握しているし、尽くしてくれているもの。感謝しているわ」
「面と向かって言われると恥ずかしいです」
シエスタは思わぬ賛辞に頬を赤らめ、手を当てた。
「ただ、ね」
フッと、ルイズは短く息を吐いた。
「毎度のこと一緒にお風呂に入ることだけはやめて欲しい」
「そんな! 何故ですか!?」
「いや、何でと言われることかしら……」
大声をあげたシエスタの顔が本気過ぎて、ルイズは少し引けた口調になった。だが、実際ルイズは一人でお風呂にだって入れる。そもそも、シエスタが来るまでは一人だったのだから、やるしかなかったとも言えるが。
シエスタが来てからほとんどの点で不都合は解消されたが、唯一シエスタが来てから生じた問題は、シエスタが必ずルイズと一緒にお風呂に入る点であった。
「流石、お風呂くらいは一人で良いと思ったのよ。貴女だって、一人でゆっくりと入っていたいと思わない?」
「思いません。ルイズさんと一緒のほうが良いです!」
「あ、そう……」
即答され、ルイズは何も言い返せなくなった。
「もしかして、迷惑でしたか?」
「迷惑、ではないわよ。事実、大変ではあったし。ただ、ね」
「ただ、何でしょう?」
「いいえ、何でもないわ」
「そうですか、良かった」
「良か……そう、ね」
まあお風呂で着替えなど一連の行動が面倒なのは確かだし、とルイズは考えることにした。率直に、ルイズが助かっていることに誤りはない。
「話は変わるけど。貴女、自分自身の準備は終わらせたの?」
「私のですか? 完璧です」
「その点で一つ、言い忘れていたのだけど。メイド服は駄目よ」
「え……?」
「やはり、メイド服で行くつもりだったのね」
「そりゃあ、私はルイズさんのメイドですから……本当に、メイド服ではいけないのですか?」
シエスタがメイド服に固執するところがあるのは、第一にルイズの身の回りの世話をする際に動きやすいからである。
「あんまり向こうでは目立たないようにしないといけないのよ。ベアトリスも、貴女に軍服を入れろとは言わなかったでしょう?」
「はい、そうです」
「トリステインの軍服は論外だから、ベアトリスの判断は正しい。それに、メイド服だって普通に考えたら珍しいわ。だから、今回は我慢して私服にして頂戴」
「……分かりました。確かに、そうですよね。私達は目立ちたくてガリアに行くわけではないのですから」
「ま、貴女は普段からメイド服しか着ていないんだし、たまにはおしゃれをするのも悪くないわよ」
「いきなり言われても困りますよ。私、洋服は郷里にほとんどおいてきてしまったんです」
シエスタは手をこねくり回した。言われてルイズも考えてみれば、とシエスタが屋敷で働くようになってからのことを思い返し、洋服を着ているシエスタを見たことが数えるほどしかないことに気づいた。
「貴女、給与で服を買ったりしないの?」
「お給料は貯金と、料理研究の材料とか日用品に使っています」
「いつも一緒に、私の服を買いに行くわよね?」
「はい」
「店で、自分も欲しい服とかないのかしら?」
「ルイズさんに試着させるのが楽しくて仕方ないので、いつもそんなこと考えもしません」
「……貴女、それでよく私にファッションがどうとか言えたものね」
「流行には敏感に反応しています! それに勉強も!」
シエスタが言うことに嘘はない。ただ、直近にルイズと言う良いモデルがいるせいか、自分のことはおろそかになっていた。
「医者の不養生とは言ったものね」
「え、どう言う意味です?」
「今の貴女のような人のことを言うのよ。でも、今まで私も失念していたということもある。シエスタ、貴女今から買い物に行って来なさい」
「お気遣いはありがたいですけど、別に気になさらないでください」
「じゃあ聞くけど。貴女、メイド服を除いて長旅できるだけの服を持っているの? いないでしょう?」
「……」
シエスタは押し黙った。
「沈黙は雄弁な同意とみなすわ。変なところで意地を張らないで、買ってきなさい。お金なら私が出すから」
「ですけど……」
「たまには私に主らしいことをさせなさい、シエスタ」
ルイズはカップに残っていたお茶を飲み干し、立ち上がる。
「急に立たれると危ないですよ」
