「皆、無事だと良いのだけど……」
街を一望出来る気高い丘に、まるで権力を象徴するかのように建てられた大きな屋敷あった。孫家の屋敷だ。
建物から外に張り出した露台の一角に、物思いに耽った様子で暗い表情を浮かべた一人の少女が佇んでいた。
孫家の血筋を彷彿とさせる膝まで伸びる艶やかな桜色の髪。そして日に焼けた小麦色の肌。
まだ幼さの残る顔立ちではあるが、その佇まいからは為政者としての風格さえ備わって見える。
彼女はこの屋敷の主にして、呉の盟主『孫策』の妹。名を『孫権』、字を『仲謀』。真名を『蓮華』と言う。
「蓮華様。このような場所に居られましたか。侍女達が探していましたよ?」
「思春……。ごめんなさい。妙な胸騒ぎがして……」
蓮華に真名で『思春』と呼ばれた紫の髪の女性は、蓮華の様子がおかしい事に気付き、眉をひそめて見せた。
彼女は名を『甘寧』、字を『興覇』といい、嘗ては『錦帆賊』の名で通った江賊の頭を務めていた事がある呉の武将だ。
その昔、孫策こと雪蓮に江賊としての腕を買われ、孫家の家臣に加わる事になったの機に、蓮華の側近として仕えるようになった。
その後、蓮華の器の大きさに感銘を受けた思春は彼女を陰から支える事を至上の喜びとし、ただの任務の枠を超え軍務でない時も彼女の護衛として常に傍に控えるようになった。今では『孫権の右腕』と呼ばれるまでに頭角を現し、呉になくてはならない忠臣とまでに言われるようになっていた。
蓮華が最も信頼を置き、頼りにしている家臣の一人――それが、この思春だ。
寡黙で感情を余り表にはださないが思春も蓮華の信頼に応えようと、文字通り命すら厭わない覚悟で彼女の傍に仕えていた。
「孫策様の事ですか? 周瑜殿や黄蓋殿も御一緒なのですから心配は不要かと」
「そう……よね。冥琳、それに祭まで一緒なのだから……」
思春の言う事は尤も、と理解しつつも、それでも蓮華の心は晴れなかった。
例え信頼を置く忠臣の言葉といえど、血の繋がりの無い他人には分からない。言ったところで理解してもらうことは難しい姉妹の絆がある。
母無き後、呉の盟主を継いだ姉の凄さを誰よりも理解している蓮華ではあったが、それでも不安を拭いきれない何とも言えぬ胸騒ぎが蓮華の心を蝕んでいた。
「それよりも蓮華様には、呉の姫としての役目を全うして頂きたい」
「分かっているわ……。勿論、私達の悲願を忘れた訳ではない」
「では……」
「……そうね。姉様達を信じて待ちましょう」
孫家の姫として生まれた運命。孫家の悲願。呉の復興こそが、蓮華に与えられた最優先任務だ。
そのために雪蓮達が身体を張って囮をしてくれている今こそ、呉の復興に向けて準備を進める絶好の機会だった。
思春が敢えて苦言を呈したのも、蓮華の言葉を信じていないからではなく呉の事を――主君を思えばこそだ。
雪蓮に万が一の事があれば、呉の後継者は蓮華と小蓮の二人しか居なくなる。そしてまだ小蓮は幼い。次代の呉を背負って立つのは蓮華を置いて他にいなかった。
雪蓮の身に万が一の事があったとしても、その時は蓮華が先頭に立って呉を再興する手はずが整っていた。
既に後には引けないところまで来ている事は、蓮華自身が誰よりもよく理解している。
「……天の御遣い」
「蓮華様?」
「いえ、なんでもないわ。行きましょう、思春」
ふと蓮華の頭を過ぎったのは、姉がいつも皆に楽しげに話していたという『天の御遣い』の事だった。
河南の民が食糧危機を免れたのも、全ては天の御遣いの援助があったから――
こうして呉の復興のために準備を進める事が出来ているのも、元を辿れば商会のお陰と言えなくも無い。その事は、蓮華も理解していた。
だが、何よりも蓮華を驚かせたのは、妹の小蓮ばかりか、あの雪蓮が太老の事を甚く気に入っていた事だ。
そして冥琳までもが、太老に対して高い評価をつけていた。
(姉様達が認めた、唯一の男……)
蓮華からしてみれば、尊敬する姉や呉の忠臣達が高く評価する男の事が気にならないはずがない。
流れてくる噂はどれも信じがたいものばかりだったが、黄巾党の一件は紛れもない事実だと帰ってきた兵達の報告からも蓮華は知っていた。
少なくとも、呉にとっては足を向けて寝る事が許されない、大恩のある人物なのは間違い無い。
そして噂通りの人物であればきっと――
(姉様、どうかご無事で……)
会った事も顔を見た事すら無い、噂程度にしか知らない相手。しかし、今は他に頼れる相手はいない。
こんな風に考えるのは、自分でもどうかしていると蓮華は考える。
しかし、不思議と天の御遣いの事を考えると、心を蝕んでいた不安の種が和らいでいくのを蓮華は感じていた。
異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第83話『目覚め』
作者 193
【Side:一刀】
暗い、何もない真っ暗な空間。
寒さも暑さも感じない、上下の感覚も分からないその場所で、俺はただ流されるままに流れに身を任せていた。
