孫策は何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。
 それもそのはず、袁術を恨んでいなかったと言えば嘘になる。呉の再興を願う気持ちは確かにあった。
 しかし、良くも悪くも正々堂々の戦いを好む孫策にしてみれば、この結果は素直に喜べるものではなかったからだ。

「……本当にこれでよかったのかしら?」
「仕方が無いだろう。あの状況では、これ以外に方法はなかった。それとも降伏して、再び袁術の言いなりになるのが望みか?」
「そう言う訳じゃないけど……」

 ここは寿春(じゅしゅん)城。北に長江・黄河に次ぐ大河『淮河(わいが)』が流れ、南に大別山(だいべつさん)がそびえ立つ袁術の拠点だ。
 黒い穴に吸い込まれた孫策達が投げ出されたのが、この寿春城だった。
 外から攻め込むには難しい鉄壁の城であろうと、内側に数千を超す兵が何の前触れもなく現れたのでは一溜まりもない。
 しかも袁術軍の主戦力は反董卓連合に参加をし、洛陽に遠征に出ているため城に残っている兵士は僅かだった。
 結果、労せずに寿春を手に入れた孫策達。被害を最小限に留められた事を考えると、これ以上ないくらいの戦果だったと言える。

「ううん……でも、なんか思ってたのと違うっていうか。こんな火事場泥棒みたいなのを望んでた訳じゃないんだけど……」
「だが、結果的に被害は最小限に留める事が出来た」
「そうよね……。問題はそこなのよね」

 周瑜の言う事は尤もだと、理屈の上では孫策も納得していた。自分の言っているのは感情論に過ぎないと言う事も――
 呉を再興するとは言っても、やるべき事は山のようにある。ただ袁術を倒して、城を開放すればそれで終わりと言う話でもない。
 寧ろ重要なのは、その後のことだ。被害が大きくなれば、それだけ国を建て直すのに多くの時間を要する事になる。
 ましてや失われた命は帰って来ない。民に害が及ばず、貴重な兵の損失を防げたと言う意味でも、今回の奇襲は大成功だと言えた。
 だが、これが自分達の考えた策だったのなら、孫策も素直に受け入れる事が出来ただろう。しかし偶然手に入れた成功を手放しに喜べないでいた。胸の辺りがムカムカとする消化不良と言って良い状況に、気持ちを何処にぶつけて良いか分からず、先程から孫策はずっとこの有様と言う訳だ。
 そんな孫策を見て、周瑜は大きなため息を漏らす。

「どうしてもと言うなら、天の御遣いに責任を取ってもらえばどうだ?」
「太老に?」
「こうなった原因の一端は彼にある。いや、元凶と言ってもいいな」
「まあ……確かにあんな事が出来るのは、太老以外にいないでしょうしね……」

 証拠はなくても、あんな事が可能な人物と言えば、孫策と周瑜の知る限り正木太老以外にはいない。
 今回の件にも間違い無く太老が一枚噛んでいるであろうことは二人にも分かっていた。
 こうして寿春城を難なく攻め落とす事が出来たのは、太老のお陰とも言えなくは無い。

「でも、これが彼のお陰だって言うなら、呉にとって凄い恩人って事になるわね」
「そうだな。ただの偶然なのか、それとも……」

 もう返しきれないくらいの恩があると言った口調で、孫策は周瑜にそう言った。
 この結果に心から納得が行っている訳では無いが、呉の事を考えると結果的に良かったと言える内容だった。
 だからこそ、この事で太老を責めるのは筋違いだと孫策も分かっていた。
 そんな孫策の気持ちを察してか、周瑜はずっと考えていた事を口にする。
 それは、こうなるように太老が全てを仕組んでいたのではないか、といった推測だった。

「冥琳はこれを太老が狙ってやったと考えているの?」
「正直なところ分からん。あの男の考えは、私にも全く読めないからな。ただ……」
「ただ?」
「偶然にしては出来すぎている。そう考えているだけだ」

 偶然にしては出来すぎている――その言葉に冥琳の考えの全てが集約されていた。
 袁術と袁紹が太老にとって目の上のタンコブ、一番の障害だった事は言うまでも無い。
 偶然かどうかは別にして、結果的に太老は袁紹の力を削ぎ、呉を上手く利用する事で同時に袁術を排除する事に成功した。