すぐに反応して、シエスタはルイズを支えた。
「そう思うなら、私について来ることよ」
「……分かりました。ルイズさんの言う通りにします」
「素直で宜しい」
「ルイズさんほどではありませんよ。でも」
「でも?」
「ありがとうございます。私を気遣ってくださって。私は本当に、良い主に仕えているのだと実感しました」
「私こそ、貴女のような良き使用人を持てて光栄に思うわ」
お互いに褒め合い、それから程なく屋敷内には二人の笑い声が響いた。
U 四月三十日
シエスタはガタガタといつもと違う揺れを感じて眼を覚ました。どうやら自分は移動途中で眠っていたのだ、と理解するのにさらに一分ほど要した。今朝早くから起きて色々と準備をしていて、つい居眠りしてしまったのだ。
彼女は今、辻馬車の中にいた。昨日の夜いきなり帰省をルイズに勧められ、従ってのことだった。シエスタの故郷は王都トリスタニアから、馬車で半日ほどの場所にある。
それだけの近さならシエスタは割合多く帰省しているかと言えば、そうではない。今回の帰省も、ガリア戦争が終結して一度、両親が心配しているだろうと顔を見せて以来一年ぶりのことだ。
車窓から見える景色がどんどん畑などに変わっていくことに、シエスタは故郷に帰るのだと実感し、またやはり屋敷にルイズを残したことを心配していた。
「本当に大丈夫なのかなぁ、ルイズさん」
シエスタの脳裏に、笑顔で自分を送ってくれたルイズの顔が浮かぶ。
有り体に言えば、ルイズは生活無能力者だ。自分がいなければまともな日常生活を送れるのか、とシエスタが疑問に思えるほどに。
それ以上にシエスタがルイズを一人にすることに不安を感じていたのは、生活云々よりも精神面でのことだ。
ふと、流れる景色を眼に写し、シエスタは過去を振り返った。
この一年の間にルイズは良く笑うようになったし、前向きになったのだが、それでも心にポッカリと穴が空いてしまっていることにかわりない。そして、その穴をシエスタは埋めることができない。
だから、シエスタできる限りルイズの傍から離れず、その穴を意識しないように、と陰ながら努力してきた。
シエスタがここまで主人であるルイズに尽くすことを不思議に思う人は多い。一介の使用人に過ぎない彼女は、ただ契約で主人に仕えているのではないか?
そうではない。シエスタは自分を雇ってくれたルイズに大恩を感じていたし、特別な結びつきがある。
シエスタは戦争が始まる以前からルイズの在籍していた軍学校にて働いていた。その頃から彼女は万能メイドの頭角を現しており、数多くの貴族の子弟が彼女を手元にほしい、と言わしめる程だった。
実際、貴族の屋敷で働くようにとの誘いがいくつも来たものの、シエスタは当時全く職場を離れる気がなかった。その理由は、彼女が軍学校と言う職場に働き初めてから一年経ち、とても居心地の良さを感じたからだった。
彼女が職場に居心地の良さを感じた大きな理由に、ルイズを中心に素晴らしい団結を誇る軍学校第七十期生の存在があった。彼等は歳の近いシエスタを学校の下働きとしてではなく、一人の大切な友人として仲良くした。
そのことが嬉しくて、嬉しくて、シエスタは彼等と離れたくないから、職場を離れる気がなかったのだ。特にシエスタはルイズに格別な尊敬の念を持っていた。彼女の強さに惚れていた、とも言える。
七十期生が皆卒業し、それからもシエスタは数年軍学校で働いていた。しかし、以前ほどの仕事熱は失われていた。七十期生と別れたこともある。しかし一番の原因は戦争が起きて、軍学校を卒業した者の戦死の報が入るようになったからだった。
シエスタは知り合った人々がいなくなることが悲しく、やり切れない気持ちだった。もう実家に帰ろうとさえ思っていた。その折に、退役したルイズから使用人になって欲しいとの誘いがあり、シエスタは快諾してルイズのもとに身を寄せたのである。
ルイズが誘った真意がどうかシエスタは分からない。が、シエスタ自身はルイズの誘いが素直に嬉しかったのもある。かつての楽しかった日々を共有した彼女と一緒ならば、悲しさも薄れる気がしたのだ。
実際、ルイズの使用人と働くようになってからシエスタの心持ちは安定した。ルイズが戦争で死ぬこと(前線に行かないため)がないと分かっているので、それがとても大きな安心に繋がっていった。
