「紫苑さん、すみません。こんなことに巻き込んでしまって」
「水臭いことを言わないで、ご主人様のためですもの。それに私達、仲間でしょ?」
益州に続く危険な桟道に、外套を身に纏った旅人の姿があった。
正木商会に籍を置く弓の名手『黄忠(紫苑)』と、太老を陰で支える参謀の一人『鳳統(雛里)』の二人だ。一見すると、横に並ぶ鳳統が小さいこともあって、旅の親子連れにも見える。
「あわわっ!」
「大丈夫? 足場が不安定だから気をつけて」
「は、はい、すみません」
益州は周囲を高い山々に囲まれ、州全体が自然に出来た要塞のようなカタチをしている。
そのため益州に入るための道は限られており、大軍を率いての移動は難しく、これまで大きな戦火に見舞われることもなく豊かな発展を築いてきた。
しかし、それ故に外界の情報に疎いという側面があった。
「でも、紫苑さんがいてくれて助かりました。人目につかず、益州に入れそうですし」
益州の民は世情に疎い。それは外にも情報が漏れにくいということでもある。
特に最近では中央での騒ぎや、大陸に蔓延する劉璋の悪評のこともあり、益州に近付こうとする行商人は極端に少なくなり、陸の孤島と言ってもいいほど外界と隔絶された状況に陥り、益州の情報はほとんど入って来なくなっていた。
黄忠と鳳統が益州に向かっているのも、その辺りの事情が深く関係していた。
益州の解放。そのために諸葛亮と周瑜が考えている策。それをより確実なものとするために、二人はある街へと向かっていた。
益州の街の一つ、巴郡。黄忠の古い友が住む、街だ。
「雛里ちゃーん!」
と鳳統の真名を呼びながら、ふわふわと空を飛び、近付いてくる人影。それはメイド服に身を包んだ多麻の分身体の一人だった。
最初は羽もなしに空を飛ぶ多麻を見て、目を丸くして驚いた鳳統だったが、今となっては『多麻ちゃんだから』と納得してしまうほどの順応を見せていた。
道術や妖術というのは使い手が余りいないだけの話で、文献にも記された実在する力だ。事実、騒ぎの元となった『太平要術の書』や、干吉という男が使っていた。
多麻の力もそういうものと同じだと思ってしまえば、特別不思議な力ではない。ただ妖術などの得体の知れない力は、人々に忌避される傾向にある。
「この辺りに人はいません。あと、あっちに街がありましたよ」
「偵察ありがとう、多麻ちゃん。で、でも、街では空を飛ばないでくださいね」
「了解です!」
太老の名前をだせば、『天の力』と誤魔化すことも出来るが、今は隠密行動中だ。
鳳統としては、余り目立つ行動は避けて欲しかった。
だが、相手は多麻だ。
「ううっ……多麻ちゃん。人の話を……」
「ほい?」
「なんでもないです……」
街が近付いてきて飛ぶのをやめたのはいいが、ぺたぺたと岩壁を垂直に歩く多麻を見て、鳳統は力を無くす。
たぶん大丈夫。そう自分を言い聞かせながらも、人選を誤ったかもしれないと鳳統は若干後悔した。
だが、多麻は連絡係だけでなく二人の護衛も兼ねていた。その点からも、多麻は外せない。
黄忠は確かに弓の名手ではあるが、戦闘力はそれほど高く無い。個の力より、その弓の腕と部隊指揮にこそ彼女の本領はある。それに今回の彼女の役目は、鳳統の護衛ではなく益州の要人との橋渡し役だった。
特出した情報伝達能力と護衛も可能な戦闘力。現状動かせる人員のなかで、その二つを兼ね備えているのは多麻だけだ。
一家に一人、多麻がいるのといないのとでは、作戦の成功率も大きく違っていた。
「多麻ちゃん、こっちにいらっしゃい」
「抱っこしてくれるんですか?」
「ええ、璃々の代わりに抱かせてもらえないかしら?」
「いいですよ」
嬉しそうに、黄忠の胸に飛び込む多麻。もふもふと、その大きな胸に顔を埋める。
「やっぱり、紫苑さんの胸はあったかくて大きくて気持ちいいです」
「そう?」
「はい。セカンドマスターは胸がありませんからね。残念です」
曹操が聞いたら、特大の雷が落ちそうな感想を述べる多麻に、黄忠は苦笑した。
でも、そんなほのぼのとした様子を見て、鳳統はほっと胸を撫で下ろす。
一児の母。璃々という幼い子供を持つ黄忠ほど、子供をあやすのに適任な人物はいない。
商会のメンバーのなかで多麻の抑え役が出来るのは、彼女をおいて他にいなかった。
(紫苑さんが一緒でよかった。多麻ちゃんの協力は必要不可欠だもんね)
鳳統の考えるように、この作戦に多麻の協力はなくてはならないものだ。
多麻なら、他の多麻と『多麻ネットワーク』を通じて簡単に連絡が取り合える上、分身体でさえ、夏侯惇や関羽といった一角の武将に匹敵する強さを持っている。
いざと言う時にふたりを連れて逃げるのに、最も適した人選であることは間違いなかった。
太老と一緒で性格を考慮しなければ、これほど優れた護衛はいない。ただ――
(ううっ……やっぱり多麻ちゃんって隠密行動向きじゃないよね?)
