【Side:春蘭】

「全く桃の食べ過ぎで腹を壊すなど情けない」

 季衣(きい)の奴が桃の食べ過ぎで腹を壊したという話を聞いて、今日の調練は私が担当する事になった。
 我が名は『夏侯惇(かこうとん)』、字を『元譲(げんじょう)』、真名は『春蘭(しゅんらん)』といい――
 華琳様に身も心も捧げ、お仕えしている武官の一人だ。華琳様配下の武官の中では、群を抜いた実力の持ち主だという自信と誇りがある。

「気合いを入れろ! その程度で華琳様のお役に立てるつもりか!?」
『は、はい!』

 華琳様に絶対の忠誠を誓う、誇り高い屈強な兵を鍛え育てる事。それは華琳様にお仕えする武官としての私の務めだ。
 しかし季衣の事以外にも気掛かりな事があり、兵達を叱りつけてはいるが私自身、今一つ調練に身が入らずにいた。
 それというのも、昨日から一度も華琳様のお顔を拝見していないからだ。

(華琳様に会いたい。しかしそれでは華琳様の命に背く事に……だが……)

 華琳様の厳命で謁見する事は疎か、謁見の間に近付く事も禁止され、城での行動範囲にも制限が掛けられていた。
 どうしても納得が行かない私は秋蘭にその事を尋ねたが、『華琳様のご命令だ。我慢してくれ姉者』と秋蘭は言葉を濁すばかり。
 華琳様に直接理由をお聞きしたい、お会いしたい気持ちは強いが、それでは華琳様のご命令に背く事になる。
 一日だけであれば我慢も出来たであろうが未だに制限が解除される事は無く、華琳様からお呼びの声が掛かるまでは、こうしてジッと待ち続ける他なかった。

「御遣い様。こちらが調練場になります」
「おっ、やってるな。あ、俺の事は出来れば名前で呼んで欲しいんですけど……」
「そのような畏れ多い事は出来ません! 曹操様に叱られてしまいます。どうか、ご勘弁を頂きたく――」

 兵達の調練を見ていると、女官をゾロゾロと引き連れた妙な男が姿を現した。
 会話の中に華琳様の名を耳にした私はその事が気になって、一団の方へと足を向ける。

「何の騒ぎだ!?」
「――夏侯惇様! いえ、これは……曹操様のご命令で御遣い様の案内を」
「華琳様の?」

 私は女官の話を聞いて、問題の男の方へと視線を移した。
 華琳様の客人という割には覇気もなく強さも感じられない、今一つ冴えない男だ。
 寧ろ、その後に控えている女の方が、こうして対峙してるだけでも分かるほど強い気を纏っていた。
 恐らくは男の護衛なのだろうが、かなりの手練れである事は見て分かる。

「初めまして、正木太老です。調練の見学をさせてもらっても構いませんか?」
「あ、うむ……私は夏侯惇だ。邪魔にさえならなければ、別に構わない」

 本来なら調練の場を見学する事など許せるはずもないが、女官達が案内を頼まれたという事は華琳様もそれをご承知だという事だ。
 余り気乗りはしないが華琳様のご指示なら仕方がない。

(華琳様は何故このような男を……)

 朝廷の使者という風でも無いし、余り強そうではないところを見ると新しい武官という訳でもなさそうだ。
 それに文官というほど頭が良さそうにも見えない。風体から察するに、どこかの貴族か豪族の一員のようだが……。

「んー、凪は見ていてどう思う?」
「統率はよく取れていると思います。ただ……」
「兵としての質は悪くないけど、少し鍛え方が足りないか。華琳≠ェ気にするのも頷けるか」
「――!」

 護衛の女と何やら調練場の方を見て、二人で内々の相談を始めた男。兵の事や調練の内容に関して話し合っているようだが、それ自体には別に異論はない。
 ここに集まって居るのは、私の剣を一太刀も受けられないような軟弱者ばかりだ。
 力量が今一つ華琳様の兵として頼りない事は百も承知だった。
 その事を見抜いたのはいい。だが――何故この男が、華琳様の真名≠呼び捨てにしている!?

