文京区、湯島の路地裏にひっそりと佇む神社。地元の人でも余り立ち寄らない人気の少ない神社の拝殿に動く人影があった。
 神主や巫女も常駐せず、普段は人の気配など微塵もしない神社にだ。

「おっかしいな〜」

 部屋の隅でゴソゴソと動く人影。腰まで届く長いストレートの黒髪、休日だというのに何故か学生服に身を包んだ少女。
 泥棒の正体は、清秋院恵那(せいしゅういん・えな)――『剣の媛巫女』の異名を持つ、祐理や馨と同じ媛巫女の一人だった。
 勿論、察しの通り本物の泥棒≠ニ言う訳ではなく、ちゃんと神主の許可を得て神社(ここ)を使用している。これでも、れっきとした巫女だ。
 清秋院と言えば、古来より呪力を持って帝に仕えてきた四家の一つ。武力と政治で日本の呪術界を牽引してきた名家だ。
 恵那は、そこの一人娘。これでも超が付くほどのお嬢様だった。

「確か、ポケットに入れてあったはずなんだけどな……」

 あったはず――と大雑把なところが彼女らしい。余り、お嬢様と言った感じがしないのも恵那の良さだ。
 これでも一通り教養や諸芸は仕込まれており、お嬢様らしく振る舞おうと思えば振る舞えるのだが、彼女は普段そうした慎ましやかで優雅な生活とは無縁の生活を送っており、堅苦しいことが大の苦手だった。
 そのため、私生活では大体こんな感じ。清楚で可憐な見た目とは裏腹に、がさつで自由奔放な性格をしていた。

「あー、ダメだ」

 ガクリと肩を落とす恵那。彼女が探しているのは一週間前に彼女の手元に届けられた調査資料だ。
 そう、七人目の王――正木太老に関して書かれた報告書だった。
 預かったファイルの方は出て来たのだが、もう一つ恵那直筆のメモだけが出て来ない。

「まあ、いっか。大体の場所は覚えてるし」

 分厚いファイルを持ち歩くのが面倒で、要点だけを書き写したものだ。無くて困るものではない。
 取り敢えず、調査ファイルが出て来ただけでもよかったと恵那は考えを切り替えることにした。
 これを無くすと、後で資料を集めてくれた人が五月蠅い。個人情報がどうだの機密がどうだのと。
 外は今も激しい雨が降っている。もしかしたら、風に飛ばされたのかもしれないと恵那は考えることにした。

「祐理の話だと、ちょっと変わった王様らしいけど」

 万里谷祐理とは古くからの顔馴染みで名前で呼び合うほど仲の良い恵那は、万里谷の家とは家族同然の付き合いをしていた。
 先日も上京した挨拶に祐理が住む東京の別宅に立ち寄り、彼女の手料理を御馳走になってきたばかりだ。
 ここ最近は深山の霊場に籠って木の実や山菜ばかりを食べていたため、恵那は久し振りに食べた祐理の手料理が凄く印象に残っていた。
 勿論、酷い意味ではなく、美味しかったという意味でだ。そこで、ふと恵那は思い出す。

「あっ! もしかして、あの時かな?」

 祐理の家でごはんを御馳走になって、その後お風呂に入って――
 その時にスカートのポケットに入れてあったメモ用紙を忘れてきたのかもしれないと恵那は考えた。
 どこにあるのかわかれば簡単だ。祐理の家には後で立ち寄ればいい。
 恵那は一人納得すると、鞄から電源の入っていない携帯電話≠取り出し、どこかに電話を始めた。
 恵那が電話を始めると、それに呼応するように雨雲が集まり嵐のように雨風が強くなっていく。

「あ、おじいちゃま?」

 おじいちゃまと呼ぶ相手と、親しげに話をする恵那。

「もう、わかってるって。恵那に任せてよ」

 いつになく声が弾む。それは自信と言うよりは、好奇心と言った方がいいのかもしれない。恵那は心が躍っていた。
 親友とその妹から話を聞き、一度会って話をしてみたいと、ずっと思っていた人物に会える。
 それが周囲の思惑によるものであろうと、恵那にとってはまたとないチャンスだった。それに――