益州に工作に向かう鳳統のことを心配して、多麻に護衛を命じたのは太老だ。
多麻はともかく、太老が関わって計画通りにいった作戦など一つもない。
――軍師泣かせの男、それが正木太老。
そのことに鳳統が気付くのは、まだ少し後のことだった。
異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第109話『巴郡の将』
作者 193
「久しいな、紫苑」
「久し振りね、桔梗」
互いの真名を呼び、再会を喜ぶ二人。
巴郡に着いた彼女達を出迎えたのは黄忠の昔馴染み、益州太守『劉璋』配下の将軍で、ここ巴郡を統治する城主『厳顔』だった。
黄忠よりも更に大きな胸と、肉食獣のように鋭い金色の瞳。ウェーブのかかった艶やかな髪が特徴の魅惑的な大人の女性を前に、『鳳雛』の二つ名で知られる少女は自分の胸と見比べ萎縮してしまう。
一方、多麻は厳顔の胸を見て、『おばけスイカ』と目を輝かせて呟いていた。
「ふむ……。いつの間に子供を増やしたのだ?」
「こど……!? あわわ、私は紫苑さんの子供じゃ……」
「多麻は紫苑さんの子供ですか? じゃあ、今度から『紫苑ママ』って呼んでいいですか?」
鳳統と多麻の反応を見て、クククッと心の底から楽しそうに笑う厳顔。
この後、本当に紫苑のことを多麻(たち)が『ママ』と呼ぶようになり、それが原因で一騒動あるのだが、それはまた別の話だ。
太老もまさか、こんなところでフラグが立っているとは思ってもいなかった。
「なかなか面白い小童達だの」
「はあ……あなたも変わりはなさそうね。桔梗」
「そう言うな、紫苑。これでも歓迎しておるのだ。友≠ニしてな」
まだ表だって敵対をしていないとはいえ、都を追われた宦官や官吏達を受け入れたことで、益州は現在どの勢力にも属さない孤立無援の状態に陥っている。しかも、朝廷からの再三の呼び出しにも応じていない。最悪、官軍との全面戦争になりかねない危うい状況にあった。
表向きは中立の立場にある商会に属すとはいえ、黄忠達の立場もここではかなり微妙だ。厳顔に会うという行動自体、かなりの危険を孕んでいた。
厳顔が『友として』と言葉を付け加えたのも、彼女の立場や政治的な事情を考えれば、当然のことと言える。劉璋配下の将軍ということもあるが、厳顔なりに友のことを心配してのことでもあった。
最悪、このことが劉璋の耳に入れば、厳顔だけでなく黄忠達も捕らえられる危険があるということだ。
だが、その危険を承知の上で、黄忠と鳳統はここに来ていた。
「旧友との再会。酒を交わしながら色々と語らいたいところだが――」
鳳統を一瞥。
「先に、本題に入った方がよさそうだの」
その真面目な顔を見て、厳顔は身に纏う雰囲気を変えた。
「あなたなら大体の事情は察していると思うけど」
「大体はな。だが、ここは外と違い、情報が入って来づらい」
「そこは、話を聞いて判断して頂戴。雛里ちゃん、説明よろしくね」
「あわわ……そ、それじゃあ、ご説明させて頂きます」
黄巾の乱に始まり反董卓連合が結成された結果どうなったか、この国がどのように変わろうとしているのかなど、現在この益州が置かれている状況から解放軍が結成されるに至った経緯まで、鳳統は事細かに厳顔に話して聞かせた。
助力を仰ぐ以上、誤魔化しや嘘を述べるべきではない。それはここに来る前から決めていたことだ。こうして鳳統と会うこと自体が、厳顔にとって大きなリスクのあることだというのを承知してのことだった。
真剣な眼で説明する鳳統の話に、厳顔は先程までとは一転して為政者の顔つきになる。
「なるほどの。で、儂に何をさせたいのだ?」
「一つは友人としての忠告。もう一つは、ご主人様のために力を貸して欲しいの」
「友人として、か……。それを言われると辛いが、お前がそれほど入れ込む男なのか?」
「ええ、最高のご主人様よ」
それは、これ以上ないくらい最高の惚気だった。
だが、下手に隠されたり誤魔化されるよりは、これ以上分かり易い説明はない。
黄忠の性格をよく知っている厳顔だからこそ、その言葉に嘘偽りがないことを理解した。