「貴様、何様のつもりだ! 無礼にも程があるぞ!?」
「へ?」

 それだけは聞き捨てならなかった。
 華琳様がここにおられぬとはいえ、その真名を軽々しく口にした男を黙って見過ごす事など出来ない。
 抜き放った剣を男に向け、殺気を込めて怒鳴りつける。
 何も分からないといった様子で呆けている男の間抜けな表情が、余計に私の感情を逆撫でにした。

「太老様に危害を加えるおつもりなら、幾ら夏侯惇様とはいえ見過ごす訳にはいきません」
「……面白い。この私とやろうと言うのか?」

 ずっと護衛として男の傍に控えていた女が、私の前に立ち塞がった。強い殺気と敵意を剥き出しにして――
 心地よい殺気に晒され、武人としての血が騒ぐ。ここ最近は出会った事がない、本物の強者との邂逅だった。

【Side out】





異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第7話『恩を抱く者』
作者 193






【Side:太老】

 何がなんだかよく分からない内に、凪と夏侯惇が決闘をする事になってしまった。
 どうにも俺が言った不注意な言葉が、夏侯惇を怒らせてしまったらしい。

「貴様、名は何という」
「楽進です。こんなカタチで夏侯惇様と一戦を交える事になり残念ですが、太老様への暴言を取り下げて頂けるまでは私も引き下がる訳にはいきません」

 確かに調練をしている場で『鍛え方が足りない』だの言われれば気分を害して当然だ。
 俺としても配慮が足りていなかったと反省していた。
 だからこそ素直に謝罪をしたのだが、一度頭に血が上った夏侯惇にはこちらの話が通じず、その挑発に真面目で堅物な凪がまんまと乗せられ、この有様だ。

「何だか大変な事になってますねー」
「風ちゃん? いつの間に……」

 全然起きないから部屋に置いてきたのだが、いつの間にか横の席にはちょこんと風が腰掛けていた。

「は!? もしかして、お兄さんを巡って愛の修羅場という奴ですか?」
「いや、違うから……」

 原因の一端は俺にあるが、そんなにドロドロとしたものじゃない。
 風のボケは放って置くとして、取り敢えず怪我のないようにしてもらいたいものだが――

(無理そうだな)

 既に勝負は始まっていた。夏侯惇の豪腕と手にした大剣から繰り出される一撃は、斬ると言うより叩きつけるに近い。
 振り下ろされた剣の衝撃で土砂が舞い、地面に小さなクレーターが出来上がる。

(思った通り、かなり強いな)

 あの剣を軽々と振り回す力もそうだが、一見無茶苦茶に振り回しているように見えて動きに無駄がない。それにあの一撃、まともに受けるとかなり痛そうだ。
 だが、凪も負けてはいなかった。力と速さでは夏侯惇が勝っているが、どれも経験と天性の勘に頼った攻撃ばかりで、フェイントなどを絡ませない直線的なモノが多い。
 それに夏侯惇の身体能力がズバ抜けているとはいっても、それは並の人間と比べての話だ。
 俺との組み手で素早い動きに慣れている凪からすれば、今の夏侯惇の動きは決してついて行けないほどのモノではなかった。

「くっ! やるな!」
「夏侯惇様こそ!」

 しかし夏侯惇はさすがだ。一見、互角に見える勝負だが僅かずつではあるが夏侯惇が押し始めていた。
 凪も手甲を装備しているとはいえ、無手と大剣ではリーチに差があり過ぎる。それにあの破壊力では正面から受ける事は疎か、捌く事も難しい。一撃でも貰えば、凪の負けは確定する。
 そこに加え、動きでは凪が勝っているとはいえ小細工が通じるような相手ではなく、技を強引にねじ伏せられるだけの力と経験が夏侯惇にはある。更に驚くべき点はあの体力だ。あれだけ重そうな大剣を抱え、凪の数倍は動き回っているにも拘わらず、呼吸一つ乱さない体力は化け物じみていた。
 力任せな剣術ではあるが全く隙がない。実戦慣れしているため勘も鋭く、凪の攻撃を一撃もかすらせない。戦況は芳しく無かった。

「うおおぉぉっ!」
「はああぁぁっ!」

 このままでは分が悪いと判断したのだろう。凪の顔付きが変わった。危険を覚悟で距離を詰める凪。
 しかし易々と懐に入れてくれる夏侯惇ではない。大きく踏み込み、全身をバネのように使い大剣を振り下ろす夏侯惇。
 そして凪も拳に嘗て無いほどの気を集中させ、全身全霊を籠めて夏侯惇の攻撃を迎え撃つ。

「――やめなさい! 二人とも!」

 その時だった。凛とした女性の声が調練場に響き渡り、その場に居た全員の視線が声の方へと向く。
 二人の勝負を観戦するのに夢中になって気がつかなかったが、いつの間にか調練場に華琳と秋蘭の姿があった。
 だが、二人を止めるにしても既に遅すぎた。最後の攻撃を繰り出そうと、既に動き出した二人を止める術はない。

「――っ!」
「――はああぁぁっ!」

 だが、ここで夏侯惇が思わぬミスをした。華琳の声を聞き、意識を逸らした事が禍となった。
 僅かに鈍った夏侯惇の攻撃をギリギリのところで回避すると、そのまま懐に飛び込み遠心力を使って力の限り拳を振り抜く凪。
 完璧なカウンターのタイミングだった。
 しかし夏侯惇は恐るべき反射神経で咄嗟に剣の向きを変え、剣背を盾にしてその攻撃を受けようとする。

