がんばれ、ご舎弟さま



そのいちの表







 ――三年後。





 あの日、底知れぬ絶望を目の当たりにした私――篁唯依は、それでも滅びを拒絶する事を選択した。
 この眼と心に焼きついた希望――抗い続ける人の姿を胸に抱きながら。

 そして傷を癒し軍へと復帰した私は、明星作戦を含めた幾つかの実戦に参加。
 相応の戦功を挙げる事で中尉へと昇進した後、巌谷のおじ様の誘いを受けて、斯衛軍から帝国軍技術廠へと出向した。

 繰り返される実戦の中で感じた痛切なる思い。
 より強い戦術機をとの願いに背を押されての事だ。

 そしてその願いの果てに、いま私は此処に居る。
 アラスカへと向かう輸送機の中に。

 ――XFJ計画。

 突き詰めた設計故に行き詰ってしまった不知火の改修を、米国の最新技術を導入する事でブレイクスルーする事を目指して立ち上げられた日米共同開発計画。

 私個人としては、この計画に思うところが無い訳ではない。
 いや帝国に属する軍人なら、皆が皆、同じ思いを抱く筈だ。

 ――突然の安保破棄、そして明星作戦時に強行された我が国へのG弾使用。

 この事に憤りを感じていない者など帝国には居ないのだから。
 だがそれでも、巌谷の叔父様の熱意と逼迫した帝国の現状を痛感している以上、可能性を追求するのを拒む事は出来なかった。

 とはいえ、それでも計画自体の成否については半信半疑といったところが、私の本音ではある。
 何より帝国の命運を分けるであろう次期主力機の首席開発衛士に、米国人衛士を充てるという事が、私の不安を否応無く煽っていた。

 行く手に漂う暗雲に、微かな寒気を覚えた私は、無意識の内に視線を巡らす。

「はぁぁぁ……」

 微かな溜息が、私の意識を引きつけ、巡る視線を吸い寄せた。
 瞑目したまま端然と座す一人の青年士官が、私の目に映る。

 XFJ計画の日本側総責任者にして、開発主任たる私の上司……そして……その……あの………私の未来の夫たる御方、斑鳩明憲様。

 こ、これも夫唱婦随と言うべきなのだろうか?

 ……って違う!
 違うだろう!

 ……斑鳩閣下と巌谷の叔父様から、明憲様が計画責任者の任に付かれると聞かされた時には、本当に驚いたものだ。
 私と違い、ずっと実戦畑を歩いてこられた明憲様は、戦術機開発そのものには余り明るくない筈。
 なにより、もし、この計画が失敗に終わったら、明憲様の経歴に不要な傷を付けてしまう事になるだろう。
 そんな事になったら、どの面下げて明憲様の下に嫁入りなど出来ようか!

 ……いやまあ、実際は篁家に婿に入って頂く筈なのだが。

「ふぅぅ……」

 再び零れた溜息が、私の聴覚を打ち据える。
 釣られて動いた私の眼に、ジッと自身の手の平を見詰める明憲様が映った。

 いつもと変わらぬ寡黙な求道者めいた表情。
 だがそこに憂いの様なモノを、私は感じ取った。

 やはり明憲様も、この任務に対し思うところがあるのだろうか?
 それともまさか……その……私がご一緒するのが、ご不満なのだろうか?

 私の胸中に、先程のそれとは別の不安が宿る。
 どうしようもなく暗く重いソレに耐え切れなくなった私は、非礼と知りつつも明憲様に声を掛けてしまうのだった。

「どうされたのです。
 先程から溜息をついてばかりですが?」

 平静を装いつつも、私の胸中ではバクバクと心臓が鳴り響いている。
 あるいは、その音が明憲様に聞こえてしまうのではないかと心配しながら、ジッと見詰める私の視界の中で、明憲様は微動だにしようとはしなかった。