「その王様が本物≠ゥどうか、ちゃんと確かめてくるからさ」

 拝殿の中から空を見上げ、不敵に笑う恵那。武芸に携わる者として、恵那の血が騒いでいた。





異世界の伝道師外伝/異界の魔王 第13話『思惑と策謀』
作者 193






 庭石や草木を配した伝統的な日本庭園に、歴史を感じさせる古めかしい日本家屋。都内の一角にある政界・財界の人間も多く利用する高級旅館に、一組の男女の姿があった。
 綺麗になでられた銀髪のオールバックに、剃り残し一つない清潔感溢れる髭。気品漂う仕立ての良い黒のスーツに身を包んだ老人の姿からは、年齢を感じさせない力強さと風格さえ感じ取れる。
 男の名は、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。
 バルカン半島に居を構え、『東欧の魔王』と恐れられるカンピオーネの一人だ。

「ふむ……それで、この手紙を預かってきたと」
「はい。正木太老から、侯にその手紙を渡すようにと」

 彼女はリリアナ・クラニチャール。ヴォバンの供として日本に同行したイタリアの魔術師だ。
 リリアナから受け取った太老の手紙に、淡々とした面持ちで目を通すヴォバン。

「なるほど、実にあの男らしい」

 リリアナはビクリと身を震わせる。
 自分に向けられた言葉ではないとわかってはいても、恐怖に身体が自然と反応してしまう。
 一体、あの手紙には何が書かれていたのか?
 実に楽しそうに笑みを浮かべるヴォバンを見て、リリアナは手紙の内容に興味を持った。

「気になるかね? この手紙の内容が?」
「い、いえ……そのようなことは……」
「何、たわいのない内容だ。このヴォバンに対し『相手をしている時間はない。田舎で隠居していろ』と、そう言ってきたのだ」

 唖然と言葉を失うリリアナ。まさか、自分の持って帰った手紙の内容が、そのようなものだとは思ってもいなかったからだ。
 神をも恐れぬ冒涜。いや、相手は魔王だ。その表現は適切ではないのかもしれない。
 しかし、最凶最悪と恐れられる最古のカンピオーネにその物言い、幾ら一度勝利しているとはいえ余りに畏れ多い。まるで挑発としか取れない内容だ。

 ――いや、誘っているのか? 侯もそのことに気付いている?

 老人の顔をそっと窺い、そこに見え隠れする闘争本能のような物を感じ、リリアナは恐怖の余り顔を伏せた。
 既に侯爵は来たるべき戦いに備え、準備を始めているのだとリリアナは気付く。

「しかし、これでは足りぬ。四年前の借りを返すには、あの小僧にもやる気をだしてもらわねば意味がないのだ。そうは思わないかね? クラニチャール」
「それは……」

 リリアナは答えられなかった。
 並の人間なら、その気にあてられただけで発狂しかねない濃厚な呪力で部屋は満たされていた。
 ヴォバンがどれほど本気で太老との戦いを望んでいるのか、リリアナはそれだけで察する。

「このヴォバンが戦うに値しないというのであれば、奴には本気になってもらうまでだ」

 四年前の雪辱を果たそうと、ゆらりとヴォバンの瞳が怪しい光を放つ。
 やる気のない相手と戦っても意味はない。そんな相手に勝利したところで満足できるはずもない。仇敵と認めた相手との血湧き肉躍る戦いに、闘争本能の趣くがまま身を委ねる快感。ヴォバンにとって強敵との戦いとは、欲望と渇きを満たす唯一の手段だ。それだけに、彼は最高の獲物を求めていた。
 ましてや四年もの間、待ち続けた仇敵との再戦だ。闘争を糧とするヴォバンが、太老との戦いに固執するのも無理はない。
 故に、ヴォバンはそれが悪手と知りながら、敢えて太老の本気を引き出すために策を講じることにした。
 そうして、そっと席を立ち上がるヴォバン。そんなヴォバンの動きに、慌てて反応したのはリリアナだった。

「まさか、侯自ら赴かれるのですか!?」
「何、軽く運動をしてくるだけだ。用を済ませれば、すぐに戻る」
「で、ですが!」
「キミは頭が良い、それだけにわかるはずだ。私は闘争が好きだ。狩りも好きだ。そして、何より強者との戦いを欲している」

 リリアナが何かを言い切る前に、ヴォバンはいつになく真剣な口調で言葉を挟んだ。

「私は寛大な王だ。大抵のことは大目に見よう。しかし、あの男との戦いは誰にも邪魔をさせぬ。キミのそういうところは買っているが――少し、分を弁えたまえ」

 それだけで、リリアナは何も言えなくなってしまった。
 ヴォバンは些事を気にしない男だ。リリアナが多少、諫言したところで笑って許すほどの度量を持っている。しかし、正木太老との戦いに関しては別だった。
 王と王の戦いを邪魔する者は、何人であろうと許すつもりはない。それは最後通告と言える内容だった。