それにルイズが自分のことを気遣ってくれていると、シエスタはひしひしと感じていた。堪らなく嬉しくなり、一層シエスタはルイズのために働くようになった。
いつしか、シエスタはルイズにとって居なければならない存在にまで昇華された。そして、シエスタの存在感はガリア戦争の終結から今まで、一番発揮されたと言える。
戦争が終わり、誰もが安堵した。シエスタもそうだった。もうこれで誰も死なずにすむ。素晴らしいことだと思った。だが、主人であるルイズには耐え難い現実が待っていた。彼女にとって最も大切な人が帰って来なかったのだ。
終戦から二ヶ月あまり経過してもルイズは精神不安定で、シエスタは気が気でなかった。故に、この時一度安否確認のために故郷に帰ったシエスタだったが、返す刀でルイズのもとに駆けつけた。
ルイズは口では「大丈夫」とか「気にしていないわ」などとうそぶいていた。が、その姿はあまりに痛ましく、また小柄な身体が余計に小さく見えた。
気丈に振舞っていても、ルイズは心のそこで沈痛な面持ちであろうことは容易にシエスタには分かった。それは、かつての自分も同じような思いをしていたからだ。
かつて、戦争の悲しみに打ちひしがれた自分を助けてくれたのはルイズだった。
ならば、自分は何ができるのか。シエスタが深く考え、出した結論が、ルイズの傍から離れないことだった。勿論、その間もシエスタ自身は明るく振る舞い、ルイズの底冷えした気持ちを少しでも暖めようと努力した。
シエスタの努力もあり、ルイズは徐々に明るさを取り戻した。シエスタは以前のルイズが帰ってきたことが泣くほど嬉しかった。
次なる目的はガリアへの旅。ルイズの決意に同意し、シエスタはまた、ルイズのために尽力する。
ガタン、ともう一度馬車が揺れる。そこでシエスタの意識は現実に戻される。
「……これであたしも、少しは皆に胸を張って向き合えるようになったよね」
一度は彼等の死という現実から逃げようと思ったシエスタ。でも、今は確かに向き合えていると実感していた。
シエスタは手持ち鞄を開けると、一枚の写真を取り出した。彼女の良き友人たちから貰った大切な写真。高価なものだから、シエスタは一枚しか持っていないがいつも出歩く時は持ち歩いている。
写真には七十期生の皆とシエスタが映されている。その一人一人を愛おしげにシエスタは見つめる。写真の中のルイズに眼を移すと、その横には黒髪と同じくして、吸い込まれるような黒い双眸の者がいる。
シエスタはその者を見て微笑む。
「ちょっと、悔しいなぁ。ルイズさんと一緒にいる年数ならあたしが上なのに」
窓枠に肘をつき、少し口惜しいと言った感じの声を出した。その者が旅の理由であることには納得できるのだが、シエスタはやきもちを焼くのは仕方のないことかもしれない。
「でも、負けてないよね。あたしだけしかルイズさんにできないことはあるもの」
今朝も忙しかったがルイズのために朝食と昼食を用意した。また応援を頼むために寄り道した。身の回り世話では誰にも負けない自信がシエスタにはある。
そのせいで自分のことがおろそかになり、ルイズに指摘された。一昨日、そのことで大好きな主と一緒に買物できたものだから、シエスタは満面の笑みを浮かべたわけだ。
当然、シエスタはルイズに買ってもらった洋服を着て故郷に向かっている。家族に自慢するためである。
その他に、ルイズはシエスタに彼女の故郷で手に入らない物を、またシエスタの両親に宛てた手紙も持たせた。シエスタに内容は教えていないが、手紙にはシエスタの働きぶりにルイズが感謝する旨、他にシエスタがきちんと働いていることを知らせるものである。
「至れり尽くせりだ。これじゃあどっちがメイドだか分かんない」
シエスタが知らないところでここまで用意してあったところを見るに、ルイズは以前からシエスタを一度帰郷させることを考えていたことがわかる。ほとほと、シエスタでなくとも感心されるだろう主だ。
同時に、一貴族、主としては甘いと言えるかもしれないが、こればかりはあの人の影響だから仕方ない、とシエスタは思った。また、だからこそ自分もしっかりルイズを貴族の令嬢として盛り上げなければならない、とシエスタは奮うのである。
