「ふう……疲れが吹き飛ぶわね」
「あの……ここは?」
「何ってお風呂だけど? ほら、ハヅキちゃんもそんなところに突っ立ってないで、こっちにきなさい。気持ちいいわよ」
「は……はい」
水穂に促され、困惑した様子で湯に浸かるハヅキ。
百人ほどが一緒に入っても余裕がある石造りの大きなお風呂。
本邸にある露天風呂のような風情はないが、あちらの温泉よりも広いくらいだった。
「驚いた、って顔をしてるわね」
「……はい。車の中から見た街並みとか、このお屋敷の大きさとか、想像していた以上のものばかりで……」
「そう、ここはあなたがこれまでに生活していた場所とは何もかもが違う。これからあなたが知る事、見る物は全て、あなたの想像を大きく超えるものばかり。これまでの価値観や常識が一切通用しない世界であることは間違いないわね」
淡々と語る水穂の話に、待ち受ける生活を想像してハヅキは息を呑んだ。
田舎暮らしのハヅキからしてみれば、大都市での生活は見る物全てが新鮮だった。
その上こんなに大きなお屋敷で働く事になるというのだから、気後れするのも無理はない。
「恐くなった?」
「……はい。少し不安です。でも、同じくらい期待もあります」
「正直ね。でも、いい答えよ」
何も感じないよりは、ハヅキのように少し不安を感じるくらいの方がずっと良い。
この環境に違和感を感じると言う事は、それだけハヅキが常識的な感覚を持ち合わせていると言う事だ。
一般人の感覚とは懸け離れた世界。そんな世界でこれから生活をしていく事になる以上、その感覚は貴重な財産となる。
逆を言えば、そうした感覚がなければ、太老の下では働けないと水穂は考えていた。
「自己紹介が遅れたわね。私の名前は柾木水穂」
「マサキ……?」
「名字からも分かると思うけど、太老くんとは血縁関係になるわ」
ハヅキは、水穂の自己紹介に驚いた。
案内された部屋から偉い人だとは思っていたが、まさか太老の親族だとは思ってもいなかったからだ。
直ぐに非礼を詫びようと頭を下げるが、水穂はそんなハヅキに首を横に振って答える。
「ようこそ、正木卿メイド隊へ。あなたを歓迎するわ」
スッと差し出された水穂の手に少し驚いた様子のハヅキだったが、戸惑いながらもその手を握り返した。
異世界の伝道師 第234話『ハヅキのメイド修行』
作者 193
正木卿メイド隊は、適性や能力に分けて部署ごとに侍従を配置し、仕事の効率化を図っている。求められる仕事はただのお手伝いに留まらず、専門的な技術職から護衛のスキル。屋敷の修繕から料理や家事全般に至るまで、太老を補佐するために必要とされる多種多様な能力が求められる……謂わば、世界最高のエキスパート集団だ。
「適性試験の結果を伝えるわね」
「は、はい!」
翌日、ハヅキの配属部署を決めるための適性試験が実施された。
家事にはそれなりに自信のあるハヅキだが、それは一般的なレベルで言えばだ。
料理の腕も、家事スキルも一流の侍従には遠く及ばない。文字の読み書きや計算は出来るが、それも学校を出た訳では無いので最低限こなせるといったくらい。戦闘の心得など当然あるはずもなく、自慢出来るような特技もない。
至って普通のどこにでも居る少女。敢えて言えば、それが特徴といえば特徴だった。
「……わかっていたことだけど、普通ね」
「えっと……すみません」
そう、仕事が出来ないとまでは言えないが余りに普通。一通りの適性試験を終えて水穂が下した評価は、可もなく不可もなし。人間誰しも得手不得手があるものだ。しかしハヅキにはそれが殆どと言って良いほどなかった。
何か一つでも抜き出たところがあれば、特定の部署に配属させることも考えられたが、ここまで平均的な能力もはっきり言って珍しいくらいだった。
それだけに、どこにハヅキを配属するかで悩む水穂。
「でも、これはこれで面白いわね。ハヅキちゃん。あなた、私の補佐をやってみない?」
「……は、はい?」
「もっと分かり易く言うと、私の身の回りの世話ね」
「……ええええええっ!」
驚くハヅキ。それも当然だ。
新人のハヅキに、メイド隊の実質的トップと言える水穂の補佐など務まるはずも無い。
特別な能力があれば話は別だが、ハヅキは極普通の一般人だ。
考えれば考えるほど能力と適性に見合っていない大役に、ハヅキが驚くのも無理はない話だった。
「勿論、仕事の補佐をしろとかそういうのじゃないわよ?」
「そ、そうですよね。それじゃあ……」
