――北の大地とを繋ぐ幽州の国境沿い。

「なんとしても、ここで奴等を食い止めるんだ!」

 公孫賛の怒号が響く。戦場には相対する二つの軍の姿があった。
 公孫賛の兵は、この(いくさ) のために徴兵した幽州の兵五万と、夏侯姉妹率いる魏の兵二十五万を合わせた計三十万。
 対する敵は三十万を超す大軍勢。数の上では互角の勝負を繰り広げていた。
 しかし――

「夏侯惇隊に続け、奴等をこの国に入れるな!」

 戦局は膠着状態にあった。

「槍兵、前へ! 敵を押し返せ!」

 公孫賛の号令が兵を動かす。
 これまで北から押し寄せる異民族の攻撃に耐え、幾度となく侵略を阻んできた国境砦は虎牢関ほどの堅牢さはないが、それなりの防御力を備えている。
 しかし籠城戦をしようにも、この数の兵だ。砦を守りながら戦っていては、折角の兵力が無駄になると考えた公孫賛は、夏侯惇の暴走≠ノ乗じ、打って出ることを決断した。

「姉者、前に出すぎだ!」

 戦場は荒野へと移り、敵味方合わせ六十万を超す大兵力が衝突する。彼女達の取った行動は作戦と呼べるものではなかったが、武器の質や兵の練度で勝っている以上、短期決戦は決して悪い策とは言えない。
 しかし、そんな彼女達の表情には焦りの色が浮かんでいた。

「しかし、早く駆けつけねば華琳様がっ!」
「今から馬を飛ばしたところで間に合わん! 今は華琳様を信じるしか……」
「くっ!」

 五胡の本隊が益州に入った報告は、彼女達の耳にも届いてたからだ。
 報を受けて最初に飛び出したのは、夏侯惇の隊だった。
 止める間もなく飛び出した夏侯惇を追って、夏侯淵もまた戦場へと飛び出した。
 敵の本隊が動きだした以上、計画は次の段階に移る。敵の本隊が益州に向かうことは最初から予想されていたが、問題は想定されていた敵の数と、実際に現れた敵の数が余りに違い過ぎたことだ。
 敵の行動が早く、そして計算を見誤っていた事実に彼女達は気付かされた。
 完璧に思えていた曹操の計画に綻びが生じたのだ。これで焦らないはずがない。

「大丈夫だ。季衣や親衛隊がついている」

 姉を落ち着かせようと不安を押し殺し、季衣の名を口にする夏侯淵。
 計画に綻びが生じたということは、曹操の身に降りかかる危険が増したということだ。
 だからと言って作戦が動き出した以上は、途中で止めることなど出来ない。既に戦いは始まっているのだ。
 主君の下に駆けつけることの出来ない不甲斐なさ。そして焦り。

(どうか、無事でいてください。華琳様)

 一度狂い始めた歯車は戻らない。
 状況が厳しいことを、夏侯淵は理解していた。





異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第151話『焦り』
作者 193






「まずいな。将の焦りが兵に伝わり、士気が乱れてきている……」

 公孫賛は後方から冷静に戦場の動きを察知し、どうするべきかを考えていた。
 北方から攻めてきた敵の数が予想より少なかったことは、幽州だけの安全を考えれば公孫賛にとって悪い話ではない。しかし幽州に攻め入る敵の数が少ないということは、他の負担が増すということだ。
 益州のことを思えば、心の底から喜べるはずもなかった。

「焦るのは無理もないか……」

 夏侯姉妹が冷静でいられないのは当然だ。出来ることなら、すぐにでも駆けつけたいはず。
 ――と、公孫賛は彼女達の気持ちを察する。

 しかし、それは出来ない。公孫賛のだした結論は冷静なものだった。
 彼女達を主のところに向かわせてやりたくても、それをすれば戦線は瓦解する。そうすることで待っているのは、五胡による侵略と略奪だ。僅かでも敵の侵攻を許せば、その先にある集落は一瞬で呑まれることになる。
 民の財産と生命を守るためにも、ここを退くことは許されない。
 それがわかっているだけに、公孫賛は彼女達を行かせることが出来なかった。

 ただ、そんなことは夏侯姉妹もわかっていた。
 出来ることは少しでも早くこの戦いを終わらせることだ。
 しかし、そうした焦りが戦いをより長引かせていた。
 他のことを気にする余り雑念が生じ、夏侯淵の指揮にもいつものキレがない。