 胸の内に産まれた不安が、入道雲の様にムクムクと膨れ上がっていくのが分かる。
 微かに震える声を必死に制御しながら、私はもう一度、明憲様に声を掛けた。

「明憲様?」

 恐る恐る掛けたその一声。
 勇気を振り絞ったソレに報いる様に、今度は明憲様も私へと振り向いてくれる。

 静けさを湛えた双眸が、私を真正面から捉えた。
 ただそれだけで、鼓動が鎮まっていく自身の現金さに内心で苦笑しながら、私は姿勢を正して明憲様と向かい合う。

 一拍の間を置いた後、明憲様は軽く首を振って見せると、いつも通りの落ち着いた口調で私に応じてくれた。

「いや、これからの任務の困難さを考えていただけだ。
 後、今は軍務中なので名前で呼ぶのは控える様に、篁中尉」
「ハッ!
 申し訳ありませんでした。 斑鳩少佐」

 微かな羞恥が、私の頬を熱くする。
 公私の区別を弁えることなど、軍人として初歩の初歩だ。

 ――もしかして、失望させてしまっただろうか?

 そんな不安が心中を過ぎるが、わずかに相好を崩されると無言のまま頷かれる明憲様の返事から、そんな事は無い事が読み取れ、私の肩からもホッと力が抜けた。

 余り表情を変えない方だが、それでも最近は、わずかな変化が読み取れるようになってきたと思う。
 やはりいずれ妻となる身としては、夫たる方の意思を汲み取れる程度の事は出来る様になりたかった。
 そういった意味では、なんとかそれなりになれてきたと実感すると、不意に私の中に、それ以上を求めたいという願望が芽生えてしまう。

 それは唐突で、そして強烈な願望だった。

 常に冷静沈着にして、節度を弁えた思慮深い行動を取られる明憲様を、私は尊敬しているのだが、やはりその……なんというか……
 ……もう少し、もう少しだけ、距離を縮めたいというか、胸襟を開いていただきたいというべきか……

 ……等という事を考えていると、自然と頬が熱くなっていくのが分かった。

 それが表に出たのか、明憲様もわずかに不審げな表情を浮かべて、私を見つめてくる。

 更に頬の熱が、いや、全身の熱が上がっていく。
 その熱に押されるように、私の口が勝手に動き、迂闊にも自身の願望を訴えてしまった。

「で、ですがあの……その…プライベートの時間は、名前でお呼びしてもよろしいですよね?」

 勢いのまま、言ってしまった瞬間、私の頭からサッと血の気が引いた。
 公私の区別をつけるよう注意されて直ぐに、このような事を口にするなど、はしたない娘と思われても否定しようが無いと、言ってしまってからようやく気付く。

 明憲様の反応が恐くなり、私は思わず左手の薬指を、そこに輝く斑鳩の家紋入りの婚約指輪を、縋りつく様に握り締めてしまった。

 心臓が不規則な鼓動を刻み、呼吸が荒れる。
 否定しようとしても否定できない最悪の結果が、私の脳裏を何度と無く過ぎって行った。

 そうやって私が固唾を呑んで見守る中、明憲様の顔に苦笑めいた色が浮かぶ。
 そして仕方ないといった素振りで首肯される明憲様を見た瞬間、私の中を安堵と歓喜が満たした。
 それがそのまま表に出たのだろう。
 やや笑みを深くされた明憲様は、再び瞑目するとシートに背を預けて黙考へと戻られた。

 求道者めいたその横顔に見惚れながら、私はとりとめも無い思考の中、これまでの事をつらつらと振り返り始める。





 あの日出会って分かれて後、再び、明憲様とお会いする機会は中々巡ってこなかった。

 なにせ当時の私は一介の新米衛士、それも戦時任官の学徒動員上がりでしかなく、対して明憲様は、兄君の斑鳩閣下と共に帝都撤退戦の殿を務め、これを見事に果たした英雄となっておられたからだ。
 到底、軍内で気軽に近づける筈も無く、なによりBETA大侵攻による混乱の極みにあった時期でもあり、そんな余裕は微塵も無かったのである。

 また武家としてみても、明憲様は斑鳩閣下の実弟として『青』に序される身。
 対して私は、譜代武家の名家とはいえ、あくまでも『山吹』の家柄に過ぎない。
 親しく接する機会などあろう筈も無く、助けていただいたお礼を申し上げる事すらままならぬ始末。
 時折、遠くからそのお姿を見ては、縁遠い我が身に溜息を吐くだけだった。

