太老が書類の山に埋もれていた頃、ここ陳留に拠点を置く曹操の城でも、忙しそうに文官達が城の中を走り回っていた。
「大丈夫か? 桂花。目の下に凄いクマが出来ているが……」
「もう一週間まともに寝てないもの……それよりも秋蘭。頼んでおいた仕事は?」
「ああ、それならここに」
夏侯淵(秋蘭)から書類の束を受け取り、一息吐くのも束の間、再び書類の束に目を通しはじめる荀イク(桂花)。どことなく、いつもと比べて動きが重い。傍目からも疲労が溜まっていることが窺えるほど、荀イクの疲れはピークに達していた。
それもそのはず、商会の仕事量に比例するように、城の文官達の忙しさも限界を極めていたからだ。
現在曹操が管理する州は、幽州を除く河北三州に青州や予州。そしてここエン州をくわえた実に十三州の内、約半数に当たる六州。反董卓連合解散の後、天の御遣いや皇帝の名の下、曹操は領地を拡大し、大陸北部を治める大領主へと名乗りを挙げていた。
更に商会の交易範囲が大きく広がりを見せたことで、交易の中心地となったエン州・予州・司隸に大勢の人が流れてくる結果となり、人口の増加に伴う役務の増大。津波のように押し寄せる仕事の量に、文官達の仕事は激務を極めた。
結論を言えば、寝る間もないほど忙しい。ここ一週間、荀イクは仮眠ばかりで、ゆっくりと眠れない日々を送っていた。
「ここは私がやっておくから、少し休んだ方がいいのではないか?」
「そうしたいけど、他にも仕事が溜まってるのよ……」
「しかし……」
そもそも、これほど早い段階でこれだけの量の仕事が押し寄せてくるのは荀イクも予想外のことだった。
徐々に領地の拡大にあわせながら人手を増やして行く算段をしていたところ、大きく予定が狂ってしまったカタチだ。過程を無視して六州を束ねる大領主という結果がついてきてしまったがために、人材の育成が間に合わず、結果としてそれらのしわ寄せは全て荀イク達が被ることとなった。
これまでの実績、曹操の能力が認められているからこそ、こうして幾つもの州を預けられる結果となったとそこは喜ぶ点かもしれないが、実際のところは公孫賛では頼り無く、残された有力者の中で河北を任せられる人物が曹操以外にいなかったという点が理由として大きかった。
袁紹を失い、中央と繋がりのあった官吏が尽く排斥された後、混迷を極める領地を一刻も早く安定させられる人物となると候補は限られてくる。中央に食い込み、発言力を大きく増す機会を得たと考えれば確かに曹操にも利はあるだろうが、どちらにせよ面倒事を押しつけられた結果に変わりは無かった。
それに今の曹操には、以前のように自らの力で大陸を支配すると言った気概はない。
野心がなかったと言えば嘘になるが、曹操が大陸支配を目論んだのは、この国の未来を憂いてこそだ。官に虐げられ、飢えに苦しむ民達を救おうと立ち上がったに過ぎない。
天の御遣いという大きな柱の下、民が立ち上がり諸侯が纏まりを見せつつある現状に置いて、その均衡を崩すような真似を自ら引き起こすつもりは彼女にはなかった。
戦渦が広がり争いが長引けば、苦しむ事になるのは民だ。
理想を追うだけの大義があれば話は別だが、今の曹操には太老と敵対してまで理想に拘るほどの大義は無い。
自身に牙を剥いた者を笑って許す懐の広さ。
全てを受け入れ、一国の皇帝すら子供扱いする器の大きさ。
敵味方共に犠牲を最小限に食い止め、戦を終わらせた手腕。
それらを目の当たりにした今となっては、負けを認めざるを得ない。だからこそ、
――この国の未来を、民の事を、自らの理想を
曹操は自身の全てを、太老に委ねる事を決意した。
この大陸に住む民の事を考え、何が最善か?