「辛うじて押してはいるが、これじゃあ……」

 精鋭で知られる魏の精兵だ。
 その高い練度に公孫賛は感心させられながらも、楽観的な考えは抱けない。寧ろ、高揚する戦場の空気に危機感を募らせていた。
 数が互角である以上、何が切っ掛けで戦況が覆るかわからない。油断のならない状況が今だ。
 公孫賛は無能ではないが、特別秀でた才能を持っているわけでもない。良くも悪くも凡人だ。
 しかし、そんな彼女だからこそ、こんな状況でも冷静に戦況を見極めていた。

 ――無理はしない。

 自身の指揮能力が、それほど高くないことを彼女はよく理解している。
 夏侯惇のように大剣を振り回し、戦場で活躍できるほど特出した力はない。
 夏侯淵のように弓に秀で、臨機応変に的確な指示を兵に飛ばせるほど指揮能力に優れているわけでもない。
 だからこそ、彼女は誰よりも慎重で臆病だった。

「深追いしないように兵達に徹底させるんだ」
「ですが、まだ我々の方が優勢です。見てください、夏侯惇将軍の活躍を!」

 派手に敵を倒す夏侯惇の戦い方は、周囲に勝っているという自信を持たせ、兵達のやる気を高揚させる。
 この副官も、そんな夏侯惇の活躍に目を奪われ影響された一人だ。
 事実、彼等がそう思い込んでも不思議はないように、公孫賛達は優勢に戦いを進めていた。

「まだ≠セ。数の上では互角で質は圧倒的に有利なのに、戦いは拮抗してるんだ」

 だが、一見すると夏侯惇の隊が押しているように見える戦いも、戦局全体を見れば五分に等しい。
 今はまだいい。高ぶった気持ちは疲れを忘れさせてくれるが、いつかそれにも限界が来る。

「急げ! 手後れになる前に!」
「は、はい!」

 公孫賛が部下に指示を飛ばした――その時だった。
 前線で戦っていた兵達の間に動揺が走る。
 泥と血にまみれ息を切らせた伝令が、公孫賛のもとに転がり込む。

「何があった!?」
「か、夏侯惇将軍が負傷されました!」


   ◆


「それで、夏侯惇の容態は?」
「心配をかけてすまない。左眼を失っただけで命に別状はないそうだ」
「そうか、よかった……と言っていいのかわからないが……取り敢えず無事で本当によかった」

 ほっと安堵の息を吐く公孫賛。心配していたというのは彼女の本心だ。
 夏侯惇が怪我を負ったことで兵の士気が低下し、敵が勢いを取り戻すなか、このままでは不味いと考えた公孫賛は一時撤退を決め、今に至る。砦にまで防衛線を下げ、外では今も断続的な敵との交戦が続いていた。

「今回の失態はすべて私達の責任だ。どう責められても反論は出来ない」

 深々と頭を下げる夏侯淵に、公孫賛は複雑な表情を浮かべる。というのも、立場的に公孫賛には彼女達を責め辛い事情があった。
 共闘関係にあるとはいえ、彼女達の主君は公孫賛ではなく曹操だ。
 心情的には彼女達の気持ちを察せられるし、撤退する際、夏侯淵が指揮を執ってくれなければ、被害は更に拡大していた。
 姉を助けるためとはいえ、そのことで公孫賛達が助けられたことも、また事実だ。
 それに自分達の力だけで幽州を守り切れるとは、公孫賛は微塵も考えていなかった。

「なら、その責任はこの戦いで果たして欲しい。私は……この国を守りたいんだ」

 孫呉や西涼が将の協力を拒み、兵の補充や物資の援助だけに留めたのに対し、公孫賛は曹操の支援を全面的に受け入れることを躊躇わなかった。
 夏侯惇と夏侯淵がここにいるのは、そんな理由からだ。
 抵抗がなかったわけではない。自分達の土地のことだ。出来ることなら、自分達の手で守りたいと考えるのは自然なことだ。
 だが、それは――それが可能な場合に限られる。
 自分達に何が出来るのかを考えた末、公孫賛は街を守るために曹操の案に乗ったのだ。

「……全力で期待に応えてみせる」

 公孫賛の考えを知り、我が身を振り返る夏侯淵。先程までと違い、夏侯淵の表情からは迷いが消えていた。
 曹操(あるじ)のことが気掛かりなのは変わりないが、幽州を守るように命じたのもまた曹操だ。
 ここに彼女がいれば、不甲斐ない部下を見て、失望をするかもしれない。
 既に一度、主君の顔に泥を塗ってしまった以上、失望をさせないためにも彼女達が取るべき行動は決まっていた。