ただ、今回急のことで一点だけルイズにしてあげられなかったことがある。それはルイズの着替えを用意していなかったことだ。
いつもなら用意するのだが、忙しさとルイズは起こさないで故郷に帰ろうと思っていたので、できなかったのである。だから、出掛けの際にルイズが玄関先にやって来ておみやげを渡されたことに驚いたわけだ。
最近めっきり自分で起きることはなくて辛かったろうに、とシエスタは思った。彼女の思った通り、寝起きで少々ルイズはフワフワしていたが、きちんと渡す物を渡して「いってらっしゃい」と言った。シエスタが喜んだのは言うまでもない。
しかし、ルイズの恰好を思い出しシエスタに不安が生じた。
「十中八九、変な恰好している、だろうなぁ」
シエスタはルイズが自分で着替えたであろう恰好を想像してクスリと笑った。きっと、応援に行ってくれる彼女にも何か言われるに違いない、と。
故郷のタルブ村まで、もう少し。
V
昼下がりの屋敷は静寂に包まれていた。いつもなら耳心地のよい明るい声がルイズに聞こえることはない。
その理由は勿論、今朝からシエスタが実家に帰っているからである。彼女は、ルイズの勧めで旅に行く前に両親に会いに行った。シエスタの実家は首都トリスタニアから半日ほどの場所にある小さな村で、帰るのは明日になると言っていた。
一昨日買った洋服を着て行ったあたり、余程気に入ってくれたのだろうと満足してルイズは見送った。
「たまには一人もいいもの、ね」
今日はシエスタが不在なのでルイズはリビングで本を読んでいる。もしも、来客があった場合のためだ。
幸い、シエスタは朝食と昼食の用意をしてくれたので、ある程度負担は軽減されている。まったくもって、有能なメイドだと賞賛されてしかるべきだろう。
その手並み、自称どころかあまたの人間からシエスタは有能な使用人として通っていることからも窺える。
ふと、ルイズはリビングの暖炉の上、壁面に掛けてある大きく引き伸ばした写真を見やった。軍学校卒業式の日、ルイズの同期、第七十期生の皆と撮ったものである。そこには、シエスタの姿も映されている。
「あの娘と会ってから八年か」
たった八年か、それとももう八年か。ルイズも判断がしがたいことだと思った。
ただ、ルイズはその出会いから八年、シエスタと一緒にいることになるとは想像できなかった。もしも、自分が違った道を歩んでいればと思うこともある。
「……はぁ」
ルイズはため息をついた。過去を振り返る意味などない、そう思っているのに考えてしまう自分が嫌になったのだ。
今、ルイズはシエスタと共にいる。一昨日だって一緒に洋服を買いに行くだけであんなに嬉しそうにしてくれた、と思い出すといかに自分の考えが馬鹿らしいかを再認識できた。
シエスタがいなければ、今のルイズはないのだ。彼女の支えがなければ、自殺していた可能性だって捨てきれなかった。
ルイズが自殺を考えていたと知れば皆、倫理に照らしておかしいと言う。だがしかし、無理もないと思うだろう人間もいるだろう。
ルイズの同期であるトリステイン軍学校第七十期生、全百六十二名(二名除籍)中、実に百三十七名が戦死している。戦死率八割五分、戦傷者を含めば九割を超える損耗率だ。およそ類を見ない数値である。
士官学校を出た者は概して、貴族としての義務を全うして死んだ。そう喧伝されているが誰だって死にたくて死んだわけではない。
自分が死ぬことで、救われる生命があったから死んだ。そうでも思わなければ死ねるものではないし、そう思える者だって多くはない。結局、ほとんどは武運つたなく死んだのだ。
ルイズも最初のうちは貴族の務めと思い、割りきっていた。だけどあまりにたくさんの仲間を、大切な人を失って彼女ですら冷静ではいられなかったのだから。
ルイズは沈鬱な気分になって、あまり本のページも進まなかった。こういう時、いつもならシエスタが傍にいてくれるのに、と思った。
半身を失ったルイズのことを暖かく見守ってくれる、あの優しいまなざし、優しい声がないのは限りなく寂しい。
「……一人はやっぱり、駄目かも」