「主には私生活全般の補佐。私をご主人様と思って仕えてみなさいってこと」
専属メイドをやってみないか、と水穂はハヅキを誘っていた。
◆
――シュッシュッ、キュッキュッ
――パタパタ、パタパタ
主の居ない執務室に人影。掃除道具を片手に、部屋の掃除をするメイド服のハヅキ。
掃除自体は家でもよくやっていたことではあるが、これだけ広い部屋の掃除をするのは初めてのことだった。
最初は他の侍従に大まかな掃除の仕方を教わり、その通りに気をつけて掃除を進めていく。
初めてにしては手慣れていたが、それでも慣れない仕事で疲労は溜まっていた。
「ふう……」
黙々と続けていた掃除も一段落を終え、疲れを吐き出すように息を吐くハヅキ。
彼女が水穂に与えられた仕事は、仕事の助手ではなく私生活の補佐。
お茶汲みに掃除や洗濯。食事に至るまで、水穂の身の回りの世話をすることだった。
「この部屋だけで、私の家より広いなんて……やっぱり、このお屋敷って凄いのね」
これがハヅキに課せられたメイド修行。所謂、研修の第一段階。
大抵この屋敷にきた侍従は以前に居た場所とのギャップに驚き、これまで培ってきた常識と価値観を最初に打ち砕かれる。だがこのくらいで驚いていては、これからの生活に耐えられるはずもなく、太老の常識外れの行動について行けるはずもない。
太老の下で仕事をしていくために必要な常識と感覚を養うことが、新人に与えられる最初の試練だった。
特にハヅキの場合、ここに来る事になった経緯が経緯だけに、他の侍従とは少し事情が異なる。心構えをする時間は疎か、太老がどういった人物か、ハヴォニワがどんな国かもしらない内に連れて来られ、困惑するなと言う方が無理のある状況にあった。
水穂が自分の下にハヅキを付けたのは、そうした部分に考慮したからとも言える。
「あら? もう部屋の掃除終わったの? 思ったよりも早かったわね」
「はい。あっ、お手伝いします」
山のように書類を抱えて戻って来た水穂を見て、慌てて書類運びを手伝うハヅキ。しかし予想以上の重さに「うっ」と呻き声を上げる。
水穂は軽々と持っていた書類だが、その一部だけでもハヅキが持つとヨロヨロと身体が傾くほどの量だった。
「これ全部に目を通されるんですか?」
「まさか」
「で、ですよね」
「全体の十分の一よ」
「…………え?」
「後から追加の書類が来るから、その辺りを整理しておいてくれる?」
机の上にドンと高くそびえ立つ書類の山。普通にやれば一日で終わるかわからない量だ。
なのに、この十倍の書類を今から片付けると聞かされ、ハヅキは水穂の凄さを思い知った。
どんな速度で目と手を動かせば、これだけの書類を片付けることが出来るのか?
しかし現実に、ハヅキの前で山積みになっていた書類が、信じられないような速度で処理されていく。
「あの……水穂様はいつもこんな量の仕事を?」
「まあ、大体はそうね。他にも会議や視察とか、書類仕事以外もあるけど」
ハヅキは言葉が出なかった。
仕事の手伝いは必要ないと言った水穂の言葉の意味を、ハヅキは改めて噛み締める。
「ああ、ハヅキちゃんは気にしなくていいのよ。普通は出来なくて当然だもの」
「そうなんですか?」
「ええ。私以外なら太老くんか、ミツキさんくらいね」
その言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。
これが基準と言われれば、このレベルに自分が到達できるとは思えなかったからだ。
しかしそれでも、水穂以外にまだ二人も出来る人物が居ると知って驚きを隠せなかった。
「……太老様もこれだけの仕事を?」
「今は学院もあるから少し仕事を減らしているみたいだけど、以前はそうね」
「やっぱり凄い方なんですね」
「……色々とね。だから心配なんだけど」
そう言って水穂は苦笑する。
ハヅキはそんな水穂を見て、やはり凄い人物なのだと太老への認識を強めた。
◆
「太老様ですか? 色々な意味で凄い方ですね」
「とても優しい方です。さり気なく手伝ってくれるところとか」
「面白い方ですよ。ワウアンリー様とよく……まあ、そんなところも魅力的なんですが」
ハヅキが耳にする太老の評価は、総じて悪い物では無かった。
寧ろ、話を聞けば聞くほどに興味が湧いてくるそんな人物。