それらを考えた末の決断だった。
「私が休んだら、その分、華琳様にご迷惑をお掛けすることになるわ。華琳様だって、ここ最近余り寝てないはずだもの。秋蘭、あなたもそうでしょう?」
決断したのは曹孟徳自身。なのに、部下を働かせて自分だけ休めるような曹操ではない。
荀イクが忙しいように曹操も同等か、それ以上の激務をこなしていた。
それがわかっているからこそ、荀イクも自分から休ませてくれとは言えない。
それに荀イクほどではないにせよ、夏侯淵も殆ど寝ていないはずなのだ。
なのに、彼女の厚意に甘えて自分だけが休みを取るわけにはいかないと荀イクは考えていた。
「……わかった。だが、余り無理をするなよ」
「大丈夫よ。まだ大丈夫……このくらい……」
「おいっ! 桂花!」
だが、身体は正直だ。
長期に渡る遠征。それに続く激務。
荀イクが考えている以上に、彼女の身体には疲労が蓄積していた。
荀イクの身体がふらりと左右に揺れ、そのまま机に身体を預けるように倒れ込む。
「……凄い熱だ。誰か、医者を!」
慌てて荀イクの身体を支え、状態を確認する夏侯淵。助けを呼ぶ声が城の中を駆け巡った。
異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第97話『仕事中毒』
作者 193
荀イクのそれは一目惚れだった。
黄巾党の名が大陸に広がりを見せる前、まだ曹操が陳留の刺史をしていた頃のことだ。
領地に巣くう盗賊を排除するため討伐隊を組織していた最中、曹操と荀イクは出会った。
袁紹の下で来るべき時代に向けて情報を集めていた荀イクの目に留まったのは、虎視眈々と機会を窺いながら着実に力を蓄えている一地方の勢力。嘗て南皮で軍師をしていた荀イクは、自身が望む理想の主を探し求め、まだ名を挙げる前の曹操を見つけた。
――私は他人に試されることが嫌いなの。それがわかっていて、やったのかしら?
――はっ、そこを敢えて試させて頂きました
――そう……ならば、こうすることもあなたの手のひらの上と言う事ね
日の光に照らされ、輝き増す鋼の刃。荀イクに振り下ろされる曹操の鎌。
だが血しぶきが舞うことはなく、斬り落とされたのは数本の髪の毛だけ。
荀イクは自らの存在と力を示すために敢えて曹操の気を引き、彼女の器を試すような真似をした。
当然そのようなことをすれば曹操の怒りを買い、殺される事も覚悟の上での行動。しかし、
――気に入ったわ。あなたの才、私が天下を取るために存分に使わせてもらう事にする。いいわね?
曹孟徳が覇王と呼ばれるが所以。荀イクは賭に勝ち、殺されることはなかった。
命を賭して自身を試した荀イクの智謀と度胸を認め、彼女が麾下に加わることを曹操が認めたからだ。
それが、荀イクが一生を捧げると心に決めた主との出会いだった。
「ここは……?」
荀イクは夢を見ていた。
懐かしい、そして大切な記憶。目が覚めて最初に眼に入ったのは、見慣れた天井。
部屋で仕事をしていたはずなのに、いつの間にか布団で横になっている事に気付き、荀イクはハッと身体を起こした。
「目が覚めたみたいね」
「え? か、華琳様!?」
人の温もり。誰かに手を握られていることに気付き、驚く荀イク。
握られていたのは、先程まで夢に見ていた曹操の手だった。
「な、何が? 華琳様、どうしてここに?」
「あなたが倒れたと聞いて、様子を見に来たのよ」
「あっ……す、すみません! 直ぐに仕事に――」
「ダメよ。まだ大人しくしてなさい」
慌てて仕事に戻ろうとするも、曹操はそんな荀イクの行動を力尽くで止めた。
荀イクは困惑した。
何故、ここに曹操様がいるのか? 何故、自分は布団で休んでいるのか?
何故、自分はこんなところで曹操様に看病をされているのか?
(ゆ、夢!? でも、夢なら覚めないで欲しいというか……ああっ、どうなってるのよ!)