そう、言葉にした矢先だった。呼び鈴が鳴り、屋敷に誰かが訪ねてきたことを告げた。
屋敷に顔を出したのはベアトリスだった。玄関先でルイズの恰好を見て苦笑いになった彼女は、リビングで席に着くなり言った。
「今朝方、シエスタさんから言伝を頂いておりまして。お姉様お一人では寂しかろうから、できることなら顔を見せてください、と」
「別に、一人だって平気よ……」
ルイズは渋面した。いくら何でもシエスタがそこまでの配慮をしているとは思わなかったし、しかも図星をつかれていたためだ。つくづく有能なメイドである。
「ご迷惑でしたか?」
「いえ、来てくれて嬉しいわ。正直、一人は寂しくはないけど、退屈ではあったの」
それらしい言い訳を口にして、ルイズは自分の気分をごまかした。後で寂しかったなどと吐露して、シエスタに知られたら恥ずかしいと思ったからだ。主として、それは避けたかった。
「それなら良かったです。もっとも、迷惑だと言われても居座るつもりでしたけど」
ベアトリスは微笑んだ。
「そんなこと言って貴女、仕事の方はいいの?」
「ええ、大丈夫ですよ。昨日からまとまった休暇をもらいましたから」
「休暇。そんなに簡単に取れたの?」
「何をおっしゃいますか、そうしなければお姉様と一緒にガリアに行けませんわ」
「確かにそうだけど」
「苦労しましたけど、良い経験になりました」
「具体的には」
「仮病、ですかね。私は昨日から流行病で寝込んでいることになっています。完治には少なくとも三ヶ月かかるとか」
「ふふ、そう」
いかにも他人事のように言うベアトリスに、ルイズは思わず笑ってしまった。
「勿論、一人だけではそんな理屈は通らなかった、よね?」
「はい。上官に休みたいと申し出て、そこから何故かアニエス大将のところに通されまして。お姉様とアニエス大将は、何か深い御関係が?」
「あの人は私達七十期生の指導教官だったのよ」
「納得です……それで私にも便宜を図ってくださったのですね」
「ええ。感謝しないといけないわね」
アニエス大将こと、アニエス・シュバリエ・ド・ミランは今やトリステイン王国軍にとって居なくてはならない存在だ。彼女なくして、ガリア王国との講話はなかったとまで言われている。
彼女の存在があればこそ、ある程度の融通がきいた。アニエス大将とルイズが知り合いだったのは非常に大きい。
「あ、そうだ。お姉様にと、アニエス大将から預かったものがあったのです」
ベアトリスはそう言うと、持っていた鞄から大きめな封筒を取り出し、ルイズに渡した。
「開けても?」
「はい。それはお姉様宛ですから」
一応の確認を済ませ、ルイズは封筒を開けた。中には当時、ガリア戦争に従軍した軍人の報告書が入っていた。緒戦の快進撃から、最後にトリステイン軍が占領したヴァレンナ(ガリア王国の地方都市)と言う都市での統治まで、事細かく書かれた報告書。これを書いた者の名は――
ルイズはそれを確認し、わなわなと腕を震わせた。
「どうなされました、お姉様?」
ベアトリスは怪訝な顔をして、話しかけた。
「……ベアトリス。貴女はこれを見ていないのよね?」
「え? ……あ、はい。それはお姉様宛のものですから」
「そう……分かった、わ」
「軍の報告書のようですけど、何か重要なことが? もしかして」
「百聞は一見にしかず。貴女も共に旅するのだから、当然見る権利がある」
そう言って、ルイズは未だに収まらない手でベアトリスに報告書を渡した。受け取ったベアトリスもパラパラと報告書をめくって、驚愕する。
「これは……軍で抹消されたはずの……」
「そのようね。だけど、今ここにあると言うことは」
「アニエス大将が……秘密裏に持っていた、というわけですね」
「全く、あの人は憎いことをしてくれる」
ルイズは清々しい顔をした。腕はもう震えていない。それどころか今、おおいにアニエス大将に感謝していた。
「これがあれば、少なくとも明確な目標を目指してガリアへと行ける。これは大きな前進よ」
「はい!」
ベアトリスは喜色満面になった。同じくルイズも口元を緩める。
「こうなると、シエスタがいないのが惜しいわね。前進の祝いに、美味しいものでも作ってもらえるのに」
「そればかりは仕方ありませんね。ですが、ささやかなお祝いくらいしてもバチは当たらないでしょう」