「ロリペドフィンは無いよな……」
少女が悲鳴を上げたかと思うと突然、空に大きな穴が開き、気付いた時には為す術もなくその穴の中に吸い込まれていた。
あの少女がその後、どうなったかは分からない。何があったのかすら分からず、俺自身困惑しているくらいだ。
ただ一つだけ言える事は、また要らぬ誤解をされてしまったと言う事だ。今度あったら事情を説明して、誤解を解きたいと考えていた。
ホモ疑惑の次はロリコン。更には両刀使い。変態から変質者へのクラスチェンジなんて、冗談でもやめて欲しい。
「はあ……。最近、本当に碌な目に遭ってないよな……」
泣きたくなるような災難ばかりだ。
だけど、こんなよく分からない状況に巻き込まれているというのに不思議と心は落ち着いていた。
この先どうなるんだろう、みたいな不安は確かにあるが、なるようにしかならないと納得している自分がいる。多少の事があっても、今なら全く動じない自信があった。
慣れというのは本当に恐いものだ。急に色々とあった所為か、自分でも驚くほどに耐性がついてしまっている事を自覚していた。
この状況下で、『まあ、こんな事もあるか』と納得してしまっている自分が恐いくらいだ。
「天の御遣いか……」
こんな状況を理解しろと言うのは不可能な話だ。
でも、『天の御遣い』と呼ばれる正木太老って人なら――と、理解は出来なくても納得出来る部分があるのも確かだった。
異世界人や宇宙人だと紹介されても、きっと俺は驚かないはずだ。この嘘のような現実が、何よりの証拠と言える。
昔、アニメや映画にもなったという友達から借りた流行小説の中に、
『ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい』
と言っていた頭のぶっ飛んだヒロインが登場していたが、『ここに居るぞ!』と教えてやりたい気分だ。
実際のところ、本当に宇宙人かどうかは分からないが、少なくとも普通の人間で無い事だけは確かだ。
常識的に考えて、こんな事が出来る普通の人が居るはずもない。
「……光?」
夜よりも深い暗闇の中、車のヘッドライトのように眩い光が俺の眼に飛び込んできた。
ずっと続くと思っていた、長い、長いトンネルの向こうに見えた光。
――それは、出口へと続く希望の光か?
――それとも、更なる災難の火種を呼ぶ不吉の兆しか?
「これ以上、余計な二つ名がつかなければ、もうどっちだっていいけどな……」
流されるままに身を委ね、光に包まれながら――
これ以上、不名誉な称号は要らない、と俺は呟いた。
◆
「――さん! 北郷さん!」
「……ん? ここは? 諸葛亮ちゃん?」
「よかった。無事だったんですね」
目を覚ますと、どう言う訳か目の前に諸葛亮ちゃんが居た。
変な穴に吸い込まれて、暗闇の中を流離っていたところまでは覚えているのだが――
「えっと……ああ、その後、光に呑み込まれたんだっけ?」
ぼーっとした頭で状況を把握し、周囲を見渡す。
微かに薬草の匂いが漂っている。俺だけでなく、気を失った人達が大勢運び込まれているようだ。
諸葛亮ちゃんが居るところを見ると、どうやらここは義勇軍本陣の天幕の中のようだった。
問題は――
「本物だよね?」
「はわわ……な、何をするんですか!?」
顔を近付けてプニプニとさわり心地の良い頬を触ってみるが――この反応、間違い無く諸葛亮ちゃんだ。
てっきり、また貂蝉が化けているのでは無いか、と疑心暗鬼になっていた。
まだここがあの不思議空間の延長だと言われても、俺は全く驚かない自信があった。
だが、この諸葛亮ちゃんはどうやら本物のようだ。そこだけは安心してよさそうなので、ほっと息を吐く。
「それよりも、ここって……」
「ここは虎牢関です」
「へ? 虎牢関? なんで? 戦いは?」
「北郷さんのお陰で、私達も無事に脱出する事が出来たんですよ」
「……はい?」
俺のお陰? 諸葛亮ちゃんのその言葉の意味が理解できなかった。
確かに自爆スイッチは押したけど、寧ろ申し訳ない事をしたと言うか、俺は何一つ役に立つような事をやってはいない。
そもそもなんで諸葛亮ちゃんがその事を知ってるのか、意味が分からなかった。
――やはり俺は、まだ夢でも見ているのだろうか?
――そもそも、なんで虎牢関なんだ?
――十万を超す兵が詰めてるんじゃなかったっけ?
――俺が眠っている間に戦いが終わったとか?
諸葛亮ちゃんの話を聞いても、さっぱり事情が呑み込めない。まるで狐につままれたような気分だ。
「あ、目が覚めたんですね。身体に異常はありませんか?」
「キミは?」
「ブラック鷲羽と言います」
「ブラック鷲羽?」
「そう、私は……マスターの忠実なメス豚です!」
メイド服に身を包んだカニ頭の変な少女が目の前に立っていた。見た感じ、諸葛亮ちゃんよりも幼い感じだ。
メス豚発言は華麗にスルーするとして、『ブラック』とはまた三国志の世界とは思えない言葉が出て来た。
普通、そこは『黒鷲羽』とかじゃないのか?