「――ぐっ!」

 それは間違いなく凪が全力で放った渾身の一撃だった。
 判断は悪くなかったが、攻撃を受けた体勢が悪い。攻撃の衝撃に耐えきれず苦悶の表情を浮かべる夏侯惇。
 その手から柄が離れ、大剣が弧を描きながら宙へと弾き飛ばされた。

「――華琳様! 危ない!」

 間の悪い事に弧を描いた大剣は、その場に居合わせた華琳の元へと真っ直ぐに向かっていた。
 完全な不意打ちだったため、二人の反応が遅れた事も禍した。秋蘭が華琳を庇おうと素早く華琳の前へと飛び出す。
 あれだけの質量の剣だ。直撃すれば怪我程度では済まない。そう考えるよりも早く――咄嗟に身体が動いていた。

【Side out】





【Side:秋蘭】

 予想通り、調練場では既に大騒ぎになっていた。太老殿の護衛の楽進という女性と姉者が、まさかの決闘を行っていたのだ。
 ただの手合わせであればいいが、どう見ても姉者の方は相手を本気で殺すつもりで戦っている。
 こうなる事が分かっていれば、姉者に調練を任せはしなかった。しかし後悔したところで、既に事が起こってしまった後では遅い。
 こうなった経緯は後で確かめるとして、まずはこの戦いを止める事が先決だった。

「――やめなさい! 二人とも!」

 華琳様の二人を制止する声が調練場に響く。
 その声を聞いて僅かに動きを鈍らせる姉者だったが、既に二人は動き出した後。戦いは止まらない。
 姉者の放った剛剣が流れるような動きでかわされ、その攻撃に合わせるように放たれた一撃が無防備となっている姉者目掛けて放たれた。
 しかし、姉者も負けてはいない。完璧に決まったと思われた攻撃を咄嗟の判断で剣を寝かせ、剣背で防御する判断力はさすがだった。

 だが今回に限って言えば、それがまずかった。
 無理な体勢で攻撃を受けた事で衝撃を受けきれず、盾にした剣を弾き飛ばされてしまう姉者。
 宙を舞った大剣は弧を描き回転しながら、真っ直ぐと私達の方へ向かって飛んできた。

「――華琳様! 危ない!」

 予測不能な事態。距離も近すぎるため回避する事すら不可能だと判断した私は、後の事を考えるよりも先に華琳様の前へと飛び出していた。
 この身を盾にしても華琳様だけはお守りしなくてはならない。ただその思いだけで、眼前へと迫る大剣に立ち塞がる。
 それは瞬くほどの時間。死への恐れを抱く事も、覚悟を決める時間すら無い。
 せめて武器を手にしていれば弾く事も可能だったかもしれないが、無手の状態ではあの質量の大剣を受けきる事は出来ない。

(お許しください。華琳様)

 目を瞑り、刃がこの身体を切り裂く瞬間を静かに待つ。あの大剣を身体に受ければ助かるはずもない。
 この先、華琳様のお役に立てない事。華琳様の覇道を最後まで見届けられない事が心残りでならなかった。

【Side out】





【Side:華琳】

「気がついた? 秋蘭」
「華琳様。ここは……私は生きているのですか?」
「まさか、あの世だとでも言う気? 御礼なら太老に言っておきなさい。身を挺して守ってくれたのだから」
「太老殿が?」

 太老が居なかったら大切な部下を一人、失うところだった。
 あの状況下で死を恐れず咄嗟に飛び出した勇気と判断力もさる事ながら、一番驚かされたのは――

(春蘭の剣を素手で弾き飛ばすなんて……)

 秋蘭に直撃するかと思われた大剣を両腕で防御し、弾き飛ばした太老の力には正直驚かされた。
 手甲でも仕込んでいるのならまだ話は分からなくもないが、生身で剣を弾く人間など聞いた事がない。
 それに太老の居た場所から私達の居た場所まで、あの僅か一瞬で駆けつけられる距離ではなかった。
 だが、太老は間に合った。腕がそこそこ立つような話は聞いていたが、あれはそんな次元の話ではない。

(天の力をあてにするな……か)

 まだ心のどこかで太老が天の人間だと信じられない部分があったが、今回の件でその話を信じない訳にはいかなくなった。
 あれだけのモノを見せられて、太老をただの人間と思うには無理がある。
 聞けば春蘭と互角の戦いを見せていた楽進も、太老の教えを受けてあそこまでの力を身につけたと聞く。
 天の力……それは天の知識≠フ事ではなく、太老自身の事を指していたのだと今になって気付かされた。