「ほう、何か良い案が?」
「シエスタさんのことですから昼食は用意されていかれたのでしょう。ただ、夕食までは無理だと思いまして。どうでしょう、外食するのもたまには悪くありません」
「ご明察。そうね、悪くない。むしろ、良い考えね」
「そうでしょう? では決まりですね。前々から、お気に入りの店にお姉様をお連れしたかったのですよ。ただ……」
「ただ?」
「その服はお着替えになってくださいね?」
「ああ、成る程……」
ベアトリスに指摘されるほどに、ルイズの格好は悪かった。
結局、ルイズは自分で服は選ばず、ベアトリスの勧める服に着替えて出かけた。ベアトリスに対して「悪くないセンスだわ」と言ったが、それが強がりであることは知己の彼女には容易に分かった。
それが面白くなくて、ルイズはちょっとだけ機嫌を損ねた。やはり、おしゃれはシエスタがいないと駄目なルイズであった。
W 五月七日
ベアトリスからもたらされた報告書を得て、遂に王都トリスタニアを出立するまでに一週間かかった。
報告書を精読すること、と言うよりもガリア王国への入国手続で手間取ったからである。少々、お役所仕事のようなところにうんざりしたルイズであったが、ついでにとトリステイン軍への寄付も済ませ、後顧の憂いはすべて断った。
後はシエスタ、ベアトリスの両人を従えてガリアへと行くのみである。
王都トリスタニアの城壁門をくぐり抜けると、そこはもう都市とは別世界の野原だ。空は晴れ渡り、雲の極まで見渡せるほど。心地良い風が吹き、ルイズの髪をさらおうとする。
「旅立ちには、最良の天気ね」
ベアトリスが待つ馬車に乗る前、ルイズは一言こぼした。それだけ、久しぶりに見る景色なような気がしていたのだ。
「そうですね。私は海外旅行なんて初めてですから、緊張しています」
ルイズの隣に立つシエスタの顔には、隠し切れないほどの高揚感が見受けられる。
「それだけのことが言えれば、問題ないわ。幸い、私もベアトリスも、海外に出向いた経験があるから平気だと思うわ。ある程度の不測の事態には、ね」
「あ、はは……」
馬車の横にいるベアトリスはルイズの言うことに苦笑いをした。
二人とも戦争でガリアに赴いたのだから、ある種の里帰り、ともとれる。が、両人良い思い出ではないことは確かだ。ガリアでは、多くの同胞を失っている。
それでも、行かなければならない理由がある。
「過ぎたことを恨むでも無し。今、そこにある現実を確かめるために私たちはガリアに行くのだから」
「それは分かりました、けど。本当の本当に、皆さんにはお話をしなくても?」
シエスタの指す皆とはルイズの数少ない生き残りの同期生のことである。現に今も王都には数名、いるのだが。
「話さない。理由も含めてね」
これ以上の異論は認めない、そんな風な口調でルイズは断言した。
「ですけど、何の話も無しとは――」
「判明した事実に関しては、この旅が終わった後、話すわ。彼等にも知る権利がある。その点はわきまえている」
「分かりました。そこまでおっしゃるのですから、間違いはないですよね」
「ええ。全てが終わった時に」
真実は残酷だ。だから、まずは自分が全てを受け入れる。そうルイズは誓っていた。行き着く先に待つのは絶望だけかもしれない。だが、僅かでも希望がある限り、ルイズは探し出すと決めたのだ。
「そのためにも、見つけないとね」
その言葉に、シエスタとベアトリスは頷いた。この旅の目的の再確認でもある。終戦の直前、消息を断ったルイズの右腕と呼べる使い魔。シエスタの良き友人であり、ベアトリスの良き義兄。北の民にとって希望だった士官、トリステインの民が熱に浮かされるほどの活躍を見せた英雄。
「見つけたら、最初に必ず皆に心配かけさせたことを謝ってもらうわ。それから、久しぶりに同期と集まって、パーティーをするの」
ささやかな願いを口にして、ルイズは笑う。そして、迷いのない、真っ直ぐな瞳でガリアの方向を見据え、決意の言葉を紡ぐ。
「だから待っていてサイト。私は必ず、貴方を迎えに行くから」
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