と言うツッコミの言葉を自制して、俺は諸葛亮ちゃんに視線を向け、更なる事情説明を求める。彼女に訊くのが一番早そうだと察したからだ。
「ブラックちゃんが教えてくれたんです。北郷さんが結界を破壊してくれたって。そうなんですよね?」
「え? まあ、確かにそうなんだけど……それには色々と深い事情があるっていうか……」
スイッチを押したのは確かに俺だけど、素直にそれを喜んでいいものかどうか返答に困った。
あれは不慮の事故だ。なんだか感謝されているようだし結果オーライと言う考え方もあるが、それでは俺が納得できない。
あの少女の誤解も解けていないし、ここで計算通りなんて言った日には、またどんな二つ名を付けられるか分かったモノでは無いからだ。
そうこう悩んでいるところに、今度は自分の事を『ブラック鷲羽』と名乗ったカニ頭の少女が俺に頭を下げてきた。
「ありがとうございました。北郷さんがいなかったら、ずっと迷子のままでしたから」
「いえ、ご丁寧にどうも……」
よく分からないが、諸葛亮ちゃんは感心している様子だし、ブラックちゃん……には感謝されているようだし悪い気はしない。
とはいえ、本当に一体全体何がどうなっているのか? 誰か分かる人がいれば、丁寧に分かり易く事情説明をして欲しいところだ。
諸葛亮ちゃんの話も腑に落ちないし、そもそもこのブラック鷲羽と言う少女は一体どこの誰なんだ?
極自然に場に馴染んでいるが、こんな子と俺は話した事もなければ見かけた事すら無い。義勇軍にこんな目立つ子がいれば、幾ら何でも覚えていると思うんだが……。
「やっぱり、まだ夢でも見てるのか……」
正直、頭が痛くなった。これが夢なら覚めて欲しい。
「でも、お姉様を敵に回すなんて、その勇気には感服します!」
「お姉様? それってもしかして……」
ブラック鷲羽ちゃんの『お姉様』という言葉に、嫌な予感がした。
こう言う時の自分の勘がよく当たるのは理解しているつもりだ。
いつもいつも、こうした勘は悪い方にばかりよく当たる。
「はい。神すら超越した存在であるマスターの娘にして、絶対的なお父様至上主義者! 唯我独尊、史上最凶、歩く天災、究極の幼女、色々と呼び名はありますけど『零式お姉様』の事です!」
物騒な名前や意味不明な名称がずらりと並んでいた。ブラック鷲羽ちゃんの説明を聞いて、大粒の冷や汗がダラダラと溢れてくる。
間違い無い。彼女の言っているのは、あの不思議な場所で眠っていた少女の事だ。
神すら超越した存在の娘って……洒落になっていないだろう。しかし、それを否定する言葉が見つからない。
現実にあの少女が何かをやって、あの空間の穴みたいなのが出来た事は確かだ。俺はそれを実際にこの目で見ている。
まてよ? その神を超越した存在って、この流れからするとやはり――
「そのお父様やマスターってのは……」
「勿論、正木太老様の事ですよ?」
嫌な予感が的中した。宇宙人や異世界人どころの話では無かった。
神を超越した存在って……これまで体験した不思議な出来事を全て思い起こすと、否定する言葉が見つからないから恐い。
天の遣いどころか、それ以上にやばいもんを呼び寄せたんじゃないのか? この世界の人達は……。
「じゃあ、敵に回したってのは……?」
これだけは訊いておかないと拙いと判断した。
穴に吸い込まれる前に耳にした、あの少女の悲鳴。嫌な予感ばかりが頭を過ぎる。
「あれ? 北郷さん分かってて、お姉様の目覚ましスイッチを押したんですよね?」
「…………は? あの物騒なのが目覚まし!?」
「お姉様、低血圧なんですよね。だからマスターお手製の目覚まし時計が無いと、なかなか目を覚ましてくれなくて」
お陰で助かりました、と言って満面の微笑みを見せるブラック鷲羽ちゃん。
逆に俺の方は力無く肩を落とし、地面に突っ伏した。笑って済ませて欲しく無い話だった。アレが大掛かりな目覚ましだったなんて、質の悪い話だ。
って事は、あそこで眠っていた少女も別に誰かに閉じ込められた訳では無く、あそこで眠っていただけって事か?
しかもブラック鷲羽ちゃんの話から察するに、物凄い誤解をされている事だけは間違いない。夜這いか何かと勘違いされてるって事か?
(じゃあ、俺の苦労はなんだったんだ……)
取り敢えず、深く考えるのはよそう。うん、きっとこれは悪い夢だ。そうに違いない。
現実逃避をしている間に、また要らぬ噂が広まっていようとは……この時の俺は知る由も無かった。
【Side out】
……TO BE CONTINUED
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