「それはそうと、クラニチャール。……その衣装はなんだ?」
「……はい?」

 先程までとは打って変わり、困惑の色を滲ませるヴォバンの声を不思議に思い、リリアナは身に付けている衣装を確認した。
 それは、いつも着ている青と黒(ネラッズーロ)≠基調とした魔術服ではなく、太老の家で借りた――メイド服だった。


   ◆


「なんだか少し可哀想だったかも……よかったの? お兄ちゃん」
「まあ、大丈夫だろう。あの爺さんの狙いは俺だ。そのために手紙を持たせたわけだし――メイド服もよく似合ってたしな!」
「そういうところは気が回るんだよね。最後のはどうかと思うけど……」

 失礼な――と、仕事をする手を動かしながら太老は桜花を一瞥する。
 巨大な大樹の麓、キラキラと煌めく湖畔の上に、大樹に寄り添うように建てられた木造建築。とてもこの世のものとは思えない幻想的な景色が、そこには広がっていた。
 ここがマンション≠フ中だと言われても、誰も信じないだろう。
 しかし、ここは紛れもなく太老が拠点としているマンションの一室。亜空間に固定された人工の世界だった。

(これは、さすがに見せられないものね……)

 桜花が太老のもとへリリアナを案内しなかった一番の理由は、これをリリアナに見せる訳にはいかなかったからだ。
 世間知らずの銀髪美少女を太老に近付けたくなかったからとか、決して私情に流されたからではない。
 太老がカンピオーネであるということは既に知れ渡っていることだ。なら、適当に太老の『権能(チカラ)』だとでも言っておけば言い訳はつくだろうが、仲間ならともかく敵になるかもしれない相手に、桜花も易々と情報をくれてやるつもりはなかった。

「でも、無視したら攻めてくるんじゃ?」
「結界を張ってあるから大丈夫さ。今は、このマンション全体がうちの工房≠ンたいになってるからな」
「それって、もしかして……」
「ああ、『虎の穴』だ。今回は色々と新しい罠も追加してみた」

 最初から、まともに相手をするつもりはなかったのだと桜花は理解した。
 哲学士の工房は機密の関係上、桁違いにセキュリティが高く、侵入は疎か破壊工作も困難を極める。許可なく足を踏み入れようものなら、辺境の惑星や怪獣が跋扈する異世界へ転送されても不思議ではないような場所だ。そのなかでも、太老が発明品した『虎の穴』は数あるトラップのなかでも群を抜いて厄介な代物だった。
 それもそのはずだ。そのトラップを熟知した哲学士用に製作された物なのだから、力任せにどうこう出来るような代物ではない。六六六種の罠が待つ結界のなかへ対象を閉じ込め、結界のなかに固定された亜空間――砂漠・森林・雪原など一種の迷宮と化したフィールドを、仕掛けられた無数の罠を切り抜けながらゴールを目指さなくてはならないという極悪な代物だ。
 最高難易度の『S』ランクともなると製作者の太老か、銀河でもトラップに精通したトップクラスの実力者しか太刀打ち出来ない。
 どれだけダメージを負っても結界内で死ぬことはないが、その所為で心に傷を負う者も少なくなかった。

「お兄ちゃん……ちなみに設定難易度は?」
「侵入者対策用だしな。勿論『S』だ。ああ、ちゃんとここの住人は除外設定してあるぞ」
「住民全員に引っ越しの挨拶なんて変だと思ってたけど、このためだったんだ……」
「基本的には建物を破壊しようとしたり、不法侵入をしなければ問題ない」

 ようするにエントランスを通って正規の手順を踏めば問題はないと言うことだが、ここまできたらマンションと言うより要塞だ。
 太老は女子供に弱く身内には甘いが、敵と認めた相手には容赦がない。子供を大切にしないヴォバンなどは、太老が最も嫌うタイプだ。
 そのことから手紙の内容もどういうことを書いたのか、桜花には察しがついていた。
 護堂を見れば分かる通り、カンピオーネやまつろわぬ神との戦いは周囲に少なくない被害を及ぼす。ヴォバンが想像通りの性格なら簡単に諦めるとは思えず、確実に碌でもない行動に出るはずだ。
 それを踏まえ、街に被害を出さないように、ここで捕らえるつもりなのだと桜花は太老の考えを読んだ。