「今回の件、袁家の力を削ぐのが目的だった、冥琳はそう見ているのね」
「ああ。それに董卓が本当に噂通りの悪人なら、あの男が力を貸したとは思えない」
「なるほど……。確かにそれなら……」

 反董卓連合に参加している諸侯は袁術と袁紹を除けば、どちらかと言えば太老に好意的な諸侯ばかりだ。
 今回の遠征で消費した戦費に見合うだけのメリットが提示できれば、他の諸侯を納得させる事はそれほど難しい話ではない。
 歴史を作るのは勝者だ。そして反董卓連合は敗北した。このシナリオを描いた人物の思惑通りに事は進んでいると周瑜は考えていた。
 結果的に董卓は救われ、邪魔者はいなくなる。誰が得をしたかと考えれば、自ずと出る答えだ。

「やっぱり、抜け目ないわね。彼」
「全くだ。これほど厄介な男はいない。どうだ? まだ天下を目指す気はあるか?」
「嫌な訊き方ね。でも、その前に借りはちゃんと返さないとね」

 断金の誓い――母の意志を継ぎ、呉の王になると誓ったあの日、孫策は周瑜とある約束を交わした。
 今も、その時の約束を忘れた訳では無い。これからもずっと、二人の断金の絆は変わる事はないだろう。
 ただ一つだけ、あの時と違うものがあった。

「冥琳、少し欲張りに生きてみようと思うの」
「今までも十分に欲張りだったと思うが?」
「意地悪ね。でも、ウジウジと悩むよりは行動した方が私らしいと思わない?」

 もう決めたとばかりに、クスクスと笑みを浮かべる孫策。
 そんな孫策を見て、周瑜はまた悪い病気が再発したのだと確信した。

「好きにするといい。どうせ、私が何を言っても無駄な事は分かっているからな」
「さすが冥琳。私の事がよく分かっているわね」
「呆れているだけだ。正直、蓮華様が不憫でならない」
「大丈夫よ。あの子は強いもの。きっと、良い王様≠ノなれるわ」

 長年連れ添った夫婦と言っても良いほど知り尽くしている孫策の考えくらい、周瑜にはお見通しだった。
 全て分かった上で、いや孫策の事を誰よりも理解しているからこそ、周瑜はそれ以上何も言う事はなかった。





異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第92話『南海覇王』
作者 193






「聞いていた予定と随分と違うのだけど……姉様は何を考えているのかしら?」

 孫策が寿春城に入城したとの報告を受けた孫権は、兵を率いて寿春に向かっていた。
 聞いていた計画と随分と違う孫策の行動に疑問を持つ孫権。それに反董卓連合に参加し、袁術と共に洛陽に遠征中の孫策が何故、寿春に居るのか全く事情が呑み込めなかった。
 本来であれば反董卓連合の終わりを待って孫策達と合流後、農民の一揆を装い兵を集結させ、寿春城を攻める算段だったのだ。
 だからこそ、孫策達が監視の目を誤魔化すために囮として袁術について行っている隙をつき、そのための準備を進めていた。
 それがこんなカタチで寿春が落ちたと聞かされ、孫権は全く理解の及ばない状況に困惑していた。

「周瑜様の策とは考えられませんか?」
「周瑜の?」

 周瑜の策と言われて、有り得ない話ではないと思いつつも、まだ納得の行かない孫権。そんな孫権に意見したのは彼女が連れてきた軍師。名は『呂蒙(りょもう)』、字は『子明(しめい)』、真名は『亞莎(あーしぇ)』。元は甘寧率いる親衛隊の一人だったが、その才を孫権に見出され、見習い軍師として傍に仕えている少女だ。今となっては無駄に終わってしまったが、本来予定していた工作を手配したのも彼女だった。
 いや、全く無駄に終わったとは言えない。孫策が寿春城に入った事は直ぐに噂になり、それが切っ掛けとなって各地で袁術の治政に不満を持っていた人々の手で蜂起が起こったのも、全て事前に彼女が仕込みをしていたからこそだった。
 結果、孫策が寿春を落として一ヶ月。蜂起した呉の勢力は瞬く間に揚州全土を制圧した。

「敵を欺くにはまずは味方からと言いますし、最初からこれを狙っていたのではないかと」
「そうなのかしら? 確かに周瑜なら有り得そうな話ではあるけど……」

 周瑜には出来ても、孫策にそんな器用な真似が出来るとは、妹の孫権には思えなかった。
 結果的に最小限の被害で呉の再興を果たした手腕は見事としか言えないが、悪く言えば火事場泥棒と同じだ。
 英雄の誇りに掛け、正々堂々と戦う事を好む孫策のやり方にしては、些か腑に落ちないところがあった。