「だが、儂にも将軍としての立場がある。お前達の言っていることは、儂に劉璋のボウズを裏切れと言っているも同じことだぞ?」
「理解しています。でも、厳顔さんの協力が必要なんです」
「何故だ? 先程の話を聞く限り、その気になれば一方的に勝ちを得ることも可能であろう」
「可能です。でも、たくさんの犠牲が出ます。私達は、その犠牲を可能な限り減らしたい。そう、考えています」
「それを天の御遣いは望んでいると?」
「はい」
地の利が益州軍にあるとはいっても、他の諸侯が本腰を上げて結託すれば、兵の数や将の質の差で劉璋に勝ち目は無い。太老や林檎の力を借りずとも圧倒的に勝ちを得ることは、それほど難しい話ではなかった。だがその結果、犠牲となるのは民達だ。
益州が今置かれている状況から考えて、無条件降伏はありえない。劉璋にその意思があったとしても、都を追放され益州の中枢に匿われている宦官や官吏が、それを許すはずもないからだ。彼等にとって現体制に降伏することは死に直結する。
その結果、戦火は拡大し、最後は消耗戦になる可能性が高い。出来ることなら民の犠牲は減らしたい。ようやく平和を取り戻しつつある流れのなかで、正面作戦は避けたいというのが鳳統達の本音にあった。
「敵の心配とは、随分とお人好しな男のようだな。お前の『ご主人様』は」
「でも、そのお陰で私と璃々は救われたわ」
「そうか……」
黄忠が認めたほどの男なら、それほどに徳のある人物なのだろうと厳顔は思った。
少なくとも、ここ巴郡に伝わってきている天の御遣いの話も、悪い噂はほとんど聞かない。
民からは、絶大な支持を得ている人物だ。この益州でも天の御遣いを求める声は、日を重ねるごとに大きくなっている。
何れにせよ、いつかはこうなっていたことと厳顔は考える。それに、その話を信じるだけの確証が彼女にはあった。
「わかった。儂も腹を括るとしよう。現体制に不満があったのは事実だ。民のことを考えるなら、お前達の言うようにそれが一番なのだろう」
「あ、ありがとうございます!」
厳顔の決断に、心から頭を下げる鳳統。厳顔の協力なしでは、益州の内部工作は上手くいかない。それほどに、ここ益州で厳顔の持つ影響力は大きなものだった。
特に民からの支持は厚く、厳顔が味方となるか敵になるかで、作戦の成功率は大きく変わることになる。だが、一度味方につけることが出来れば、これほど心強い味方はいない。そこは事前に入手した情報から、鳳統も確信していた。
無理を言って黄忠を連れてきたのも、そのためだ。
「本来なら『何をバカな』と追い返すところだが、お前達の話を信じるに値する情報を儂も掴んでおるしな」
「情報ですか?」
「先程、お前達の話にあった張譲という男。劉璋のボウズのところにおるぞ」
「え!? まさか――」
「宦官をまとめておるのが、確か張譲という男だった。その男が現れてから、少し成都がきな臭くなっておっての。劉璋のボウズは確かに無能だが、あそこまで考え無しではなかったはずだ。それで、どうしたものかと悩んでおった」
その話に鳳統は目を見開いて驚いた。
行方がわからないままになっていた張譲の居場所が発覚したからだ。
ずっと噛み合わなかった歯車が回り始め、鳳統のなかで一つの答えが浮き上がってくる。
「厳顔さん。その人は、古い本を持っていませんでしたか?」
「本? いや、本人に直接会ったことはないので詳しくは知らぬが……それがどうしたのだ?」
「太平要術の書。人心を惑わす妖術を用いているかもしれません」
「……何?」
鳳統の口からでた『妖術』という言葉に、厳顔が怪訝な表情を浮かべる。
太平要術の書。それは、黄巾の乱に続き、洛陽での騒ぎの中心となった妖術書の名前だった。
十常侍筆頭の張譲、そして落ち延びて来た宦官達。
大陸を覆う黒い思惑が、再び姿を見せようとしていた。
……TO BE CONTINUED
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