 しかし、今だからこそ言える事だが、結果として見るなら、そのような間が在った事自体は、私にとってプラスだったのだと思う。
 あの時――眉一つ動かさぬまま、ただ静かに涙を流していたあの方を見た時、私の胸に灯った小さな炎。
 ソレが何なのかを落ち着いて整理し、理解する余裕に繋がったのだから。

 もし、もしであるが、あの期間を経ぬままに、今の立場に置かれていたなら、或いは何処かで己自身を疑っていたかもしれない。

 この感情が、単なる吊り橋効果の産物に過ぎぬのではないのか――と。

 そういった意味で、二年近い間が空いたのは、冷静に自分自身を見直す為には、役に立ったのだろう。
 少なくとも、異常な状況下での錯覚では無いと、誰憚る事無く言い切れる様になったのだから。

 そうやって自身の抱いた想いを、冷えた頭で理解した私は、その想いを胸の奥にしまって鍵を掛けた。

 所詮、叶わぬ恋でしかない。
 『青』たる明憲様は、いずれ同じ『青』か『赤』の名家の令嬢と結ばれるのが順当であり、そこに私の入り込む余地など無い筈だったからだ。
 私自身も、いずれは相応の家から婿を取り、篁の血を次代に伝えるという責務がある以上、個人的な感情は胸の内に秘めておくしかない。

 ……そう己自身に言い聞かせて。

 それで全ては終わる筈だった。
 いつの日にか、明憲様が結婚された事に一人涙し、そして私も誰かの妻となって子を成す。

 そうなる運命の筈だったのだ。
 あの日、斑鳩閣下が、我が家を訪問されるまでは。





『単刀直入に問おう。
 篁よ、我が弟を、そなたの伴侶とする気はないか?』

 篁一門が居並ぶ広間、その上座について後、開口一番、そう問われた閣下の言葉が、しばし私の中で木霊した。
 数瞬の間、何を問われたのかが理解できず、呆然とするしかなかった私に、苦笑を浮かべた閣下は重ねて問いを発せられる。

『明憲では、そなたの夫として役者不足かな?』

 私の中で、問いが、意味が繋がった。
 その瞬間、意識せぬままに私の口が勝手に動く。

『その様な事、断じてありませんっ!』

 絶叫とすら言えそうな声量で答えた私に、一座の視線が集まった。
 思わず自身がしてしまった無作法に、真っ赤になって俯く私の上に、心底、面白がっている斑鳩閣下の笑い声が降って来る。

『……それは重畳。
 ならば我が弟を、そなたの良人として迎える意思があると理解して良いのだな?』

 念を押すような問い掛けに、私は躊躇する事なく頷いてしまった。
 それが篁家当主としては、軽はずみな行動である事にすら気付く事無く。

 後々、振り返ってみれば、いささか軽率な行いであった。
 いかに胸の奥で朽ち果てる筈だった想いが、叶う事になるとはいえ、篁一門の長たる本家の当主としては、後日、改めて返答をと答えるべきだったのだろう。

 当時の篁家は、どちらかといえば斑鳩家よりも、煌武院家に近い立ち位置にあったのだ。
 私の対応は、篁本家……いや篁一門そのものの方針転換に他ならないと、後で気付いて冷や汗を流した程である。

 そうやって軽率の謗りを免れぬ失態を犯した私であったが、それが一門衆の槍玉に挙げられる事は無かった。
 続く閣下のお言葉が、彼等の口を完全に塞いだからだ。

『フム、分かった。
 では篁の家格を『赤』に上げる算段をせねばならんな』

 本当に何気なく漏らされたその一言によって、広間全体に大きな波紋が生じたのが、私にも感じられた。
 一瞬の自失の後、ざわめきが小波の様に広がっていく。

 閣下の一言は、それ程までの衝撃を一門の者達にもたらしたのだった。

 通常、武家の家格が上がるなどという事は滅多に無い。
 それだけ家格という物が、武家にとって重要という事でもあるのだ。
 『山吹』を『赤』に格上げするとなれば、それこそ国に対し、余程の大功があってようやくといったレベルの話である。
 故に、如何に五摂家の一角である斑鳩家当主の閣下とはいえ、おいそれと叶う事ではない筈だった。