「とにかく姉様に詳しい話を聞くのが先決ね」


   ◆


「……なっ! 姉様がいない? ちょっと周瑜どういう事!?」
「……そのままの意味です。雪蓮は旅立ちました」

 寿春城に到着した孫権を待っていたのは、周瑜からの予期せぬ報告だった。

 ――久し振りに姉様に会える

 そう思っていた孫権からしてみれば、孫策が居ないと言われて素直に納得できるものではない。
 ましてや、呉の王ともあろう人物が城を空けるなど、孫権からしてみれば考えられない事だった。

「周瑜! どうして止めなかったの! あなたが居ながら――」
「……止められなかったのですよ」
「止められなかった?」
「私達は、あの男に返しきれないほどの大きな借りがありますから」
「あの男……まさか、それは」
「天の御遣い――正木太老。雪蓮が向かったのは天の御遣いのところです」

 孫権にも理解できるように、『恩』や『借り』といった言葉を遣って周瑜は説明した。
 追及されるであろう事は予想していたので、あらかじめ考えてあった言葉を捻り出す。
 厄介事ばかりを押しつけて、さっさと行方を眩ませた親友に、少しは愚痴を聞かせてやりたい周瑜だった。

「雪蓮は、呉の受けた恩を呉の王である自分が返すのは当然だと」
「それじゃあ、姉様は私達のために……」
「いや、それはどうかと思うのですが……」

 恩返しは確かにあるのだろうが、それだけではないと周瑜は気付いていた。
 太老の事が気に入っていなければ、あのような真似をする孫策ではない。もう一つ付け加えるなら、面白そうな方を選んだと言うのが的確な表現だと周瑜は考える。
 暫くの間、呉は内政を重視し、地盤固めを早急に行う必要がある。再興は確かに成功したが、やるべき事は山積みの状況だ。
 孫策がそうした細々とした事を苦手としている事は、親友の周瑜が一番よく理解していた。
 とはいえ、孫権の気持ちを考えると今は黙っているのが吉だと考え、周瑜は敢えてそれ以上は何も言わなかった。

「蓮華様、これを」
「これは……南海覇王!」

 孫策から預かっていた煌びやかな装飾の施された両刃の剣を孫権に手渡す周瑜。
 南海覇王――それは孫策の愛剣にして、呉の指導者に受け継がれてきた王の証。
 これを孫策が孫権に譲ると言う事は、呉を孫権に委ねると言う事と同じ意味を持っていた。

「これからの時代、呉に必要なのは自分では無く蓮華様だと、雪蓮はそう言って旅立ちました」
「姉様が……」

 孫策は孫権の器の大きさを認めていた。経験はまだまだ足りないが、英雄としての資質、能力は十分にあると。
 いつかは呉を孫権に委ねるつもりでいたのが、少し早まっただけのこと。
 孫策の勘が良く当たることを知っていた周瑜は、その事に異議を唱えるつもりはなかった。
 過程はどうあれ、孫策が呉を妹の孫権に委ねると決めたからには、彼女にしか分からない理由があるのだと考えたからだ。

(雪蓮に任せるよりは蓮華様の方が確りとやってくれるだろうしな。問題はないだろう)

 それに孫策に任せるよりは少し楽が出来る。内政の面では、孫策よりも孫権の方が向いていると周瑜は考えていた。
 孫策の気質は外に向かう傾向にある。これまで通りであればそれで良かったのだろうが、太老の登場によって事態は思わぬ方向に向かっていた。
 恐らく孫策が、孫権に呉を委ね太老のところに向かったのも、一番の理由はそこにあるのだと周瑜は考える。
 何が自分にとって呉にとって最善かを、孫策は直感で見抜いていた。

「蓮華様には、これから学んで頂く事、やって頂く事が沢山あります。それとも、雪蓮のように城を飛び出されますか?」
「意地が悪いぞ、公謹。この剣の重みが分からぬほど、私は愚かではない」
「ならば、その言葉を信じましょう」

 そう言って周瑜が膝をつくと、謁見の間に控えていた全ての武官、文官が新しい王に頭を垂れる。
 呉の再興が果たされ、新たな指導者が誕生した瞬間だった。





 ……TO BE CONTINUED



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