「まあ、今回は仕方ないか」

 街に被害を極力ださないという基本方針に関しては、桜花も太老の考えに同意する。
 下手にやり過ぎると目立つというのもあるが、現地の組織に任せるにしても後始末が色々と面倒だ。正直、申し訳ない気持ちもある。それにヴォバンに関しては四年前のことを知っているだけに、桜花も同情する気にはなれなかった。
 何百年も前の価値観を現代に持ち出し、クラシックスタイルか何かしらないが、魔王を気取るなら城かダンジョンに引き籠もってろ――というのが太老と桜花の一致した見解だった。

(どちらにせよ、戦いは避けられなかっただろうしね……)

 桜花は冷静に、太老絡みの事件に関してはトラブルを事前に回避するのは不可能と諦めていた。
 太老の性格や能力を考慮すれば、まつろわぬ神やカンピオーネとの衝突は避けられない。太老の正体をカンピオーネと偽ったのも、そのためだ。
 いっそ魔王らしく振る舞ってくれた方が厄介事も少ないかもしれない――と、桜花は考えているくらいだった。

「なるようになるさ。それより、ちょっとは手伝ってくれよ……」
「ダメ、皆に止められてるから。私がここにいるのも、お兄ちゃんがさぼらないように監視の意味もあるんだからね」
「はあ……」

 太老がため息を吐いた、その時。

「お兄ちゃん、これって!?」

 突如、空の色が赤く染まり、緊急事態を告げる警報が鳴り響いた。

「侵入者を感知するセンサーが何かを捉えたみたいだな」
「それって侵入されたってこと!?」
「いや、誰かが建物の近くで力を使ったみたいだ。高次元エネルギーに反応するように設定してあったから」
「それって……」

 桜花の脳裏に嫌な予感が過ぎる。高次元エネルギーと言うことは、恐らく『権能』を使った際に生じる空間の歪みに反応するように設定してあったのだろう。だとすれば、襲撃犯はカンピオーネかまつろわぬ神の何れかだ。
 その桜花の予感を裏付けるように建物は襲撃に備え、戦闘態勢に移行していた。
 外部からの攻撃に備え、対大型戦艦用の防御フィールドが準備され、建物の内部には侵入者対策に亜空間結界とトラップが展開される。住民に被害が及ばないようにと太老が細工をしたものだ。
 起動している間は住民に危害が及ぶ心配はないが、建物内の時間は凍結されるため、長時間このままと言う訳にはいかなかった。

「お兄ちゃん、私が出ようか?」
「いや、その必要はないよ」

 防御フィールドは建物への攻撃に反応するもので侵入を防ぐような効果はないが、そのための亜空間結界とトラップだ。
 カンピオーネほどの超感覚があれば気付くだろうが、それだけに余程の自信がない限りは正面突破なんて無謀な真似はしないだろう。それも計算の内だ。
 侵入してくれば遠慮なく罠に嵌めればいいだけで、そうでなくても牽制にはなると考えての作戦だった。

「どうやら、侵入は諦めて退散したみたいだ」

 ほっと桜花は胸を撫で下ろす。正直、アテナの時のような騒ぎは出来る限り避けたいと考えていたのだ。
 しかし安心したのも束の間、外の様子を映した記録映像を確認していた太老の表情が段々と険しいものへ変わって行き、桜花は不安げな表情を浮かべる。

「お、お兄ちゃん?」
「全然懲りてなかったんだな。あの爺さん……」

 怒りに満ちた声で双眸(そうぼう)を細める太老を見て、桜花の背筋に寒気が走る。自分に向けられた殺気ではないのに思わず身構えてしまうほど、強烈なプレッシャーに場は支配されていた。
 基本的にやられたらやり返すタイプではあるが、太老は自分から相手に敵意を向けたり、積極的に戦いに身を投じるタイプではない。その太老をここまで怒らせた原因が気になり、桜花は外の監視カメラの記録映像を呼び出す。無数に展開された空間ディスプレイ。その中に目的の映像を見つけた。

「アンナお姉ちゃん! それに――」

 映像には雨のなか地面に横たわるアリアンナと、幼い少女が何者かに連れ去られる様子が映し出されていた。





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