 その辺りの懸念を、一門の長老格のご老体が恐る恐る尋ねると、当の斑鳩閣下は事も無げに笑いながら答えられる。

『帝国に対する大功なら既に立ててある。
 我ら兄弟が、過日の帝都撤退戦で示した働きを忘れた訳ではあるまい?』

 その一言に、一同が顔を見合わせる。
 二年前の帝都撤退戦において、殿を務めた閣下の率いる斯衛第十六大隊は、壊滅的な打撃を受けつつも、見事に殿軍としての役目を果たし、撤退戦を成功に導いていた事を今更ながらに思い出したからだ。
 そんな一門の者達に対し、閣下はにこやかな笑みを浮かべつつ、トドメの一言を放つ。

『元々、あの時の戦功により、明憲には分家を興させようという話が出ておったのだ。
 新しく『赤』の家を興すも、婿入りする家の格を『赤』に上げるも大した違いはあるまいよ』

 そう言ってカラカラと笑う閣下を前に、私達はしばし言葉を失ってしまう。

 閣下の言われる通り、過日の帝都撤退戦において閣下と明憲様が立てた戦功は、帝国に対する大功と言えるのだ。
 あの奮戦があればこそ、皇帝陛下や将軍殿下、そして五摂家の方々も、無事に新帝都へと退く事が出来たのだから。
 そして何より、『青』の家系が分家を興すとすれば、余程の事が無い限り、『赤』を与えられるのが通例だ。
 また城内省にしてみれば、新たに家を興すよりも、既にある家の格を上げる方を選ぶ可能性も高い。

 そうやって急速に現実味を帯びていく降って湧いた幸運に、一門の者達の間にも期待の色が滲んでいくのが感じ取れた。
 五摂家の現当主と直接の縁戚関係になれるだけでも、篁家にしてみれば望外の出来事である。
 ましてや家の格上げまで為されるとなれば、断るのは論外と一同が感じても仕方なかったろう。

 そんな中、一門の視線が閣下と正対する私の背に注がれるのを、ヒシヒシと感じながら、私は閣下にどうしても聞かねばならぬ問いを投げかけた。

『何故に、そこまでして頂けるのでしょう?
 我が家と閣下との間には、取り立てて縁らしきモノも無かったと記憶しておりますが……』

 そう言った瞬間、背に感じる圧力が強くなる。
 非難混じりのソレを感じつつも、私は視線を逸らす事なく閣下を見詰め続けた。

 何故そこまで理由に拘ったのかといえば、何の事はない。
 この時の私は、実に自分に都合の良い期待を抱いていたのだ。

 自身で言った通り、これまで斑鳩家と篁家の間に親しい付き合いがあった例は無い。
 ならば、それ以外の理由――有り体に言ってしまえば、明憲様ご自身が、私を妻にと望んで下さったのでは、などと身の程知らずにも期待していたのだった。