夢にしては嫌に現実感のある状況に、荀イクの頭の中は益々混乱していく。
嬉しくないと言えば嘘になるが、こう至る理由が全く荀イクには想像が付かなかった。
夢ではないかと、今のこの状況を疑いたくなるのも当然だ。
「仕事なら心配はいらないわ。だから、今は身体を休めることを優先なさい」
「ですが……」
「私の命が聞けないの?」
「いえ、そういうことでは……」
主君の命令とあっては逆らう事が出来ず、かといって本当に仕事をしないで休んでいて良いのかという葛藤が荀イクの中で渦巻く。それでなくても、今どれほど仕事が溜まっていて大変な状況かを、彼女自身が一番よくわかっているだけに尚更だった。
それに仕事を休めばその分、周囲に迷惑を掛けることになる。仕えている主が誰よりも働き者で、休みを取らない人物だということを荀イクは理解していた。
荀イクが倒れるまで無理をして仕事を頑張っていたのも、全ては曹操のためだ。
ここで全てを受け入れて納得してしまえば、なんのために頑張ったかわからない。
「倒れるまで無理をさせてしまったのは私の責任よ。ごめんなさい。桂花」
「ち、違います! これは私が好きでやったことで!」
「それでも、私のためにしてくれたことに変わりは無いのでしょう? でも、無理はダメよ。体調管理も仕事の内。今はゆっくりと身体を休めなさい」
「は、はい……申し訳ありませんでした」
厳しくも優しい言葉。それは荀イクの身体を心配しての言葉だった。
◆
「華琳様。桂花の容態は?」
「今は薬が効いて眠っているわ。さすが、太老の薬ね」
「華琳様もお休みください。後の事は我々が」
「今の仕事が片付いたら休ませてもらうわ。桂花と私が同時に休むわけにはいかないでしょう?」
曹操がそう言うであろうことは、夏侯淵もわかっていた。
素直に忠告を聞いてくれれば話は早いが、曹操は荀イク以上に強情な部分がある。
荀イクに『体調管理も仕事の内』と言っておきながら、それは曹操にも言えることだった。
こうした事態を招いた責任を感じつつも、曹操は仕事を休むことに抵抗感を持っていた。
「そう言われると思いまして……申し訳ありません。先に謝っておきます」
「え? 秋蘭、あなた何を……きゃっ!」
突如、何者かに身体を抱え上げられ、手足の自由を失う曹操。
いつもは絶対に見せない可愛らしい声を上げ、顔を真っ赤にして慌てふためく曹操の姿がそこにあった。
「それじゃあ、秋蘭。華琳は預かっていくから」
「ああ、すまない。華琳様のこと、よろしく頼む」
「頼むって、ちょっと秋蘭!? 太老、あなたも何を考えてるのよ!」
「多麻、仕事の方よろしくな。余り無茶苦茶して秋蘭に迷惑かけるなよ」
「了解です! マスター。私の能力なら、このくらいパパッと片付けてみせますよ!」
「話を聞きなさい! きゃあっ!」
太老の肩に抱えられ、そのまま空高く屋根から屋根へ、夜の闇に消える曹操。
夏侯淵はこれで一安心と言った様子で、その背中を見送った。
曹操がこのまま仕事に戻れば、安心して荀イクが休むことが出来ない。その結果また荀イクが倒れ、今度は曹操まで倒れることになったら、それこそ一大事だ。多少強引な手ではあるが、太老に拉致してもらうのが最善だと考えての夏侯妙才の策だった。
(太老殿。後のことはよろしくお願いします。華琳様、頑張ってください)
太老が相手なら、曹操のことを安心して任せられるというのが夏侯淵の本音でもあった。
何かと敵の多い曹操ではあるが、警備の面から考えても太老の元ほど安全な場所はない。それに仕事で多忙ということもあるが素直じゃないことが災いして、他の太老に思いを寄せる女性の中で曹操が一番後れを取っていた。
どうせ療養を取るなら思い人のところで――
荀イクが聞いたら発狂しそうな話ではあるが、これも恋に不器用な主君のためを思えばこそだった。
「マスターに一杯褒めてもらうために頑張ります!」
「ああ、しかし本当にひとりで大丈夫なのか?」
「ノーノー。私ひとりいれば十分なんです! 人手なんて幾らでも増やせますしね」
胸の前で印を結び「秘技、影分身の術!」と多麻が叫ぶと、
シュババババッ――という効果音と共に多麻そっくりの分身がたくさん姿を現した。
さすがの夏侯淵も、この展開は予想していなかったようで目を丸くして驚いた。
夏侯淵は太老から、『厄介……いや、有能な助っ人を置いて行く』とだけ聞いていたのだ。
だがこれは有能という次元の話を遥かに超えていた。もはや人間業ですらない。
「妖術……いや、道術なのか?」
「そんな胡散臭いものと一緒にしないでください。これこそ人類の英知の結晶!」
十分に発達した科学は魔法と変わらないというが、まさにこれがそうだ。
ナノマシンを核に、空気中の分子を錬成して物質へと変換。インプットされたデータにあるものなら大抵の物は造り出すことが可能で、自身の分身すら生み出す事を可能とする超科学。そもそも分身や分裂程度のことなら、魎呼や魎皇鬼すら可能なことだった。
鷲羽によって生み出され、零式によって生まれ変わった多麻も、このくらいのことは出来て当然。
「今こそ、マスターの偉大さを世に知らしめる時です!」
『おおっ!』
厄介払いをしたつもりで人選を誤ったことに太老が気付くのは、そう遠いことではなかった。
……TO BE CONTINUED
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