常人離れした才覚と実力を発揮し、一代で大商会を築き上げ、平民から大貴族にまで上り詰めた偉人。誰にも実現し得なかった革命を成し遂げ、黄金の聖機人を駆るその勇姿は世界最強の聖機師と呼び声高い。『ハヴォニワの英雄』や女神の遣わした『天の御遣い』とも讃えられ、その影響力は教会さえ凌ぐと噂されていた。
欠点が見つからないほどの完璧超人。それがハヅキが抱いた太老のイメージ。
「太老様か。一度ちゃんと会って御礼を言いたいな」
最初こそ、こんなに美味い話は無いと疑い、困惑したものの――
太老と言う人物を知れば知るほど、ハヅキは疑っていた自分が恥ずかしくなった。
太老との出会いがなければ、ハヅキとセレスは一生会えなかったかも知れない。
今は離れ離れであっても、再会する機会をくれたのは他の誰でもない。太老だった。
「うん! 頑張らないと! セレスだって頑張ってるんだもの」
ハヅキはギュッと両拳を握りしめ、仕事への意欲を新たにする。
セレスに早く会いたいという気持ちはあるが、だからと言ってこれ以上の我が儘は言えない。
高い給金に手厚い待遇。こんな場所で仕事が出来るというだけでも、十分に恵まれていることを彼女は自覚していた。
今は少しでも早く仕事を覚え、太老への恩を返すことが彼女に出来る唯一のこと。
それはセレスも同じ。良く言えば真面目。悪く言えば不器用。
幼馴染みというだけあって、二人はこうしたところも良く似ていた。
「ハヅキちゃん。聖地から手紙が届いてるわよ」
「え? 私にですか?」
「うん。差出人はセレス・タイト」
「――ッ! セレスから!」
ハヅキは侍従から差し出された手紙に驚き、差出人のところを確認して嬉しさを噛み締めるようにギュッと胸に手紙を抱く。
セレスとこうして連絡を取るのは、セレスが村を離れて以来のこと。
直接会って話をすることは疎か、手紙のやり取りすら禁止されていた二人にとって、この手紙が持つ重みは非常に大きかった。
「もしかして彼氏?」
「え? いえ、あの……」
顔を真っ赤にして、手紙で顔を隠すハヅキ。まだ面と向かって告白されたことはない。
どちらかというと仲の良い幼馴染み。友達以上恋人未満の関係。
他人から改めてそう言われると、どう答えていいかわからなかった。
「なるほど、噂通りってわけか。ああ、いいな。私も彼氏が欲しい。出来れば太老様のような」
「え? あの……噂って」
「大丈夫! 私達は皆、ハヅキちゃんの味方だから! 頑張ってね!」
「え? え、え?」
手を振って去っていく侍従を見て、ハヅキは眼をパチクリと動かす。
噂――ハヅキがここにくることになった事情を屋敷の侍従達が知っていても、確かに不思議な話ではない。侍従の言葉の意味が呑み込めず、取り敢えずそういうことでハヅキは納得することにした。
「……セレスからの手紙」
待ち焦がれた思い人からの手紙。これはハヅキにとって、思い掛けぬプレゼントだった。
周囲をキョロキョロと見渡し、そそくさと物陰に移動すると、ゴクリと唾を飲んでハヅキは手紙の封を開ける。
中から出て来たのは三枚の紙。見覚えのある懐かしい筆跡。
疑いようが無い。間違い無くハヅキの待ち焦がれた思い人からの手紙だった。
「セレス……」
――大切な君へ
の一文からはじまる手紙に、これまで待ち焦がれた時間を噛み締めるかのように真剣な表情で目を通すハヅキ。
特に愛を囁いている訳では無い。ずっと離れ離れになっていたとは思えないほど簡略的な状況報告に過ぎない手紙ではあったが、ハヅキにとってはセレスからきた手紙と言うだけで嬉しかった。
ただ一つだけ気になる点を見つけ、ハヅキは少しだけ表情を曇らせる。
「剣士さん……セレスのお友達?」
手紙には太老達にお世話になったことの他に、剣士という少年の名前が度々出て来ていた。
本当に大切に……心から剣士を大切に想っていることが、手紙の内容からも伝わってくる。
その一方、ハヅキに対する言葉は最初の一言だけ。
これにはさすがのハヅキも不満を感じたのか、少しだけムッとした表情を浮かべた。
「ダメよね。セレスの親友なんだから……」
そう、相手は男。セレスの親友なのだから、嫉妬する方がおかしい――
会えなかった時間が、こうした余計な考えを抱かせるのだと、ハヅキは自分を言い聞かせる。
だが、これがほんの始まりに過ぎない事を、この時の彼女が知る由もなかった。
……TO BE CONTINUED
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