 そんな私の内心を知ってか知らずか、わずかに笑みを深くされた閣下は、言いよどむ事無く答えを返される。

『縁はあった筈だがな。
 他ならぬそなたと明憲の間に』

 その一言を聞いた瞬間、私の心臓が大きく一つ鳴った。
 そのままドキドキと高鳴る鼓動を意識しつつ、必死に表情を抑える私に向けて閣下は続きを告げられる。

『過日の帝都防衛線において、明憲が初陣であったそなたを救ったと聞いた。
 あの瑞鶴を産み出した篁中佐の娘と聞いて、奇しき縁と思ったものよ』

 胸の奥でバクバクと激しくなる音を、私は感じていた。
 その音に掻き消されぬようにと、耳を澄ます私の下に閣下の御言葉が届く。

『それで少し興味を持ったのでな。
 悪いとは思ったが、そなたの事を少し調べさせて貰ったのだ』

 思わずガクリと落ちそうになった肩を、なけなしの気力で支える。
 同時に、都合の良過ぎる願望を抱いていた己自身を悟り、羞恥で頬が赤くなるのを感じた。

 明憲様ではなく、閣下の方に関心を持たれていたとは……
 ……しかし、それなら何故と浮かんだ疑問を見透かした様に閣下が破顔する。

『調べてみて思ったのだ。
 そなたなら、明憲の妻に相応しいのではないかとな』
『……私が……ですか?』

 自身の何を以って、その様に評価されたのかが分からぬ私は、わずかに言葉を濁してしまった。
 それを耳聡く聞き取られたのか、苦笑混じりに閣下が謎解きをしてくれる。

『うむ。 こう言っては何だが、我が弟には生来の怠け癖があってな。
 そんなアヤツの妻には、そなたの様に生真面目でしっかり者の娘が似合いと言うものよ』
『あ、ありがとうございます……』

 ――褒められたのだろうか?
 ――褒められたのだと思うが……それに明憲様に怠け癖?
 ――正直、斯衛軍内の噂も、これまでの実績からも、そして何よりあの夜に見た印象からも、その様な事は考え難いのだが……

 そうやって困惑しつつも、最も身近な方から見ればそう見える面もあるのかと、自身を納得させた私に向けて、斑鳩閣下はこれまでと異なる鋭い眼差しを注いでくる。
 思わず姿勢を正した私の頭上に、閣下の下問が再び降ってきた。

『さて、それでは改めて問おう。
 篁 唯依、我が弟を己が伴侶にする意思はありや?』

 鋭く切り込んでくる様な声音。
 ただそれだけで気圧されてしまいそうな威圧感に、わずかに背を震わせながら、それでも私は必死に答えを紡ぐ。

『……何かと至らぬ身ではありますが、このお話、謹んでお受けさせていただきます』

 ただそれのみを答え、平伏するのがその時の私にとっての精一杯。
 そんな我が身を、しばし見詰めておられた閣下は、やがて満足気に頷くとひどく楽しそうに笑い出したのだった。

 その後は、正式な見合いの日取りは後日改めてという事になり、閣下は随員と共に帰宅された。
 後に残された一門衆は、思いも寄らぬ吉事に興奮し、大騒ぎになったのだが、その時の私は既に心ここに在らずの状態で、ひどくボンヤリとした曖昧な記憶しか残っていない。

 朽ち果てるべき運命にあった小さな想い。
 それが大輪の華を咲かせる機会を得たのだと、ようやく実感出来たのは夜も更けてからの事。
 当然、その夜は一睡も出来ぬまま布団の中でのたうち回り続けた私は、翌日の任務で大ポカをやらかし、巌谷の叔父様にお小言を喰らう破目になったのだが、それですら今では良い思い出と言えよう。

 そして数週間後、吉日を選んで行われた見合いの日。
 後見人である巌谷の叔父様――叔父様自身は、この縁談に乗り気ではなかったようだが――と共に、その場に臨んだ私は明憲様と初めて二人だけで話す機会を得た。

 あの夜と同じく、どこか求道者めいた表情を崩さぬまま、何故この縁談を受けたのかと問われた際には、一瞬、明憲様自身は、あまり乗り気ではないのかと思い込み、目の前が真っ暗になる気分を味わったが、蒼白になった私を見て、慌てて言葉を足された明憲様の説明を受けて、それが杞憂であった事に胸を撫で下ろしたりもした。

 明憲様ご自身は、兄上が五摂家の権威を楯に無理矢理に話を進めたのではと疑われていたそうだが、これは私自身が否定する。
 私は自ら望んで……その……このお話を受けたのだと。

 そう言われて、不思議そうな顔をする明憲様。

 その反応に気を引かれた私は、非礼と思いつつ、それでもお尋ねすると、今度は少しバツの悪そうな顔をして答えてくださった。

 ――命を救ったにせよ、その後、殆ど接点が無かった私が、何故に?