 公孫賛に守りたいものがあるように、彼女達にもまた命を賭して守らなければならない誇りがある。
 それは武人としての矜持であり、曹操に対する忠誠心だ。
 それが――彼女達に課せられた使命であり、戦場に立つ理由でもあった。

「私も行くぞ、秋蘭」
「姉者!? 身体は……」
「大丈夫だ。もう、治った!」

 妹の心配を余所に胸を張る夏侯惇を見て、「いやいや、片目を失ったんだぞ!?」と一人ツッコミをいれる公孫賛だったが、当然そんな話を聞く夏侯惇ではない。

「……なあ、本当にいいのか?」
「姉者は言い出すと聞かないからな。それに姉者なら、多分……本当に大丈夫だ」

 夏侯惇の常識外れな回復力を前にして、凡人でよかったと考える公孫賛だった。


   ◆


 その頃――西涼では、幽州と同じように五胡と涼州軍が交戦を開始していた。

「うわあ……さすが母様」

 人間とはなんと軽いことか。
 人が紙のように宙を舞う光景を前に、馬岱は呆れの境地にあった。
 馬一族のなかでも、まさに別格というべき存在。鬼神の権化。悪鬼羅刹。生きた伝説。
 それが馬岱の叔母――馬騰だ。

「もう、人間じゃないよね。なんていうか……怪獣?」

 馬岱曰く、あの脳みそまで筋肉で出来ていると噂される馬超でさえ、馬騰からすれば赤子扱いだというのだから驚きだ。

 ――ご主人様とどっちが強いのかな?

 と太老が聞いたら『やめてくれ』と言いそうなことを平気で考え、『この戦いが終わったら母様に聞いてみよう』と本気で馬岱は企んでいた。

「馬岱様、本当によろしいんですか? 馬騰様に加勢しないで……」
「え、行きたいなら止めないけど……」

 返り血で全身を染め上げ、笑いながら敵を殺す馬騰を見て、加勢が必要とはとても思えない馬岱だった。
 というか、戦いに加わろうとものなら、巻き添えを食らいかねない。
 馬岱の言いたいことが伝わったのか、兵士はそっと目を逸らした。

「ですが、あの数が相手では幾ら馬騰様でも……」

 それでも副官として、自分の仕事を全うしようと現実に向き合い、馬岱に助言する兵士。
 敵は幽州と同じく三十万を超える数が観測されている。一対三十万では、普通に考えて勝負になるはずもない。
 幾ら馬騰が鬼神の如き強さを誇っていても、一度に相手が出来るのは十数人が限界。そんなことを繰り返していれば、いつか体力に限界が来る。
 少し離れたところで馬騰の隊が頑張ってはいるが、それでも数の差が違い過ぎることから、悠長に構えていられる時間は残されていなかった。

「まあ、それでも母様なら五万くらい軽いと思うけど……」

 赤い悪魔の噂を思いだし、『馬騰なら同じようなことが出来るのでは?』と考える馬岱。
 そんなバカな、と思う兵士達であったが、実際に目の前の光景を見ると、もしかしてという考えが頭を過ぎる。

「それに、たんぽぽはさぼってるわけじゃないよ」
「……まさか、あれをやるつもりですか?」
「うん。そのために頑張って用意したんじゃない。ほら、準備して」
「いや、でもあれは……」

 馬岱の指示で彼等は、ここ数ヶ月あることをやらされていた。
 実は、ここを戦場に選んだのも馬騰ではなく馬岱だ。
 慣れない作業に汗を掻き、頑張って用意をしたからには馬岱の言うように使ってみたい。
 しかし、兵達は良心の呵責に苦しむ。人として本当にやってしまっていいことなのか、思い悩んでいた。

「母様なら大丈夫! たんぽぽが保証するから!」

 その保証がどこまであてになるのかわからないが、やれと言われて兵達に拒む術はない。
 念仏を唱えるように小声で、「馬騰様すみません。本当にごめんなさい。だから化けて出ないで……」と謝りながら、せっせと馬岱の指示に従い準備を始める兵達。そして――

「母様が敵を引き付けてくれてる今こそ好機!」

 賽は投げられた。





 ……TO BE CONTINUED



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