「そうですか。そんな事が……ですが何故、私は気を失って?」

 秋蘭の疑問は尤もだが、私としてはあれは言って良いものか判断に困っていた。
 秋蘭が助ったのは確かだが、結果それが原因で秋蘭は気絶する事になってしまったのも事実だ。
 私の前に飛び出した秋蘭。そこに太老が私達を庇うように飛び出し、出会い頭に互いに頭をぶつけて気絶。
 尤も気絶したのは秋蘭だけだったのだが、何とも間の抜けた話だけに秋蘭の名誉のためにも話をするべきか迷っていた。

「私を庇うため、死を覚悟して飛び出したのでしょう? その覚悟は大したモノだけど、きっと安心して緊張の糸が切れたのね」
「面目ありません……。まさか、そのような事で気を失うとは」
「何も恥じる事はないわ。寧ろ、礼を言わなくてはならないのは私の方ね。ありがとう、秋蘭」
「華琳様……」

 気絶する事自体、武人として恥ずかしい行為だが、最後にオチがついたなんて話を聞かされるよりはマシだと考えた。
 身を挺して私を守ろうとしてくれた秋蘭に対する、せめてもの思いやりだ。
 あの場の事は箝口令を敷いてあるので、秋蘭の耳に入る事もないはずだ。

「太老殿には借りを作ってしまいましたね。姉者の件に……それに命まで助けられては」

 今回の件で謝るべき、いや礼を言うべき立場にあるとすれば秋蘭ではなく、寧ろ私の方だ。
 私を庇った秋蘭を助け、私に対し家臣の不始末を責めるどころかあの男は――

『怪我が無くてよかった』

 と逆に私や秋蘭の事を心配してみせたのだ。

(どこまで計算尽くなのか、本当に分からない男ね……)

 この曹孟徳、恩人に向ける刃は持ち合わせていない。
 そういう意味では完全にしてやられてしまった。そこまでの器を見せられた後では、私は太老を敵に回す事は出来なくなった。
 元よりそのつもりはなかったとはいえ、そうなる前に抵抗する牙を抜かれたカタチだ。

「それで姉者は……」
「当事者の太老や楽進が何も言わないのに、私が勝手に厳罰を科せる訳がないでしょう? それに太老には逆に謝られてしまったわ」
「では……」

 どんなつもりかは知らないが太老に、『春蘭を最初に挑発したのは自分だ』と頭を下げて謝られてしまっては、その事で頭ごなしに春蘭を責める事は出来ない。しかし事情があるにせよ、やってしまった事は確かだ。
 何のお咎めもなしにしてしまえば臣下に示しがつかないだけでなく、私の信用にも関わる問題。何も無しと言う訳にはいかない。
 とはいえ、太老の顔もある。これで春蘭に重い罰を科してしまえば太老の顔を潰すだけでなく、慈悲のない冷酷な領主だとよくない風聞が立つ恐れもあった。

「なるほど、街の工事を姉者にですか……。ですが、また迷惑を掛けなければよいのですが」
「太老なら上手く使うでしょう。それに誤解も解けて、逆にあの事件が良い結果に結びついたみたいよ」
「……というと?」
「自分と互角の戦いをした楽進。そして、その楽進を鍛えたとされる太老。同じ武人として思うところがあったんでしょう」

 春蘭だけでなくその場に居た兵士全員を連帯責任として、太老に依頼した街の工事の労働力として働かせる事にした。
 それに今の春蘭なら、太老に食って掛かるような真似はしないはずだ。万が一を考えて春蘭を太老に近づけないようにしていた訳だが、今回は良い意味で誤算もあった。
 あれだけの戦いを見せられれば、楽進の力を春蘭も認めない訳にはいかない。そして素手であの大剣を弾いてみせた太老。
 後で楽進よりも太老が強い事を知らされ、更には食って掛かった相手に妹の秋蘭を助けられてしまっては――
 家族や仲間の事を大切に想い、武人としての誇りを何よりも重んじる春蘭に、恩人である太老を傷つける事が出来るはずもない。

(でも春蘭ばかりか……秋蘭まで。これでは、もうダメね)

 最初、私の前で事の責任を感じ、自分の首を刎ねるように言ったのは春蘭だった。
 しかしそれを庇うように前に出て、『全ての責任は自分にある』と言ったのは太老だ。
 結果、私だけでなく春蘭も牙を抜かれ、そして秋蘭もまた太老に対し大恩が出来てしまった。
 これで太老を益々陣営に取り込む以外に手は無くなった事になる。

(……これも天啓という奴なのかしらね?)

 太老と出会った事が運命だというのなら、それこそが天啓というべきモノなのだろう、と私は思う。
 これから先きっと長い付き合いになるであろう、我が盟友に――私は運命を感じずにはいられなかった。

【Side out】





 ……TO BE CONTINUED



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