 その様に感じられたのだと。

 これには私の方が、少し焦った。
 明憲様の婿入りにより、篁の家を格上げする話は既にかなり進んでおり、当然、明憲様のお耳にも届いている筈。

 地位目当ての打算と思われては堪らないと思った私は、恥も外聞も無く自身の本心を吐露した。

 あの時、夢うつつながらも見届けた事の次第の全てを。

 ――明憲様に生命を救われた事。
 ――死に掛けていた上総の介錯を勤めて下さった事。

 それら全てを……

 訥々とそれらを告げた私の目前で、再び、明憲様は首を傾げられた。

 命を助けた事はともかく、介錯とはいえ戦友を殺した事が、なぜ婚約を受け入れる事になるのか――と。

 そう尋ねられた瞬間、私の胸中に鈍い痛みが走った。
 そのままジクジクと痛むそれを噛み殺しながら、私は明憲様の問いに淡々と応じた。
 一切を包み隠す事無く。

 自分がやらねばならず、そして出来なかった事を、代わってやらせてしまいましたから……と。

 殺してくれと願う上総を、殺してやれなかった自分。
 そしてそんな惰弱な私の代わりに手を汚してくれた方。

 生命を助けられた恩義と悔恨に根差す引け目、そして感謝の念。
 ……更に、これだけは告げられなかった一事――あの日、私の頬を濡らした涙の暖かさ。

 あの夜から胸の奥に抱き続けたそれが、いつしか恋情に変わったのだと。

 そう告白した私の面前で、明憲様はひどく複雑な表情を浮かべられた。

 その瞬間、私の脳裏に閃くモノが走る。
 きっと明憲様は、これが、あまり健全な形での恋愛ではないのではと疑われたのだと。

 危地を共に乗り越えたとか、絶体絶命の窮地を助けられたとか――私自身が気にした様に、異常な状況下における心理的な錯誤の可能性を考えたのだろう。

 だが、それは誤った気遣いですと声を大にして言いたかった。
 吊り橋効果で産まれる錯覚は、本来、長続きする類の物ではないのだから。
 あの日から既に二年、冷静に自身を見つめ直してきた私だからこそ断言出来る。

 この胸に息づく想いは、そんな安っぽいモノでは無いのだと。

 そう思った瞬間、私の眼に涙が滲んだ。
 その事を証明する術が無い事が、悔しくて悲しくて、もう流さぬと誓った筈の涙が溢れそうになったから。
 亡き戦友達に誓った筈の誓いすら、アッサリと破りそうになった自身の情けなさに、思わず身を翻し、その場から逃げ出そうとしてしまった私。
 だが、それよりも一瞬早く、私の右手を捕らえた明憲様は、そのまま私を抱き寄せてしまう。

 思わぬ出来事に目を白黒させることしか出来なかった私。
 そんな私をあやす様に、懐の内に抱き寄せたまま、明憲様は私の背を撫でてくれる。

 私の髪を、背を撫でる無骨な手。
 この身を抱き止めた厚い胸板。
 巌谷の叔父様や父上に何処か似ている匂い。

 否応なしに生身の男性を感じさせるソレ等は、同時に、今は亡き父上の事を思い起こさせてくれた
 まだ幼かった頃、むずかる私をおっかなびっくりあやしてくれた父様。
 過ぎ去りし日の記憶を掘り起こされた私は、いつしか明憲様の胸に縋りつき、声を押し殺して泣き続けていた。

 正直、後から冷静になって考えてみれば赤面の至り。
 いきなり涙ぐんだ挙句、逃げ出そうとするわ、泣き出すわ……非礼、無礼と言われても申し開きのしようもない失態の数々。

 このまま破談とされても文句の言えない醜態を見せてしまったが、不思議と明憲様はその様な事はされないと確信していた。
 そしてそれを裏打ちするように、見合いの日より数日後、明憲様手ずから私に贈ってくれたのが、今、私の左手で輝いている斑鳩の家紋入りの婚約指輪。
 やや頬を赤くしつつ、明憲様自身の手で、私の指に指輪を嵌めてくれた時の事は、今でも細部まで鮮明に思い起こせる。

 こうして私は、明憲様の許婚として、正式に周囲からも認知される事になったのだった。





 ――そんな事を、取りとめも無くつらつらと思い起こしていた私だったが、ふと微かな温もりに気付く。

 振り向けば先程より距離が詰まった位置に、明憲様が座っていた。

 ――こ…これは、その……そういう事なのだろうか?

 等と埒も無い事を、一瞬、思ってしまった私だったが、よく見れば明憲様の座っている場所は、先程と全く変わっていない事に気付く。

 ……という事は。

 ボンッとばかりに私の頭に血が昇った。
 一気に上がってきた熱に脳を炙られながら、真っ赤になった私。

 無意識の内に、明憲様に擦り寄っていた己を自覚し、恥ずかしさのあまり、腹でも切りたい気分になったが、直ぐ傍で僅かに揺らいだ気配が、そんな非生産的な未来を封じてしまう。
 反射的に、手に持っていった書類に眼を落とし、素知らぬ振りをするも、明らかに座っている位置が変わっている以上、バレない筈もなかった。

 微かに伝わってくる苦笑の波紋。
 感情を余り表に出されない明憲様にしては珍しい反応。
 余程、私の行動が笑いを誘ったのかと、羞恥の余り、このまま死んでしまいたいような気分に陥ってしまう。

 そのまま後少し時が経っていれば、きっと耐え切れなくなった私は、懲りもせずにまた逃げ出していただろう。
 だが、あの時と同じ様に、明憲様は私の逃亡を許してはくれなかった。

 微かな溜息と共に、唐突に私の肩に回された無骨な手が、そのまま有無を言わせずこの身を引き寄せる。

 反射的に、わずかに身じろぎかけるも、それも直ぐに収まり、むしろ自分から、その力に乗るように我が身を動かしてしまった。

 そのまま距離が詰まり、寄り添う形になった私達。
 嬉しさと恥ずかしさに思考を暴走させてしまった私は、思わず手にしていた書類を明憲様に突きつけ叫んでいた。

「む、向こうについて、か、か、からの大まかなスケジュールを、つ、作ってみましたぁ!」

 ……嗚呼、何を言ってるんだ私は。

 内心で頭を抱えつつ、それでも自身の振る舞いを取り繕おうとする私は、ジッとばかりに明憲様を見つめた。

 整った容貌の上に浮かぶ求道者めいた明憲様の表情に、一瞬だけ小波の様にナニかが走るのに気付く。
 そのままやや渋い表情へと変わられた明憲様に、私の心臓がキュッと締め付けられる感覚が走った。

 私に対して、ごく稀に見せるこの表情。
 それが妙に私の不安を煽る。

 何というか、どこか煙たそうにも見えるソレは、私が疎んじられているのではとの危惧を感じさせるものだったから。

「……何か、問題があったのでしょうか?」

 意図せぬままに、言葉がこぼれてしまった。

 身体から力が抜けていく。
 血の気が引いていくような感覚が、我が身に襲い掛かってきた。

 全身に走る悪寒。
 それが隠せぬ域に達するその一瞬前に、明憲様は無言で首を横に振り私の懸念を否定する。
 寡黙なこの方は、あまり言葉を弄するのが得意ではないので、大概が短い言葉とジェスチャーで終わるのだが、最後に見せてくれる穏やかな笑みが、私の不安を拭い去ってくれるのもいつもの事。

 思わずホッと息が抜けていく。
 安堵と共に、私の顔にも微かな笑みが浮かぶのが分かった。
 同時に、私を見下ろす明憲様の目に、微かな変化が生じるのも……

 この方には珍しいどこか熱っぽさを感じさせる視線が、真っ直ぐに私を射抜いた。

 ――こ、これは……その……

 本当にごく稀な反応。
 しかし、あまりにも印象深い出来事に繋がるソレに、私の鼓動もわずかに高鳴った。
 ドキドキと心臓を打ち鳴らしながら、この先の出来事に期待する己を自覚し、恥ずかしさの余り俯きかけた私。

 そんな私の頤に、がっしりとした力強い手の平が、そっと添えられる。

 ――ドクンッ!

 と、心臓が鳴り響いた。
 そのままドクドクと早鐘の様に鳴る鼓動を感じながら、私は思わず身を固くしてしまう。
 心中の狼狽を映し、視線が泳ぐのを止められなかった。

 ……ううっ……今は、軍務中ではなかったのですか?

 などと思わず滑りそうになった私の口。
 だが、その瞬間、脳裏に響いた副官の声が、それを押し留める。

『いけませんよ隊長。
 如何に武家の鑑と謳われる明憲様とて男なのです。
 時には女の柔肌に安らぎを求めたくなっても、不思議ではないのですよ』

 記憶の中で妙に自信満々に言い切る我が副官、雨宮中尉。
 初めて口づけを求められた際、恥ずかしさのあまり拒んでしまい、その後、明憲様との距離をどう取るかで悩んでいた時に言われた言葉が鮮明に蘇る。

『そんな時、許婚である隊長が、受け止めて差し上げないでどうしますか?
 私は、はしたない真似はしたくないので、他の女の所に行ってください――とでも?
 ……まあ、隊長がそれで良いと言われるなら、不肖この雨宮が、隊長に代わって明憲様を、お慰めしてもよろしいですが』

 幸い私は跡継ぎという訳でもないですし、明憲様の妾という事でしたら親兄弟も文句は言いますまい――などと嘯く様までが、だ!

 結局その後、彼女と大喧嘩になったのだが、最終的には、その助言に従う事で……その……まあ……なんとか無事に済ませられた訳で……

 そんな経緯から、今となっては、彼女の助言は私の指針一つとなっている。
 我が脳裏に、あの時、雨宮の語った女の心得が朗々と響き渡っていった。

『よろしいですか?
 そもそも古来より殿方にとっての理想の妻とは、『昼は淑女のごとく、 夜は娼婦のごとく』と言い習わされています。
 すなわち昼間は慎み深く貞淑な妻が、夜の寝所では妖しく淫らな娼婦の如く乱れる――その落差と変化に夫たる殿方は、男としての自尊心を満足させられ、己が妻に夢中になっていくという訳です。
 ――しかるに、たかが口づけ如きでおたついている今の隊長は、昼の部分は満点でしょうが、夜の部分は完全に零点!
 つまり妻としては失格以外の何者でもないという事なのですよっ!』

 と、人差し指を突きつけながら力説する我が副官の記憶。
 私がこれまで受けてきた武家の妻女としての教育には無いソレを、だがどこかで受け入れてしまった私が居る事を改めて自覚する。

 ――ただひたすらに慎み深くあるべきなのか、それとも、夫たる方の求めを柔軟に受け入れるべきなのか?

 そうやって背反する思考に、揺れ動く私の心。
 それを知ってか知らずか、催促するかの様に、否、実際に催促しているのであろう明憲様の手に力が入り、俯いていた私の顔を強引に上げさせた。

 見下ろす明憲様の視線と見上げる私の視線が絡み合う。

 熱情を秘めた明憲様の双眸。
 燃え立つような熱を感じさせるソレに、心を焼き融かされるのを自覚しつつも、私には最後の踏ん切りがつけられなかった。

 そんな臆病な私を追い立てるように、今一度、明憲様は催促してくる。
 羞恥に根差す反感が一瞬だけ心を過ぎった。

 だが、それが単なる言い訳に過ぎない事を、私自身どこかで悟っている。
 既に己が明憲様の望みを受け入れているという事実を内心で認めながら、それでも身に染み付いた武家の息女としての建前が、偽りの反応を示しているに過ぎなかったのだから。

 ……だが所詮は偽り、面子に拘る愚かな女の抗いでしかない。

 内心で言い訳しつつ、それでも自身がその先を望んでいる事を、私の身体が示していた。
 高鳴る鼓動は耳を聾するほどに高く大きく、そして熱に浮かされぼやけた瞳は、もはや隠しようも無いほど潤んでいる。

 それでも諦め悪く、それらを隠そうと目を閉じる私。
 だが、昂ぶり荒れる鼓動が、熱い吐息が、私の本心を明憲様に伝えていたのだろう。

 微笑む気配が、眼を閉ざしていても伝わってくる。

 この先の期待に震える淫らな己を見透かされ、羞恥に全身が染まるのを自覚した瞬間、唇にゆっくりと重なる明憲様のソレを感じ、私の意識は白一色に染まっていったのだった。






 後書き

TEアニメ二話にインスピレーションを得て書き上げた渾身の作。

最初は緩めで、中はシリアス、最後はお口直しをご用意しております。

どうぞご賞味の程を。





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